FC2ブログ

専門家は判っていない  下

Posted by ななし on 21.2015 記事 0 comments 0 trackback
ではなぜこれまで、専門家の権威に対する社会的認知が持続し得たかといえば、
≪際限なき専門分化≒私権体制の密室化≒生産余力の拡大≫
の構図がかっちりと連動し、結果生み出された社会総体の「ゆとり」の中に彼ら(の身分)が納まって余りあったからでしょう。

 例えば教育において、国家の指導層が挙って「ゆとり」「生きる力」「高度専門職業人」などと唱えて憚らないのも合点のいく話で、「専門家の地位を高め」「自力で私権を目指しもぎ取る力をつけ」「よって豊かでゆとりある生活を自らのものとすること」が目指すべき道である――つまり、私権体制のネジを改めて巻き直せば、事は解決に向かい、己の身分は安泰を取り戻す(はず)という、極めて時代ボケした発想です。

 これも(潜在意識においては)、まず第一義に保身があって、そのために状況をどう読むか、と転倒するから認識を誤るのですが、意識のこの構造は何も専門家に限ったものでもありません。まずは己の私権を獲得しなければ話にならない、とは私権社会である限りでの必然命題であり、万人に普遍的な意識の在りようです。

 専門家にばかり責めを帰すようなもの謂いをしてきましたが、専門家=特権身分というこの社会形態は、凡人にとっても実は都合が良かったからこそ共認されてきた、という側面は特記すべきところです。冒頭記述したように、ここでは素人は素人らしく「判ってない!」を連発すれば――約束事としては――済まされる仕組みというわけです。

 ところが今や、専門家と素人の間に取り交わされた互いに都合の良い取り決めでは通用しない事態に、我々は直面しているということなのでしょう。
 今ここで、「個人が真に自立し、社会的責任に目覚めるべきである」などと、私権秩序下の責任論に問題を転嫁する過ちには、くれぐれも陥ってはなりません。
はっきりと事態(事実)を対象化するなら、「いったい、問題は何なのか」を人智の及ぶ限り突き詰め、認め合うことこそが第一に急がれるのでしょう。そこから出てくるのは、あくまで「誰ならこの問題に解答できるのか」であって、「この責任は誰に在るのか」ではないはずだからです。


今井靖明 
スポンサーサイト



にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

○ Comment

○ Post comment


  • 管理者にだけ表示を許可する

○ Trackback

trackbackURL:http://gensenkeijiban1.blog.fc2.com/tb.php/868-c6ccea69