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原発ゼロ:オーストリアの場合その2~反原発国民投票までの流れ

Posted by ななし on 29.2015 記事 0 comments 0 trackback
東アジア文化研究所
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より抜粋して転載します。

■政権政党=社会党は高福祉維持のための経済基盤のために原発必要論を唱える。しかし、第2党=国民党(保守)は賛同しなかった。さらに社会党はもともと隣国の原発建設には反対してきたという伝統があった。このまま国会で原発推進を採決すれば、社会党内部にも亀裂が生じるだろう。

■そこで社会党政権は国民投票にはかることにした。原発始動の反対票にはなんと社会党幹部も投じたという。党是には反するが「これは良心の問題だ」と躊躇なく答える同幹部。

■特集した「読売」はこのオーストリアの特集について「繁栄よりも環境」という題名を付けた。経済優先の潮流に一石を投じる目的から考えられた題名かもしれないが、

■私(投稿者)には違った風に感じられた。それは、「読売」のようなマイナーな比較、考えでは原発問題は解決できないと想うからである。オーストリアの場合、つまり先進国のほとんどが直面している高福祉の問題は、自然の一部を経済に転換して実現する方法では突破できない。原発を作っても人々が協力し認識を高めるのには貢献しないからである。現在の日本で盛り上がっている原発問題は、滅亡⇒自然の摂理=人類全員の福祉?への歴史的転換なのである。前置きが長くなったが、これからの生産は生産物そのものから得られる利点を生かすのみではなく、生産そのものを生かすのでなければならないと想う。

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次のエッセイは20年余の以前、「オーストリアの原発解体」と題して、霰山会編『東亜』Asian Monthly 1987年9月号(No.243)に掲載したものの再出です。

【今年5月下旬の『読売新聞』が連載コラム「ヨーロッパ・ハイウェー」で、オーストリアの原発解体について特集していた。1977年に建設に入ったドナウ河畔の原子力発電所は、運転開始をめぐって世論が二分し、結局78年秋に国民投票にかけられ、僅かに反対が上回る結果となった。敗れたものの社会党政権は、高福祉と中立政策を維持するための経済的基盤として、やはり原子力利用は不可欠だとの考えに立ち、再投票を可能にする憲法改正を検討してきた。そこへチェルノブイリの事故の衝撃がおそったのであった。単に理念的な次元の問題ではなく、牛乳も豚肉も廃棄処分になるという具体的日常的なショックが、経済効率か生存環境かの選択で、ついにこの国の生き方を確定させたのである。76-79年にウイーンで政治ドラマを観察していた私は、当時を振り返って感慨深いものをおぼえる。

 79年秋、オーストリア社会党本部に全国総書記を訪ねた私は率直に質問した。「国民議会で過半数を制している社会党政権が国会の採決によらず国民投票にかけたことについて、日本のある新聞はクライスキー首相の弱腰と評している。否決されるかもしれないことを承知でなぜこのような方法を選んだのか?」

書記の返答は驚くほど正直で明確だった。「(1)原発の安全性はまだ十分ではない。だから反対や迷いがあるのは当然だ。だがわれわれは注意深くスタートすることが国の将来にとって必要だと考え、決断した。(2)国会の圧倒的多数で決定しようとしたが、第2党の国民党(=保守)は同調を拒否した。(3)社会党は予め党綱領を改正して原子力の開発利用を党是と定めた。だが実際には地方の党組織は隣接する国々の原発にずっと反対してきた。もし国会で採決すれば社会党に亀裂が生じただろう。(4)原子力エネルギーの開発は、首相の世代(60歳代)だけでも、私の世代(40歳代)だけでも、私の息子(一人は賛成、もう一人は反対)の世代だけでも決定できる性質のことがらではない。せめて国民投票にかけるのが最善の方法だと判断したのだ。決して弱腰ではない。」

 78年秋の国民投票へ到る数ヶ月、激しくくりひろげられた論戦が、決して感情に走らず、高いレヴェルの科学性を保持したことに私は深い感銘を受けていたが、その背景には政府・与党側の理性的配慮があったと知ったのである。

 当時のいまひとつのエピソード。79年の初秋、私は偶然、オーストリア共産党の全国幹部とウイーン地方幹部と称する二人の人物に出会った。この党は原発に公式に賛成していた。(ソ連への配慮で東側国境の向こう側の原発に反対できないのが原因だという噂であった。)ところが驚いたことに、この二人、党の最高級幹部でありながら、党の決定に背いて反対投票したことをこともなげに明かした。それは党員として許されることなのか、とたずねると、勿論許されない、だが、これは良心の問題だ、ときっぱり言い切った。おそらく社会党の場合も、党則と個人的良心との摩擦があったにちがいない。

日本では、チェルノブイリ後も、わが国の原発は安全だと宣伝し、保守・中道・革新いずれの立場を問わず、日本経済の長期繁栄のためには原発は不可欠、もしくはやむをえざる選択と考えている人が多い。その風潮に一石を投ずるつもりでか、『読売』は前記の特集に“繁栄よりも環境”と見出しを付したが、原子力発電への投資と犠牲が、技術やコストの面から考えても、とんでもないムダな廻り道であったことに人々が気づく日は案外近いかもしれない。】           

(2011・3・30 中川原 徳仁)

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(転載おわり)


佐藤英幸
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