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おしゃべりという代償充足

Posted by ななし on 22.2012 記事 0 comments 0 trackback
80年代以降、特に90年代そして00年代となると、事実としては、やはり私権の強制圧力の衰弱と共に芸能市場は(寄席や映画館の閉鎖に見られるように)廃れていっている。が、確かに、60年代から70年代にかけては代償充足市場の活性状況が見られ、現在においてですら、ワールドカップフィーバーに見られるように今だ根強いものがある。従って、もう少し「代償充足市場」なるものの切開が必要だろう。まず、日常の親和様式である「おしゃべり」を通して。

にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ 【日常のおしゃべりは私権時代における代償充足の典型である】

おしゃべりは、事実を事実として話しては面白くも何ともないわけで、ありもしないことを針小棒大に話したり、、自慢話か悪口でありもしない評価を捏造したり(自我共認)、何よりも話のネタがついつい芸能ネタになることを考えれば、実は「おしゃべり」は「傍観者としての代償充足」の典型なのではないか。
いつでも誰でもできる親和様式としての「おしゃべり」ではあるが、実は「傍観者」という視点でこれを捉えた場合に、現実逃避して幻想価値を共認する「代償充足」性が極めて強いことに気付かされる。この日常的に行ってきた「おしゃべり」を通しても、私権時代は誰しもが共認非充足の状態にあり、それゆえに常に代償充足を求める傍観者であると再認識される。

ところが、私権は衰弱した。にも関わらず、この「おしゃべり」は、それほど事実共認に転換したとは思えない…。逆にそれほど私権時代にこの人々に日常的に刻印された「傍観者」意識は極めて強く、現実逃避の習性ということだろうか。換言すれば、私権衰弱しても旧パラダイムの中にしか充足を求められない【習性】ということだろうか。

吉国幹雄
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