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代償充足の背後に潜む傍観者意識

Posted by ななし on 17.2012 記事 0 comments 0 trackback
 スポーツや芸能に限らず、宗教・思想・芸術、それらをひっくるめた‘教養’など、私権時代の解脱様式や創作物はすべて、例えば本源風に装われただけの、現実を変革するうえではまったく無力の幻想価値です。本来なら非充足を生み出す社会構造そのものに切り込んでいかなければ何も解決しないところを、とりあえず充足できさえすれば何でもいいとばかりに(仮にこの欠乏を代償欠乏と呼びます)、次々と代償充足の対象を人為的につくり出してきたのが私権社会であり市場社会です。

にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ  誰にとっても身近な‘おしゃべり’にしても、現存する未開部族は総じて無口らしいので、やはり私権時代固有の解脱様式と解釈すべきと思われます。‘おしゃべり’のネタの多くは自慢話や噂話だというのがいい例ですが、事実をありのままに語るだけでは代償充足にならないから、誇張や脚色によって話のネタは都合のいいように料理されるという点は誰も否定できないでしょう。‘おしゃべり’を楽しんでいる当人たちも、話のネタを脚色しているという意味では、劇作家や小説家と大差ない傍観者と言えそうです。

>人があつまればそれだけで人と人の共認回路が作動しあって、ある種の共認充足が得られ・・・

 この‘ある種の共認充足’こそ代償充足そのものであり、実は傍観者の構造に蝕まれている証拠ですし、代償充足に拘り続けるタイプには可能性がないと思います。それに対して、社会不全とは、部分的な代償充足自体が最早意味を成さない統合不全であり、現時点では可能性の閉塞感に囚われた状態(≒課題も答えも焦点が合わない感覚))とも言えます。見方を換えると、当事者としての充足可能性を模索し始める第一ステップであり、私権時代、一貫として疎外されてきた本源回路の可能性収束の萌芽だと考えられます。

 私は、実現派・充足派を主要ターゲットに、新しい当事者としての可能性と傍観者の限界を真っ向から語っていくという正攻法が、やはり一番の近道だと思います。



土山惣一郎
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