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「どう生きるのか」という本当の問いに向き合うとき~「今さらやめられない」という思考停止~

Posted by ななし on 04.2015 記事 0 comments 0 trackback
■「今さらやめられない」という思考停止
 現在の原発推進政策は合理性や妥当性が無視された選択だ。原発がローコストだと言うが間違いだ。本書に収録されていないが、「マル激」でも「<原発は安い>は本当か?」というテーマで、立命館大学教授の大島堅一先生に話を聞いた(第523回/2011年4月23日放送)。
 電力会社が発表したコストは1キロワット時あたり原子力は5.3円で、火力や水力と比べて一番安い。でもこれはモデル計算で、本当のコストはわからない。ここには「バックエンド費用」として使用済燃料処理費や廃炉費用などが計上されているが、積算根拠が曖昧で甘い。

 それでも2004年の政府審議会報告書ではバックエンド費用の総額18.8兆円。電気料金に上乗せされている。コストの3%まで利益として良いとの総括原価方式で、どんなにコストが高くても電気料金に上乗せできるどころか、コストが高い方が利益が増えるのだ。
 諸外国と違って、日本の電力会社は地域独占供給体制のもとで発電・送電・配電の全てを押さえている。人々は電力会社を選べない。公開競争入札もない。だから電気料金が馬鹿高い。2003年の資源エネルギー庁の比較だと、家庭用で米国の2.1倍。産業用で2.5倍である。
 民主党政権がとりまとめた東電賠償スキームだと、損害賠償費用を電気料金値上げで捻出して良いことになっている。だが原発災害について国民に責任はない。地域独占供給体制と総括原価方式をそのままにして、馬鹿高い電気料金に更に値上げを許すのは狂気の沙汰である。

 話はそれでは済まない。税金から拠出される国の「エネルギー対策費」はほとんどが原子力関連で、原発立地地域への補助金に使われる。1970~2007年度の一般会計エネルギー対策費は5兆2148億円。97%の5兆576億円が原子力関連予算だ。これらはコストに算入さていない。
 原発事故では何兆円もの賠償額になるが、原発はローコストだというときの費用に算入されていない。真の廃炉費用。真の使用済燃料処理費。税金からのエネルギー対策費。事故の損害賠償費用。原発につきものの揚水発電コスト。全て合算したら幾らになるか。試算さえない。

 CO2が出ないからクリーンだというのも嘘。ウランの採掘、濃縮、運搬、原発建設の過程でどれだけCO2を出すか?しかもCO2は毒ではないが放射性廃棄物は毒。六ヶ所村の再処理施設はほとんど動かず、再処理したプルトニウムで動く高速増殖炉もんじゅは16年間も停止中だ。
 ウランは石油よりもはるかに埋蔵量が少なく、長くても70年で枯渇する。太陽光発電など自然エネルギーの発電コストが急激に下がりつつあるから、40年経たずに採掘コストが見合わなくなると言われている。早晩廃れるしかないエネルギー技術であるのは分かりきったことだ。
 確かにウランの枯渇に対処するための高速増殖炉に希望が託された時期もある。だが実用化コストが馬鹿高いことから日本以外の国は全て断念した。日本の高速増殖炉もんじゅは実験段階の事故で16年間も停止中。政府は少なくとも2050年までは実用化があり得ないと認めた。

 ところが、こういうこと原発にはコスト的にもリスク的にも環境的にも合理性や妥当性がないことは原子力ムラの専門家ならば全員すでに知っている。ならば、なぜ原発推進政策が止まらないのか。原子力ムラの元住民が教えてくれた。「今さらやめられない」からである。
 どこかで聞いた言葉だ。日米開戦の直前、陸海軍将校と若手官民エリートからなる総力戦研究所がシミュレーションした結果、開戦すれば日本が勝つ確率はゼロ%との結論が出た。陸軍参謀本部や海軍軍令部に上げられたが、開戦した。やはり「今さらやめられない」からだ。

 「短期決戦ならば勝機はある」が口実となった。だがそれを心底信じるエリートがどれだけいたかは怪しい。極東国際軍事裁判では多くの被告は、自分としてはどうかと思ったが、空気に抗えなかった、今さらやめられないと思った、というような証言を残していたからである。
 今さらやめられない。これは単なる権益への執着を意味するものではない。実存や関係性に関わる意識を含むと解するべきである。やめようと言ったら、自らに矜恃を与える役割、役割を与えてくれる組織行動を否定することになり、自らの立つ瀬がなくなると意識されるのだ。
 「マル激」にも何度も登場した小出裕章京都大学原子炉実験所助教が面白いことを言っていた。70年代から原発の合理性欠如を主張して、数知れぬ論争に負けたことは一度もないが、議論に負けた推進派研究者が最後に言う。「小出君、僕にも家族がいる。生活があるんだ」と。

 80年代から原発に距離をとった(フランスを除く)西ヨーロッパ各国にも当初は推進派研究者がいたし、彼らにも家族があり生活があったろう。だが、そうした〈内在〉的事情ゆえに何が真理かという〈超越〉的事情を曲げて恥じぬが如き研究者が溢れるかどうかは、別問題だ。
 オーソドックスな社会学者なら、ここに宗教社会学的な背景の差異を見出す。唯一絶対神的な信仰生活の伝統が欠如するために〈内在〉を前に〈超越〉はいつも頓挫すると。だが、だからといって御用学者を免責すれば、合理性や妥当性が頓挫する社会から永久に出られない。
 我が国が行政官僚制肥大を克服できない理由は、単に行政官僚が政治家よりも頭が良いからとか強いからという話でなく、我々自身に、関係性内部での立ち位置ばかり気にして真理性や合理性を優越させない〈悪い心の習慣〉があり、それによって〈悪い共同体〉を営むからだ。




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