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超国家・超市場論 『現実』の塗り重ね構造

Posted by ななし on 15.2012 記事 0 comments 0 trackback
性闘争・自我発の下部意識(本能機能・共認機能)が生み出す現実の欠乏は、私権闘争へと先端収束する。そして、その私権闘争を止揚する武力支配体制⇒次いで市場競争体制が構築され、塗り重ねられたその体制の中に全ての欠乏と充足の過程(営み)は組み込まれてきた。
従って、私権時代を通じてこれまでに生じた自我や性や食や快美etcの現実の欠乏と充足の全ては、武力支配から市場競争へと塗り重ねられてきた現体制(国家と市場)の中に組み込まれている。
しかし、私権時代でも、欠乏は段階的に塗り替えられてゆく。私権時代の大衆は、略奪闘争によっていったん全てを失ったドン底状態(虐殺or奴隷)に封じ込められ、武力支配末期(封建時代)にようやく生存がほぼ満たされ、市場社会末期にようやく快美・解脱が頭打ち(≒飽和状態)となった。
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ 即ち、まず生存(生命や飢え)が満たされて(or頭打ちとなって)、快美(快適さ、便利さ)と解脱に先端収束し、快美と解脱欠乏が満たされて(or頭打ちとなって)、ようやく人類の最先端機能たる観念機能の充足(認識充足)という先端可能性へと収束する。

そして今、市場という土俵の背後から、もっと基底的な『必要か否か』という判断の土俵が姿を現してきた。この真っ当な、かつ最基底の『判断の土俵』(=新しい演場)の上では、必要判断が物や解脱から認識へとシフトしてゆくことは明らかである。
従って、外向収束⇒認識収束の潮流が生み出す認識欠乏が従来の欠乏を超えるほどの現実の欠乏ならば、当然いったん市場という土俵に乗った上で市場競争に(も)勝ち抜いてゆく筈である。そして、市場という土俵の上で古い現実の欠乏を収束力において陵駕することによって、はじめて認識欠乏が古い欠乏群を超える現実の欠乏であることが証明されるのである。

『判断の土俵』を基礎とする演場社会では、収束力=『人数』がお金を超えた最先端の評価指標となる。しかし『人数』は過渡的な評価指標に過ぎない。演場社会の中核を成す『認識形成の場』に過半の人が収束した時、そこではもはや『人数』は(居て当り前で)評価指標たり得ず、段階的な『投稿資格』が最先端の評価指標として確立されてゆく。(但し、その『資格』の基礎に、それを評価する『人数』は生き続けている。つまり、『人数』の上に塗り重ねられる形で、『資格』という最先端指標が形成される訳である。)
そのようにして、最終的に全ての人が認識(の必要)へと先端収束すれば、その圧力は最末端まで貫通するので、圧力源=活力源としては人々の評価共認の圧力だけで充分で(段階的な投稿資格etcの仕組みは必要だが)、最終的には取引関係は不要となり、従ってお金も不要となる。


四方勢至
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