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解脱と共認を一つの箱から垂れ流すことで支配を強めたテレビとマスコミ

Posted by ななし on 28.2013 記事 0 comments 0 trackback
貧困の圧力が高かった時代、解消先としての解脱は、一定必要であっただろう。
テレビ登場前までの、解脱欠乏を満たすための解脱といえば、代表的なものとしては、演劇や映画が思い浮かぶ。観客としてではあったが、同時に多くの人と、同じ空間を共有し、他の観客の笑いや涙等の息遣いを感じられ、解脱充足を高める場でもあった。

一方、共認欠乏は、「どうなっている?みんなどうしている?」といった、状況・情報の把握へと向かう。テレビ登場以前は、新聞やラジオがその役割を担っていたといえるだろう。そこでは、活字や音声のみといった、テレビ時代の今から考えれば、制約のある中での情報であり、逆に言えば、受け取る方にも、想像力を働かせ、考える余地が残っていた。

そこに、テレビの登場である。テレビのすごい所は、一つの箱の中で、解脱と共認、両方の充足が、ドラマやニュース等、様々な放映番組として、居ながらに得られる事である。

登場当初こそ、街角やせいぜいお茶の間に1台程度であり、近所で集まってや、家族の団欒として、共有できる空間を作り出していたが、普及と共に一家に一台から一室で一台、個人で一台にまでになっている。
最近では、さらに、ワンセグとして、携帯電話での視聴を始め、どこでも持ち運べ見れることを売りに宣伝され、一部でもてはやされている。
個人への普及・浸透という点では、もはや行き着くところまで、いった感さえある。

このテレビの登場・普及に伴い、解脱と共認の両方を一手に牛耳ることが可能になったマスコミの影響力と支配力が強大化したのは、ある意味、当然ともいえる。
(お笑い芸人等を起用し、事実収束の流れにのったクイズ番組やドキュメンタリー番組等のバラエティー番組は、解脱と共認の両方をミックスした、ある意味、巧妙な番組といえるかもしれない)

しかし、社会閉塞が深まる現代においては、支配観念に染まったマスコミが作り出すものでは、答えにならないばかりで、ますます閉塞感は増すばかり。

いくらテレビを携帯化し視聴させる機会を増やそうとしても、また番組を巧妙化させようとしても、もはや、答えの出せないマスコミとテレビは、早々、見捨てられ、見向きもされなくなるだろう。

匿名希望
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