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「娯楽」としてのテレビ

Posted by ななし on 19.2013 記事 0 comments 0 trackback
私が思うに、テレビが面白くないと感じるのは、今目の前にもっと面白い現実があるからではないだろうか?

 私は高校の頃まで、まさにテレビっ子であった。学校から帰るとただひたすらテレビを見ていた。テレビを見る以外何もしていない、と言っても過言ではないほどに。なぜなのかはわからない。ただ一つはっきりしているのは、その頃私は、何か不完全燃焼で生活そのものがつまらなかった。 大学に入ると、一転テレビは全く見なくなった。見る時間もなかったが、別に見たいとも思わなかった。むしろ、テレビを見る時間がムダに思えた。大学に入った私は、完全燃焼する場を見つけ、現実の世界に夢中だった。
 そして今、大学を卒業し、専門学校に通っている。何もない夜、家に帰ると、ぼーっとテレビを見ていることがある。本を読もうとしても、勉強をしようとしても、疲れて能動的に動けない。だからつい受身でいられるテレビを見てしまう。すると、結構面白かったりする。下らない事に笑え、虚構の世界にも感動する・・・。

 人は、生きている限り、何か心の動きを求めているように思う。喜怒哀楽という情動は、生きていく「張り合い」となる。それが無いと人は「つまらない」と感じ、何か楽しいことはないかと探したりする。それをカバーするものが「娯楽」であり、その一つがテレビの存在である。心に何もないときテレビは、ささやかな笑い、感動などの情動を与えてくれ、わずかな心の潤いを与えてくれる。逆に、今生きている現実そのものに「張り合い」があるとき、その補助機能であるテレビは何の役にも立たず、ムダな物にすら思える。 

 高校の頃までの私には何もなかった。日々の暮らしの中に取り立てて悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも、嬉しいことも。だからテレビが演出する喜怒哀楽に共感し、憧れた。しかし、殻から抜け出した私は知ってしまった、現実の方が面白い事を。テレビが与えてくれる感動など所詮他人事で、虚構で、到底実感としての感動(心の動き)にはかなわない事を。そんな時に見るテレビは、不快にしか感じられず、まるで面白くなかった。現実の方がずっと面白かった。そして今、私は再び、あの頃のような喜怒哀楽の無い生活を送っている。すると、テレビが意外に面白い。実感ではないにしてもささやかな情動を感じることができる。少しは心が潤されるのだ。ただ、一度現実の面白さを知ってしまった私は、これでは満たされないでいる。今の、この生活を、足早に駆け抜けようとしている。
 
 テレビが面白くないとき、それは現実が「生き生き」している証拠ではないかと思う。

板谷真紀 
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