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千尋とカオナシ

Posted by ななし on 07.2013 記事 0 comments 0 trackback
私が面白さを感じる瞬間。絵を描いたり、何かを創り出そうとしているとき。本を読んでいるとき、時間を忘れて読み続けてしまうとき。友達や家族との終わりのない話し合い、口論、談笑。新しい場所、自分の知らない土地に出向く旅行。未経験事項を経験済み事項に変えていく瞬間。授業の課題をやっつける(やり遂げる)時間。恋愛。
私の生活には多くの「面白さを感じる瞬間、面白さを確認する瞬間」がある。面白さ。それは私の生活を活気づけ、それに刺激を与えるものである。または面白さが私を奮い立たせたり、前向きに明るく進んでいくきっかけを与えてくれたりする。
しかしここ最近、テレビが私の生活を活気づけたことはない。私を前向きにしたことも、刺激を与えてくれたこともない。面白くないのだ。全然。
私が面白さを感じる行為と、「テレビをみる」という行為とを比べながらなぜテレビがこうも面白くなくなってしまったかを考察してみたい。
絵を描いたり、モノを作ったり、本を読むという行為に関して共通して言えるのは、主体が完全に私という事実である。私は自分が何を求めているのか、何がしたいのか、どうしてそれがしたいのかがはっきりわかっている。自分が欲することをこなしていく行為は面白い。しかしテレビを見るとき完全な主体は自分ではない。求めているものが返ってくる保障もない。むしろ期待はずれなものが無造作に放たれたりもする。選んで見た番組でも同じことが言える。
友達や家族との時間、旅行、恋愛等行為に関してはキャッチボール的面白さがある。何かが絶対に返ってくる、予想外の反応や予定外のハプニング、それらは生活を刺激的にする。何に関しても、一方通行で反応や成果が返ってこないのは面白くない。テレビは常に一方通行である。ただ情報のシャワーを私たちに浴びせるだけで、私たちの問いかけや欲求に応えてくれることはない。
自分の体感を一般的に考えると次のようなことが言えると思う。まず、私達現代人は「自分が何を求めているか」が比較的はっきりしている。だから、何がしたいかも何が知りたいかも、何が欲しいかも明確なのだ。そしてそれを「どうやって」得るかを知っている。貧困が消滅し、物質的にも精神的飽和状態にある現代では足りないものを見つける方が難しい。だから、むやみやたらにむやみやたらな情報を放っても誰も「欲する」ことはないのだと思う。映画「千と千尋の神隠し」で、千尋が巨大化したカオナシの押し付ける金を無表情に「いらない、あたしが欲しいものあなたには絶対出せない」と言い放つ場面がある。今日のテレビと私達はまさにあの状態なのではないだろうか。
人間関係において一方通行で反応や成果が返ってこないのは、「心」がない繋がり、付き合いであるといえる。「心に伝わるもの」は大切である。しかしテレビからは心に伝わるものはない。淡々と告げられるニュース、バラエティーに富んでないバラエティー番組、お決まりの音楽番組。心が揺さぶられたり、心が躍ることもない、極端に言うと「無」の状態に陥ってしまう。
これら大きくふたつの理由でかつては文明の利器であったテレビが、今では虚無・混沌状態をもたらす文明の危機と化している。というのは言い過ぎだろうか。

 


匿名希望
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