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踏み止まれるか、否か。

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback

2-3ヶ月前のある夜、何気なくテレビをつけたらいきなりこわそうなオジイサンのアップが映し出された。

「付和雷同」

久しぶりに聞いた旧い言葉に何となく引かれて画面を見た。

「政治家をはじめとしてあなた方(インタビュアーであるマスコミのこと全般だと思う)も含め、みんなが付和雷同という感じになっている。何かあったときに『ちょっと待てよ』というのがない。これは非常に危険な状態だと思う」

このようなことを話していた。後で知ったのだが、80は優に過ぎたと思われるその老人は、引退したGという政治家だった。

知っているけれど使ったことのない言葉の響きに、改めて辞書を引いてみた。

付和雷同・・・自分に決まった考えがなく、軽々しく他人の説に従うこと。

ムムッ、耳が痛い。。。

>目先の秩序収束の潮流に乗って、支配層の3/4と庶民の1/2は小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた。今後しばらくは、この誤魔化し充足の風潮にマスコミ(や一部の学者)が乗り、ますます根本問題の本質追求は捨象されてゆくだろう。(73071)

小泉さんに興味なく、ましてや郵便局が国営だろうが民営だろうが「(郵便物がちゃんと相手に届きさえしたら)どっちでもええ」というのが実感の私には、衆議院解散とか何とか全然わからない。なので今度の選挙も間違いなくパスする。政治的、社会的には付和雷同ではなく、傍観者なのだと思う。

仕事はさすがにそうは行かない。傍観者では何の活力も湧かない、そのことを直感的に知っているから、あらゆる局面で外圧を探し、それを内圧に代えて、次の場に突き抜けようとする。と言えばかっこいいが、要するに前しか見ていないということで、「何でもいいからやらないよりやったほうがマシ」という安直な気持ちがあることは認めざるをえない。

仕事の場面でも「何かあったときに『ちょっと待てよ』」と止まるのは、実はとても耐力がいる。2段階の耐力が要求される。

まず「何かある、ちょっと違う」と気づくということ(気づかないふりをしてやり過ごすこともできるのに、あえて気づいてしまう、・・・うっ、気づいてしまった)。そして次に選択する道、「とりあえず今はこれでしのいでおこう(泥沼化することも多い)」となるか、「うーん、このまま見過ごすことはできん。もう一度最初から考えてみよう」と止まるか。

ひとところに踏み止まるということは、前へ、次へ、と進みたい私にはかなり苦痛だ。が、やはり結果として、早目に手を打った方が「吉」と出るケースが圧倒的に多い。

「(小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた)支配層の3/4と庶民の1/2」は付和雷同と化したひとたち、そして「どうでもええ」と冷やかに眺める残りの傍観者たち。いずれのひとたちもここで「ちょっと待てよ」と、踏み止まることができるか否か。

今、日本全体が本質追求の分水嶺にいる。




阿部佳容子
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