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「役に立つか、立たないか」という判断の土俵

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback

>だが、’00年、私権観念(「お金第一」「自分第一」で社会のことなど関係ないという観念)が崩壊し、一気に社会不全が膨らむと、遂に「豊かさ追求」という目標共認も溶解し始める。そして、「物的な豊かさ」という目標が溶け崩れて、初めて『必要か、必要でないか』という真っ当な判断基準が潜在思念の奥から姿を現してきた。(33821)

確かに、物的商品に対しては、「必要か、必要でないか」という判断の土俵は形成されつつある。残存する仲間世界(圧力)を取り込んだ判断の土俵も、形成されつつある。(みんながブランドもののカバンを買っているみたいだから買う→みんながそんなものは「必要ではない」と考える)

>・学校の授業は役に立たないことは明らかなのに、授業に出席する。
・資格をとっても仕事にならないことに気付いていながら、資格取得に躍起になる。
・結婚に可能性がないことは重々分かっているにもかかわらず、それ以外ないから結婚する。

>潜在思念は「可能性はない」と判断し、新しい可能性を探索しているが、そこでの羅針盤は「みんなはどうなん?」というみんな収束しかないのが現状で、「みんな授業に出るから」「みんな資格を取っているから」「みんな結婚するから」という形で、ことごとく既存の制度に絡め取られているのが現状です。(82396)

しかし、類的商品(資格や勉強)に対しては、判断の土俵がまだ、出来ていない。正確に言うと、「役に立つか、立たないか」という判断の土俵は未だ顕在化していない。

「何が『みんなの』役に立つのか?」を判断しようとした時の、判断軸が全く無い状態と言える。つまり、下部意識では「役に立たない」と一旦判断していながら、上部意識では判断軸がないので「『とりあえず』役に立ちそうなのも」を選び、資格に収束している状態。

必要なのは、上部意識でも「役に立つか、立たないか」明確に判断できる「観念」であり、それは当然みんな期待を捉えることができる「新概念」でもある。

結局、「新概念」「構造認識」と呼ばれるものは、(答えがあるからこそ)みんなに広まりながら、広まっていく過程で、「役に立つか、立たないか」という判断の土俵を形成していく力を持つものだと言える。



小暮 勇午
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