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親元収束する若者

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
私は今年社会人一年目で、会社の近くで一人暮らしをしている。
2年前の就職活動の際には、「実家を出る」ことを念頭に置いて会社選びをしていた。特に親と仲が悪かったわけではないし、実家が不便な場所にあるというわけでもない。ただ親元から離れて一人で生活してみたかった。漠然と「社会に出たい」という意識があった。居心地のよい「家庭」にいてはいけない、という意識もあったから。

しかし、姉も私と同じ時期に仕事の関係で実家を出ることが分かっていたので、家に残ろうか悩んだ時期もあり、親に相談してみた。
「家に残ったほうがいい?寂しい?」と聞くと、「心配しなくていいから。あなたの好きなようにしなさい。」と。引き止めない親を見て、強がっているのかなと思い、一層家を出ることを悩んだ。
強がって口には出さないけど、きっと寂しいんだろうな・・・本当は家に残ってほしいんだろうな・・・と。

結局、私は家を出て一人暮らしを始めたが、改めて周りを見渡してみると、親元で暮らす同年代の子の多さに驚く。事情があって一人暮らしをしている子でも、休みの度に実家に帰っているようだし、長期休暇が取れると、旅行に行くのではなく実家に飛んで帰っている。

>しかし、'90年以降、対象を失った彼らの親たち(74917)に同化しても当然答えはなく、中身(=対象)のない親の囲いに幽閉されたまま、全く活力の出ない存在となるのは必然です。(75324)

しかも、彼らは一見「全く活力の出ない存在」ではない。むしろ、そこでとりあえずの親和充足を得ており、何も問題だとは思っていない。

今や誰もが収束先を見失っている、収束不全。やりたいことが見つからない、何をしても物足りない、どこへ向かえばいいのか分からない、出口が見えない状況。
そんな中、「親元」「家庭」という収束先は、皆に共認された規範・制度であり、そこには親孝行といったような役割があり、充足もある。現在の収束不全・統合欠乏・役割欠乏などと合致する。

だから「とりあえず」みんなに認められたものに収束、つまり共認収束するのではないだろうか。「とりあえず」=現在形の充足に収束するということであり、それなりに統合される。粗末なモノであっても、その瞬間にそれなりの充足があればよいという感じ。

親元収束は、出口が見えないが故に旧体制に絡めとられている事象の一つと言えるのではないだろうか。
社会の行き詰まりを感じつつも、どこにも可能性を見出せない。よって、可能性収束を断念して、目先の規範・制度・観念に収束している。まさに、「可能性閉塞」の状況認識から無難収束しているのではないだろうか。

そこ(親元)で、それなりの親和充足・安心感を得て、特に問題意識を持つこともなくそれなりに楽しく暮らしているように思える。しかし、彼らが答え探索を止めたとは思えない。状況認識として「答えがない」⇒「共認収束」を選んでいるが、根底に収束不全があるのは間違いない。

出口が見えない⇒答えが欲しい、ではなく、出口が見えない⇒とりあえずの無難収束。そこでは全く活力が出ないという状況に陥ることはなく、常にそれなりの充足が得られてしまう。よって、真剣に、本気になって答え探索に向かわないのでは?

実際、周りを見てみても、親元で住むことに危機感を抱いている子はいない。むしろそこに役割を見出し、一見充足しているように見える。よって「答え=新概念が必要」という意識に直結しない。これは、実に危険な状態であるといえるのではないだろうか。



井上緑
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