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「あなたは今のマスコミが信用できますか?」

Posted by ななし on 31.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「あなたは今のマスコミが信用できますか?」調査結果リンク

「全てにおいてまったく信用できない」,「そもそもマスコミ自体信用しない」との答えが約75%。4人のうち3人がマスコミ情報を「全く」信用していない。 と言うが…。

意識の上では、75%の人がマスコミを全く信用していないとは言っておきながら、残念ながら現実は(私も含め恐らく90%以上の人が)マスコミの情報によって洗脳され、行動を支配されているのではないだろうか。

「テレビ発納豆売切れ騒動」「不二家事件後の大衆の行動」などで周知の通り、多数の事象があるが故に、この現実には誰も反論できないだろう。

自分だけはマスコミに騙されまいと考え、(意識の上でのみ)自己防衛に向かい、マスコミに洗脳されている現実を都合良く捨象している人は多いと思う。(洗脳状態になっているのだから問題として顕在しない)

この意識と行動のズレこそが、社会を何とかしなくちゃという、差し迫った焦りと成り得ず、社会を変える可能性に蓋をしているように思う。

しかし、昨今の偽装事件だらけでマスコミ不信最骨頂の社会を見ていると、大半の人々がこのままでは本当にヤバイと強く思い始めてきているのがよく分かる。みんなの意識や事実を追求していかないと、自己防衛などで誤魔化しきれないと、潜在的に気付いている。

事実を知りたいという答え欠乏,事実追求意欲は、今や万人が感じる欠乏となり、最大の期待ともなってきているように思う。




猛獣王S
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今、新しい規範群が求められている理由

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
『社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流(24648)』を読む中で、
『今供給すべき答えとは、新しい規範群(141794)』の理由が見えてきた。

>資格・授業・家族・結婚といった制度収束、マナーファシズムetc、現在みられる基準(≒規範)収束の流れ。

>にもかかわらず、収束していくこの構造。

>いったいどんな答えを欲しているのか?何を求めているのだろうか?

>そこから読みとれるのは、「構造認識」よりまず「規範」を欲しているのではないかということ。(141794)

社会空間での共認圧力は、人々を介した評価圧力だけでなく、制度・規範・観念の固定圧力も含まれる。そこで答えが無く、新しい認識が広まってない現在、多くの人は私権時代の固定圧力に収束するしかなくなっている。よって、これが認識を広めていく最大の壁である。

これらを超える為には、上記の収束先である新理論に基づいた新しい規範群を提示し、新しい固定圧力に塗り替えていくことではないか。 半顕在化の社会収束を完全に顕在化するには、新理論に基づいた、すぐさま行動に移せる新しい規範が必要なのだ。


□社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流(貧困の消滅以降)

=社会空間===========================
―同類圧力(共認圧力)―――――――――――――― ――――――
|                       | |個人や |
|■評価圧力           ■固定圧力  | |集団を |
|【評価共認⇔評価闘争】 【制度・規範・観念】 | |超えた |
|    |            |     | |多くの |
|    |            |     | |人々  |
―――――|――――――――――――|―――――― ――∧―――
=====|============|=========∥===
     |ーーーーーーーーーーーー|         ∥   
     |                      ∥  
=====↓==共認を紐帯とした、本源的な社会収束===∥===
|    ■外識機能■    |→ ■内識機能■    ∥  |
半顕在化    ∥      |     ∥      ∥  |
|       ∨      |     ∨      ∥  |
|    □外向欠乏□ー―――|  □つながり(広がり)欠乏□|
|       ∥ ↓          ∥         |
|       ∥ マスコミ・ネット   ∥         |
|       ∥ 社会探索・実現論   ∥         |
・・・・・・・・∥・・・・・・・・・・・・∥・・・・・・・・・|
|       ∨            ∨         |
顕在化  『新理論』とそれを基にした『規範』の共認で     |
|            ∥                 |
|      内識イコール外識となり社会収束は実現      |
|                              |
================================




本田真吾
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今供給すべき答えとは、新しい規範群

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
資格・授業・家族・結婚といった制度収束、マナーファシズムetc、現在みられる基準(≒規範)収束の流れ。

これらは、いったい何を意味しているのか?

収束している本人もその収束先に中身がないことは、気づいている。
にもかかわらず、収束していくこの構造。

いったいどんな答えを欲しているのか?何を求めているのだろうか?

そこから読みとれるのは、「構造認識」よりまず「規範」を欲しているのではないかということ。
つまり、今供給すべき答えとは、仕事、子育て、男女関係、婚姻等の新しい規範群なのではないだろうか?
こういった「規範」が与えられて初めて、目先から「構造認識」へ向っていくのではないだろうか?



三輪歩未
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みんなが答えを求めてる・・・「答え」って何?

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。また全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。実現論1_1_01

どれだけ観念を捨象してみても、不全感はとまらない。
安心・安定⇒家族収束してみても、充たされない。
新しい外圧(外部世界)に適応するどころか、逃避しているのだから、それは当然なのかもしれません。

しかし、普通の人々も、意識下では「先端可能性へと収束」しようとしているはずです。だとしたら、「答え」とは、先端可能性=進むべき道の提示に他ならないのではないでしょうか?

まず言葉。可能性を感じさせられる言葉そのものが「答え」なのだと思います。



田中直人
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仕事上の不安解消法☆

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback
「私って、仕事出来ないかも・・・」
今まで、何度もこんな不安に陥った事があります。

この話を会社の先輩にした所、こんなアドバイスをもらったんです。
「全体を見渡して、『足らない』『もっとこうした方がいいかも!』と思う事をやってみたらいいんだよ。」

そう言われて、さっそくそれを意識しながら仕事してみました。

そしたら、(成果はともかく)まず今までずっと抱えてた「私、仕事出来ないかも・・・」という不安が、不思議と無くなったんです☆というか、意識しなくなりました。

今まで、仕事を“自分の出来る範囲”でしか見ていなかったから、それが出来なかった時に不安になる。
そうじゃなくて、常に全体を見渡し、足らない部分を把握する。
あとは、それを実行するのみ。

意識を、目先から全体に向けただけで、こんなにも変わるんだなぁと実感出来ました☆



キイロイトリ
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「答えがない」というのも状況判断の一つ。これは大きな気付きです。

Posted by ななし on 26.2016 記事 1 comments 0 trackback
>社会不全も、数日~数週間で「答えがない」という状況判断によって、捨象・封印されてゆく。従って、社会不全⇒変革の必要意識は流産し続ける。流産した社会不全⇒課題意識は封印されたまま潜在思念の奥に蓄積されるが、答えがないままに、やがてそれも風化してゆく。
>この循環を通じて、唯一、充足基調⇒本源収束の回路だけが強化されてゆく。(19576)

 「答えがない」というのも状況判断の一つ。これは大きな気付きです。

 本源派の女は、「そんなのもういいじゃん」「それは意味ないから、もういいんじゃない?」などなど、バッサリした発言も多い。でもそれは、諦めが早いとか物事にいい加減とか、そういうことではない。『答えがない』という状況判断をしていただけ。

 「ノー天気に楽しんでばかりではいけない。」「この問題を一生懸命乗り越えれば、充足が待っているに違いない。」そんな固定観念で眺めていても、それは無駄に不全と戯れることにしかならない。諦めちゃっていいのかな…、もっと考えなくちゃ…、と悩みにはまっていく…。

 「答えがない」という判断。それは勿論、不全を捨象・封印することに繋がる。
 けれど、充足基調⇒本源収束の回路が強化され、やがて新たな状況認識が与えられた時、社会を作る戦力になれる。

 この構造が見えれば、「答えがない」という状況判断にも迷いはなくなると思った。



山崎許子
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答えがないという状況判断

Posted by ななし on 25.2016 記事 1 comments 0 trackback
ここで重要なのは、「答えがないという状況判断」の元に、不全が捨象されているという構造だ。

なぜなら、もし、「答えがないという状況判断なし」に不全を捨象するとしたら、それは思考停止をすることでしか成立し得ず、従って、充足可能性の探索回路を作動させることが出来ないからだ。

自殺などは一見、「答えが見つからない」典型のようだが、この場合は、答えがないという状況判断をしたのではなく、答えがあるのかどうか判断することを止めてしまっただけなのではないか。
だから不全を抱えたまま、生きること=探索することを止めてしまうのだろう。





西知子
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自殺は、「究極の自己中」

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
>自殺問題を考えるとき、この自殺者の自己中構造という視点は一つの鍵になるのではないでしょうか。(138748)

親から貰ったこの命。命は次の世代に引き継いで行くのが自然の摂理。命は自分の物だから、好きにさせてよ。これって、究極の「自己中」だと思います。




森田政則
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「塗り重ね」は永遠に続く、壮大な歴史

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近、小中学生や中高年の自殺をよく耳にする。
TVのワイドショーや討論番組では「人生には果たして意味があるか?」や「何のために生きるのか?」という問いかけに、あくまでも旧観念に基づいて答えようとする知識人たち。

彼らの答えは生きていれば必ずいいことがある、夢を叶えるために生きるetc、「自己」実現ものばかり・・・。自分というものに拘っているが故に、今の事態を引き起こしていることを誰も指摘できない。

>長い年月をかけて受け継がれた命。その尊い命を自分で絶つということ。自分の命なんだから、死のうと生きようと自分の勝手とでもいうようなこの自己中行動。。。そう思ったら、なによりも自殺はダメだと思うのではないか?(137262)

しかし、実現論にあるように自らを塗り重ね構造体と認識すれば、今現在の生きとし生けるすべての生物、そして過去存在した生命体に感謝せずにはいられない。

「何の為に存在しているのか?」
それは未来の生命体のためであり、そして自分だけのために過去から延々と続く生命そして進化の鎖を引き裂くことはできない。自らの背後には、無限の生命が存在するからだ。自分や家族、先祖をはるかに超えた世界に、我々は今生きている。

確かに、人間一人の人生なんてちっぽけなものかもしれない。
しかし、そんなちっぽけな人生でも、壮大な歴史を背負い、そして繋ぐ使命があるのだ。



匿名希望
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「自分は必要か否か」という問い ~自殺者の自己中構造~

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback

いじめから自殺に至るケースが増えている。

この現象って、

>『必要か否か』という最基底の、それゆえ真っ当でシンプルな『判断の土俵』(=新しい演場の基礎)が出来てくると、国家も市場も全面的にその土俵の上に乗らざるを得なくなり(∵逃げ道はない)<(33995)、

今や、その判断の土俵上に「己の存在」までもが登るようになったが故の現象、と捉えることができるのではないでしょうか。

もし、まわりの家族や仲間との共認関係(共認充足)が希薄な人が、「自分は必要か」という問いを自身に向けて問うた場合、外圧世界を非常に狭いレベルでしか対象化していないがゆえに、「私なんて誰にも必要とされていない」「私が死んでも誰にも迷惑はかからない」と言った狭窄的で悲観的な思いから、自殺にまで至ってしまうケースは少なくないと思います。

自己中(=対象世界が狭い)であるがゆえに自殺に至る構造がここに見えてきます。

「超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく 【図解】」(129963)にあるように、すでに、己の好き嫌いといった価値判断だけで生きていける時代は終わりました。

自殺問題を考えるとき、この自殺者の自己中構造という視点は一つの鍵になるのではないでしょうか




竹村誠一
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潜在的な答欠乏を顕在化⇒期待封鎖を解除する鍵は『お題の言葉』

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback

137531より>お金がかかることがわかると“じゃ~いいです…”ってなってしまうお客さん、路上でも学園祭でも一定の割合でいますよね<

その一方で「当然のように」お代を払ってくれる若者が増えてきたようにも感じる。 

先日のなんで屋露店に来た大学生も、お題が並んだ看板を前にして「これが気になったが、見ていくとほかにも聞きたいことが一杯出てくる」となかなか1つに決めきれない。 さんざん迷ったあげく、お手伝いからの「これは私も聞きたい」の一言で決めたのだが、聞く姿勢は真剣そのもの。 お題終了後は、何のためらいも無くお金を払い「誰かに答えてみてまた来ます」と去っていった。

“お題看板”の前に立ち止まった時点で、すでに答欠乏(か役割欠乏)が「喉元まで出掛かっていた」のだ。
そこに「お題=みんなのなんで?」(⇒あなたもみんな期待に答えられる供給者になりたい)なのだという、半答えを投げてあげれば、一気に答(役割・課題)収束する。

「みんなのなんで?」を結晶化させる“お題の言葉”そのものが答欠乏を顕在化させる鍵となる。



なんでやねん 
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相手の期待を自己の課題に置き換えることが最大の活力源となる

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
>相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。(実現論1_4_05)

 相手の期待に応えるということは、相手の期待を自己の課題に置き換えることからはじまる。

 そして相手の期待に応えるという充足は、極限状態の弱オス達に生きる力を与えるほどのエネルギーを持つ。


 現在、人々が活力▼しているのは、個人主義が蔓延し、互いに期待しあうという状況が少なくなり、相手の期待を自己の課題に置き換えることが出来ないからだと思う。

 しかし、共感の真髄が、相手の期待に応えることである以上、相手の期待を自己の課題に置き換えることがことが出来なければ、活力△は永遠に図れない。

 相手の期待を自己の課題に置き換えることこそが、共感のはじまりであり、活力の源である。



加藤弘行
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表層収束する

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback

>ますます安定・調和・統合を求めて、形骸化した支配観念に表層収束することになる。

具体的にはどんなことかというと、
仕事がうまくいかないから『結婚』という安定に走ったり、
将来が安定する『公務員』を目指したり。


わたあめ
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妄想は本心ではないのよ、実は

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
仕事でも、友人関係でも、性関係でも、
自信があるとかないとか 
不安があるとかないとか 
頑張ってるとかないとか 
相手にとってはどうでもいい。

相手にとってどうでもいいということは、
相手と上手くやりたい自分にとっても、どうでもいいということ。

それが、本心 


>このままじゃいけないってわかっているんです …

いけないんじゃなくて、どうでもいいと気づきましょう 

『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判 断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。

いろんな物事の判断の基準を、好き嫌いでなく、いい悪いでもなく、必要かどうかにおいてみる。

そうすると、
①思考が外向きに
「必要かどうか」を判断するために、頭は、色んな情報を得ようとする。
②思考が前向きに
「どうでもいいこと」と分かれば、頭は、無駄なエネルギーは使わない。

これだけで、こんがらがった頭が、だいぶシンプルになります 
意識してみてね 

ニシ

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教育熱心な父親たち

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日、塾の進学説明会を開催したが、最初に来られた保護者が父親、次も父親、その次も・・・数的にはまだまだ母親中心ではあるが、塾選びにしろ、学校選びにしろ、直接的あるいは間接的に父親の姿がしばしば登場するようになった。

雑誌に最近の父親の教育熱心ぶりは「父権の復活」(11357)と書かれていたようだが、私権圧力を背負ったかつての絶対的な「家長」とは違う、のは言うまでもない。が、つい10年前までに見られた実績に偏執的な「教育パパ」とは少し変わってきているように感じる。

>私権の終焉から、父親たちが私権課題に向かえなくなり、新たな目先収束として「子育て・受験」に向かっているのでは?と思えるのですが・・・・・・・。<(111560)

東京・大阪でのアンケート調査では「お受験」させたい父親は20%(母親16%)(東京>大阪)という数字が新聞紙上で先日発表されていた。都会ほど私権崩壊の落差が大きく私権獲得のうまみもなくなり、活力不全の父親たちが最後の私権の砦たる家庭の共通課題である「子育て」に目先収束している結果であるという視点は大きくは正しいだろう。

が、それだけではないように思う。母親の後ろに見え隠れする、あるいは直接懇談した最近の「教育熱心な父親たち」は、ほとんどが生産現場でバリバリに働いている男たちである。自ら工場を経営し夜遅くまで仕事をしている父親、都市計画に携わって全国を飛び回っている父親・・・自分で教えられたら教えたいと思っている父親もしばしば見られる。

話をしていて共通に感じるのは、「国立大学に行くための○○高校を目指しているのでよろしく」というのが主要論点ではなく、「子どもが塾に来てどのように成績があがるのか、どのように成果をだせるのか示してほしい」「子どもが自分で勉強するようになるにはどのように指導するのか教えてほしい」、実があるかどうかが塾に問われる。実がなければ「もったいない」。

私権崩壊とは教育幻想の崩壊。かつては希望校合格が幻想教育の「答え」であった。しかし、そんなものは何の答えにもならない。が、それでも「○○中学は・・・」「○○高校は・・・」と子育ての強迫観念に縛られ、あるいは子どもの評価を自我充足に直結させた母親たちは、表層的な塾選び学校選びに走ってきた。
しかし、現実に優秀な学校に入っても自己中の子どもたちが事件を引き起こす、淘汰圧力のかかる会社に入ってもすぐ引きこもる・・・

このままではどうしようもない、母親や子どもに任せていてもどうしようもない、と現実の壁を前にして「実のある教育」を探索し始めた、それが現在の「教育熱心な父親」ではないのか。
もし、そうであるなら「答え」を提示できれば良い。外圧適応の教育機関としての実のある「場」を構築できれば良い。「教育パパ」が情けないというよりも、私は新しい教育(市場)の可能性がさらに広がっていると思う。




吉国幹雄
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改めて「生きる」って何?

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
>もし、これらの危機が「本能を直撃するような危機」であれば、捨象するなんてできるわけがない。その先には「死」が待っているのだから。
でも、今捉えられる危機は全て『本能を直撃する様な危機ではない』。だからこそ、危機と課題を捨象することができるんだ。18422

生きるって何?をなんで屋で話していて思った。
生きることとは外圧を捉え内圧に転化して適応すること。
言い換えれば本能を直面するような外圧であれば常に生きる為の活力は自然と出ている。でも現在はそれを観念で捉えるしかない。だから生きるのは確かに難しくなった。

今、生きるって何?とか生きている感じがしないとか言ってられるのは、近づいている危機を捉えられていないからに過ぎない。

しかしこの間、るいネットで様々なデーターで示される危機の事実群は状況を捉えるのに有効だ。
そしてそれらを知ることで
>間違いなくこの先『本能を直撃するような危機』に直面する
という事実を捉えることはできる。その事実を前にしてまだ同じ事を言っていられるのならそれは本当に捨象している事になり、そんな人に生きる資格はない。

捨象の先に待っているのは死である。実現論の最後に・・・。
>彼ら電源の切れかかったロボットたちは、何もしようとせず、ただ廃棄処分される日をじっと待っているだけではないか。実現論4_7_07

生きるって事はまずは事実(=外圧)を正視することである。





田野健
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「ぼくにはできない」=「やりたいことがみつからない」=何もできないのでは?

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
仕事で、「ぼくにはできません。」という人がいると、「じゃあ、何だったらできるの?」と返すことにしている。

 大学時代に「やりたいことがみつからない」といっている人がいたけど、その人にも「じゃあ、何だったらできるの?」って返していた。

 いずれにしても、そういう人はたいてい、ちゃんとした答えが返ってこない。返ってきた言葉のことをさせても、別に特別できるわけではない。

 「ぼくにはできない」=「やりたいことがみつからない」=何もできないのではないか。早くそのことに気付くべき。




ハリケーンミキサー
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まずは、「現実の圧力」を掌握する!!

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
「やりたいことが見つからない」
=「活力が欲しい」
=「現実」
=「人類滅亡の危機」

このまま活力が出ない状態でいてはヤバイ、おかしくなる。
心底の叫びが「やりたいことが見つからない」と若者に言わしめている。

この現実は、随分昔から始まっていた。
「なんか面白いことない?」「最近つまんねーな」
といったセリフは20年以上前から若者がつぶやき始めた。
最近の若者に至っては「生きるって何?」「自分ってなに?」とまで言い始めている。

確かに、この活力衰弱状態は人類滅亡の危機であろう。

「人類滅亡=現実の圧力」この認識が欠落していることが現代の全ての病理現象の根幹にあろう。

日常的な、仲間関係、仕事、社会問題、、、、、どんな場面でも
「現実の圧力は何か?」
この視点に立つことが可能性の原点である。



斎藤一浩
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子供も闘える武器を求めている

Posted by ななし on 13.2016 記事 1 comments 0 trackback
先日、塾の生徒(小6♂)に「集団の一体感を破壊しバラバラにしてしまう自己中は人類の敵なんだ!」と伝えたところ、「すげ~!なんだそれ、凄い言葉だよ!」と、こっちがびっくりするほど感動していた。
聞けば「野球のチームで自己中な奴がいて、ほんと困ってる。一致団結したいのにそいつがいる限り無理なんだ」とのこと。
だが上記の言葉を聞いただけで、「明日からみんなに伝える!絶対なんとかしてやる!」と、実現回路に火がついて一気に活力があがってしまった。

「子供も闘える武器を求めている!」

教育というと、ダメな子にばかり目が向かいがちで、その中で「何を伝えるべき?」「どうすれば良くなる?」と四苦八苦する傾向がある。しかしそれでは成果が上がらない。
健全な子達に対して闘える武器を与え、そこでまっとうな共認圧力を形成できてこそ、ダメな子も変わっていけるはず。


とみー
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「もったいない」に答えられる人

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback

学校でも塾でも、月謝を払う立場の人から考えると、せっかくお金を払っているのだから元は取らなくちゃという考えてみればごく自然な気持ちが働いていると思います。その底流にはお金や時間に関する「もったいない」があります。

会社ではお給料をもらっている。期待料や応合料をもらっている。まだ戦力になっていないのに先払いでもらっている。

だれがあげているのか?前から会社にいる人々が採用の基準を考える労力をも含めて、この人なら入れても大丈夫、期待できる、これを採用の眼力(認識力)の高い人に一任して決めている場合が多いと思います。

このとき生じる「もったいない」は、採用する側の方が強く意識していると思います。

とすれば、「もったいない」に答えられる人がどちらの立場に立っても必要な人と言えるのかもしれません。




佐藤英幸
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単なるまったり集団収束に可能性はあるのか?

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback
サロンにて話す中で、親元収束って本源集団再生の基盤となりうるのか?という話になりました。親元収束・仲間収束etc...って、まったりとした共認充足はあるんだろうなぁ~とは思いますが、果たしてそこに可能性はあるのでしょうか??

本源集団とは、一見共認充足に溢れるまったりとした集団であるかのごとくイメージしてしまいますが、それは闘争と生殖を包摂したあくまで“闘争集団”なのです。

それが、現在みられる親元収束に代表されるような、単なるまったりとした集団では、決定的に欠落しています。

私権の強制圧力が衰弱し、今まで抑圧されていた、人類の生命源ともいうべき根源的な、親和共認充足・仲間共認充足への可能性が開かれました。
しかし、それは“社会を統合する”という課題共認なしでは、突破口は開かれないのだと確信しました。




久保田彰子 
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社会実情データ図録「フリーター数・ニート数の推移」より

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
リンク
上記サイトデーターから、以下の視点にて分析しました。

1.内閣府発表データーが2001年以降止まっているのは何で?

2001年は、中央省庁再編による内閣府の新設、そして小泉政権発足の年。よって、ここで発表されたデーターは過去値を遡って計上されたデーターであり、内閣府による政策戦略の一環であった事は容易に想像できる。
ここでの内閣府による「フリーター」の定義は、若年人口(15~34歳)の内、正社員になりたくない人も含めている点において、厚生省の定義とは異なる。2001年データー(平成15年国民生活白書:2003年5月末発表)によると、フリーター数417万人という数字に大きな関心が集まった。

しかし、その後もフリーターの数は増え続けており、官邸~内閣府の行ってきた政策が実質なんの成果も出せていない事は明らか。実績どころか、無駄な施設投資や過保護支援策を続けてきた結果、社会は益々不活力な若者の増加へと向っている。実績を証明できないデーターは、発表もされない、という事か?


2.内閣府定義と厚生労働省定義の違いに意味はあるか?

厚生労働省定義:フリーターという立場を選択している人(正社員になりたくない人)
内閣府定義:フリーターにならざるを得ない立場の人(正社員になれない人)を含む
(就業者としてパート・アルバイト・派遣・契約等も含む)

フリーター数:厚生労働省201万人(2005年)、内閣府417万人(2001年)。

まず、正社員になりたくない人の数は、10年で倍増。

同じく、正社員になりたくてもなれない人の数を含めても、10年で倍増。

上記の定義の違いは、一見大きな違いの様に見えるが、根本的には同じ。

        正社員になりたくない⇒自分の好きな事をやりたい
私権の終焉 ⇒ (私権企業では活力が出ない)
        なりたくてもなれない⇒やりたい事が見つからない
                   or好きな仕事が無い

※上記構造のように、私権では活力の出ない若者像の姿が読み取れるが、417万人という数は、実際の若年層のうち9人に1人(12.2%)。9人中8人は、まともに役割収束(社会収束)しており、フリーター増の背後とは単なる自己中の増加とも見て取れる。

3.フリーター・ニートの根本的な問題点とその解決策は?

上記1でも述べたように、政策は相変わらず市場拡大路線であり、生産力低下に対する危機感と、無駄な税金活用によるばら撒き政策でのGDP上昇という旧観念に縛られ、全く若年層の活力を引き出せていない。しかしながら、ニート・フリーターの就労支援策は様々な形で行われており、社会保障費(生活保護費)増による財政圧迫とは裏腹に、過保護な囲い込みの中で相変わらずまともに働こうとしない若者(特に後期若年層)がフリーター・ニート生活を続けている。
さらには、非就業、非求職、非通学、非家事という4つの非で定義される「若年無業者≒ニート」も64万~85万人で推移しているが、そもそも何の役割を担わなくとも生きて行ける状況を作り出している家庭の姿が背後にあり、国家政策と家庭による、2重の過保護空間による自己中の温存こそが、根本問題である。

しかしながら、厚生省データーによると2003年以降フリーター数は若干ながら減少傾向。これは、目先の不安や見通しの経たない将来不安からの脱出現象としての役割収束の始まりと見て取る事も出来る。15歳ともなれば、昔であればとっくに社会的役割を担い始めていた世代でもあり、半人前でありながらも社会に出る事が可能な年齢であった。しかし、積極的に社会に出て行くだけの圧力が形成されていない事が本質問題であり、無圧力である限りは無活力、という当然の結果が続いているのが現状。

今の時代、徹底的に不足しているのは「外圧」の形成。私権の終焉から、共認圧力の形成へと可能性収束のシフトチェンジを促し、2重の囲い込みから脱出、自らが「期待圧力」の形成とみんな期待への「応合」による役割充足を得られる当事者として、社会形成(統合)への参加へと導く事が解決策となるのではないだろうか。



川井孝浩
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ニートの長期的推移(社会的ニートの増加?)

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback
まず、ニートは増えているのか?

平成17年版の労働経済白書において、「非労働力人口で家事も通学もしていない若者(15~34歳)」をニートとして算出している(リンク)。
このデータから、全人口(15~34歳)に対するニートの比率(%)を算出すると以下のようになる。

「年代」「ニート」「無回答」 「ニート+無回答」
1980年: 0.8, (0.2) ⇒  <0.9>
1985年: 0.8, (0.2) ⇒  <1.0>
1990年: 0.7, (0.5) ⇒  <1.2>
1995年: 0.8, (0.6) ⇒  <1.4>
2000年: 2.2, (2.1) ⇒  <4.2>
2005年: 1.3, (4.2) ⇒  <5.4>

ニートの比率は、2000年の2.2%をピークに減少している。
ところが、このデータ中で気になるのが「労働力状態不詳」(=無回答)で、この比率を上記( )内に示した。
仮に、この労働力状態不明をニートに加算してみると< >内の数値となる。
2005年には減少ではなく、増加していることになる。
これをどう見るか?
もとの数値よりも実感に近い様な気がしてならない。

このデータは国勢調査を集計したものであるが、国勢調査は、今、自分の所属する国がどのような常態にあるか?を知る調査であり、社会を対象としていれば、高確率で調査に協力するであろう。
(現に、「無回答」は1995年まで、0.6%と少ないが、ニートの増加と同時に2000年には、2.1%と急増している=ほぼニートと同じ推移)

「国勢(=社会)などはどうでも良い=社会的ニート」と判定しても強ちずれていないのではなかろうか?
この推論が正しいとすると、国勢調査の結果に反して、実際のニート人口は増加していると考えられる。
ニート、フリーターは労働活力の潮流を捉える上で興味ある現象です。
関連するデータが見つかれば是非、この板に投稿して頂きたい。


斎藤一浩
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生きるって何?と考えることは自己中のはじまり

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
生きるって何? 

 と考えることは、まず「生きている」状態が当たり前に存在しているという前提で成立している。

 しかし、実際には、世の中のあらゆる人達が、それぞれの役割を果たしてくれているからこそ、日々の生活に必要な衣・食・住が与えられ、生きていくことが出来るのである。

 つまり、私達は「生きている」のではなく、周りに「生かされている」のである。

ところが、「生きている」と考えた途端、「どう生きるか?」という思考に陥り、自分探しに見られるような自分のことばかり考えてしまう自己中になってしまう。そうすると、当然共認非充足状態となり、活力が出ず、「生きるって何?」と悩みつづけることになる。

   生きている→自己中→共認非充足→活力▽→生きるって何?
 
 一方、「周りに生かされいる」と考えると、自然に周りへの感謝の念が生まれ、誰かの役に立ちたいと考えるようになる。その想いが集まって、課題が生まれ、役割を担い、評価を共に認め合うこと(周りに認められない評価を得てもつまらない)が出来れば、共認充足が得られ、新たな活力が生まれる。その循環で人は周りに「活かされていく」。

   生かされる→役に立ちたい→共認充足→活力△→活かされる



加藤弘行
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若者がすぐ会社を辞めてしまうのは?

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
>それでも'90年頃までは、根本規範や序列規範を残していた親や仲間に対象同一性を見出していました。(74917)

そして、’90年頃以降、同化すべき対象や社会的規範を失った結果、新たな同化対象が不可欠となるが・・・

①親和不全が強いタイプは、自己攻撃から母親(+母親からの幻想期待)への同化収束を強め、仲間や現実の圧力への同化は表層レベルに留まる。結果、会社に入っても、現実の圧力に耐えられず、成果を出すことができない。
また、母親の期待に応えられていないことへの自己攻撃から、更に母親への同化収束を強める(悪循環)と共に、うつ、引きこもり・・・やがては体調不良に陥り、会社を辞めてしまう。
⇒そして、最期に残された親元へ収束することで、更に活力を衰弱させてしまう。

②親和不全の度合いがまだ小さい場合は、同化対象不在⇒適応欠乏⇒潜在思念に導かれ、母親の囲い込みを突破し、仲間⇒みんなへの同化を試みる。そこから新たな役割探索に向かえた場合は、活力が上昇すると共に、魅力の感じられない会社(私権企業)を辞めてしまう。
⇒この場合は、仲間⇒みんなとの共認充足を活力源に、更なる社会的役割探索に向かう。(ex.仲間と起業)

つまり、私権の終焉に伴う対象同一性の喪失に際し、“若者がすぐに会社を辞める”のは、親和不全から母親への同化収束を強めた場合(⇒活力衰弱し親元収束)と、適応不全に導かれて仲間⇒みんな収束⇒役割収束(⇒活力上昇)した場合の、正反対のケースが考えられる。



越見源
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共認非充足→自己虫は「わかって!認めて!」の塊

Posted by ななし on 06.2016 記事 1 comments 0 trackback
共認非充足(126930参照)の子どもが、そのまま学校に入るとどうなるか?
作文のテーマは「将来何になりたいか?」テストの問題は「あなた(自分)の考えを述べなさい」クラブや習い事で「やりたいことを見つけなさい」etc.いきなり『自分』のことばかり考えさせられる。
これは無茶だと思います。

人類本能の内識機能は、身体内部の一部の機関の欠乏や充足状況を察知する能力を備えていますが、上記のような問いに答えるために必要となる『自分総体』を認識するような能力は備えていません。
人間は第二の本能たる共認機能≒対象への同化機能を使うことによって初めて『相手が認識している自分』を認知・対象化し得るのです。
(先の問いに当てはめれば、「(先生も含め)周りが何になって欲しいと“期待”しているか」を探り当てて初めて、「自分が将来何になりたいか?」がわかるということ。)
要は、『自分のことは自分が一番よく“わからない”』のが当たり前なのです。

ここで、「共認非充足」ということは、この同化≒共認回路が十全に発育していないということでもあるので、「相手の期待がわかる」どころか、同化対象も獲得できていない可能性があります。
そういう状況で上記のような発問に答えを強制されるとどうなるか?
己の頭(架空観念世界)の中だけに『なりたい自分』を捏造するしかなくなるのだと思います。

こうして“周りが認めていない”から捏造せざるを得なかった『なりたい自分』だからこそ、周りに「わかって!認めて!」と発信する自己虫姫(王子)になるしかなかったのです。
(過保護の温室空間はそれを追認する共犯者たちの隠れ家です)

肝心の共認充足を与えずに、「あるべき自分」だとか「かけがえのない自分」だとかいう(捏造させた架空の)『重荷』を子供に押し付けていた【自己虫=真犯人】は、親や教師=我々大人であるという事実を真摯に受け止める必要があります。



平野令
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そもそも、性格って何?そんなに確固たるものなの?

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback

>外圧に適応できるというのは、たしかに能力の一つではある。だが、外圧に適応すること=性格を変えることになるというわけではないような気もしますが…。124782

性格(=『自分』ってことと捉えます)を変えるとは、それほど難しいことでは無いと思います。なぜなら、自分っていうのは、まわりのみんなによって作られているからです。

 例えば、会社の上長に対する対応、会社の取引先に対する対応、同僚・先輩・後輩に対する対応、家族に対する対応・・・、全て異なるはずです。
 会社では、毅然たる振る舞いをしている女性が、恋人の前では甘えん坊になる、ということはよくある話です。

 それって、つまり、外圧によって自分が形成されているってことでしょ。取引先に、会社の後輩に対するような対応をすれば、すぐに淘汰されちゃいますからね。無意識のうちに人間は、外圧に適応しているのです。

 性格が変わる要因って、ほかに何かありますか?性格(=自分?)を変えたいと思えば、まわりを注視→まわりの欠乏をキャッチすること。それほど、こだわることではないと、思うのですが。



ハリケーンミキサー
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「やりたい」ことという言葉

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
今日、「やりたいことが見つからないのは、何で?」をみんなで話した。
やりたいことが見つからないのは→活力がないから
活力がある人は→やりたいことが見つかっているからではなくて、「やりたいこと」という言葉を必要としてない→「やりたいこと」という言葉は活力が無い人にしか当てはまらない言葉
「やりたいこと」という言葉は人間に必要な言葉ではなくて、矛盾を多く孕んだ言葉。



匿名希望
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『生きる=対象同一性の獲得⇒充足キャパの広がり』

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
半年程前、この方程式に気付いてから、毎日このことを考えながら過ごしています。

対象があってこそ初めて自分の存在価値が生まれる。「生かされている」という感覚です。
もっと言うと「生きる」とは「充足できるキャパ(許容量)を拡げること」であると思います。

私は幼い頃から『母の存在こそが世界の全て』と疑いも無く思っていた。(疑うことがあっても捨象していた)すべての価値判断軸は母にあり、母を喜ばせること=自分の生きる意味だと信じていた。母の望む習い事をし、母の好む服を着て、母の好きな物を好きだと言えないのは嫌だった。例えばお菓子を作っても、母が食べて喜んでもらわなくては充足できなかった。(勝手に姉が食べてしまい泣いて怒ったこともありました(^^;))
つまりその頃(といっても一年前)は『充足キャパ』は母と自分のみで構成されていた。

なんで屋と知り合って1年4ヶ月。私にとってこの16ヶ月が人生の大転換期であったようです。

ここ一年で驚くほど視野が拡がり、『○○に喜んでほしい』と対象を一点に絞ることをしなくなりました。
母さえ喜んでくれれば・・・と思っていたお菓子作りは、今は『欲しがる人にあげる⇒喜んでもらう⇒嬉しい』と非常にシンプルになりました。

そうして過ごす日々でフト気付いたのは『充足キャパの広がり』。

一年前までは『母を充たす=自分を充たす』と、充足する許容量を母と自分だけの2人に限定して、それだけが100%なのだと信じて、一生懸命そこだけを埋め続けていたのですが、実際にはそんなのは全体の数%でしかありませんでした。

その充足キャパの残りの90数%(つまり母と自分以外の部分)はというと、友達、露店仲間、職場の人間・・・と沢山の人で構成されています。
そこが充たされれば、同時に自分が充たされることに繋がる。そして対象が広がれば、それだけキャパは大きく成長していく。

この4月から社会人となり、世界が広がったことでその充足キャパの無限性を感じました。私は歯科技工所(入れ歯や銀歯を作る場所)で働いているのですが、出来あがった技工物によって、患者さんだけではなくその患者さんの笑顔を見た歯科医や、本人の家族・友人も充たされる。

私が充たすことで、充たされてくれる。
また、相手が充たされてくれたことで、充たされる。

そう思うと対象化できない人なんていないんですね(*^ー^*)

対象を広げた分だけキャパが広がるのであれば、やったことの無い仕事や「自分にはムリ!」と思えた仕事でも『これができるようになったら、その先でどれだけの人が喜んでくれる?』と考えれば、活力に繋がりますし、自分の可能性の広がりにも直結していきます。
それに、こう考えるようになってから日々が感トレのようでとても心地良い♪

昔から「生きるって何だ?」と考えつづけ、17歳の時には「人生ってのは日々を消費するだけのモノだ」とすら思っていた人間でした。

毎日色々あるけど、今は日々、充たされています。

充たされてくれるみんな。
充たしてくれるみんな。
みんなみんなありがとう。感謝。↓(_ _*




島田早季
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「私は性格が悪いから・・・」

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
とか、「こんな性格だから仕方ない」などと言って、
自己正当化、開き直り?する人がいる。

性格って、仕方のないものなの?
一生変えられないものなの?
っていうか、性格って何??

そんな疑問が生じた。

>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。また全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。また、外部世界が変化して適応できなくなってくると、新たな可能性(例えば、DNA塩基の組み替えの可能性)へと収束し、新たな可能性(新たな配列)の実現によって進化してゆく。(実現論1_1_01)

人は生きていく中で様々な外圧を受けるが、
その外圧に適応するために可能性に収束する。

「生きる」ということは、ひたすらそれの繰り返し。

その人の「性格」とか、「個性」といったものは、
一日二日で形成されるものではなく、
外圧に適応してきた積み重ねの結晶。

つまり、その人の現在の「性格」というものは、
今までの環境・接してきた人々との関係など、
様々な経験によって形成されたものである。

だったら、これから生きていく中で「性格」は変わっていく筈。
生きる=外圧に適応していくということなのだから。

「性格」を理由に物事から・外圧から逃げようとする人は、
逃げ続けるから、そういう「性格」になるのだと思う。

「性格」や「個性」「自分」などに囚われることなく、
ただ、みんなの期待に、外圧に、真っ直ぐ向き合っていけばいい!
適応するために、可能性に収束していけばいい!!



匿名希望
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