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大学生活はバイトより勉強・資格取得が大事

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback

最近、新聞にこんな記事がありました 
****************************
[新入生調査]大学生活はバイトより勉強・資格取得が大事

「ゆとり世代」はアルバイトより勉強や資格取得が大事――。
東洋大が今春の新入生を対象に行ったアンケート調査からそんな
傾向が浮かんだ。バイトやサークル活動の比重が高かった9年前
の調査結果から一変し、学生気質も様変わりしたようだ
=====中略=====
大学生活で力を入れて取り組みたいことを尋ねた質問(複数回答)
では、1位は勉強で81%と圧倒的に多く、次いで部・サークル
(51%)▽資格取得(49%)▽友人・恋人づくり(45%)
と続き、アルバイトは31%で5位だった。9年前の調査でトッ
プは部・サークル(62%)で、2位がアルバイト(55%)、
次いで勉強(34%)、資格取得(31%)という順。アルバ
イトが下がった一方、勉強と資格取得の人気がぐんと上昇した。
******以上 毎日新聞2006年06月03日**********
リンク


中野さんの投稿を拝読したとき若者を勉強にかりたたているのは
答えのない現代の「不安」が原因の一つかと思いました。



匿名希望
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共認闘争の場の魅力を知らないから、目先収束。

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
共認闘争の場(圧力)から逃げている限り、誰であれ目先収束が必須となる。然し、若者世代は個人主義から仲間第一、更に集団回帰(仕事第一)へと、新たな意識潮流が顕在化し始めて来ている。
 共認闘争の場の魅力が実感できて始めて、課題があって役割に得心する。だから『構造認識』が肉体化されていく。




阿部紘
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繋がり欠乏からの変化

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
>結局、多数派に刻印された異常な共認非充足の状態が、共認充足に先行して人を求める根深い人欠乏を作り出し、人こそが(共認充足に先行する)最高価値であるという空気をも作り出している。25431

人間ウォッチングもメル友も(出会い系サイトも)衰弱しつつある。
つまり社会空間における単なる繋がり欠乏(人収束)は衰弱しつつある。
これは私権の衰弱の結果、自我や警戒心も衰弱し、仲間空間では体感充足(共認充足)が再生され始めた=共認非充足状態の桎梏が外れた結果ではないか、と思われる。
だとすれば、これは、現在の社会収束の潮流が収束不全⇒答えを求めての「みんな探索」へと、より純化し始めた(転換した)という事を意味するのではないだろうか?



北村浩司
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探索→闘争の兆し

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback
 今まで子育てや家庭の問題は「人それぞれ」のことだから踏み込んではいけないような雰囲気があった。
 育児や夫に対する悩みを相談してくる友達は「なんとかして解決したい!」というよりも「ただ愚痴を聞いてほしい、深くは突っ込んで欲しくない」という意識の方が大きそうで、こちらが何か案を出しても「実際育てたこと無いからわかんないでしょ」とか「まぁ人それぞれやししゃあないよね」といって捨象されることも何度かあった。

 でも現在は、人の意見に耳を傾けたり、自分が悩んでいることをブログで発信してみんなの意見を聞こうとしたり、同じ悩みを抱えている人たちでサークルのようなものを作ったりして解決していこうといった動きがみられる。
 男たちに期待しても答えが得られない女たちは、自ら闘争して答えを出そうとしているのだろうか?




今村恵
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社会全体の構造を考えないと、何のために働くのかの答えは出せない  

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
 私は、「何のために働くの?」が分からなくて苦しんでいて、なんで屋を知りました。
 構造認識を知ってから、「社会共認が変わらなくては会社は変わらない。そのためには、今は日常を活力を持って溌剌と生きていること自体が、構造認識の有効性を周囲に伝えることなんだ」と考えて、毎日そのように心がけて生活していました。

 でも、「毎日活力を持って溌剌と働くこと」が金科玉条のようになると、自分の本音と乖離してきて、逆にとても疲れるようになりました。なんで自分がこんなに仕事で疲弊するのか分からないまま疲れるのは、以前と変わりません。
 考えてみると、なんで屋で一旦元気を貰った仲間たちの中にも、やっぱり職場や生活が変わらなくて元気をなくしてしまった人たちが何人かいます。「なんで屋が楽しくてそこで元気が復活したつもりでも、それ以外の場面でこれじゃ、何をやってるんだろう」と感じるようになりました。

 考えてみれば当たり前のことです。いくら職場で自分がニコニコと元気よく振舞ったって、それで全体が上手く変わるほど簡単な問題だったら最初から誰も悩んでいません。

 なんで屋では、お題ボードで言えば「悩み系」とか「共認系」と言われるような問題も扱います。それが取り上げられているのは、本来の真っ当な潜在思念発の実感が蓋をされているから発生する悩みであれば、それを突破口に旧観念無用に気づいてもらうためだと思います。

 だから必要なお題ジャンルなんですが、それだけでは駄目(=現実を変えられない)なんだと思います。それが、私が経験した「ただ充足発信しているだけでは、自家発電の活力で疲れてしまって、会社は何も変わらない」ということなのだと思います。

 「なんのために働いているのか分からない。働いていても、理由が分からない疲労感が圧し掛かる。」という問題は、多分ものすごく深い原因があるのだと思います。私も今までは、「お金の為に働いているから喜びがないんだ」と思っていましたが、それだけでは「資本主義か?社会主義か?」のようなイデオロギーの問題に摩り替わってしまうかも。じゃあ社会主義になれば私は生き生きと働けるの?・・・って想像すると、そんな理由ではない気がするし。

 だからこそ、社会のことを考えないと私の悩みは解決しないんだと思いました!「共認系」の答えで気持ちだけを変えたって、会社組織とか序列構造とかは変えられない。
 「社会のことを考える」とは、「なんで会社はこんな仕組みになったの?」とか「社会の中で、会社ってなぜ存在してるの?」といった、社会全体の成り立っている構造を考えるってことではないかと思います。





匿名希望
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自分もみんなも

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
漠然とした可能性or大きな方向性みたいなものは感じているが、それは、言葉にしたときにいつもズレている気がしていた。
(自分も含めた)周りの誰も、答えを持っていないなァと思っていた。

「答えはみんなの中にある」と思えるようになるには、当たり前だが、答えが出た!という経験が必要なのだ。



西知子
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大学時代の友人で・・・

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
一人だけですが貯まった預金通帳を眺めるのが最大の楽しみって子がいました(大学時代で3~400万ぐらい貯まってたかも)。

でも、ゴリゴリの私権派って感じではなく、「お金を貯めること」を課題化して目先の課題収束してるだけ(とりあえずの収束先が欲しいだけ)って感じでした。



匿名希望
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統合されて始めて・・・

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
私権原理が崩壊し、今日本ではあちこちでガタガタ現象が現れている。新たな統合原理を構築するまで、この収束不全は続きます。「戦争がないから平和」では当然なく、私たちの潜在思念は、統合されて初めて安定(あえて言うなら平和)と捉えているのだと思う。秩序収束こそ根源(73232)。






谷光美紀
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「なぜ、・・・するのか?」と「なぜ、・・・しないといけないのか?」

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
・働くのは、何で?
・就職しないといけないのは、何で?

・勉強するのは、何で?
・勉強しないといけないのは、何で?

子どもからの疑問には大きく分けて2種類あるように感じる。一つは、活力源・充足源を知りたいという意識。もう一方は、(大人世界からの)規範に対する疑問。

上記にあげた「なんで?」も、一見似ているが、求めている「答え」は全く違うように思う。

規範というのは、充足への行動の道標のようなものであり、その規範に従えば、充足→活力が沸いてくるような種類のものであるはず。規範に対する疑問とは、そうはなっていない(充足が感じられないor活力が沸かない)現状に対する不全感の表出であろう。

子ども達の「(活力を維持できる)行動の軸が欲しい」また「その軸をプラスで感じ取りたい」という思いは、自分達の手で一から「規範」を作っていく事でしか実現できないように思う。
 


小暮 勇午
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「叡智」って、外圧に適応していける共認内容や観念内容なんだ!

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
現在私たちを取り巻く外圧はどんどん高まっていっている。だったら、生物としては寿命を短くして世代サイクルを縮め、DNA変異を起こす機会を増やしたほうがいいのでは? どうして、(特に日本は)こんなに長生きなの?

投稿の中に答を見つけました☆

>それよりも、一般に生物がDNAレベルで適応様式を生み出しているのに対して、人類はDNAではなく共認内容や観念内容を組み換えて適応しているという点の方が、はるかに大きな違いであり・・・ (30274『人類はDNAではなく、共認内容や観念内容を組み換えて適応している』)

>H.人間は次の世代の存続と引き換えに死を受け入れることが強いられる。
>I.ヒトだけは何故か老後が存在する。
>J.繁殖する能力を失っていても叡智を持っている老後を迎えたヒトは次世代にそれらの情報を伝えるべく老後が存在すると考えられる。(108617)

なるほど!「生命活動の原理」を現実に見出せました!
さらに『実現論』にはこうも書かれてありました、
>観念機能こそ、DNA進化に替わる新たな進化機能=共認機能の完成形態であると言える。しかし、観念機能がDNA組み替えを超えた新たな進化機能であるという事は、その機能を獲得した人類は、その共認=観念内容によって進化もすれば退化もする可能性を孕むことになる。 (実現論1_6_04)

「叡智」って、"外圧に適応していける"共認内容や観念内容そのものなんだと思った。そして、それを生み出したり、周りや次世代に伝えたりすることが、それこそ老後だけじゃぁなくって、生きてるみんなの"生きる意味"なんですね



匿名希望
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『私的生活』から『類的生活』へ

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
 最近、仕事の成果を規定するのは、消費者やクライアントの劣化判断に対して、正面からそれを指摘し、根底的な課題を逆に提起できるか否かにかかっているのではないかと感じています。特にコンサルタントや教育研修などの意識生産では、特にその点が決定的になってきました。

 一般的に、客先側の担当者たちは会社の既定方針(or上司からの命令)に準じながらも、まずは保身を最優先にますます保守的なスタンスを固め、目先課題の『答え』ばかりを私たちに期待しがちです。その指示(=与件)だけを前提に仕事を進めようものなら、成果不良に陥るだけではなく、相当な確率でトラブルになってしまいます。

 これらの現象はこの2~3年で急に顕著になってきたのですが、仕事場面でも社会不全・収束不全を背景にした未明課題が大半を占めてきた反面、それに逆行するかたちで関係者たちの目先収束も進行し、妙に細かいことばかりに拘るケースや、その問題の立て方や検討手順では絶対に解決に至らないようなケースに頻繁に遭遇するようになってきました。このような目先化した路線に迎合しようものなら、お互いに混迷と疲弊の度を増すばかりですが、仕事を受ける側にも、誰が見ても一目瞭然と言えるほどの実力差が顕在化してきました。

 できるタイプの共通項は、私的不全発から社会不全発の課題意識に軸足が転換していること、だから観念(≒新理論)の必要性や可能性を実感していることなどが107354などで既に明らかにされていますが、意外に重要なのが、対面場面は私的共認や劣化判断のオンパレードになることを深く自覚し、どんな場面でも事実の追求と発信を厭わない、さらに、自分の専門や実績や肩書きに縛られることなく、とりわけ仕事以外の場(ex私生活や家庭or勝手な観念世界)に都合のいい逃げ道を用意していないことも挙げられると思います。

 要するに、所属するカタワ集団やタコツボ集団ごとに時間や活動を線引きしたがる序列時代固有の旧い意識から脱却して、社会変革でも仕事でも(場合によっては私的時間でも)すべての活動が繋がっているという新しい感覚を掴んでいる人ほど、発注者・受託者という立場を超えて、仕事ができる(=周りの期待に応えることができる)ということが鮮明になってきました。時代は間違いなく『社会』という‘24時間365日’の時空間(=類的生活)を顕現させ始めています。この事態は、仕事成果とほぼ比例して、私的生活派(=目先派or守旧派)と類的生活派(=根底派or実現派)という二極化が急速に進行中であることを意味しているようです。あるいは、私的生活とは、本源的な類的生活や活動をカタワ集団ごとに分断させただけの劣化の産物と総括できるかもしれません。



土山惣一郎
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活力の構造はシンプル

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
>対象世界を広げれば、限りなく可能性は拡がるわけで、決して活力衰弱にはなり得ない。つまり、活力が衰弱する時とは、自らが対象世界を狭めている時に他ならない(決して、うまくいってるとか、いってないとかは関係ない)。それを認識できずに、必死で平静を装ったり、過剰に他者を否定したり、あるいは自己否定に甘んじたり。そうやって直面する現実から目を背けてゆく事ほど、辛くてしんどい事はない。107388

全ての生物は外圧をキャッチし、それに対応するために内圧を生み出す。だから捨象している限りは活力が衰弱するのはあたりまえといえばあたりまえ。外圧をつかむこと(無限にある)、それにただ正面から応えること。活力の構造とはとてもシンプルだと改めて感じた。



野田晋一郎 
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答えがないからではなく、答えを出そうとしてないから。

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
現在、場は私権原理から共認原理へと大転換したものの、旧い私権制度が残存し、旧い私権主体も残存しているという二重にズレた状態。

このような状況においては仕事場面においても様々な問題が発生する。
 どうしていいか分からないから部下や周りに押付け⇒管理放置
 うまくいかないから上司や周りを否定視⇒不可能視
 答えがないから不可能視⇒期待封鎖
マイナスが連鎖するばかりで疲弊し、活力衰弱してしまう。

>そこでの供給期待は、闘争に勝つ(=社会的な共認形成や評価が得られる)ための対象情報(分析)や方針などの“答え”の供給期待に収斂していく。そして、“答え”への期待が高まれば高まるほどそれは、“答えを出してくれそうな人”への収束を生むことになる。(101286)

共認原理に転換したことは、すなわち私権原理における考え方ややり方が一切通用しないということである。組織統合も人材育成も成果管理も現業運営も、全ては共認原理に即した手法に塗り替えていかなければならないということ。もちろん個々人の頭の中身も同様である。

しかし皆、どうしていいか分からない。
だから、答えを出してくれそうな人に収束する。これは必然であろう。
問題は、にもかかわらず、いつまでも答えが出せないからではないか。
答えが出せないから、課題が劣化、目先に収束、序列原理に固執、、、

しかし、
上記のように課題はいろんな位相にいくらでもある。
これら全てに一度に答えを出せる人などそうそういるものではない。
にもかかわらず答えが無いから、、、と言うのでは単なるぶら下がりの傍観者ではないか。

問題は答えがないからではなく、答え出そうとしていないからではないか。要するに自分のことばっかり考えて、みんな課題として闘っていないからである。

序列原理から共認原理へ移行するには、「自分発からみんな発」への意味を噛み締め、問いかけながら、目前の課題に深く同化し追求していくことから始まるのだと思う。




衛藤信義
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みんなに向かうか自分に引き篭るか

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
>悩みは常にある。

よく周りからは、「悩みがなさそうでいいね」などと言われるが、

とんでもない!  …いつもおちゃらけているように見えるからだろうか?
とんでもない!! …ただ単に明るく振舞っているだけある。<

心の内を表に出さないようにして、結果的に周りからの評価と自分の評価とのギャップに悶々としてしまう、対人関係の方法論として染み付いているからのか、自分観念がそうさせているのかはまだわからない。

でもただひとつはっきりしてることは「周りは期待してる」ということ。

きっと周りの人が「悩みがなさそうだね」と言うのも、悩んでなさそうと思っているのではなくて、「悩み=不全に真正面から向き合ってなさそう」ということが言いたいんだと思う。「できることなら不全=みんな期待に向き合って欲しい」「共に外圧に向かって充足したい」みんなの発言の奥にはそんな想いが込められているんじゃないでしょうか?

>と、まぁ、これも悩みの種のひとつではあるが、今に始まったことでもなく、長年の付き合いなのでたいしたことではないが。
 
みんなに向かうか自分に引き篭るか、いま分岐点に立たされているんだと感じる。




とみー
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共認集団の圧力構造は下から上「もう誤魔化しは許されない」

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
旧来の序列集団であろうと、共認集団であろうと、ヒエラルキーは必ず存在する。ここで、序列集団と共認集団違いは何かを考えたとき、集団内の圧力構造が180度異なるという点が思い浮かぶ。

序列集団では当然上からの圧力が中心になる。だからこそ、下のものは反発心(自我)をバネに活動する状況が散見される。(当然活力はあがらない)
一方、共認集団では圧力源は下から上への「答え欠乏」という形でかけられる。そこでも答えが出せなければ当然さらに上位者へと「答え欠乏」の圧力が塗り重ねられる。

ここでもしも、答えを出せない上司が、己の評価・保身のために部下の疑問を序列で封鎖する、あるいは誤魔化してしまった場合どうなるだろうか?

例えば部下から疑問が出る。「~はなんでですか?」。特に新人であれば、答え欠乏と同時に私的不全のニュアンスが混じることも多い。
ここで上司が私的不全にのみ反応し、序列にものを言わせて「そんな事もわからないのか!」と封鎖にかかったらどうなるだろうか?
上司がしっかりと答えを持ち、スッキリする形で答えを提示できるのであれば問題ない。しかし、答えが出せないのを誤魔化す為に高圧的な反応を示していたらどうなるだろうか?
あるいは答えを提示せずに、「まあそんな事考えなくてもいいよ」と親和で誤魔化したらどうなるだろうか?
その結果、下からの圧力がかからなくなったらどうなるのだろう?

市場競争は激化し、勝敗が大きくわかれている。このような事態が常態化した集団は崩壊していくのだろう。

上司部下の誤魔化しのやりとりの結果、部下の組織に対する否定意識が肥大していく。その根本が、自らが答えを探索し、答えが出せないが故の不全であるにもかかわらず、簡単に他社否定、集団否定という形に摩り替わってしまう。ここに、今度は部下側の意識構造の問題点がみえてくる。

‘70年以降、長らく思考停止期間が続いていた。かつ旧観念では答えをだせない未明課題が山積している状況である。
年齢や既存の上司部下に関係なく、今後は答えを出せるか否かが真っ当な評価ヒエラルキーとして序列を塗り替えていくことになるのだろう。
ゴマカシを見破る目は今後ますます厳しくなっていく事が予想される。

であるなば、例え高圧的な上からの圧力があったとしても、そこに反応するのではなく、社会の共認圧力(誤魔化しは許さない・答え欠乏)に目を向けて答えていけばいい。上への圧力と下への応望(答えの提示)で期待に応えていけばいい。対面を超えて、ネットで答えを探索し、答えを出していけばいい。圧力と答えの両輪がそろうネット会議の可能性がここにもみてとれる。




匿名希望
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反応「充足」を突き抜け、その先の可能性を掴む

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
 社会人になって、ちょうど2年が経つ。

 学生のときは「やりがいのある仕事がしたい!」と思っていた。実際に仕事をしていく立場になった今、「自分はやりがいのある仕事をしているんだ!」とか、考えることはほとんどない。改めて、「やりがい」「充足感」について考えてみようと思う。

 「誰かに期待された」とか、「誰かに喜んでもらえた」とか、いわゆる反応充足があれば、活力は得られる。そこでがんばって、期待に応えることができれば、やっててよかったなと思う。そこで敢えて言葉にするなら「やりがいがあるな」「充足できたな」という感じだろうか。その成功体験、充足体験は、確かに次へ向かう活力になり得る。自らに与えられる具体的な期待を真っ当に捉え、それに応えることを活力源にするのがまずは第一歩だと思う。

 でも、それだけでは足りない。

 一方で、「期待されてない」「評価されていない」→「だから充足できない、活力が出ない」という人がいる。一見そうかなぁとも思えるが、実は自分を正当化するための言い訳を、勝手に頭の中で作り上げている状態にすぎない。「期待されていないからできません」では、社会ではまったく役に立たないし、その発想はズレている。

>肯定視と否定視を反対語のように捉える等、肯定視という言葉を価値観念的に理解する事例によく出会います。(106501 本田さん)

 「充足」という言葉も、「いいもの(状態)だ」「楽しいもの(状態)だ」という風に価値観念的に捉えてしまいがちだ。だから、うまくいかないときは「充足できていないのだ」となってしまう。しかし、充足感とは「うまくいっているとき・うまくいったとき」にのみ得られるものでは決してない。

 最近思うのは、むしろうまくいかないとき。「何が課題なのか?」「どうすればいいのか?」「どうやって役割を分担するか?」というところが鮮明になったとき、活力が沸いてくるのを強く感じる。それはまさに「課題に向かえている」ことによる「充足感」そのもの。

>やりがいや充足感はただ与えられるのを待っていても得られるものではない。自ら必死になって充足可能性を見出し前進する力も、必要なのかなと思う。(106631 山崎さん)

 僕たちは、「いい」「楽しい」という段階を一歩突き抜けなければならない。「充足」という言葉を、「いい」とか「楽しい」という価値判断的イメージで捉えては、必ずズレが生じることになる。初めは分かりやすい反応充足を基盤にし、成功体験を重ねることが必要だが、そこからいかに見えにくい(が必ず存在する)大きな期待を看取し、闘争課題に向かえるようになるか。これが、僕たち若者に突きつけられた課題ではないかと思う。



矢野悟 
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「自分で考える」って、本当?

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
「自分の考えとは違うがいいたい事はわかる」「自分の考えをしっかり持たないと」「自分の考えがまとまらない」・・・露店では良く聞く言葉です。

ああだこうだ考えている意識は自分でしか自覚できないし、他人には読み取れない。だから考えているのは自分であり、その意識(=考えている中身)は自分の考えである。というのは至極最もなようですが、言い換えればこれは“自問自答”です。

人がなぜ観念機能を獲得し言葉を操るようになったのか?については実現論(実現論1_6_02)に詳しくありますが、思考の原点は現実(外圧)を対象化し、その背後にある意味、構造、法則を掴みとり、現実の課題や問題に答えを出してゆくことにあります。つまり徹頭徹尾対象(外)に向かった意識です。状況認識、分析、構造化、判断、方針、実践・・・思考は常に外向きなのです。

思考は常に対象(職場や学校の現実課題)を捉えた意識のもとでおこなわれます。ですからそれは“自分で考える”のではなく“対象を捉える”ことから始まり“答えを出す”までの過程であって、対象に向かって思考するといった方がしっくりします。そんなとき“自分”という意識はそれを阻害する邪魔にしかならないのではないでしょうか。

と考えると、“自分の考え”というのは対象を見失った単なる“自問自答”であって、現実の課題に対する答えを出せないまま悶々と悩みつづける根本原因なのだといえるでしょう。“自分で考える”ことをやめ、“対象(みんなの意識や課題)を捉え、それに応えでゆくことに意識を収斂させる”ことが何よりも大切であり、悩みからの唯一の脱却方法なのではないでしょうか。4


阿部和雄
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社会(みんな)が人を成長させる。活力は新しい観念(構造認識)によって生まれる。

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日のなんでや劇場では、親元収束と次代の活力源が扱われた。
親元収束、その根本にある密室家庭の問題点について考えてみた。

>'90年以降、対象を失った彼らの親たち(74917)に同化しても当然答えはなく、中身(=対象)のない親の囲いに幽閉されたまま、全く活力の出ない存在となるのは必然です。<(75324)

①密室家庭(親元)とは、社会(みんな)との繋がり(同化)が遮断された、極度の無圧力・対面空間であり、子供の同化能力を閉塞させてしまう。

②密室家庭(親元)には、答え(構造認識)がない。従って、根本の不全感(収束不全)は解消されない。可能性収束できず、活力は衰弱するばかりである。

密室家庭とは、親子という1対1の対面関係。まさにみんな(社会)の目の届かぬところ、みんな(社会)と隔離された空間である。このような空間では、当然、社会(みんな)圧力は作用しない。故、課題はどんどん劣化していく。(そもそも、課題圧力が働かない。)従って、みんなとの期待応望の充足は得られず、活力は衰弱していく一方である。まさに、「活力衰弱の巣窟」といえるのではなうだろうか。

密室家庭で育つ子供たち、そして増えている親元収束する若者たち。
活力再生の鍵はどこにあるのだろうか?

>社会との繋がりの中で子ども達が成長していく(75324)

例えば、上記の農作物販売の事例のように、子供たちは社会と触れることにより実に活き活きとしてくる。まさに、社会(みんな)の中でこそ子供は成長していくのだと感じる。

そして、これは子供たちに限ったことではないのではないか、と気付かされる。

私権原理から共認原理への大転換期である現代、子供も大人も閉鎖した集団(空間)内では答えが見つからない。人は、子供も大人も社会(みんな)の中でこそ成長する(生きる)ことができるのではないだろうか。現代の活力とは、社会(みんな)との同化(対象同一性の確立)によって生まれるのではないだろうか。

また、社会(みんな)との同化=社会共認のためには体感共認を超え、観念(構造認識)が不可欠である。従って、今や、活力は新しい観念(構造認識)によって生まれるといえるのではないだろうか。

まさに、活力再生の鍵は、社会(みんな)空間と新しい観念(構造認識=答え)が握っているのだと痛感する。


浅見昌良
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親は最後の確かな拠り所?

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback
社会の荒波にもまれる中で、たとえ世間から非難されることになったとしても、親は最後まで味方をしてくれる存在、「最後の確かな拠り所」であるという話を耳にすることもある。

しかし、本当にそうなのだろうか?

> 今の若者の傾向として、仕事などでうまくいかないことがあると、すぐに親元に帰る。これは、親元しか、安心基盤を持っていないということでもある(親⇒仲間⇒社会と対象が拡大すると同時に、安心基盤が拡大していかないことの現われ)。<(福田さん:106838)

心情的には、親は「最後の確かな拠り所」と言われると、違うとは言いにくいのだが、人間の成長過程を考えると、親はあくまでも「最初の(幼少期の)確かな拠り所」なのだ。

探索しても新しい拠り所(収束先)が見つからないからと、親元に目先収束しても閉塞するばかり。
親が最初の拠り所となるのは、最初に期待=応合する相手だからだ。
期待=応合する対象を拡げ、まっとうな同類圧力を生み出すことによって、確かな拠り所は創り出すことができるのだろう。



西村秀彦
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若手に信頼される上司とは、面倒みのよさではなく、自ら課題を突破してみせること。

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback
>いずれも、心を開き出せないが故に疲弊し続け、常に頭の中は「いつかは会社を辞める」という意識が離れない。現実は、再就職の不安等から退職を踏み出せないでいるというのが現状でしょうか?<(105643)

若者が会社を辞める理由を、自分の会社での事例にひきつけて仲間と一緒に考えて見ました。
共通して見えてくるのは相談できる上司がいない(=上司との信頼関係の欠如)、自分の技術の高度化の実感がない(=先行き不安)、やっている仕事の目的が不明なままの場当たり的な配置などなど・・・。

逆に活力を持って仕事をやれたときの事例も話し合ってみると、難課題ではあってもその位置づけが明確で、方針をみんなで打ち合わせすることが出来た時(課題共認)、その方針に沿ってやるのだから、ダメだった場合もみんなの責任であり、自分だけに責任が押し付けれない安心感から、まっすぐ課題に立ち向かえる。(=素直な期待応望)
そうやって課題に取り組み、成功したときは充足感が高い!自らも成功体験によって技術も身に付いたという実感も沸く。技術の高度化は現業の圧力の中から身に付く。

となると、結局は会社を辞める理由とは、突き詰めると課題が不明、しかしやらねばならないという(潜在的な)序列圧力、そんな不安を解消してくれる相手がいないという共認不全からくる期待封鎖(上司への不信感)という事ではないでしょうか。

迎合的な面倒見のよさよりも、むしろ厳しくてもいい。自ら先頭にたって課題を突破してみせるくらいの上司の背中を見ることで信頼感を抱き、若手からも期待が発せられる。そして自分の不安も素直に相談できる。不安を聞いてもらえるだけでも、解決の方針が出なかったとしても、上司も一緒に考えてくれた末の方針であるならば、これで自分も頑張ってみようと思う。そこには文字通り序列に基づく押し付けは存在しない。(少しでも押し付けを感じれば、その時点で相談できる相手ではなくなる)

会社というのは紛れもなく「闘争の場」である。だから、その会社で頑張りたいと活力が沸くには、そこで”自分のやりがい”などが見つかるとか言うことではなく、闘争共認を結べる環境が作れているかどうかだと思う。それが出来ているならば、お互いが相手に期待し、それに応えたいという活力が沸くのではないでしょうか。



佐藤晴彦
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「理想と現実のギャップ」では可能性に向えない

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
目先収束の一事例として、役に立ちたいとの思いから福祉施設で働きだしたが、老人から役割を奪い痴呆を進行させる実態やまだまだ私権体質の残る職場環境に、活力ダウンし閉塞していく若者が挙げられる。(参照76737)

このような状況を、つい私達は(より分かりやすくするつもりで)「理想と現実のギャップ」と捉えてしまいがちだ。一見、「福祉は絶対必要とされる良いこと!」みたいな思い込み(観念)だけで飛びついてしまう目先収束の様が、なんとなく頭の中だけで描かれる"理想"とイメージが重なるからかもしれない。

しかし、そうではない。
今や、「役に立ちたい」意識は"理想"ではないし、「序列や私権体質の職場」ももはや"現実"ではない。(85362) そう捉えているからこそ、むしろ突破できず、再破綻するのだ。

「みんなの役に立ちたい」そして「評価されたい」という思いこそ、共認原理に転換した今を生きる私達の根底の欠乏=潜在思念であり、それを阻んでいるのが、現実に残存する私権体制や己の頭の中の旧観念である。

>人々(≒個人)の意識レベルでは、潜在思念には収束不全・統合不全がどんどん蓄積されながらも、社会の当事者として考える場を統合階級に牛耳られ、顕在意識は旧観念に蓋をされて、真っ当に観念機能を使うことをせず課題捨象の充足基調へ、そして無難収束から資格・結婚・親子など既存秩序に縋る目先の秩序収束へと流れてきました。そして、それら目先収束の流れは現在、必然的に再閉塞・再破綻に向かっています。85391

この状況認識こそが可能性。
これにとことん同化し、吸収しなければ、露店で何の可能性も示せないと思う。「理想と現実のギャップ」という旧い観念フレームでは、突破できない。

反省を込めて、そう思う。
98019 『分かり易い言葉=誤魔化しの言葉』
 





谷光美紀 
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RE:共認圧力は働かなかった。

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback
>僕は、反応が欲しかった。
だからるいネットに投稿したのに、残念です。

と、書かれていたので、反応します。
なにがあったか詳細は分かりませんが、こんな短期間(三日間)に少ない投稿(この件に関して反応を求めたのは一投稿)で共認圧力を期待されても困ります。もう少し課題追究の材料と応合の時間をください。

昨年末に、現業に立ち向かうにはどうしたら良いか?という投稿がありました。宮島さんをはじめ数多くの投稿がありました。言い換えれば反応がありました。

ここで私は「数多くの」と表現しましたが、実数は数投稿に過ぎません。それなのになんで「数多くの」と感じるかというと、るいネットのみんなは、数ヶ月から数年の認識形成をしてきた仲間だからです。それだけではありません。みんなはそれぞれに知人などにアクションを起こしていると感じられるからです。私の年齢は40歳代ですが、40年のうちに、構造認識未満の状況認識でさえ、マジ話できた人がるいネットのほかに何人いたのかを振り返ることさえ恐くなるほど少人数です。

塾をしているので生徒さんたちとはその場にいる限り、卒業してもいわゆる心か情報が繋がっている限り、認識形成ができますが、彼らを除く対象としてのマジ話相手の人数は非常に少なかったと言えます。それは、実は、相手にとってもそうだったはずです。寂しい思いをさせてきたかもしれない。

ところが、るいネットに参加してからは、田野さんが、加藤さんが、阪本さんが、吉国さんが、雪竹さんが、というふうにここに書ききれないほどお馴染みの名前が数多くできて、私の身近な対象に共認されていくに従って、私を共認媒体としてですが、マジ話仲間の自信にも繋がっていると思います。

投稿ポイントの上位者でさえもときとして悩みを打ち明ける投稿をします。すぐに反応があることもあればないこともあります。でも、読者数などで数十名から数百名の仲間の読了を感じたとき、逆にまだまだ共認して答えを出していく余地がたくさん残っている、いや課題は増えている無数にあると感じて、密度の高さを確信するのです。

私の場合そのような参加姿勢でやってきて昨年暮れあたりから志水さんのお名前が(私の記憶)リストの中に入ってきたと表現させていただきます。私は作家や評論家の名前を覚えるのが得意ではありません。はっきりいって、苦手です。しかし、るいネットの投稿とセットでここでは名前が覚えられるのです。

私は志水さんがうらやましい。なんでかというと、なんでや露店に参加できるからです。そのうらやましさを初めて感じたのは、なんでや露店が始まる前の時点で、「劇場」や「会議」を一目みたいという思いが数年続いています。

この春、「劇場」、「会議」、「露店」に一度も出向かないまま、塾を地域の共認形成の場(or共認媒体の場)にするという試みに挑戦してみることになりました。すぐに期待通りの場になるにせよならないにせよ、勉強の必要を強く感じてみんなの場に弟子の弟子として加えていただく可能(必要)性が高いと予測しています。

いつも悩むのは何で?私の場合これまでに述べさせていただいたように極めて具体的な参加欠乏です。分かっているならやらなければならないというレベルまで内圧が上がっているわけです。

志水さんの場合も露店をもっと良くしたい、るいネットの特に反応欠乏をなんとかしたい、と具体的な課題を持っていられるわけですから、内圧が高まり投稿されたのだと推察します。内圧が高くなってるということでお互い共通ですね。

そしてもう一つ共通点があります。参加欠乏にしても、反応欠乏にしても、自分が参加し、自分が反応しなければ、期待だけすることはできても、応合できていないということです。期待は相手が何かしてくれることをただ待つ身(受身)ですが、応合は能動です。女の子の中にも食事会等でなんか違うと思って発信したコがいたのを覚えていられますか?みんななんか違和感があるんじゃない?というみんなの潜在思念への応合でした。あれをずっと我慢しているといつまでも悩むことになります。

だから、志水さんの投稿も同じで、けっして自己の不全発ばかりではないと思う。私の参加欠乏もそう。現在の仲間のためにも、これから参加する人のためにも、るいネットに開き出しておくことの重要性はみんな知っているから安心して。

まずは、読んで、投稿して、参加して、というみんなの期待に応合しようよ。同じような悩みを持っている人が投稿しやすいように、自分が投稿しようよ。



佐藤英幸
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求められるのは活力上昇スパイラルの仕組み

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
>では、なぜ今のバイトにはやりがいを感じているのに、就職先としては選択しないのでしょうか?(105378)

>上司からは期待をかけてもらっているけど、企業からは必要とされていない矛盾を感じる。

>バイトだから楽しいだけで終われるのであって、就職となると、楽しいことばかりではない。

>本人も就職希望なのですが、悩んでいます。なぜ、悩んでいるか聞くと、今は機械的に仕事をしているだけなので、仕事が早いと評価してもらっているが、社員になると、そういうわけにはいかないとのこと。今いち自信が持てなくて躊躇してしまっています。

バイトで感じる「やりがい」や「手応え」は、バイトのメンバーで「課題」を設定(意識)し、それに対して「役割」が自然に発生して、その役割を果たしたかどうかに対する「評価」が新たな課題と共に登場する・・・このようなスパイラルを描きつづけるからだろうと思います。

この評価(とヒエラルキー)は、誰かが(役職などをもって)認定するような類のものではなく、正にバイトのメンバーの共認空間の中で、自然と形成されているのでしょう。

バイトの「楽しさ」とは、このスパイラルの中で、活力が維持・上昇し続けるというところと直結しています。

>バイトにはやりがいを感じているのに、就職先としては選択しない
事を問題だと捉えるなら、
1つには上記のような活力上昇スパイラルの仕組みを、企業側が提示できていない、という部分にあるでしょうし、もう1つには、若者自身が持つ「バイトでの活力上昇の感覚」(=やりがい)と正社員でのそれが繋がっていると感じられないからだと言えます。

フリーターを続ける若者であっても、「バイトでの活力上昇の感覚」を正社員になっても持ちつづけられそうな企業に出会れば、確信を持って就職することになるように思います。



小暮 勇午
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やりがいも自ら作り出してゆける

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
 社会人になって1~2年は、与えられる仕事に対して「えー、こんなの私には無理~!」と思うこともよくあった。でも、「自分には無理と思っても、できると期待されているからこそ任されたはず、上司を信じてやってみるしかない!」と思って、なんとか取り組んできた。自信なんて全然なかったけれど、あえて言うなら「周りからの期待」を自分の力・自信に変えて、必死になって乗り越えてきたように思う。

 いささか強引ではあるけれど、初めての仕事も苦手な仕事も、私はこうやってやりがいのある仕事に転換させてきた。何であれ一つ乗り越えられたら、次第に「できた!」の充足感の方が「嫌だ」の拒絶感より勝るようになって、どんな課題に対しても、「何でそれをやる必要があるのかしら。」「どうやったらできるかな?」ということに頭を使えるようになってきた。

 やりがいや充足感はただ与えられるのを待っていても得られるものではない。自ら必死になって充足可能性を見出し前進する力も、必要なのかなと思う。
(充足型の人は、無意識のうち=潜在思念でいつも充足探索しているのだなと感じる。)

 そういう意味では、仕事(課題)を「みんなの期待・社会の期待」の結晶物として捉えられる認識や、発信=期待として活力に転換できる認識(105708)はいずれも、日常に充足可能性がたくさんあることを示してくれるし、自分からやりがいを作り出すことを可能にさせる認識なのだと思う。
 少しずつ頭の中を可能性発に切り替えて、もっともっと発信して、ぐんぐん前進していきたい!と今日は思った。



山崎許子
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ダメ観念を否定する。

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback

「なんでうまくいかないんだろう?」「どうにかせねば!」と思いつつも、一歩も前に進めない・・・。

アンテナをはりめぐらせて、捉えた可能性を吟味しはじめた途端、
頭に浮かぶのは、ひたすら否定の意識。
「ムリ。」「あれもダメ。これもダメ。」

期待をかけてくれる仲間に対しては
「アイツはオレの置かれている状況をわかってない。それじゃあ答えにならない・・。」

そのまま時間が過ぎていってしまう。結局何もしていないのと一緒。自分にこだわって、勝手に自分で自分を評価している。
(まわりから見たらウジウジ考えているようにしか見えないんだろうなあ・・・。)

>自信がもてないのも、場に身をゆだねられないのも、自分のなかでぐるぐるくすぶっている旧観念のせい。 (106082)

しかし、この原因は旧観念のせいなのだろうか?

>共認への認識パラダイムを真に転換するには、たとえ頭では旧観念は役に立たないと認識していても、現実否定や不可能視の旧い思考回路に(無自覚に)囚われていることに気づく必要があります。(106325)

これを読んでなるほどな・・・。と思った。
旧観念というよりダメ観念か。現実を否定しているという点では一緒で、要するに旧い。
旧いと淘汰される。

>恥じもプライドも捨てて、『男=自分自身は行き詰まっている(イケてない)』ことをみなにオープンにし、男同士共認し合って初めて、男共認=闘争基盤が出来るのではないか。 (106273)

>上昇ベクトルの中で、相変わらず「自分」に拘るようであれば、あとは淘汰されるしかないのだと思います。(106081)

「-」評価を都合よく否定しておいて、自分でゆるーい「-」評価を下しているようでは、ダメ観念どころか正真正銘のダメになってしまう。

ダメ観念を否定するということは、おそらくダメな自分もダメではない自分も開きだしてまわりに評価を委ねる。という事。

「+」評価は追及の武器に。「-」評価は進化の可能性に。

そのとき僕らが拘り続けている“自分”は溶解する。まずはそこらへんが第一歩だろう。



ヘッドフォン
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現在の市場の姿(注目幻想では?)

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
ITの寵児であるライブドアが粉飾決算で一気に評価を落としました。フタを開けてみれば非常に脆弱な体質でグループの離反もかなり起きているようです。
しかし、そもそも一体なぜ、急成長できたのでしょうか? その背景は何なのでしょうか?

ライブドアに限らず1T関連やファンドなど市場の世界で急成長する企業には共通項があります。
市場の裏をかいた騙しの戦術で株価格を吊り上げて利益と資産を得るという点です。「こういう戦術は健全な市場にとっては望ましくない」とか、「倫理が必要」とか言われていますが、以下の投稿から市場というものの形成過程を見れば、これは望ましくないのではなく、この「騙し」こそが市場の正統な?継承者であり本道である、従って(他の産業が成長できない中で)大きな成長を遂げることができたのだと考えられます。

>市場の真の起源は、私権闘争の抜け道としての、快美幻想の共認、もっとはっきり言えば「騙し」をテコとする私益行為以外には考えられない。(30709)

加えて重要なのは幻想の変化です。
かつては(バブルの頃までは)幻想を抱かせるものは食品や衣類や建物などの商品(高級品)であり、それは性幻想や快美幻想を掻き立てる物財だった訳ですが、現在のライブドアに着目すれば、それら物財に替わって、大衆の「注目」に置き換わっている事がわかります。(実態はマスコミへの露出による幻想:何かをやってくれそうな堀江に注目が集まる、これはかつての小泉と同じ)

70以降物的需要が衰退し、さらに90年代にその延長線にある高級品(快美幻想、性幻想)需要も衰退しました。そして現在、市場は(幻想)注目によって動いています。
現在の「(幻想)注目」がライブドア成長の背景になっていたと考えられます。

さらに掘り下げてみると、堀江氏への「注目」の背景には若者世代を中心とした変革期待、世直し期待があり、これがマスコミによって堀江氏に注目があつまる仕掛けになっていた事がわかります。 もし仮に、マスコミの影響がなかったら、大衆の変革期待、世直し期待は堀江氏へ向かうのではなく、自ら当事者として変革の答探索に向かうしかなかったはずです。
おそらく今後、マスコミを通じて第2第3の堀江が現れては消えていく事になると思われますが、それにつれて、大衆のマスコミ不信と当事者としての答え探索意識は高まっていくに違いありません。

そこで、改めて今後の市場を考えると、結局この(変革期待⇒)答え探索意識こそが今後の大きな需要になりうる可能性を持っており、もしこの需要が生起すれば市場は(幻想から本物へと)大きく姿を変える事になります。
その可能性は、中身のある答えを供給できるかどうか? に掛かっており、その答えの供給者が生まれていくかどうか? によって市場はそのまま閉塞or破綻に向かうのか?再生するのかが決まるのだと思います。




田村正道
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心を開かせるためには構造認識の習得が不可欠

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
遅刻やミス等、仕事上の失敗のほとんどは、その根本原因は各自おぼろげながらも分かっている事が多いのではないでしょうか?しかし、各人の成長過程で染み付いた価値観念や成功パターンにしがみついて、本当の原因に蓋をしてしまっている。それを誰にも開き出せないでいる。

「心を開く」とは、事実を開き出す事、そして、心を開くことで求めていることは、うまく行かない原因になっている価値観念を、誰かにバッサリと切り裂いて欲しいというところにあるのではないでしょうか?

しかし、「心を開く」にしても、相手に自分に対する否定視が感じ取れれば当然開き出すことはできない。相手がなんらかの価値観念に収束していて、「いい・悪い」だけで判断を下すような相手では心を開き出すことはできない。「次はがんばれ」「そんな時もあるさ」といった、ごまかしの親和共認では、自分自身がなんとなくではあっても捉えているゴマカシの部分さえ開き出せずに流れてしまうため、当然根本解決にはならない。

いずれも、心を開き出せないが故に疲弊し続け、常に頭の中は「いつかは会社を辞める」という意識が離れない。現実は、再就職の不安等から退職を踏み出せないでいるというのが現状でしょうか?

実際に3年以内に離職するのが、中卒・高卒・大卒で7・5・3とよく言われていますが、潜在的な退職希望率は遥かに高いのではないかと感じます。

活力ある会社、成果を出せる会社、魅力的な会社に求められる条件に、「心を開き出せる会社」という要素があるのではないかと感じますが、そのためには、うまくいかない原因、事実を開き出し、その根底にある自分観念や理想像を切り、可能性を提示できる成員がいるかどうかにかかっているように思います。そのためにも、各成員の構造認識の習得は必須条件ではないかと思っています。



KOU
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肩書きとしての‘個性’が「自分って何?」という観念閉塞を生み出す

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「自分って何?生きるって何?が問題になるのはどんな時か?」→「就職活動、仲間関係等、なんであれうまくいかないときに自分って何?と考えてしまうのでは?」

「自分って何?生きるって何?」を扱った先日のなんでや劇場の導入の議論である。しかし、劇場中及びその後の勉強店での皆さんの発言を聴きながら考えてしまった。「うまくいかないから‘自分って何?’と考える」のか、「‘自分って何?’と考えるからうまくいかない」のか?一体どっちだ?

確かに、うまくいかなくても外圧対象を捉えようとしさえすれば=対象に同化しようとすれば、自分って何?などと何も悩む必要はない。そうすると、「うまくいかないから、自分って何?と考える人」とは「そもそも対象同一性が貧弱でそれだけ自分に拘っている自己中人間」しかし「今は仲間圧力絶対の時代だから自分自分で突っ張りきれない」そこで「自分って何?って考える」というイメージが沸いてくる・・・しかし話を聞いているとそういった負け犬=自己中人間だけが自分って何?と考えている訳でもなさそうである。以下、勉強店でのA君の発言。

「なんか自分って何?って考え始めるのって、石ころに躓いた感じなんですよね。就職活動で‘特技’とか‘資格’とか書かないといけないでしょう?その時に書くことないし、ましてあなたの個性は?って言われても、何を書けばいいか・・そんな時に、自分って何?って考えちゃうんですよ。ほんとそんな些細なことがきっかけなんだけど、考え出すと内向き志向でド壺にはまっちゃうんですよね~」(劇場中もほぼ同様の発言が大学生の女性からもあった)

話を聞いていると、どうも彼らは個性を就職活動において持たねばならない‘資格や肩書きのひとつ’のようなものとして受け止めているようなのである。つまり心底においてもはや私権=自分への執着が低下した(従って履歴書に書けるようなものがない)けれども、収束不全ゆえに「目先の秩序収束」を強める為「肩書きとしての個性」が(履歴書の設問に答えなくてはならないが故に)難問として立ち塞がっているという訳だ。つまり心底において「男女関係」を求める引力が低下していながら、収束不全ゆえに「目先の秩序収束」を強める為「肩書きとしての彼氏・彼女」を求める構造77190と同じなのである。

更にA君曰く「就職って社会を始めて対象化するきっかけじゃないですか。だからそこで問われる社会人からの発問ってすごく意味があるように思えるんですよね。でも社会に入るところで‘個性’っていう石ころが転がってるから躓いちゃうんですよ~」

成る程。彼らは社会収束故に真剣に履歴書やエントリーシートにも取り組む。そしてそこにある旧観念も社会における重要観念として受容しようとする。そして躓くのだ。言い換えれば、若者(の大多数)は決して自己同一性などに拘っている訳ではない。むしろマジメに就職活動に取り組むその深層には社会に対して対象同一性を獲得しようとする意識が働いているとみるべきだ。にも関わらず、そこで使われるコトバが個性→自分→アイデンティティ=自己同一性という誤った旧観念であるが故に観念の閉塞に陥っているということなのだ。(冒頭の疑問に戻って考えるならば、うまくいかないから自分って何?と考えるというよりも、個性や自分を資格や肩書きのように必要な社会への通行手形だと思い込んでいるからうまくいかないのだ!)

>若者は明らかに「みんな」や「仲間」に向かっているのであって、それに対し自分たちの中身の無さを誤魔化す「自分」や「個性」を押し付けるのは、もはや犯罪的である。92892
 



山澤貴志
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「自分って何?」=役割探索

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
>つまり、実感と整合しない自分観念に今の若者の観念が悲鳴を上げ始めている状態だともいえる。非常に危険な状態だ。 (105352末廣さん)

確かに危険な状態だなって思います。
でも考えているうちに、私は可能性も感じました。
私達も確かに「自分って…」とか悩んだ経験があります。多分ほとんどの人が。でも大抵の人はそういう思考になった時orなった後、どういった答えをみつけるのか?
劇場の中の後半(「短絡殺人が増えるのは何で?」)での発言になりますが、“最早、今現在は家族や仲間収束ではなく、更に一歩進んで社会の中での役割に収束している”「自分に適した役割ってなんだろう」「自分にできる事ってなんだろう」って探索に向っている。

だから例え大部分の人が「自分ってなに?」「生きるって何?」って考えたとしても、まっとうに生きている。

つまり「自分って何?」って考えるのは、必ずしも悩んでたり、その結果鬱になったりしてしまうものではなくて(そういう人はきっと少数で)、社会の中で生きていく為に自分の役割を見つけるためのステップ=課題として捉えているのではないでしょうか??
「自分ってなに?」=「自分に期待されている役割って何?」ではないでしょうか。

問題は、せっかくのそういった外向きの思考が、答えが無いが故に(残存している自分観念が故に)内ベクトルに変わっていってしまうという事な気がします。





鹿村幸代
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焦りの目先収束の転換点は?

Posted by ななし on 01.2016 記事 1 comments 0 trackback
> 問題は、小泉の詭弁に飛び付く誤魔化しの風潮が、どこまで続くかである。(73071)

構造計算偽装事件、ライブドアショック、そして牛肉輸入の再停止問題と、小泉政治の行く末を暗示するかのような事件が最近立て続けに起こった。週刊誌などでも最近は小泉批判の論調がやや強まってきているように思うし、その中身は注目収束で済む話ではない深刻さを孕んでいる。国会での首相の答弁も、選挙大勝直後の勢いはなく旗色が悪いようだ。

おそらく今、大衆の小泉自身に対する盲目的な収束力は相当衰えているのではないかと思う。しかし、だからといって私権に代わる「答え」がどこからか提示された訳ではない。だから、焦りの適応主体と目先収束の潮流はまだ健在で、次の目先収束先を探しているといったところではないだろうか。むしろ、マスコミを始めとする上記の事件への神経質な反応は一時の収束先を失った焦りが生む、まさに目先的な混乱にも見える。

> 共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。(同上)

今後も、国家破綻や社会矛盾は目白押しでやってくると思われる。'07年団塊定年による年金問題・老人問題の深刻化、外資による国内産業支配の進行、対中外交の悪化・緊張、対米追従の国防シフト。そしてそれらの社会不安を背景とした犯罪や自殺の増加・・・。これらが顕在化してくるのに、そう時間はかからないように思う。

いわば、周りが問題だらけで、もはや焦ることすらできないところまで来てしまえば、大半の庶民の意識は転換を始めるのかも知れない。その転換を可能な限り早く促すこと、そして、その共認形成を土台にして社会構造転換を実現する力を獲得していくことが、これから数年~十数年の共認運動に求められている課題ではないだろうか。



田中素
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