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「自分」の転換

Posted by ななし on 31.2016 記事 1 comments 0 trackback
>しかし、'90年頃以降完全に対象同一性(規範同一性)を失った若者はやりたいこと=役割探しを始めますが、同じく対象を失った彼らの親たち(上の世代)は彼らに語る言葉が無くなったが故に、彼らの行動に対して「自分探し」あるいは「個性」という何の中身もない誤魔化しの言葉を押し付けることになります。実際、自分たちに語るべき中身が何もないことを誤魔化すのに、「自分で考えなさい」「自分の好きなようにしなさい」という言葉ほど便利な言葉はありません。しかし、そのような言葉が蔓延していったということは、彼らが規範や社会との対象同一性を完全に失なったことを意味しているように思います。

先日のなんでや劇場「自分って何?生きるって何?」に参加して、改めて「対象同一性」を失うと言うことが、いかに異常な事態であり、新たな同化対象としての(新たな共認社会における)新規範や新観念の確立が重要であるかを再認識しました。

ちょっと気になって調べてみたのですが、もともと「自分」と言う言葉は、現在のような意味ではなかったようです。
「自分」と言う言葉の古典における使用例は意外に古く、827年の経国集で既に使われています。古典における使い方から判断すると、「自分」の「分」は本分の「分」で、「自分」とは自らの力量をさす言葉、全体・集団=みんなの中における自らの役割と規範を捉えた言葉であったと考えられます。

「自分」とは、「私自身」を意味しながら、同時に集団における役割・規範を示す言葉だった。
つまり、「自分」とは集団や役割・規範の中に存在するものであると言うことを示していた=対象同一性そのものを意味する言葉であったとも言えます。

現在、「自分」と言う言葉の意味は、「他の何物でもない私自身」と言う意味で使われているように思います。
かつて対象同一性そのものを意味していた言葉が、完全に対象と切り離された個人を指し示す言葉となった。
この言葉の意味の転換がいつ起こったのかは正確な情報がありませんが、恐らく個人主義の浸透以後又は対象同一性が失われて以後(70年以降)ではないかと考えられます。

かつては対象同一性を示していた言葉が、個人主義思想によってその意味を180゜転換してしまった。人間の行動を決定する上で観念の力が如何に強いかを示していると思います。

>彼らの行動は「自分探し」ではなく「役割探し」と呼ぶ方が可能性が開かれるだけでなく、新しい規範の構築に結びつくように思います。(74917)

”自分って何?”と言う問いかけや”自分探し”の行動とは、本来「自分」と言う言葉が持っていた、役割探し・規範探し=対象探しなのだと私も感じます。
そしてその求めている対象は、先日のなんでや劇場でも話があったように、親・仲間と言う目の前の対象を越えて、より広く社会に向かっている。

今、若者達が使う「自分」と言う言葉は、「対象から切り離された個人、他の何物でもない私」と言う意味から、本来的な「みんな=社会の中における自分の役割や規範」と言う意味に再度転換し始めているのではないか?と感じています。



西谷文宏 
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学生時代は仲間収束なのに、企業では仲間第一にならないのなんで?

Posted by ななし on 30.2016 記事 1 comments 0 trackback
「学生時代は仲間収束なのに、会社に入るとすぐに辞める」
という現象について考えていた。
学生のときは仲間第一にもかかわらず、
企業に入ってからは仲間(orお客様)に収束しないのか?

その大きな違いは、圧力(課題)の変化ではないだろうか?
学生時代はそれほど大きな成果圧力はかかっていないわけで、
”親和だけ”の仲間収束でもそこそこうまくいく。

しかし、企業に勤めるとそうもいかない。
大きな成果圧力がかかり、「責任」というものも頭をもたげる。
その大きな圧力こそ、たんなる親和・解脱仲間ではない、
本当の意味での仲間を作り上げるものなのだが、
「つらい」「めんどくさい」と逃げてしまうケースも多い。

>比較的若い世代(20代以下)であれば「みんな」という言葉は、実感できる範囲でのごく近い仲間集団を想起していることが多いように感じます。事実、その世代の仲間との繋がり欠乏や親和充足は非常に強いものがあります。

>そして、その強い仲間収束回路は仲間以外を対象とする場合にも使用され、たとえば仕事におけるチームや顧客という闘争過程での対人関係において親和的関係は形成することはできる(むしろ、非常に得意といえる)。ただ、問題は闘争関係における共感や同化をベースにした闘争共認の形成をむしろ阻んでいるのではないかと思われることです。
(105327)

上記投稿にもあるとおり、
学生時代の「仲間第一」は「お客様第一」には転化せず、
「仲良し」「親和第一」をベースにした、
「自分の充足」「自分の評価」を第一にしたものへと変わる。
(そしてそれは限りなく自分第一に近い)

就職という大きな転機を越え、社会に出るときに重要なのは、
「仲間」という小さな枠を取り払い、
いかに大きな「みんな」へと収束していけるか。
その認識転換ではないだろうか。


Lucky
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自分観念が若者の実感と整合していない

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日劇場でちょうど同じテーマをあつかった。そのときに気付いた認識を一つ。

 最早今の若い子は、自分観念とか個性など何の可能性も無い事に、潜在的に気付いているのだと思う。しかし、就職活動やら、進路指導などで急に上から“自分のやりたい事は何だ?”“自己分析はしたか?”といわれ、それに対して拒絶反応を起こしてしまって「自分って何?生きるって何?」となるのだ。

 つまり、実感と整合しない自分観念に今の若者の観念が悲鳴を上げ始めている状態だともいえる。非常に危険な状態だ。



末廣大地
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自己(とその世代への)否定⇒肯定へ

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
前回のなんでや劇場“分かって、構ってってなに?”で世代ごとの意識を扱ったが、私自身非常に納得できた。

私はちょうど30台半ばだが、日常の様々な場面で(私権意識も残ってるけど、仲間意識も上の世代に比べてあるし。本当に自分の世代は中途半端だなぁ)と思う事もしばしばあり、いまいち心の中のモヤモヤが晴れないままだった。

それが今回の劇場で
30歳後半:私権収束⇔仲間収束の綱引き状態
*1970年以降に生まれた35歳以下~は分かって欲しいが明確に出てくる。
(貧困の消滅後に生まれていたから心底、私権収束できない)
と明らかになった。

自身のモヤモヤの中身に言葉が与えられたスッキリ感と、今までの自己(とその世代への)否定が肯定に変わった喜びがあった。

半端なのは解かったから、これから我々がどう進んでいくか。
下の世代と上の世代の橋渡しのきっかけになれるかもしれない。もしなれなくても、怖くはない。
皆に向かえば、何だってできるのだから。

スッと、そう浮かんだ。



小刀 
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いつまでも悩むってことは、その答えが間違っている何よりの証拠

Posted by ななし on 27.2016 記事 1 comments 0 trackback
そもそも、いつまでも悩んでいるってこと自体が、答えが出ていない何よりの証拠。
自分が悩み始めているなと感じたら、その時点で自分が考えた仮説を捨てて、別の原因を探すようにしています。

いつまでも悩み続ける傾向の強い人は、自分で思いついた(思い込んだ)原因にしがみついていて、「原因はなんだと思う?」と聞いても、せいぜい2~3個しか出てこないくらい、思考が狭い(>_<)
人に聞くのが早いけど、自分で考えるにしても、とりあえず10通りくらいの原因を考えてみるのがお薦め(^^)



西知子
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「仕事を通しての成長」と「成長している実感」

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
雑誌を始めとする媒体で、若者を中心に「働く意欲が湧かない」ことが、再び問題になっている。今までは、会社に入社する意志がない事が主に問題にされ、ニートという言葉が生まれた。(会社に入社はしていても、働く意欲が湧かなくなった者を「社内ニート」などと呼び、その中でも働く意欲や目的を失ったまま働き続ける者を「仮面ニート」と呼ぶらしい)

※仮面ニート=本人に働く意欲がない、またはその結果仕事をするうえで必要なスキルを身につけることができないがゆえにやる仕事がなく、仕事を与えてもらえない社内失業状態に置かれていることが多い。

彼らの多くが「仕事(働く事)を通しての成長」を望んでおり、その成長が実感できなくなると、どうしようもない不安に襲われ、その不安から「働く意欲」そのものも失ってしまう。
※実際、ニート世代である若者の多くから「働いて~年目なのに、これくらいの事しか出来ていない」という言葉が出てくる。

企業組織においてこの問題は、「成長している実感をどのように与えるかor作り出していくか」という問題とも言える。しかし、その成長を金に還元しようとすると偏狭な「成果主義」となり、結果的に組織は疲弊していく。成長に応じて「どのようなモノを与えるか」という視点で考えると、閉塞してしまう。

しかし、一方で、「成長している実感」=「より役に立てている感覚」というものは、何かカタチがなければいけない訳ではなく、日常的には日々実感できるものでもある。よって、「『より役に立てている感覚』がなぜ生まれないか」という問題に直面する。

ここで、「働いて~年目なのに、これくらいの事しか出来ていない」という意識はどこから発生するのだろうか?この意識は、逆に取れば、「働いて~年目なのだから、これくらいの事は出来て当たり前」と取れる。少し考えれば、「これくらいの事が分っていれば、~年目としては十分」という意識が底辺にある事に気付く。

しかし、「~年目だから考えなくてもいい問題」などあるのだろうか?実際にはそんなものは存在しないのに、単に自分から「そう思い込んでいるだけ」である。このような状態は、身分序列にぶら下がった「残存する序列意識」とも言えるし、周りへ期待できない(ほぼ同時に応合もしていない)「期待封鎖」と言えるし、何かを実現するのは不可能だと思い込んでいる「実現不可能視」とも言える。

逆に、このような「序列意識」「期待封鎖」「実現不可能視」などがなければ、「成長している実感」=「より役に立てている感覚」は、「より大きな期待に応えようとする」ことから生まれるし、その「応えようとする行動」一つ一つの積み重ねが、まさに「成長」と言える。

企業組織にとっては、この「序列意識」の壁、「期待封鎖」の壁、「実現不可能視」の壁を如何に突破していくか、が(誤魔化しの成果主義ではない)本物の答えを導く事になる。


小暮 勇午
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何のために働くの?

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日、大学3年生の知人から就職活動の相談を受けました。この時期、もう大学では就職活動の説明会も開催されているようで、そこでは内定をもらった先輩達が、就職活動の秘訣を講義することもあるようで、「SPIを徹底的にするべき」「自己分析が絶対的」「SPIよりも作品集作りに注力したほうが良い」「企業研究が重要」etc.意見はバラバラで、何をしたら良いかの判断材料にはならないと言っていました。
 本人は絵を描く事が子供の頃からの特技で、そうした分野で仕事に就きたいと考えているとのこと。しかし、やはり大学の悪しき就活指導の賜物と言うべきか、とことん『自分のやりたい事を実現する』という視点で仕事を考えており、それ故か、「こういう分野で就活してみよう」ということはとりあえず決めてみたけれども、SPIも自己分析も何かやる気しないんだよな~、という感じで、一歩も前に進めない状況にいるようでした。

 会話の端々に「自分の評価」「自分の充足」「自分だけの作品」といったニュアンスが登場し、その為、働くことに対するリアリティーがとことん薄いという印象を受けました。正直聞き苦しい感じがしたし、「就職してから苦労して辞めるパターンかなぁ」という想いでいました。でも、どうにか「自分」の呪縛から脱することができないかと考えあぐねて、思いきって「何のために働くの?何のために仕事するの?」と聞いてみました。

 初めの答えは「お金を稼ぐため」。じゃあお金のためなら何でもするの?「それはいや。」
 そう、昔は食うや食わずの生活で、お金は第一の労働活力たり得たけれども、豊かになった現代にそれが働く理由になり得ないのは当然。じゃああらためて、「何のために働くの?」
 次の答えは「自分のやりたいことをやって、それでお金をもらえたらいいな。」自分の好きなことやるだけでお金が貰えるの?「いや、お客さんがいて、仕事頼まれて、それでお金をもらう。」自分のやりたいように仕事してたら、お客さんからお金が貰えないよね?「お客さんの満足いくものを作って、はじめてお金が貰える。仕事はお客さんの要望に応えて評価してもらうもの。それがないと満足いかない。」じゃぁ、お客さんの言いなりで仕事をするの?お客さんの要望がどう考えてもイマイチでも、やるの?「お客さんの意見だけじゃなく、社会で通用するものになるように、世の中の流行を探って研究することはもちろん、いいものを作れるようお客さんと話し合っていくことも必要。」「まず、お客さんの言葉通りの仕事をするんではなく、本当は何を望んでいるのか、お客さんの背後にある潜在的な期待をつかまないと、喜んでもらえない。」

 そう、仕事ってそういうこと!自分の好きなことをやりぬくんじゃなくて、相手の、社会の期待に応えること!「そういえばバイトでは、そういうこと自然と出来てる。苦手だと思っていた接客業だったけど、今は結構楽しいし。働くってこういうことなのか。」

 仕事は好きなことばっかりじゃないし、そう考えると「我慢」とか「しんどさ」とかマイナスと表裏一体みたいな感じになるけれど、そこは180度認識転換しなければいけないと思う。仕事は、対象の期待に応えるから評価が返ってくるもので、だからこそどんな仕事だって真っ直ぐ課題に向き合えば充足できると認識すれば、何だってできる。自己分析だって、対象の期待に応えることが出来たのはこんな時だったとか、自分はこんな特性があるからこそ人の意識をキャッチできるとか、そんな風に進めていってもいいんじゃないだろうか。(対象ありきで考えた方が、自己分析だって絶対に楽しい。)

 これから、就活のピークが始まっていくけれど、「何のために働くの?」は是非一考してほしいお題だと思う。




山崎許子
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構造計算偽造問題は国家ぐるみの隠蔽工作では

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
>この間の、「構造計算偽造問題」を巡る動きには違和感を感じます。(匿名希望さん)

私もこの問題の報道を聞くにつけなにかと疑問を感じる事が多いです。思いつくままですが、列記してみます。

(大衆の意識)
例えばこの間起きている構造強度の問題は耐震性の話し。
81年に制定された新耐震基準という構造計算によらない以前の建物は姉歯問題と同様に震度6程度の地震で崩壊する可能性がある。
それに対して国が阪神震災後、度々危険性を呼びかけているにも関わらず、耐震補強が一般住宅で進んでいるという報告はあまり聞きかない。・・・・今回のようにマスコミが騒げば心情的にえらい事やとなるが、実際自分が住んでいる家がどのような地震に耐えられるかという知識も関心も日常的にはない。
これだけ大騒ぎするのならどうして日常的に地震対策に対して無関心なのか?

(姉歯問題や構造耐力不足問題に対して)
構造耐力が不足した建物はすぐに壊せという方針にどうしてなるのか?普通は補強工事を検討し、どのような補強になるのか、それが経済的、意匠的に実現できるかを検討してから最悪は壊すという結論になるはず。それをせずに耐力不足=壊すという短絡的な発想に違和感。(もちろん住民感情やクレームを抑えきれないという判断はあるにしても)

(震度5強の地震で倒壊するのは本当?)
正確に言えば構造計算上(理論上)は震度5強で倒壊するという事。
建築構造物は俗に計算の2倍は安全率を見ていると言われる。
事実阪神大震災の時、震度7の震災を受けて、土木構造物は理論どおり崩壊したが、びくともしていない建物は神戸にたくさんある。
姉歯建築士の偽造は必要量の30~70%と報道されているが、30%はともかくとして70%の方は補強で耐震性は確保されるのでは?事実を追求するという意味で構造計算という理想値と現実値はどの程度余裕があるのか、その議論にメスを入れた報道も追求もなされていない。

(建築士制度の見直しが叫ばれているが)
・一級建築士は全能者であり、そんな人がいるのか?現在の資格制度はおかしい。早急に意匠建築士、構造建築士、設備建築士に区分して専門毎に資格を作り直すべき。更新制度も必要。(武部)~最もだけどそしたら今までの制度はどう説明するの?医師も弁護士も同様にするのか?
・そもそも罰則規定があまい。50万の罰則では・・・・(小泉)~罰則規定をきつくして済む問題なのか?
・大阪市が安全宣言をした後、問題が発覚したのを経て・・・・地方公務員等行政の審査は能力的に無理、学識経験者や同等の人材を投入すべきの論調。~果たして本当に審査能力がないのか?どこまでが役所が審査すべきでどこまでが建築士の責任なのか?なんでも問題があれば審査の問題となるのか?
・姉歯は氷山の一角、他の設計士も同じような事をやっているのでは(国民の50%~某新聞社の世論調査)~何の根拠もない!
・マンション全数検査が基本だ!(野党議員)~なんでマンションだけなの?
・もし全数検査等したら建設業界は全滅する(武部)~何を根拠に言っているのか?問題視しているのは構造偽造なのか手抜き工事や構造計算ミスも含むのか、まともに審査していなかった事なのか?ミスなら小さなものから大きなものまで山ほどあると思うが、それは今回の問題と同列なのか?

※ではなんでこうなるのか?
これは一種の言論界の観念パニックであり、政治家も含めた全国民的なヒステリー状態である。(これを引き起こしているのがマスコミの存在であるという反省も攻撃も分析もどこからも起きていない)
普通であれば問題事象があれば、状況を把握して原因を分析し、構造化し対策を講ずる。
今回唯一明らかなのは姉歯建築士とその関係者が意図的に偽造していたという事実だけ。どこから建設業界や建築士の問題に発展するのか論理が繋がらない。結局、マスコミが根拠無く国民を不安に陥れる報道をした結果・・・全数検査や建築士制度の見直し、行政審査機関の見直しへと極端な話しにどんどん拡大しているように思える。

どうするか、どうするかばかりに頭が向う。これはほとんど個人が判断不能に陥った時の焦りの気持ちに等しい。

状況把握、原因分析に対する追求課題が一切劣化したまま時は過ぎていく。当然判断は間違うし、少なくとも直感的な極端な判断が横行する。

先日、発表された、何であれ震度5強で倒壊する建物は国と地方自治体が買い取り、壊して立て替えるという国の方針は全くその状況の中で登場した。

何かが起きれば直ぐにどうする、どうするに向う構造、これは答えがせない事の表れであり、本質(本当の原因)を追求されると問題が出ると考えている人たちの隠ぺい工作である。



田野健
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社会不全から秩序収束へ(格付けという新たな秩序)

Posted by ななし on 23.2016 記事 1 comments 0 trackback
>今、まさに必要なのは安心して生きていける社会インフラ=規範の再構築であり、それは共認原理でしか構築できない。急激に高まる人々の収束不全を前に共認社会の構築が急がれている。違和感→絶望感へ雪崩れる前に!101420

今回の構造計算偽造問題を契機にして国土交通省の動きが注目を集めている。注目すべきは官が叩かれ民がカバーしていくという従来の構図が逆転し始めているということである。これは市場原理にまみれた民よりはまだ官の方がましであるという大衆の判断・期待がこの間大きく反転しているのではないか?つまり、秩序収束反転の潮流が起きていることを示す一現象であるともとれる。

例えばこの問題に対して国土交通省は意外に早い対応をしている。
以下の記事は12月4日に新聞掲載された記事である。

>政府は3日、マンションなどの耐震強度偽装問題に関連し、年内に実施する民間の指定確認検査機関の立ち入り調査の結果を踏まえ、国指定の48検査機関の評価をランク付けしたうえ、問題のあるランクの検査機関が審査した全国のマンションなどについては、耐震性の全棟検査を国の責任で実施する方向で検討に入った。
 また、不適切な審査が判明した検査機関に対しては、速やかに指定を取り消す行政処分を行うなど、厳しい対応を取る方針だ。
 政府は従来、一般的な欠陥マンションは業者と居住者間の補償問題として、国が個別のマンションの検査に乗り出すことには慎重だった。
しかし、今回、民間の指定確認検査機関「イーホームズ」(東京都新宿区)がマンションなど28棟の偽装を見落としていたことが発覚するなど、民間検査機関の審査事務が十分に機能していない実態が浮き彫りになった。
 このため、国民の不安の広がりを抑えるためには、耐震性検査の費用の全部または一部を負担してでも、マンションなどの安全性を政府が確認する必要があると判断した。問題のある検査機関に対する徹底した調査や厳しい行政処分により、民間による検査制度への信頼性を取り戻す狙いもある。(以上)

この記事から読み取れるのは一つは北側国土交通大臣の指導力である。さらにこの問題に対する国の危機感と国力を注入して法秩序を維持しようとする国家というものの持つ火事場の力である。検査機関を立ち入り調査し、一気にランク付けまで行おうとしている。

もう一つは秩序を維持する上でランク付けという手法が採られたということである。これはすでに医療の世界で先行しており、相次ぐ医療ミスから信頼を回復し医療界全体の一定の秩序を回復する為に採られた手法である。
今回も同様にかつわずか1ヶ月という期間でランク付けを決めようとしている。

ランク付け=社会的信用と捉えるなら、これは新たな共認時代の幕開けとして歓迎すべきことである。ただ、現在のところどのような基準でそれが行われるかは官僚の手の中にある。しかし、必ず近い将来それはみんなの評価と同義なものとして修正されていくだろう。
そして今回の問題の根本原因が行き過ぎた市場原理の中にあるとすれば、そのランク付けとはそこから少しでも抜け出した企業を指し示すものである必要がある。その項目の中に社員の活力度合いや社会活動への貢献度合い、社会空間から与えられている評価等が何らかの物差しになることは提言しておきたい。

逆にこれまで優良企業の目安であった株価や組織の大きさ、成長度合い、利益の拡大等は市場原理から共認原理へ移行する過渡期の現在、返って役に立たない物差しなのかもしれない。




田野健
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「自分探し」の探し物とは何だったのか?

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
>確かに自己実現(や自分探し、更にその大元にある「自分」観念)は 今尚多くの人が囚われている最後の旧観念かも知れません。それゆえに根強い、ということも出来ますが、本来の自分の主体は「私権」や「自我」。それらの実体が衰弱しているわけですから、観念次元でも引導を渡す必要があると思います。(51407)

露店主にきく若者たちの話からすると、もはや自分を探しているようには思えない。今や「自分探し」に拘っているのは、悩み深い一部だけのようである。

だいたい、自分探し世代の探し物とは何だったのだろうか?豊かな時代に生まれながら何をなくしたと言うのだろうか?

'70年代貧困の消滅以降に生まれた世代にとって、もはや私権に収束することはできない。一方、社会を見渡しても収束できそうな新しい対象などどこにも見当たらない。

親や周りにはあった筈の収束先が、自分たちにはないんだという「喪失感」は大きい。「自分」という言葉とは裏腹に、心の奥底で探していたものは社会的な収束対象(社会的な役割)ではなかったのだろうか?

親たちにさえそのような収束先が存在しない今の若者たちにとって、喪失感もなければ探し物も何もないのだろう。

文字通りの「収束不全」であり、それが「みんな不全」であるならば、一直線に社会的な役割欠乏が顕在化してくるのも時間の問題ではなかろうか。



石野潤
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若者が右翼化するのはなんで?

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日東京都町田市にある和光大学の学園祭に露店を出店させてもらったた際、「右翼化する若者が増えてきている・・・」という話しを複数の学生から聞いた。

「右翼化」の中身は・・・武装化も含め強い日本であって欲しい。外国に対しもっと毅然とした態度を取るべきだ・・・といった意識とのことで、従来の「天皇崇拝~皇国史観」「神道信仰」といった私的不全発の思想的・観念的なものとは少し異なるよう。

その話しを聞いていて思い出したのは、先日の東京なんで屋露店合同戦略会議で議論された主に10代の若者の意識状況。(政治意識に対するなんで屋路上アンケートに基づく)

・・・それは、「燃えられるものが欲しい」「(“役に立ちたい”ではなく)“役に立てる”場が欲しい」「(そのためにも)事実が知りたい」といったものであり、社会不全の増大に伴う若者の社会的関心の上昇⇒社会収束・集団収束の高まりを背景に、私権のためではなく、みんなのために闘いたい(=男原理の生起)、表層ではなくどうしたら真にみんなの役に立てるかを知りたい(=事実への注目)・・・という意識の登場ではないかと分析された。
この意識に、昨今のアメリカ(自己中心的な市場拡大主義)による侵略と小泉のアメリカ追従に対する違和感がミックスされた結果、愛国心や民族意識といった形でとりあえず近そうな右翼活動に向かうのではないか?(考えてみれば、世界を見渡してみた場合も、(非常に大雑把に言って)アメリカによる一方的な侵略(戦争)行為に対しイスラムをはじめ各国の民族意識が台頭する現象も、侵略に対する旧い縄張り本能の生起に加え、特に貧困が消滅した先進国においては収束不全の顕在化を背景に、国家という集団へ収束する意識潮流を示しているのではないかと思える。)

答えが無い・・・だから取り合えず目先の運動や思想に飛びついていたのでは、折角の社会的当事者意識も流産し、何一つ変えることも実現することもできないだろう。

今成すべきことは、ちんけな思想や運動に囚われることなく人類史のみならず生物史をも遡って生み出された新概念を進化させ、拡げていく共認形成の場を創出してゆくことに他ならないと再認識した。



越見源
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若者たちの脱集団をチャンスと捉える

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近やたらと「海外へ留学(ワーキングホリデーなど)」するというのを聞く。学生時代に、卒業してから、仕事を辞めて・・・彼らはなにを求めて海外へ行くのかとても気になっていました。

最近わかったのが、彼らは一見「可能性」を求めているように見えて、

>'90年頃以降完全に対象同一性(規範同一性)を失った若者はやりたいこと=役割探しを始めます

ようするに、収束不全の行き着く先(=現実逃避の先)として「海外」があるということ。
それを「やりたいこと」「海外」「勉強」「資格」など、もっともらしく聞こえる旧観念で覆い隠してる。

本当に「やりたいこと」なのか?、なぜ日本でなく「海外」なら実現できるのか?、本当にその「勉強」その「資格」が必要なのか?・・・
単純に「それって活力でるの?」っていう疑問が湧いてきた。

そこを突っ込むと出てくる言葉は現実否定のオンパレード。
それに旧観念(固定観念)によって目先の収束先に対する美化が付け加えられるからやっかいなことになる。

本来ある(出てきた)「不全」は社会不全(みんな不全)である(社会不全だからこそ、ここ(現実社会)ではないどこか(非現実)へ飛ぼうとする)。にも関わらず、目先の旧観念に飛びつくことで捨象されてしまう。
海外に対するあこがれ的なものの中身は(聞くところによると)「なぜ大人たちはあくせく働くのかわからない。みんな元気ないのに・・・」ということらしい。即ち、仕事と活力が結びつかないから魅力を感じないということ。

>上の世代は、若者がやりたいことや役割を探索している行動を「自分探し」という言葉で表現することによって、若者の探索先を内向けにする=閉塞させていると言えるではないでしょうか。

既存の集団や表層の仲間関係に可能性を感じない。そんな脱集団を試みている彼らは「自分探し」をしているのではなく「活力探し」(「役割探し」(74917))をしているのではないか。
そこに「活力は探すものではなく、みんなとの期待応合の中で作り出すものだ」という認識を提示していく。
すでに脱集団まできている彼らに、実感に伴った可能性を提示する。それだけで次代を担う彼らの可能性が開かれていくことは明解である。



門奈津子
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フリーター、バンザイ

Posted by ななし on 19.2016 記事 1 comments 0 trackback

 「青春」とはこれまた懐かしい言葉を久しぶりに聞きました。
 たしかに、語源やら定義やらはさておいて、この言葉がよく使われていたのはもう20年以上も前ではないでしょうか。

 就職するまでの学生時代に若者たちが、利害関係のない純朴な仲間関係で時を過ごす。就職して会社に入れば、好むと好まざるに関わらず同期も何もみんなライバル。ウカウカしてたら取り残されるだけの殺伐とした世界。でも誰もがやがてその時を迎えることも自覚しながらも、それまでの過渡期を「青春時代」と位置付け、大人を否定しながら自分達の世界に浸っていた。青クサイなんて言われながらも。

 巡りめぐって、世紀も変わり、今やそんな「青春時代」は存在しえなくなったのではないか。それは私権の枠組みに対峙しての一時期であって、私権社会のフレームこそがガタガタの現在では、かつての「青春」は存在基盤を失ってしまった。もはや、あるべき姿はない、あるいは色褪せてなくなる。考えてみればあまりにも必然の流れ。

 実際、今の若者はと言えば、会社に入ってからも同期意識も強く、会社の利益よりも仲間関係を優先する。あるいは下積み時代を経て出世していく、なんてシナリオは持ち合わせていない。まして、会社に入らない若者も多い。ひと昔前なら「いつまでも学生気分では通用しないゾ」みたいに言われ、襟を正していたものも、そんなモラトリアムな時期はどんどん間延びし、もはや「青春」なんていう言葉自体が不似合いだ。

 そんな彼らが選択し、年々増えているのが、集団に入らない(=会社に縛られたくない)ことでのフリーターという身分。今や一定の市民権を得たと思うが、どうもプラス視されていないように感じられる。

 でも、採用した会社の側は新卒に「今時の若者は…」やら「どうも社会人の自覚がない」などと嘆く一方で、フリーターでの職場体験を経ての彼らは、大学から新卒で入ってくる所謂学歴のある若者たちよりも当然社会人としての話が通用するし即戦力となりうる場合も多いのではないか。(うーん、やはり自分探しをしている夢見る若者は時間がかかるということか。)


 日本の将来を見据えて、フリーターの増加を嘆く風潮があるが、これを学生時代から社会に出るまでの職場体験期間と位置付ければ頷けるのではないか。

 そしてその職場体験は、やがて就く定職からかけ離れたものである方が、その有効性も高いのではないか。

 たとえば、教師を目指すなら、家庭教師やら塾やらでの指導経験や、母校でのクラブでの指導、地域での少年たちへのスポーツ指導、といった類の活動・職種より、子供なんかに関わらない、そんな世界での経験こそが、やがて自身の肥やしとなり武器となる。たしかに「社会」を知らずに子供たちに一体何を教えるんだ?って疑問を多くの人が持ち合わせていると思います。

 考えてみれば、辛く苦しい下積み時代より明るく楽しいフリーター時代の方がいいに決まってる。フリーターも捨てたものではない。そして経験する職種が多ければ多いほどイイ!





松下直城
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最近?の学生の進路

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
僕の学生時代の友人はなぜか1~3歳ほど年下の人が多い。彼らの最近の進路事情を聞いてみると、だいたい二つに分かれる。

①普通に就職する人
もちろんこちらの人間が多い。特徴としては大手志向が高まっているように感じる。以前に話していて積極的に「大手を狙っていく」と言っていた人は少ない。むしろ「やりたいこと」をできるところが希望だ、と言っていた人間が多かったのだが、決まったところを聞いていくとほとんどの人はどこかで聞いたことのあるような会社ばかりだった。逆に、こだわりがあるというか、ちょっと嗜好や考え方に癖のある人間がベンチャーなどに就職している。

②留学、資格浪人、あるいは進学する人
こちらは割合的には①よりも少ないのだが、それでも結構な数がいる。留学する人は大抵が女の子だ。しかも大学4年になってから行く人が圧倒的に多い。傾向としては、日本人離れした発想、というかはっきりいって変な子が多い。そしてやけにキャリア志向が高い。未だに男女同権などを表立って振りかざす場合が多い。資格浪人は男女比がほぼ半々で若干男が多いか。弁護士や公認会計士、国家公務員Ⅰ種志望がほとんど。中にはそれを口実にして単なるフリーターになっている人間もいる。そして進学する人はほとんどが男。理系の大学院進学やロースクールが多い。このタイプに共通しているのは、学者然とした感じのタイプではなく、やさしい、やわらかい感じの人であるという点。

以上の分類から分析すると、全体的にはやはり無難志向、あるいは安定志向というのがわかる。大手に就職する人はもちろんのこと、資格も高難度のものが多いからだ。また、海外での経験(大きくは語学)はまず間違いなくあって困るものではない。つまり、少しでも不安を打ち消そうとするかのごとく進路を決定している。一方で大体の人間が「この選択が合っているのか?本当はもっとやりがいのあること(やらなきゃいけないこと)があるんじゃないか?」という疑問を持っている。何かを探そうとする気持ちもありつつ、現代の体制の中で少しでも安定していそうなところへ向かっている(=絡めとられている)とも言えるだろう。

②に関して多少細かく分析すると、①に比べ弱者的な感じを受ける人(≒潜在思念が貧弱な人)が多い。違う言い方をするとそれまでの人生における充足体験が少ない人、とも言えるかもしれない。

海外留学組はそれこそあたかも日本では共認充足が得られない、と言わんばかりに海外に行く。しかし、帰ってきた人間にそれほどの成長は見られない。「いい経験だった」ということで中身の無さをごまかしている気さえする場合がある。

資格志向の人間はだいたい活力を失っている。就職せずにわざわざ勉強を選んだ人間でさえも「自分のための勉強」ではもはや活力が湧かない、というのを地でいっている。

そしてちょっと面白いのが、大学院に進学した男の子たち。彼らに共通しているところは、概して「人あたりのいい、やさしい感じ(=中性的)」という点である。それなりに充足体験も積んだであろう彼らなのだが、なまじ勉強ができたために、社会に出る(=現実の圧力にさらされる)ことなく、圧力回避の方向へ進んでしまっている。「やさしい人」達なのだが、換言すれば、最も闘争忌避が強い人達なのである。

以上のように、今の若者にもいくつかのステレオタイプがあるように思える。もちろん判断基準が僕の友人達なので、かなりのバイアスがかかっていることは否めない。

しかし、彼らすべてに言えることだが、結局のところ現実の圧力の中でしか活力は生まれないし、その圧力(≒課題)を突破していかなければ何も変わらない。進路なんていう小手先で閉塞感はごまかせないということは誰しもが気づいている。学生(=若者)のバイタリティはやはりすごい。だからこそ、彼らを変えていくことができれば、もっともっと良い世の中を作っていけるのではないかと思う。
 




丸山桂
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社会閉塞の元凶世代

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
>実際に僕の親も、こないだまでは「やりたいことをやったらいい」と言っていたのに、最近は「戻って来てほしい」に一気に変わった。どうやら「やりたいことをやったらいい」というのは「就職は地元で」という条件付だったらしい。とにかく「一緒に住む」ということが何よりも優先される第一課題になっている。(83926)

子供に対して「やりたいことをやったらいい」とか、「自分の夢や目標を持って頑張りなさい」とか言っていた親が、子供が就職前後の年齢を迎えると(その後も機会ある毎に)「戻って来て欲しい」に転換するのは、ほとんどの若者から聞く話です。それに対して抵抗している若者も、「申し訳ないなぁ」と後ろ髪を引かれるような負い目を持っていて、痛々しい感じがします。

こういう親世代は、田舎から都会に出てきた団塊世代からその下にかけての世代で、自らが私権追求よりもやりがい志向を模索した第一世代。しかし、大多数は夢を断念して企業や役所勤め(一部は田舎へUターン)、趣味・遊びとマイホーム主義に埋没するようになる。
こうして見ると、親元収束は、子供側の問題もあるだろうが、親世代の志向(期待)発でもたらされている側面が強いように思う。だから親に囲い込まれた子供ほど、期待に応えねばと思い悩んでしまう。

自らは親に反抗して田舎から出てきたにもかかわらず、子供に対しては「戻って来て」とは身勝手だなと思わざるを得ない。本来、親は子供を社会に放り出すのが務めのはずで、狭い親子関係やマイホームに囲い込もうとするのは許されないのではないだろうか。それは答えがないがゆえのごまかしでしかない。

子供を社会に放り出す以上、社会の問題を正面から捉え、突破するのが親の務めだと思う。勿論、子供も同じ収束不全の時代を生きているのだから、答え探索の認識仲間になることも可能だと思う。
そう転換できなければ、社会を閉塞のどん底へ沈ませた元凶世代と総括されても、文句は言えないだろう。




岡本誠
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「生きるって何?」の答えになっていますか?

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
>私権の衰弱に伴い人々の潜在思念では、自分第一から仲間やみんなとの共認充足へと軸足を移行しつつあり、みんなの期待に応えて反応充足を得ることへと活力源が転換しつつある。
にもかかわらず、仕事や学校、家庭、あるいは男女関係といった場面においては私権制度の現実が残存することにより、共認関係へと全面的に収束できずに蓋をされてしまっている。
さらには、頭の中は私権時代の観念や規範を刷り込まれているために、あくまで「自分」が大事、「自分」でなんとかしなくては、と自分観念に収束し、潜在思念が感じた可能性に自ら蓋をしてしまっている。
この、潜在思念と現実世界とのズレ、潜在思念と上部意識とのズレという二重のズレによって人々は完全に収束先を失い、袋小路に迷い込んでしまっているのが現状ではなかろうか。
83558

今や活力源はみんな期待・みんな充足。
「個性・自分」ではもはや活力源にならないだけではなく、その言葉に囚われていくほど出口が見えず苦しくなるだけ。


しかし、未だに個性教育は根強いようです。
新しく教育事業を始めた会社のHPをのぞく機会があったのですがそこで謳われているものは、個性の尊重でした。ちょっとがっくり。

そんな人に問うてみたい。

その「個性」や「自分」という観念は、今あなたの「生きるって何?」「やりたいことは?」の答えに繋がっていますか?あなたの活力源になりますか?と。



三輪歩未
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目先収束でどんどん表層化・・・

Posted by ななし on 15.2016 記事 1 comments 0 trackback
「期待封鎖ゆえの実感無き応望」(66463)は、今統合版でホットな、まさに「焦りの適応主体⇒不満の封鎖、否定の捨象⇒目先収束」という流れ。

目先ゆえに収束力が弱い。ただし、それゆえ、腰は軽い。(観念でプラス収束しているだけなので、ころころ変えられるのでしょう)。
実際、やりたいことが見つからないというより、いろいろやってみたいから~、やりたいことはいっぱいありますし~!と言う子も多い。

しかし、何事も"とりあえず"だから、どこか対象(仕事、職場、そこでの人間関係など)に対し距離を置いた感が残ります。
仮留め状態と言ったらいいか・・・。
ガーっとのめり込む(収束する)という感じではなく、上手く言えませんが、どこかしら、何か、自分の中に常に保留状態を持ったまま・・という感じ。
でも、本人はそりゃできれば長く勤めたい(辞めたいわけではない)と思っているので、結局のところ、現実にはその振る舞いはどうしても表層的になってしまう。

「仕事楽しいです!」って言うのだけれど、周りから見たらあんまし楽しげではないとか・・。(本人的には顕在的には楽しい。ごまかしだとか、無理してるという自覚は、全くないのです。でも、周りには、どこかしら整合性のなさ(アンバランス)を感じさせる・・。)

目先収束(期待封鎖)はどんどん表層化(表層応望)を生む構造にある。
表層化とは、結局傍観者のままということ。

だから、
>『序列体制や私権闘争が現実なのではなく、既に共認原理や共認競争が現実である事』(85362)
この現実に気づけないまま、表層収束→応望⇒空焚き燃え尽き状態を繰り返し、疲弊してゆくばかり。

自ら周りに期待し、会社自体を変えていこう!
そこまでいかずとも、少なくとも、変えうる一人の当事者として己を自覚することができれば、持続できる活力も出ると思うのですが・・・。

>「当事者になろうと思ってないから辞める」が実は現状かも。
そんな人材はどこへ行っても同じで活力が湧かないまま点々とする結果に終わる。(78543)

このまま目先収束が続くと、どんどんそうなっていっちゃうと思う。
共認原理への転換(当事者になれる可能性が開けたこと)と同時に、目先収束を"構造的に"指摘していかなきゃならないと思います。



谷光美紀 
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違和感から答え探索へ

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
>しかし、共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。
その時はじめて、(なんで屋の共認運動を契機に)路上や仲間内での答え探索の潮流がはっきりと顕在化し、勢いを増してゆくことになる。<「誤魔化しの充足報道と、その最後」(73071岡田さん)

 今回の小泉翼賛選挙後の今が、まさにそのときだと思った。選挙直後は、「小泉圧勝」「小泉さんの言葉は分かり易かった」などと小泉一色だったテレビでも、その後「自民党が勝ちすぎでは…?」「小泉独裁政治になりそう」などの意見がちらほら出てきていた。正直、1年ちょっと前の岡田さんの投稿を読んだときには、何かヤバそうとは感じたけれど、今回の選挙ほど強い違和感は持っていなかった。でも今は違う。このままだと確実に危険!と強く感じる。そう感じる人の数もかなり増えている。

 だから今こそ、みんなの「何かヤバイ」というぼんやりした潜在思念を、明確に「小泉ファシズムの段階に入った」ことを伝えて顕在化させ、たぶん別の話題で違和感を揉み消そうとするであろうマスコミに対抗しなければならない。それができるのは、路上のなんで屋と、ネットしかない。今回の選挙で、なんで屋やるいネットの必要性が今まで以上に高まっている!




森政子
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共認支配という「敵」の明確化⇒時代は闘争圧力を必要としている

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
>今回の選挙は男発(男主導)で盛り上がってるかのような。97127

7月まで飛ぶように売れていた「なんでやカード」の売上が落ちてきた。お客さんから、なんで屋は社会に対するメッセージをもっと発信してほしいという声もたまに耳にする。また、なんでやだけでなく、井の頭公園を初めとする路上パフォーマーの数も若干減ってきたような気がする。路上パフォーマーがいても、お客さんの反応もかつてほどではなさそうだし、パフォーマー自身もどこか元気がない感じ。

時代の空気が何か大きく変わりつつあるのを感じていた。それが何なのか?が今一わからなかったが、この間の選挙問題で、鮮明になってきたように思う。共認闘争圧力の顕在化ではないだろうか。

>'60年代後半までは貧困という言わば共通の課題=不全があり、だからこそ誰もが豊かさの実現に向けて必死に生きてこれたことになります。きっと、貧困も一種の「みんな不全」であり、豊かさ追求は「みんな期待」だったのでしょう。 そうだとすると、'70年以降のこの30年間は、「みんな不全」「みんな期待」が表舞台から一瞬消え去った時代なのではないか。52041「みんな不全が一瞬消え去ったこの30年」

みんな不全が消え去った特異な時代とは、闘争圧力が消え去った時代とも言える。実際、'70~'80年代の人々は遊びに収束し、「自分だけ、社会のことなど関係ない」という私権観念に囚われてきた。30年の特異な時代の後、収束不全が顕在化し、その閉塞感に人々は追い詰められてきた。遊び第一から仕事・勉強収束への転換を経て、ようやくみんな不全⇒共認闘争圧力が顕在化し始めたのではないだろうか。

しかも、今回は、政治権力とマスコミ権力という新旧二大権力の癒着による共認支配、つまり、明確かつ強大な共認闘争上の「敵」の登場である。自民党圧勝に対する路上の人々の反応も「何かおかしい、絶対におかしい」という声が多い。

これは違和感という次元を超えている。人々は、マスコミと政治権力による共認支配を、明確な「敵」として潜在思念で感じとっているのかもしれない。言うまでもなく、明確な「敵」の存在は闘争圧力(活力)を加圧する。時代は、共認闘争圧力を必要としているのではないだろうか。

そう言えば、この間流行の「構造改革」「勝ち組」という言葉からも、闘争系のニュアンスを感じる。30年間の特異な闘争圧力不在状況を経て、時代(人々の意識)は共認闘争の時代に転換しつつあるのではないだろうか。

>人類の存続と再生をかけて我々が今から開始する、共認闘争が生み出す圧力こそ、生存圧力に代わる同類圧力=共認圧力の原点となるものであり、人類が求める新たな活力の源流となるものである。支配共認根絶の共認闘争は、全ゆる点で次の人類社会=共認社会を象徴するその縮図であり、この共認闘争を担う共認ネットワークは、そのまま共認社会の原型となり、更にそのまま共認社会の基軸(統合機関)となるだろう。実現論4_5_07





冨田彰男
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共認革命が現在最先端の答え

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback

(リンク 「ポピュリズムと小泉政治」 山崎正和氏)より。

(引用ここから)

■ ポピュリストに共通した政治手法

第1に、彼らは民衆の感情を刺激し、理性よりも情念に訴えるという形をとり、しかも、その情念は反感、あるいは嫉妬という点に絞られ、その対象として敵を必要とする。

第2に、ポピュリストが勝利をおさめていくとナンバーツーたたきという形をとる。そして、ポピュリズムが勝利をおさめたうえで、法的、制度的な改編を行って、勝利の結果を永久化するとファシズムになる。

第3に、ポピュリズムはその形成過程において、その目的を実現するための手続き、過程、制度というものを無視するやり方をとり、あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵として攻撃する。

■ 民主政治とポピュリズム

このポピュリズムというのは、皮肉なことに民主主義、あるいは民主的政治制度の鬼子だともいえる。民主主義というものに、本質的な問題構造が秘められているためだ。

私たちはこの民主制度そのものの中に根源的な危険が潜んでいるということを知って、それにブレーキをかける仕掛けをつくることが大切である。その意味で、直接民主主義、案件ごとに国民投票を行うという政治は極めて危険で、まさにポピュリズムに道を開くものと考える。政治的な議論の場が防波堤 私は、直接民主主義とはまったく違う意味で、古代のアゴラやアメリカ建国期のタウンミーティングのような政治的制度、あるいは仕掛けが必要だと考える。要するに人々が集まって自分の感情形成を行う社交の場をつくるということだ。お互いに語り合い、批評や反論をしあいながら自己を形成していくというのが本来の健全な姿だが、現在の民主制度の中では、そういう場所が用意されていない。政治的対話のフォーラムが生まれ、それが知的に洗練されていくことが、ポピュリズムに対する最大の防波堤になる。小泉政治はポピュリズムか 小泉内閣に対する非常に大きな支持というのは、私は必ずしもポピュリズムの現れだとは見ていない。むしろ、今度の小泉現象というものはポピュリズムではなくて、国民の自己嫌悪が一転しただけのことである。

(引用ここまで)

やや長い引用でしたが、氏が原因分析している、マスコミによる指導者批判→国民の自己嫌悪。これは共認支配そのもので、共認支配から脱出し、理論による共認形成の必要を述べられたものだと思います。

今回の選挙をきっかけに情念を中心としたポピュリズム(大衆迎合)に流されて、それが制度化され本当のファシズムにならないように、私たちの共認革命はますます期待されています。

実際、氏のポピュリズムの定義に当てはめて考えてみると、

「しかも、その情念は反感、あるいは嫉妬という点に絞られ、その対象として敵を必要とする。」→抵抗勢力

「ナンバーツーたたきという形をとる。そして、ポピュリズムが勝利をおさめたうえで、法的、制度的な改編」→民営化反対派閥の領袖の追放、参議院に対する賛成転向圧力、法案成立へ

「あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵として攻撃する」

のほとんど全てに既に当てはまっており、予測できない次のファシストを待たなくても必要充分条件を満たしているような感じがします。

ただし、ポピュリストという概念にしても、共認機能をやや捨象した概念であると思われますので、すべて受け売りの解釈はできませんが、「要するに人々が集まって自分の感情形成を行う社交の場をつくるということだ。」という点では本物の指摘であり、感情の場ではなく”共認形成の場”、社交の場ではなく”半専業の仕事の場”を形成しようという共認革命が現在最先端の答えなのだと思います。



佐藤英幸
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中身のある選挙をしたい

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback

9/11(衆議院選挙)に投票してきました。
今回の選挙ほど違和感を覚えた選挙はありません。機械的に黙々と投票する人々も、皆さえない表情をしていました。選挙期間中のマスコミや立候補者のバカ騒ぎとは対照的に重たい雰囲気の選挙風景です。

郵政民営化も、所詮は小泉による旧田中派・中曽根派つぶしに過ぎません。自民内部の権力争いの是非を国民に問うなどもってのほかです。具体的に、この国がどのような方向に向かうのか?どの政党も答えを示していません。だから、今後の四年間を託す人物や政党が見当たらないのも当然です。

しかし、現実を直視すれば国の借金は800兆円。年金も破綻しており将来に対する不安が重く圧し掛かっています。今、何とかしなければ大変なことになる。危機感はあるがどうして良いか分からない。せめて、自分の身は自分で守るしかないのか?と、後ろ向きの意識で考える層も多いのではないでしょうか。

>宗教集団や政治集団はもちろん、マスコミも学会も国家(行政組織)も、夫々は単一の集団でしかない。ところが、集団というものは自己収束(もっと言えば自己閉鎖)性が強い。従って当然、彼ら官僚や学者やマスコミや政治家たちの、自集団の利益が第一になってしまう。そもそも、各集団を超えた次元にある社会を統合する組織が、実は単一の集団でしかないというのでは、社会を統合する資格などない。(実現論9_7_02)

>現実生活の全てが個人を主体とし、個人に性権や占有権や参政権を与える法制度の下にある限り、法制に規定されて肉体的次元から自我や私権意識が発現し続ける。(実現論4_6_05)

私権は終焉したにもかかわらず選挙(投票)の時には、個人という主体に否でも向き合うことになります。これが、時代に逆行する違和感の出所でしょう。しかし、この違和感は適応不全からくる違和感であり、今は目先の選択であっても、今回の選挙を機に確かな中身に収束していく始まりでもあります。

>我々の提起する共認闘争は、必然的に新政権の樹立を目指す政権闘争となる。おそらく、共認闘争を担う共認ネットワークを母胎にして、新政権を目指す新政党が結成されることになるだろう。(実現論4_6_08)

少なくとも次の選挙までには、中身のある「共認ネットワーク」の存在を広く知らしめてゆく「共認闘争」の必要を痛感しています。




橋口健一
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民主主義というファシズム。

Posted by ななし on 10.2016 記事 1 comments 0 trackback
>この「多数決」そのものが、元々目先の手法と言える。つまり、様々な角度から追求し、全員が納得できる「答え」こそが本来の方針となるはずが、この追求を途中で断念して「とりあえずどうするか」決めるのが「多数決」である、と。様々な意見や追求は一旦置いておいて、「イエスかノーか」を判断させるのが多数決であり、「民主主義」の最終的な姿。

>もし、庶民の側に追求する余裕や、追求できる材料や構造認識があれば、早々と「多数決を取る」「○か×かを判断する」とはならないであろう。しかし、庶民の不全レベルが上がり、(「答え」がないので)切迫感が強まれば、今までの体制には「×」を上げて、何とかしてくれそうな雰囲気を持つ人間に「○」を上げるだろう。そして、「○」を上げられた人間は、その「多数決の結果」「民の総意」を背景にして、ますます助長していくことになる。それは、ファシズムに直結する。

 今回の選挙に限らず、「わかりやすい選択肢」「イエスかノーか」による多数決こそが「民主主義」だというのが一般的なマスコミなどの論調だと思いますが、何か違和感を感じます。

 何事も実現していくためには「何が事実か」をいろんな角度から追求し、明らかにすることからしか方針も何も生まれないと思いますが、そんなことは面倒で、うっとうしいこと、何が事実かなんてわからない・・・という風潮は、とても危険です。

 「○か×か、はっきりいえないようなら、本物じゃない」みたいな迫り方は、一見わかりやすいようですが、単なる思考停止のごまかしである上、事実を追求していこうとするまっとうなスタンスに対する脅迫ではないでしょうか。 
 
 多くの人が信じ込まされている「民主主義」が実は「ファシズム」につながっていることを、気付いた人から言っていかなければと思います。





猪原裕子 
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危機的な閉塞状況が生む救世主願望

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback
>彼らの姿を見て、90年前後に世間を騒がせた『オウム真理教』をはじめとした新宗教に嵌る学生たちを思い出した。
高学歴を有する彼らが、常人には理解し難い教義に、いとも簡単に賛同し入信する。

>当時は新しい意識潮流として注目していたものの、マジョリティにはなることはないだろうと異端視していた。
しかし、昨今の毒舌芸能人の人気や、再燃した小泉フィーバーを見ていると、ハッタリだろうがなんだろうが、声高に「答え」を断言した者に、過半の大衆がいとも簡単に収束してしまうようだ。
(96961)

選挙戦突入後も、国民の関心が薄い「郵政民営化」だけを主張し続ける小泉の支持が相変わらず高い。
余り重要でない問題を国会で延々とやるより、もっと重要な法案を扱って欲しいという政治不信に近い意識があるにもかかわらず、それを作り出している当人を支持しているのである。

そのような矛盾は、日本だけでなく前回のアメリカ大統領選にも現れている。
2004年の9月末に行われたブッシュとケリーの第1回政策討論会を覚えている人も多いと思うが、ケリーの主張の方が勝っており、その後のアンケート調査でもケリーの形勢逆転を思わせた。

しかし、その後のNewsWeekのアンケート総論では、
「ケリーの方が知的であり、状況を把握していているように見える、という事を多くの人々が感じている。ところが、強力なリーダーシップの能力は、ブッシュの方が上だと判断している。さらに、ブッシュは国際的な危機的状況の中で正しい事を行っていると信頼する人々が約半数いるのである。」
とまとめている。そして中には、
「ケリーの言っている方が正しくても、僕はブッシュを支持する」
と言っている人まで居たらしい。

人々は、何か社会的・政治的問題を感じた時、ある程度の解決方法が見いだせれば、それを手助け又は解決してくれる政治家を支持する。
しかし、本質的な問題は顕在化している郵政民営化・年金問題・経済不況・税金問題・社会福祉等ではなく、「活力源の探索」にある。
当然、各政治家が顕在化している問題に的確に答えても(それすら、出来ていない様な気がするが)理解はするが心に残らない。
そして閉塞感はどんどん高まっていき、問題の中身を飛ばして、「強いリーダーシップ」で現状を一挙に変えてほしいと期待する、ある種の救世主願望を生み出してしまう。

その願望から支持されたブッシュの無策ぶりはイラク侵略やハリケーン災害で露呈している。
近年では、それらの被害は物的被害よりも精神的被害の方が大きいのである。
つまり、なんとか解決しよう、復興しようとする活力そのものが衰弱していく。

間違ったリーダーを支持することによって、閉塞感のスパイラルに落ちていってしまう。
アメリカと同じ轍を踏まないためにも、今回の選挙をチャンスと捉え、中身のないリーダー選びにはっきりとNO!と言い、本質問題を解決するためにも共認運動を広げて行かなければならない。



坂本日出夫 
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今までとは違う感じ

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
今回の選挙騒動は、今までのフィーバーとかカリスマとかと確かに繋がっているけれども、何かが大きく転換している(違う)感じがする。
フィーバーやカリスマは女発(女主導)だが、今回の選挙は男発(男主導)で盛り上がってるかのような。
いずれにせよ目先ではあるのだけれど、男発なら、今はまだ目先でも、次第に中身に向かうのではないか。




西知子
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○か×かを判断するだけの民主主義に意味はあるのか?

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
司会のみのもんた氏が促した。
「郵政民営化に賛成?○か×か、どうぞ!」
真っ先に「○」の札を上げたのは自民党の「刺客」第一号となった小池百合子環境相だった。
「はっきり、イエス」
8月16日朝の情報番組。衆院東京10区の立候補予定者4人が顔をそろえた「生激論」の一幕である。
郵政法案に反対し、自民党から小池氏をぶつけられた小林興起氏は、ちょっと遅れて「○」。
「ほう、○を出しましたね」
みの氏が驚いて見せると、小林氏は声を張り上げた。
「民営化には自民党の大勢。我々を含めて賛成ですよ。このバカげている法案に反対しているだけ。民営化だっていろいろあるのに、一切プロ的な話をしないで・・・」
長々と説明を続けていると、小池氏がズバッと遮った。
「集約して最終的に本会議で採決するわけですから、イエスかノーしかないんですよ」
民主党の鮫島宗明氏は、
「答えらんないな・・・『小泉郵政民営化』には反対ですよ」とためらった末に、
「郵政民営化には賛成です」と「○」。結局、「×」は共産党の山本敏江氏だけだった。

○か×か・・・。単純だが分かりやすいテレビ的な色分けは、小泉首相の政治手法にぴたりと重なる。ちょっと考えこむような理屈はウザいだけ、となるのだろう。

*************(アエラ ’05.08.09 号)

この記事にも関連するが、マスコミの街頭インタビューを見ていて感じるのは、今回の選挙に関して有権者に「郵政民営化に賛成か反対か」の意見表明を求めるマスコミの態度に非常に違和感を持つ。

上記の記事で、小林氏らがいやいや「郵政民営化には賛成です・・・」と言ってしまうのは、『○』を上げる側にいなければ、「悪者」「少数派」になってしまうという危機感からだろう。それが大マスコミらが作りだす「空気」「雰囲気」が原因だ、というのもその通りだと思う。

しかし、このような風景はいわゆる「民主主義」の必然ではないか。考えてみれば、「民主主義」下での方針の決定とは、「多数『決』」を採用する。もちろん「決」を取る前には、時間をかけて議論し尽くす。100人で話をして、100人が同じ方針に賛成するのが理想的な形だろう。しかし、時間的な制約などで「全員の賛成を取るのは無理だ」と判断し、「多数『決』」を取る。

この「多数決」そのものが、元々目先の手法と言える。つまり、様々な角度から追求し、全員が納得できる「答え」こそが本来の方針となるはずが、この追求を途中で断念して「とりあえずどうするか」決めるのが「多数決」である、と。様々な意見や追求は一旦置いておいて、「イエスかノーか」を判断させるのが多数決であり、「民主主義」の最終的な姿。

もし、庶民の側に追求する余裕や、追求できる材料や構造認識があれば、早々と「多数決を取る」「○か×かを判断する」とはならないであろう。しかし、庶民の不全レベルが上がり、(「答え」がないので)切迫感が強まれば、今までの体制には「×」を上げて、何とかしてくれそうな雰囲気を持つ人間に「○」を上げるだろう。そして、「○」を上げられた人間は、その「多数決の結果」「民の総意」を背景にして、ますます助長していくことになる。それは、ファシズムに直結する。

今回の小泉フィーバーに見られるファシズムの影は、「民主主義」と「目先収束」が相乗して織り成している。しかし、それ以上にこれは「民主主義」が行き着く最終的な姿に思える。小泉に「ノー」を突き付けると同時に、民主主義に「ノー」を突き付ける時代が来たのではないだろうか。



小暮 勇午
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カリスマ→ファシストの登場は危機か好機か

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback
私は多くの学生と接する機会があるのだが、最近の傾向として就職活動中の学生の間で、熱い社長が受けているようだ。
入社説明会で大きな夢を語り、熱い口調で学生たちに期待をかける。活力溢れるその姿は、定年まで無難にやり過ごそうとするサラリーマン社長より魅力的に写るであろうし、経営者として成功している事実は否定しようもないし、学ぶべき点も多い。

しかし、多くの場合、彼らから発せられる言葉には営業トークや願望も混じっているであろう。中にはハッタリとしか思えないような内容を平気で語る人物も少なからず存在する。冷静に聞けば、矛盾や実現基盤の乏しさに気づくだろうし、業績を始めとした企業や過酷なノルマ等の厳しい勤務状態など、OBに聞いたり、ネット等で少しでも調べれば、そんなに調子よくいっていないことに気づくはずだ。

にもかかわらず、異常に素直に額面通りに受け取ったり、さらには自分に都合の良い部分だけを聞いているのではないか、と思うような学生が増えているのが実態のようだ。
(当然、入社後に都合の悪い現実に耐えられず退社する人材も多い)

彼らの姿を見て、90年前後に世間を騒がせた『オウム真理教』をはじめとした新宗教に嵌る学生たちを思い出した。
高学歴を有する彼らが、常人には理解し難い教義に、いとも簡単に賛同し入信する。

親の過剰な期待から受験制度に(まるで修行僧のように)どっぷりとはめられた彼らが、私権の衰弱した現実に直面したとき(多くは受験から解放された大学入学後)が入信の契機となった。
それは親の囲いを否定→脱出したものの、収束先を失い不安に駆られた彼らにとって、現実を否定した教義と受験勉強で培った修行回路を転用できる修行型序列システムは格好の収束先になり得たのだろう。

当時は新しい意識潮流として注目していたものの、マジョリティにはなることはないだろうと異端視していた。
しかし、昨今の毒舌芸能人の人気や、再燃した小泉フィーバーを見ていると、ハッタリだろうがなんだろうが、声高に「答え」を断言した者に、過半の大衆がいとも簡単に収束してしまうようだ。

麻原も小泉も「答え」とは到底及びもつかない「答え」に対して、強烈に思い込む姿勢が、『信念』の強い人、もしかしたら何かやってくれそうな人と好意的にテレビにも映るのだろうか、少なくとも問題が明らかになるまではマスコミが擁護するだろう。(オウムも「朝まで生テレビ」などに出演し、当初は面白おかしくではあるが、好意的に取り上げられていたのだ。問題が明らかになれば手のひらを返したようにバッシングするのもマスコミである。)

大衆の不全が強まる分だけ、そこに付け入る輩が跋扈する。小泉や熱い社長たちに見られるカリスマ現象とは「衆愚」と簡単に片付けられない危機的な閉塞状況を示しているのではなかろうか。

しかしフィーバーは長くは続かない。この閉塞状況が一段と進んだ時に、ようやく答え欠乏が顕在化し、事実~観念収束の強烈な追い風が吹くのだろう。
事実、なんで屋でも小泉問題を扱っている時の反応は、他のお題とは比較にならないほどに注目され、野次も含めて場が活性化している。

今、誰よりも熱く答えを語ることができるのは、私たち自身なのだ。




辻一洋
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可能性を考えない思考停止

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
>人々は、収束不全で追い詰められているが故に、そこに可能性がないことがわかっていても、目先の秩序に収束しているとも言える。

これが、現代の日本の多くを物語っていると思われます。

私権闘争時代において、敗者(持たざるもの)として追い詰められた国家とマスコミに煽られた国民は目先の収束先として「全体主義」支持し、国家ぐるみの帝国主義の遂行になんら違和感をもたなかった。

日本では戦時「大本営発表」なるものがあったが、まさに誤魔化しの典型例です。
誤魔化しであるとうすうす分かっていても、つまり可能性なんてない(不可能視)と思っても、目先の秩序(軍国主義)に収束してしまう。

富田さんがご指摘されているように、今の日本は、これに近いものがあると強く思いました。
小泉が胡散臭いと分かっていても、誤魔化しに気付いても、収束不全故に目先の既得権益(秩序)に収束し、可能性の是非を考えなくなる思考停止のスパイラルに陥っているように思われます。

皆が、本気で「可能性」について考える土壌が必要だと強く思いました。






匿名希望
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収束不全に対する確かな答えの提示こそが、親元収束(=ひきこもり予備軍)への確かな答えとなる

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
若者のみんな探索と親元収束(=ひきこもり予備軍)の増化。
この逆向きともいえる現象はいったい何なのだろうか?

全ては収束不全発のみんな探索であり、親元収束(=ひきこもり予備軍)なのである。

>潜在思念が本源収束へと可能性収束しながらも、探索基調は答えがないゆえに出口を塞がれ、潜在思念に導かれ唯一残された確かな拠り所として家族への共認充足へと収束を強めていく。(84065)

つまりみんな(答え)探索するも、答えがないがゆえに目先化⇒閉塞の繰り返しで活力衰弱し、最後の充足可能性(実際は再閉塞)へと向かったのが親元収束なのである。

だからこそ親元収束しながらも、みんな(=収束不全に対する答え)を強く切望しているのだ。

>そうなると、もはや安易な言葉(単なる感応観念や「とりあえず○○」)では答えにならない(85391)

今、求められているのは収束不全に対する確かな答えの提示。

閉塞の元凶であるマスコミの共認支配(85293)を打ち破るために、みんなが旧観念に囚われることなく現実を対象化できる(=新概念(構造認識)を使いこなす)答えの供給者となり、マスコミに変わる新たな共認形成の場を拡げていくこと。そのためには相手に迎合することなく、貧困(=生存圧力)の消滅という生物の大転換を迎えた今、もはや目先では活力が出ない、ダメなんだという共認闘争を真っ向から図り、答えの供給者への転換期待をかけていくことが重要なのだ。




三浦弘之
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キーワードは「目先収束」

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日08/21(日)の大阪なんでや劇場(第44回)のテーマは、①やりたいことが見つからないので、目先の課題収束? /②目先収束が行き詰まると、親元収束 /③本当にやりたいのは、みんなが求めている『答え』の供給者になること。でした。

その時に提示されたキーワードは、「目先収束」。その概念を道具に、この間の小泉フィーバーに至る流れを紐解いてみたい。

●現実直視の状況判断=時代認識

いつの時代も、大人と若者との世代間ギャップはあった。「今時の若い者は、・・・」などの言い回しは、いつもなされてきた。しかし、自分たちが若者世代に云われたことを、今日的な時代状況を踏み込んで考察すること無しに鸚鵡返しに、「・・・ハングリー精神が無い。」などと発することは、探索・追求を捨象した指摘に過ぎず、的外れも甚だしい。

『'70年代に貧困の圧力を克服』ということは、500万年に及ぶ人類史上の大転換であるという認識が、まずある。その上で、今日に至る流れを俯瞰すると、

・                          序列統合
・                           ↓
【'70年代:飢えの圧力を克服】→【序列原理が無効に】=パラダイム転換
・      ↓           ↓        ↓
【~'80年:反序列の意識潮流】→【目先の私益要求】  共認統合
・      ↓           ↓     *マスコミの第一権力化
【'85~'90年:バブル化⇒崩壊】→【目先の私益収束】
・      ↓          
【'90年代:私権活力の衰弱】 →【私権意識発の私権体制の変革期待】
・      ↓           ↓
┌ '97年以降、脱私権(=自分→みんな)意識に基づく可能性探索   ┐
| 大衆は潜在的には「新・統合原理」「答」を求めている。しかし、|
└ 学者・マスコミは「答」が提示できないので、出来合いの秩序にすがる ┘
・      ↓           ↓
【'02年:私権追求可能性断念】→【目先の安定収束⇒目先の秩序収束】
・      ↓        *若者の公務員志向・資格志向
・      ↓         親元収束・肩書(彼氏・彼女)収束
・      ↓                     etc.
【要求するだけの旧観念勢力や批判するだけのマスコミに対する反感増大】
・      ↓                  
【'04年:第一権力はマスコミから国家に再転換】=小泉フィーバー
[今後]    ↓
大衆のマスコミ離れによる市場の破綻、国家破綻や社会矛盾が激化
・      ↓
深層の当事者意識は、答え探索⇒事実収束
・             ⇒なんで屋ネットワークの構築


>現在、最深部の(答え)探索は、みんな探索⇒社会収束⇒事実収束へと向かっている。(73647)

にもかかわらず、マスメディアが旧観念をばら撒き続けるがゆえに、古い制度・体制に引き摺り戻されてしまう。目先収束の主犯格とは、旧発信階級であるといえる。しかし、

>マスコミ(⇒旧観念勢)に対する反感が広がれば、庶民は遂に旧観念支配の網を破って本音を発信し始める。まず、人権・福祉が、次いで同権・個人が槍玉に挙がり、それ(旧観念批判)を支える根拠が求められる。
>その根拠こそ、事実の認識であり、私権時代を突き抜けて原始⇒サル⇒生物史にまで遡った社会構造論である。そして、それに基づく答えこそ、序列原理から共認原理への転換であり、実践的にはなんでやネットワークの構築である。(73647)

本源的な共認統合社会の形成に向けて、正念場となる。

参考
「秩序収束と答え探索の綱引き」をめぐる投稿一覧:リンク




小圷敏文
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感応観念による歪曲(マスコミの共認支配の問題)

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
>逆に感応観念は、(次の2で明らかにするが)欠乏意識・課題意識をも状況認識をも共に歪曲し、極めて不健全な思考回路を形成する。(19059)

話題の小泉とマスコミの問題を、上記の観点から少し考えてみたいと思います。いくつかの投稿にあるように、小泉とマスコミの問題は、小泉の奇人的パフォーマンスをマスコミが煽っているという点にあると思いますが、もう少し突っ込んで考えてみると、なぜ大衆はマスコミの煽動にたやすく支配されてしまうのか?という疑問が残ります。マスコミの影響が大きいとはいえ、中身もないのに未だに支持率が40%もあるというのは不思議なことです。

人々の意識潮流の基底部に変革期待と答え欠乏の高まりがあることが、小泉人気を下支えしている共通項にあるのは間違いないでしょう。その上で、小泉支持の無党派層の意識は、次の3~4パターンぐらいに大別できるのではないかと考えます。

1.野次馬派:「自民党をぶっ壊す」「反対派には刺客」といった敵との対立姿勢を鮮明にした毒舌的パフォーマンスに反応している層。(世の中の現状に不平・不満を感じており、何であれ旧い秩序をぶち壊してくれそうなところに期待。但し、傍観者として野次馬的に見ているだけなので、選挙には行かない。)
2.目先の秩序収束派:「日本を変える」「構造改革」「郵政民営化」などの改革路線を強調するスローガン的パフォーマンスに反応している層。(中身はよくわからないけれど、どうしたらいいかの方針を断定的に言い切ってくれるところに、なんとなく(他よりは相対的に)期待を感じている。この層は、多数派(その基盤は突き詰めると国家秩序)を支持することによって、(目先であれ)安心充足を得たいという気持ちが強いので、意外と選挙には行くかも知れない。)
2'.感応観念収束派:「郵政民営化は善か悪か?」といった正義と善悪を鮮明に訴えるパフォーマンスに反応している層。(2と近い位置にあるが、感応観念的なわかり易さに反応する傾向が強い。今まで選挙に行かなかった層でも、郵政民営化の善悪を争点にすることによって選挙に行く人が増えるかも知れない。)
3.答え探索(態度保留)派:よくわからないし、内心小泉も怪しいと思っているが、変革期待だけは持っている層。(この層は、小泉支持でもない無党派の多数派を形成しているが、候補者の名前やイメージだけで、なんとなく投票してしまう人もいるかも知れない。但し、大多数はやはり選挙には行かない。)

このうち、小泉人気を支えている主流派は2、2'あたりではなかろうかと推察します。マスコミの煽動にたやすく乗ってしまう層は、収束不全が強い分、目先の秩序やそれを正当化する感応観念に安直に収束してしまうという傾向があるのではないかと思われます。

これは、感応観念が、プラス・マイナスの価値を鮮明にして分かり易くしてくれるという特性を持っているからであり、プラスの価値に収束することによって、不全を麻痺させてくれる効果を持っているからであろうと思います。しかし、問題は、冒頭の引用にもある通り、感応観念は、“欠乏意識・課題意識をも状況認識をも共に歪曲し”、思考を停止させてしまうという点にあります。

マスコミの共認支配は、このような感応観念を煽ることによって成立しており、マスコミの支配力を巧みに利用する小泉の政治手法は極めて危険であると思います。極端に言えば、事実や中身はどうでもいい(むしろヘタな中身はない方が都合がいい)わけで、人々の健全な答え探索思考を妨げるものでしかないと思います。

選挙が近づき、マスコミが騒がしくなってきている時勢だからこそ、マスコミの垂れ流す感応観念に振り回されることなく、もともと誰もが素人として持っている潜在思念の探索思考(その先端の実現回路⇒構造観念)に立ち返って状況を捉えることが肝要であると思います。




雪竹恭一
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