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ファシズムは、支配階級が追い詰められた最後の姿

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
>答えがないから目先収束――。この潮流に乗って、ヒトラーとナチスは、合法的かつ国民の圧倒的支持により、権力を獲得します。目先収束がファシズムを生んだのです。96336

第二次世界大戦前、ドイツではナチスが政権をとり、日本でも軍国主義政権となった。日本・ドイツは、欧米による世界的な侵略戦争・市場競争の中で追い詰められた国家だった。ファシズム・全体主義が登場したのは、追い詰められたからである。逆に、侵略競争・市場競争の勝者である米英では「個人の自由」を謳歌できた。

当時の日本やドイツの国民も、追い詰められている危機感を強く感じていた。だから、たとえ誤魔化しであっても、戦争に勝てる基盤や根拠がなくても、(他に危機を突破する答えがないがゆえに)ファシズムを支持する他なかった。そうして、一切の批判が封鎖され、共認支配されていった。

戦後、後進国が続々と市場に入っていったが、いずれも市場競争の中では弱者であり追い詰められた。そして後進国は、ほとんど例外なく同じような全体主義・社会主義的な体制になっていった。このように、ファシズムとは、追い詰められた(にもかかわらず突破する答えが出せない)国家の専売特許である。また、そこでは、戦前の日本やドイツがそうだったように、国家とマスコミが結託して共認支配される。

今回の小泉問題にもこの構造は共通している。確かに、現代日本は、市場競争においては勝者側であり、そこでは追い詰められているわけではない。ところが、現代は、庶民も政治家もマスコミも収束不全の顕在化によって追い詰められている状況であると言える。

'00~'02年にかけて、私権観念が崩壊し収束不全が顕在化した。ところが、答えがないがゆえに、人々の意識は目先の秩序の収束していく。73070 73071 人々は、収束不全で追い詰められているが故に、そこに可能性がないことがわかっていても、目先の秩序に収束しているとも言える。

マスコミも自民党も答えを出せず追い詰められている。マスコミが小泉自民党の誤魔化しをなんら批判せず結託するのも、小泉以外に視聴率がとれないからである。あるいは、自民党の政治家たちが、奇人変人にすぎない小泉に頼らざるをえないのも、小泉に乗っからなければ票がとれないからである。今や、旧支配階級である政治家もマスコミのやっていることは、実は追い詰められた果ての最後の悪あがきである。この状況認識が必要ではないだろうか。

戦前、私権闘争で追い詰められてファシズムに走った日本やドイツは、私権闘争(戦争)に勝てる基盤と答えがなかったが故に、戦争で敗北した。収束不全で追い詰められたマスコミや政治家は、収束不全に対する答えが出せないが故に、共認闘争によって敗北するしかない。つまり、マスコミや小泉の誤魔化しであること、根底的な変革が必要であること、その基盤はすでに整っていることを、私たちがどれだけ明らかにできるかにかかっているのではないだろうか。



冨田彰男 
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自分を対象化するって何?

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日、露店に自分の演技にこだわっている若い役者が来られた時。新しい活力源と自分発からみんな発への認識を伝えた後、みんなで良い役者とは何か?といった話になった。お笑いからシリアスまで幅広いどんな役でもこなせる、どんな人物にもなれる、表現力が豊かである・・・等が彼を含めたみんなから出てきた。

その話の中で、深く彼に気付きを与えたものが対象同一性という認識であった。つまり、対象に同化する能力こそが「役」の本質であり、皆(観客)の期待であるということ。そして、それが役者に求められる全能力に他ならないという事であった。だからこそ本来、役者にとって自分や個性や役づくりとは邪魔で余計なものでしかないのだ。

そこで彼は「そうか!そうなんだ!!勘違いして来た!」と深く頷くいた後、「・・・しかし、自分を捨てるのは・・・どうすれば・・・難しいですね。」と感想をもらした。そこで対象や課題と向き合い同化する時、そこでは自ずと誰しもが我を忘れる。逆に自分を対象化して、なくそうとすればする程、合わせ鏡のように一層自分に囚われてしまう。といった話をした。

その話をしている最中に、改めてハッとした。<自分を対象化する>この当たり前のように現代人のほとんどが無意識で行っているであろう認識構造は、それ自体が対象性を欠落させるだけではなく、出口のない無限反復構造に思考と存在を閉じ込めてしまうのだ!

>『共認こそ原点であり、意識の統合者である』(2772)

自分を原点=自分を対象化することから始まる個人主義が、認識機能を歪め、問題の突破を困難にするだけではなく、思考や個々の存在そのものを閉塞させるという事に。彼に気付きを与える関係の中で、同時に私自身もあらためて深い気付きを得られることとなった。




笠原光 
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どれだけ会社のことを語れるか?

Posted by ななし on 28.2016 記事 1 comments 0 trackback

>『社員の活力向上をどれだけ考えているか』、これは、これからの会社選びの最も重要な基準の一つになるかもしれません。(77611)

どれだけ、その会社が社員の活力向上を考えているか?を測るには、社員一人一人がどれだけ会社のことを語れるか?を見るのがいいと思います。それも、会社の偉い人ではなく、末端社員が、生き生きとリアルに語れるかが重要であると思います。

理想的には、経営者と直接話す機会があればいいのですが、現実問題としては、大きな会社ほどそのような機会は多くはありませんし、仮に経営者と話ができたとしても、社員の意識の実態がリアルに掴めるとは限りません。それに対して、末端社員がどれだけ会社のことをリアルに語れるかどうかが重要なのは、その会社の社員が当事者として、活力をもって仕事をしているかが如実に分かる試金石だからです。

例えば、なぜその仕事をしているのか?その仕事がどのように役に立っているのか?会社の経営方針や体制・システムがどうなっているのか?職場の同僚や他部門の人間がどのような仕事をしているのか?何故そのような役割分担になっていて、自分の仕事とどう関わっているのか?など、会社の全体像をリアルに語れる社員は、当事者として、活力をもって仕事をしているとみて間違いありません。逆に、自分の仕事の意味すらリアルに語れない社員ばかりの会社は、単なる傍観者・ぶら下がりとして会社に使われているだけであり、殆どヤル気もない状態と考えて間違いないでしょう。

末端社員に至るまで、仕事や会社の全体像を語れるというのは、その会社が社員の活力向上を真剣に考えている証拠です。真剣に考えている経営者ほど、もはや序列原理で上から命令しているだけでは社員の活力は出ないことは認識しており、共認原理でやってゆくしかないことは認識しているはずです。会社のことをリアルに語れるようになるには、それだけの共認形成の場とエネルギーが必要なわけで、共認形成に力を入れている経営者ほど、(理論的にどれだけ構造化できているかは別にしても)共認こそが序列や私権に代わる活力源であることを見抜いているとみて間違いありません。

会社案内や経営者のインタビューにあふれている百の言葉よりも、末端社員の当事者度や活力度が会社の実態を雄弁に物語るであろうと思います。



雪竹恭一
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踏み止まれるか、否か。

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback

2-3ヶ月前のある夜、何気なくテレビをつけたらいきなりこわそうなオジイサンのアップが映し出された。

「付和雷同」

久しぶりに聞いた旧い言葉に何となく引かれて画面を見た。

「政治家をはじめとしてあなた方(インタビュアーであるマスコミのこと全般だと思う)も含め、みんなが付和雷同という感じになっている。何かあったときに『ちょっと待てよ』というのがない。これは非常に危険な状態だと思う」

このようなことを話していた。後で知ったのだが、80は優に過ぎたと思われるその老人は、引退したGという政治家だった。

知っているけれど使ったことのない言葉の響きに、改めて辞書を引いてみた。

付和雷同・・・自分に決まった考えがなく、軽々しく他人の説に従うこと。

ムムッ、耳が痛い。。。

>目先の秩序収束の潮流に乗って、支配層の3/4と庶民の1/2は小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた。今後しばらくは、この誤魔化し充足の風潮にマスコミ(や一部の学者)が乗り、ますます根本問題の本質追求は捨象されてゆくだろう。(73071)

小泉さんに興味なく、ましてや郵便局が国営だろうが民営だろうが「(郵便物がちゃんと相手に届きさえしたら)どっちでもええ」というのが実感の私には、衆議院解散とか何とか全然わからない。なので今度の選挙も間違いなくパスする。政治的、社会的には付和雷同ではなく、傍観者なのだと思う。

仕事はさすがにそうは行かない。傍観者では何の活力も湧かない、そのことを直感的に知っているから、あらゆる局面で外圧を探し、それを内圧に代えて、次の場に突き抜けようとする。と言えばかっこいいが、要するに前しか見ていないということで、「何でもいいからやらないよりやったほうがマシ」という安直な気持ちがあることは認めざるをえない。

仕事の場面でも「何かあったときに『ちょっと待てよ』」と止まるのは、実はとても耐力がいる。2段階の耐力が要求される。

まず「何かある、ちょっと違う」と気づくということ(気づかないふりをしてやり過ごすこともできるのに、あえて気づいてしまう、・・・うっ、気づいてしまった)。そして次に選択する道、「とりあえず今はこれでしのいでおこう(泥沼化することも多い)」となるか、「うーん、このまま見過ごすことはできん。もう一度最初から考えてみよう」と止まるか。

ひとところに踏み止まるということは、前へ、次へ、と進みたい私にはかなり苦痛だ。が、やはり結果として、早目に手を打った方が「吉」と出るケースが圧倒的に多い。

「(小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた)支配層の3/4と庶民の1/2」は付和雷同と化したひとたち、そして「どうでもええ」と冷やかに眺める残りの傍観者たち。いずれのひとたちもここで「ちょっと待てよ」と、踏み止まることができるか否か。

今、日本全体が本質追求の分水嶺にいる。




阿部佳容子
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みんなにしてもらう「自己紹介」

Posted by ななし on 25.2016 記事 1 comments 0 trackback
叔父が勲章を受賞したということで、そのお祝いの席に招かれたことがあります。「形式的な祝宴かなー」と思っていたのですが、招待状が届いてみるとそこには「感謝の集いです」と記されていた。「何か違うかも?」とワクワクしながら当日を迎えました。

会の進行がどんなだったかというと、いつもながら気取ったところがない叔父が短い挨拶をすませると「私の自己紹介・経歴を紹介しようと思うのですが、自己紹介ということは私を育ててくれた人・一緒に歩んで来てくれた身近な人を紹介することに他ならないので、ここから先はみなさんに順番に自己紹介お願いしたいと思います」と言い、出席者全員がマイクを握ることに。

それからはみんなが交代でまず自分のこと、そして叔父との関係、エピソードなどを話しました。参列者の自己紹介を聞くことで、「この人とこういう影響を与えながらきて、今のおじさんがあるんだー」とわかった。周りの人を理解することで中心の叔父の人物像がどんどん鮮明に浮かび上がっていくのが最初は不思議な感じだったけど、でも良く考えれば納得。人は誰でも、周りによってつくられてきたものだから。

おまけにその「みんなの自己紹介による主役紹介」が進むにつれて会場はすごい充足感に包まれてきて、初対面同士だったはずの参加者も帰り際にはまるで以前からの知り合いだったかのようにごく自然と挨拶を交わして、再会を望みながらのお開きになりました。叔父を中心にみんながつながった。ずっと黙って「自己紹介されていた」叔父が、充足しているみんなを見てこれまた嬉しそうだったのが印象的でした。

以来、私は人と出会えばその「周囲」に興味津々。家族は、仲のいい友達はどんな人?子供の頃影響をうけた先生は?今の会社の上司は?・・・不思議とみんな、自分のことを聞かれるよりも嬉しそうに思い出したりながら一生懸命答えてくれる。聞く方も話す方もほんわかと充足してしまうこの質問、楽しくて当分続けてしまいそうです。




木村明子
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仮想の敵を作って収束しようとしている?

Posted by ななし on 24.2016 記事 1 comments 0 trackback

>そして、答えを見出せないまま、潜在思念は一方では課題捨象⇒解脱収束⇒充足収束⇒本源収束に向かい、他方では捨象し切れない社会不全から社会収束を強め、その一部はメディアでの事実収集や社会探索に向かっている。
ここで、課題捨象⇒充足収束は、全般的な思考捨象・観念捨象を促す。他方、社会不全⇒社会収束は、社会探究と構造観念への収束を促す。しかし、答えは見つからない。
そこで、充足基調の底流が、安定・調和を旨として危機感・閉塞感にフタをすべく、出来合いの「自由・個人・人権」etcの標語への表層収束を促し、統合階級による観念支配を後押しする。(19273)

どうも、最近の風潮を見ていると、収束先が無いが故に無理に敵を作り上げ、それに立ち向かうことで個人的にも、集団や社会、しいては国家も収束先を無理にでも作り上げようとしているふうに見える。

その際、敵としてターゲットになるのは、個人的には自己の権利がすこしでも侵害された場合。ほんの些細などうでもいいと思われるようなことで猛烈なクレームを出す人が増えていると聞く。

社会的にはやはり異端思想。特に非民主主義的なものは格好のターゲットとなりやすい。ことの是非は別として、誰もが胸を張って非難をすることが出来る。今ではイスラム教や北朝鮮がターゲット。

いずれにせよどちらも、どちらかといえば負のエネルギーなので、結局、良いものは産み出さず、お互いに疲弊してしまうだけ。度が過ぎると事件や戦争になる。

本当に隙を見せたらおしまいという怖い世の中になっていくような気がする。冗談抜きでつまらないことで戦争でも起こりそうである。

正しいプラス方向の収束先、答えを出さないと本当に人類は滅ぶかもしれない。



明けの明星 
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期待をかけることで実現回路を強くする

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback

私は社会人になり6年間経つのですが、改めて思うことがあります。
>「不安発ではなく充足発で課題に向かいたい」と、誰もがそう思う。87972 期トレ

どんな仕事の場にも言えることだと思うのですが、課題突破の可否はその闘争集団の成員の思考が「充足発か?不安発か?」に拠るものだと思います。充足発で臨むなら、その課題追求の場は一貫して実現可能性のみを模索する場となります。そしてその実現性はその課題に臨む成員の共認充足度→口承も含んだ過去の充足経験42827→その積み重ねから得た実現構造の認識力22202(それを獲得した統合者)で決まるのではないかと思います。

ではどうしたら充足発になれるのでしょうか。

>不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。実現論1_4_05

サル達はどうにもならない自然外圧をはじめとする不全を克服し生き抜くことが課題でした。この「依存収束→期待収束→互いの期待の同一視」という共感の中での実現思考は、常に充足とセットであるため、(現代人の癖ともいえる)小さな不全で直ぐに思考停止(自己閉塞や否定視からの疲労感→捨象)してしまう様なことはありません。

課題に向かう成員皆が期待収束し、皆の内的欠乏と対象認識(=実現構造)とを結ぶ経路を模索する、この先端思考を繰り返すことで実現回路はより太くなり、課題の実現性も答えの質もグッと増すこととなる。「仲間に期待する」ということの重要性を改めて思います。

>①~④ それぞれの段階で、充足感を感じること。「期待のトレーニング」87972 

ある課題に向かい互いに期待収束=可能性を求めて集まった集団であるならば、その期待(⇔応合)の中には、常に充足があるということ。普段の仕事の場面でも、自集団のみならず 普段は閉塞しているだろう外の旧集団の意識すらも充足発の可能性収束の思考に巻き込み、活発な答え追求の場、まつり場を生むこともあります。誰もが>「不安発ではなく充足発で課題に向かいたい」と思っているのでしょう。

この実現思考をもってすれば、捨象or否定意識から入りがちなトラブル、クレーム処理の課題ですら、対象の仕組みや実現基盤の解明から遡りその構造から掴もうとするので、中心には常に共認充足があり、活力ある場へと収束します。
この積み重ねがさらなる潜在思念の強化につながり、実現回路を太くしていき、ひいては社会全体の閉塞感も打ち破る実現方針を見出せるものだと考えます。




一力広明 
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“個性”は自分のためにあるんじゃない

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日のなんでや劇場「自分って何?生きるって何?」で、人の成長とは、決して自分一人で成されるのではなく、「同化対象を母親、仲間、社会・・・と広げていくこと」によるという話になった。
その際、「対象と同化すると皆同じになってしまい、個性が無くなっていくようで不安・・・」との意見が出された。

確かに“同化”が、ただ単に周りに合わせるという意味ならば、皆同じになってしまいそうで(特に「個性が大事」と言われ続けた世代にとっては)不安な気になるのもわかるが、実は逆ではないかと思う。

まず、そもそも“同化”という現象は、強弱はあるにせよ外部から与えられる外圧に適応する第一歩として生ずるということ。

例えば、人類も含めあらゆる動物が有する本能機能も、環境の変化(ex.海から陸に上がる)にまず同化(ex.空中から酸素を摂取する必要)した上で、DNA変異を駆使してより適応的な形態を探索した結果、新たな進化の方向性(えら呼吸→肺呼吸)が見出される。現在の動植物が極めて多種多様であり個性に富んでいるのは、こうした環境適応への試行錯誤を繰り返してきた結果にすぎない。(当然、現在見られる形態を遥かに超える数多くの“個性の死”の上に成立している。)

人類の場合は、それが本能変異という長いスパンでなく、共認内容の変更という短スパンにおいて可能であり・・・
まず場の圧力の変化(ex.生存圧力の衰弱→私権の無効化)が皆の潜在思念の変化(ex.自分第一→みんな第一)を引き起こし、その意識にまずは同化した上で、より皆がすっきり共認充足を得られる新たな観念を模索、徐々に収斂してゆく(ex.私権→共認)。

そして、皆が満足できる最適な適用様式を目指して皆が一斉に模索する過程において必然的に“個性”が生ずる。(身近なところでは、どうしたらより皆をすっきり充足させられるか?を日々追求、試行錯誤するなんでや露店の店主達の個性的なことか・・・)

だから、本来“個性”とは、適応のために不可欠な“多様性”と言い換えても良いと思うし、現在のようのに、見せ掛けの個性(単なる違い)ばかり追い求め、本来的な意味において没個性的である状況は、進化適応上極めて危険であると言わざるを得ない。

なぜこのような状況になってしまったかは明らかであり、旧観念(近代思想)を背景とした「自分が大事」「個性第一」一色の誤った教育が、皆の意識を“自分”という内面に封じ込め続ける結果、パラダイ
ム転換に伴う外圧の変化や、潜在思念の変化を看取(=同化)できず、本来の優れた探索⇒適応機能が作動しないがために違いない。

個性とは自分のためにあるのではない。
しっかりと外圧(≒皆の期待)に同化し、皆の役に立とうとする中で育まれていくものなのだ。




越見源 
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親孝行と親元収束

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
親孝行が人間の大切な道徳として見なされる中国には、よりいい生活を親が送って欲しいと思う人たちがより仕事のチャンスが多い都会に出て、お金を稼ぐために親離れしています。稼いだお金を故郷にいる親に仕送りするか、あるいは、都会でマンションを買って親を迎えるかという形が多いです。私の杭州にある家の周りも、外地の人が沢山住んでいます。みんなすごくばりばり働いてるようです。杭州にある不動産会社が外地の人たちをメインのターゲットにして、広告を出しています。今都会で活躍している人が外地の人が多数に占めています。

逆に、裕福な家庭の出身の子は、現状の生活で物的には全て充たされているから、外に出て奮闘する気がなりません。どちらかと言うと、親元収束です。私の友達の中に何人かが典型的な親元収束タイプです。更に、その中の一人が今精神状態が悪くなって、鬱病に近い症状が見られます。杭州に離れて、他のところに行ってみたら?って言うアドバイスを出してあげたけれど、やはり本人は親の側にいると、生活の面が何の苦労もしなくても済むから、楽だようです。でも、精神の面は拠りどころがない、「内面は聾唖者です」って本人が言いました。「生きる意味が感じない、人生の中に楽しいことはない」、そして、プラス失恋の陰で、「私が必要とされてない」とか、かなり悲観な考えを持っています。

友達をみて、親元収束って怖いなぁと思いました。正直に言って、友達のことをすごく心配しています。今の環境を徹底的に変えないと、良くならないと思います。

環境が人に対する影響ってすごいですね。外圧がない状態で、生きるなんて実は苦しいです。全然活力がなく、息苦しく、半分死ぬ状態に近いです。そして、本当に間違っているのは、友達が「親は私がいないと、寂しいから、親孝行しないと。。。」って思い込んでいます。
今の状態って親孝行を言えるでしょうか?!親は自分が産んだ子どもが活き活きしてる姿が見たいでしょう。今の友達を両親も心配していると思います。

>しかし、親元収束が行き着いた果てが、引き篭もりである。彼らはもはや目先の共認充足よりも不全を遥かに強く感じており、従って既成の制度に目先収束している多くの人々より、不全の対象たる社会そのものを捉えようと観念収束し始めているのではなかろうか。
現に、なんでや露店には(家族発の)不全を抱えた若者が多く来店し、認識や共認運動への収束力は普通の人より明らかに強い。(辻さん84040)

日本の状況ですが、中国のとちょっと違うと思いますが、でも辻さんの投稿を読んだら、親元収束タイプの人に可能性を見えてきました。
もっと露店の事例やるいネットの内容を友達に話して見たいです。いつか友達が収束先を見つけると思います。



呉珍之
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「自分」という旧観念を対象化し始めた

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback

若者が時折考える「自分って何?」という意識の登場も探索基調の一例だろう。

団塊世代の親達にとって「自分」とは「私権主体」としての自分に他ならない。少なくとも彼らが就職する’70年頃までは、市場と共に急速に拡大する私権の可能性に収束しており、したがって私権主体としての「自分」は実感を伴った意識であった。

彼らは私権を対象化していたが故に、私権主体としての自分を正当化(=序列規範・農村規範を駆逐)する「個人」や「自由」、「権利(人権)」といった近代観念に収束した。
しかし、’70年以降彼らは瓦解した私権に代わる答えを作ることなく、もっぱら観念を捨象してきた。

一方、彼らの子どもである現代の若者達は仲間~みんなへと同化対象を広げており、決して私権や自分には収束していない。
そんな彼らが「自分って何?」と考えるきっかけのひとつに就職活動があげられる。

就職=「社会に出る」ことを強く意識する時、彼らは羅針盤として大人たちに収束する。
彼らは社会を対象化しようとしており、決して初めから内向きなのではない。対象である大学やマスコミ、親等、大人たちが旧い「自分」観念を示すことしかできず、若者も一旦は「自分」に収束してしまうのである。

しかし、「自分」に収束できれば、「自分って何?」とは考えない。それは、大人たちが対象を失ったまま発する「自分」という観念と、社会収束⇒探索する若者自身の潜在思念の断層、換言すれば親元収束と社会収束のせめぎ合いが「自分って何?」という問題意識を生じさせたのだろう。

>社会共認の収束先を探索すれば、改めて旧観念・旧体制を対象化せざるを得ない71820

「自分って何?」という問題意識の登場は、社会を対象化し、初めて「自分」という旧観念に対峙し始めた証左なのではなかろうか。




辻一洋 
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団塊の世代の二重の犯罪性

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback

 
収束不全:やりたいことが見つからない
92892 団塊の世代の二重の犯罪性
 
小松由布樹 HP ( 40 岐阜 農業 ) 05/06/18 AM00 【印刷用へ】
先日のなんでや劇場のテーマは、「自分って、何?生きるって、何?」。
その中で、「団塊の世代の二重の犯罪性」という言葉が印象に残った。

歴史を遡って見ると、身分序列のガッチリしていた封建時代は、夫々が「武士(or農民etc.)としていかに生きるか」を考えるだけで、「自分って何?」などと考えたりしなかった。自我・私権の可能性が開けた市場時代も然り。いかに私権を獲得するかに邁進し、やはり「自分って何?」などと考える必要はなかった。

「自分って、何?」「自分探し」という言葉は、団塊の世代発。
彼らは、徹底して親に反抗し社会に反抗してきた、反抗世代である。農村から都市への流れの中で、自由(とりわけその中心は性の自由)を求める都市の価値観は、旧い農村の価値観とあらゆる点で対立する。彼らはその反抗を正当化するために、自分という観念に収束していった。

しかし、彼らは単に旧い序列規範や価値観を否定してきただけであって、それらに替る新しい中身(自分たちが同化できる規範や価値観)を何も作っては来なかった。その結果、自分たちが親の立場になった時、子供たちに対して語るべき言葉(中身)を失ってしまうことになる。彼らが使う「自分の好きなようにしなさい」「自分の気持ちが一番大事」などという言葉は、まさに中身の無さを誤魔化す言葉でしかない。

また彼らは、「やりたいこと」や「役割」を求めて対象に向かい始めた若者に対し、「自分探し」と名づけたり「自分」や「個性」を押し付けてきた。しかし若者は明らかに「みんな」や「仲間」に向かっているのであって、それに対し自分たちの中身の無さを誤魔化す「自分」や「個性」を押し付けるのは、もはや犯罪的である。

しかも彼ら自身は、「自分探し」などしてきた形跡は全くないのにも拘わらず、である。要するに彼らは、「自分探し」の何たるかさえも理解することなく、実に無責任にその観念をばら撒いているのである。
これがもう一つの犯罪性であり、“二重の犯罪性”と呼べる所以である。

団塊の世代を中心とする大人たちは、自らの犯罪性を深く自戒すべきであろう。その上で大人たちも、若者を含めたみんなの中に、同化対象を見つけていくことが求められているのだと思う。




小松由布樹
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適応って

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback

>もし「成長」という言葉自体に独特の違和感を感じるのであれば、それに代って例えば「適応」という言葉を使ってみてはどうでしょう。(28574 西さん)

違和感をもし感じるとすれば、成長という言葉を「自分」観念で捉えているからではないだろうか。
極端な話、「自分の経験の蓄積」とか「自分の努力で成長する」という風に捉えていれば、他人にとやこう言われるのが気に障るのも当然だ。

「適応」も同じだと思う。「自分が」適応するというのであれば、単に立ち回りがいいだけ。

適応とはまず、周りへの同化であると思う。
つまり自分がどうこうなどいうのは超えて、周りと一体となる、そうして初めて>「可能性に向かって変化し続けるだけ」となるのではないでしょうか。

自分が主体ではなく、(自分を含めた)まわりが適応していくことに他ならない。
だから、「自分だけ変わった」とか「自己変革」などというのはあり得ず、常に周りの変化を伴う(一体)のだと思う。だから成長したか否かの評価は周りからしか与えられない。
それが
>全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。

ということ。
みなが収束することにより、統合されていってることが適応であって、けして「自己実現」などあり得ない。
逆を言えば、適応できないこと(統合感がないこと)による不全感を「自分観念」で代償充足しているから、いつまでたっても可能性に収束できないし、そもそも可能性を捉えることをできなくさせているのではないだろうか。
だからこそ「成長」にしろ、「自分」にしろ「生きる」にしろとやこう理屈づけてしまうんだろう。



平川要
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悩まなくなった・・・

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
実は最近、本当に悩まなくなった。

少し前までは「職場で後輩をどう育てていこうか」とか「人とどう付き合っていこうか」とか、あれこれ考えていた。それでもあまり悩みこまないタイプだとは思っていたが、それは「単なるプラス思考で自分的に捨象していただけ」だったと今は思う。

今も問題がないわけではない。ただ、独りで悩まなくなった。何かあっても一人であれこれ考える時間はすっとばし、すぐみんなのところへ話にいく、という感じだろうか。人と対面でのことが多いが、るいネットが相手の時もある。

以前と何が違うのかといえば、決定的なのは常に共認回路を使っていること。必ず「誰かと考える」。そして、その時共有するのは必ず「事実・現実」。

>共認機能があるから、不全(問題)は、みんなで共認して活力⇒充足にできる。

それを繰り返すうちに、気付くと実現に向かっている。



木村明子
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『私も動物みたいに生きられたらいいのに』

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
『生きるって何?』というお題に答えていた時(それを聞いてきたのは、近くでいつも仲間と屯している女子高生だった)、「動物はそもそもそんなことを考えず、本能の欠乏を充たすためだけに生きている(例えば食って寝て、発情期に殖行為をして・・・)。」という話に、彼女から出た言葉は、

『私も動物みたいに生きられたらいいのに』

だった。学校には行きたくない、でも辞めたところでやりたいことも目標もない。おそらく、なかまと屯していても、何か物足りなさを感じているのだろう。

でも、人間だからこそできることがある。その時「理解できるかなあ・・・」と半信半疑の中、樹から落ちたカタワの猿の話をした。

>足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。(実現論1_6_01)

この共認機能があるからこそ、みんなで笑いあったり、協力して何かを成しとげたりすることができる。それこそが『生きる=活きる』ってことなんじゃないかな。と。

真剣に聞く彼女の姿を見て、他の仲間もどんどん集まってきて、気が付けば10人以上の人だかりになっていた(最初は1人だった)。みんな「何か」を求めているのだろう。

どうしたらいいのか分からない中、ただ一緒にいることで安心する。
しかし彼女らの共認充足は、とことん『課題捨象』の共認充足。お互い依存し、不安を解消し合うだけにとどまっている。だから不安定で、頼りない。『出口が見えない、答えがほしい』という状況を認識し、どうにかしよう!と答え探索に向かった時、まさに樹から落ちたカタワの猿のように、次なる可能性へと向かっていけるのではないか、と感じた瞬間だった。



浅田祥幸
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外圧適応が思考の出発である

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback

夫々の役割とは極論すれば、外圧状況とその外圧に身をおいている構成員のメンツによって必然的に決まる。つまり現実の様々な局面では外圧に適応できるか否かだけが問われるのであって、個々の能力や得手不得手は二の次である。

「人の役に立ちたい」という意識は健全だが、「自分には何が向いているのだろう」という己の能力を問うような意識や、「自分に出来る事はなんだろう?」という役割探索の意識は、健全のように見えて実は外圧適応がすっぽり抜けている空転した意識である。

外圧を直視する→課題が鮮明になっていく→役割が具体化してくる、と外圧発の思考では観念が物事の中身を具体化するベクトルに向かうので、自ずと夫々の役割も正確に定まってくるのに対し、圧力を捨象した意識での役割探索では「自分って何?」というようにとことん物事が抽象化していき自ずと役割意識は定まらない。

自分収束と外圧適応は180度違う思考ベクトルである。



喜田育樹
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「自分」という壁がなくなる

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
去年の今ごろまで、僕は自我充足することだけを頭で考えていたように思えます。自分というものが一番大切みたいな感覚で、かなり周りのみんなに迷惑をかけていたと言うのも事実だと思います。気付かぬうちに周りの人たちに二重三重に壁を作っており、「自分」を見透かされたらその人に馬鹿にされるに違いない、こんな感じで思い込んで、周りの友達とは少し距離をおいてしまい、周りのみんなと自分は別物と考えていました。勿論周りのみんなの充足は、まったく還元できないでいました。そうやって去年まで殻に閉じこもってました。

周りが喜ぶようなことをしても、相手の充足を活力に繋げず、ただただ疲弊していくだけでした。そんな時「これは単なる自己犠牲だ」「これじゃただの偽善者だ」こんなふうに思っていました。そしてそんな自分が凄く嫌いでした。

まったく充足できずに誤魔化し続けたその結果、去年の6月に躁鬱症状と診断されカウンセリングを受けたり、精神安定剤みたいな物を投与されたり・・・。カウンセリングには5回くらい通いました。周りのみんなと自分は別物といったような感覚があったため、カウンセラーの人に対しても、勿論心を開けず、『何にもよくならない』といった感覚がありました。そして通っていた大学を休学することにしました。

その休学中になんで屋の仲間と出会い、新しい認識を学んだり。
そんな自分でも肯定視してくれる仲間がいたり。
共認回路を使えていないことに気付かされたり。
何が原因なのかわかってきたり。
(最近やっと一人でも出来るようになったのですが)感謝のトレーニングを行ってみたり。

そうやって錆付いていた共認回路を少しずつですが使えるようになってなのか、最近では以前みたいな絶望に近い疲労感はなくなったと感じます。

>「共認」は、相手(の充足)=自分(の充足)。人が喜ぶ顔を思い浮かべただけでも嬉しくなったりヤル気が出てくることを思えば、そこに「自己犠牲」という発想は生じません。(山崎さん84818)

この過程においてどんどん「自分」という意識や、「自分」という壁が無くなっていく感覚がありました。それと去年からの一年間は、まるで子供のときのように凄く長く感じました。ゆっくりと時間が流れる感覚の中で、周りのみんなのことが以前より数段と見れるようになってきて、周りのみんなの充足こそが活力源になっていきました。

今では周りのみんながありがたくて仕方がない。
だから僕は「共認充足か?自我充足か?」と聞かれたら共認充足に強く可能性を感じます。そして周りのみんなにも共認充足を、どんどん活力源につなげてほしいと感じます。



匿名希望
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探しているのは闘争圧力

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
>大学の授業では(自我)心理学や哲学が人気らしい。(89703 冨田さん)

露店でも、私の友人でも、心理学や哲学に興味を持つ人は多い。「やりたいことがみつからない」「やる気が出ない」等、収束不全の突破口を見出すべく、手探りの答え探索は確実に観念収束の流れを生み出しているよう。しかし、旧観念では突破口を見出せないばかりか、やる気の基となる、置かれた状況の「圧力」を捉える事ができず、いつまでも内面探索に留まらせる。

一方、学生の多くがバイトや資格勉強等、ビッシリ詰まったスケジュールで動き回っている姿は、やる気の基となる「圧力」を探索しているようにも見える。

貧困という本能直撃の圧力を克服した現在、共認機能・観念機能をフルに働かせなければ闘争圧力を把握することはできない。圧力を感じなければ当然、向かうべき課題も不明確。やる気も出なければ、仕事や勉強でも成果がでない。外圧を把握するだけでなく、突破口となる見通しを立てる場面においても当然ながら観念が必要。

「やりたいこと」や「やる気」の源は、共に闘争圧力を捉え、突破口を見出すべく事実追求する仲間と、みんなの成果物である構造認識の中にある。




KOU
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答え探索と必要か否かの『判断の土俵』

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback
>この『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。(33995)

『必要か否か』というのは、確かに、極めて基底的な地平にある判断機能ですが、人間の場合は、その判断の中身は、みんなの「共認」によって決まるということが大きいと思います。人間にとっての『判断の土俵』というのは、そのような共認機能が発揮される土俵、或いは、共認形成の場というような意味合いかと思います。とりわけ、本能を直撃するような生存圧力を克服した現代の人類にとっては、本能的な『要・不要』というよりは、共認機能(或いは共認形成の場)によって、『必要か否か』という判断が決まるという比重の方が大きくなってきていると思います。

ところが、私権統合が崩壊し、私権の強制圧力が衰弱した現代においては、『本当に何が必要か?』という答えを突き詰めて考えると、その答えはあまり明確ではありません。むしろ、何が答えかが分からないという収束不全の状況にあって、『本当に必要なもの』の答えをみんなが探索しているという意識潮流が基調にあるのではないかと思われます。例えば、家計の消費で延びている教育(子供への投資、自分の資格)、サービス(ネットや携帯などの通信費、医療・福祉サービスなど)、娯楽(旅行や交際費)などは、それが『本当に必要なものである』とみんなが確信しているから延びているというよりは、『みんなが必要としている(であろう)』と思われるものを探索しているから延びていると考えた方が、実態に近いような気がします。

そのように考えれば、現状は、収束不全故の答え探索基調によって、本来の必要か否かの『判断の土俵』が顕在化しつつある状況にあると言えるのではないかと思います。例えば、「みんなどう考えているんだろう?」「本当はどうなんだろう?」といった答え探索の基調は、「みんなの評価」という共認機能を本来の判断機能として機能させよう(=『判断の土俵』を再生させよう)とする潮流と見ることもできるのではないかと思われます。

『判断の土俵』が顕在化してくれば、、『必要か否か』の内容を固定化するための先端機能である評価共認に収束してゆくのは必然的です。生存圧力を克服した人類には、人類本来の基底的な判断機能である評価共認を羅針盤にして、最も確かな答え(本当に必要な内容)を確定してゆく可能性が開かれたと言ってもいいと思います。

そうなれば、最先端の評価指標が「どれだけの人に共認されたか」という『人数』になってゆくというのも必然です。現状でも、教育やサービスや娯楽などの評価も、その供給者がいくら売り上げているかという『お金』よりは、どれくらい人気があるかという『人数』が第一のモノサシになってきていますが、今後この流れはますます強まってゆくであろうと思います。





雪竹恭一
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フリーターでは勝てない

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback

>序列闘争の旨味がなくなったことで、相対優位の欠乏が失われた
 だけでなく、序列闘争そのものから逃避する動きが出てきている。
 大学院志向や、フリーター志向も、同様だろう。

私権に対する魅力がなくなり、それに代わる新たな魅力の構築=社会統合が築けていないため、古いシガラミや圧力からの逃避の形態としてフリーターを位置付けれれるのではないか、と私も思う。
あくまで腐った社会での生きる術としての消極的な選択。

学生時代の経験から思うに、アルバイトも労働内容に工夫の余地はあるし成果も現れる。期待もかかっているし仲間もいる。
その点では確かにヤリガイはある。
しかし所詮アルバイトはアルバイト。
生産(社会)の主流派にはなれない。

例えば国家レベルの国力として考えた場合、アルバイトが就業人口の半分以上を占める国が他国と競争していけるのか。勝てるのか。
また、そんな社会が次代を担う子供や若者にとって魅力的な社会として写るのか。働く人々に活力を生み出せるのか。
当然そんな所に可能性は見出せない。

活力があり魅力的な集団が社会を構成しているのであれば、フリーターなど自然消滅するはず。
逆にそれを成し得なければ、失業率が好転してもフリーター志向は止まらず浮遊する若者達が増殖し、社会的な混迷が加速する。




赤澤功
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「悩み」に関して

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
>つまり、主体に内在する、規範あるいは規範意識が「エゴ」や無軌道に陥ろうとする「自我」を制御しているという関係なのではないかと思います。

例えば仕事・家庭・恋愛でもなんでも、自我と規範が鬩ぎ合っている状態が、所謂「悩んでいる」状態であることが往々にしてありますが、その状態というのは、ある規範がなんとなく存在している(形骸化している)或いは、統合軸足り得ていない場合に起こりやすいのではないかと思います。

>そして集団には常に集団としての統合軸(収束先)が必要になってきますが、規範は統合軸そのものでもあります。
そう考えると、これからつくられていく規範にはなんのマイナスもなく、逆に規範の構築は不可欠なのではないかと思います。

「悩み」の場合もやはり同様で、出される結果はどうあれ、何に拠って判断するのか(答えを出すのか)がはっきりしていることが、「悩み」を解消(スパイラルに陥ることを防ぐ)するための方法であり同時に基盤であるように思います。



胡麻とOFF
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収束不全と共認不全 6

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback

収束不全と共認不全 1~5を踏まえて

現在、生じている収束不全⇒統合不全は社会不全に他ならない。これは、外圧共認(状況共認、原因分析含む) ⇒ 課題共認(方針共認含む) ⇒ 役割共認 ⇒ 規範共認 ⇒(制度共認・行動)⇒ 評価共認のどの段階においても構造認識なくして、共認充足が満たされないことを意味している。

しかし、一連の流れを断ち切るような動き、即ち、収束不全が発生すると共認不全(非充足状態)が生じ、共認不全・収束不全を解消するために潜在思念が生起するという、不全解消機能(適応回路が充足・安定・調和に収束)がこの一連の各共認の中に内在している。これが目先収束の源となっている。

ただし、先にも述べたように構造認識(観念機能)を持って構造解明=状況認識が出来なければ、旧観念や既存制度に目先収束すしかない。もちろん外圧・課題共認が図れたとしても、役割を担わない場合(=傍観者)はいつまでたっても収束不全状態から脱することは出来ない。このことは、構造認識(観念機能)の重要性、役割を担う=当事者になることの重要性を示している。

同時に、現在もたらされている収束不全は、単一の収束不全ではなく、積層構造を持った収束不全であり、それら全て不全の収束先が見つからないと共認不全は、解消されないといった構造にあるということも意味している。



加藤俊治
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男は闘争存在

Posted by ななし on 08.2016 記事 1 comments 0 trackback
なんでやカードで男性に人気なのが『男は闘争存在』カード。「みんなの期待に応えて闘うのが男!追求力、前進力、統合力」や、「逃げない、ごまかさない、あきらめない。男は闘争存在」というもので、何のためらいもなく選ばれる。しかし、闘うってどういうことなのか分からない人も多いのではないだろうか。

先日も「闘う男になりたいのだがそう成れない」と、若者が相談を持ちかけてきた。自信がない、活力が沸かないといった状況とも渾然一体のようである。まさに収束不全であったが、案の定「闘う」こととは私権闘争のことだと思い込んでいた。

>しかし、’70年、貧困が消滅して以降、私権への収束力は衰弱し続け、至る所で活力の衰弱が進行して、社会は全面閉塞状態に陥ってしまった。今や、国家も企業も家庭も、全てが迷走状態にある。(44391)

>これは、おそらく人類の適応不全、つまり、個人や集団や国家という枠を遥かに超えた、種としての『みんな』不全である。そうである以上、人々の意識が、個人や集団を超えた『みんなの期待』に収束してゆくのは必然である。(同上)

>おそらく次代では(むしろ現在すでに)、『みんな不全』⇒『みんな期待』に応えることが、一番の活力源になる。
では、現在のみんな不全⇒みんな期待の中身は、何か?
それは、出口が見えないということであり、答えが欲しいということだろう。(同上)

闘うこととは答えを出してみんなを導くこと。
序列原理の崩壊から、共認原理へ転換したことの事例を交え、自ずと力の基盤が共認形成力へと転換したことを語ると、ようやく序列闘争の呪縛から抜け出せそうであった。

>新世代は、はっきり捨象基調から探索基調に移行して、とりあえず勉強(⇒仕事)収束を強めている。(71820)

新世代の男は、本来の闘争存在たらんと闘争対象を探索している。中には対象が見出せず、古い枠組みに囚われてしまい、闘う男になれないと思い悩むものも出てくるのだと、その若者を見て思った。心底では仲間やみんなへ転換しているので、意識潮流や社会構造を解明する構造認識があれば、潜在思念が闘争対象を見出すことができる。
その若者は、自分用と仲間用に同じ『男は闘争存在』カードを購入して帰っていった。仲間に発信することで、闘争存在を生み出す供給者になってもらいたいと願わずにいられない。



岡本誠
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答えがないと続かない

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
 知り合いの女の子がネットワークビジネスを始めると言いだした。お金を稼ぐ事に執着しているお金に執着しているタイプではない。

 確かに、既存の企業で多くの人達が閉塞してしまっているのに対し、ネットワークビジネスをやっている人達は元気がいい(ように見える)。

 既存の企業が自社の中だけで硬直してしまっているのに対して、ネットワークビジネスはその名の通り、集団が有機的で外に向かってどんどん広がっていく。その拡がりが一番の魅力のように思う。つまり「身内からみんなへ」という欠乏、「人繋がり」という欠乏を満たしてくれるのがネットワークビジネスなのではないか。

 ただし、ネットワークビジネスをやり続けることはなかなかしんどいらしい。最初はそのような繋がり・拡大が楽しいが、そのうちその活力も衰退していく。なぜなら、外へ、みんなへと向かった欠乏の根底は、答え欠乏、新しい認識欠乏であるにもかかわらず、飛び出した先にも結局旧観念しか存在しないからだと思う(お金が稼げるとか、健康になれるとか)。

 「人」に向かっている自分。ただし、その先には「答え」を求めているんだという認識だけでも、大きく行動が違ってくるように思う。




野崎章
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「確かな拠り所」の探索

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback

>しかし、存在不安から生ずる「必要とされたい」という意識は、例え自分発であっても、確かな手ごたえを感じたいという強い共認欠乏の顕れである。そして、表層の仲間関係や目先の制度の中での役割では確かな手ごたえを感じない。という意識を同時に生起させ、収束不全⇒答え探索の潮流にも合致する。(87925)

存在不安から生ずる「必要とされたい」意識は、就職活動の際の、企業選択に如実に表れている。

一つは、「表層的な仲間空間は、もう嫌だ」という意識。彼らは、表層的な仲間空間を生き抜く中で、それぞれにキャラを選択しやり過ごして来たわけだが、課題も無い中での表層的な仲間関係は必然的に疲労する。キャラを使い分けてやり過ごす仲間関係がバカバカしくなった彼らが、課題が共有できる真の仲間を、それが実現できそうな職場を求め始めている。

もう一つは、「(企業としても)社会的に必要とされたい」という意識。「必要とされたい」意識で、仲間空間で役割を探索するのだが、確かな手応えは感じられない。答えもなく、閉塞してしまう。ここで、探索の矛先は仲間を越えて社会=みんなにも向かう。自分が企業の中で働いて出す成果が、社会的に必要とされるものなのか?の答えを常に探している。もし答えがあるなら、どこまでも探索し、追求したいという思いが強い。

結局、社会=みんなという地平でも、仲間という地平でも、「必要とされたい」意識が強まっている。それは、どちらの地平であっても「答え」となる「確かな拠り所」を求めていると言える。



小暮 勇午
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どんな課題もものたりない=手応え欠乏

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
>課題も期待も何も見えない現在において、そもそも自信が付くような体験などないに等しい。一見平和ではあるが、課題のない家族や仲間関係の中では充足は表層レベルに過ぎず、・・些細な共認欠損・相対欠損が絶対の評価となり強力なダメ観念を生じさせたり、課題が見えない事、それ自体が存在不安を強く形成しているように思える。

昨日、露店に来た24歳の男性に、露店のメニューを一通りすると、「俺って別に悩みっていう程のものがあるんじゃないんだけど、でも悩み相談して欲しいんですよねえ。なんで俺って、ここ(なんでや)に座っちゃってるんですかねえ。それを教えて欲しい」と問うてきた。

そこで、一通り、彼の目先の悩みを聞くと、最初は彼氏彼女の悩み事や、仕事での悩み事などがでてきたが、突き詰めると「ある程度の目標に向ってつっぱしるけど、すぐヤル気が続かなくなって、ハングリー精神を持ちたいって思うけど、今の時代にハングリーになれるとも思えない」というのが悩みの中身であった。つまり収束不全そのものが悩み相談のネタ!

家族関係も聞いたのだが、「平凡な家庭で、虐待も何もない、、、だからこそ、ベタすぎるっていうのがイヤ」と返ってきた。(ここでいう関西弁の‘ベタな家族’とは誰もが予想できるような反応しかできない、予定調和的な家族関係≒表層家族を意味しているようだ)

辻さんの言うように「課題が見えない事、それ自体が存在不安を強く形成している」ようで、特に「兄の不在」(二人兄弟で上はマメなお姉さんだけ)、「父の不在」(よき父を演じようとしている父)が、彼の存在不安の原点で、それが彼を強く仲間関係(その中でもみんなに認められる存在になりたい)に収束させたようだ。そしてその仲間収束の方向は小学校時代の「いじめ」や中学校時代の「ケンカ」を主導することだったようだ。そうした仲間の主導経験をベースに18歳以降は、ショップを立上げ、みんなをリードする役回りを演じているのだが、どうもそうした活力もつきつめれば「答えが見えないが故の目先の共認収束に過ぎない」のであって、ついに息切れしかけており「どうしたらハングリー精神をもてるか」などという思考の隘路に入ったという訳だ。

「いじめ仲間」→「ケンカ仲間」→「起業仲間」と「目先の仲間収束」を繰り返す中で、まさに「どんな課題もものたりない=目先に過ぎない、もっと手応えのある、これが答えだっていえるものはないのか」という意識がどんどん強化されていき、「みんなの意識を知りたい。みんなの期待に応えるコトバが欲しい」という本格的な探索欠乏が彼をなんでやに導いたというわけだ。70年パラダイム転換を織り交ぜながら、こうした現在の収束不全について話すと「くやしいけど、今の話、ほんとうに自分にあたってますわ。また来ます」といって彼は去っていった。

収束不全→目先の共認収束→再閉塞。83605で阿部さんが「若者が目先に安住できるのは、なんで?」と問われていますが、そうした大勢の中にあって、もはやそうした「目先の共認収束では安住できない」というタイプもかなり登場しているのだと思います。その意味でどこか目先の制度収束的な色彩の強い「役に立ちたい」派よりも「必要とされたい」派とか「手応え欠乏」派の方が今後、重視すべき対象といえるのではないでしょうか。




山澤貴志
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期トレ

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
「不安発ではなく充足発で課題に向かいたい」と、誰もがそう思う。
では、どうすればいいのか。

>自信がない

自信がないというのは、課題共認⇒役割共認⇒評価共認の『評価』の部分だけに目がいってしまって、その間の無数の充足過程(対象)を捨象して、勝手に共認非充足→自閉思考に陥っているんだと思う。

そこでお薦めなのが、期待のイメージトレーニング☆

①今の状況を想像する、予定を考える、色んな人を思い浮かべる。
②そうすると、そこで生じる想いや期待や課題がたくさんたくさんたくさん出てくる。
③それを色んな人がやろうとしている(やっている)イメージが湧く。
④そんな中で、今出来ること・やるべきことが見えてくる。

こうやって、朝の布団の中で15分~30分(1時間でもいいけど遅刻する・・・笑)、期待のイメージトレーニングをすると、最初っから、課題を共有できた充足・期待されている充足を感じて物事に向かうことが出来る。

慣れないうちは、
●出来れば①②③④の順で行うこと。例えば、④から入ると自分観念に囚われたり、③を飛ばすと焦りに繋がったりすることがあるので。
●それぞれの段階で、充足感を感じること。
●自然に次の段階に思考が至るまで、ムリヤリ統合しないこと。今日は①だけ~とかでもオッケーなので、気楽に可能な限り思考対象を広げること。
に気をつけたらいいかも。



西知子
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目先の秩序収束では確かな手ごたえは得られない

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
今の学生達は「役に立ちたい」意識より、「必要とされたい」意識が強いようだ。

最近の学生と話をして気付く事は、驚くほど自分に自信が無い事である。
自己否定の「ダメ観念」に強く支配されているようだ。

課題も期待も何も見えない現在において、そもそも自信が付くような体験などないに等しい。
一見平和ではあるが、課題のない家族や仲間関係の中では充足は表層レベルに過ぎず、(実体はどうであれ、たった一週間のいじめや、兄には期待がかけられているのではないか?妹は自分より可愛いがられているのでは?といった疑念など)些細な共認欠損・相対欠損が絶対の評価となり強力なダメ観念を生じさせたり、課題が見えない事、それ自体が存在不安を強く形成しているように思える。

つい一年くらい前まで主流であった、社会(みんな)の「役に立ちたい」という思いは、「役割を見つけること」が課題となり、したがって唯一の突破口として、資格を取得する、公務員といった身分を確保することへと課題がずり落ちても、とりあえずの充足が得られたのだろう。(期待封鎖の若者がとりあえずの役割収束へと向う典型か?)

しかし、存在不安から生ずる「必要とされたい」という意識は、例え自分発であっても、確かな手ごたえを感じたいという強い共認欠乏の顕れである。そして、表層の仲間関係や目先の制度の中での役割では確かな手ごたえを感じない。という意識を同時に生起させ、収束不全⇒答え探索の潮流にも合致する。

彼らの「ダメ観念」は全てを否定しているのではない。自己否定ではあるが、自分や自我に捕らわれているわけでもない。「ダメな現実」から脱却するために、新観念や統業の必要性・可能性を誰よりも切実に感じているのではないだろうか。

>深くかつ強力な収束不全⇒探索基調の生起とは、みんなで社会共認を形成してゆく共認社会の最大の実現基盤が遂に姿を現したということなのである。 71820





辻一洋
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公務員志向 関連資料

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback

●国家公務員:受験申込者数は減少傾向
国家公務員Ⅰ種/Ⅱ種/Ⅲ種採用試験の申込者数(人)
平成07年:43,431/80,211/149,737
平成08年:45,254/78,320/124,107
平成09年:39,863/68,247/98,506
平成10年:35,754/68,242/92,586
平成11年:40,535/72,715/108,995
平成12年:38,841/71,891/99,589
平成13年:37,346/69,985/83,632
平成14年:37,163/68,422/72,439
平成15年:31,911/71,699/29,575
平成16年:33,385/69,711/30,089

Ⅰ種:昨年度はわずかに増加したが、ここ5年を見ると減少傾向。
Ⅱ種:平成07年度まで増加。平成08年度から減少傾向。
Ⅲ種:平成07年度から減少傾向。
・平成11年度の増加は、民間企業の就職難を反映したものといわれている。
・平成15年度よりⅢ種が急減しているのは、郵政一般職の公社独自採用が行われているため。
※人事院 国家公務員採用試験情報 リンク 
※公務員試験情報研究会 リンク


●地方公務員:2003年度の受験者数は過去最高
※CSVL公務員事務局 公務員試験最新Newsより リンク 
2003年度の地方公務員の採用試験受験者は約67万6000人と、調査を始めた1988年度分以降、過去最多だったことが総務省の調査で分かった。一方、町村では減少し、同省は「市町村合併の影響で、町村で採用を控える動きがあるのではないか」とみている。

・都道府県 受験者:約31万9000人、前年比:約3700人増
・市と東京都区部 受験者:約30万2000人、前年比:約6300人増
・町村 受験者:約5万5000人、前年比:約6700人減


以下、地方のニュースから。
●消防官応募数 例年よりも2倍以上の人気(愛知県豊川市)
※CSVL公務員事務局 公務員試験最新Newsより リンク 
愛知県豊川市が定期採用する消防職員に、例年の2倍以上の応募があることが分かった。応募者の3分の1以上を阪神地方などの県外在住者が占めた。この世代は多感なころに阪神大震災を体験した世代である。採用予定「7人程度」に対し、応募207人(女性11人含む)。過去3年の応募数が78-90人だったのに比べ大幅に増加。倍率も平年の20倍ほどに比べ29.6倍だった。
応募動機:「阪神大震災を体験して」「予測される東海地震に備え」などのほか「9・11テロでの消防士の活躍を目の当たりにして」など
同じ日程で採用試験を実施する豊橋市消防本部によると、本年度の一般消防職員への応募は「若干名」に対し154人で、前年より42人増えたが、豊川市の“異常人気”には及んでいないそう。


●自衛隊への就職人気殺到!幹部試験に東北大から19人の合格者!
※CSVL公務員事務局 公務員試験最新Newsより リンク 
最近、自衛官を目指す若者が増えている。イラク派遣が刺激になったり、それ以前から「国際貢献」や「国の防衛」「災害救助」にやりがいを感じる学生が増えているようで、中でも東北大は本年度、幹部候補生試験で陸・海・空合わせて19人と、無試験の防衛大を除きトップの合格者がでる。仙台市内の大学や専門学校で先月からスタートした来年度向け就職説明会にも、大勢の学生が集まっている。自衛隊宮城地方連絡部が先月、東北大川内キャンパスで開催した就職説明会には30人近い学生が参加した。同校では最近、人気の宮城県警と同じくらい就職希望者がいるという。

自衛官幹部候補生試験の応募状況
年度/全国/合格倍率/大学生が占める割合
1994年度/ 4,461人/16.1倍/10.6%
2002年度/ 10,929人/43.4倍/28.2%

大半が高校卒受験者だった幹部候補生の下の「曹候補士試験」にも大学生が受験し始めた。
「曹候補士試験」の下の「地連2等陸士試験」。かつては受験者が少なく、パチンコ店で遊ぶ若者にまで声を掛けて受験させていたが、今は人気がある為、宮城地方連絡部は数年前、街での声掛けをやめたそう。



岩井裕介
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「不安な自分」が不安のもと

Posted by ななし on 01.2016 記事 0 comments 0 trackback
仕事でお客さんに会いに行く前、どうしても、不安(緊張?)になってしまうので下調べや、準備などにすごく時間をかけて、綿密に段取りして不安な要素を全て崩しておこうという風にしてました。

結局、どんなに時間を掛けても不安はぬぐえず、そのまんま引きずっていくことが大半でした。

お客さんにあいに行く前、ちょっと時間が空いたので、るいネットの投稿を読んでいました。
目先(仕事)収束してて、久々に読んだ投稿は、乾いた土に吸収されていく水のように、す~~~っと私の中に入ってきました。
その感覚が気持ちよくて、しばらく、それを続けて、投稿の内容の対象を思い浮かべながら読むようにすると(正確に言うと、読んでいるうちに対象を思い浮かべることができるようになった)、あたかも自分の経験の様に(昔はこれができませんでしたが)感じられるようになってきて、共認回路が開いていく感覚が自分でもわかるようになりました。

そうすると、やっぱりお客さんと会った時も、別れ際には「楽しかったです!!」といってもらえるようになりました。
不安で不安でしょうがなかった、「お客さんに会って仕事をする」という事が、最近では(少しずつですが)「今日はどんなことを試そうかな。どんな面白い話がきけるかな。」と楽しみなほどになってきました。


不安だったのは、「不安な自分」そのもので、それを解消しようとしてもいつまでたっても解消できないのは当然だったのかもしれません。

>しかしこの逃避指令と主体凍結の大元は(逃避しなければ危険であるという)状況判断である。だとすればこの状況認識の転換こそが、同時に本来の共認欠乏・評価欠乏と、その方法回路の再生を促すカギを握っているのではないか、と思う。

今までは、主体=不安ばかりで状況が見えなかったのですが、3ヶ月目を迎えたブログでの発信や、みんなの投稿を読むということで、相手が求めていることが、自分の求めていることと繋がってくるようになりました。

状況認識と主体認識は一体であることが、身にしみて感じているこの頃です。


河野梨恵
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