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これからの指導者には、構造認識が不可欠。

Posted by ななし on 31.2016 記事 0 comments 0 trackback
>周り(or人々)の期待に応えようとする共認欠乏は、周り(or人々)の評価共認を媒介にして必然的に評価欠乏に収束する。
従って、集団であれ社会であれ、共認空間は常にその最先端に評価欠乏→評価闘争を生起させると共に、評価共認によって統合される。(評価共認こそ、共認空間の統合原理である。)
また、人々の期待(=欠乏)に応える物は、生産物であれ、創作物であれ、人物であれ、全て評価闘争(あるいは集客競争)の圧力に晒され、人々の評価共認によって淘汰されることになる。<(24647)

仕事に就いた頃(約20年ほど前)は、受験に必要な知識や問題解法のノウハウ、子供達に凄いと感じさせる技をいかに見せられるか、子供達に「この先生は凄い!」と感じさせたら勝ちだったように思う。また、上位のクラスを担当しているとか、上位の学校に何人合格させたとかで子供の評価も得られた。

10年くらい前からだろうか、成績下位の生徒だけでなく上位の生徒でさえ、受験勉強に収束する意識は弱まり、受験への知識やノウハウを伝えるだけでは、子供達の評価を得られないようになってきた。むしろ、受験の知識ゴリゴリの先生は敬遠されさえするようになり、巷で「お笑い」がクローズアップされ、「おもろい先生」が評価を得られたときもあった。

でも、いまの子供達が求めているのは、そんな序列上位に立つ者でも、目先のごまかし充足を与える者でもない、と最近感じる。家庭も学校も彼らのいる既存の集団は、ガタガタの状態で、充足できる場ではなくなってしまった。肯定視・同一視から共認できる、充足できる場をつくれる者、そういう相手求めている。断片的な知識ではあるけれども、僕らが子供のとき以上に、今の子供達は、環境問題や経済問題など社会に関する関心をもっている。そのような断片的な知識をすっきりと構造化してくれる、社会や仲間関係などの解決できない疑問に応えてくれる、そういう先生を求めている。

これからの子供達の評価を得るには、構造認識を身に付けることが不可欠である。その事例は、いくらでもある。

84244 小論文の授業より

84222 受験指導でさえ、肯定視からの同類圧力に拠らないとうまくいかない。
85031 大人に突きつけられた「必要か否か」




槇原賢二
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実家収束の先にあるもの

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
母親の実家収束が進行中です。週に五日は子供を実家に預けて夫婦共働き。専業主婦もしばしば実家に帰っては子供を預けてくる・・・マスオさん状態(婿入り)は少数かもしれませんが、実体はほとんどがこの“実家で子育て”状態になってきているようです。

出産・子育て基盤への可能性収束が婚姻の形態や制度をつくってきた。とすれば、いよいよ女達は一対婚家庭(核家族)に見切りをつけ、家族の持つ集団性に最後の拠りどころを求めているのだと言えそうです。確かに実家には母親がいて(場合によっては姉妹がいて)、小さいながらも母系集団としての子育て環境があります。失われた家族集団の再生か?と見る向きもあるでしょうが、相変わらずそこは消費だけの場であり課題も生産的な活動もありません。

この先15~20年で親の世代は老いさらばえ、集団機能は衰退。それまで集団の蚊帳の外で給料運びに甘んじていた旦那達もリストラ、定年、年金破綻で資金難。出産・子育て基盤としての未来像は暗澹たるものです。現在進行中の実家収束は今生一世代限りで終焉を迎える現象といえるかもしれません。

では、その先女達は子育て基盤の可能性をどこに求めてゆくのか?ことの本質にたてば、女たちの共認によって支えられた共同保育、その場を守るために闘う男たち、つまり生殖と生産を包摂した生産(企業)集団の形成が、安心基盤を求める女たちへの答えになってゆくのだと思います。

居心地良さげな実家収束か?確たる基盤を持つ生産集団(とそれを率いる男たち)収束か?そう遠くない時期に、女たちの意識は二つの可能性に直面することになるでしょう。実現のスタンスに立てば、男女関係の再生、企業活力の再生、新しい婚姻製の模索・・・その答えをめぐる認識闘争、共認闘争の中でいかに次代の可能性を実現してゆくか、が問われているのだと思います。




阿部和雄
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自信を求めること

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback

実は、「自信を持てなくて不安になる(一見内向き思考)」=「周りに期待をしている(外向き思考)」。

周りの期待を感じられないから、一人になったようで不安になる。

逆に不安にならないというのは、自分を守るために周囲に壁を作って見ないようにしているからであって、つまり

>幼児期の母親から刻印された親和欠損による精神不安や恐怖記憶が要因となって、対象から逃避(危機逃避回路による)したいという欠乏が働いている。しかしその対象が例えば原点が幼児期の母親の親和であれば、幼児にとって母親は絶対的な存在であるわけで、もともと存在した欠乏と逃避したいその対象は一体のものである。だからその時点で意識は大きく混濁する。従って対象を否定、封鎖するためには、同時に自身が持つ対象に対する欠乏も否定・封鎖する必要が出てくる。(47433)

ここが大きな気付きでした。
そして、もがいてももがいてもどうにもならない悪循環の苦しさを感じます。

>通常は自我は他者否定と自己讃美(自己陶酔)のプラスに用いられるが対象を否定しきれない場合、そのように対象+主体封鎖という現象を引き起こすのであろう。(47433)

自我の力が強くなりすぎると、他者否定のみならず自分の欠乏をも覆い隠そうとする。
そのため、秘められた欠乏があることを周囲が気付かない上に、自分でも認識しない。完全な期待封鎖で自己主張も強くないため表面的には自我が強いようには見えず、周囲状況に対する認識力が乏しいために「とりあえず」の充足系の仮面をかぶっています。

とても怖い点だと思いました。

(もっと周囲に開いてゆくこと。
役割があることを素直によろこぶこと。
そして、その姿を周りも受け止めて評価してゆくこと。
こうあれば越えてゆけるのではないか、とみんなで結論が出ました。)

「自信をなんで持てないのか?持ちたい!」と追求しようとすることは、表層では自我充足を求めているようにみえても、本当のところは周りの評価を得ようとしていること。
その姿勢があるというのは、それだけでこれから開く蕾。

可能性を感じます。




匿名希望
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自分からみんなへ・・・みんなの中にあるということ

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback

「自分って何?」
「生きるって何?」

真剣に考えたことありました。
二人の幼子を残して夫が癌で逝去した時のことです。
医者から告知を受け後、
残された時間を如何に過ごすか?
苦痛を少しでもやわらげるには?
今後、病名を知られずに治療を続けていく事への不信感をどのように払拭していくのか?
多くの課題が浮かび上がりました。

幼子の世話をしながら毎日病院へ向かう道すがらいろんなことを考えていました。病状の変化にどう対処していけばよいのか、治療費など経済的な段取りなど課題は時間を追って次々に出てきます。
そんなことをあれこれ考える中、すれ違う幸せそうな家族連れを見るにつけ「何故、私達はこんな辛い状況に遭うか、生きるってどういうことなのか?無力な自分っていったい何なのか?」
考えれば考えるほど悲しく悲観的になっていくのが分かりました。
しかも、今一番病気と懸命に闘っている夫のことは、その悲観的な事実からは対象とされず、残される自分達(私と子供)の事ばかりが主体となっていました。

夫が亡くなって数ヵ月後、新聞でやはり同じようにご主人を亡くされた方の投稿を読みました。
「これからどうして生きていけばいいの?」と毎日泣いている様子に、あるとき亡くなられたご主人が「君達は自分達のことばかりを気に病んで泣いているね。もう少しこっちも見てくれないか?」と元気付けるように問いかけられ、その言葉に身勝手な自分に気が付くというものでした
身勝手な自分を闘病中にもかかわらず励ましてくれたことへの感謝とまた現在もずっと側にいてくれているんだという気がしてならないことへの感謝の気持ちが込められた文面でした。

この記事を読んで不安を抱え込むと自分しか対象として見えないことが分かりました。
「あなたのことを想って」と考えはするのだけれど、実際問題としては「あなたのため」は押し付け以外の何物でもなかったのではないか?とか後悔しないために精一杯何かをしていれば去り行く人への心残りもないであろうという思い込みに過ぎなかったのではないか?と追い詰めていくことしか出来なかった自分が見えました。
追い詰めるから生きることの意味やこんな自分は何?と責めてしまう。

何時如何なる時も自分を対象とするのではなくまわりを見ること。
「自分からみんなへ」
「自分の中身も、生きる意味も、みんなの中にある」
投稿を読んで、尚且つずっと思っていたことを書いてすっきりしました。亡くなった夫への「申し訳なかった」の気持ちも拭われる思いがしました。



後藤美奈子
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“自信”の顕れは“活力”

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback

いわゆる“自信”のありそうな人、なさそうな人の峻別は、その表情や言動から誰しも行っていることである。前者の場合は、生き生きとした表情で、ハッキリと楽しそうに発信する人で、後者の場合は、その逆で、表情が暗く、何を伝えようとしているのか焦点が定まらず、ボケた発信をする人と大方くくれるのではないかと思う。そして、自信のありそうな人の言葉には惹きつけられるし、なさそうな人の言葉には、不安を駆り立てられる。

つまり、“自信”の顕れは“活力”ではないかと思う。活力溢れる人の場合は、常に意識が外に向いていて、探究心や追求心が高く、前進感や統合感そしてそこから安心感を抱かせるが、活力がない人の場合は、思考は内向きで前進感・統合感がなく、よって安心感を与えられないという構造にある。

“活力”の出所は何かというと、それは生物一般の生命原理を見てみると解りやすいと思う。
>生命体の認識機能には、食欲や性欲etcの欠乏を感じる内識機能と、それを充たす為の視聴覚をはじめとする外識機能がある。答えとは、課題の実現経路であり、実現経路とはこの内部意識と外部認識がイコールで結ばれた回路である。
答えを発見すると同時に全主体(=感応回路)はそこ(=実現経路)に可能性収束するが、それはある開かれた(=答えを見出した)欠乏意識とある開かれた対象認識がイコールで結ばれて共に強化される過程=その実現経路が強化される過程=その様な主体(実現回路)が強化・形成される過程である。(19059)

この「内部意識と外部認識がイコールで結ばれ」「共に強化される過程」ことが活力を規定している。

これを参考にすれば、自信がないように見える=活力が高まらない人というのは、“内部意識≠外部認識”で、常に、内部意識のみを対象化している状態の人のことだと捉えられる。

これは、>母親の囲い込みによって親和充足を十分に得られなかったり、囲い込みであるが故に自我や欲望をとことん封鎖され(65286)、つまりは幼児期に内部意識(=欠乏意識)が封鎖され、外部認識に向う回路が寸断されてしまったことに他ならない。加えて、その後は親や周りの大人たちからは、「自分(個性)を大切に!」や「自分のことは自分で!」などという自分観念を刷り込まれてきたために、本来>健全な実践思考では、主に状況認識(対象認識)を整序する為に(19059) 使われる観念が、内部意識を対象化するために使われるようになってしまったのだ。

元々、“自信”がありそうな人ほど、自分に“自信”があるなどとは思わないのは、活力は外部の対象認識に規定されている、つまり、みんなの意識と自身の欠乏がイコールになって(充足して)いるからで、内部意識を対象化する必要がないからだと思う。その意味で、現実に得られない外部対象との充足を否定して、内部意識に拘りつづけさせる“自信”という観念は旧観念そのものということもできる。



佐藤祥司
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プラス記憶が状況認識を塗り替える

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
以前、20代前半の女性が「いつも自信が無いのはなんで」のお題を聞いてきました。
会社でも、友人関係でも、いつも引っ込み思案でおどおどしている自分が居る。何か主張する事が出来ない、逆に叩かれるのではないかと思ってしまう。彼女は中学時代にいじめにあい、学校にいけなくなった事もあって、その対人恐怖は根の深いものでした。その頃は拒食症にもなり、アトピー一歩手前で肌がガサガサに成ったといいます。

>このうつ病の事例は最も極端な事例だが、それを水で薄めれば対象からの逃避→自己世界への逃避と主体の欠乏の抑制、方法回路の硬直=引っ込み思案等の関係弱者の構造を生むのではないかと思われる。(動物の擬態になぞらえれば一種の「硬直」の構造)この場合は幼児期に不安が刻印されてはいる訳ではないが、その後の仲間圧力などの関係圧力が逃避回路と主体抑制回路を形成している事例であろう。47433

彼女の場合は、2つ下の妹に母親を取られたという事で、若干の親和欠損があり、ベースとして弱い主体抑制回路が形成されていたと思われますが、いじめの過程で強固になったのは間違い有りません。

自分を守ろうとして対象から逃避する為に、自己攻撃をして自らの欠乏を封印しなければならないという回路が自分の中に存在するという認識。そして、その回路が作動するのは、自分を守ろうとする為。そしてそれは、対象(相手)が恐怖の存在だと思い込んでしまっている事からくること。

ここまで自覚できれば、対象(相手)が本当に恐怖の対象なのか、冷静に状況を捉える事ができます。奈落の回路に行く手前で踏みとどまれる。
その為には、対人のマイナスの記憶でなく、プラスの記憶を呼び覚ます事。
話していく中で、彼女は高校の時にいじめから立ち直ったきっかけとして、一人の友達が出来た事を上げました。その子の前では、いじめの恐怖や不安、自分の存在のふがいなさ、人が信じられない事など全てさらけ出して泣いたそうです。母親には出来なかった。そしてその友人も一緒に泣いてくれたそうです。
その体験を基に、次々と対人関係のプラス記憶が蘇って来ました。それを拠り所に、明日から頑張れる気がしますと帰っていきましたが、後日、“毎日プラス記憶をたどっていると、人に対する感謝の念が沸いてきて、徐々に恐怖感が薄らいでいます。少し自信がついたみたいです”とのメールを頂きました。
状況認識を塗り替える為、回路という構造認識と捨象していたプラス記憶の追体験が有効であったと思います。




下城浩一 
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「やりたいこと」に対する意識の転換

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
一般的に「やりたいこと」をイメージしようとすると、職業・職種という単位で考えがちのような気がします。たとえば、「販売がやりたい」「建築家になりたい」「プログラマーになりたい」など。しかしそれはまさに固定観念で、やりたいと思い描く職業・職種になれたからといって、それがやりがいや充足につながるかは、じつは全く別問題だと思います。

本当は、「やりたいこと」の根っこには、役割欠乏があるのだと思います。「何かしら役に立つことをしたい」、「みんなに喜んでもらいたい」という想いが、やりたいことにつながっているのです。
しかし、それを既存社会での職業・職種に当てはめようとした途端に、なんだか曖昧なものになってしまいます。それもそのはず、どんな仕事であれ、役に立つことも、喜んでもらうこともできる可能性があるし、やりがいや充足が得られる可能性はあるからです。

つまり、職業・職種にこだわることには、あまり意味がないのではないかと思われるのです。その人の得意不得意によって、多少の向き不向きはありますが、周りの期待を察知しながら、みんなで協働してそれに応えていくことができるのであれば、どんな職業・職種であれ、やりがいや充足が得られるのだと最近感じています。

「やりたいこと」が見つからないという人であっても、役割欠乏はしっかりと備わっているように思います。重要なのは、既存の社会フレームに自分を当てはめて考えるのを止め、「どうやったら周りの期待に応えられるのだろうか」、「どうやったら社会の役割を担う仲間空間や職場を作れるだろうか」といった思考で臨むことではないかと思います。



白石寛隆
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人を知るには構造認識が不可欠

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近なんで屋で、「私って何?」というなんで屋流性格診断需要が増えてきています。人の人格・性格というものは、育った環境によって形成される部分が殆どであり、相手の育った環境そのものへ同化し、更に構造認識を適用する事で、自分を知って貰うというもの。

店主側からのいくつかの質問に答えて貰う事で、相手の心が徐々に開き始める。そこに同化して行くうちに、心を閉ざした切欠、「こうあるべき」という自分規範を築き上げた背景などが次々と浮かび上がってくる。

どんな人であれ、原点には共認回路があり、母親との同化が人生の立脚点となっている。しかし、育つ環境によっては、自ら共認回路にフタをしてしまう出来事や、自我を刺激され続ける状況、さらには自己攻撃を無意識のうちに行ってしまうような原因構造が必ず存在します。

しかし、それら感情の揺らぎや人格・性格の変化は、共認回路が基底的な生き物であるが故に、必然的に現れるものです。重要なのは、何故その様な心理状況に置かれたのか、何故自らの心を閉ざしてしまったのか、といった原因(対象との関係)を知る事であり、それら対象との関わり全てを肯定視(在りのまま受容れる事)が出来るかどうかです。

性格診断を進めていくうちに、相手は自らの体験記憶を相手を通して遡り、相手を通じて再認識する事になります。まず入口としての同一視、そして同化した相手を通して、自らを受容れる作業が進んでいく。同時に、店主側も相手に同化して行くので、相手の記憶はまるで自分の事のように頭の中を巡り始めます。しかし、同化した先に構造認識が無かったら、単なる同情・共感止まりで、決して相手を解る、という事が出来ない。

「人って何?」
この極めて純粋な事実を知るためにも、実は構造認識が無ければ見えてこない部分が無数にある。
『共認こそが原点』
『みんなが在っての自分』
『対象同一性の確立=人格形成』
『同一視から共認回路の獲得』
『自我とは共認回路の副産物(鬼っ子)』

これらの事実認識を元に、人を知る事。相手を知る事。性格診断=相手を通して自分の存在を明確にする作業とは、共認回路の再生そのもの。実際にやってみて、感謝の涙が自然と込上げて来る瞬間を何度も体験しました。初めて会った人であっても、お互いに解り合える事が実感できました。
自然に相手と繋がる瞬間が、路上で体験できます。みなさんも、なんで屋を見かけたら是非「私って何?」を聞いてみてください。お勧めです!



川井孝浩
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「親元収束」による「再破綻」が進行中  「人口移動調査」の結果より

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
> 闘争とは無縁の家庭=無圧力空間に向かい、親子収束(83991親元収束は再閉塞を招く①)が進行・急増していけば、淘汰圧力に立ち向かい闘える男=いい男がどんどん減少していくことになります。(84634「男規範の共認形成」安西さん)

 2005年1月31日、人口問題研究所が、第5回人口移動調査の結果をまとめた。
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 新聞報道では、中高年のUターン率の上昇が強調されていた。が、私が注目したのは、「移動の理由」の数字である。
 調査によれば、5年前に比べ、「親や子との同居・近居」の割合が、4.9%から7.4%へと約1.5倍に増加しているのだ。

 発表資料をもとに再集計・分析してみたところ、「同居」を理由にしているうち、年齢別では30代が最多で、次いで20代が多い。若者の親元収束が統計的に裏付けられた形だ。
 しかも、男のほうが、女よりも15ポイントほど、「同居」の増加率が高い。安西さんの危惧が現実になりつつある。

> 乗り越えるのではなくそこから逃げ出して、実家を逃避場所にしてしまうのです。(中略)帰れる実家があるということが離婚の誘因となってしまうことがあるのです。
リンク
「実家依存症の妻たち」

> 親が子どもの考えや成長を無視して、依存的な愛情で拘束しつづけようとしたり、精神的な一体感をいつまでも持ちつづけようとするのはやはり一方的なエゴであるといわざるをえないでしょう。
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「母と娘の関係に潜む危機」

> 母親の多くは、団塊世代。自分は家庭の犠牲にされたという意識が強く、その反動から、自分の娘には男の言いなりにならず、家庭に収まらず、バリバリ仕事をし、娘が自分以上の結婚生活を送るように願っているのでしょう。(中略)こうした女性と一緒に暮らしても『こんなはずじゃなかった』と不満タラタラとなるケースがほとんど。
リンク
「危ない“負け犬オンナ”の見分け方 」

 親元、実家という「逃避場所」の中では、子は親の「エゴ」に同化するしかない。
 そんな「不満」の吹き溜まりの中で、「再破綻」(84518、83991 )は確実に進行しているようだ。



阪本剛
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「親元収束」からの反転のキッカケは親?

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
昨日、露店で団塊世代の女性から“性格診断?”の依頼を受け話す機会があった。
自己分析を聞くと、“人とは本音で話す。人が好き。今はボランティアに励んでいる。オープンで悩まない性格”とのこと。
(でも、どう見ても悩んで疲れた顔をしているが・・)
家族構成を聞くと、同居している26歳の社会人と20歳の学生の娘、旦那、80歳の祖母。
そして話を色々聞いていくと、間近に迫っているお婆ちゃんの介護を考えると不安になる。しかしそれ以上に、最大の不全は“家庭にいると誰からも「評価」がなく、今は家にいると気持ちがおかしくなりそう”という深刻な状況の本音が出だした。

ボランティア活動も家庭での閉塞に対する代償が混じっているようだが、誰もが収束不全を抱えている視点で見れば、今や消費者の塊の存在でもあった団塊世代の母親も、“社会役割欠乏”を顕在させて、“脱集団”のキッカケを探索しだしているのかもしれない。
さらに、こちらが“ガタガタ状況→収束不全”の話を展開すると、すごく納得したうえで、“それなのに今の若い子が結婚したいと言うのは何で?”の目先収束に対する疑問を出してきた。

もしかしたら、「親元収束」からの反転は、個人主義の刷り込みと囲い込みの張本人であり、今の家庭の主である母親自身が、家族制度の閉塞に絶えられなくなり脱出を試みることがキッカケになるのかもしれない。
であれば、それを促す母親への認識供給の必要性は大きい。

>84065生かすも殺すも親次第>
親自身が、社会の当事者として社会的役割を担わなければならないと思う。
そして、それを実現できるように認識を供給していくことも、“なんでや”に求められているのだと思う。



麻丘東出
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企業に生じる「勉強の必要」

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
>若い人が転職を繰り返すのは、新たなパラダイムの可能性探索であると見る一方で、「期待封鎖ゆえの実感無き応望」→「実感をもとにした“共認”が欠如しているが故の状況探索の貧弱」→「結局、可能性を感じていない旧観念・旧規範への極端なプラス価値収束」→「実感とのズレ」という閉塞したループ、これも大きな要因ではないかと感じだしています(66463麻丘東出さん)

確かに、若者の退職率の増加の根本には麻丘さんが言っているように「期待封鎖」が大きく関連していると考えます。期待封鎖ゆえの実感無き応望を繰り返しても、そこで得られる充足はたいした活力源にはならず(実感と繋がってないゆえ)、応望を繰り返せば繰り返すだけ疲弊していく。

ただし一方で、若者は確かに「親和欠損ゆえの状況探索の貧弱さ」という弱点を抱えてはいるものの、弱いながらも「可能性探索」は確実にしているのである。「可能性探索」はしているが目の前の現実課題は私権獲得の課題ばかり。私権の強制圧力が急速に瓦解している現在、私権圧力を活力源にしていくことは超難課題⇒不可能課題と言い切ってもいいのではないだろうか。なんのリアリティも感じられない目の前の私権課題に応望すればするほど活力を奪い取られていく(空焚き疲労)。

          親和欠損 私権の強制圧力▼
           ↓       ↓
          期待封鎖 目の前の現実は私権課題しかない
           ↓       ↓
          実感無き応望の繰り返し
              ↓
            空焚き疲労
              ↓
          活力はトコトン衰弱
              ↓
        2・3年で燃え尽き会社を辞める

雇う側(企業)・雇われる側(若者)双方を分析すると上記のような構造が浮かび上がってくる(全ての事例を包摂は出来ないが・・・)。

企業体にとって現在、『人材こそ全て』の時代である。
成員の能力がその集団(企業)の力を決するといっても過言でない時代である。そんな時代に上記のような構造は企業体にとって致命的である。

どの辺りが致命的であるかというと、企業体自身がその私権体質を転換させることが出来たとしても、若者の体質は『親和欠損』発なのである。そこの構造を無視して体制改革を行っても恐らくは答えにはならないだろう。つまり現在、企業体に求められているのは自らの「体制転換」に加えて若者の「体質転換」さえも求められているのである。すなわち旧来の「人材育成」「人材指南」では全く通用せず、若者自身の欠損に深く踏み込み、そして「体質を転換していくこと」すらが求められている時代に突入しているという認識が必要なのである。

そのためには「『親和欠損』とは一体なんなんだ?」といったところから「体質を転換させるにはどうしたらいいの?」といったところに真正面から取り組み、そしてその構造を掴み取る必要がある。すなわち「勉強が必要」なんだ。それも屁の役に立たない『旧観念』発の勉強ではなく、『新概念』発の勉強が必要!

そこに気付いた集団から、市場を突き抜けて勝っていくことになるのだと思う。そうして、さまざまな集団が『新概念』の必要に気付き、そこからの評価闘争(共認闘争)勝利の潮流さえ生み出しさえすれば、企業発で社会が変わっていくことも有り得るのではないだろうか。




ゲン
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親元収束=どん底の本源収束からの反転可能性

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
話題の親元収束の行方を考える場合でも、闘争共認に先立ってまずは(いかに本当の答えになっていないとしても)本源的な解脱共認が不可欠である、という「サル・人類」史の事実を踏まえて考える必要があるだろう。そのような視点に立って考えるならば一対の性収束力低下と連動した「親元収束」力の上昇は本源収束といっておかしくない。

>親元収束は男女関係(婚姻)にも影響を与えてゆくように思います。・・結婚しなくていいからといって、子供に子供(孫)ができる可能性までなくなるわけではないと思うんです。すると、親も子も、男女関係(つまり娘の相手の男)の固定化をそう絶対視しない、大した問題じゃぁないって感じにならないかなぁ?

先日、露店で出会った友達親子はまさにそんな感じでした。早々と推薦入試で大学受験をクリアしてしまった娘さんの制服の買い物に来たついでに立ち寄ったというこの親子。どんなカードを選ぶかと思いしや、娘さんの「う~ん。恋愛に関するコトバが欲しい」に母親も「そうしい」と反応。「大切な人といる時にみつめ合ってごらん。深い心と心の交わりが看取できるから」を手にとって渡し、「まぐわいって知ってる?」とこちらが本源の性のさわりを展開するとなんとお母さん「そうやで~。カラダだけ求めるようなエッチしてたらあかんよ~」と突っ込んで来た!そして娘さんも「すごいなあこのコトバ。あほな私でもちゃんと分ったよ~」なんとお母さんもはや婚前交渉のタブーも処女幻想も過去の遺物に過ぎないと割り切ってこっちの話に乗ってきた!そして娘さんにもこの本源の性の境地は一瞬にして伝わった!それならばと引き続き「男と女は充たしあう為にある。恋愛なんてこだわらなくていい。」のカードを渡し独占の性の愚かさ、駆け引きの虚しさを展開。するとまたまたお母さん「心を許すっていうのが一番大切やわなあ」とこれまたナイスフォロー。「いやあお母さんさすがに分ってる。でお母さんのお気に入りの言葉は?」って聞くと「こうあるべき。頭が体を苦しめている・・・」を選んできた。話を聞くとどうも半ひきこもりの弟さんがいるらしくその子に渡したいということだった。

>親元収束したとして、もはやその家庭が生産(闘争)課題を喪失していることは確かですから、そこでの子育てが健全か? はたまた親子(兄妹)関係から共同体が再生する可能性なんかあるの?ってところは全くアヤシイ・・・。結局、新認識がなければ、親は子と同様に孫をも囲い込むことになるでしょう。とすれば、やはり再破綻かとも思います

親元収束は間違いなくある種の本源収束である。しかし同時に闘争課題の不在故の行き詰まりがより本源収束を加速させてもいる。そして一見「制度収束」に見えるこの「親元収束」は既にその内部に「制度への諦観と疑念」を胎孕させつつあるのかもしれない。親元収束という「どん底の本源収束」の主体は「新認識の必要」へ反転する比較的近いターゲットなのではないだろうか。



山澤貴志
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親子収束は女原理一色に染め上げられたなれの果て

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近の潮流として、親子収束・親元収束が顕現してきているという多くの方々の投稿を興味深く読ませて頂きました。そんな中でも、

>親による課題捨象⇒目先の囲い込み充足が、若者の親元収束を加速させ、さらには心底の本源収束をも溶解してしまうことになりかねない。
必要なのは本源集団の再生であることからも、メスを入れるべきは親の意識転換ではなかろうか。(84065「生かすも殺すも親次第」衛藤さん)
 
の投稿に納得するものがありました。題にもあるように、この親子収束や親元収束は子供というより、むしろ親の意識が大きく関わっていると思います。現在20代後半~30代にかけての世代の親となれば、まさしく団塊の世代の我々です。高度成長期、私権全盛の頃、都会へと流入し核家族化を作り出した世代です。なかでも、そんな中で子育てをしてきた母親の意識に注目する必要があると思います。私権の勝者であるエリートコースのレールへ我が子を乗せようと、必死になって母子密着の共通課題として存在した受験戦争。その後も親子ともに私権の獲得にしか反応しなくなってしまったのです。なぜそうなってしまったのか?と考えつつ、改めて実現論を読み返しました。


 「実現論」の第三部:滅亡 イ「支配共認に従う民主国家」

>だが、反集団の性的自我を原動力とする性市場→商品市場が社会の隅々まで覆い尽くし、全ての集団が解体されて終った結果、人々は文字通り私権さえ確保すれば生存が保障される様になり、己の私権に関わること以外は、己の属する集団のことも社会のことも何も考えなくなって終った。つまり、性権力によって人類は、己の私権にしか反応しない(それ以外のことには全く反応しない)様に完全に囲い込まれて終ったのである。(実現論3_1_04)
   
>村落共同体や集団規範の解体は、外圧・闘争・集団という男原理の全面崩壊でもあった。その結果、存在基盤を失った男たちはますます女に対する迎合を強め、それに伴って社会共認はますます女原理一色に染められてゆく。しかも、女は性的自我に立脚しており、そうである限り女が集団や社会に立脚することなどあり得ない。女たちが「社会」や「権利」を口にする時、常にそれは己の自我・私権を貫徹する為の欺瞞であり、全ては自己を正当化し人々を騙す為の架空観念であるに過ぎない。(実現論3_1_05)

 
 このように私権にしか反応しなくなった現代人の精神構造の根底には、男原理が崩壊し、社会共認は女原理一色に染め上げられてしまったということを忘れてはならないと再認識させられました。  現代の潮流である目先収束も、親子収束、家庭収束も、元凶は親の(中でも特に母親)意識の問題。女原理一色に染め上げられた結果のなれの果てだと言えるのではないでしょうか?

 私権が崩壊した現代において、本源集団の再生のためには、共認闘争での闘争存在としての男原理を再生させることが何よりも急がれる。また一方で、女たちは、性的自我に立脚した女原理からいち早く脱却し、男の闘争を支える充足存在であることを認識する必要があると思います。



大木康子
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「目先の」本源回帰の可能性

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
> この『家族収束』の流れは、深く共認された拠り所である家族集団への『本源回帰』の流れなのではないかとも考えられる。私権闘争に疲れ果てた、この衰弱の果ての家族収束に可能性はあるのか? <(浅田さん:83926)

親元収束や結婚制度への収束において、その根底にあるのは解体された本源集団の面影を残す家族集団への回帰と考えられる。
また、資格取得や福祉志向・公務員志向も社会で認められた(と思われる)役割への収束であり、「みんなの役に立ちたい」という社会的・本源的な欠乏が根底にあるとみなせる。

これらは「本源回帰」という大きな潮流を形成しており、みんなの潜在思念がどこへ向かっているかを示している。
とは言うものの、こうした「本源回帰」現象は、手の届くところに転がっている“本源性を感じさせるもの”にすがりついただけである。
そこでかすかな安心を得てそれでよしとしてしまえば、そこが終着点となり、本当に求めている本源集団再構築の出発点とはならず、「目先の本源収束(雪竹さん:83958)」の域にとどまる。

そのままでは社会は一層閉塞を強め、かすかな安心すら得ることができなくなり、結局は北村さんが提示されている(83991、83992)ように、再閉塞という結果をもたらすだろう。

ただ、彼らも答えが見つからないが故に目先収束していたのだから、状況が悪化して追いつめられていく中で、新概念(=答え)に触れることができれば、そこから転換する可能性は高いとも考えられる。

目先の本源収束は、大きな方向性はズレていないが突破口に至る前に失速落下、という現象と捉えらえる。
であるならば(切迫度合いにもよるが)答えに触れることによって、社会探索へと移行する可能性をもつと考えられるのではないだろうか。



西村秀彦
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潜在思念とズレる目先収束

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
>潜在思念は、収束不全⇒探索収束をしているにもかかわらず、結局は既存の秩序に収束しています。(82396)

授業出席、資格取得、結婚、そして、1/22のなんでや劇場で取り上げられた事例は、みんなの役に立ちたいから、学校の先生や福祉関係の職員、公務員になりたいという若者。しかし、なる前は希望一杯で資格の勉強をしていたものが、就職してしばらくすると活力ダウンしていくらしい。

それらが人気職種になるのは、私権原理から共認原理への転換に伴って、私権追求からみんなの役に立ちたいという共認充足へ活力源が転換していることが底流にあると思うが、しかし実際は活力ダウンさせていっているわけだから、役に立ちたいという潜在思念が、これら職種とどこかでズレていることは明らか。

考えてみれば、教育・福祉・公務員は国家赤字の三大要因である上に、社会を悪化させ活力を衰弱させている国家事業でもある(参照69951)。私権統合の総本山である旧観念発の国家制度や集団に「目先収束」していたのでは、潜在思念とバッティングするのは明らかではないだろうか。

>では、この「目先収束」を打ち破るにはどうすればいいのでしょうか?何が必要なのでしょうか?
それは、「目先」ではまったくなんの答えにならない、なっていないという「目先ではダメ」の共認を形成、伝播させていくことだと思います。(83837)

旧観念に基づく資格や制度にからめとられるから活力衰弱するのだ。それではダメなんだという根拠は既にある。そして、潜在思念の収束先(=活力源)を指し示す方向も既に明らかになっている。それらの事実認識を梃子にして、一人でも多くの若者が(勿論中高年も)活力を取り戻して欲しい。

>その根拠こそ、事実の認識であり、私権時代を突き抜けて原始⇒サル⇒生物史にまで遡った社会構造論である。そして、それに基づく答えこそ、序列原理から共認原理への転換であり、実践的にはなんでやネットワークの構築である。(73647)



岡本誠
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親子収束は最後の自分課題

Posted by ななし on 16.2016 記事 2 comments 0 trackback
親元収束、確かに最近になってなぜか強まっているようです。

気になって先日何人かの若者に聞いたところの実感を報告します。
「たまに帰省するとお母さんの話は聞いてあげたいと思う」
「離れて暮らし始めて、親の事がときどき気になる」
「老後の親のめんどうはどうすればいいのか考えると思考が止まる」
「親が泊まりにきたり、家族旅行を喜んでしている」
「母親が帰って欲しいという気持ちを言葉にしないけど、痛いほど伝わる」
いづれも20代前半から後半の男性の言葉である。
普通に聞いていれば親想いのいい息子達だという事になるが、やはり違和感がある。

私達の世代の親子感覚はおおよそこうである。一旦社会に出たら、親とはよほどの用事でもない限り連絡をとらず、年に1~2度の帰省の時も近況報告をしたら後は話す事すらない。連絡がないのは元気な証拠と、親との距離は年々離れていく。気にしないわけではないのだが、たまに会えばそっけない。後ろめたいので誕生日や母の日等にプレゼントで穴埋めをする。
成人してからは最も近くの他人かな。そんな関係が親子だったように思う。
従って息子や娘に老後のめんどうも含めた親子関係を求めたくても求められないそんな後ろめたさが我々の世代の親には残っていたように思う。

それは核家族を求めて親に反発し田舎や共同体を飛び出した私達の親自身が求め実践してきた親子関係だったように思う。私達の親はその走りで、現在定年を越えて70代に入ろうとしている。年金だけで生活し、仕事はたまの庭いじり以外はほとんどない。老後は子供の面倒にはならないと口ではいいつつ、反面この先が不安でたまらない様子は年々伝わってくる。

親の不安発・・・親子収束の流れはこの辺りから来ているのではないか?
つまり、親の子に対する期待がどんどん高まってきているのではないか?団塊の世代の親は共同体を飛び出たという後ろ暗さもすでに薄らいでいる。老後が不安、すでに地域との繋がりもなく共認充足を得られるのは自分の子供、孫の間にしかない。それは不安発という形でどんどん親子の引力を高めあの手この手を使って引き止めに出ているように思う。
その一つが家族収束であり、家も含めた物量作戦である。そして何より最も自我・自分収束してきたこの世代は老後に及んでも自分の子との親子関係を自ら解消しようとしない。家族は大事という旧観念によって補強される。

それが収束不全から退路を絶たれ探索基調へ向かおうとする若者達を旧世界へ呼び戻す最後の引力となっているのだ。
フリーターやここ5年で3割も増えている母子家庭の出戻り娘を歓迎する基調は定年を迎えて役割がなくなった親の新たな役割としてぴったりはまり込む。

既に無くなったはずの親子序列だが新たに本源風に丸め込まれて再登場しているのではないか?いまや課題の無い集団がガタガタである事が示すように、寄り添う以外に課題のない親子収束がそう長くは続かない事は明らかであるがしばらくはこの基調は残りつづけるだろう。
さて、親子収束、そこに可能性があるのか?一般論ではなく自分の問題として。

少し待てよ、自分自身考えても親から一緒に住みたいといわれた時断れるだろうか?いや、そんな問題の位相ではないのだろうか?自分の問題として考えた途端、旧パラダイムに絡みとられる。
この問題、結局家族や親子という課題が自分課題にとどまっている以上永遠に解決できないような気がする。しかしいずれの場合も臨戦課題であり、一般論では切れない個別性を抱えている。

そこの問題も含めてみんな課題として開いて考えていけるなんで屋のあたらな供給が求められている。



田野健
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親元収束は母系社会の入り口にならないだろうか?

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback

>親子充足が第一価値になれば、「家を出て行くくらいなら、もう結婚しなくてもいい(あるいはしんどければ離婚して家に帰って来い)」とい風潮さえ生まれてくることも予想されます。そしてそこまでいけば、そもそも生殖(次代の子育て)制度としてあったはずの家庭制度は、最早本来の制度として体をなさない状態に陥ることを意味します。

親元収束は男女関係(婚姻)にも影響を与えてゆくように思います。「離婚したら帰ってこい」の例になりますが、実際先日出された調査データを見ても、母子家庭急増、そして親元との同居の増加が連動して見て取れます。リンク

子は家計を支える為(親の蓄えや年金収入だけで孫までも養育できるとは思っていないでしょう)当然働き、年老いた両親が孫の面倒を見る(助ける)という図式だと思います。とすれば、まったく子育て機能を果さないわけではないようにも思えます。(むしろ親の役割充足はアップする。)

一方、結婚しなくていいからといって、子供に子供(孫)ができる可能性までなくなるわけではないと思うんです。
すると、親も子も、男女関係(つまり娘の相手の男)の固定化をそう絶対視しない、大した問題じゃぁないって感じにならないかなぁ?・・・と。結婚よりも親子同居を望むのであれば、もし子供(孫)が出来たらまぁ産んだらいいよってなって、(男は放っておいて)孫を入れて一緒に暮らそうってなるかも。(兄弟姉妹が親元収束し、主に兄弟が姉妹の子供の面倒をみるようになれば、)それは母系社会に近い構造を有する?かもしれない。

うーん、予測でここまで考えてみたものの、いかんせん、親元収束したとして、もはやその家庭が生産(闘争)課題を喪失していることは確かですから、そこでの子育てが健全か? はたまた親子(兄妹)関係から共同体が再生する可能性なんかあるの?ってところは全くアヤシイ・・・。まだ可能性が見えません。

結局、新認識がなければ、親は子と同様に孫をも囲い込むことになるでしょう。とすれば、やはり再破綻かとも思います(しかも孫を巻きこんでガタガタの閉塞度は増しているはず)。



谷光美紀
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親子収束について~保護者面談の増加と食事の例

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
>とすれば、現在進行している「親子収束」の流れは、根底では共認充足を求める『本源収束』の流れにありながら、答えが出せないゆえの「とりあえず」の保留状態・後退現象であるといえる。そして、このまま親子収束が続いて、社会の破綻状況がニッチモサッチモいかなくなった時、私権制度はいよいよその根底から覆されることとなるに違いない.(84518 「親子収束による再破綻が私権制度を根底から覆す」 匿名希望さん)

塾現場では、この親子収束は大きな流れだと感じています。その表れとして、塾に電話してくる保護者、お見えになる保護者が増加しています。しかし、つい数年前まで、保護者とのコンタクトはむしろ減少傾向にあったように記憶しています。

90年代後半から2000年ごろ、問題を起こすのは子供、解決に奔走するのは大人というふうに、保護者が積極的に学校に働きかけていた時期がありました。例えば、学校の風紀が乱れているから保護者としてときには団体を組んで何らかの対処案を作成し協働しようと言うことで、「花一輪運動」等が広まったことがあります。

この当時、親は自分の子供だけではなく、学校に通う児童・生徒全員が気持ちよく学校生活を送れるようにとの願いから花を毎日世話しに行く活動をしていたと思います。活動されていた皆さんはいつも忙しくて、今日はあの学校、明日はこの学校と奔走していました。

しかし、ここ数年、このような活動報告を耳にすることがかなり減ってきました。活動報告の数と反比例する形で、自分のお子さんに手間ひまをかけて塾にお見えになる方々が増えてきたように思います。特に親子収束を感じるのは、現在高校1,2年生(昭和62年から平成元年生まれ)の親子関係です。

面談の内容としては、子供のやりたいことにはふたをして、現実的に食べていくための実学志向的な相談が増えています。当然のことながら、親の立場からの思考では、大学に進学しても確かな私権獲得の保証はないですし、かといって生涯続けられるようなやりたいことややりがいのあることは見つかりません。本人も胸の中の夢みたいなことは到底いえないようです。

そこで膠着した親子関係打開へのアドバイスを塾を専門家と勘違いして聞きに来ていると言う感じなのでしょうか。

話は戻りますが、花一輪運動等のとき、親はネットワークを形成しようとしました。そして一定の議論を経て実践へと動き出しました。もし、なんらかの成果がこのとき出ていたら、5年後の現在は親ネットワークはもっともっと広がっていたのでしょう。ところが現実は報告数の減少、親子収束の顕在化に見られるとおりです。

なんでうまくいかなかったのだろう。私は、私権獲得の助成はどのような活動もうまくいかないのではないかと考えます。そして、親子収束はいよいよ団体戦から個人戦へと舞台を移しているのだと思います。というのは、塾での保護者面談では、決して三者面談に発展していないからです。

親は子を外し、子は親を外して、徹底的に個人戦に向かっている。言わば、密室家庭の中の各部屋にひとりひとり身をおいているのでしょう。俗に言えば家庭内別居です。そして各部屋は家があってこその部屋ですから、家に向かって収束しているように見えて、どこよりも距離のある部屋が同居しているだけのように見えます。

このことは、家庭内の食事でも知ることが出来ます。お母さんの手料理を食べている子供が意外なほど少ないことに驚かされます。



佐藤英幸
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親子収束による再破綻が私権制度を根底から覆す

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback

'70年、貧困の消滅以降、私権に対する収束力が年々弱まっていき、目先の私権充足のために様々な観念、制度、資格が氾濫してきた。今や聞いたこともないような○○権やら、ホニャララ士やら、屁のツッパリにもならない××検定がほんのちょっと目先を変えて無数にある。

しかし、目先に目先を重ね、とことん短期化・分散化が進んできた結果、ついに、これらバブルは弾け飛んだ。そうなると、新しい活力源や、それを与える構造認識、その基盤となる本源集団や共認社会がない以上、そもそも私権制度の根幹を成す「家族」に一旦は拠り所を求めてきたのは当然の流れかもしれない。

言い換えれば、私権の収束力がとことん低下し、上っ面の私権観念・私権制度は悉く(事実上)解体して、最後に残ったのが最基底の「家族」という制度・観念に他ならないということになる。そういう意味で、辻さんの仰るとおり、70年代マイホーム主義はそのハシリと言えるだろう(84040)。

一方で、「一歩外へ出れば周りは全て敵」の私権時代において、唯一共認充足を得られる場が本源集団の末裔たる家庭であった。その意味では、

>潜在思念が本源収束へと可能性収束しながらも、探索基調は答えがないゆえに出口を塞がれ、潜在思念に導かれ唯一残された確かな拠り所として家族への共認充足へと収束を強めていく。<(84065 衛藤さん)

収束する先がなくなり全然活力が出なくった=破綻した若者は、本源充足(共認充足)を求めて、皮肉にも「自分第一」から親和欠損や囲い込み・自我教育によって彼ら(若者)自身の活力の無さの最大の原因を作った親元へ収束していっている。当然このままでは再破綻するのは時間の問題である。これは正に旧い家族(制度)にかわる新しい本源集団や制度を作れないが故の目先収束だからである。そして、恐らく彼ら自身潜在思念では、もはや旧い「家族(制度)」に可能性が無いこと感じ取っているので、自らは新しい家族を築こうとはしない、或いはすぐ離婚してしまうのであろう。あくまで「とりあえず」なのである。

とすれば、現在進行している「親子収束」の流れは、根底では共認充足を求める『本源収束』の流れにありながら、答えが出せないゆえの「とりあえず」の保留状態・後退現象であるといえる。そして、このまま親子収束が続いて、社会の破綻状況がニッチモサッチモいかなくなった時、私権制度はいよいよその根底から覆されることとなるに違いない.



匿名希望
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社会規範としての結婚圧力の衰弱という視点

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback
共認動物である人間の未婚晩婚問題は、その時代の共認圧力の源である社会規範を抜きには語れないと思う。

戦前世代は家父長権を基盤とした、家と家の問題として結婚があった。これは社会規範としても共認されており、単なる個人や家を越えて、大きな共認圧力(結婚圧力)になっていた。この共認は私権の獲得と継承を家単位で行うという共認でもある。だから、私権へ収束力が衰弱すれば、結婚圧力も衰退するという関係にある。

戦後の第一世代である団塊の世代は、その家父長権に反抗し都会に出て自由恋愛を謳歌した。とはいっても、今のような複数関係や婚前交渉はまだ一般化してなかった。だから、付き合うのも、結婚を前提にという意識が主流であったと思われる。

その上、最終的には親元である家と家の問題として結婚を捉えている側面も残っているので、結婚となれば親戚一同がずらずら式に参列し、権威付けのため会社の上司に仲人を頼んでいた。要するに、家父長権に反抗し、相手は自分の好き嫌いで選ぶが、その相手は家として認めてもらうことで社会的承認(私権の獲得と継承)を得ていた訳である。

次に中間世代として、学生運動の終わった後に成人した世代がある。三無主義と言われる世代で、遊ぶ事以外考えていなかった世代である。この世代では、複数関係はまれであるが、付き会っていればセックスは当たり前と言う世代で、結婚とそれまでのお付き合いは別といった感覚だった。

戦前生まれの親をもつ最後の世代が、オタク世代と呼ばれる世代である。この世代になると、女性の性権力真っ盛りに青春期を迎え、女遊びに走った男と、強い女を見て女恐怖症になった男に2分される。この頃から結婚しない、出来ない男が増えてくる。

またこの頃(80年代後半)、結婚に関する家との関係も変化し始める。それまでは、上司に仲人を依頼し親戚一同をよんで、ホテルで壮大に結婚式を行い、社会的に認知されるというものから、人前婚といわれる、小さなレストランなどで行う仲間中心で手作りの結婚式や、二人だけの教会での結婚式などが増えてきた。結婚そのものも二人だけの課題となり、家と家の関係はかすんできた時代と言えるだろう。

戦後自由恋愛から結婚という流れは出来上がった。それは二人の独占関係の吸引力が直接の引き金になっていたにしても、社会規範が生み出す共認圧力としての結婚圧力が働いていたから結婚するという決断できたのであって、社会とは独立した二人の心の中だけで生起した決断ではない。

この圧力は、”80年ころから衰弱しかける。80年代後半には殆どなくなってきたのだろう。その結果、”80後半、結婚式も二人だけの世界で決定できるようになったと同時に、共認圧力がない分晩婚化や未婚化も増え始めた。

そして今、戦後生まれ親をもつ団塊の世代の子供が、成人になる時代になった。彼らは、社会規範から来る共認圧力はほぼゼロの状態ゆえ、最後に残るのは、親の個人的な期待圧力だけである。この弱い圧力でも、他に期待がなければとりあえず収束してしまう、というのが親元に帰って結婚する現象の、一つの原因ではないかと思う。



本田真吾
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子が本当に求めているのは親でなく社会的役割である

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback

私権時代は終焉を迎え、社会(人々の意識)は収束先を失った。社会に出ようとしている若者も、いわれのない苦悩や不安に苛まれ、とりあえずの現実課題、目先の安心へと向かってしまう。しかし手応え、充足は得られない。最後に行き着く先は親ということになる。

「親子の仲が良い、それは良いことだ。」「親は子の面倒をみて当然だ。」常識はそう主張する。しかし本当にそれでいいのだろうか?

>20代の若者が親元収束を強めているが、上記の中学生の意識調査から今後もこの傾向が益々強まっていくと思われる。問題は、親元収束が加速すれば社会全体の活力が衰弱してしまうことにある。(84005橋口さん)

この間、露店や劇場(開かれた場)を通して、多くの若者から「みんなの役に立ちたい」「みんなの期待に応えたい」という声を聞くことができた。これは「みんなの期待に即した社会的役割を担いたい」という、若者の役割欠乏の表れだと言える。

一方で、親元収束している若者の意識はどうだろう。親への甘え、これは自分を中心とした際限のない受け入れの要求でしかなく、極めて内向きな意識だと言える。このままでは、社会の中で役割を担う事など到底できず、社会から置いてきぼりをくらうことになる。

親は、子の甘えに便乗して囲い込んでしまうのは簡単だろうが、それは子が本来持っている社会的役割欠乏に蓋をし、ひいては子の活力を奪うことに繋がるのだと、改めて認識しなおす必要がある。

閉ざされた親子空間に可能性はない。親は子を思えばこそ、子が社会の中で課題を見つけ、役割を担い、活力を持って生きていけるよう、応援(期待)すべきではないだろうか。「子は親の背を見て育ち、親は子供の背を見て誇らしく思う」、そんな時代への過渡期である今、一児の父として、また社会の一員として、自分に何ができるだろうと考えている。



福田慎一郎 
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生かすも殺すも親次第

Posted by ななし on 10.2016 記事 1 comments 0 trackback
>しかし、この『家族収束』の流れは、深く共認された拠り所である家族集団への『本源回帰』の流れなのではないかとも考えられる。私権闘争に疲れ果てた、この衰弱の果ての家族収束に可能性はあるのか?

家族収束といえば、フリーターやNEETに見られるように、やりたいことが見つからないゆえの収束不全から、私権の現実の前に活力衰弱し、最後の拠り所として親元へ依存(後退)収束している若者が大半なのだと理解していた。

しかしその一方で、
コギャルから一転して親孝行娘になったり、一緒に仲良く買い物に行ったり遊んだりする親子(友達母娘)や、彼女を家に連れてきては親と一緒に仲良く同居する男、あるいは親元から通勤できる会社へ就職したい学生、結婚しても親元の近くに住みたい、などが増えているように、衰弱の果ての家族収束とばかり言えないような事例も増えているようだ。

この現象をどのように認識すればいいのだろう?

>そして、答えを見出せないまま、潜在思念は一方では課題捨象⇒解脱収束⇒充足収束⇒本源収束に向かい、他方では捨象し切れない社会不全から社会収束を強め、その一部はメディアでの事実収集や社会探索に向かっている。(19273)

>改めて考えてみれば、’90年頃にいじめが深刻化したのも、’96年頃に性が急速に衰弱したのも、’02年頃に遊び第一が瓦解したのも、全ては、収束不全発の適応可能性(=みんな共認の可能性)への収束に起因する。そして又、充足基調から探索基調への移行も、収束不全発の可能性収束が生み出した必然である。(71820)

同じことが家族収束にも言えるのではないか。
潜在思念が本源収束へと可能性収束しながらも、探索基調は答えがないゆえに出口を塞がれ、潜在思念に導かれ唯一残された確かな拠り所として家族への共認充足へと収束を強めていく。
一方、活力源は私益追求からみんなの期待に応え役に立つ事へと転換しながらも、現実の私権制度の中では実現することが出来ず、せめて親の期待に応えるというように、心底はみんな発の本源規範に拠り所を求め収束しているようだ。

しかし、ここで注目すべきは親の意識ではなかろうか。

親も同様に収束不全の状況に置かれている。が、自分のやりたいことをしなさいと言いながらも、老後の不安などから次第に子どもの囲い込みを強めつつある。それが自分発の課題である以上、囲い込みを強めるほどに家庭からは闘争課題はおろか生殖課題までもが完全に姿を消し、若者の探索基調も閉ざされてしまい、家庭はますます崩壊していくことは間違いない。

親による課題捨象⇒目先の囲い込み充足が、若者の親元収束を加速させ、さらには心底の本源収束をも溶解してしまうことになりかねない。
必要なのは本源集団の再生であることからも、メスを入れるべきは親の意識転換ではなかろうか。




衛藤信義
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今必要なのは『変革』ではなく『構造認識』

Posted by ななし on 09.2016 記事 1 comments 0 trackback
先日のなんでや劇場。
「5000年前人類は、社会を共認原理で統合する事が出来ずに序列原理に逆戻りしてしまった。」「そして現代は生存圧力が消滅、さらには社会を共認によって統合するための媒体網の整備ができた事によって、現代の社会はすでに共認原理によって統合されている時代。」というくだりがあった。

”現代は既に共認原理によって統合されているんだ!”
これほどシンプルで重要な実現基盤はないと思った。

もしこの認識がなければ、今の企業や学校さらには国家を観たときに、形だけの序列制度や私権をめぐる利害競争やしがらみ等々に嘆き、疲弊し、活力を衰弱させるばかりだっただろう。そしてそこから生まれてくるのは『現実否定⇒変革意識の必要』が主になっているように思う。(学者や年配の方ほどこういった論調は多い)

しかし、現実は共認原理で既に統合されているんだと捉えれば、同じ企業などを見ても見方は変わる。
序列体制や私権闘争が現実なのではなく、既に共認原理や共認競争が現実である事と捉えられ、現実を作っていくとは即ち共認の中身を皆で作っていく、その渦中に供給者として参加するという事が見えてくる。だから今起こっている現実のガタガタの状態も、問題の焦点は共認の中身(=答え)へと自ずと絞られてくる。そこから生まれてくる意識は『実現意志⇒構造認識の必要』だろう。

>つまり、実現派には不全発の課題意識はないが、可能性発の必要意識はある。
従って、『(社会)変革の必要』から、『(構造)認識の必要』へと、目的・路線を大転換すれば良い。これが、運動論の最終解答である。 (19576)

現代は序列原理から共認原理へと転換している、という認識がそれを気付かせてくれた。



喜田育樹
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目先収束の壁を突破するには、確かな時代認識が必要

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日のなんでや劇場の議論を経て、最近ますます、目先の課題・肩書き・制度への収束が強まっていることを実感した。

この目先収束というのは、非常に奇妙な現象だ。
大学の授業出席にせよ、資格・公務員志向にせよ、彼氏彼女・結婚への執着にせよ同じだと思うが、おそらく、その当人自身も、それらが“とりあえずの”課題でしかない(本意=本当にやりたいことではない)、“とりあえずの”充足・安心しか得られないことを分かっているのではないかと思う。それでもなお、目先の課題にしがみつくように収束している。

「収束不全」という未曾有の状況に対して、かりそめであろうと何であろうと飛びついて、とりあえずの統合(意識の安定)を図ろうとしているように見えるが、これは、非常に心身をすり減らす構造だと思う。

何か課題に取り組もうとしても、ほとんど既存の私権体制の範疇のものでしかないとすれば、本心から本当にやりたいことであるとは到底思えない。これでは自分自身の潜在意識と顕在意識との間に大きなズレが生じることになる。エネルギーも続かない。それでもなんとか気を取り直して、課題に収束しようとすれば、さらにズレは大きくなり、心身を消耗していくことになる。

日々の仕事の場面がそうであれば、空焚き疲労→衰弱も相当深刻なものになる。職場でのうつ病が激増しているといわれるが、このように、目先収束→閉塞を繰り返し、意識が分裂してしまっている人も多いのではないか。


> 「目先ではダメ」の共認形成が急がれる(83837)

目先収束→閉塞→衰弱のループから脱却するためには、「目先ではダメ→確かな中身が必要」へと頭を切替える必要がある。そのための導きとなるのが、構造認識にほかならないと思う。まずは、確かな時代認識=今現在は人類史から生物史を覆すような大転換期である(従って目先ではダメ、全く答えにならない)という認識が不可欠なのだと思う。



岩井裕介 
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親元収束⇒親子収束から反転するには?

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
>教育シンクタンク「ベネッセ未来教育センター」の意識調査で、中学生の8割が親との関係は円満と考えている半面、この年代に特有の「反抗期」の傾向が失われている実態が浮き彫りになりました。
( 2004 年 10 月 04 日 、産経新聞)

20代の若者が親元収束を強めている(83549、83926)が、上記の中学生の意識調査から今後もこの傾向が益々強まっていくと思われる。問題は、親元収束が加速すれば社会全体の活力が衰弱してしまうことにある。

しかし、中学生にもなって親子円満で反抗期が無いという意識は本当なのだろうか? この記事に対する10代の若者からの反応の方が実態をよく表しているように思う。
リンク

>宮城県、女子中学生(15)「親にわかってほしい、どうにもならない感情が毎日沸いてくる。でも、親はさらっと流すか、さらに嫌な方向へ持っていく。みんなあきらめているから反抗しないんじゃないかな。良い子に見えて、結構すごいことを言ってるよ」

>神奈川県、男子高校生(17)「私も親とはあまり衝突しません。ですが精神的自立が遅れているとも思いません。問題は親との関係が希薄になることです」

>大阪府、男子大学生(19)「目に見えていないだけ。表面だけ円満ということもある」

子供の側の意識からは、「あきらめ」や「不安」を含めて何らかの不全感を蓄積しているのがわかる。一方、親の側(40~50代)は、ひたすら衝突を避け先回りして懐柔するだけで子供に対して何の可能性も提示できないでいる。そして、自分第一の価値観を目先収束の極地である親子関係一点に押し付けている。これでは、子供は益々疲弊してゆくばかりで社会に適応できない「引きこもり」を増長させるだけである。

親元収束⇒親子収束の意識から反転する契機があるとすれば、不全や悩みを抱いている子供の側にまだ可能性がある。彼らも親の与える旧観念に染まった狭い空間には何の「答えもない」ことを薄々気が付いている。彼らに必要なのは、それをハッキリと言葉に出して「目先ではダメ、83837」であることを指摘してあげる事だ。そして、心底の本源収束(=みんな共認の充足)の可能性を開きだしてあげる(=答えを供給する)ことが「なんでや露店」の重要な役割になってくる。


橋口健一
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親元収束は再閉塞を招く②

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback

そうなると、この現象はしばらくは間違い無くこのままさらに進行していきそうです。だとすると問題は社会現象としてこのまま親元収束が強まれば社会やこの親子達がどうなっていくのか、が問題になります。

容易に予測できるのは、彼らにとってはせめてもの安心を与えてくれる親子充足が第一価値になっているわけですから、就職の際にも地元企業しか選ばれなくなり、かつ当然転勤は拒否されるようになるでしょう。そうなれば企業はまともな人材配置ができなくなります。あるいは社会的な人材のアンバランスが起きます。これだけでも企業活力、経済活力は大きく衰弱し、市場はさらに収縮し国家財政の破綻をさらに進行させることになります。
それだけではありません。前記のフリーターのデータが示すように親元収束はフリーター化や引きこもりを助長していくという側面があります。現在よりさらにフリーターが増えれば、社会的にアルバイトが余ってくるわけですから、アルバイトの時給も下がっていくことでしょう。現在のところは、彼らは当面は親の資産や貯金を食いつぶしながら、生活を維持していくことになるでしょうが、いずれはそれも怪しくなり、消費を切り詰めざるをえないところまで行きつくでしょう。
それによって市場の収縮はさらに加速されていきます。そうなれば後の無い(国債発行も限界に達した)国家は財政再建の名目から所得減の中の増税を実行せざるを得なくなるので、さらに彼等の生活は苦しくなっていく・・・例えばそのような形で、再び最早行き場の無いどん詰まりの閉塞が強まっていくでしょう。
それだけではありません。親子充足が第一価値になれば、「家を出て行くくらいなら、もう結婚しなくてもいい(あるいはしんどければ離婚して家に帰って来い)」とい風潮さえ生まれてくることも予想されます。
そしてそこまでいけば、そもそも生殖(次代の子育て)制度としてあったはずの家庭制度は、最早本来の制度として体をなさない状態に陥ることを意味します。

いくつかのシナリオは考えられますが、この閉塞の結果の親元収束は再破綻を加速させていくのは必定です。皮肉なことに、このことは彼らの意識の中では、最も確かな拠り所としてすがったはずの「親元(親子)」が、私権制度の根幹である家庭の崩壊を加速させていく結果を呼ぶのです。
そのようにして破綻の坂道を転がり始めれば、親子収束にも社会的な批判の目が集まり始め、当人達も「ダメ人間、ダメ家族」として問題視されていくでしょう。目先に収束し続けた彼らはそこまで追い詰められることによってしか反転することがないのでしょうか。




北村浩司
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親元収束は再閉塞を招く①

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
確かに若者たちやその親世代の間に、急速に「親子収束」が強まっている感があります。

そもそも現在の若者(22歳前後)の両親は50歳前後の世代に当たります。思い起こせば、彼らが青春期を過ごした70年代後半から80年代にかけて、Jターン、Uターン(地元回帰)現象が起こり、同時に「地方の時代」ということが叫ばれていました。その意識潮流の基盤となったのが、’70年の貧困の消滅です。つまり本能を直撃するような生存圧力が消滅した結果、私権への収束力は根底では衰弱し、その結果あくせく(都会で)私権を追求するより地元でゆとりある生活を、という志向が登場したのではないかと思います。実際私の同級生や少し上の世代には「地元であれば実家があるので、家賃や食費も要らない、マイホームのローンも必要ない」という理由で地元に残った連中が結構数多くいました。衰弱した私権追求の活力と、楽して私権充足を得るというそろばん勘定が、彼らにそのような「ゆとりある生活」への道を選ばせたのでしょう。
さらにそれを可能にしたのが、実は国債のバラまきです。'70年をもって実質上市場拡大は停止しますが、70年代中盤から衰弱する市場のカンフル剤として国債の投入が本格化します。その中で「都市と地方のアンバランスの改善」などの名目で地方にも公共投資や工業団地の誘致が行われ、その結果地方も豊かになっていきます。いわばバラマキ政策・バブル政策の申し子達が現在の彼らの親世代なのです。私権収束力の低下とバラマキがこの「親元収束の先駆世代」を生み出したともいえるでしょう。

しかしその目先の私権充足に応えるバラマキの結果、バブルとなり、そして’90年にバブルは崩壊します。それによって私権活力は一層衰弱し、終に’02年人々の過半数が私権追求の可能性を断念し、収束不全(私権収束力ゼロ)状態に突入します。その後目に見えて親元収束が強まってきました。そのことは、現在フリーターの80%(日本労働研究機構調査)が親元にいる、という事に象徴されるように、若者の親元収束は、もはや目先の私権課題には収束できないほど活力が衰弱し、せめてもの(目先の)安心充足や安定基盤を求めた結果生まれた意識潮流といえるでしょう。

つまり目先の私権充足を求めた親世代の破綻、その結果私権収束力がゼロ化した衰弱の果ての現象が「親元収束」なのです。(しかも過去のバラマキの遺産(=家や貯金)を拠り所にしながらの)



北村浩司 
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親元収束は目先の本源収束?

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback

多くの若者が親元に収束しているという現象は、自我・私権への収束力低下による現象であると思われますが、自我・私権に代わる収束先が見つからないが故の、目先の本源収束という面が強いのではないかと思います。

この問題の分析が微妙で難しいのは、既存の私権制度へ収束できないが故のとりあえずの逃避先という側面と、充足基調⇒探索基調のベクトル上の本源収束の側面の二面性を孕んでいる現象であるからではないかと思われます。引き篭もりやニートといった病的現象は、明らかに前者であると言っていいと思いますが、普通に働いていていても親元から通勤したいとか、結婚するなら親元と近居がいいとかという人が増えているという現象は、後者の面が強いのではないかと思います。

親元収束のもつ本源的な側面とは、そばにいて欲しいという最も確かな期待が感じられ、最も安心できる、警戒心の不要な居場所がそこにあるという側面が大きいのではないかと思います。本源性ということを、最も確かな最後の拠り所として考えた場合、本来の本源的共同体が崩壊してしまっている現代社会においては、残念ながら家族・親元に勝る拠り所はないというのが多くの人の実感なのではないでしょうか。

つまり、親元収束の基調には、私権制度でがんじがらめの現実に対して、経済的に有利であるとか、序列関係を忌避できるとかという逃避的な意識のさらに深いところに、より確かな拠り所としての本源性を探索するという意識潮流があるような気がします。

しかし、本源探索の基調上にあるものとはいえ、本来の本源的集団がないが故の目先であるという限界性は当然孕んでいるわけで、特に、本来の本源集団との比較においては、課題や役割がないということが決定的な問題としてあると思います。

課題や役割がなく、単に身を寄せ合って自己収束しているだけでは、集団としての経営力や持続性がなく、やがて自滅してゆくしかないのは明らかです。やはり、今の本源探索の潮流を、生産課題と生殖課題を包摂した本来の本源集団の再生に繋げてゆくのが大きな課題であると思います。



雪竹恭一
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プロポーズの言葉で?

Posted by ななし on 03.2016 記事 2 comments 0 trackback
奈良県こども家庭課が「プロポーズの言葉100選」というキャンペーンを行いました。リンク
応募総数3621通。
「しあわせ部門」「あこがれ部門」「ドラマティック部門」という3部門に分かれており、例えば「しあわせ部門」であれば言われた(言った)プロポーズの言葉と現在の幸せな生活を教えてください、とあります。

「しあわせな言葉大賞」は
『「着てみる?」の言葉と「ウエディングドレスの画像」のURL』

・・・。

福井県丸岡町でも、今ではすっかり名の知れた「日本一短い手紙」キャンペーン(現在は「日本一小さな物語」へ)を行い、手紙を通した心のこもった町づくりを進めています。リンク

しかし、この奈良県のキャンペーンの意図は丸岡町のようなものとは全く異なります。
その意図とは・・・
『結婚へのあこがれを生み、結婚へのイメージの改善を図るとともに、家庭や家族を持ち、大切に思う心を育てることを目的に、広く全国に「プロポーズの言葉」を募集しました。』

加えて、この表彰式は「ストップ少子化討論会」で行うらしいです。

・・・「少子化対策???」
このようなキャンペーンに対しひたすら呆れるとともに、その小手先ぶりを忌まわしくまで思いました。非常にうさんくさい。

>「少子化」という現象が示している問題性をひとことで言えば、「多くの人が、子どもを産み育てることに積極的な意義を見出せないでいる(可能性収束できないでいる)」ということなのではないかと思う。「当事者」になりきれない不全状態、と言い換えてよいかもしれない。(38831)

>現在は、そんな取引関係とは無縁の「男女の充足」への可能性が拓かれた時代。「愛する」=「一人の人だけに性を開放する」=「結婚する」っていう固定観念さえ無くせば、あとは「女として期待されて、女として役に立てる」場or役割を探す(創る)だけ。「一人なのか複数なのか」なんてそんな次元じゃない新しい男女関係を、実現できる時代だと思う。(52626)

みんなの意識は、「結婚」の向こう側の不安に向いている。そこを見ないふりをして、否、むしろ覆って見せないようにしている行政。

可能性もなにも全く感じられません。(そしてこうしてわけのわからないものに税金が使われてゆきます)

ただ、考えようによっては、少子化の原因が結婚への期待減退だとやっと明確に意識し動きだした行政の姿が、万一新観念の正しい方向に向かえば、次代がかすんで見えてくるのかなあとも思えます。

あらゆる方面で不全がおかしな方向に噴出していることを、実感しています。



匿名希望
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制度バブルを実感したお正月

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
お正月に同級生10人が集まった。30才の女が集まれば、当然結婚の話になる。

基本的に、結婚には魅力を感じていない。違和感さえある。だから実際、10人中3人しか結婚していない。
でも、やっぱり結婚という枠からは抜けられず、年々、「やっぱり結婚が必要な理屈」が少しずつ増えていっているように思う。
子供が出来た時を考えたら・・・、親がうるさいから・・・、負け犬と言われるのはイヤだから・・・、周りが結婚したら遊び相手がいなくなるから・・・、ウエディングドレスを着たいから・・・、引越したいから・・・、等々。。

結婚には可能性がない・求めているものはそこにはないって分かっているのに、なのにそれでもまだ、じゃあ本当に求めているモノは何なんだろうとか(一対婚に代る)新しい制度を作ろうとか、そういう発想にならないのは何でだろう。
実感的にはいい線いってる。あと一歩踏み出せば出口は見えてきそう。なのに、みんながみんな、その手前で磁石に引き寄せられるみたいに、出来合いの制度に飛びついて(戻って)しまうのは何でだろう。

>『まず、現在が人類史あるいは生物史を覆すような大転換期であることを、確りと認識すること』(1/8のなんでや劇場より)

単純だけど、ここからしか思考は動き出さないのかなと思った。



西知子
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