FC2ブログ

ノルマと指標2(指標でも活力衰弱するのは、なぜか?)

Posted by ななし on 31.2016 記事 0 comments 0 trackback
結局、ノルマという概念が持っている壮大な欺瞞性が若者の活力を削ぐのである。だから、「自分で決めた」からと言ってその欺瞞性は消えず、活力を下げていく。

それに対して、「指標」と言うものが存在する。

※指標:物事を判断したり評価したりするための目じるしとなるもの。

特に闘争集団であれば、皆にどれくらい貢献できているかという成果とそれに対する評価はより強い圧力となる。成果を数字で表現し、評価を明瞭にする「指標」。しかし、その指標ですら、「無ければいいのに」と考える若者は、いる。

『期待封鎖ゆえの実感(→共認)無き応望』
>しかし、その一方で、そもそも可能性を探索してそれに応望するには状況認識が必要になります。それが期待を封鎖していれば自分も含めた周りの実感(=みんなの意識)を羅針盤に状況探索することが出来なくなります。その状況で探索すれば自分の頭の中にある旧観念・旧規範で探すだけになり、それでは本当の期待など見つかるわけが無りません。
つまり、自分の期待を封鎖して応望することだけに収束すれば、“実感(=共認)が欠如した状態のために状況探索が貧弱になり、結局可能性を実感していない旧観念しかない自分の頭の中で探してそれをプラス視(価値)して収束(=思い込み)”してしまい、いつまでも旧パラダイムとのズレを感じ続け彷徨うことになります(66463)<

「指標」となっても、期待封鎖のまま周りの状況(期待)を探索するので、すぐに自分の頭の中にある「ノルマ的なもの=ダメ圧力」として捉えてしまい、本当の期待が見えなくなっている。

「指標」は皆の期待の結晶物と言ってもいいものだが、その中身=期待を捉えようとする前に、自分の頭の中で「ダメ圧力」としてしまうのである。

期待が掴めないまま、自分の頭の中のダメ圧力に晒され、活力を衰弱させていく。




小暮 勇午
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ
スポンサーサイト

フリーターの現在意識潮流

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
フリーターに関するデータを集めてみました。
Q.現在フリーターは何人いるのか?
2003年5月末で417万人。10年前と比べると2倍増。労働人口の5人に1人。(内閣府平成15年版国民生活白書リンク

Q.大卒就職率及びフリーター比率の内訳は?
●大卒就職者比率
 1960年 ― 83.1%
 1970年 ― 77.9%
 1980年 ― 75.3%
 1990年 ― 81.0%
 2000年 ― 55.8%(残りは、大学院進学者が10%、あとの30%は無業かフリーター)
●大卒のフリーター比率
 1960年 ― 6.1%
 1970年 ― 9.6%
 1980年 ― 11.3%
 1990年 ― 7.4%
 2000年 ― 32.3%
注:大卒フリーター…進路未定で臨時的な収入を目的とする仕事についた人および進学者・就職者のいずれにも属さない人 
注:フリーター比率…フリーターと就職者の合計に占めるフリーターの割合(平成15年版 国民生活白書リンク

Q.フリーターはどのような生活をしているのか?
 週労働日数 平均4.9日
 月収    平均139000円
3分の2が親と同居、同居者の半数以上は何らかの経済的な負担(生活費を入れる、学費の一部を負担する、年金や保険を支払う、等)をしてもらっている。リンク

Q.フリーターに人気な職種は?
レストランのウェイター・ウェイトレス  10.0%
居酒屋などのホール            8.7%
倉庫内での軽作業             8.0%
コンビニ店員               7.3%
一般事務                 3.7%
その他                 62.3%
(フリーター実態報告2003 リンク

Q.時給は?
800円台   42.3%
700円台   18.8%
900円台   14.6%
1000円以上 10.8%
(フリーター実態報告2003 リンク

Q.フリーターはどのような就業意識を持っているのか?
フリーターの語るメリットは「自由」「時間の融通がきく」「休みが取りやすい」「様々な経験ができる」。デメリットは「将来に対する不安」が一番多く、「収入が少ない」「社会に認められていない」など。
フリーターのうち正社員になりたいと考えている人は政府統計でも72・2%と圧倒的。(内閣府「若年層の意識実態調査」2003年)

Q.フリーターの傾向・特徴など、他に気づいた点
●最近では、30歳を越えても正社員にならずフリーターのまま、という人が増加している。(平成15年版 国民生活白書リンク
●6割が女性、年齢層は20歳代前半層までが中心。(リンク
●いろんな職種を掛け持ちしてる。必ずしもお金を稼ぐためというのではなく、フリーターとして様々な職場で経験を積む中で、やりたいことを探すのも一つの方法と考えているようだ。



匿名希望
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

「役に立つか、立たないか」という判断の土俵

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback

>だが、’00年、私権観念(「お金第一」「自分第一」で社会のことなど関係ないという観念)が崩壊し、一気に社会不全が膨らむと、遂に「豊かさ追求」という目標共認も溶解し始める。そして、「物的な豊かさ」という目標が溶け崩れて、初めて『必要か、必要でないか』という真っ当な判断基準が潜在思念の奥から姿を現してきた。(33821)

確かに、物的商品に対しては、「必要か、必要でないか」という判断の土俵は形成されつつある。残存する仲間世界(圧力)を取り込んだ判断の土俵も、形成されつつある。(みんながブランドもののカバンを買っているみたいだから買う→みんながそんなものは「必要ではない」と考える)

>・学校の授業は役に立たないことは明らかなのに、授業に出席する。
・資格をとっても仕事にならないことに気付いていながら、資格取得に躍起になる。
・結婚に可能性がないことは重々分かっているにもかかわらず、それ以外ないから結婚する。

>潜在思念は「可能性はない」と判断し、新しい可能性を探索しているが、そこでの羅針盤は「みんなはどうなん?」というみんな収束しかないのが現状で、「みんな授業に出るから」「みんな資格を取っているから」「みんな結婚するから」という形で、ことごとく既存の制度に絡め取られているのが現状です。(82396)

しかし、類的商品(資格や勉強)に対しては、判断の土俵がまだ、出来ていない。正確に言うと、「役に立つか、立たないか」という判断の土俵は未だ顕在化していない。

「何が『みんなの』役に立つのか?」を判断しようとした時の、判断軸が全く無い状態と言える。つまり、下部意識では「役に立たない」と一旦判断していながら、上部意識では判断軸がないので「『とりあえず』役に立ちそうなのも」を選び、資格に収束している状態。

必要なのは、上部意識でも「役に立つか、立たないか」明確に判断できる「観念」であり、それは当然みんな期待を捉えることができる「新概念」でもある。

結局、「新概念」「構造認識」と呼ばれるものは、(答えがあるからこそ)みんなに広まりながら、広まっていく過程で、「役に立つか、立たないか」という判断の土俵を形成していく力を持つものだと言える。



小暮 勇午
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

現在の勉強・課題収束は本物か?

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback

 先日のなんで屋劇場『公務員志向・資格志向が増えたのはなんで?』で聞いた、「少し前の若者が言い出したばかりの『やりたいことが見つからない』が、今では『何をしたらいいのか?わからない』に変わってきてる」っていうのがずーっと気になってます。

 『どうやら遊んでいる場合じゃない』というのを身体で感じ出しているらしい。ここまでなら『収束不全』⇒『みんな(期待の)探索』基調がさらに顕在化してきたのかな?と思った。 が、
 そこから「何かしなきゃって焦るんだけど、何していいのかわからないし、だからって『何もしていないと不安』だから、“とりあえず”公務員を目指してみたり、“自分でも取れそうな”資格勉強をしてみたり」と、『勉強収束』しているらしい。

>プロ(統合階級)による観念支配のために、旧観念が閉塞の元凶であることに気づかず、顕在意識は可能性閉塞という状況判断に陥り、可能性がないのなら「少しは安心かも」という思いから、既存の支配的な観念や規範や制度へと目先収束してしまったのだ。<82591
というのは当たってると思います。
 だとしても“とりあえず目先”だけで、自ら進んで“ガタガタ”の(自衛隊やNGO、行政などの)渦中に突っ込んでいくのは、“安直”を通り越して、無謀というか、脅迫観念的、短絡的すぎないか?という疑問が残ります。

 『何もしていないと不安』というところに着目すると、(短絡回路で)「とにかく何かしよう!」と“むりやり課題を捏造”して、その『不全感を捨象』しているとも捉えられます。だとすると、この『不全捨象⇒勉強(課題)収束』は、“収束不全”という人類の“新しいみんな不全”も捨象してしまうのでしょうか?

 一方『遊んでいる場合じゃない』に着目すると、
>経済破局にせよ、精神破壊にせよ、環境破壊にせよ、それらの危機は全て観念によって把握された危機であって、(現段階では未だ)本能を直撃する様な危機ではない。<18422
という状況が変わってきていて、“ガタガタの現実”が身体を直撃=他人事ではなくなって、潜在思念下の『みんな期待⇒統合欠乏』が、待ったなしで顕在意識上に“目先課題”として引きずり出されていく≒矛盾が表面化する段階にきたということでしょうか?



平野令
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

悩みは可能性となった

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback


>現実を捨象した幻想観念が実現される訳もなく、全意識を統合し切れる訳がない。その限りで絶えず悩みが生じることにもなるが、悩み思考は倒錯思考の副産物であって、思考しても停止しても現実は何も変わらない。<(19060)

ところで、始原人類も悩んでいたのだろうか?洞窟の中で暗い顔をして悩んでいる原始人の姿など、とても想像できない。悩んでも明日の食料が手に入る保証など無いのだから、共認を羅針盤に、食料を確保するためのあらゆる方策を模索していた(だけ)だろう。

何故現代人はこれほどまでに悩むのか?そこには、「答え」が供給されないということ以前に、「現実否定」という現代人固有の思考パラダイムがある。仕事であろうが人間(男女)関係であろうが、悩みとは、主体≠対象という状態。生物の認識機能は「外部認識=内部意識」(19059)なのだから、悩んでいるというのは認識機能が真っ当に作動していないということ。

そして、悩みという不全or欠乏は下部意識で捉えているのに、それを上部意識がきちんと対象化できず統合できないとしたら、上部意識(観念)に問題があることは明らかではないだろうか。

つまり、悩むこととは、現実を否定する旧パラダイムを、同類圧力の現実の中に可能性を見出す新パラダイムで塗り替えるチャンスでもあるということ。

>不安も期待も、全て封鎖してしまえば、悩むことはできない。悩むということは、不安や期待を封鎖していない証しであり、一見素直で無表情な期待封鎖型より、ずっと健全で可能性がある。悩むのは、「自分はこのままでいい」とは思っていない=変わろうとしている証しなのだ。<(78812)

「自分だけの悩みなど無い」(78579)のだから、悩むということは共認回路を再生しようとする営みであり、生存圧力に替わる新たな活力源の萌芽(可能性)に対峙しているということなのだ。



鈴木隆史 
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

「みんな収束」だけでは、目先の秩序収束から抜け出れない

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback

> みんなフィーバーや制度収束や国家収束etc秩序収束ばかりが目に付くが、もう一方の答え探索は、ニュース収束や人間ウォッチングや仲間内でのマジ話くらいしか顕在化していない。
これは、共に最深部の適応⇒探索の収束先でありながら、秩序収束はとりあえずの適応収束である(従って、既存の制度etc、具体的な収束先が存在する)のに対して、答え探索は最深部での適応収束であり、従って(ニュースも、ウォッチングも、マジ話も)社会収束であるという所までは云えるが、その具体的な収束先がはっきりしない(=答えが見えない)からである。< 73647

潜在思念は、収束不全⇒探索収束をしているにもかかわらず、結局は既存の秩序に収束しています。

・学校の授業は役に立たないことは明らかなのに、授業に出席する。
・資格をとっても仕事にならないことに気付いていながら、資格取得に躍起になる。
・結婚に可能性がないことは重々分かっているにもかかわらず、それ以外ないから結婚する。

潜在思念は「可能性はない」と判断し、新しい可能性を探索しているが、そこでの羅針盤は「みんなはどうなん?」というみんな収束しかないのが現状で、「みんな授業に出るから」「みんな資格を取っているから」「みんな結婚するから」という形で、ことごとく既存の制度に絡め取られているのが現状です。

授業に替わる新しい学生の役割、みんなの役に立つ勉強、充足できる新しい婚姻(男女関係)様式、つまり「具体的な収束先=答」がないことが、彼らの可能性探索を流産させており、一向に転換の気配が感じられません。

むしろ、状況が悪化すればするほど、秩序収束しているようにさえ思われます。



松尾茂実
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

マスコミの世論調査は誤魔化しの世論形成

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
>共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。(73071岡田さん)

マスコミが共認形成の場を牛耳っている以上、庶民は知らず知らずのうちに観念支配されていく。共認原理の世の中で力をもつのは世論であるが、これ自体をマスコミがしたたかに操作できる実態もある>リンク

2002年の8月、朝日新聞が報道に関する世論調査をしている。その結果は
「今のマスコミに大いに不満」が9%
「ある程度不満」が51%に達したという。また、それが目立つマスコミの順位は1位テレビ、2位雑誌、3位が新聞だった。

具体的な中身については
「人権に配慮が足りない」32%
「興味本位に騒ぐ」28%
「見方が一方的だ」23%
「権力批判が足りない」11%(「数字で読む日本人」自由国民社より)

この具体的な中身も微妙で、もともとの選択肢自体、新聞社が設定しているのだということは意識しておく必要がある。一見、庶民側にたってるようだが、庶民の疑問や不信を微妙に摩り替えることは容易なのだ。そして、そのデータが世論として共認されていく。(世論調査しながら世論形成しようとしている)

中身を追求したり、その存在の是非を問う設問は用意されない。これを誤魔化しといわずして何と言おうか。

例えばアンケートの中身が
「マスコミが答えを出せると思うか」
「マスコミが必要だと思うか」
「マスコミが庶民を支配していると思うか」
「マスコミが社会を閉塞させていると思うか」
などであれば、どうなるか。

ある意味、一定のマスコミ不信が顕在化している以上、彼らは更に誤魔化し報道を続けることしかできない。



平川要
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

親元収束する若者

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
私は今年社会人一年目で、会社の近くで一人暮らしをしている。
2年前の就職活動の際には、「実家を出る」ことを念頭に置いて会社選びをしていた。特に親と仲が悪かったわけではないし、実家が不便な場所にあるというわけでもない。ただ親元から離れて一人で生活してみたかった。漠然と「社会に出たい」という意識があった。居心地のよい「家庭」にいてはいけない、という意識もあったから。

しかし、姉も私と同じ時期に仕事の関係で実家を出ることが分かっていたので、家に残ろうか悩んだ時期もあり、親に相談してみた。
「家に残ったほうがいい?寂しい?」と聞くと、「心配しなくていいから。あなたの好きなようにしなさい。」と。引き止めない親を見て、強がっているのかなと思い、一層家を出ることを悩んだ。
強がって口には出さないけど、きっと寂しいんだろうな・・・本当は家に残ってほしいんだろうな・・・と。

結局、私は家を出て一人暮らしを始めたが、改めて周りを見渡してみると、親元で暮らす同年代の子の多さに驚く。事情があって一人暮らしをしている子でも、休みの度に実家に帰っているようだし、長期休暇が取れると、旅行に行くのではなく実家に飛んで帰っている。

>しかし、'90年以降、対象を失った彼らの親たち(74917)に同化しても当然答えはなく、中身(=対象)のない親の囲いに幽閉されたまま、全く活力の出ない存在となるのは必然です。(75324)

しかも、彼らは一見「全く活力の出ない存在」ではない。むしろ、そこでとりあえずの親和充足を得ており、何も問題だとは思っていない。

今や誰もが収束先を見失っている、収束不全。やりたいことが見つからない、何をしても物足りない、どこへ向かえばいいのか分からない、出口が見えない状況。
そんな中、「親元」「家庭」という収束先は、皆に共認された規範・制度であり、そこには親孝行といったような役割があり、充足もある。現在の収束不全・統合欠乏・役割欠乏などと合致する。

だから「とりあえず」みんなに認められたものに収束、つまり共認収束するのではないだろうか。「とりあえず」=現在形の充足に収束するということであり、それなりに統合される。粗末なモノであっても、その瞬間にそれなりの充足があればよいという感じ。

親元収束は、出口が見えないが故に旧体制に絡めとられている事象の一つと言えるのではないだろうか。
社会の行き詰まりを感じつつも、どこにも可能性を見出せない。よって、可能性収束を断念して、目先の規範・制度・観念に収束している。まさに、「可能性閉塞」の状況認識から無難収束しているのではないだろうか。

そこ(親元)で、それなりの親和充足・安心感を得て、特に問題意識を持つこともなくそれなりに楽しく暮らしているように思える。しかし、彼らが答え探索を止めたとは思えない。状況認識として「答えがない」⇒「共認収束」を選んでいるが、根底に収束不全があるのは間違いない。

出口が見えない⇒答えが欲しい、ではなく、出口が見えない⇒とりあえずの無難収束。そこでは全く活力が出ないという状況に陥ることはなく、常にそれなりの充足が得られてしまう。よって、真剣に、本気になって答え探索に向かわないのでは?

実際、周りを見てみても、親元で住むことに危機感を抱いている子はいない。むしろそこに役割を見出し、一見充足しているように見える。よって「答え=新概念が必要」という意識に直結しない。これは、実に危険な状態であるといえるのではないだろうか。



井上緑
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

「生きている」とは?

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日の「なんでや劇場」で次のような発言がありました。

「周りのみんなに合わすと、自分が無くなってしまう。」

恐らく、こんなことを考えるのは人間だけでしょう。若い人の一部には、仲間関係で上手く行かないときに存在不安を覚える傾向があるように思います。しかし、上手くいっている時(仲間と充足している時)には、自分って何?、生きてるって何?なんて考えたりしません。

そもそも、生物一般においては自分を無くすことは死を意味します。つまり、「生きている」とは一体どうゆうことなのか? 人間にも動物にも、生物一般に当てはまる普遍的な摂理(事実)を認識する必要があるのではないでしょうか。

以下は、劇場の後に仲間から助言を頂き整理した内容です。

★「生きる」とは、外圧に適応すること。
「外圧に適応する」とは、外圧を認識して、それに対応して適切な欠乏(内圧)を生起させ行動することです。(外圧状況を無視した欠乏は存在し得ないし、もしそのようなものを捏造したとしても当然適応不能である)

「対象同一化」の意味するところは、この「外圧を認識し、それに対応した適切な欠乏(内圧)を生起させ行動すること」そのものです。(だから、全ての生物はそれを当たり前に行っている)

★生物は、外圧に適応するために最先端の機能(適応するのにもっとも役に立ちそうな可能性のある機能)に収束し統合して生きている。

一般生物は本能機能によって外圧に適応している。しかし、人間は本能だけでは生きてゆけないので、共認機能に可能性収束することで、どうにかこうにか生きてゆくことができるようになった。

だから人類にとって、共認機能を使って対象(自然や仲間)に同化するということは、「適応すること=生きる」ということそのものである、といっていいほど重要である。

>『男も女も全ての人も、みんなお互い充たし合う為に存在している』
>『人類の最大の活力源にして最高の充足源は、期待・応望である』
(75440、西さん)

人類の生きる意味も、可能性収束先も上記が全てといってもいいでしょう。「当たり前」の状態とは、本能(工夫思考)と共認回路がピタッと一致している状態。さらに、その構造が分かることで、本能→共認→観念が一直線に貫かれる。つまり、可能性の実現に向けて行動することができる。

自己の確立=対象の獲得です。人間の存在構造は「外圧(対象)=内圧(主体・自己・意識)」の中にあります。現実の対象(仲間・みんな)の意識は日々変化してゆくのが当たり前です。だからこそ、みんなの期待(=対象)を注視し、ズレを認識して適応しようとするのが自然な姿であると思います。

ズレを矯正してゆくためには、ズレ(捏造された自分観念や錆付いた共認機能)を認識し、不要な観念を捨て去り潜在思念(本能・共認)に立脚することが必要。そうしてはじめて適応していくことができます。

何も恐れることはありません、周りのみんなも同じなのですから。認識ひとつ変えるだけで可能性が見えてくるし、共認機能(期待・応望)を作動させれば充足対象をいくらでも発見できます。

閉塞感に包まれた現代、目の前の現実の対象を肯定視して、みんなの期待に応えてゆくことが、「生きている」ことなんだと思います。



橋口健一
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

「構造改革」バブル

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
小泉首相が掲げているスローガン「構造改革」もバブル化している観念の典型ではないかと思う。
考えてみれば小泉だけでなく、ここ10数年、政治にしても、経済、年金、教育etcにしても、「改革」ということがやたらと叫ばれ、「改革」は時代のキーワードになっている。しかし、それらの政策をより大きな視点で見れば、どれも小手先にすぎない、とうてい「改革」と呼べる代物ではない。つまり、中身が全然ないのに、「改革」という言葉だけがもてはやされ、なんとなくいいもの・必要なこととして解釈され、流布している。

先日ある方が「政治家は、改革、改革と叫んでいるけど、本当は、一番自分が改革なんかしたくないと思っているんじゃないか?」と言われて、なるほどそうかもしれないと思った。

改革を叫んでいればとりあえず自分の身分を保持できる(逃げ切れる)と思っているのか、答えを出せないがゆえにスローガンを繰り返すしか能がないのか、あるいは、改革を唱えることで何か仕事をしているかのように錯覚していられるのか。いずれにしても、思考停止の言い訳にしかなっていないように思う。

観念(言葉と論理)は、本来、現実の状況を掴み、何かを実現するためにある。その観念が、何かをするためではなく、全く逆に、現状維持(目先の秩序収束)=何もしないために使われているこの状況は、かなりヤバイと思う。



岩井裕介
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

固定観念による悪循環

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
子供って良くも悪くも真っ白な画用紙みたいなもので周りにとても影響を受けやすいんだろうなと感じます。例えば「泣く子は嫌い」と言われたら素直に「泣くことはいけないことなんだ」と言う固定観念を作り上げるように。固定観念は回りの影響を受けて出来るのに、「こうあるべき」と一度固定観念が形成されたとたんに、それが(それだけが?)羅針盤になって良し悪しを決めていく。

そして固定観念に合った自分になる為にいろんなものを押さえ込んで、その無理から生まれる不安すら否定したり、自分は駄目なんだと言う自己攻撃に走り、こんな自分じゃ誰にも受け入れてくれない、と言う不安に陥ってしまう。さらに受け入れてもらえる自信が無いから、みんなにうまく向かえずにどんどん自分に囚われていく。
そんな状態じゃあ充足なんて出来なくて当然活力なんてありゃしない。そして自分は何のために生きてるんだろう?と自分の中で考えて、答えが出ないから生きるのが苦痛になっていく。そう言う傾向があるんじゃないでしょうか?

固定観念に囚われにくくなった今、気づくことはみんなが自分をどんなに心配してくれていたか、それを思うとただ単純に嬉しいと思うし、今まで自分に囚われて気がつかずに心配させてきてしまったことに申し訳ないと感じます。そして人に嫌われないよう自分のために変わろうとしていただけのはずが、いつのまにか自分自身を苦しめてしまっていた事にも申し訳ないと。

大切なのは固定観念に囚われないで、相手の気持ちにどう応えたらいいかな?みんなが喜んでくれるかな?って考えること。こんな楽しい事はないし、意識が自分からみんなへ切り替わった瞬間に自分って何?とか何のために生きてるんだろう?なんて考えなくなる、考える必要がなくなるんじゃあないかな?って思います。



西麻美
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

私権時代と収束不全①

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
私権時代3000年の混乱期(お家騒動、謀反等を契機に戦乱・政権交代が発生した時期)において、社会統合軸が揺らぎ『統合不在』となっても、本能では対応できないような活力不全=収束不全(71435、71819~71820)にまで至ることはなかった。

その理由は、社会を構成する全成員に本能を直撃する『飢えの圧力=生存圧力』が恒常的に働いており、皆にとって『生存課題第一⇒生活基盤の獲得第一』だったから、混乱に乗じて新身分獲得を目指した野心家たちが真っ先に私権闘争に収束して私権活力を生起させ、庶民が私権闘争勝者(みんなの私権期待を充足させてくれる覇者)を追共認することによって最終的には統合可能であったから。

あるいは、統合不在⇒統合不全=ガタガタの現実を、宗教や思想などの旧観念を使って捨象し、頭の中だけで統合する=観念によって統合可能であったから。

安定期(外圧低下時)においても、人々は性や解脱によって、生起する不全感(=私権不全)を充足させることができたし、恒常的な生存課題に収束することができた。

そのため、貧困の消滅⇒私権の衰弱と序列原理の崩壊によって生起した『収束不全』への答えは、人類が初めて直面した未明課題であり、私権時代(混乱期においても安定期においても)を突き抜け、原始時代から更にその先のサル時代にまで遡って思考しなければ、決して見つからない。



安西伸大 
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

現代の精神障害を同化障害として捉えなおす

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
統合失調症.うつ病.ボーダーラインパーソナリティ.解離性障害・・・等、たくさんの精神障害分類がある。これらの多くは、私権統合がしっかりしていた時代に、多くの正常といわれた(私権社会に順応した)人々と一線を画する、異常者とて判断された人々につけられた病名である。そして彼らには、正確にとは言わないまでも、そのどこかに分類できる特徴と、健常といわれる人々との間に、ある程度明瞭な境界があった。

そして現在、’90頃からう『うつ病』に代表される精神疾患が急増している。この精神疾患と過去のそれとに違いは、数の増加だけではない。過去の分類に当てはめようとしても、『何事も悲観的に考えてしまい、元気が出てこない』という、うつ気分という共通項の上に、過去の分類に当てはまりそうな、病状の断片がいくつも薄く出てくる、というものである。よって、これらの診断は極めて曖昧にしかならず、多くはうつ病と診断されているようだ。

もう一つは、医者にかかった数値だけが表に出ているということである。実際には、過去割と明瞭だった、私権社会への不適応という境界は極めてあいまいになり、一見健常に見える人でも、実はそのような症状で苦しんでいる人もたくさん居るということである。正常か異常かという問い自体が、余り意味を成さなくなっているのである。

こなると、多数の健常者(適応者)と少数の異常者(不適応者)、という図式自体を見直して考える必要がある。大きく捉えると、正常と判断するための、社会共認自体が崩壊し、どう行動すればよいのかわからないという状況だろう。だが、それでも現実には、生きていく必要があり、行動判断を行う必要がある。そして、確信を持てぬまま、なにか判断のよりどころを探して行動しているという状況ではないか?

では彼らは、何をよりどころに行動しているのか?ここで、あるうつの特徴的な事例を見てみると、たとえば、他人からは立派な職業、明るい性格と見られているひとでも、こころの内面は、極端に自信が無く、ひどく疲れる。そして、主観的には周りに合わせたいという思いはあり、そのように行動するのだがまったく充足していない。そのため、他者がいなくなると、立ち上がることすら出来なくなる。

そのように、一見まわりの期待に応えようとしているが、実は自分の内面に恐ろしくこだわっている。そして、こころにぽっかり穴があいているということを感じて、なんとか埋めたいと思っている。その反面、社会や他の人の苦しみは、意外なほど感じ取ることが出来ない。つまり、相手と同化する能力が極めて低いため、相手の苦しみが解らない状況にある。

これらのことを総合すると、一見期待応望のように見える判断行動も、実は共認回路はまともに働いていない。しかし、形式的には期待応望の行動と同じ行動をとっている。それは、親から、世間から教え込まれた、規範観念をよりどころに、実感の無いまま、行動しているのだろう。それ故、本来ならあるはずの応望充足が得られず、行動すればするほどエネルギーが切れて、うつ状態に陥るのではないか?

これは、同化障害とも呼べる現象で、共認回路の異常と考えられる。そして、最大の問題は、このような傾向が、程度の差はあれ、かなりの比率で登場し始めたということだ。こうなると、精神障害を、特殊な人々の個人的な問題として捉える、従来の療法は殆ど無効になる。もっと大きな社会問題として、これらの問題を捉える必要がある。

だから、人間や社会を対象化した構造認識を駆使した、共認心理学が、今求められているのだ。



本田真吾
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

“結婚”は制度も中身もガタガタ

Posted by ななし on 18.2016 記事 1 comments 0 trackback
すこし昔は“結婚”とは男が女の性を独占する代わりに女の一生を(経済的に)保証するという私権規範に基づく“独占契約関係”でした。しかし’70年以降社会は豊かになり、生存圧力(貧困の圧力)という大前提を失って共通する利害(取引)関係は無効化してしまいます。

そして結婚は、社会状況から遊離して愛する二人の世界へと収束してゆきます。たしか'70年代「世界は二人のために」という歌が大ヒットしていました。“貧困という現実課題”から“愛という幻想共認”が唯一最大の絆となり、結婚生活はとことん密室化してゆきます。

'80年代になると離婚率が急上昇を始めます。新婚旅行から帰ったとたんに離婚してしまう「成田離婚」も話題になりました。そして未婚率も上昇カーブにはいり、不倫が社会問題として認知?されたのもこの頃からです。すでに制度(あるいは規範)としての結婚は破綻し始めていたといえます。

そして'90年代、仮面夫婦(外では仲良し夫婦、家では一切コミュニケーションなし)、セックスレス(その名のとおり)、DV(ドメスティックバイオレンス)・・・結婚の中身はガタガタになり、愛する二人の世界だったはずの結婚生活は完全な閉塞状況に陥ってしまいました。

私権規範が消失し、結婚幻想もその中身の無さを露呈し、制度としても破綻をきたしている“結婚”。しかし男女関係の落ち着き先はやはり“結婚”という意識はいまだに根強いものがあります。

現実の制度としての“結婚”と、男女のあり方として不可欠と感じ収束している“結婚”。不全の中でみんなが向かおうとしている“結婚”の本質部分を明らかにしてゆく必要がありそうです。



阿部和雄
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

「多様化するニーズ」に対応してても可能性はない

Posted by ななし on 17.2016 記事 1 comments 0 trackback
なぜこの閉塞した世の中で、需要が多様化する(ように思える)のか?
それは、答えがない→収束不全ゆえの目先収束だから。目先ゆえに、どんどん移り変わり、個別化・多様化していく。

なんかヒマだから、とりあえず音楽・ゲームでもしとこうか…。
なんかさみしいから、とりあえず携帯・ネットで繋がってみようか…。
どうしていいかわからないから、とりあえずウチの子個別指導に任せてみようか…。

とりあえず収束してみたはずが、やっぱり不安だからどんどん目先の対象に収束していき、個別化していく。「もっとちゃんとウチの子見て下さい。」その「ちゃんと」の中身がなんなのか、わからないままの要求。単なる消費者である限り不安は解消せず、どんどん要求はエスカレートしていく。果たしてただひたすらそれに応えていくことだけが、供給側に残された可能性なのか?

>しかし、需要という視点でいくら分析を重ねても、市場の突破口は見えてこない。なぜならば、類的需要は極めて普遍的に潜在している欠乏であるけれども、同時にそれは答えの供給なくして決して顕在化することはないからである。(79426 山澤貴志さん)

類的需要は普遍的に存在しているのだが、答えがない限り、顕在化してくるのは不安ゆえの目先収束という表層の需要でしかない。

>逆に「答え」が与えられれば、つまり潜在需要に合致した認識生産(あるいは類的供給)がもたらされれば、人々は一気に答え欠乏を顕在化させ「なんで?なんで?」と答え欠乏を募らせていくし、活力再生の突破口を得ることで、自ら供給者になろうとしていく。(79426)

人々は答え欠乏を一気に顕在化させてゆくであろうが、市場経済システムという制度は、一気には変わらない。「需要者」=「供給者」であるという構造は、今までの経済システムの中ではありえなかったからだ。
「需要発から供給発へ」。この認識は現実を切り開くためにあるのであって「錦の御旗」=お題目ではない。現在の経済システムの中で、どうやって新しい可能性を実現させてゆくか?旧い枠組みには可能性がないとしても、一気に捨て去るわけには行かない。混迷する現実を見極めながら、確実に実現していく認識力と強い意志が必要となるだろう。

新認識を得て、活力を充実させた男の人たちにそれを期待したいと思う。




藤岡聖子
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

社会統合には教育システムが不可欠では、

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
考えてみれば、これまでは社会には教育システムが組み込まれていた。家庭→学校→会社の各段階に教育システムがあり、それが統合され社会全体が社会システムとして機能し必要な人材を育てていた。

しかし、’70に貧困が消滅→序列統合が無効化したことより、序列で統合されていた、家庭・学校・会社という集団が目標や行き先を見失いガタガタになるのと同時に、それら集団が持っていた教育システムも機能しなくなった。結果、社会全体が閉塞し、やりたいことを見つからない若者が増え、フリーターや会社をすぐにやめる若者が増加した。

どう進んで行ったらいいのか?これからの自分がどのように成長していくのか?それがわからない収束不全は、不安を増大させるだけでなんら活力も出ない状況へと追い込む。若者だけでなく上の世代もこれからの社会を担う若者を育てることができずに不安を募らせている。

社会を統合していく上では、その社会に教育システムが不可欠なのだと思う。これからどのように成長していくのかという道筋や目標、それを学ぶ場や認識があって初めて若者は可能性を見出せるし活力も湧いてくる。上の世代も若者の成長があるからこそ、目先の課題にとらわれることなく、次の課題へと目を向けることができる。また、次の供給者となる若者を育てることは、それを担う役割=仕事を創り出すことにもなる。

常に供給者を創り出すことのできる教育システムを内包することは、統合サイトへの発展だけでなく、これからの社会統合機構の構築には不可欠な課題なのではないでしょうか。



斎藤幸雄
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

自分だけの悩みなどない

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback

なんでや露店に来る客で、何も喋らずずっと座り込んでいる女子高生がいる。見た感じ、無表情。時折笑顔で不思議な感じを漂わせており、病んでいる印象。

「何かお題聞いてみる?」と尋ねても返事はない。
そのうち別のお客がやってきてお題に応えていると、その話にじっと耳を傾けてくる。彼女からの発言は何もないが、明らかに答えを求めて無言の発信をしているようにも見える。店主とお客の間で交わされている実感や認識に、少しずつ自らも重ね合わせているようだ。

こういう姿もこれからの悩み需要に応えていく形なのかなと感じた。

人間関係が上手くいかなかったり、何をしても活力が出なかったり、そんな自分を否定してますます悪循環に陥ったり。今までは、自己啓発にしろカウンセリングにしろこんな悩み需要に対する答えは、自分を肯定し、自分の中の可能性に気付く事、殻を破ることだとされてきた。
しかし、セミナーやカウンセリングを通じてその時はそう感じれたとしても、現実の日常に戻ればまた同じ生活を繰り返す例は多いよう。自分の中の可能性に気付いても、現実=みんなの中の可能性に気付いていなければ解決には至らない。

上記のような女子高生はそんな可能性をみんなの中に求めているように思えた。周りの会話の中に自分と同じ不全や実感を見つけた時、今までそれが自分ひとりの悩みであったものが、そうではない事に気付ける。そしてそんな不全が社会転換による必然的なものである事が解るほどに、その悩みが自分ひとりの課題ではなくみんなの課題として捉えることができる。
そうする事で徐々に自分の中だけではなく、現実社会のみんなの中に可能性が見えてくるのではないだろうか。

個人的な悩みと思うから答えは出ない。
共認心理学で個人的な悩みも普遍的なみんなの課題に昇華してこそ突破口は見えてくる。
そこに導いてくれる構造認識に感謝!



喜田育樹
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

当事者になろうと思えないから辞める

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
会社に対する愚痴には上司に対するもの、はたまた部下に対するもの、体制自体に対するものなどいろいろあると思う。
確かに、いまだに序列で通っている会社ではそれもあるんだろう。でも、待てよ?
辛抱できずに若者がすぐに会社を辞めてくっていうのも一方である。そんなところにいるくらいならフリーターでいいと。
しかし、よくも悪くも両者に共通するのは当事者として会社の経営を考えていないこと。
あくまで自分という立場から不平不満を言って愚痴り続けるか辞めてくかの違いだけとも言える。
そもそも、「自分もこの会社を動かしている一員なんだ」という意識自体がすっぽり抜けているんじゃないだろうか。もし、そういう意識であればすぐに辞めるということは無いだろうと思う。
>企業活力の再生⇒社員の「やる気」の再生ということを考えた場合、「何のためにその仕事をしているのか?」「何のためにその会社にいるのか?」という根本共認を形成することは不可欠の課題であり、そのためには、「次代をどう読むか?」という共認形成が不可欠であるはずです。(78263)

会社が序列原理だから辞めるというよりは「何のためにいるのかわからん」から辞めるほうが多いのかもしれない。
「当事者になれない会社なら辞める。」であれば仕方がないが「当事者になろうと思ってないから辞める」が実は現状かも。
そんな人材はどこへ行っても同じで活力が湧かないまま点々とする結果に終わる。
活力再生需要は会社の人材にしても辞めてく人材にしても共通のものなのだと思う。



平川要
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

収束不全の時代

Posted by ななし on 13.2016 記事 1 comments 0 trackback

先日露店に来た30歳くらいの女性。選んだお題は「いつも自信がないのはなんで?」。
彼女の悩みはとにかく人に頼み事をしたりするのが苦手なこと。百貨店などでも店員さんに商品のありかを聞いたり、説明を聞いたりすることもできないという。また近々職場の移動があって、初めての部署での仕事がすごく不安で仕方がない様子。

たしかに露店に寄った時の表情は非常に暗く、少しうつの状態だった。

そこで彼女の生い立ちや親子関係について聞いてみた。家庭環境としては特別かわったところはないが、子供のころからなかなか友達ができなかったこと、それの反動として勉強だけは一生懸命がんばったこと、心のどこかで母親からの「いい子」でいることに対する期待に必死になっていたこと、などをぽつりぽつりと話し合った。

「いい子」であり続けたいという意識が、自分のことでみんなの手を煩わせたくない、みんなに迷惑をかけたくない、という強迫めいた観念として固定化され、誰かに期待をかけるという意識を封鎖してしまっていると思うよ、 といったあたりで彼女の瞳から涙があふれた。

そして感謝と謝罪。「まず頭が心、体に謝罪。抑圧してたのにも関わらず、がんばってくれた、心、体に感謝」

自分自身に感謝すること、これは決してはずかしいことではないことを露店という場で共感できたとき、深い部分の安心からか優しい笑顔がもれた。


露店にはいろんな人が来る。多かれ少なかれ自分不全をみんな抱えている。そしてその原因は母親や父親であったり、会社の人間関係であったり、友達関係であったり、様々だ。しかしそうなった背景には収束不全という時代の不全がある。(だからこそみんな未熟だし答えを出せなかった)
目の前の対象を否定するのではなく、その背後にある時代の収束不全と対峙することが、みんなの期待の中身。いまそのことがはっきりわかった。



野村徹
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

代々木忠の「自分とつながるための方法論」

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback

>乳幼児期の母親との親和充足(笑顔の交信やスキンシップによる安心感)が人格形成上決定的に重要であるにもかかわらず、スキンシップが充分できていない場合、子供は親和不全(怯えに近い不安)に陥る。しかし、赤ん坊にとって母親は絶対存在であるため、親和が得られないのは「自分が悪い」からだと自己攻撃し、己の欲望や期待を封鎖して、母親から与えられる規範観念(「ああしなさい、こうしなさい」「それしちゃダメ」etc)にひたすら収束する。己の欲望や期待を封鎖してしまった子供は、当然性欲も封鎖していく。そして、ひたすら観念に収束することによって、体が求めるものを頭(観念)で押さえ込んでいく。そして頭と体の断絶状態になってしまう。76010

つまり、乳幼児期の親和欠損から、母親へ過剰に同化収束するが、評価されない場合、期待に応えられないのは「自分が悪いからだ」とダメ観念(自己攻撃)に収束する。それで、いつも自信がない。かつ、自分の期待(欠乏)も封鎖してしまう。大半の人、特に若者は、このような心理状況にあると思います。

76604で挙げられている「まず頭が心、体に謝罪。抑圧してたのにも関わらず、がんばってくれた、心、体に感謝」は、この自己攻撃や期待封鎖から、共認回路や本能回路を解放するための方法だと思います。AV監督の代々木忠も、『オープンハート』の中で「自分とつながるための方法論」として、瞑想をあげています。自分の心と体に感謝する、具体的な方法論の参考に、引用します。

>瞑想ですることといえば、(太鼓のリズムのような)最初に音楽を聞き(慣れてくれば、これも必要ない)、首を回し、深い呼吸をして、心に浮かんでくることを自分で確かめ、自分に感謝する。そのあとに、光のシャワーをイメージし、再び深い呼吸をして、最後に10数えてから目をあける。ただそれだけのことだ。

>私たちはふだん自分を理性的に保つために、浅くて不規則な呼吸をしている。だが、ここで行う深くてゆっくりとした呼吸は、毛細血管を開き、血行をよくする。この呼吸があなたをトランス状態(軽い睡眠状態)に導いてくれるだろう。

>「瞑想においては雑念をはらえ」という言葉をよく耳にする。だが、雑念をはらおうとすれば、いつまでも雑念とつきあうはめになる。だから呼吸によって心が落ち着いてきたら、「あえて雑念とたわむれよう」と私は言いたい。雑念を否定し振りはらうのではなく、雑念と積極的に遊んでみるのである。

>そもそも雑念とは何だろうか。なぜ心が落ち着いてくると、雑念が現れてくるのだろう。雑念とは、過去においてまだ解決していない、あなたの思いなのではないだろうか。この意識するとしないとにかかわらず、解決されていない思いがたくさん残っていればいるほど、人からいくら励まされようとも、あなたは自分に自信を持つことがむずかしくなってくる。

>たとえば、(きょう、会社でこんなことがあったな。屈辱感を味わったな。あんなことを言った部長にさえ、俺は媚を売っちゃったんだな)という思いが浮かぶかもしれない。そうしたら、なぜあなたがイヤな部長にさえ媚を売らなければならなかったのかをよく考えてみる。人はだれでも嫌いな人間に媚など売りたいわけがない。そこにはそうしなければならなかった状況があったはずである。だったら、自己嫌悪するのではなく、その時にそれしか取るべき道のなかった自分を認め、自分なりに精一杯やったあなた自身を許してあげよう。

>あるいは、もっと昔の出来事を思い出す人もいるだろう。(そういえば子供の頃、こんなつらいことがあったな。でも、だれにもそれが言えなくて、今でも俺は心のどこかでまだそれを引きずっているよな。よく考えてみると、あの時のあいつをまだ恨んでいるんだな)などと思えてきたとしよう。しかし、そんなつらいめに遭いながら、あなたは一人でここまでがんばってきたのである。過去の幼いあなたに(よくがんばった。君はすごいよ)とほめてあげてほしい。

>そして、どんな場合でも必ず最後に、一生懸命やったあなた自身に(ありがとう)という感謝の思いを送ってほしい。実はこれが自分との対話においては最も大切なことである。





冨田彰男
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

同一性を感じるまで深める

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback

>「自分」というものを考える意識の背景には、対象同一性(規範同一性)が絡んでいるように思う。つまり、「自分」=収束対象。収束対象というのは、規範・役割。
>大人たちの無責任な言葉を受けて、みんな「自分」を必死に自分の中に見出そうとする。しかし、当然のことながら「自分」の中はカラッポ。(75117井上さん)

普通に生活している限りでは、「自分」について深く考える事はないと思いますが、就活するにあたって「自分」を確立しなければならないと感じ(又はそう指導されて)、必死に考えた挙句に行き詰る学生さんが沢山いるようです。

先日会った学生はまさにこの状態で、どの会社の面接を受けても、自己PRを強いられ、何も表現することができずに結局は苦戦すると言っていました。
しかし彼女は、「自分」に固執せず「みんな」に委ねることで自分の役割も見出せることは、バイト経験からも分かっているようで、「自分探し」の呪いからは解かれていたようでした。ただその一方で、働くことには前向きなのにも関わらす、これといった企業もまだ見つけられていないようでした。
それは、収束対象が見つけられず、現存する社会の仕組みや規範にも同一性が見出せない状態だったんだと思います。

>同一性の発見とは、金太郎飴のような形(表層)の同一ではなく、対象の背後に共通に持っている同一の性質や法則を見出すことなのではないか(75288 浅野さん)

あと一歩のカギは、ここにあった!「新たな収束対象(規範・役割)75117」は、深いところにある普遍性(共通に持っている同一の性質や法則)を見出すことで掴めるかも知れない。同一性を感じられるまで、とことん深めるって、とても面白いことかもしれない。




山崎許子
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

対象同一化と媒体役

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback

>'90年頃以降完全に対象同一性(規範同一性)を失った若者はやりたいこと=役割探しを始めます(74917)

対象同一性、つまり社会規範・社会共認との同一性が失われた現在、人々は74245にあるように共認充足を求めて誰かと繋がるための媒体にお金を使うようになった。そうすることによって、何らかとの同一化を図ろうとしているのだと思う。

役割を求めようとする意識も同様で、それは何か役割を担うことによって社会=人々と繋がっているという実感を求めているからに他ならない。つまり、社会との同一化を求めているのである。

>実は心の奥底で社会共認を形成する当事者になりたい、媒体になりたいという欠乏の表れだったのではないだろうか。(74652)

若者が求めている役割とは、社会・みんなを繋ぐ媒体役なのではないだろうか。媒体の中身とは>人と人を繋ぐもの、それは『なるほど!』と思える答え(74467)つまり構造認識だ。

皆が納得できる事実に基づく構造認識で皆を繋いでいく。そんな媒体役を欲しているのだと思うし、今それが必要とされていると思う。

新たな規範の構築も、この拡がりの先にあるように思う。



福島健
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

社会と繋がれる農業だったらいい。

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback
>幻想期待と当事者意識の関係がどうなっているのか、もう少し掘り下げてみてゆく必要を感じます。(75004)

先日、農業をされている方と話す機会があり、インターンシップの学生について伺うことが出来ました。その中でとても意外に感じたのは、研修終了後に再び訪れてくれる学生がいないという実態があることでした。確かに学生の期待と、農業従事者との間に何かズレがあるのかもしれません。

>農業の現場に来ても、農業技術のことが最も知りたいことではなく、みんな何を考えて、これから、どういう方向へ進もうとしているのかに興味がある。しかも、農業という1つの分野の中での話ではなく、社会の中での位置付けとして。(74702 長谷さん)

農業インターンシップを経験にする学生も、答え探索の一端として農業体験をするのだと思います。農業インターンシップを体験した学生の感想の中で、それを示すものがいくつもありました。

>社会勉強の一環として参加
>農業の知識は大学の講義とテレビや本などで得たものしかなく、実際どうなのか知りたい
>色々な人と出会い、仕事や日常・人生の話をしているうちに、狭かった私の世界が大きく広がっていくのが実感でき、本当に毎日感動してばかりでした。本当によい社会勉強になりました
>人間が人間らしく生きていく上で必要不可欠なものを農業は兼ね備えている
>今回のインターンシップで更に勉強の意欲が増しました
(リンク)

答え探索の潮流においては、「みんなどうなの?」「事実・実態はどうなってるの?」「本来はどうあるべきなの?」という意識が溢れていると思います。だから、農業を通して社会がわかる社会と繋がれる、そんな人と社会を繋ぐ媒体でなければ意味が無いんだと思います。これが学生の期待では?
そして、現状その農家にはその機能が充分に果たせていないから、再び訪れてくれる学生も少ないんだと思います。これがズレなのかしら?

>単一の農家の枠を超えた地域,知域の広がり感は媒体に欠かせないということなのだろうか。(75000 土井さん)

まさに、これが社会とつながっているということなんだと思います。
農業が媒体(74702)であるならば、より社会と繋がれる、そんな可能性を示していかなければならないんだと思います。




山崎許子
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

自分探しにみる対象同一性の喪失

Posted by ななし on 08.2016 記事 1 comments 0 trackback
社会規範が確立していた時代には、行動すべき方向が示されていたと言えるのではないでしょうか。つまり、自分というものは社会にあり、みんなの中にあったと言えます。
そして、その社会規範が根本規範(本源規範)であればあるほど、違和感無くみんなに受け入れられていたと言って良いでしょう。

根本規範(本源規範)の大部分を取り入れてきた序列規範が存在していた時代(封建時代)、そして、それに私権の価値観(近代思想)が混在してきた近代には、行動すべき方向が示されていた。つまり、規範を守れば良いとされていたし、守らなければ悪いという基準が明確であったと言えます。

'70年の貧困の消滅を契機に、それ以降は序列規範が解体される過程にあります。根本規範(本源規範)の大部分を引き継いでいた序列規範が解体されることは、対象同一性(規範同一性)の対象が無くなること、つまり、人々がどんどん対象性を失い自分だけになってゆくことを意味しています。

それでも'90年頃までは、根本規範や序列規範を残していた親や仲間に対象同一性を見出していました。(親が言うから勉強をするとか、友達が進学するから自分もするといった類のものではないでしょうか。)

しかし、'90年頃以降完全に対象同一性(規範同一性)を失った若者はやりたいこと=役割探しを始めますが、同じく対象を失った彼らの親たち(上の世代)は彼らに語る言葉が無くなったが故に、彼らの行動に対して「自分探し」あるいは「個性」という何の中身もない誤魔化しの言葉を押し付けることになります。実際、自分たちに語るべき中身が何もないことを誤魔化すのに、「自分で考えなさい」「自分の好きなようにしなさい」という言葉ほど便利な言葉はありません。しかし、そのような言葉が蔓延していったということは、彼らが規範や社会との対象同一性を完全に失なったことを意味しているように思います。

上の世代は、若者がやりたいことや役割を探索している行動を「自分探し」という言葉で表現することによって、若者の探索先を内向けにする=閉塞させていると言えるではないでしょうか。
彼らの行動は「自分探し」ではなく「役割探し」と呼ぶ方が可能性が開かれるだけでなく、新しい規範の構築に結びつくように思います。



村田頼哉 
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

みんな(自分)の「生」のために、みんな(自分)の「死」はある。

Posted by ななし on 07.2016 記事 1 comments 0 trackback
>全ての生命(オスメスに分化した生物)は、必ず死を迎える。それは、生物史的に見て「種の存続・進化」のために他ならない。個体が何年も何百年も生き延びるのではなく、個体が滅んで世代を重ねることによって、生物は進化してきた。つまり「種=全体」こそが原点なのであり、この認識無くして、命の重さなど教育できるはずがない。
(73921)

>受精にしても数千万の精子(命の粒)が生まれ、たった1匹だけ生き残って受精し、他はすべて死ぬということ、その死によって生が支えられるという事実にも触れない。そんな「死」を知らずして、「お母さんのおなかの中にどのくらいいましたか?」という教育では「自分さえよければいい」といった自我教育ではないか、といわれても仕方がないだろう。(74178)

 私達がここにいるのはたくさんの受精できず死んでいった命の上にある。どこかで必ず聞くような保健や理科の授業です。でも私が子供の頃そこから聞いた話は、「だから君達はそんな中から選ばれた素晴らしい能力を持った命なんだ」ということでした。
 伝える内容は同じなのかもしれませんが、「君達の命はたくさんの死の上になりたっている。それは受精の時だけに限らず、今までの生物の歴史の中でも同じ。表しきれない命が次の命を生み出し、次の命のために死んでいっている。そうした中に君達の命はある。だから無意味に自分勝手に死んだり殺したりしてはならない。『死ぬこと』には生物の種の保存の中で大きな意味があるんだ。」と伝えるだけで大きく捉え方が変わってくるもんだなぁと感じました。

 みんなの「死」の上に自分の「生」はある。みんなの「生」のために自分の「死」はある。命という視点から見た、みんな=自分。私達は個人で生きているわけではない。みんなの中で生きている。機会を作ってみんなに伝えていきたいなぁと思いました。




Amethyst
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

若者は、既に、農や農村を媒体と捉えている。

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「農」そのものが「媒体」であるという観点が必要なのではないか。

「農」には「共認充足場」としての要素が無数にある。
そこに共認需要が発生するのは必然的であると思うのだが、これまで全くそれが顕在化してこなかった。<
(74673平賀さん)

 全く、その通りだと思います。このことを我々の世代は、はっきりとは気付いて来なかった。

 ところが、農業体験や研修、新規就農希望の若者は、実は、最初からそのことに気付いているようです。

 農業の現場に来ても、農業技術のことが最も知りたいことではなく、みんな何を考えて、これから、どういう方向へ進もうとしているのかに興味がある。しかも、農業という1つの分野の中での話ではなく、社会の中での位置付けとして。
 
 そして、農の現場が、答えをみんなで探せる場であるかどうか、答えを追求しようとする魅力ある人が居るかどうかを見究めようとしているのだと思う。

 彼らは、決して、是が非でも農業をとまでこだわっているわけではないことからもそのことは伺える。

 つまりは、新規就農需要、研修、体験需要というのは、正に、共認需要と言えるのではないでしょうか。

 そう捉えると、事業化という観点からも、可能性が見えてきます。



長谷暢二
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

『何のために生きるのか?』より『人は生きている限り何が必要か?』

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback

『生まれてきては死ぬ』これはどんな生物でも同じ。それは『種を保存していく為』、この一言に尽きる。そして、これは人間であれ、他の生物あれ例外はない。

では、何故人間だけが『生きる意味』とか『生きがい』とか考えるのか?
これに対しては『何のために生きるのか?』と考えるより『人が生きている限り何が必要か?』と考えた方がわかりやすい。

『人はひとりでは生きられない共認動物』。人は、生きている限り『共認』とは切り離されない。集団の中で期待を感じ、応合し、自らの役割を見出すことで、初めて自らの存在意義を認識出来る。

一旦他者を排除してしまえば、期待してくれる仲間も、役割も見出すことは出来ず、当然、自らの存在意義を見出せるわけもない。

最近の殺人事件は、ここに問題があるように思う。(例えば、長崎少女殺人事件のネット上ように)唯一残された、共認の場を脅かされ、短絡的に他者を排除し自らの存在意義を見出そうとする。

実は、潜在意識では気づいておりながら『自らの存在意義は、仲間の期待と役割をひたすら探索することにある』ことが観念化されていない。
昔は、それを『(人の命の重さというよりも)集団・仲間の共認の重さ』ということを規範により教えることで、無意識のうちに、観念化されていたのでは無いでしょうか?

>必要なのは、どれだけみなが役割を担える社会を構築していけるか、つまり自我教育によって悉く解体された社会的な『役割規範』をどれだけ再生していけるか、にかかっていると思う。そして、どれだけ『期待共認』を形成していけるか。それが人類にとっての『みんなを原点として生きること=進化すること』なのだと思う。

浅田さんのおっしゃる通り、一度失われた社会の『規範の再生』こそが急務であり、それこそが、本当の『人として生きる意義は何か?』の答えになるのではないかと思います。



津田大照
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

社会的起業家志向の若者は新社会理論と新社会組織をともに探している②

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
彼は、真剣に議論に参加し、時に実感と重ね合わせながら、時に旧観念と新観念のズレについて質問をはさみながら、理解を深めていった。まさに勉強収束とは彼の事であった。彼は大学に入ってまだ半年たらずということで、柔軟な要素が多分にあり、これから一緒に勉強していく事で、目先の運動から脱却し、なんでやの持つ本物の社会運動の担い手となる可能性を秘めていると感じた。(後日、メールが届き、るいネット応援会員登録をしてくれた)

しかし、総合政策という名の下に、徹底した旧観念的な洗脳が進んでいる大学の現状と、収束不全ゆえの勉強収束から、旧観念にからめとられていっている若者の現状を前にして、こちら側に本物の歴史認識、構造認識を語る力量が問われていることを痛感した。

と同時に、彼が食いついてきた部分として注目したいのが、このなんでやの活動が、るいグループという起業集団をバックボーンとした活動であり、企業としての社会貢献活動であると同時に、企業組織を超えたネットワーク組織づくりの実践的トライアルであるという点であった。従来の就職なんてもはや興味が無い、しかしNPOもいまいち盛り上がらない、やっぱり社会的評価としての貨幣が得られるだけの仕事となってはじめて本物の社会的ニーズに応えられる活動ではないか。そんなことを彼は直感していて、そこからなんでやの運動論的な可能性もすごく魅かれたポイントになっているようであった。(彼の中ではもはや旧い企業集団なぞ興味外で、かといってフリーターでいいとも思っておらず、どこか今の時代に応えようとしている組織があるに違いないと、探索中なのだ。)

歴史的パラダイム転換に応える社会言語としての歴史理論と同時に、企業組織や貨幣の社会的肯定的な意義や、ネットワーク組織の条件といった(集団組織原理を越えた)社会組織の原理を解明した社会組織理論の確立と、その背景としての実践的運動基盤の確かさも彼ら、社会的起業意識を抱えた若者の探索欠乏=答え欠乏に応えるには重要なポイントであると感じた。



山澤貴志 
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

「自分」はみんなの中にある

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「相手がどうして欲しいのか、自分は何をするべきなのか、どうすれば物事がうまく進むのかを考え、周りの人全てが心地よいと感じることのできる空間を作りたいと思います。また、大学に入ってから始めたアルバイトで、お客様に喜んでもらう嬉しさを知りました。自分のやったことで相手が喜んでくれると、私も自然と笑顔になってしまいます。」
(73318川井さん )

約2年前、同じような文章を書いた自分を思い出した。
大学3年になり、平穏な生活の中に、
就職活動という波が押し寄せる。
大学内でのガイダンスに参加し、自己分析・自分探しを強制された。
・・・「自分って何?」

生まれたばかりの赤ん坊は白紙状態で、
周りを見て意味も分からず真似して吸収する。
常に「みんな」が羅針盤。
つまり、自分の中身はみんなの中にある。
それなのに、いつしか「自分を持て」や「個性が大事」など、
自分を自分の中に見つけろと強制され始める・・・

>ほとんどの学生は、自分が会社に入ったら「自分がやりたいこと・できること」を熱弁してくれる。だけど、おじさん曰く「やりたいことをつらつらと語る学生のほとんどはどっかのマニュアルどおりのことを話すだけ。大学での経歴を語られても、ほとんど役に立たないことばかり」とのことで、不採用にするケースが多いそうです。(73111西澤さん)

グループ面接で、「自己PRをしてください」と言われ、
「自分は○○な人間で、○○ができます。○○なら誰にも負けません!」
と熱くアピールしていた学生がいた。
なんでこの人はこんなに自信満々なんだろう?
私は、そう思いながら眺めていた。

いくら能力の高い「自分」があっても、
相手がそれを求めていなければ、
全く無価値なのに・・・と思っていた。
「自分」を主張する人間は、なんか嘘くさい。

自分の中には何もない。
自分=みんな。
自分のやりたいこと=みんなの求めていること。
そのためには、みんなの求めていること(=期待)を掴む必要性がある。

いま、就職活動中で自己分析に苦しめられている、
旧観念に苦しめられている学生たちに教えてあげたい。
「自分はみんなの中にあるんだよ!」と・・・



にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

答えを出せないが故の平均値思考

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback

> 年金改革法も、未納議員の存在、強行採決の件など、批判するネタは山ほど存在したが、あっけなく成立した。73419

>小泉氏にどのくらい首相を続けてほしいか。「続けてほしくない」が急増し、「1年より長く」は前回の43%から32%にまで急落。再訪朝に対する世論の好感をうけ、強気の国会運営で年金法の成立を急いだことが、今のところ逆効果として表れている73531

一見相矛盾しているかに見える、あっさりとした強行採決と、小泉支持率の低下(といっても急落とまではいかない)はどのような関係にあるのだろうか?

最近の選挙を見ていると、どの党であれとにかく大勝=独走しないよう大衆は選択しているように見える。小選挙区では自民に入れて、比例では民主にいれる「スプリット・ボーター(分裂した投票者)」と呼ばれる投票行動はその一つ。

>前回(引用者注2000年)衆議院選挙から顕著となった傾向であるが、有権者は自らの票が無に帰すことを嫌い、次善の選択をためらわなくなった。すなわち、比例代表と小選挙区で政党を使い分けるスプリット・ボーター(split voter)が増加した。二大政党化の進行について、有権者の多くは好意的に評価している。・・一般に、二大政党制が進行すると、政策は中央に収斂し、有権者の選択の幅は狭まるといわれる。・・政治をリードする二大政党がイデオロギーなどをめぐって決定的な対立を続けるよりも、意見が接近している方が政権交代もスムーズに運ぶため望ましい(とする意見を反映している行動といえる)リンク

正直言って、年金問題に答えが出せないのは、自民も民主もいっしょであって、もはやどっちにも期待していないのが本音である。(つまり平均値思考の結果として二大政党制容認になっている)実際、選挙を前にして投票への関心は下がりつづけている。

>参院選に「大いに関心がある」と答えた人が、26%→30%→22%と、逆V字形で推移・・「あまり関心がない」に「全く」を加えた「無関心」派は31%→29%→34%・・有権者の半数近くを占める無党派層では「無関心」派が47%→41%→49%と多く、関心度を引き下げている。
 リンク

要するに、もはや私権の可能性がなくなった現在、利権誘導or利害調整の場としての政治なんてどうでもいいって感覚なのだ。欲しいのは、小手先の年金ではなく、行き詰まった国家統合、市場統合の突破口=答えなのだ。勿論、それを論ずることは(本当の意味では社会統合とイコールな意味で)政治課題ではあるのだけれど、現在の利権政治家と既得権益官僚に期待したって答えなんか出せないってことも判っていて、だから答えがだせない=収束不全から目先の秩序に収束する。
しかし、それはしっかりとした指導者に寄りかかろうという傾向もないではないが、対立・混乱のない平均値的な意見へと収束していき、突出したorヒステリックな行動には全てブレーキをかけようとする行動をも伴う。(ここが軍部の暴走を許容した戦前のファシズム的時世と現代の大きな違いだ!)
その意味では、マスコミの方が小泉よりも反秩序=要求主義的秩序破壊性が強いから、行き過ぎたマスコミファシズムに歯止めをかけるべく対マスコミという点ではむしろ小泉支持にまわり、マスコミ権力と政治権力の力の均衡化を図ろうとしているのだともいえる。従って、マスコミであれ小泉であれ現在の秩序を脅かすヒステリックな行動は必ず大衆的な反発を受けることになる。

しかし答えを出せないが故の平均値思考って何?これっていじめはオカシイと思いながらいじめ圧力から抜け出せない、少年達と同じ構造ではないだろうか?収束不全ゆえに「みんなどうなん?」と思いながら動けないでいる大衆。これって答えが出せなくて路上収束している若い子といっしょじゃないのか?

とりあえず、しょうがない・・そんなブナンな毎日、誤魔化しの日々に風穴を開けること。庶民の過半=無党派の欠乏の中心がそこにあり、なんでやがブレークするのはそんな人々の意識がもう一歩、明確に収束不全を捉え、誤魔化しに決別しようとする時だろう。



山澤貴志 
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ
 HOME