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深い深いところにある秩序収束力

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
>過半の庶民がロクに探索もせずにこのような目先の秩序(国家や力の原理)に収束したことは、由々しい事態である。73070

目先の秩序収束では、根本問題はなにも解決されず、滅亡する。
なんで目先の秩序に収束するの??

>この絶対的な力は、絶えざる闘争と破壊を回避しようとする根源本能(適応本能や危機逃避本能)を下敷きにした安定収束⇒秩序収束⇒規範収束によって与えられており、その秩序収束力⇒規範共認圧力は、危機時には解脱収束力⇒解脱共認圧力をも凌ぐ絶対的な圧力の場を形成する。  
実現論4_6_05

秩序収束が根源本能(適応本能や危機逃避本能)を下敷きにした深い深いところにあるから、生物史を覆すような大転換期の今、収束不全⇒みんな収束の共認圧力を受けて、既存(≒私権)意識は、目先の(私権)秩序に収束しているのだと思った。

>人類の新たな活力源=同類圧力の場を形成する為には、認識の共認という意味での狭義の共認圧力だけでは不充分なのであって、その認識の共認が秩序収束力に基づく本源的な規範・制度の共認圧力に変換されて初めて、絶対的な(当然、現実的・肉体的な)活力源=同類圧力の場が実現する。実現論4_6_06

>さて、もともと本源集団を破壊した性闘争→掠奪闘争を止揚したのは、私権統合国家であり、それ以降、性闘争→私権闘争を統合し、私権(性権→占有権)の共認を核とする様々な法制度を作ってきた国家(国会)こそ、性を私的選択に任せる性闘争のパラダイムを含め、性闘争・私権闘争の全てを包摂し、その在り様を規定している全ての要である。従って、自我・私権を廃棄し、性市場・商品市場を縮小→封鎖する為に不可欠かつ最も有効な場は、私権統合国家そのものである。つまり、本源的な共認圧力=新たな活力を現実化する為に我々が楔を打ち込むべき場は、国家である。実現論4_6_07

誤魔化すことなく、根源本能(適応本能や危機逃避本能)に基づいて安定収束⇒秩序収束⇒規範収束するなら、国家に楔を打ち込むことは、必要不可欠だと思った。



矢野聡子
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マスコミも探索基調!?

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
みんなのマスコミ離れが進み、マスコミも探索段階にあるのだろうが、どこか違和感を感じる。これってなんでだろう??

テレビで報道されている内容って、記者の人たちが「なにかネタはないか、事件はないか??」といった視点でずっと探している状態の中で、なにかあれば事件だとばかりにすぐにとびついて得た情報である。政治担当の人なんかは政治家にピッタリくっついてネタを探し回っていると聞いた。

これって普通の人の探索基調とかけ離れている気がする。
全く考えての探索なんてものではない。

普通の人はみんな不全発の探索基調。
マスコミは職業上=自分発の探索基調。

これが問題なのではないだろうか?
マスコミはどうしても利益を追求するあまり、みんなを対象化しなきゃいけないとはいっても、何か目新しいことを素早く発信しなければいけないという思い込みみたいなものがあると思う。だから目先のネタや事件にとらわれてしまうのではないだろうか?

このままではどんどんマスコミは取り残されていくだろう。やはり社会統合は特権階級では職業上の利益追求がからんできてしまうため、専業でなく兼業で行っていかなければならないんだろうなって改めて強く思う。




宮崎未帆
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誤魔化しの充足報道

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
>確かに、いまさら拉致問題を全面解決しようなど不可能であろう。土下座外交であろうとも、小さな成果があればそれでよしとする政治家の姿勢・マスコミの論調は、不全(課題)捨象の充足基調そのものと捉えられないだろうか。(72587 辻さん)

何年か前の、ワールドカップフィーバーや阪神フィーバーも同じ。
人々は暗いニュースよりも、明るいものに飛びつく。
充足基調に表層収束している。

マスコミは今まで「否定・批判」の報道をしてきた。
でも今は、「とりあえず充足したい」という人々に対して、
不全捨象の充足報道に切り替えている。誤魔化している。

>もちろん、共認不全も統合不全も間違いなく実在する。しかし、それらの課題に応えるべき観念機能が、大学とメディアによる共認支配=観念支配によって機能不全に陥り、全く答えを出せないとしたら、不全⇒解脱回路が危機と課題を捨象して解脱収束するのは必然である。
そして、危機と課題を捨象すれば、適応本能が充足や安定や調和に収束するのも必然である。その結果、ますます不全が増大し、しかも不全が増大すればするほどますます安定・調和・統合を求めて、形骸化した支配観念に表層収束することになる。(18422 岡田さん) 

小泉首相の支持率にしても、拉致問題にしても、
現実は全て、まだ充足基調の気がする。
解決困難な問題に対して、その一部でも解決したら、
両手を挙げて喜んでいる。
根本的には何も解決していないのに・・・

>可能性探索は、今回も
イ:’70年頃にまず解脱収束に向かったが、旧観念に意識を侵され、かつ旧体制に出口を塞がれているので、解脱充足し切れないし、収束不全の答えにはならない。
ロ:そこで、’90年頃、旧観念・旧体制を捨象して、仲間内で(みんな共認)の充足基調に収束した。しかし、社会は旧観念・旧体制の共認で覆われているので、仲間内の充足基調だけでは、収束不全を解消できない(=答えにならない)。
ハ:こうして、’02年頃、私権活力の衰弱の果てに遂に私権観念(自分だけ。社会のことなど関係ないという観念)が瓦解し、頭の上の重石が取れたことによって、真っ直ぐに社会共認の可能性収束先を探索する探索基調に転換した。

社会共認の収束先を探索すれば、改めて旧観念・旧体制を対象化せざるを得ないが、その際、ロの旧観念・旧体制捨象(云わば捨象基調)が足かせとなり、現在はロとハの間で逡巡している状態にある。
(71820 岡田さん)

収束不全という生物史を覆す様な大転換期の今、
「とりあえず充足」を求めて、人々は旧規範に絡めとられている。

現在、充足基調と探索基調を逡巡している状態だとすれば、
充足基調の報道でいいかもしれない。
マスコミは、それが正しいと思っているのかもしれない。

しかし、潜在的にある探索基調が顕在化し始めたら、
明らかに彼ら(マスコミ)は取り残されるだろう。
人々の意識が顕在化するのに、それほど時間がかかるとは思えない。
そうなったとき、答えを出せずに誤魔化し続けるマスコミは、
完全に捨象されるのではないだろうか。



井上緑
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収束不全から新理論収束まで間近なのかも

Posted by ななし on 27.2016 記事 1 comments 0 trackback

>社会共認の収束先=統合軸が見つからないという文字通りの『収束不全』(71819 岡田さん)

 『収束不全』という新概念に触れたことで、ごく最近露店で会った人たちから聞いたことを思い出し、彼らがみんな繋がっていることに気付きました。

 「共感できるお題はある?」と聞いたら「やりたいことがみつからないのって、普通?」を指した若者達。
 フリーターの女の子達は、バイトの他に大好きな音楽関係の勉強をしているけど、それがやりたいではない、と。「音楽好きだけど、自己満足で始めただけだし、これだけに全てかけること出来ないんだよね。やってみたい事も沢山あるし…。」
 一見活き活きとした若者社会人でさえも「今の仕事を一生するつもりはない。」と。「はっきり何がやりたいかわからないけど、探してるところ。自分がやることで、もっと良くなっていく、っていう仕事がしたい。」「今の職場はヤル気のない人がいて、だから仕事も楽しくできない。」(全然共認充足得られてない感じ。)

 明るくてよく喋る50過ぎのおじさんは、「今一番興味のあることは何なの?」と聞いただけで、「興味のある事な~…。」と考え始めてしばらく黙し込んでしまった。セックスレスだとか阪神ファンだとか言って、なんでやの店主をからかおうとしていたそのおじさんからは、収束先も活力源も、はっきりとしたものは出てこなかった。

 就活をほとんどあきらめてるという学生は、「やりたい事ないの?」という問いに、あっさり「ないなー。」と。彼は続けて「仕事っていうのは、役に立つ事をするってこと。どんな仕事内容でもいいんじゃないの(何で職種とか固定しなきゃいけないの)?」「企業は嘘っぽい企業理念や実績を言うだけだし、自分は無理して長所とかを言わなきゃいけない。そういう嘘のやりあいにはうんざりした。(偽りのない可能性のある企業なんて、今あるんだろうか?)」「漠然としてるけど、本当は社会をつなぐネットワークみたいなものを作りたい。色んな能力を繋げば面白い世の中になる気がする。結果として、お金とかもどんどん回っていくんじゃないかな。起業するしかないのかなって考えたりもする。」そういう彼は、色々な活動に参加してみてピッタリとくるものを探すつもりなんだと言っていました。

>収束不全とは「どこを目指せばいいかが判らないという収束先≒充足イメージの不在」というかつてない程に根源的な不全である。(72152 山澤さん)

 出会って話した人たち、みんな言葉は違うけど、明らかに収束するものがない状態でした。今までの体制や解脱様式では全然活力でない。やってみたい事やとりあえずやっている事はあっても、それが本当に目標になるのか、自分の考えだけでは確信が持てない状態。本当にみんながそういう状況だった。収束不全は文字通りみんな不全でした!

>深くかつ強力な収束不全⇒探索基調の生起とは、みんなで社会共認を形成してゆく共認社会の最大の実現基盤が遂に姿を現したということなのである。(71820 岡田さん)

 まさにその通りで、社会全体が収束不全を媒介に既にもう繋がっていたんだということが分かりました。

>みんなの可能性探索が、みんな共認収束を経て新理論の構築に収束するのは、必然である。(71820 岡田さん)

 ちょっとものを考えてる人なら、「旧体制では答えにならない」ということはもう分かっいてるし、露店で少しヒントを出してあげただけで、「旧観念では答えを出せない」ことに気付いてしまう人もいる。
 みんなで共認形成する場をつくること、新理論を構築していくことが答えと気付くのは、もう間近なんだと思いました。



山崎許子 
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霊長類史6千万年の全史を覆す様な場(パラダイム)の大転換

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
これまでは、いかなる不全であれ、こうありたいという充足イメージは誰しもが持ちえた。(原猿であればボスになること、初期人類であれば洞窟からの脱却、採取生産であれば男女の和合充足、私権時代であれば序列の頂点にたつこと・・)それに対して収束不全とは「どこを目指せばいいかが判らないという収束先≒充足イメージの不在」というかつてない程に根源的な不全である。つまり本能、共認、観念のどの回路上にもいまだ新しい充足イメージを見つけられず生命原理の最基底にある適応欠乏そのものが答えを探っている状態といえるだろう。言い換えれば現代の不全は生命史的にもいまだかつてなかった不全状況なのだといえる。

>サル以来の人類史の大きな流れの中で現代を捉え返せば、誰にでも分かる、実に簡単な事実が浮かび上がってくる。つまり、人類は、すでに物的な生存圧力をほぼ克服したのだ! これは、実に人類五〇〇万年の全史を覆す様な、場(パラダイム)の大転換である!実現論4_1_07

と実現論では語られているが、収束不全とこれまでの不全との違いを踏まえて考えれば、現代の不全→パラダイム転換とは霊長類(サル・人類)史を貫く「不全→収束」史観を覆すような不全であり、従って「霊長類史6千万年の全史を覆す様な、場(パラダイム)の大転換である」といえるだろう。と同時に「どこを目指せばいいかが判らないという収束先≒充足イメージの不在」というネックとは

>全てのネックは、「答えを出せない」という一点にある。19273

と同義である。だから若者の最先端は「理論」へと収束しだしたのも必然だといえる。このように考えてくると、80年代「いじめの絶対化」から「充足基調」「資格・勉強志向」そして最近始まりつつあるの「理論収束」迄の意識潮流がつながってくる。

>収束不全発の適応可能性の探索、その深くて強い引力71819
の深遠さと知ることで、同時に新しい可能性の収束イメージが鮮明になっていく。ここに新認識の勉強の醍醐味があることは言うまでもない



山澤貴志
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なんで性は探索しないの?

Posted by ななし on 25.2016 記事 1 comments 0 trackback
>この収束不全発の適応可能性への収束=探索基調こそ、遊びを無為化し、性を封印(セックスレス化)する程の探求収束力の正体である。

>性や女についても同様に「不充分なもの」、あるいは「取るに足りないもの」と見做し続けてきた。現にこれまで、私権時代の男たちは誰一人、性や女の問題を社会構造上の最基底の問題として真っ正面から取り上げ、追求しようとはして来なかった。(実現論1_7_05)

性は、解脱であると同時に社会の最基底部でもある。だから社会統合上も、極めて重要なはず。
なのになんで性は探索対象から外されたのかなぁ?

深すぎて、答えが出なさそうだから?
探索収束に入ったって言っても、与えられたものから選択したり、身近なものを受け入れたりしてるだけの、まだ弱い探索(≒待機)しか出来ないから?



西知子
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‘言葉にならない不全感’と‘当てのない期待感’に答えを出す

Posted by ななし on 24.2016 記事 2 comments 0 trackback
今週末、僕の旧友がイラクに発つ。
自衛隊員である彼は、復興支援活動の派遣隊に自ら志願したと言う。

>『なぜイラクへ行くのか』(70914)

「このまま年を取ってもね・・・帰ってこれるかどうか(命の保障)はわからないけど、帰ってきたら(今回のことが)良い経験になると思うし・・・」
これが彼の答えだった。

~人道復興支援活動~政府が公表しているこの自衛隊派遣の主旨に共感しているから、彼はイラクに行くわけではない。なぜなら、「派遣そのものの是非」について彼は一言も触れなかったからだ。つまり、‘平和’や‘人道(人の人たる道)’という旧観念に導かれて、決断したわけではないということだ。

むしろ、彼の言葉から読み取れるのは、今の日本や社会システム(残存する序列・私権社会)に対する諦めにも似た閉塞感だ。イラクに行けば、閉塞感(=不全感)を払拭できるかもしれない、何かを感じるかもしれない、あるいは今回の経験で見聞が広くなるかもしれない、そんな漠然とした不全感と期待感とが彼の中で混在しているようにみえた。

この不全感と期待感とが同居した意識状況は、今の若い世代にも当てはまるように思う。
言葉にならない不全感をどこかに感じつつも、「アリエヘン」を肯定的に使ったり(65298)、「とりえあず~」が口癖だったりするのは(69948)、彼らが潜在思念レベルで、新しい何かを期待している、あるいは探し始めている証なのではないだろうか?

>この収束不全は、まず最基底の適応欠乏⇒可能性探索回路を強く生起させる。しかも、問題(=収束不全)も、その突破口=可能性も、みんな共認充足の中にあることは潜在思念のレベルでも明らかなので、適応欠乏は当然の如く、みんな共認の可能性探索に収束する。これは云わば、初期原猿状態に近い。(71819)

この不全感が‘言葉にならない’のは、旧観念で表現できないからだ。つまり、もはや人の意識さえも旧観念の範疇では捉えきれない段階にあることを暗示している。
不全感に苛まれた原猿が、生きるべく可能性へと収束したように(実現論1_4_05)、この‘言葉にならない不全感(=収束不全)’を持つ若い世代も、今手探りで可能性(‘当てのない期待感’)を求め始めている。
この潜在的な不全感も新たな認識を持ってすれば、「収束不全」と定義付けられ顕在化できる。同様に、可能性探索としての‘当てのない期待感’も、新たな社会を構築していくことで確かな手応えとなっていくように思う。

旧友は最後にこう言っていた。

「(イラクに行くことに対する是非として)いろいろな意見があるけど、自分で希望したことだから・・・」

戦地で日々銃を構える旧友が無事に帰国するかどうかはわからない。だが、彼が無事に戻ってくれるなら、漠然とした彼の意識に少しでも気付きを与えられるような気がする。
「自分一人で責任を負う必要はない。社会の当事者となれば、皆の期待を感じて進むことができるのだから」と。
彼との再会の日が来ることを今は切に願う。



林昭光 
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みんなが『みんなに』期待していること⇒やりたいこと

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
 「やりたいことが見つからないのはなんでだろう?」のお題に対する答えとして、よく「自分の中に答えを探すからない。みんなが何を求めてるか、何を期待してるかを、みんなの中から探せばいい。答えは自分の中ではなく、みんなの中にある。」と聞きます。そして私もそう思って話していました。

 ただ、私は少し勘違いをしていたことに気付きました。

 「“自分の”やりたいことを探すから見つからないけど、充足するのがみんなの役に立った時なら、“みんなの”期待に応えられることをみつければいいんだよ。だから、みんなが『自分に』期待していることを探せばいい。」といったニュアンスで話してしまっていました。
 『自分に』みんなが何を期待しているのか、と考えても期待をかけるのが下手な若者達の中にいて、自分は何を期待されているのかなんて見つけるのは困難です。もっと言ってしまえば、『自分』になんて誰も何も期待なんかしちゃいない。そんなところに答えがあるはずもありません。

 答えは“自分の中”ではなく“みんなの中”にあるというのは、「みんなが『みんなに』何を期待しているのかを探せばいい」ということなんだと思いました。
 人間関係を気にして期待封鎖してしまっている若者達でも、『みんな』に対してなら、なんとかなんとなく期待しています。みんなが『みんなに』何を期待しているのかを必死になってアンテナをはって探してみれば、期待を感じ取ることもできる気がしてきました。

 「『みんな』が『みんな』に何を期待しているのか」そこに答えがあります。




Amethyst
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必要のない勉強に見切りをつけ、生きる上で役に立つ認識の探索は、既に始まっている。

Posted by ななし on 22.2016 記事 1 comments 0 trackback
先日、なんでや露店で、15~16歳の若い女の子達を中心に、就職を控えた男子大学生、社会人一年生と「これからの教育とは?」というお題について話し合った時のこと。
まず、今の学校や、そこで感じる違和感について、実感を語ってもらうと・・・

「先生が偉いっていうのは納得いかない!」
「よくわからない校則が一杯ある!」
「こっちの話を全然聞いてくれず、一方的に話す先生はウザイ!」
「成績の悪い子や不良の話も聞いてくれる先生がイイ!」
「社会で役に立つと思えない勉強なんてやる気しない!」
「小学校くらいの勉強で十分だと思う」

等々、身分序列の否定や、序列規範の衰弱、あるいはイイ生活を最終目標とした、受験や就職のため(自分のため)の学歴や勉強否定など、「答え」に結びつくキーワードがいくつも出てきた。

私権獲得を活力源とした序列体制の一角としての学校、先生、勉強という切り口で分析をした後、じゃあ、これからの勉強ってどんなのがあると思う・・・っと振ったところ・・・

「生きていく上で本当に役に立つ勉強が必要だと思う」
「人間の歴史とか、そういう勉強が必要だと思う」
「みんなで何かをやるっていう体験が必要だと思う」

等々・・・またまたなかなか良い意見が出され、

勉強っていうのは一方的に知識を受け取るのでなく、みんなで実感を元に組み立てるもの。なんでこんな世の中になってしまったのか、どうすれば良いのか等の答えこそが必要で、皆が求めている。その答えを出すためには人間の歴史や、それを超えて生物進化の歴史の勉強が必要・・・といった感じでまとめた。

でっ、あとで帰路についてから、ふと思ったこと・・・

あれっ、俺が彼らくらいだった頃に比べ、皆結構しっかり意見を言うし、何か大人びてない???
・・・恋愛などのお題もそうだ。自分の頃は、物凄く幼稚だったと思う。

よく、今の若者は学力低下がはなはだしく、常識も知らず、全然勉強してない・・・などという言葉を新聞やニュースでたまに聴く。
自分が彼らくらいの年齢だった頃と比較しても、確かにそうだし、いくら私権獲得という目標が色褪せ、序列体制が崩壊しつつあるとは言え、こんなことで将来の日本は大丈夫なのか?という不安感もあった。

しかし、逆に、自分が中高生だった頃は、先生や親の言うことを聞いて、何の疑問も持たずにただまじめに勉強し、そこそこの学力もあったが、一方で、今の彼らのように、社会や、自分の将来について考え、何らかの意見を発信することが、果たしてできただろうか?
まさに、「なんの疑問も持たず」ただ考えもせずに勉強していただけで、“なんでだろう?"なんて思うこともなかった・・・

露店に集う若者達は、多かれ少なかれ今の生活に物足りなさを感じ、社会の制度や常識に違和感を覚え、日々“なんでだろう?"を蓄積している。つまり、本当に役にたつ勉強の必要性を既に感じており、日々実感を元に探索しており・・・だから、お題に対して半答えとも言うべきものが即座に出てくるのではないか?

>もしかすると路上と言うのは、本来の勉強空間なのではないかと思う。

「これからの教育とは?」の答えは既に路上にあった・・・若者は、役に立たない勉強に見切りをつけ、本当に必要で役に立つ認識の探索に既に向かっている・・・決して何も考えていないのではない・・・と気づいた。


越見源
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やりたい事が見つからない=活力不全

Posted by ななし on 21.2016 記事 1 comments 0 trackback

> 「とりあえず」「なんとなく」で日々をやり過ごし、活力が出ているとは言いがたい状況にもかかわらず、やりたいこと(と思える感覚)が、きっとどこかにあると思っているところに、可能性があるのだと思う。(70443)

露店に多く出るようになって、「やりたい事が見つからないのはなんで?」というお題が特に若い男性によく選ばれるなと感じます。そして、やりたい事が見つからない!というこの強い思い自体が現在の「やりたい事欠乏」なのだと実感しました。

そして確かに、そう感じている若者は何か活力の弱さを感じさせ、彼ら自身も自覚していると感じます。これも'70年以降の旧やりがい志向との相違点ではないでしょうか。

人間が何かの可能性に向かっている時は、肉体的な疲れと休息が一時的にはあっても、慢性的な活力衰弱を感じさせることはありません。ところが、その可能性が周りに見つからないと、頭の中では常に無意識に可能性を探索し続けることになり、明確な目的や可能性に向かっている時よりも実は数倍多くのエネルギーを消耗する。それが彼らに慢性的な活力衰弱を感じさせているのだと思います。

その点、マスコミ・企画etc旧やりがい志向の方は、自分発(70166)の発信という、私権の強制圧力のタガが外れることで開かれた「自我の可能性」にはっきりと収束していたのではないでしょうか。

私権活力が衰弱したにも関わらず、社会の仕組みは私権システムのままだから、今の若者にとってやりたいことが見つからないの当たり前です。まだ多くの人間がこの潜在的な活力不全を捨象して無難志向や目先収束に流れる中、そこに絡めとられていない分、自覚のある彼らの方に“みんな期待に応える”という本当の「やりたい事」を先に見つけられる可能性はあると思います。


田中素 
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「やりがい志向」では何も実現できなかった。

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
私が就職活動をしていた頃は、世間では「やりがい志向」が強かった。何でもいいから就職したいという人は少なく、やりがいのある仕事をみんな探し求めていたような気がする。

私もやりがいを求めて就職活動したし、その中でも一番やりがいの感じられる会社に就職した。でも、今考えると、就職する前にその仕事がやりがいがあるかどうかなんて全然分からないと思う。やりがいって、役割が与えられて、それに応えていくことで感じられるものであって、まだ仕事もしていない、当然その職場での役割もない状態で、やりがいが感じられるわけがない。

そのせいか、やりがいを求めて就職していった大学の仲間のほとんどが3年以内に一旦就いた職場から次々に離れていった。でも、一旦仕事に就けば職場で役割も与えられて、それに応えることで一定の充足感は得られるはずなのに、なんで辞めてしまったのか。

>やりがい=「自分発」。(70166 井上緑さん)

これがポイントかなって思った。やりがいは自分発だから、相手から期待される役割よりも自分の思いの方が優先する。だから、職場から期待される役割と自分の思いが一致すればやりがいを感じて充足するが、そのズレが大きいと全然充足できないんだと思う。

結局やりがいなんて求めないで、素直に相手の期待に応えていれば充足できるのに、やりがいなんてものを求めたが故に非充足の状態に陥っていったのだと思う。あの頃盛んにマスコミが唱えていた「やりがい」という概念もやっぱり旧観念だったのだ。

旧観念がどんどん輝きを失いつつある今、若者が「やりがい」なんてものにこだわるのではなく、既存の枠組みの中では特にやりたいことが見つからないのもごく自然なことなのかもしれない。そして、何もないゼロの状態だからこそ、新しいものを作っていける可能性も感じる。



端野芳
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存在理由欠乏の違い。

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback

>企業がいい例だが、ある集団に埋没していると、時々企業内の仲間との間に役割は感じることはできても、社会的な役割に応えていないことにふと気付く瞬間があるらしい。
社会人とは名ばかりで、社会と自分とがどんどん乖離していく感覚に襲われることが怖いとも語っていた。(70241 高田康史さん)

役割欠損から来る存在理由欠乏。
誰かの役に立ちたい、人から必要とされる事が感じられることで活力が湧いてくる、そんな意識が生まれる理由をこう捉えていた。
そして、人の役に立つ事をしたいと思い、それを求めて彷徨い続ける若者達の意識の中にも、同じものがあるのだろうと考えていた。

ただ、私も含め上の世代は、自らを役に立たない存在と意識したとき、どうしようもない無気力感と不安に駆られ、そこから脱出するために、自身を必要としてくれる場を求めたと思う。

しかし今の若い人たちの中に、これと同じ意識を感じ取れない。
そこには何か大きな違いがあるように感じる。

その違いはなんだろう?

リストラによって突然役割を奪われた人達のなかで、新たな役割を見つけ出し、無気力感と不安から脱出した人たちは、一様にこういうことを口にする。
「自分で何とかしなければいけない。誰も助けてはくれない。」
この言葉の中に、今の若い人たちとの違いがあるのかもしれない。

>「やりがい志向」は、「自分発のみんな」を対象化。
「やりたいこと欠乏」は「みんな不全発のみんな」。本当の意味でのみんなを対象化している。
(70166 井上緑さん)

存在理由欠乏にも自分発とみんな不全発があるのではないだろうか。
自分発の役割欠損から来る存在理由欠乏は、人の役に立ちたいと思いながらも、最後は自分に向かう。
「自分で何とかする」や「自分の中にある何か」に向かっていく。

それに比べて、みんな不全発の役割欠損から来る存在理由欠乏は、みんな不全に答える役割(社会における役割)が見えないが故に、それを模索する方向に向かっている。
これが今の若い人たちの意識なのかもしれない。

根底にあるのは「社会の中にある何か」に向かう意識であり、マスコミを代表とする旧世代が発する「自分の中にある何か」がそれを阻害し、旧観念へと絡めとろうとしている。
この意識の違いを捉えられなければ、先の可能性になど向かえる筈が無いと改めて感じる。



永峰正規 
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固定観念にとらわれたキャンパスの中でも・・・

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
大学を卒業し、このネットや劇場での共認形成に触れるにつれ、大学は本当に一般社会から隔離された別世界だなぁと感じました。教授自身から、「大学には大学内の常識がある」という言葉を聞いたときには、正直がっくりしました。だから違和感を覚えつつも、学校で教えられることは正しいという先入観で、日々の生活を送っていたし、現在学生である後輩達もきっと矛盾した世界で苦しんでいるようです。
自由に書けるはずの卒業論文も、結局は教授の利益のための論文構成になったりしている事が多いようです。

私が所属していた研究室では、毎年室報を作成しており、その年の3回生が制作することになっています。就職活動や卒論を始めた頃からとりかかり、卒業式前後に完成。最近改めてその室報を読み返してみました。
基本的に学生だけで作成するその室報は、後輩達の素直な実感や、インタビューを受けた人の素の意見のみで作られており、そこには、大学教授が撒き散らす固定観念や幻想とは無関係の内容が書かれていました。
「なんだ!大学の中でも共認ってできるんじゃん!!」って思いました。

ただ、本当の答えにまでは到達できず(皆で議論するにしてもゼミ室内や大学内では狭すぎる+収束先にどうしても学者意見が入ってしまう)、せっかく皆が感じている本当に大切な実感や「なんで?」が宙ぶらりんになっている気がしました。結局のところ現状の批判や経済学批判どまりになっているのです。

劇場や露店を知らない学生は結局、学者や彼らの書いた本などに頼るしかないんだ。。。とても残念なことです。でも学生だけで作成した率直な実感のこもったその室報には、彼らが社会に出た後の可能性を見ることが出来ました。

本当に必要な実感や社会の流れに気づき始めている事実や、その先の可能性を伸ばせる教育者がキャンパスの中に必要だし、受け皿もあるのでは!?って思いました。




鹿村幸代
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やりたいこと欠乏は、活力の欠乏?

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
やりたいことが見つからない・・・
今の若者に多く見られるこの意識は、単にやりたいことの対象が見つからないということではなく、一生懸命になったり、頑張ったり、本気になったりすることが出来ないということ=活力の欠乏(不全?混濁?)をあらわしているのではないか。 

「やりたいこと」を、「楽しいこと、面白いこと」に置き換えてみれば、仲間と遊ぶこととか、スポーツすることなど、誰もが一つや二つは挙げることが可能だろう。でもそれは、「(本気で)やりたいこと」にはつながっていかない。少しくらい困難なことがあっても、やっていきたいと思えるためには、人に喜んでもらえて嬉しいとか、役に立てて嬉しいとか、そういう感覚とつながっている必要があるのだと思う。

かつての「やりがい志向」が、企画や出版、マスコミなどを志向していたとすれば、それは自らが共認の主導権を握り、大衆を差配することを目指していたのだと思われる。でもそれでは、本物の活力にはならないことが分かってしまった。

今、やりたいことが見つからないという若者に出会ってみても、さして鬼気迫る感覚を受けるわけではない。勿論、個性が大事だとか、自分のやりたいことを見つけなさいといった、半ば強迫的な刷り込みをされてはいるだろうが、当人はもう少し漠とした感覚なのではないか。「とりあえず」「なんとなく」で日々をやり過ごし、活力が出ているとは言いがたい状況にもかかわらず、やりたいこと(と思える感覚)が、きっとどこかにあると思っているところに、可能性があるのだと思う。今は活力が潜在していても、人が何かに懸命になれること、頑張ったり本気になったり出来るということを、知っているのだと思う。



馬場真一
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仲間収束と認識欠乏。

Posted by ななし on 16.2016 記事 2 comments 0 trackback
私は仕事の関係で就職活動中の学生の話を聞く機会が結構あるのですが、今年の特徴としてあげられることは「モノを考えている人」がポツポツですが明らかに増えてきているということです。

だけど、今就職活動をしている人たちが小中学生の頃って実は、社会的にイジメがピークだった時代。いじめによる不安から期待封鎖し無難思考になりがちで、“既存の枠組みから何かを「選択」する思考性”(69948林さん)に拍車がかかっていたことと思います。にもかかわらず、既存の枠に留まらない答えを求めて思考し始めた人が増えた・・・のはなぜか不思議に思ったので考えました。

まず、'70年貧困が消滅して以降、人々は私権に収束できなくなりました。収束先がなくなり、何をしてもおもしろくなかったから、面白いこと(活力がでること)を求め可能性を探索し始めました。その収束先の一つが仲間。仲間の中で役割探索(自分に何ができるか)、その結果、課題探索(何をすべきか)。この課題探索が思考スタートの正体ではないでしょうか。

仲間収束が認識欠乏の根底にある、という事実構造がキーで、小中学生の頃にいじめがピークということは、仲間収束度は必然的に強くなる。だからこそ、認識欠乏も強くなったのではないでしょうか。どうでしょう?



綾木順子
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可能性の差は歴然!

Posted by ななし on 15.2016 記事 1 comments 0 trackback
>ってことは、'70年から始まった「やりがい志向」と'02年に登場した「やりたいこと欠乏」って、別モノなの?どう繋がってるの?(70018 西さん)

一見、同じように見える・・・どうなんだろう?
私も、ずっと気になっていた。

まず、「やりがい志向」について。やりがい=「自分発」。

やりがい志向は、‘70年発。飢えを直撃するような貧困が消滅した時代。私権より「生きがい」を求めだした時代。

そしてそれは、発信反応欠乏として現れた。「みんなに発信して反応を得たい!」それが、仕事欠乏につながり、企画・出版・マスコミが台頭し始める。そこには、華やかさへの憧れも共存していた。

「みんなに向けて」という気持ちはあっただろうが、その対象化する「みんな」が、自分発であったことが特徴的だ。
‘70年までは、豊かになろう!と、みんなが向かう先は同じだった。その課題のために必死に働き、社会も統合されていた。

でも、貧困が消滅したとき、仕事は「みんな課題」から「自分・個人課題」に変わった。そんな状況で捉える「みんな」は、あくまで、職業利益を上げるため、つまり「職業的に対象化したみんな」。私益のために対象したそんなもの、もはや「みんな」とは言えない。

そんなものに可能性があるわけがない。結局、やりがい志向が行き着いた先は、「自分探し」。

次に、「やりたいこと欠乏」について。やりたいこと=「みんな不全発」。

>全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。また、外部世界が変化して適応できなくなってくると、新たな可能性(DNA塩基の組み替えの可能性)へと収束し、新たな可能性(例えば、新たな配列)の実現によって進化してゆく。(実現論1_1_01)

人々は、可能性に収束して初めて統合される。今は、まさに統合不全の状態。私権に変わる新たな可能性=課題が見えていない、共認されていないのだから、当然だろう。
そんな中で、やりたいことを見つけるなんて・・・無理。

>彼らも「とりあえず組」同様、既存の枠組みから何かを見つけて、これが「やりたいこと」と既成事実化しているに過ぎない。(69948 林さん)

既存の枠組み=旧観念。そんな中から、やりたいことを見つける=選択するなんて・・・一部の人はできるかもしれないけど、大半の人はできないでいる。でも、よく考えてみると、そのほうが自然。当たり前なのだと思う。旧観念の中から、やりたいことを選ぶなんて・・・不可能。

私も含め、今の若者に多い「とりあえず」「なんとなく」する行動は、自然な流れなのだと思う。

みんな不全=活力不全。活力不全は、大きく2つに分けられる。充足を基調とした、仲間・みんな収束(解脱系)と、役割・仕事収束(闘争系)。
そもそも活力不全は、‘60年代からあったらしいが、顕在化しなかった。そして、一時は前者の解脱=遊びに向かった。

>闘争を失い解脱埋没していた「何か面白いことはないか?」欠乏は解脱ではもはや飽き足らなくなり、「遊んでいても、実は盛り上がれてない」「仲間といっしょでも何かものたりない、ビミョー?」「表層的な人間関係って変!」といった「闘争不在、解脱埋没」への違和感が鮮明になりつつある。
そして解脱埋没を脱して「やりたいこと=社会的役割が見つからない」という(社会統合上≒認識闘争上の)役割欠乏へと収束しつつある。(69911 山澤さん)

今は、解脱ではなく、役割・仕事収束に向かっている。
未明の活力不全がおきている状況で 、探索に収束している。

仲間だけでなく、社会のみんなが何を考えているかじっと観察し、必死に読み取ろうとしている。手探りだけど、充足欠乏を潜在的に共認し、なんとか充足の様式を見つけようとしている。

「やりがい志向」は、「自分発のみんな」を対象化。
「やりたいこと欠乏」は「みんな不全発のみんな」。本当の意味でのみんなを対象化している。

また、「やりたいこと欠乏」は、旧観念を捨象した、ゼロからの思考。

どちらのほうが可能性があるか。そんなこと、言うまでもない。




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子供たちに『勉強の必要性』を語るのは難しい…?!

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
露店で『勉強しないといけないのは、なんで?』のお題を選んだ学校の先生。子供たちに『勉強の必要性』を分からせるのにホトホト困っているらしい。
「理科の授業で『オームの法則』を理解しても、ほとんどの子供たちは日常も、また将来も使うことはない。むずかしい数学なんかできなくても日常生活に支障はない。一体どのように『勉強の必要性』を伝えたらいいのか。」

理科や数学の授業において子供たちがソッポを向いて授業が上手くいってないのだろうか。それとも「先生、なんでこんなこと覚えなあかんの?」、と言われて返答に窮したのだろうか。

昔なら、「子供の仕事は勉強。そんなこと言ってたら高校に通らないぞ」とか、「今一生懸命努力したそのことが、将来の壁を突破する力となるのだ」などと話せば、一定納得して勉強したものだが…しかし、今の子供たちにそんなこと言っても子供の心に響かない。

「勉強の必要性は、自分の将来役に立つかどうかではない。勉強は自分のためにやるというのではなく、みんなのお役に立つため、みんなの期待に応えるため。」という店主の半答え。
なるほどと頷きながら、でも実際に子供たちに話す場面を想定すると、必要性を納得させるのはかなり難しいと感じる。「お役に立つ」ことが将来へ保留されるので、子供に実感させにくいのか…。

このお題、考えてみると結構奥が深い。

「みんなのお役に立つ立派な社会人になれ」、というのは60年代から70年代にかけての学校教育においてよく言われたこと。学校が私権(社会)秩序維持のための教育機関であることを考えれば、その中身は、「私権規範の遵守」(これが教育でよく言われる「文化の継承」の意味)と「豊かさを追求」(これが「文化の創造」の意味)することに他ならなかっただろう。
さすがに勉強することが、みんなのためだとは誰も思っていなかった時代だし、みんな自分のために勉強していたのだが、しかし、「勉強の必要性」は「社会で役立つため」というのは、子供たちの心には観念的にはほぼ受け入れられていたように思う。
もっとも、ほとんどの子供たちは、勉強しているより仲間といっしょに遊び回っていた方がはるかに面白いので、昔の子供たちの多くもいやいや勉強していたのは言うまでもない。

何が違うのだろう。

子供を取り巻く圧力構造が全く違うからではないか。60年代~70年代は豊かさがどんどん実現され、私権獲得の可能性が開いていった時代。個人も家庭も企業も、そして社会全体が私権で統合されていた時代。だから、自分のためであろうと、社会のため、みんなのためであろうと、どれも私権原理による圧力構造の下で一致していた。だから、豊かな「社会」の実現のために勉強は必要、と言われても子供たちは納得していたのだろう。

ところが、現在統合原理が私権原理から共認原理へと移行しつつある。が、教育制度をはじめとする古いパラダイムの中で、人々の意識もまた完全に転換できていない。人々は統合不全を抱え、個人も学校も社会もイコールで結ばれていない。
一方、子供たちは大人社会よりも先行する形でみんな収束し、より共認原理の働きやすい圧力空間を作ろうとしている。にも関わらず、お役に立つべき「新しい共認社会」はパラダイム転換途中であり、顕在化していない。その証拠にみなの期待に応えるというならば、大人たちは一体彼らにどんな「期待」をかけているのだろう。自信を持って彼らの社会における役割(出番)を語れるだろうか。

もしかれらに寄せる「期待」があるとすれば、まさに君らの時代こそ、新社会=共認原理で統合される社会をいっそう実現してくれ、という期待しかないのではないだろうか。
だから、子供たちが「何のために勉強するの?」と問いかけているのなら、その問いの本質は「なぜ大人社会とこども社会の圧力構造、統合原理がずれているの?」という問いかけではないのだろうか。

「なんのために勉強するの?」という子供の問いかけは、実は子供発なのではなく、むしろ、新しい子供社会と古い大人社会の矛盾のはざまに存在する、講師たち自身の発する葛藤の言葉ではないか。
そうであれば、この問いを素直に言葉として発し、「勉強の必要性=認識の必要性」を共認すべきは、旧パラダイムから早期に脱却すべき講師達ではないかと思う。そうしないと、子供たちは誰もついてこないだろうから。



吉国幹雄 
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「闘争不在、解脱埋没」という特異な30年が終わった②

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
私権時代とは、解脱(とりわけ性的独占欲の充足)を目的とし、その手段として出世競争・学歴競争(これ全て格差のうまみを手に入れようとする私権闘争)を活力源としてきた時代であったが、70年貧困の消滅によって心底において私権闘争は第1義ではなくなった。しかし目的の位置にあったところの解脱欠乏(性及び代償充足たる芸能を求める欠乏)は残りつづけた。むしろそれまで抑圧されていた分、一時的には急拡大したとすらいえる。そうして70年日活ロマンポルノに代表される性の解放が一気に進む。しかしこの性を核とする解脱欠乏はそもそもが性規範という障害があってはじめて燃え上がる反=自我のエネルギーであるから性の解放が進み、性規範がガタガタになってしまうと自動的に衰弱するという構造にあり、80年代に入ると現実の女からバーチャルな幻想の女性へと逃避したオタク文化へと後退収束していく。

さらに90年バブルの崩壊=格差のうまみの縮小が追い討ちをかけ、女をものにすることは負担がかさむばかりで、もはや性が第1義的活力ではなくなった。そして解脱の中身が性を中心とした独占欲や自我充足から仲間充足へと転換していく。ようやく暗闇の中から「新しい可能性」が充足収束という形として表出してくる。

>本源価値(異性や仲間や集団との共認充足や自然との本能充足)を破壊し、抑圧してきた私権の強制圧力が衰弱した以上、抑圧されてきた本源的な共認欠乏や本能欠乏が活性化し、意識下の共認回路や本能回路が本源充足へと可能性収束してゆくのは、必然である。・・本源収束の潮流は、'90年私権の衰弱が誰の目にも明らかになるにつれて顕在化し、共認収束(親和収束・仲間収束)や自然収束の大潮流を形成しつつある。ボランティアや自然サークル・環境サークルの興隆は、この潮流の最も見え易い表層の現象である。実現論4_3_02「実現論 場の転換」

しかしこの90年代の充足収束は不安解消という私的不全に対する癒しとはなっても、不安の根源をなす統合不全そのものを解消しうる答えとはいえない。02年、「改革の期待」を集めた小泉内閣すらもはやあてにならないと大衆は理解し始めたことで、この統合不全はマスコミや官僚たちに任せておけない、みんな不全となった。貧困の消滅から30年の歳月を経て、みんな不全が再生したのだ。

これを受けて、今の若い子たちは一気に社会的役割欠乏へと収束しだした。闘争を失い解脱埋没していた「何か面白いことはないか?」欠乏は解脱ではもはや飽き足らなくなり、「遊んでいても、実は盛り上がれてない」「仲間といっしょでも何かものたりない、ビミョー?」「表層的な人間関係って変!」といった「闘争不在、解脱埋没」への違和感が鮮明になりつつある。

そして解脱埋没を脱して「やりたいこと=社会的役割が見つからない」という(社会統合上≒認識闘争上の)役割欠乏へと収束しつつある。更には「くっていくだけなら困らない」故に役割欠乏は現実的には「本当にみんなの役に立つ仕事」への欠乏として先端収束し、70年以来一貫してマイナス視されてばかりだった政治家を志望する若者が急速に増えつつある。あるいは「役に立つ仕事」欠乏という流れの中に(自衛官や消防士等の)公務員志望や(福祉関係やロースクールといった)資格志向の増加、さらには授業出席率の上昇(結果的に旧観念支配の強化)といった現象も包摂される。

「闘争不在、解脱埋没」という特異な30年は終わった。90年代の充足収束において実現された「自分からみんなへの転換」を足がかりに「解脱埋没から闘争あっての解脱へ」ついに転換を遂げたのだ。残された課題は、「答えがないから旧観念支配に絡めとられる」という部分の逆転である。




山澤貴志
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一昔前は「貧乏」、今は「ビンボー」

Posted by ななし on 12.2016 記事 1 comments 0 trackback
最近、テレビ・雑誌などマスコミで「ビンボー」な若者が取り上げられるのを時々見かける。その「ビンボー」な若者は、一昔前の「貧乏」とは明らかに異なる。

「ビンボー」な若者には、「貧乏」という言葉に付きまとっていた、暗さや悲惨さは感じられない。演出によるものもあるが、笑いのネタにさえなっている。

貧困の圧力が働いていた時代が終わった。周りには「貧乏」な人は居なくなり、今は「ビンボー」な若者は探さなくてはならないほど珍しい存在になった。

だが、多くの人が興味を持つのは、ただ「ビンボー」が珍しく面白いからだけではないのだと思う。「ビンボー」でもいいから、何か可能性を見つけた人・その人が見つけた答えに興味を持っているのではないだろうか。

確かに、収入面から見れば、世間の平均的所得と比較すれば明らかに低い。しかし、生活の余裕をぎりぎりに削ってまで、やりたいこと(その内容はともあれ)を実現しようという、前向きさのようなものも感じる。

多くの人が旧観念に捉われ、これからの可能性を見出せず、とりあえず残存する私権課題に収束している。活力が出ない現実を前に答えを探している。その答えを、私権獲得を捨て、それに変わる何かを見つけた「ビンボー」な若者の姿に探しているのではないだろうか。

しかし、旧観念でしか捉えられないマスコミは、単に笑いのネタで済ましてしまう。そんな若者が増えたことへの原因追求はなく、マスコミには答えはない。そして、私権課題から脱した若者も、そこから先の答えを探しつづけているのだと思う。

今、「答え」欠乏は上昇している。その期待に応えるのが、可能性に蓋をしている旧観念を捨て、みんなの実感と事実追求から答えを紡ぐことが出来る「なんで屋」なのだと思う。



斎藤幸雄
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若者はマスコミの次の答えを求めている

Posted by ななし on 11.2016 記事 1 comments 0 trackback

なんでや議場・なんでや勉強店などで、若者と「マスコミが第一権力化したのはなんで?」というお題を話合う機会があったのですが、マスコミや旧観念に対する捉え方が随分と変わってきていることに気づかされます。

彼ら若い世代は、マスコミや旧観念では答えは出せないことは体で感じており、ここまで社会を閉塞させてきた真犯人はマスコミであることも、従って旧観念なんかは全て捨て去ってしまう必要があることも全く違和感なく理解しています。あまりに話にひっかかりがないので、こちらの方が「やっぱり古いんだな~」と思わされてしまうくらいです。

我々の世代(‘80年代の学生)の実感を言うと、就職に際しても企画や出版、マスコミ関係は人気がありましたし、特にマスコミは世論をリードしてゆくやりがいのある仕事だというような観念は強かったように思います。そして、社会閉塞の真犯人がマスコミであるというような認識にたどりつくには、そのような常識や旧観念を一つ一つ塗り替えてゆくような作業が必要でした。

ところが今の若い世代は、そのような追求以前に、体で直感的に可能性の有無を認識しているのではないかと思います。初めから旧観念なんてどーでもいいと思っているので、そもそも捨て去るものがないという感じです。それよりは、露店なんかで話していても、旧観念を捨て去った先の答えを求めているという感じを強く受けます。マスコミが撒き散らしているようなアンチ発の旧観念に変わって、可能性発の新しい認識をみんなが求め始めているのだと思います。



雪竹恭一
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大学生が授業に出るのはなんで?

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
私が学生だった’80年代後半は、大学は遊びに行くところで、授業には出ないものと決まっていました。入学すると先輩達とのオリエンテーション合宿があり、どの授業の単位が甘いか、授業に出なくてすむノウハウを教えてもらったものでした。

学生はさっぱり授業に期待していませんでしたので教授も強いことは言えず、出席を取る授業でさえ、出席した5人くらいで順繰りに50人分の返事をしても教授は何も言えませんでした。

ところがここ数年、まじめに授業に出る大学生が増えてきました。
なんでや劇場でその原因を聞きました。


> 乳幼児期の母親との親和充足(笑顔の交信やスキンシップによる安心感)が人格形成上決定的に重要であるにもかかわらず、スキンシップが充分できていない場合、子供は親和不全(怯えに近い不安)に陥る。しかい、赤ん坊にとって母親は絶対存在であるため、親和が得られないのは「自分が悪い」からだと自己攻撃し、己の欲望や期待を封鎖して、母親から与えられる規範観念(「ああしなさい、こうしなさい」「それしちゃダメ」etc)にひたすら収束する。

また、学校に入ってからの、いじめ圧力が更に期待封鎖を加速する。いじめ圧力の中では、常に不安と怯えを抱え、自分の期待を封鎖して周りに合わせるしかない。

欲望や期待を封鎖している以上、やりたいことは出てこず、周りに認められた無難な規範や制度に収束するしかない。それが若者に見られる公務員志向、資格志向、授業出席、結婚願望の正体である。<


授業に出席するようになったのは、授業が面白くなったのではなく、まして役に立つからでは毛頭ありません。期待を封鎖した若者達が、新しい可能性を見つけることが出来ずに古い制度に絡め取られているに過ぎないのです。

にも関わらず、出席率が増えたとたんに教授達は強気になって、「5回欠席したら、単位はやらん!」等の強権を発動し、授業出席率が100%に近い状態になっている学校さえあります。

古い規範や制度にとらわれず、新しい可能性を模索しようとしている健全な若者達にとって、しょうもない授業を聞くことは時間の無駄以外の何ものでもなく、まともな人ほど大学いかなくなる時代が近いうちに来るのではないかと思います。




松尾茂実
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若者の不可能視、オジサンの不可能視

Posted by ななし on 09.2016 記事 1 comments 0 trackback
>いい子ちゃんは家の規範。うまく立ち回るやつは私権規範。そして多くは仲間規範。・・ただ、これも共通するんだけどみんな「何かおかしい」って感じてたし、そして「答えがない」っていうのも感じてた。答えがないから出来合いの規範に収束。一生懸命になれることもなく無難にやり過ごす。そして不可能視が刻印されたんだと思う。

なるほど、無難思考の若者の意識の核はやはり規範収束なのですね。だとすれば知識人やそれに踊らされてきた旧世代の不可能視とは構造が全然違います。上の世代の不可能視構造はといえば

>団塊の世代は運動の挫折から、変革不可能視を植えつけられた世代です。運動が実現しなかったという敗北体験は、その後彼らを徹底した「私生活主義者」「マイホーム主義者」へと転向させていきました66720

つまり団塊世代より上の世代は、社会変革の挫折という体験からくる不可能視です。そこには「なんか頭でっかちな連中についていってバカ騒ぎして、、、それで死んだやつもいっぱいいて、なんか思想なんかに騙されたらあかんな。」という観念全般、運動全般に対する警戒心が形成されてしまっている。
人々の実感と断絶した旧観念や旧運動組織に対する断罪に止まらず思想・運動全般に対する‘無’可能視はトラウマに近く、旧観念、旧運動の徹底総括の上に展開されようとしているなんでやに対しても傍観者=「露店や活動している個人に対しては肯定的なのに、組織や統合etcに否定的な人」としてしか接することができずにいます。
彼らが立ち上がった当時の現実を統合していたのは私権規範。しかしそれでは納得いかないので規範解体を叫んだが、結局壊すだけではなにも出来なかったという敗北体験ともいえる。つまり彼らの運動エネルギーはそもそも反規範エネルギーだったのであり、大学や社会を解体することにはイケイケになれたが、新しい認識を生み出すこと、新しく社会を統合することに関しては潜在意識としてはあっただろうが、まだまだ顕在意識とよべるようなものではなかった。しかしそうした総括もされぬまま潜在意識としての当事者意識はむしろ蓋をされてしまっているとみた方がいい(全共闘世代における社会の当事者意識については37192 参照)

それに対して、今の若者の意識の中心は反規範意識ではなくむしろ規範意識であり、社会に対しては傍観者というよりむしろ当事者だといえる。

>いざ就職って考えると、全然活力が出てこない。企業に可能性を感じないし、だからと言ってフリーターになると親が五月蝿い。じゃあ、大学に残れば問題ないかと思った67738

私権活力<規範収束な彼ら学生にとって少なくと本分は(遊びより)勉強だし、働くということは(くいぶちを稼ぐということよりも)人の役に立つということだし、でも何をしたらいいのか=役割がみつからないから、(親の期待とも重なるし)まだまだ勉強が足りないって思って、モラトリアムしちゃうのである。無難思考な彼等の背景には明らかに社会不全→役割欠乏が強弱こそあれ同居していて、役割欠乏の真っ当な新しい行き場がないから既存の役割=規範(学生の本分としての勉強)に収束しているのではないか。こうした無難思考と役割欠乏の混在は進学ブームに限らず、資格欠乏、留学志向、公務員志向いずれにもいえよう。むしろこれら若者の就職etcに見られるトレンドは元気のある役割欠乏派(ex人の役に立つ=警察官になる!)が無難志向派(exじゃオレも公務員がいいかなあ・・)を牽引している結果のブームという見方もできる。

安易な旧規範収束には可能性は無い。しかし彼らは表層的な規範収束の背後にある社会不全→役割欠乏に蓋をしてはいない。反規範意識によって社会的役割を担うこと=当事者欠乏を顕在化させられない傍観者体質をトラウマ化させてしまった旧世代より同じ無難志向でも若者はははるかに可能性がある。おそらく年金問題も含めて傍観者のままやりすごそうとしている旧世代に対してそのおかしさを指摘しだす若者が登場してくるのも時間の問題だろうと思う。



山澤貴志
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旧組織を内から塗り替える事は可能か?

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
「若者がすぐ会社を辞めてしまうのはなんで?」このお題に対する答えとして、私権企業に対する違和感、脱集団現象の話をよく耳にする。

こうした話を聞いたお客さんは、一定納得は出来るものの、今現在私権企業に身をおいている、あるいはフリーターという企業内序列において末端にいる私は明日からどうしたらいいんだろう?どうしたら活力が出るんだろう?という不全は解消されずにくすぶり続けている。

この不全の解消策として統業に従事することは一定の答えであると感じるが、一日の大半を費やす現業場面は我慢をし、私権企業が体制転換を迫られるような日を待つというのでは先の見通しが立たずに不安のみが蓄積される。

しかし実際問題、私権原理から共認原理への移行とは現実を生きる人々の実感と現象事実を基に構造化された答えであり、自らの生きる職場や仲間関係で実践することで、旧体制以上の活力上昇や成果を生み出せる事を示している。(そうでなければその認識が誤りであることを示す)

私権組織へのアンチ→脱集団は私権衰弱の一現象事実に過ぎず、脱集団で留まっていては何も変わらない。旧集団を新しい可能性に塗り替えていくことこそが最も実感をもって新認識の効用と世直しを体感できる場になるのではないだろうか。統業による外圧と現業での内からの塗り替え。露店で私権企業にうんざりしているみんなの話を聞けば聞くほど、ガタガタの旧組織を塗り替えていく可能性はすでに開かれているのではないかと感じる。




KOU
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期待封鎖ゆえの実感(→共認)無き応望

Posted by ななし on 07.2016 記事 1 comments 0 trackback
最近、4年間働いた会社を辞めて、困っている実家の仕事を手伝いたいという若者と話す機会がありました。
しかし、話を聞いていると、彼の実家が彼に戻ってきて継いで欲しいという要望は強くありません。にもかかわらず彼は実家に戻って手伝って“あげたい”、という気持ちが強いのです。
それに聞いた話の中身から判断すれば、彼は今の会社に不満があるわけでもないのに会社を辞めて実家に戻ることは、どう見ても彼にとって可能性が無いし実家にとっても重荷にしかならならずおかしいと感じるのですが、なぜか自分の思い込みで自分が助けなければならないという目先の期待らしきものにいとも簡単に強く思い込んで収束しているのです。

彼は、自我が強いというわけでもなくどちらかという素直ですが、見方を変えると応望性は強いのですが自分から期待をかけていくことは無く待っていて出てきた期待をプラス収束(思い込み)して素直に応えるだけとも見れます。

この事例を始め若い人の福祉やNPO収束などを見ていて、最近、私は若い人の『思い込み』を至るところで感じだしています。
そして、この思い込みが生じる原因に『期待封鎖ゆえの実感が欠如した応望』が要因としてあるのかなと感じだしています。

若い人は、確かに求めているのは、バラバラに解体された私権時代の閉塞からの脱出、つまり旧い私権集団を超えた新たな人つながり欠乏であり、みんな期待に応えたいという欠乏であると思います。そして、私権が衰退してその可能性が開かれたことで可能性探索していると思います。
しかし、その一方で、そもそも可能性を探索してそれに応望するには状況認識が必要になります。それが期待を封鎖していれば自分も含めた周りの実感(=みんなの意識)を羅針盤に状況探索することが出来なくなります。その状況で探索すれば自分の頭の中にある旧観念・旧規範で探すだけになり、それでは本当の期待など見つかるわけが無りません。
つまり、自分の期待を封鎖して応望することだけに収束すれば、“実感(=共認)が欠如した状態のために状況探索が貧弱になり、結局可能性を実感していない旧観念しかない自分の頭の中で探してそれをプラス視(価値)して収束(=思い込み)”してしまい、いつまでも旧パラダイムとのズレを感じ続け彷徨うことになります。

私は、若い人が転職を繰り返すのは、新たなパラダイムの可能性探索であると見る一方で、「期待封鎖ゆえの実感無き応望」→「実感をもとにした“共認”が欠如しているが故の状況探索の貧弱」→「結局、可能性を感じていない旧観念・旧規範への極端なプラス価値収束」→「実感とのズレ」という閉塞したループ、これも大きな要因ではないかと感じだしています。



麻丘東出
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特に彼氏・彼女が欲しいと思わないから結婚する

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback
豊かさが実現され、自分の身分、自分の金、自分の女(男)という私権観念は衰退し、それに伴いこれまでの私権規範はどんどん崩壊している。にも関わらず、妙に結婚に拘ったり、公務員を目指す友達が多いのもまた事実。

 何でかなと思っていたが、これらの現象が「統合不全」から来ているのだと考えるとすっきりした。私権規範は実質崩壊したが、人間は自らを統合するために何らかの規範を必要とする。

 私権観念発の結婚願望ではないので、相手を自分のものにしたい、独占したいとは思わないが、自らを統合する規範としての結婚は必要。

 私権観念発の就職願望ではないので、出世したい、もっと稼ぎたいとは思わないが、自らを統合する規範としての就職は必要。

 どちらも私権観念発ではなく、統合のために必要というレベルなので、そこそこ、つまり形だけ整っていればそれでいい。めちゃくちゃかっこいい男、あるいは女と結婚する、あるいは、超一流企業に入る必要はない。つまり「無難」であればそれでいい。

 活力源とはならない私権規範に、「統合不全」のために収束し、当然どんどん活力は低下している。私権観念に変わる新たな活力源=みんな共認(充足)への移行が急がれる。




野崎章
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脱仲間が、転換点?

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback

「今の大学生がとても忙しいのはなんでだろう?」
先日、出てきたお題なのですが、今の大学生は授業の受講率が90%以上でかつアルバイトにも一生懸命だったりしてとても忙しいらしい。
このことを、>正体は新たな役割欠乏では?>(64564)を受けた社会的役割探索の過程だと理解していました。

ただ、その場にいた女子大学生(3回生)に話を聞いたのですが、授業を楽しいと感じている反面友達も出るので出席しておかないといけないような気持ちもあるらしい。
また、社会に出ると旧い枠に絡めとられてしまいそうで、今のうちに自分の出来る何かを見つけとかなければならない、という追い詰められた不安みたいなものも感じているらしい。
そして、「人の役に立てたら嬉しいとか、喜んでくれたら嬉しい」という気持ちは強くて、その収束としてNPOや福祉などといった価値観念に飛びついて行動してしまうらしい。
そして最後に彼女から、今までは自分で答えをつくってきたが、この場ではみんながまわりの意見を吸収しようとする空気がある、という感想も聞きました。
その時は、もうひとつスッキリ出来ませんでしたが、最近の投稿を読んでいて少し解ってきました。

>親和充足を得られなかったために作動するのは「不安発の危機逃避回路」であって、それは共認機能ではなく本能の一部なんだそうです。(65654)<
>仲間空間では誰も期待を出さない中で、期待を出すと目立っていじめられてしまうから、仲間空間では期待することや感情を出す事を封鎖するしかない>(65659)
>不安発なので、外圧(ここでは母親の期待)を「探索」するだけで、相手の期待を察知しても充足が得られないし、それに適応しようと必死で、自分の期待(にともなう感情)は封鎖するしかない>(65654)
>「誉められるよりも、相手が喜んでくれれば嬉しいのはなんで?」というのを考えた場合、自分の欲望・期待は封鎖していながらも、相手=みんなに応望しようとしているからではないでしょうか。>(65712)

一連の投稿を読んでいると、どうも不安解消の逃避先を探しているところもあるらしい。
いじめ圧力と囲い込みを色濃く残す今の大学生など20代世代は、社会的役割欠乏を根底に抱きながらも、不安解消の共認が異常に働いているのだろう。
その状況で、”期待を封鎖して応望”できることを探索するため状況認識が弱く、結局不安逃避先を模索しているに過ぎなくなって、NPOや福祉や環境など自分の頭の中の“思い込み”で勝手に答えをつくり代償しているところがあるのだろう。

ただ、それでもとりあえず応望回路が解除されているので、私権収束している旧人からみれば先端であるし可能性があるとは思う。
そして、可能性への転換点は、不安をつくった原因が主には”いじめ空間”であるならば、『脱仲間』が起点になるように感じる。
そのうえで、応望する期待の中身であり、それが充足に繋がるかどうかだろう。

>つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。>(実現論1_4_05)

旧い集団さらに『旧い仲間空間から脱した路上という空間』に身を置き、“みんなが期待している新しい認識(=答え)”へ応望していけば、「みんな同一視充足(=共感充足)」を経由して期待解除の可能性があり、それを可能にできる場が「なんでや露店」というものなのだろうし、そこからはじめて充足発の可能性の状況探索が始まるのだろうと思います。



麻丘東出
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“どんぐりの背比べ”選択肢の中で、選ばされる違和感の方が強いと思う。

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
>だが、我々は集団の体を成していない様な「カタワの集団」に、本当に入ったのだろうか?それは、形だけ、上辺だけのことではないだろうか。本当は、「集団」に入ったのではなく、社会に出ていったのではないだろうか。40426

「自分の可能性を試したい」といって、数多くの会社を渡り歩いたとしても、しょせん“会社”という集団の中に居続けている事には変わりない。
「“会社”だけの人間にはなりたくない」といって、サークルやNPOなどに所属したとしても、なんらかの集団にいる事には変わりない。
「“会社”という集団になんか頼らない」といって、資格・コミュニケーション力UPや人脈開拓→起業に精を出しても、所詮、私権統合の崩壊で魅力がなくなる一方の私権制度・私権社会の中での処世術でしかない。

>「やりたいこと」を見つけなければいけないということに違和感を感じる若者。同時に「やりたいこと」をひとつにしぼらなきゃいけないということにも違和感を持ってるように思う。

(自分自身省みても)若者はやりたい事をみつけたくて仕方がないと思う。
みんなの役に立ち評価される、そして自分自身も可能性を感じて没頭できることがあれば、非常に素晴らしい。これには誰も異論ないと思う。

「やりたい事をみつけろ」という言葉に感じる違和感は、どれを選んでも“さえない”“可能性を感じない”“面白くない”そういった選択肢しかない状況の中で、無理矢理選ばされること、そのものにあると思う。

(だから例え選択肢が一つしかない状況でも)可能性がある選択肢なら「やりたい事を見つけろ → (実質)これをやれ!」と言われても抵抗感はない。逆に、可能性がない選択肢なら、いくら用意されても、いくつ選んで良いとしても違和感を抱え続けるように思う。



佐々木健二
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「やってること」をひとつにしぼりたくない意識

Posted by ななし on 03.2016 記事 1 comments 0 trackback
若者が会社をどんどん辞めていく。私権体質の企業に可能性を感じない。そんなしがらみから逃れたい脱集団の意識。潜在的なレベルではそうなんだけど、一方では「たいして理由はないけど」という意見もよく聞くようになった。
一昔前は、「ひとつのことをこつこつとやり続けること」は美徳だった。努力があり、一生懸命に働いて、そして段々と実力をつけてゆく。これは徒弟制度の名残だと思う。だから、途中で投げ出すことはご法度。根性がない、意思が弱い、最低、、、。
だが、一方でひとつことをずっとやり続けられるのは学者か専門家か、はたまたオタクか、、、。終身雇用、私権獲得という目標。これって私権時代だから成立したもの?ひとつことをずっと続けるということ自体が、ひょっとしたらおかしいのではないか?
「いろんなことをやりたい」という実感もよく聞く。言われてみれば学生時代、自分自身も数十種類のバイトをこなした。すぐ辞めたのもあるけど、基本的には2、3のバイトをかけもちでやっていた。バイトでできて、社会人になってできないのは「責任」というのもあるがやはり「制度」の規制。だからかけもつとしたら、起業か趣味程度の仕事しかない。
責任、制度から逃れるためには、会社から飛び出すしかない。
会社から飛び出ずにそれを実現しているのは、派遣社員。安い給料で彼らはいろんな会社で働く。それでも、やはり会社が変わるだけでやってることはだいたい同じ。
3年から5年周期で転々と会社を渡り歩く若者。ひょっとしたらこちらのほうが正常な姿なのかもしれない。常にいろんなことをやってみたい、やっていたいという実感、けっこう強いんじゃないだろうか?つまり「やりたいこと」にこだわってるわけではなくて「やってることがひとつこと」にこだわってるんじゃないか?
「やりたいこと」を見つけなければいけないということに違和感を感じる若者。同時に「やりたいこと」をひとつにしぼらなきゃいけないということにも違和感を持ってるように思う。
だから、昔のように「人間関係が嫌だ」とか「仕事が面白くない」とか「給料が安い」「他にやりたいことがある」というようなわかりやすい理由がなく「たいして理由はないけど」のレベルで辞めるのではないか?





平川要
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「実際どうなの?」「みんなどう思ってるの?」

Posted by ななし on 02.2016 記事 2 comments 0 trackback
なんでだろう?ってほんと最近思い浮かばなくって、それはなんでなんだろうね~?って仲間で話してました。

若い世代や、女の人は特に、露店で並んでる「なんでだろう」を見ても、「わかるけど、別に。」って感じ。

実は私たちって、「なんでだろう」と思うよりも、「実際どうなの?」とか、「みんなどう思ってるの?」っていうのが先に来て、その事実を知ってから、「じゃぁ、それはなんでなんだろう。」ってなるよね~って話をしてたら、みんなすごく納得でした。



河野梨恵 
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やりたいことが見つからないのが当たり前なのはなんで?②

Posted by ななし on 01.2016 記事 0 comments 0 trackback
では現実と遊離した幻想観念にも関わらず大人たちが「やりたいことを見つけろ!」や「夢を持て!」という誤魔化しの言葉(64875)を吐き続けてきたのはなんでなのでしょう。

かつて仕事はしんどいもの=強制労働であり、本当に手に入れたいものは「女←金←肩書き」=私権だった訳です。そういう意味では彼らおじさんたちのやりたいこと=目的は確かにあったのだが、本当に欲しいものがつまるところ私権であり序列であるとは(みんなそう思っていてもそれが同時に社会悪の源泉であることも分かっているので)正面切っては言えない。そこから「(女、金を手に入れるための手段に過ぎない仕事を)俺の夢だ、やりがいだ」という倒錯観念が登場した訳です。時代が下がり、貧困の圧力も低下してくると「あいつは遊びを知らないかわいそうなヤツだ」等という下半身の本音トークが飛び出すようになるのは「仕事が夢、やりがい」がいかに誤魔化しであったかの証明です。

しかし豊かさの実現とは序列格差の縮小でもあり、序列上位者のうまみの縮小でもあります。バブルが弾け、女に貢ぐ原資がなくなりしんどい現実を「やりたいこと」と正当化することは極めて困難になり、ついに若い子にとって「やりたいことってなんだ?」という疑問が登場するようになった訳です。つまり「強制労働をやりたいことと思い込める」観念倒錯は他方で学歴、家柄、ホワイトカラーといった序列格差=労働価格格差によって支えられていたのですが、総中流化の現実の前ではこうした倒錯観念はまさに現実との矛盾を拡大するだけのまったく無用な観念なのです。

先日知り合った28歳の男の子は仲間で始めたNPOがみんなに期待されるようになって、会社は俺の代わりがおるけどこのNPOは「お前がおらんかったらあかん」って言われて会社を辞めてNPO代表になったんだそうです。やる気一杯でなんでや露店にも興味津々。現実の可能性をどんどん広げているタイプです。

同じように探索中の若者でも「やりたいこと」という倒錯観念に向かえば活力をすり減らすだけ。現実とは意識である以上、みんな期待を対象化できれば自ずと「やりがい=社会的役割充足」がついてくる時代なのです。



山澤貴志
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