若者は「みんな」という地平での役割を探索している
今の若者は何に対しても本当に一生懸命です。
イベントに、勉強に、事業(←起業)。
かといって、1つのことにのめり込むわけでもない。
イベントに集中してたかと思えば一切足を洗って勉強に集中したり、サークルをつくり多くの仲間を集めて楽しんでいるかと思えばあっさり他に任せて勉強モードへ。NPOを立ち上げて成功させたかと思えばそこからは手を引いてイベントを新たに立ち上げたり、会社を起した人でも事業への取り組みは真剣だけれどもそれを生業にしようとは思っていない。
そんな学生たちと接する中で、自分達の学生時代とは違うな、と漠然と捉えていたけれど「正体は新たな役割欠乏では?」(64564)を読んで、彼らの意識をだいぶ対象化できたように思います。
彼らは我々の学生の頃に比べて遥かに「何かを実現したい」という課題(応望)欠乏で満ちています。ただ、将来に亘って一生懸命になれそうな対象(≒答え)は見つかっていない。どれも収束仕切れないし、確信が持てないからなんとなく不安で、とにかくいろんな場に首をつっこんでいる。
濃密な人間関係やその中での役割よりも、不特定多数を対象化しその中での人繋がりややりがいを求めている。その先に社会的役割を探索しているように思えます。
>私権獲得に替わる新たな闘争課題、すなわち、乗り越える壁が漠然としている現在だけど、その壁って「みんなの何となく感じる思い」なんだと思う。(65261)
若者の一生懸命さは、みんなという地平での「充足できる・確信できる"壁"」を探索している(或はその為の準備をしている)からではないかと思います。
>人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。(22204)
そんな若者たちにとっての「答え」とは、まずはパラダイム転換による「実現可能性」を示すこと。そして、その実現態が「なんでや露店」であることが伝われば、と思います。
熊谷順治
イベントに、勉強に、事業(←起業)。
かといって、1つのことにのめり込むわけでもない。
イベントに集中してたかと思えば一切足を洗って勉強に集中したり、サークルをつくり多くの仲間を集めて楽しんでいるかと思えばあっさり他に任せて勉強モードへ。NPOを立ち上げて成功させたかと思えばそこからは手を引いてイベントを新たに立ち上げたり、会社を起した人でも事業への取り組みは真剣だけれどもそれを生業にしようとは思っていない。
そんな学生たちと接する中で、自分達の学生時代とは違うな、と漠然と捉えていたけれど「正体は新たな役割欠乏では?」(64564)を読んで、彼らの意識をだいぶ対象化できたように思います。
彼らは我々の学生の頃に比べて遥かに「何かを実現したい」という課題(応望)欠乏で満ちています。ただ、将来に亘って一生懸命になれそうな対象(≒答え)は見つかっていない。どれも収束仕切れないし、確信が持てないからなんとなく不安で、とにかくいろんな場に首をつっこんでいる。
濃密な人間関係やその中での役割よりも、不特定多数を対象化しその中での人繋がりややりがいを求めている。その先に社会的役割を探索しているように思えます。
>私権獲得に替わる新たな闘争課題、すなわち、乗り越える壁が漠然としている現在だけど、その壁って「みんなの何となく感じる思い」なんだと思う。(65261)
若者の一生懸命さは、みんなという地平での「充足できる・確信できる"壁"」を探索している(或はその為の準備をしている)からではないかと思います。
>人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。(22204)
そんな若者たちにとっての「答え」とは、まずはパラダイム転換による「実現可能性」を示すこと。そして、その実現態が「なんでや露店」であることが伝われば、と思います。
熊谷順治