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若者は「みんな」という地平での役割を探索している

Posted by ななし on 31.2016 記事 0 comments 0 trackback
今の若者は何に対しても本当に一生懸命です。
イベントに、勉強に、事業(←起業)。
かといって、1つのことにのめり込むわけでもない。

イベントに集中してたかと思えば一切足を洗って勉強に集中したり、サークルをつくり多くの仲間を集めて楽しんでいるかと思えばあっさり他に任せて勉強モードへ。NPOを立ち上げて成功させたかと思えばそこからは手を引いてイベントを新たに立ち上げたり、会社を起した人でも事業への取り組みは真剣だけれどもそれを生業にしようとは思っていない。

そんな学生たちと接する中で、自分達の学生時代とは違うな、と漠然と捉えていたけれど「正体は新たな役割欠乏では?」(64564)を読んで、彼らの意識をだいぶ対象化できたように思います。

彼らは我々の学生の頃に比べて遥かに「何かを実現したい」という課題(応望)欠乏で満ちています。ただ、将来に亘って一生懸命になれそうな対象(≒答え)は見つかっていない。どれも収束仕切れないし、確信が持てないからなんとなく不安で、とにかくいろんな場に首をつっこんでいる。

濃密な人間関係やその中での役割よりも、不特定多数を対象化しその中での人繋がりややりがいを求めている。その先に社会的役割を探索しているように思えます。

>私権獲得に替わる新たな闘争課題、すなわち、乗り越える壁が漠然としている現在だけど、その壁って「みんなの何となく感じる思い」なんだと思う。(65261)

若者の一生懸命さは、みんなという地平での「充足できる・確信できる"壁"」を探索している(或はその為の準備をしている)からではないかと思います。

>人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。(22204)

そんな若者たちにとっての「答え」とは、まずはパラダイム転換による「実現可能性」を示すこと。そして、その実現態が「なんでや露店」であることが伝われば、と思います。



熊谷順治
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社会不全の表情?

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback

> 私権がどんどん衰弱している昨今、どんどん表情の乏しい子が増えている現状はやはりおかしいのではないかと思います。(65009)

> がんばってたり楽しそうにしてたりすると、はりきってるとか何が楽しいの?とか陰口が出てくるみたいなそんな雰囲気。(65110)

無表情の若者についての最近の皆さんの投稿を改めて読んでいると、彼らはやはり決してそれで十分に充足している訳でもなく、居心地が良い訳でもないように思えてきました。同時に、であるにも関わらず、「笑顔タブー」のように、敢えて充足に向かうことを妨げるかのような一種の仲間圧力さえ働いているらしいというのは、非常に奇異な感じがします。

その「無表情」が周りに与える印象も、プラスorニュートラルというよりもやはりマイナス寄りであり、どちらかというと何か得体の知れない不安・不全が内在している、と見る方が近い気がします。もしかすると若者たちは、これまでの充足基調だけではもはやっていけないことに、潜在的に気付き始めているのかも知れません。

> そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。私権観念の防波堤が破れたことによって、一気に社会不全が大きくなり、私権の衰弱も相まって潜在思念の源泉部が私権不全から社会不全へと大転換した。社会不全が大きくなれば、外向欠乏が強くなる。しかし、答えがないので課題捨象の充足基調⇒本源収束が続いている。(24981)

> 社会不全は答え(=新しい認識)によってしか解消されない。つまり、社会不全を従来の解脱様式で捨象することは出来ない。(例えばテレビは私権不全から社会不全への大転換によって、完全にズレた物となり果てた。)また、「等身大の幸せ」etcの言葉=頭でいくら捨象しても、解脱充足先がない以上、不全は解消しない。その上、不全の増大につれて充足基調の充足度も、どんどん低下してゆく。(24982)

現在の若者の無表情は、実は充足基調が遂に限界にきたことによるストレートな「社会不全の表情」なのではないでしょうか。その表情は、原因である不全自体が漠然としているが故に非常に捉え所の無い感じがする。しかし、その“空気”が一旦共認されると、決して心地よくはないけれど、課題捨象のまま充足基調を続けることに違和感が出てくる。それが、充足タブーのような逆転現象を起こしているのではないでしょうか。


田中素 
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探索するが故の不安と、探索が行き詰っている不安

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
仕事で収束すべき可能性を見極めて、それに邁進している時、意識は統合されているので、活力には溢れていますが、不安を拭い去ることは出来ません。

可能性は常に不確実性を孕んでいるので、実現するまでは確実とは言えず、それ故に不安を完全に払拭できないのだと思います。探索回路が働くほど、一方で新たな不安も生じかねません。

一方、収束すべき可能性を見極めきれず、意識を統合できない場合は、まったく異質の不安に苛まれます。まさしく統合不全状態であり、行き着けば鬱状態になるのだと思います。

同じ不安という言葉でも、前者が若者に多く、後者はおじさんに多いように思います。前者は探索回路が健全な故の不安、後者は探索回路が行き詰っているが故の不安と言えるのかもしれません。

特に現代、可能性に収束し(元気)ながらも、その確実性を不安に思う若者の姿は、時代が転換する過渡期にあることを象徴しているのかもしれません。


石橋直樹
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若者達が抱く『あいまいな不安』を次代の集団へと昇華させる『露店』の役割

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
若者達は既に仲間収束という形で、新しい充足世界を既に形成し実現してます。そしてその中では活力を徐々に再生していっています。(64564)

新しい充足世界を形成・実現し、旧い足枷からどんどん解放されていきながら、一方で「あいまいな不安」に捉われる今の若者。

>明らかに私たちの世代よりも若い世代は、旧い世界の足枷が軽くなって、新しい現実が開かれていってるはずで、もっとどんどん元気になっていってもいいような気がするんだけど、なんで逆になってるの?(64822)

今の若者は仲間収束の大切さを知っている。そしてその充足世界も十分に味わっている。一方で今の仲間関係が永遠に続くのだと楽観視できるほど、傍観者ではいられない。彼らはリアルな生活の中で真に仲間関係を欲していて、そうであるがゆえに、今の仲間関係の収束力が如何に貧弱であるかを悟ってしまっているんじゃないかと思う。

「なんとなく」集まる仲間はいても、やるべき課題が見つからない。だから「なんとなく」集まった仲間達と、「なんとなく」楽しく過ごしながら、「なんとなく」ではあるが、しかし確実に、永遠には続かないであろう今の自分の居場所を思うときの不安。仲間なしでは生きられない今の若者には、その「なんとなく」が存在不安として重くのしかかるのだと思う。

仲間収束の可能性には気付いたけれど、仲間で共有する課題が見つけられない。所詮それでは「カタワ」の集団。

だから、新しい課題はないかと「なんとなく」街に出る。
仲間が収束できる課題はないかと「なんとなく」街に出る。
カフェや路上にたむろする今の若者達。

仲間収束が生み出した路上の集団は「なんとなく」ではあるけれど、みんな課題・みんな期待を探して確実に動き始めたのかもしれない。

仲間収束で生まれた路上の集団が、みんな課題を発見し、答え欠乏・構造認識の必要性を知ることで、新しい統合へと向かう次代の集団へと進化を遂げる日は近いかもしれない。その架け橋となるのが「露店」の役割なのかもしれませんね。



東努
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いまどきの彼氏彼女の‘別れる理由’②

Posted by ななし on 27.2016 記事 1 comments 0 trackback
しかし、先日露店であった女の子の‘彼氏がきりだした別れる理由’は全然違った。「今はもう恋愛を楽しんでいるばあいじゃない。おれは成長しないといけないから分かれようと思う」といって海外へいく計画を練っているのだという。そしてその言葉に彼女自身、なんとか役に立ちたいと思いながら、なんでやに立ち寄ったのだというのだ。なんとも最先端な‘別れる理由’ではないか。(ちなみにこの話、勉強店でもしたのですがその場にいた男の子2人とも俺もそうや~っていってました。)

男の子たちが壁に立ち向かうことに目覚めることで、女の子たちも役に立とう、より深い充足を与えようとする役割欠乏が生起するとするなら、‘とりあえず、なりゆきでできちゃった彼氏彼女’を超えた‘男女充足の再生’が始まりつつあるということではないだろうか。

なんでや露店の可能性は‘何となく感じる「楽しそう」とか「おもしろそう」とか「いけそう」とかっていう感覚を確かめる’(64075)≒現在肯定に止まらず、‘目先の楽しみだけでは本当に充足できない事にも気づいて’(64169)いる若者の潜在思念をも直撃し、彼らが無意識に捨象している閉塞の突破口≒未来をも示してやれるところにあるのだと思う。



山澤貴志 
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いまどきの彼氏彼女の‘別れる理由’①

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
露店で聞く若い子たちの彼氏彼女関係が長続きしない理由は、どうも束縛とかじゃないみたいだ。男の子と女の子の意識のズレ←オスメスのアイデンテティ(役割欠乏)の違いに注目してみたい。

>話せると思ったのか座り込み、「今が楽しければいい」といいきる。でも「なにが今一番面白い?」には言葉につまり、沈黙の後に「今探してる」とポツリ。64169

充足基調の若者とはいえ、みんな不全を捨象し続けているだけではもう続かない。露店にくる若い男の子たちと会話していると「飛び出しただけでは立ちはだかったままの壁」に戸惑っている若者の心の揺れをすごく感じる。「やりたいことが見つからないのはなんで?」「勉強が面白くないのはなんで?」闘争存在である男の役割欠乏はどうしても「楽しければそれでいい」と断定できない。

それに対して、女の子の方は、
>かけひきとか、束縛とかってめんどくさいし、そんな関係を頑張って築くくらいなら、仲間といた方が断然楽しい! でも、なんか不安・・。“私は”これで楽しいんだけど、みんなは?って感じ。64280

サル・人類史を通して、闘争課題は男達に任せ、男たちの不全を解消するために徹頭徹尾‘まわりを充足させる存在’である女の子たちは、「壁」を対象化することよりも充足をより深めることが課題。さらにみんな不全がまだはっきりとした形を示していない現在は、充足が絶対化している。しかしこの充足絶対の行動規範はみんなはこれで楽しいのかという不安も産み出し、それは仲間には切り出せないという充足金縛り状態をつくりだしているのではないか?(ex‘これかわいくない?’とみんなに確認してないと安心できない・・)恐らくこの不安すら女の子たちは捨象しているのだろうけど。→64001、63894

しかしいくら充足基調とはいえ、女が充足存在となったのは、壁を前に闘う男達を充足させるため。だから、いくら‘かけひきや束縛はめんどくさい’とはいえ、男女充足がないのは充足存在たる女のアイデンティティ(役割欠乏)が満たされない。この‘自分がたのしいだけではなくみんな(特に闘っている男達)をたのしませたい’という役割欠乏が潜在的にある限りいくら性闘争や自我が衰弱したといっても男女が引き合う必要性はゼロにならない。

さらには‘充足金縛り状態’で蓄積する‘不安’もあって‘とりあえず、なりゆきで’彼氏彼女もはじまるのだけれども「立ちはだかったままの壁」に戸惑っている男の子には‘ものたりなさ’も感じてしまって、別れる理由は‘頼んない’となるようだ。



山澤貴志 
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「踊る大捜査線」がヒットしたのはなんでだろう?

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
露店で出たお題「ドラマ・映画『踊る大捜査線』が流行ったのは何故か?」について考えてみたいと思います。

■会社を辞める若者の心理

 一つのヒントは、主人公の青島刑事にあります。
 彼は元サラリーマンです。IT関連企業で営業マンを3年やってきたのですが、企業組織にも、仕事にも意義を見出せない。
 そんな彼が選んだのが、社会的意義があるであろう警官・刑事という職です。会社を辞め、3年間交番で一警官として下積みをし、いよいよ念願かなってヤル気満々、刑事という職についたわけです。
 つまり、「脱私権集団」、「私権課題からみんな課題へ」という若者意識が主人公の背景にあります。

■序列原理と私権課題で閉塞した既存集団

 しかし、そんな青島刑事が直面した警察組織の現実は彼の期待を裏切ります。

 せっかく自分たちの担当区域に事件が起こっても、捜査を仕切って手柄を得るのは本庁の人間。現場にいる自分たち所轄署の人間は言われるままに動くことを強要される。企業で言う「本社・本店」と「支社・支店」の関係そのままです。青島刑事が抜け出してきたはずの企業組織と同じ序列原理の現実に、彼は落胆します。

 また、上に立つ上司たちは、自分の昇進試験の勉強や、自分の健康検査の結果などでアタマが一杯で、事件の捜査など眼中にない。
 青島刑事が憧れていた、みんなの治安を守る統合組織。その一員たちのアタマには、私権課題、自分課題しかなかったことを知って失望します。

 つまり、「既存序列集団の閉塞」、「統合階級の閉塞」という組織論がもう一つのテーマです。
 青島刑事は、このような状況の中で、刑事に期待されているはずの課題と閉塞した集団原理の間で悩むことになります。青島刑事と対立していたエリートキャリアの室井刑事も、青島刑事に強く惹かれていきます。しかし、最終回、青島刑事は現場で発砲したことを咎められ、降格処分を受け、交番勤務に戻ってしまうのです。

■社会状況とのリンク

 ところで、このドラマが放映開始されたのは1997年1月です。
 この前年の1996年には自己破産急増、親がパチンコ中の車内幼児死亡、O-157食中毒事件、薬害エイズ問題、住専処理問題がありました。
 1997年には、企業倒産過去最高、大企業・生保・証券会社・銀行の破綻連鎖開始(ヤオハン、日産生保、拓殖銀、三洋・山一証券)、動燃の爆発事故と、まさに「家庭」も「企業」も「国家」もガタガタを示す大事件が相次いだ頃です。
 
 「踊る~」は警察組織の描写が企業のそれを彷彿させるので、サラリーマン刑事ものという呼ばれ方をされるくらいですが、多くのサラリーマンやOLが自分たちの勤めている職場と重ね合わせたり、連続する官僚的組織の不祥事を思い浮かべながらこのドラマを見たのでしょう。
 「踊る~」はもともと既存の刑事ものと違って、派手なカーチェイスも銃撃シーンもほとんどありません。無敵のヒーローも出てきません。
 しかし、「集団はガタガタ」「みんな不全の高まり」という社会状況とのリンクが、たった11話の(どちらかといえば地味な)テレビドラマを、後にいくつものスペシャル版と、二つの映画版を生み出すヒット作に成長させたのではないでしょうか?


阪本剛
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若者の就労意識の変化

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback

私も、「若者の就労意識」の変化に注目しています。次代の活力源を読む上で大変重要だと思います。


細かい点ですが、『7・5・3離職』とは、新卒採用で正規雇用された学卒就労者のうち、(1年未満ではなく)3年以内に離職する割合が、中学卒では7割、高校卒で5割、大卒では3割になることを言います。

※参考
平成15年版 国民生活白書リンク
(元データは厚生労働省の調査による)

ここ15年ほどの離職率の推移を見ると、90年代から増加傾向に転じているが、(私が見聞きする実感から言えば、もっと増えているように思っていたのだが)目だって増えているというほどでもない。ただし、2000年以降の数値を見る限り、不況にも関わらず、今後も離職率は増加すると予想される。


上記の離職率の数字にあらわれないものとして、最近、いわゆる「新卒フリーター」がかなり多いといわれている。私が仕事で関わっている某私立大学でも、卒業後就職を希望しない学生が年々増加し、3割に達したそうだ。どの大学も、学生の就職への動機付けにやっきになっているが、学生の意識との断層は広がるばかりのようである。

新聞やテレビを見ていると、フリーター増加の問題は、不況→企業の新規採用の抑制の要因が大きい、と分析されることが多い。もちろんその要因もあるのだろうが、市場が縮小過程に入っている現在、景気云々をいっても展望がない。あらためて、若者の「仕事」「就労」に対する意識の側から、変化を仔細に読み取っていく必要があるのだと思う。




岩井裕介
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「なんでだろう」は日常を変えていく

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
61967 斎藤氏 
>露店での、店主とのやり取りや、気付いたこと、耳にしたことを持って帰って会社の仲間や上司とやり始めたら、今の日常が変わっていくかもしれない・・・・・こんな可能性を感じています。 

 「”答え”とは、可能性の起点となるもの(61028 )」にあるように、露店で得た「何でだろう」という疑問や、その答えとなるものは、その場だけで終わらずに気付いてしまった以上、継続して作用し続けるように思います。考えてもいなかった当たり前と思っていたことへの疑問だけでも日常を変えるきっかけになる。疑問を持てば、より気付きやすくなる。

 脳には、インプットされた内容(疑問や気付き)に基づいて、潜在意識下でも探索をし続ける機能があるそうです。たとえば、目をつぶって「身の回りにある赤い色のものはいくつあるか?」ということを思い描いてから、目を開けます。そうすると、脳は今までは意識しなかった「赤い色のもの」を無意識に、高速で探索し始めます。まさに目に飛び込んでくる感覚です。

 同様に、身の回りのことや社会についてインプットされた「なんでだろう」や「可能性の起点となる答え」は、本人が意識するしないに関わらず、その答えや新たな「なんでだろう」を探し始めているように思います。たった一人の中でもそういった変化が起きるのですから、それが相乗効果的に周りのみんなに広がっていけば、その場そのものが変わっていく可能性は充分にあるはずです。そのために必要なのは、たった一言でも「なんでだろう」という質問や答えに触れることと、それを誰かに伝えることだけなのではないでしょうか。 



浅野雅義
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「答え探し」の潮流

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近、私達の農園へ「農業研修」や「農業体験」の為に訪れる20代の若い人達が増えています。
動機、目的としては農業に就きたい、或いは、環境や自然、食や安全を考える為に農業の実体を体験したい、という内容が多く、また、農業に就きたい、のも農業を仕事にしたいと言うより、農業を通して、環境や自然、食や安全の問題を考え、その解決に少しでも貢献したい、という潜在的な意識が働いているようです。

そして、彼(彼女)らの大半は、ボランティアで発展途上国へ行った、森林ボランティアに参加した、子供達と遊ぶサークルを運営している、など、何らかの活動に参加しています。

「何故、農業体験やボランティアに参加するのか?」を彼らに聞くと、
「体験したり参加したりする事で、知らない事、わからない事が感じ取れたり、見えてきたりするんじゃないかと思う。」と言う答えがよく返ってきます。
そして、その為にいろいろな活動に参加するのだけれど、なかなか「感じ取れない、見えない・・・」だから、次から次へと違う活動に飛び込んでいく、というのが、現実のようです。

以前であれば「農業体験や研修、ボランティア」の動機、目的は「おもしろい体験をしたい」「やりがいのある活動や仕事をしたい」等、結局は「自分の充足」「自分探し」と言うような動機が多かったと思います。

しかし、最近は「みんな不全⇒みんな期待」を感じ取り、その為に「答えを得たい」という意識が極めて強くなってきていると感じます。

「答えを得たい」という「答え探し」=「答え収束」の潮流は急速に顕在化してきていると思います。



丸一浩
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”答え”とは、可能性の起点となるもの

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
学校の勉強で”答え”といえば、その先は何も無い(それで終わりの)もののようにイメージされますが、事実認識でいう”答え”とは、そこから色々なことが考えられるようになる、可能性の起点のようなものだと思います。

一般に、対象の構造が少しでも分かってくると、ますます面白味を感じたり、いくつもの実現可能性が見えてきたりしますが、それも”答え”による充足がさらなる欠乏を生んでいるという事だと思います。そこでの「分かった」という感覚(統合感)は、次の更なる充足可能性とセットで与えられるように思います。

現代にあっては、答えになっていない答えが多過ぎると思います。だから、求めているものが”答え”である、ということが見えにくくなっていますが、共認社会への潜在的な条件が整いつつある現在、”答え”による充足可能性に気づくことが出来れば、大きな力が生まれてくると思います。



馬場真一
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共感を探している時こそ、当事者となっている時

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
>割り箸が森林破壊の根本原因であり、割り箸を使わないようにすればいいんだと納得している子供たちは何人いるのだろうか。"my箸"を持ち歩く一部の運動団体以外は、皆なんかヘンと感じている。 (60424)

また、一方で木を木材に加工する際に生じる屑を、捨ててしまうのはもったいないから割り箸としているという人もある。(資源有効利用?)

ちょっと考えれば何かへんだと分かるにもかかわらず、"my箸"を持ち歩く一部の運動団体にしてみれば、それをすることで環境破壊に対して貢献していると自分の中では思えるという自己満足でしかない。

環境問題は誰もが答えを出せない(現状では)大きな未明課題だということは、みんな分かってる。であるからこそ、「わたしは~をやってます。」だとかいうことでは、普通の人にとってその場では「ふーん」とは思うが共感できるわけも無く、納得もできない。

環境問題は本当に大きな難しい問題だと思うが、どこか問題が大きすぎて傍観者になってしまっている状態なのかなと感じる。でも、よくよく考えてみると、「環境問題」という言葉自体を知らない人はおそらくいない。ということは関心はありながらも、みんなが共感できるようなモノが今は無いだけなのかもしれない。

共感できる答えを探すということは、みんなで考えることに他ならない。そこから生まれた答えだからこそ、みんな(普通の人)が当事者となれる。

これまで、当事者とは、「わたし(俺)は~をやっている。」ということだと思っていた。でも何か違う。一見自分の意見が無いみたいだが、「皆はどう?」というこのスタンスこそが、共感(答え)に繋がっていくのだと思う。



倉橋利弘
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思考停止というブレーキ活動

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
60205西知子さん
>それよりも、何をどう考えたら(したら)いいのか分かんなくなってどうしようもないとき、何にもしてないのに疲れる。

 これはたしかにあります。ちなみに、何にもしていないように見えるときも、脳活動的には「あることをしない」あるいは「考えない(捨象する)」という活動を潜在的に行っています。つまり、「しない」、「考えない」という『対象に向かわないという活動』を必死に行っている状態ともいえます。それは同時に、本心では根本の課題や不全・問題に取り組んでいないという罪悪感や不全感を生起させ続けている。たしかに、これでは疲れるわけです(まさにブレーキとアクセルを同時に踏んで動いてないような状態)。

>閉塞感も疲労感も、考えられないから起こるんじゃないかな。 

 多くの人は、日々、経済や教育や家庭などの領域における様々な問題を感じている。そして、既にTVなどの代償充足では、その不全感はごまかせないということも顕在化しているように思う。そこまで気付いていながら、「何もしない(今のまま・保守)」「考えない(対象化しない)」というブレーキを踏み続ける事はさらに大きな疲労感・閉塞感を生み続けるような気がします。思考することよりもしないことの方が疲れるならば、せめて少しでも前に向かって進みたいと思う。



浅野雅義
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”何もしない”→これは単なるストレスを超えている。

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback

>それよりも、何をどう考えたら(したら)いいのか分かんなくなってどうしようもないとき、何にもしてないのに疲れる。(60205)

小学生にいたるまで若者がやたら疲れるを連発する。
通勤車両では見渡す限りぐったり寝ている。

確かに現代人のストレスの正体は”何もしない”にあるように思います。
一般的にはストレスという言葉で片付けられる現代人に共通する疲れの正体は課題があっても考えられない、考えてもしかたない、考える事すらしなくなる。要するに何もしないのである。

人間ってサルから進化する過程で何より脳を使ってきた動物である。いかなる課題も脳を使う事で克服しサルの何倍もの脳を作ることで可能性収束してきた。
逆に言えば犬や猫のように何もしない、何も考えないという事は元来進化してきた本能に逆行しているし、通常時ではありえない事。真っ白い部屋に閉じ込められて数時間もすれば狂うというくらい人間とは無為でいることはできない存在なのだ。

それが課題を前にして皆が何も考えない、考えられないという状況は単なるストレス以上のものなのだと思う。人類史始まって以来とさえ言えるかもしれない。

どうしてそうなってしまったのか?

問いもない!答えもない!有るのは違和感だけ。この大きな大きな壁に早く気付き、一日でも早く一人でも多く人類始まって以来のこの蟻地獄のようなストレスから抜け出してほしい。抜け出す為の仕組みが必要な事に気付いて欲しい。
それは決して一人では抜けられないことも。




田野健
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事実が知りたい

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日、書店の環境問題を扱ったコーナーで、一生懸命に本を探している女性(20歳くらい?)がいました。
あまりにも熱心に探しているので、声をかけてみました。
「環境問題の本を探しているのですか?」
「はい。」
「勉強しているの?」
「いいえ。・・・ちょっと、読んでみようかな、と思って・・・。」

学校の授業か何かで、環境問題を扱っていて、課題でも出ているのかと思っていたので、特に差し迫った理由も無く環境系の本を探していることに少々驚きました。

しばらくの間、この事について考えてしまいました。一つの例に過ぎませんが、もしかしたら普通の子が普通に生活していて、普段耳にする環境問題について、どんなものなんだろう、どんなことが起こっているのだろう、と考え始めることは、ごく自然のことなのかもしれません。

環境問題の原因はこれで、だからこうすべきである、といった安直な答えや実践に走る前に、先ずは自分で見て探して考えてみたい、事実が知りたい、というのが、当事者欠乏の高まりの中から最初に出てくる探索過程のように思います。

農業についても同じで、今まで良く分からなかった農業、食の安全が問われ、また、田舎で、自然を相手にしていると思われる農業というものについて、実際に現場で体感してみたい=知りたい、というのが、現在の主流のように思えます。

こうして考えると、高まる当事者欠乏(≒物足りない思い)が、先ずは事実を知ろうとして対象に迫ってゆくという形で現れて来ているように感じられます。



馬場真一
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なんかヘンなのは共認支配されてるから。

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
なんかヘンっていう感覚って、単に環境破壊が進んでるとか経済が回復しないとか若者の規範が乱れてるとか、そういう社会現象そのものに対してはあまり感じない。それよりも、そういう現象に対してマスコミがありきたりな解説を一方的に繰り返したり、「社会問題」なるものにとりくむ市民団体の活動が注目されたり、そういう一部の人たちが主張していることがあたかも可能性があるかのようにまかり通っていることが、ヘンだと思うし、いらいらするし、閉塞感を感じる。

>この「スッキリした。」を引き出す言葉も、決して何らかの「主張」でも「価値観」でもありません。「なんかヘン」「何でだろう?」と感じることの答えが見えた時=事実観念でそれが構造化された時です。普遍的事実もまた、(「スッキリした。」という)普遍的実感によって裏付けられるものなのでしょう。59379 田中さん

「スッキリ」って、壁の正体が見えた感じとか、可能性が開けたかんじとか、実現できそうな気がするとか、そういう感覚かなと思う。自分の意識とか考えが整合するというだけでなくて、一握りの人たちにだけ通用する認識ではない、だれにでも共通な認識に気付いたという感覚。


いまの人々が抱えている不全とか閉塞感って、いろいろ問題があるのに気づきながら、なんとなく間違った方向に進んでいる気がする、でもどういう風におかしいのか、何が原因なのかよくわからないという感じだと思う。そこで感じる「なんかヘン」という感覚をすくいあげてつなげていくこと(普遍化すること)で、閉塞の元凶はマスコミの共認支配であるということが鮮明に見えてくると思う。



加来野浩史
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うやむや中毒

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「うやむや」の大御所が「旧観念」って考えるとテレビも新聞もネットも学者も政治家も全部つながる。僕らが情報を受け取るツールはうやむやだらけになっていることも明白。
 この「うやむや」を真っ向から切ることが今求められてるんだと思う。(59165)

「有耶無耶」:物事が有るか無いかはっきりしないさま。
       また、態度や物事の始末などが、あいまいなこと。
            (小学館 国語大辞典)

平川さんのおっしゃるように、朝から晩まで「うやむや」に浸りきっているような気がする。
そこには「誰かが何とかしてくれるだろう。」という気持ちがつきまとっているのだろう。

新聞を読んだり、テレビをみていても何もすっきりしない。何か後ろめたさを感じている。

「うやむや中毒」にかかっているまわりにも自分にも腹が立ってくる。
この辺でたち切らないと、「中毒」では済まなくなる。

「うやむや」をひとつひとつたち切るために、ひとりで悩むのではなく皆で共同作業していける場として「交流会」が開かれている。




匿名希望
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課題共認が命なら、課題を常に問い直すことは不可欠

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
昨日、「出世してしまったから(出世がイヤで)会社を辞めた」と言う女の子に会いました。興味があったので話を聞くと、以下のようなことを話してくれました。

その子はすごく明るくて感じ良い子で、以前は子供服の販売をしてたそうです。
「性格がいい→お客さんのことを考える→売上が伸びる→責任ある仕事を任される」という、ある意味理想的な、日々の期待・応望充足と真っ当な評価を得ていたのですが、責任者の立場になって、売上至上主義の疑問と矛盾を無視できなくなったと言っていました。
そして、子供服の販売という課題を見つめ直したら、子供そのものを対象化することになり、今は一から保育士の勉強をしてるそうです。

>「ノルマ」や「(自分の)金」という私権の(古い)価値観が、当事者みんなの価値意識に塗り替えられていくというパラダイムの転換の様を表している事例だと思いました。

若者の特徴として、「やるからには何でも楽しんでやる」という意識があり、またその方法論が「自分課題からみんな課題へ」と昇華させてしまうというところにあるのは可能性を感じますが、根本の疑問を捨象して与えられた課題を楽しむだけでは、目先派(58019)に陥る危険性があります。

課題を楽しんでる人にこそ、その課題の根本を問い直す場が、仕事の場と並行して必要だと思いました。




西知子
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統合不全と共認不全の社会状況がもたす少年犯罪

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
私権社会の統合軸が崩壊して、それが我々にもたらした共認不全(私権獲得のためばらばらにされてしまった個人個人の無関係、傍観者意識)と統合不全(私権統合という軸も自ら崩壊させてしまったことによる先行き不透明感)

長崎の幼児誘拐殺害事件で殺された幼児の同じ年頃をもつ親としても、人事では済まされないものを感じます。

もっとも気になったのは、この事件を担当した警察官の言葉です。
「一つの事件が解決したとは感じれらない。なんともやりきれない感覚がのこる」というものです。

普通の子供が普通の子供を誘い殺す。法的に裁く裁かないに関わらずこの警察官の言葉は、「どこか、何かおかしい」ということを潜在的に看取しているように捉えられた。いままでは、法制度で裁かせることが、役目であった警察官が、それで裁けないという社会統合上の不全を感じるものと、少年犯罪の低年齢化は、警察や学校、家庭といういままでの社会システム上では、なんら、解決できないことを看取した言葉なのだろうと思った。

この事件は、「どこを向いていいか分からない」という子どもたちの悲鳴(統合不全)と、家庭や社会や学校や地域や仲間達の関係の中で、分かち合えないという苦痛(共認不全)の双方を感じる。

観念と共認の同時不全が子どもたちの精神を蝕み、性格欠陥児を生んでいるのは、疑いの余地がないと思う。みんな傍観者であり、無関係であることが生んだ最悪の事件のように思います。

家庭や学校、仲間達の単一集団を超えて考えなければ、もう答えはでない。その原因が社会構造そのものにあるからだ。警察官の言葉が、訴えかける背後にある焦燥感はそのためだと思う。

市場が崩壊する前に、人々の精神が崩壊する。社会状況は予断の許さない状況になってきているのを痛感した。
 




近藤文人
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私権の強制圧力とは強迫観念の生成装置

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback
私たちは、例えば「言われたことしかやらない」とか「無理やり言われたとおりにやろうとして逆に問題をおこす」など、しばしば「擬似強迫神経症」と思しき場面に日常的に遭遇します。これらは、「言われたこと=指示されたこと」が半ば強迫観念化して、その場その場の状況判断を捨象した硬直的な言動に駆り立てられている事例だと思います。

 この視点を少し拡大して身の周りを眺めてみると、交流会などで「行き詰まっていない」とか「何とかなる」とか「過去の原因より先の話が重要だ」などと言っては楽観的主張を何度も繰り返すだけの人たちにも、似たような臭いを感じます。彼らに共通しているのは、「目先のことしか見えない」あるいは「頭がガチガチ」ということかもしれませんが、それは、所謂‘観念的タイプ’とは違っていて、難しい話を敬遠しては追求ムードに水を注し、ひたすら目先の課題に没頭したがっている風に見えます。しかも、この手のタイプは、全世代にまたがって結構大勢います。

 これは、「固定観念」と呼ぶよりも「強迫観念」と呼ぶ方がふさわしい感じがします。

 もともと私権時代とは、「勉強しなければ・・」「仕事をしなければ・・」「命令には従わなければ・・」、さらには「景気は右肩上がりでなければ・・」というかたちで課題を強迫観念化し、その枠内に人々を囲い込んできた時代です。別の言い方をすれば、私権時代とは、期待や課題を狭い枠組みの中に押し込んで固定化・絶対化することで、万人を社会的な強制圧力の奴隷にしてきた時代です。

 ここからは、私権の強制圧力とは強迫観念の生成装置になっていたことが伺えます。しかし、私権の強制圧力が見る影もないほど衰弱してきているのに、期待や課題を強迫観念的にしか捉えられず、その結果、目先のことしか考えられないでいるのは愚かなことです。この点は、あと一押しすれば気付いてくれる人も、逆に多いのではないかと感じます。




土山惣一郎
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繋がる充足が警戒心を上回る

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback
同感です。
単に自分を表現したいとか、自分に注目して欲しいのではないのだと感じます。
以前公園で見たのですが、一人の若者がダンボールに大きな文字で「ひまです。何でも相談に乗ります。話をしましょう」と書いて地面に置き、座っていました。
通りかかった20代の女性二人が足を止め、同じように地面に座り、話し始めました。
話の内容は聞き取れなかったのですが、自分の思いを主張するのではなく、ただ相手の思いを聞き、自然に話をしているように見えました。


初対面のもの同士が装飾しない生の自分をさらし、警戒心なしでいきなり話し合えるというのは、旧世代では有り得なかったことだと思います。
いかに実物以上に自分を見せるか、そんなことが旧世代にとっては大切なことだったように思います。

周りと繋がる事こそが充足であり、自分と周りを区別することが意味を持たない、そんな関係が当たり前になって行くのだと感じました。




新川啓一
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規範なきマナーの氾濫

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近何かにつけて公共の場での「マナー」の必要が声高に言われ、街を歩けば様々なところでポスターやアナウンスが訴えかけてきます。シルバーシートや電車内の座り方から携帯の電源OFFなど・・・なるほどもっともな気がしますし、多くの人も自然と受け入れています。が、何か引っかかるものがある、という意見も交流会の場では意外と多く出てきます。

戦後、豊かさの実現と個人主義(自分主義)の浸透で、地域共同体や家庭などの規範の共認域が次々に解体されてゆきました。そんな中で「人に迷惑をかけない限りは自由」という、そもそも何が迷惑かもよくわからない身勝手な規範(?)がまかり通るようになります。さらにそれが「迷惑だと“思う”ことは規制すべき」となり、個々の価値観にてらして目に余る(不愉快な)事柄を個別にルール化、禁止してゆく流れがいまの「マナー」問題?ではないでしょうか。

この背景には全体の視点、「みんな」という意識の欠落があって、個人の都合や好き嫌いと声の大きさで「みんな」不在の価値観がルールとして共認される流れがあるような気がします。

元来「規範」は、みんな期待から課題・役割・評価が共認され、その集団の中で明文化されずとも皆の意識・行動を律するものとして共認されてきました。個の都合でなく共通の課題の下に集まった人たちの共有意識ですから価値観が入り込む余地など無いはずです。この点が最近のマナー意識(規範らしきもの)に感じる違和感なのではないでしょうか。

みんなが集まりそれぞれの意識を重ね合わせ共有してゆくと、このような「?」がいろいろと出てきそうです。自分とか自由という観念を取り払って、個別の価値観を超えた「みんな期待」をめぐる議論の場が普遍的な規範形成の土壌にもなってゆく。認識交流の場にはそういう働きもあるだと感じます。



阿部和雄
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あらゆる人を巻き込んでいく

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback
学生の中でも、社会人の中でも「社会人」に対して肯定的なイメージを持っている人もいれば、否定的なイメージを持っている人もいる。

殆どの人は、「あらゆる人を巻き込んでいく事」に関しては、かなり肯定的なイメージを持っている。営業であれば顧客先を、技術職であれば末端の技術者を、社外の人間だけでなく社内の人間をも巻き込んで、実現に向かっていく事に関しては、かなりの可能性を感じていると思う。

単純に学生から社会人になるとは、「巻き込める人が格段に増える」と考えられれば、社会人に対する憧れを口にする。学生という枠の中で閉じた人間関係しか形成したことが無く、「巻き込んで行く」ことは、社会人になっても不可能だと思い込んでいると、否定的な言葉しか出てこない。

大多数の人が巻き込んでいける人間が増えることに可能性を感じているのに、閉塞感のある人間関係(の中での仕事)しか提示できない企業に最大の欠陥があると思うのだが。



小暮 勇午
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病に倒れた「彼」から教えられたこと。

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
1ヶ月ほど前に、友人の父親の荷物整理を手伝った。
わけあってアパートで一人暮らしをしていた60過ぎの彼は、実家に帰省中、突然脳内出血で倒れたそうだ.
狭く古ぼけた風呂なしアパートの部屋は、おびただしい数の書物で埋め尽くされていた。
私は、それらの書物を数10箱のダンボールに詰めながら、その数にただただ圧倒され、同時に芽生えた複雑な思いを、その理由も突き止めぬままに忘れようとしていた。

この間の「おじさん論」を読んでいて、この「彼」が次第に思い出されてきた。おそらく彼も、家庭や職場である建築現場(溶接工をしていた)で見かければ、ここで言われているようなおじさんだったのだろう。反面、あそこにあった本の山には、中高年の方々の「最近の若い奴らは。。。」という言い分は実は私が思っていたところより、実はもっと深い所に位置するのではないかと気付かされた気がする。

そこにあった書物、すなわち、仏教・キリスト教から近代宗教を網羅した宗教関連、古代文明あり三内丸山遺跡のグラフありの歴史本、対アメリカ・対韓国・対中国などの国家間問題書などなど、思考&嗜好的に偏ることなく万遍なく書棚に納められていた書物の山はるいネットの史論版を彷彿とさせるものだった。
同時に全てを読破・熟読していたらしき手垢の跡からは、到底まねのできないものとして私の理解を超える形で記憶に残っていたのだ。
今、改めて考えてみるとそれは、'60年代後半までの、貧困という「みんな不全」を克服した後、「みんな不全が一瞬消え去った30年」を生きていく中で彼なりに感じた不全感を、なんとか解明したかったがためにあがいた痕跡だったのだろうと思う。
あのアパートで私が感じた複雑な思いとは、彼の飽くことのない追求力・探究心とその結果得られただろう知識、つまりはその人が身にまとっている「中身」のすごさ、そしてその「中身」を使う場がなかったむなしさから来ていると思われる。そのむなしさの結晶が私がダンボール詰めにした書籍の山だったのだ。

「彼」の事例はかなり特殊なのかもしれない。
だが、この30年の「みんな不全」消滅期間を「なにかおかしい」と考えながら生きてきた中高年層は多いのではないか。
そしてそれに応える「皆が集まり、社会について考える場」がなかった時代ゆえに、その追求力・探究心の持って行き場がなく、結果としてあたかも他人の意見を聞く耳をもたないような中高年層が多いように見えるだけなのではないだろうか。

仮に「彼」が元気だったと仮定して、交流会に誘うとしたら、じっくり時間をかけて「皆が集まり、社会について考える場」が成立しえた時代背景を説明し、「彼」の疑念にも似た「最近の若い奴ら。。。」という意識を融解していくことから始める必要があると思った。



大森義也
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伝えるためには

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
>きっと、会社に残り続けるプラスもあったろうがマイナスの方が勝っていて、かってのような「石の上にも3年」我慢の処世術など何の効力もないのだろう。

私の友人も大学を卒業後、ある企業に就職し、わずか1ヶ月でそこを辞めました。

営業職として採用された彼は、訪問販売のようなことを朝から夜遅くまで毎日やり続けたそうです。ところが彼は、営業成績、いわゆる「数字」が出せず、営業所の上司に呼びつけられてこう言われました。「おまえは入社してからもう二週間が経つけど、いまだにひとつも数字が出せていないじゃないか。同じ同期入社のやつでも、もうすでにいくつか契約とってきてる者もいるんだぞ。おまえはそういうやつらと同じ給料を貰おうとしてるんだ。」

そう言われてからさらに二週間程した日、あいかわらず数字の出せなかった彼は辞めるかどうかの決断をせまられ、考えこんだ末に退社しました。

>いい会社に入って、自分の生活を犠牲にして働く、そして出世したやつが、機会に恵まれ、メリットを受け、欲しいものを得る。これが企業間競争の了解事項だと言って引き止めても、特定の企業のなかでしか通用しない感覚と論理ばかりが肥大化した企業では、自分が日に日に腐敗していくのが耐えられなかったということだろう。

意味の見出せない仕事でも、自分が欲しいものを得るために驚くほどの活力をもって働く同期社員が不思議に映ったそうです。

そもそも友人は、その企業の扱っているモノ(サービス)にそれほど可能性を感じていたわけではなかった。しかし、社会へ出て働き、金を稼がなければという強迫観念と、就職難という状況のなかで、唯一自分を採用したその会社の業務、考え方に対して無理に自分を納得させていたように思えました。

仮に表層的に演じることはできても、魅力を感じないもの、こんなことは求められていないと思っていることを仕事だからといって人にすすめてみたところで、相手もそんなものには見向きもしないはず。人に何かを伝える、すすめるときはまず、伝えるその人が本当にそれの必要性を感じているということが大前提でしょう。実感からかけ離れた言葉をいくらきれいに並べてもどこか胡散くさい。

魅力や可能性というものは、強迫観念や押し付けによって感じるものではない。「みんな」を対象化できたときに自然と、何が必要かどうかの判断ができてくると思います。そのなかで、必要性を感じたものを伝えていけばいいんじゃないでしょうか。当事者が発信する情報なら誰もが求めているはずだし、魅力的です。



北村喜裕
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おとこの存在理由欠損が露になってきた

Posted by ななし on 06.2016 記事 1 comments 0 trackback

実現論2_1_06
>存在理由欠損を原点とする女の共認回路は、外圧が強く従って集団収束力が強い時には依存収束を強め、首雄や仲間の期待(=集団の役割規範)に応望収束して、集団の期待=役割に応えるイイ女を作り出す。女の性機能は、真猿以来その様にして形成されてきたものであり、またこの応望収束の強さこそが、順応性や肯定性という、男には無い女の秀れた資質を生み出してきた。・・・・・・・・>

 上記の実現論を踏まえて、今の女性の社会進出を捉えると、原点の存在理由欠損が、いきなり、社会(=人々との繋がり充足)と直結したような勢いを感じます。それ故に、決まったスタイル、観念に固執しないし、どこにでも進出していく強さがあるのだと思います。

また、56192
>今まで旧いものを壊して変えてきた現実だけど、散々壊した先には何もなく、それで行き詰っているのが今の現状で、やっぱり新しい統合様式が必要。それには男の人の力が絶対必要。だから怖いもんなしみたいな女も実は自信がなくなってきたんだと思います。>

 皆さんが指摘するとおり、男性は、旧い集団・規範・観念に捕らわれているのが実態です。人類史的に見ても、これほど男の存在理由欠損を孕んだ時代は初めてなのではないでしょうか?
 それを満たす課題が次代の"統合様式"を創るということならば、かつて、女性が全存在をかけて応望収束したのと同じぐらい強力な期待と圧力がかかっていくと思います。



鈴木康夫
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女も転換しなくっちゃ

Posted by ななし on 05.2016 記事 1 comments 0 trackback
女が元気なのは、「現実は人々の意識の集合体」だっていうのがよく分かってるからっていうのもあるんじゃないかと思いました。

私権制度の根幹に私婚制度があって(実現論2_3_05)、それをどんどん崩してきた女たちは、意識が制度を変えることもそれが自分たちの力で出来ることも実感しているから、不可能視している人より元気なのは当然です。

ただ、最近女も少し元気がなくなってきたかなって気がします。

今まで旧いものを壊して変えてきた現実だけど、散々壊した先には何もなく、それで行き詰っているのが今の現状で、やっぱり新しい統合様式が必要。それには男の人の力が絶対必要。だから怖いもんなしみたいな女も実は自信がなくなってきたんだと思います。

今までのやり方じゃあそのうち置いてかれるのは女も一緒だと思いました。




西知子
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なぜ、転換できないのか?

Posted by ななし on 04.2016 記事 1 comments 0 trackback
例え同じ会社であっても、バイトの方がいいというのはよく聞く話だ。それに対して、中高年の「正社員になって責任取る事から逃げているだけじゃないか」と言う反論するもよく聞く。

果たして、本当に「逃げているだけ」なのだろうか?

バイトは正社員のように身分、役職が無い。その為、客の期待に応えようという課題が明確で、身分や役職などではない評価ヒエラルキーが形成される。しかも、(バイトなのだから当たり前だが)給料の大小などでは無く、役割が変わっていく(より上位の役割を期待される)事で評価されていく。

若者達は「あらかじめ出来上がったヒエラルキーの中で、私権獲得を前提とした課題を押し付けられること」を避け、「課題を明確に共認し、透明なヒエラルキーの中で評価される」事を望んでいるのだと思う。順番が真逆なのだ。

彼らの中高年に対する苛立ちは、「何でこんな簡単な事も分からないんだ」と言っているように思える。なぜ、今の中高年や既存の企業は、こんな簡単なことを転換できないのだろうか?



小暮 勇午
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中高年が抱える不全感

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
私もおじさんの域に入っていますが、巷を見渡すと確かにおじさんは元気がないように思います。特に40代以上にそれが顕著に表れる。その元気のなさもいろいろのようです。

斎藤さんが例に出した
「かつては、頑張ったら頑張っただけ手に入った」
「生活していけると言う前提があって明るくなれる」
これが最近は頑張っても給料は上がらない、さらに忍び寄るリストラの圧力。こう考えると彼らの元気のなさは自分の事だけのように聞こえますが、それだけではないように思います。

彼らが直面しているのは回りが見えなくなってきている不安感、理解できない若者に対する期待の流産なのかもしれません。中間管理職の年代の彼らが担っているのは企業でも上下をつなぐ要なのです。

私がよく一緒に仕事をする建設現場の所長クラスからこんな話をよく聞く。
>若手社員が思うように動いてくれない、指示はするけど1から10までしなければ動かない。さらに指示した事の確認までしていかなければきちんと出来ているか不安。

どうしようもない。要するにほとんど戦力にならないという絶望感とイライラが彼に押し寄せる。

同じような事を10代の子供を持つ親からも聞いた。
>子供が何を考えているかわからない。
もはや理解不可能。自由にやらせるしかない。と

そのような若者に対して辞めるまで叱り付ける所長もいる。指導を放棄して若手社員の仕事まで自らやってしまう所長もいる。うまくコミュニケーションをとりながら若手社員を引っ張っていった人は数えるほどしかいない。
その傾向が出だした10年ほど前はそれでも若者がダメになったとか昔の俺らの頃はという言い方で少数派の彼らを切って捨てる事ができた。しかし今は明らかに情勢が違う。

若手が育てられない・・・元気が出ない原因はこんなところにもあるのではないか?
子供を育てる、若手を育てるということは自らが手本を示し、期待ー応望の関係を構築でき、社会人としての役割充足を得る。活力という点では根本の事だと思う。
しかし現実は中高年が示す私権獲得の手本に若手は見向きもしない、若しくは表面上は見習っているように装う若者がいても両者の間で常に違和感がつきまとう。叩き上げの建設現場などはそれが顕著に表れる。糠に釘のような状態が続きやがて彼の活力を奪い取っていく。

会話がすれ違う、意図が伝わらないを超えた中高年と若者の間を覆っている共認不全が活力を奪い取っていっているようだ。しかし彼らから聞いた事はない。「若者に見習って自分達も変わらなくては」とは。

若手社員が戦力にならないとぼやいていた所長さんが「気合を入れて変わらなければ辞めさせてしまおうか」と言っていたので、そんな事をしても絶対に彼は変わらないと伝えた。(変わるのはあなたの方ですよ。と喉本まで出かかった)

確かに斎藤さんが言うように「古い私権にしがみついて活力を得ようとしている」己の姿を知らなければ最後までこの世代は変わらないのかもしれない。しかし共認不全に直面し、もがき苦しみ始めているのも実はこの世代の特徴でもあるのだ。
若手を育てる意識を捨て、若者(息子や娘を含む)を理解したい!と思う事。中高年を変える原点はそこからしかない。



田野健
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バイトか就職か、学生のシビアな評価の理由は?

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
今日、知り合いの学生と飲んできました。近況を聞いているうちにバイトの話が出てきました。
 やはり学生には活力があります。彼は焼き鳥屋でバイトしているのですがそこの店長との関係、仕事の面白さ等を目を輝かせて語ってくれる。
 しかしこと就職活動となると「すぐには就職したくない」「海外旅行したりしてやりたいことを見つけたり、経験を積みたい」と言うのです。「すぐ辞める人多いじゃないですか。それに魅力が無い」

「何でだろう?」と思いました。バイトでの仕事の面白さを店長や客との関係(期待応望関係でした)を交え語ってくれるのになぜ社会人となると魅力が無いのか?言うなればバイトの仕事と社会人としての仕事を違うものとして捉えている。でも彼の話を聞いているとバイトだから甘えているという感じは受けない。僕ら社会人と全く同じ構造で充足している。
 ここで思ったのですがキーワードは「脱集団」ではないか。
>専門的とか人それぞれなどの枠組みはもう崩れているのではないでしょうか。多くの人が、その枠組みを越えた「社会に出た(集団を超えた)仲間」として共認されつつある(55520川中さん)

この潮流に対して企業はそうではないという判断をシビアに下しているのか。
>個人や集団を超えた枠組み(社会)の次元にまで課題を昇華させ、その課題に関係する全ての人たちに対して、課題の当事者へと導いていく気付きを与えるような認識を紡ぐこと(50493西澤さん)で、それをどうやって統合していくかということが共認課題になりうるのかな、って思いました。 (55439河野さん)

これはバイトであっても社会人であっても同じはず。
>仕事は一人じゃ出来ないし、みんなが同じ方向を向いてがんばってるから一緒に何かしたいって思えるんだと思った。 今、もっといろんなことを(人も仕事も)知ってつながりたいって思う。(55438嶺山さん)

 これもそう。
もう一つ不思議なのはバイトでそれほど充足しているのにどうも就職先の選択肢のなかに焼き鳥屋は無いようです。一つの通過点くらいに感じる。

 このズレは何だろうか?



平川要
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