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「自分探し」から「居場所探し」へ

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
>親の言うことにリアリティを感じない。加えて彼らの中では仲間収束が強まっている。仲間課題と勉強課題は明らかに対立する。このような親子間の意識の違いが不協和音を奏で始めたようである。私権と自分に収束していた親世代とそれから離脱しようとする若者達の間の一種の世代間闘争の復活である。 (53952北村さん)
私も含め、現在の若者は、私権確保や自己実現といった旧観念でがんじがらめにしようとするリアリティのない「家族」から離脱する傾向にあります。この対立には私たちと親世代の「家・家族」に対する価値観の違いがあります。

『現代の小説の特徴は、物語が「単一の(作者あるいは登場人物が)好きって言う場」で展開し、人物の方は「いつでも交換できるのだ」と理解する。自分の好きな場所さえ確保すれば、招きいれる人間は交換可能かもしれない(中略)これは、父親の世代がもっていた取り替えのきかない、かけがえのない個にたいする信仰の逆である。取り替えのきかないのは場所であって、人物は交換可能だとすれば、これまで「私」の容器であった住まいから、「私」は軽やかに消えかけている。場所があっての「私」であるとしたら、とにかくまず居場所を探さなければならない。』(借家と持ち家の文学史 西川祐子 三省堂)

親世代の私権・自己主義の舞台が「家」であったのに対し、またそうであるために、私たちは家を飛び出して新しい「なかま主義」の舞台を探しています。
現在、私たちが暮らす環境は30年前とは大きく変わっています。
30年前には家という境界、部屋という境界、隣近所や地域という境界がはっきりしていたために、その仕切りの内側(特に部屋の中にいる一人の「自分」)を突き詰めていき、結果として、「社会課題=みんな課題」を捨象しながら「個人」というものに収束していったとも言えなくは無いでしょうか。
しかし、現在私達の世代を取り巻く環境には特にそういった仕切りはほとんどありません。物理的にも、部屋の中でも携帯という仮想空間の中に入り、友人と会話できてしまう。学校、クラブ、塾、街、メル友・・・多様な「場」が存在し、家もその中の一つで、それらにはヒエラルキーが存在せず、それぞれが複雑に絡み合い、溶け合っているような環境で生活しています。道端に座り込んで話したり(53577死奴美沙主さん)、電車の中で平気で化粧を直したりするのもそういった理由もあるかも知れません。
私たちはそうした多様な「場」で生活しながら、路上であったり、学校であったり、仮想空間であったり、「居場所」を創り出そうとしています。そして自分の「居場所」ができたら、その容器には、認識を共有する人が集まり、なかま収束が強まっていくのではないでしょうか。
家族が析出されるのが近代であり、家族の中から個人が析出されるのがこの30年間であるといえるなら、現在は、かつてのように財産と家族を擁した私権主義的個人ではなく、裸の(消えかけている・透明な)個人の集合による社会へと変化しつつあるといえます。裸の私たちは「個人」にとって替わる「居場所」というささやかな尊厳のみを有する新世代だといえます。

そんな中、あの「神戸小学生殺傷事件」の加害者である「酒鬼薔薇聖斗」こと当時14歳の少年が、今年20歳になり、今年中の仮退院の可能性が高まったと報道されています。その事件当時、遺体の一部と一緒に置かれていた犯行声明文には「...透明な存在であるボクを作り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない…」と書かれてありました。
彼は物質的に「人間は交換可能」であると思ってしまったのでしょうか。
透明な(自分探しから離脱した)人間は、その冷めた視線ゆえに現実をきちんと見つめる事が出来、実感を信じて行動できる存在だと思います。
しかしその一方で、彼のように、まだ多くの旧世代が描いている私権主義の白昼夢の中で、もう一つの幻を作り出してしまう弱さ・危うさも持っているのだと思い、彼の周りにあったすべての私権主義(学校、家庭、社会・・・)もまた彼と同罪だと感じました。



塚原渉
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「なんとかなる」という言葉の説得力がとみになくなっている気がする

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
社会人3年生が、就職活動をしていた時期は、2000年の春。
日経平均も1.5万円→2万円へと急回復し、ITやバイオ等がどうにかしてくれる、という期待感が若干感じられた。日経平均推移→ リンク

経済・市場に対して絶望感はなかったし、企業に対しても絶望感はなかった。周りの友達は、なんのかんのいって、とりあえず大企業志向。
「大企業といっても、数年先はわからないよね~。大企業といった枠に拘らなくてもいいんじゃない?」と言っても、“そんな事はあって欲しくない”という願望信仰を崩す事はできず、逆に変わった奴扱い。

そういった雰囲気の中、
・常識を破れ!といっても、その具体内容は何も語られていない。閉
 塞していく一方で、自分達は何が出来るのか。そう言った事を色ん
 な人達と話し合う中で、新しい認識を作ろうとしています。
などと言っても、同世代からは異端視(宗教視?)され、年配層からは書生論と一笑に付されていたように思う。

しかし最近、変わってきた気がする。例えば、「お前が言っていた事、わからんでもない」といった言葉を友達から貰ったり。
「自分(達)が社会を変えられるわけがない」という不可能視は濃厚らしく、自ら参加とまではいかないが、「活力をもってやってるな~」という肯定視に変わってきた感じ。

逆に、歯止めのかからない株価下落に代表されるように、さまざまな社会不全が捨象し切れなくなっているのに、「まあ、どうにかなる」といった態度を決め込んでいる奴(公務員になった奴が多い?)の方が、胡散臭い奴として異端視を受けているような気がする。


佐々木健二
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「先が見えない」の正体

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
価値値観念と身分が一体となっている、この意識構造が最も顕著なのが、官僚や大学教授などの発信階級だと思います。郵政民営化や国立大学の独立行政法人化問題で、最も抵抗するのは官僚や大学教授自身ですが、彼らが抵抗するのは、既得権や身分を手放したくないからです。かつ、彼らは旧観念の発信者であり、旧観念そのものがその特権的身分の商売道具・飯の種となっています。彼らが旧観念を手放さないのは、その特権的身分にしがみついているからです。(54281)

 旧世代が感じる「先が見えない」感というのは、今までの既得権益がこれからも続く可能性は低い、だからといってその既得権益を外した可能性などは考えたくもないといった思考の閉塞状況なのではないでしょうか。
 その一方で、20代は既得権益など無縁だし、可能性も感じられないので最初から収束しない。旧観念とは明らかに異なる方向を向いています。

交流会でも、自身の成功体験からの経験則を語る40,50代に対し、20代は実感レベルから世の中を切り取った発言が多い。
「年金については、自分たちが貰えるとは思えないし、何の期待もない」「インドなどに行くと経済的には貧しいが、精神的な豊かさを感じる。」「期待に応えることと、その達成感が活力になっていると感じる。」

既得権益に拠って立つ不全感からくる発言と、実感レベルで可能性を感じられる方向に向いた発言。こうした視点の違いが顕著な世代間ギャップとなって現れてくるのでしょう。



井草貴浩
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「やりがい志向」が本物になっていくには

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback

>「やりがい志向」に会話が満ちたとき、誰かが言いました。「そういったモチベーションはこれから何十年も持つものなのか。歳を重ねてモチベーションが失われたとき、楽できるのは公務員や大会社ではないか。」私たちはその後、「何十年先の自分なんて分からない。それよりも今のこの気持ちで働くことが重要なのだ。」というような会話が続き、私もまた同感しました。<

この部分を読んで、もし後者の意見のような捉え方が「やりがい志向」なら、それってすごく現実的な志向なのかもって思いました。

前者って今ある現実はこの先もそのままって言うのが基にあって、その前提での自分の気持ちの変化だけを捉えているんじゃないかと思った。それに対して、後者ってハナッから現実は変わっていくものだし、その時その時で、やりたいことは変わっていくのは当然っていう捉え方だと思った。

つまり「やりがい志向」の本質って、ほんとは自分の中にやりたいことを探しているっていうよりも、現実の中でやりがいを感じたい=今のこの気持ちってことなんじゃないかって思った。

ただ、それでも「奇麗事かも」って思うのは、「社会に出てないから」というよりも、「社会は変わるもの」っていうだけで、「変えていけるもの」っていう視点がないからなのかも。それが加わったら、その志向は一気に可能性が開けそうな予感がします。



森本亜希子
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「何でだろう?」は答え欠乏に直結している

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
『「何でだろう?」は当事者欠乏の高まり 53654』を契機にした皆さんの投稿と、自分の実感をすり合わせていくと、巷の「何でだろう?」は、当事者欠乏以前の、人類の種としての適応欠乏から発せられているのではないか!と思った。

 「何でだろう?」は、
何か、これまでの経験則では解決しないような、「得体の知れない」何か。良かれ、と行動してる人がいるけど全く好転しそうにない「じれったさ」。期待できそうな人や対象が見当たらない「もどかしさ」・・・
といった、普通の人の潜在思念と直結した言葉なのでないか?

 「何でだろう?」が流行る裏には、そんな根源的な欠乏が感じられる。
既存の観念では答が見出しえない問いかけに応えるためには、原猿時代の共認機能に遡り、もしくは共感をベースにした課題共認から始めないことには、埒があかない様相。るいネットを知らない人は、こんな認識を知らないのだけれど、それに近い感覚が芽生えつつあるのではないか?
 >不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。(実現論1_4_05)

 「何でだろう?」は、ものの見事に「新しい答え=新しい認識」を欲している、現代社会の普遍需要。普通の人が発する、単純素朴な普遍期待。
・・・これに応えるべく、またまた活力が沸いてきた。



佐藤賢志
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”みんな不全を認め合うだけ”の時代は終わった

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「よく聞く話。またか・・・」とうんざりしていたのです。<
(53855木村明子さん)

これは、かなり新鮮な実感です。状況は変わっているはずです。

確かに「何でだろう?」がない”不全止まり”なわけですが、
どこでも聞かれそうな大人たちの言葉・意識を、
若者や子供たちはどう受け止めているでしょうか?。
週末のテレビで、一週間の出来事を垂れ流して、出席者が感想を言うだけの番組を思い出したら良いと思います。

「人事のように愚痴っているだけ」?
「そんなの聞き飽きた、おもしろくない」?

これからは、”みんな不全”を認め合うだけでは振り向いてもらえない段階に来ている気がします。
”みんな期待”に応えて追求する仲間と場こそが不可欠なことを、伝えていく必要があります。



正国稔
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今までの「こうすべき」が通用しない事を認めて、初めて可能性が拓かれる。

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback

「とにかく、頑張れ!そうすれば、どうにかなる。」
「夢を持てば、頑張れる!とにかく何かやってみろ。」
などと主張する人の説得力が、最近、とみに弱くなったように思う。

特におかしいのが、“とにかく頑張れ”で上手くいってない現実を前にしても、その人(or自身)の努力が足りないとしか考えない場合。
・“とにかく頑張れ”と言い続けても、一向に頑張らない相手に対して変わらず“とにかく頑張れ”と言い続ける人。
・イマイチ活力がでない自身に対し、“とにかく頑張らなきゃ”と叱咤激励し、活力がでない己自身を責めつづける人。

今は、現実の問題を解決するのに、今までの「こうすべき」が全く答えにならない時代(53654)。なのに、それを努力でカバーしようとしても、改善するどころか閉塞していく一方なのは当然だと思う。

まず必要なのは、「とにかく頑張れ」が、全く通用しないという現実を直視することだと思う。それを直視して初めて「何で通用しなくなったんだろう?」という追求思考ができるようになり、「どういう人が、頑張れているのか?」と周りを対象化できるようになる。

逆に、“今までの「こうすべき」が通用しない事”をボカシタままでは、「何で通用しなくなったんだろう?」という追求思考に向かえず、わかりやすいプラスらしき方法論(≒旧観念)に絡め取られてしまうんだと思う。


佐々木健二
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「何でだろう?」は当事者欠乏の高まり

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
>今まで、変だなと感じることが日常であったにもかかわらず、そんなこと考えても意味ないなと瞬間的に考えることをやめていた。(53450)

交流会で「何でだろう?」と皆で考えることが、面白いと感じてからというもの、日常でも「何で(そうなるの)だろう?」を意識してつけてみたり、周りに「何でそう思うの?」と問いかけてみています。それというのも、交流会で今まで変だと思ってなかった事でも言われててみると、確かに変だなーっという事が沢山あって、今まで無意識のうちに考えるのをやめていたんだなあと感じたからです。

ふと、「何でそうなるのかな?って考えることが大事なんだよ、で分かるまで皆に聞いたり、調べてごらん」と、昔良く言われていた事を思い出しました。それが、成長するにつけしなくなったのは私権規範や旧観念を知る中で「こうすべき」と考えずに価値判断するようになったからだと思います。そして今は、現実の問題を解決するのに、今までの「こうすべき」が全く答えにならない時代。

>現在の『みんな不全』とは、『本能⇒共認⇒観念』の『観念』という最先端部分が役に立たなくなっている不全であり、その位相が私権時代とはまったく異なっていることに気付きます。
>おそらく、現在の『みんな不全』=『適応不全』は既に‘秒読み’に入っている(52777 土山さん)

現状、皆が感じている閉塞感がそうした『観念の機能不全』で、現実の圧力に対して、答えを考えることが出来ない事=みんな不全、だと思いました。私権時代の傍観者から、考えることが出来るようになりたい、社会の当事者として思考する新観念が欲しいという想いが「何でだろう」という追求モードに表れているとすると、巷で流行っている「なんでだろう~?」も当事者欠乏の高まりの現象ではないかと感じました。


石川笑美
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「やりたい事を探せ」の裏にある、諦観・マイナス視。

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
大学時代まで無圧力空間の中で生きて来て、当事者欠乏が溜まりに溜っているのが私達の世代の大半なんだと思う。
就職に対して漠然とした不安があるのも確かなんだけどそれ以上に、何か今までとは違う、当事者充足が得られるのでは、という期待感があるように思う。

そんな微妙な期待感を無残に壊すのが、、「やりたい事を見つけろ!」って言葉なんだと思う。

「あっ、やっぱり仕事ってしんどいんだ」って、直感的に潜在的に思わさられる。(暗黙の内に)「仕事は大変なんだから、やりたい事でもないとやってらんないぞ」っていう諦観・マイナス視を感じさせられる。

でも、そういった諦めを発している奴こそ、周りの空気を重くし、(結局)自身の環境も悪くし、ますます「やりたい事」に執着せざるをえない状態に、自らを追い込んでいるのだと思う。「やりたい事を探せ」なんて、物知り顔で言って来る奴は、実は不安でしょうがないって事。

それを知れば、無理矢理やりたい事を探して、悩んでいたのがばからしくなる。そして、「じゃ、何をすれば楽しくなるだろう?」って周りに目を向けるようになるし、感じた可能性に素直に飛び込めるようになる。



佐々木健二
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急がれることー滅びの道は開かれようとしている

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
この2、3日、朝日新聞朝刊で「教育問題」、とりわけ学校制度の問題が取り上げられている。先だっての「教育基本法」改定についての中央教育審議会の答申(中間報告ではなく、既に正式に答申された。つまり、具体的に「改定」の動きに入っている。)を受けてのことであろう。「教育基本法」が改定されればそれに付随する「学校教育法」や施行令、施行規則は改定される。

 現在の学校制度・体制の問題点は語られて久しいが、その諸現象の喧伝がマス・コミによって取り上げられてきたことが「教育基本法」改定への布石であったろう。確かに社会の変動の中で、現行の法体制で従前に対応し難くなっているのは事実である。しかし、「社会の変動」をどう捉えるかで、方向・方針がまったく異なってくる。

 政府の諮問機関である中教審報告の捉え方は次の通りである。
 「東西冷戦構造の崩壊後、経済を中心とする世界規模の競争が激化する中で、時代は、我が国の経済・社会に否応なしに大きな転換を迫っている。この大転換期の試練の中で、国民の間では、これまでの価値観が揺らぎ、自信の喪失とモラルの低下という悪循環が生じている。教育の世界に目を転じると、物質的な豊かさの中で子どもはひ弱になり、明確な将来の夢や目標を描けぬまま、次第に規範意識や学ぶ意欲を低下させ、青少年犯罪の増加や学力の問題が懸念されている。また、教育の現場は、いじめ、不登校、中途退学、いわゆる『学級崩壊』など深刻な危機に直面している。」

 一見すれば、それに対し「そんな状況を作ったのは誰なんだ。他人事みたいに言うなよ。物質的に豊かになるのは悪いことなのかい。」という声が出てくると予想される。「識者の傍観者的意見」と見てしまうこともできる。

 しかし、これは「傍観者の作文」では断じてないのである。
 市場経済の維持・復興を図る「当事者」の具体的行動である。「答えを出せない統合階級」と放置しておけることではなかろう。

 彼等なりの「答え」を、多くの国民が「確かにそうだよな。何とかしてほしいな。」というような「問題提示」をした上で、提起しているのである。改定反対の意見として「戦争のできる国づくりを目指しているから」と新聞紙上には出ていたが、それ以前の問題として、否最大の問題として「市場社会の維持・復興」という社会崩壊・生存の危機に至る「滅びの道」の提示なのである。(中教審委員には、キッコーマンの社長や全日本自動車産業労働組合総連合会会長、日経新聞社長、東芝会長がいる。ナチスの支援には、クルップなどドイツの企業が控えていた。)その「競争の具」として有効活用できる「歯車人材」を「自己実現」を教育の目標の一つに置くことで準備しようという「遠謀」まである。

 もちろん問題点を提示して「反対」を唱えることはできる。だが、大切なのは「それではどうすればよいのか」を明らかにすることである。「教育」を明治の学制発布以降の「学校」体制に中心をおいて考えていれば出口は見えない。

 人類の必須条件である「共認収束」を、「期待と応望」による「みんな認識」を自身の自然なあり方として身につけることこそ、ほんとうの「社会の形成者」となることだろう。そうしたあり方を様々な場を通じて身につけさせてゆくことが「教え育てる」-教育であろう。先行の知識・技術の伝授もまた、「期待」「応望」の中で行なわれてこそ「学力ー学ぶ力」となる。そうした場の実現が、社会で取り沙汰される教育上の問題に対応できるものとして行なわれることが急がれる。



中村朋子
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若者はまだまだ闘える

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
しんどい思いを我慢してまで、私権を手に入れたくない!!
これが就職活動時の本音でした。だから、お金は生活していける程度でよかったし、地位も評価も重荷にならない程度のものでよかった。
私権的評価が下される社会に、やりがいや面白みなんて全く期待できなかった。

>学生達からよく聞く「とにかく、色んな人と会って話してみたいと思って・・・」、「自分は何もわかりませんが勉強をしようというスタンスで・・・」などの意見からは、行き場が見当たらないために、新しい可能性としての「何か」を絶えず探し彷徨っている、そんな悲壮感すら感じます。(53162)

だからこういった学生の意見、すごく共感できます。私権社会で得る評価充足って、今まで若者世代が経験してきた評価充足とまたちょっと違うんですよね。だからこそ、とりあえずやってみないとわからないっていう八方塞がりの答えしか出せない。

>私権に対しては実感も湧かず、闘争意欲さえ湧かない、でも、可能性やこれからの方向性を実感できる得る戦場を探している。きちんとした正しい闘争の場さえ与えられれば自分達だって闘えるんだ、そんな意識もまた芽生え始めているよな気がします。(53162)

私もそう思います。どの仕事も基本は「期待=応望」(24905)。極端な話、期待応望を共感できる仲間や場があれば、若者は戦えるんだと思います。
それを自己実現や夢ですり替えてしまうから、可能性が一気に見えなくなってしまうんだと思います。



田宮礼子
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『みんな不全』と『適応不全』

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
新しい『みんな不全』は、環境問題や教育問題が脚光を浴び始めた'90年頃のバブル崩壊前後から半顕在化し始め(参考:24981・24982)、‘飢え’や’飢餓’が本能を直撃するのと同様に、まずは本能=下部意識が肉体破壊や精神破壊の危機を察知するところから始まったと見ていいと思います。その後、個人も社会も活力をどんどん衰弱させていくこの10年程の体験から、21世紀に入ると、人々はいよいよ観念全般を見限り、下部意識が捉えた可能性に(ある意味では)忠実に、仲間収束・外向収束へと向かって行きました。

 これは、私権統合の終焉(=私益主体としての豊かさの実現)を目の当たりにしてみると、本源的な充足とは程遠い現実に、人々が徐々に気付いていく過程だったとも言えそうです。しかも現在は、下部意識が捉えた新しい本源的可能性を実現させようにも、それらは、旧観念という上部意識で出口を塞がれ、恐ろしいことに悉く最先端で閉塞してしまいます。

 旧い機能だけでは対応できない状況を前にして、同じく旧機能がわずかながら看取した可能性を頼りに、新機能が生み出され、それに全面的に収束することで適応してきたというのは、『外圧適応態』としての生物の摂理です。現在は、最先端機能として新しい可能性を実現するための観念回路が、旧観念によって完全に機能不全を起こしており、その意味で『みんな不全』=『機能不全』=『適応不全』という状況を呈しています。

 私権時代と言えども、貧困という『みんな不全』がある限りは、一応人類の『本能⇒共認⇒観念』はそれなりに機能し、少なくとも物的豊かさだけは実現されてきたという事実を踏まえると、現在の『みんな不全』とは、『本能⇒共認⇒観念』の『観念』という最先端部分が役に立たなくなっている不全であり、その位相が私権時代とはまったく異なっていることに気付きます。

 おそらく、現在の『みんな不全』=『適応不全』は既に‘秒読み’に入っていると思われますが、観念機能が閉塞して出口を塞いでしまう・・、もっと具体的に言うなら、突破口を示すべき文化人たちが自らの発信階級としての身分を守るためだけに旧観念を撒き散らすという現状そのものが、『適応不全』の正体だと言っていいと思います。



土山惣一郎 
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闘いを知らない世代

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
>私権圧力の衰弱と、残存する私権観念による社会捨象・思想捨象→衰弱する外向欠乏によって、不全捨象の充足基調⇒本源収束の潮流が形成される。(24980)

貧困というみんな不全がなくなって、人類の適応不全というみんな不全が顕在化するまでの30年間は、闘争圧力のない時代とも言えます。
だから若者が闘えないと言われるのもある意味当たり前で、闘える・闘えない以前に、そもそも闘いを知らないということだと思いました。

>そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。私権観念の防波堤が破れたことによって、一気に社会不全が大きくなり、私権の衰弱も相まって潜在思念の源泉部が私権不全から社会不全へと大転換した。(24981)

だけど、みんな不全が顕在化したこれからは、みんな不全に応えようとする側と、自我・私権にこだわってその足を引っ張ろうとする側の、明確な闘いになるんだろうと思います。
企業の不正を暴く内部告発などは、その発端現象ではないでしょうか。

そんな中で、中身の無い「仲良し規範」は、何の役にも立たないばかりか、それ自体が闘争忌避=現実逃避の存在として、自分も相手もどんどん取り残されてゆくことを、私たち無圧力世代の若者は自覚しなきゃと思いました。



西知子 
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これから社会に出て行く若者が抱く思い

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
就職活動、今や業界別を基準に行うべきでは無いと感覚的に感じている若者は、僕だけではないだろう。そういったみんなは、会社選びの基準として、おそらくその企業の理念や将来ビジョンが如何に次の時代を捉えているかを見ている。では、そう感じさせる要因はどこにあるか。
 
 以前、僕の友人が某テレビ番組に出演した際、それは視聴者参加型でいかにも素人のドラマ性を売りにしているような番組であったが、その収録と放送の間にはかなりの作為性があったと、リアルに聴いてしまった。そもそも僕は社会学部で、いわゆる大量情報化社会におけるメディアリテラシーの重要性を感じていたのだが、その友人の体験は、僕のメディア(テレビ)に対する疑問視に拍車をかけた。
 また、最近僕は、しばしば国会中継を見る。議員の私権争いや、敵対政党への腐った誹謗中傷など、見ているだけでも苦痛に感じるような質疑応答がそこにあるのだが、実は会議全体で何時間もある内容が、テレビのワイドショーやキャスターニュース番組では、ほんの何分(何十秒)で伝えられる。もちろんそこには、とある議員のコメントだけ、しかも揚げ足をとるような一言だけを放送する作為性があるのだ。
 資本主義・利益競争主義社会(私権社会)のなかで、貧困の消滅後、インテリ層が自分たちの生き残りの場として作り上げた世界がテレビメディア世界であろう。それは実社会とは逆のベクトルを保持し、旧観念をさらに追い求め、自分たちの都合の良い方向へと視聴者(すでに不全である)をプロパガンダしているのだ。上記二つの事例のような作為性の意図はそこにある。
 しかし僕らは、(すでに今まで充分に無意識にプロパガンダされてきたが)最近テレビが面白くない。その作為性によるノン・リアリティーさが露出してきているからだ。テレビのバラエティの現実逃避やワイドショーのゴシップぶり、キャスターニュースまでも信頼できない。テレビに左右される日本の有権者(僕らを含めて)など健全な有権者ではなく、すでにテレビのなかで日本政府が虚構に写っている。そうして不全を感じるからこそ、このような認識交流の場を求め、その必要性は自然と大きく感じるのだろう。
 ここで冒頭の「なぜ就職活動で、その企業の理念や将来ビジョンが如何に次の時代を捉えているかを重要視する人が増えたか」を考えると、テレビという巨大(虚大)メディアに取り巻かれたこの社会において、そこから「みんな不全」を感じ取る若者が増えたからであろうと僕は思う。僕らはこれから社会に出て行こうとする状況で就職活動をするのだが、いろいろな会社が見えてくると、明らかに旧観念の中でもがきつつもその方向性に流されている会社と、そこからの逸脱、つまり新しい形の業態・社会貢献を目指していこうとする会社とに二分されることに気づくのだ。そう気づいた時、僕らがどちらへ進もうとするのかは明確だと思う。

 こうして考えると、テレビから流れくる情報の波の大きさや、その破壊力が怖くなる。現実、その荒波のなかを泳ぐ鯨(旧観念)の大きな胃袋で生活するピノキオたちのように、新しい認識の必要性に気付かないでいる大多数の人々がいると思う。僕でさえ、最近気づき始めたばかりだ。ここに投稿されているみなさんは次代への認識作りの必要性を少しでも感じている人。僕らはまだまだ少ないかもしれない。もし多くても散り散り状態かもしれない。だからこそ同じ場で認識を共にしていかないといけないと思う。そして情報の荒波の中の鯨に住む人々にも少しづつ何とか声を届かせていけないかとおもうのである。
 そしてテレビを含めての「みんな不全」であるのなら、最終的には(もし次代にテレビメディアが残っていくのなら)テレビも良くしていかなくてはいけないとも思うのである。



古城郷
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私権の終焉により現実と幻想は逆転した

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
「どうせ、世の中なんか変わりはしない!」
先日ある人から出た言葉です。完全に不可能視だなと思いました。

しかし、この言葉は、若い人(私権時代を知らない人)からは聞いたことがありません。40~70代の人に多いように思います。
また、交流会が終わった後、決まってこの人達からは「もっとザックバランに話したいよ」という言葉も出てきます。若い人からは「面白い、もう少しスッキリさせたい」という言葉が出てきます。

「現実=人々の意識」の視点で見ると、どこかに可能性を求め何とかしたいと思っている若い人達の意識こそが、今とこれからの現実であり、旧世代の意識は、構造的に考えても現実から遊離した「幻想」なのではないだろうかと最近思います。

私権が終焉し、外圧が変化したことにより、旧世代が「現実」と思ってきたものは、既に「幻想」になってしまったのではないでしょうか。
「浮世離れしている」とは正にこのことだと思いました。

この外圧に適応した現実と不適応な幻想の違いを明確にしてゆくのが、実現可能視へ向かう一歩だと思います。

「私権の終焉により、現実と幻想は逆転した。」のだと思います。



村上祥典
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「自分探し」の罠

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
私は中学、高校時代と人一倍悩んで苦しんで考えてきたつもりだった。
周りのいろいろな状況の中で、自分が自分であるためにはどうするべきか?なんて事を四六時中考えていた。ひたすら自分の中にある何かを引っ張り出そうとして躍起になっていたのである。

こんなことは誰でも多かれ少なかれ経験しているはずである。ただ大多数の人はそんなに長期間かけて悩むことはないであろう。私がなぜこんなにドツボにはまってしまったかという原因ははっきりしている。

それは先述のように「自分の中」に答えを探してしまったからである。大学一年の時、友人と酒を酌み交わしながら自分の過去を話しているとその友人は言ってくれた。
「自分ってさ、他人との比較によって生まれるものでしょ。自分の中に自分はいないよ。」

パズルの最後のピースがはまったような気がした。ついでに出来ることならもっと早く聞きたかった。そうすればムダに悩む事も無かったのに。もっとも、早い時期に聞いていたとしてもそれによって視界が開けていたかどうかは永遠の謎であるが。

とにかくそれ以降、私は人に対して積極的に本音をぶつけるようになり、昔のように取り繕ったりすることはなくなった。大抵の人はこちらが本音をさらせば、それに呼応してくれる。そして今では「私」という人間を分かってくれた人がだいぶ増えたように感じる。つまり彼らがいるから「私」は存在しているのである。

最近「個人主義」なんて言葉をよく聞く。どういうことかと話を聞いてみると
「自分は自分、他人は他人なんだから好きにやればいい」
というようなものらしい。
エゴの正当化にしか聞こえない。
とはいえ突き詰めれば人生なんてみんなエゴとも言えるか。と思い直して聞いてみるとそんなレベルではなく、やっぱり自己中心的なだけだったりする。しかもそんな人が結構多いのがまたビックリである。彼らにとっての「自分」とは何かと聞くと明確な答えは返ってこない。きっと間違った「自分探し」をしてしまったんだろう。



丸山桂
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学生時代と自己実現-②

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
私権時代が終焉を迎えようとしていた時代を学生として過ごした僕らは、前世代ほど強い「自己」というものを持っていなかった気がする。言い換えれば「自己」の希薄化。その様な状況下に於いて、私権時代の名残でもあるこの呪文のおかげで救いようの無い悪循環を起こしている。その中では、たとえ「変革」を志すベクトル持っていようとも、その収束点は決して「社会」には向かわない。ただ「自己」へ向かってしまう。


 高校時代「オウム事件」が起きた。当時僕らは、比較的世代の近い彼らのことを麻原のコピーロボットだと騒いでいた。しっかり「自分」さえ持っていたらあのような事は絶対起きないと。しかし最近になり改めて考えてみた。
 自分をしっかり持つこと。一見それは大切な要素に映る。しかしその先にあるモノは、どこまで行っても形の無い「自分」しか見当たらない。その行為はやがて「自分」を見つけるから、変えるというベクトルに移っていく。その極地が彼らの姿だったような気がする。空気のように捉えれていた社会を変えることはもはや不可能だという思想。その無意識のニヒリズムが、究極の「自己実現」として現れたもの(自分=麻原)があの事件だったのではないだろうか。
 


江岸元
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できる気がしない「循環型社会」

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback

機器製造業を営む経営者の方と、電力会社、メーカー、物販、物流、林業、農業、ゴミ回収業、化粧品、そして消費者を包含した循環型社会実現プロジェクトの話を伺う機会がありました。

数年前までの、自社経営に腐心していた時代からすれば対象性の広がりを感じますし、学者や政治家の題目だけではなく生産者の立場から動きがでてくることにも共感するところ大です。しかし依然としてこの手の話では「実現できる気がしない」というのが正直なところです。

まず、エネルギー消費が今だに増加し続けており、ゴミの排出も上昇の一途であるという現実をどう捉えるのか?仮にこの社会で循環型社会ができたとしても無限の拡大循環?になるか、実社会と縁を切った仮想社会を前提としなければなりません。

市場はマイナス成長に転換しているのにエネルギー消費は増大し続けている、それはなぜか?
ゴミの排出はすでに30年来の課題であるのにいまだ解決のめどが立っていない、それはなぜか?
という疑問が直ちに浮かんできますが、多くの要素が複雑に絡み合っていて答えを出すのはきわめて困難・・・といったところで思考停止です。

より根本的な問題に目をつぶりながら観念的なシステム提案に可能性収束してしまう背景には旧観念特有の「私たちにできることから」という問題のすり替え構造が伺えます。いま必要なのは「私たちにできないこと、わからないこと」にこそ目をむけ、その根本原因を追究することです。




阿部和雄
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「不可能視」から「実現可能性」へ

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback

『本当に答を出そうと思っているのですか?』『出来ることからやればいいじゃないですか。』

「閉塞状況にあるにもかかわらず、なぜマスコミや学者が答をだせないのか?」をテーマに交流会を開催していたときに出てきた言葉です。

その時は、何が引っかかっているのかが分らなかったのですが、今になって考えると、一貫して『そうは言っても答は出ない。そうはいっても変えられない。』という、「不可能視」が見て取れます。


> 貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。< 20355


この「『現実』=人々の意識」という構造は普遍性があり、生存圧力が強い時代も同じ構造にあります。貧困ゆえに誰もが私権を求め、私権の母体となる私婚家庭をよりどころとし、それを守るために身分序列を共認していきました。

支配者から強制的に共認させられたのではなく、誰もが私権に収束し、自ら共認してできた社会であるからこそ、私権の現実を覆すことが不可能だったのです。


現在、実現の可能性が開けた根拠は、生存圧力が衰弱したという客観的事実に加え、何よりも「私権獲得を第一義的課題とは思えなくなってきた=活力が出なくなってきた」という、誰もが感じている実感にあります。

> 実現論を読み返していて、ふと「ここに書いてあることは全て自分自身のことなのだ」と気づきました。本能欠乏も共認欠乏も私権欠乏も、あるいは、最先端の意識に古い意識が収束して全体が再統合されることも、全て自分自身の中で生起していることです。従って、今やるべきことも明らかになった気がします。< 37075

実現可能性が開けた以上、答えを求めて構造認識を必要とします。今度は、この流れこそが『現実』です。



松尾茂実
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Be Creative!

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback
実現論でも述べられているように、1970年代に日本社会は貧困から開放されたことによって社会はがらりと変わり、私権への欲求が衰退していき、その結果、人々は社会に適合できなくなり現在の日本社会の閉塞状況へと進展していきました。(以降この投稿では、この社会の一大変遷を『日本社会におけるコペルニクス的転回』と呼びます。)

 ここで、視点を一度私自身に移して考えてみたいと思います。私は1982年生まれの現在21歳の学生です。そのため私は日本社会におけるコペルニクス的転回を経験しておらず、現代にまで続く閉塞時代しか実際には経験していません。そのため、経験されてきた方とは多少認識の違いがあり、閉塞をもたらした旧観念が役に立たないという事は既に私たちのアクシアムになっており、それらを批判することにはあまり積極的になれません。興味があるのはそれよりも現在の閉塞状況を抜け出し、次代の社会をいかに自らの手で確立していけるのかの方がと言うことです。分かり易く例えるならば、地動説が社会のアクシアムとなっている状況の中で天動説が役に立たないと批判することに積極的になれないという事に似ています。

 このことは「るいねっと」の投稿の内容と投稿された方の年齢を見るとよく確認できます。つまり、日本社会におけるコペルニクス的転回を自らの肌で体験されてきた、だいたい40代以上の年齢層の方の投稿が旧観念や現代の閉塞状況の批判に重きを置かれているのに対し、私を含めて20代前後の肌で体験していない世代の投稿が旧観念が役に立たないのをアクシアムとした上で、次代の社会のあり方、そのための方法を模索しているものが多いということです。このことから世代間で認識の違いがあるのはやはり間違いないのではないかと思われます。

 では、現在の閉塞状況を抜け出すためにはどうすれば良いのか。その方法は“現実に目を向ける”、このことにつきると思います。天動説から地動説にアクシアムが転回したのも現実に目を向けたからです。キリスト教的宇宙観に立つと天文学が閉塞してしまったため、コペルニクスは天動説というアクシアム(旧観念)自体に疑いの目を向けました(*コペルニクスは司教に育てられている)。そうすると全てがうまくいったために旧観念に変わって地動説という新しい概念を発表しました。以降地動説は周知のように異端とされ、当時の権力であるキリスト教会からの弾圧を受けることになりました。それから300年以上経った1992年、ようやくキリスト教会もガリレオの異端裁判の誤りを認め、地動説を正式に認めました。

 天動説と地動説の例からも分かるように、現実に目を向ける事によってでしか新しい観念を打ち立てることは出来ません。ですが現在はまだ日本社会におけるコペルニクス的転回から日が浅いこともあり、旧観念が力を持っているのが現状です。そのため、現時点では様々な方法で現実に目を向けること力を注ぎ、正しいか否かに関わらず新しい観念、ひいては新しい社会を打ち立てていくことを目標として、行動に移していかなければならないと思います。これは天動説から地動説への転換とは異なり、社会の成員一人一人が打ち立てることの出来る可能性を秘めています。また、近年ではインターネットが普及したことによって更に可能性は高まっています。機は熟しました。今こそBe Creative!なのです。



江本吉隆
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エンターテイメントの世界から現実の社会に飛び出そう!

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
昔は学校から帰るとすぐテレビをつけるほどテレビ好きだったのに、テレビがおもしろくなくなったのはなぜか?
高校生のときは、ドラマもニュース番組もよく見ていた。討論番組を見て、父と討論した。
しかし、今、討論番組を見てみると、人の意見を聞かず、自分の意見さえも述べていないことに気がつく。体面だけ取り繕って、さしさわりのないことしか言わない。何の解決策も示さない。これで私たちが何か考えられるわけがない。
テレビはすべてエンターテイメント化されているのだ。視聴率稼ぎのための番組、キャスティング、現実離れしたストーリーは見たあとに心に何も残らない。
私はテレビによって脚色されていない本当の社会の動きを知りたいのだ。私以外の人が何を考え、何をしているのかを知りたいと思っている。しかし、テレビは視覚的に人々に訴えかけ、一方的に答えのようなもの(全く答えになっていない)を送りつける。人々は答えを得たかのように思い、思考を停止してしまう。
私は、大学に入って、理想とする将来像を自分で描くトレーニングをしてテレビの非現実さに気づきはじめた。これはダメ、あれはダメと現状を悲観するだけで、将来のために、今をどのように変えていくかを、テレビは教えてくれなかった。そもそも、テレビは娯楽のために作られたのだ。テレビに、新しい社会の枠組みへの答えを求めることが間違っていたのかもしれない。
私たちが求める社会を作るためには、私たち自身が動いて、その輪を広げていくしかないのだ。私たちが、現実の社会で人と話すことによって自分を成長させ、相手の成長をもうながすことができるのだ。



末次規子
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多面的な物事を一方向からしか報道しないテレビ

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback

>あくまで発信側の頭の中だけで造られた仮想現実の世界を映像化し、我々に提供してくれているのがテレビなのである。ある意味では精巧な贋作とも言えるのかもしれない。とはいえ所詮は偽物である(49744 )

確かに今のテレビというのは、非常に製作者の意図が反映されていて、物事の真の姿は見えていないように思う。
物事というのは、非常に多面的なものではないか、そう思っている。AさんとBさんが同時に全く同じ現実を見ても、その捉え方は少し異なっていると思う。
テレビの発信する社会現象というのは、事実を有るひとつの方向から捉えたものでしかないと思う(時には事実でさえないことを発信するが)。しかし、今の人々が知りたいと求めているのは本当の社会の姿であるのだと思う。今、社会はどこへ向かっているのか、自分達は何をしなければならないのか、という疑問を私たちは抱え、その答えを必死に探している。
物事は多面的であるのに、テレビが一方向から見た事実しか映し出さないから人々はテレビから離れていくのではないかと思う。

物事が多面的であるということは、社会自体を多面的なものとして捉えなければならないということである。多面的な社会の真の姿を捉えたいと思い、私たちは交流し、認識を深めていこうとするのだと思う。
もし今後もテレビが物事を一方向からしか報道できないようであれば、衰退の一途をたどると思う。



泉川和廣
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テレビで沈黙は許されない

Posted by ななし on 08.2016 記事 2 comments 0 trackback

久しぶりに、議論系の番組を見た(見ようとした)。

結局何がいいたいのかさっぱりわからない。
いわゆる知識人の一方的な発言ばかり。議論が噛み合ってない。
白熱しているところを演出しようとしているのだろうか、ただ煽るばかりの司会者。

テレビが一方的で、受信者は、その情報を受け取るのみ。気づきや発信欠乏は、その時点で流産する。

何かを得ようとしても、ただ流されるだけ。
この違和感はなんだろうか?とふと考えた。
以前、番組か何かで、「テレビで沈黙は許されない。3秒以上間が空くと、スポンサーからクレームが付く。」ということを聞いたことがある。

発信することが出来ないだけで無しに、考える時間が与えられないために、会議や勉強会の時のような追求、探求ベクトルが働かない。考えたり、噛みしめたり、発想したりする時間がない。

とうとう、雑音にしか感じられなくなり、消した。

コメンテイターの「問題は、ここに集まっていただいた方が感じている、発信してくれた危機感を、国民のみなさまがどれだけ感じてくれているかどうかです。」まさに、傍観者。

自分たちマスコミが人々に何も感じ無くさせているということを、全然わかっていない。



西村真治
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会話の原点~みんなにとっての未明課題を話し合う

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
これまで友人関係や仕事関係など数人で話をする場では、お互いが知っている知識や考え方を教えあう(伝え合う)ことが中心でした。しかしそこで何かヒントをつかんだとか世界観が広がった、という経験はほとんどなかったように思います。未知の課題について考えるということは難問で、厄介であるが故に一人でじっくり考える。そんな意識が話し合いの場をこのようにしてしまっていたのかもしれません。

ところが、最近いくつかの交流会に参加してみて感じたのは、それとはまったく逆のことでした。数人で話し合う場合、みんなにとって未明(答えがわからない)の問題を考えているときほど、今までになかった発想が浮かんでくる。そのあとで一人になったときに、じっくり考えて整理してみる、ということが幾度かありました。

人間が共認機能を土台にして、不全を克服するために観念機能を形成してきたことからすれば、確かに交流会のような共認圧力の働く場でこそ探索・追及という観念機能が活性化するのが道理です。そもそも人が集まって話をするという行為は、みんなの未明課題を共有し探索するためにはじまったのではないかと感じています。

未明課題であればこそみんなの前に開きだして共有するのだという意識、そのために人々は集まり話し合うのだという「会話」の原点がそこにあるように思います。

また同時に、単なる遊びや親睦を深めるための集まりが、現実(の中の未明課題)を捨象した私権時代特有の様式であり、そのような場は徐々に遺物となってゆくのではないかと感じています。




阿部和雄
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実感だけでは踏み込めない次元だから

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback

「仕事やってる最中は楽しい。何も考えず一生懸命やるから。でも、そこから離れた瞬間、どこか物足りない気持ちが出てくる。このままでいいのかって、不安っていうより、何か充たされないものがある。友達と騒いだり飲んだりしても、その瞬間は楽しいけど、なんていうのか・・儚い感じがする」

先日会った男の子はこう語ってくれました。「リアリティーが無い」とか、「活力がわかない」状態。そして、こう続けてくれた。

「相手が喜ぶのはすごく嬉しい。お客さんや仲間や後輩が喜んでくれるから、がんばれる。その瞬間はこれでいいんだって思う。でも・・。」

仲間や仕事に不満があるわけではない。それなのに満たされない。それを聞いた瞬間、私もやっと腑に落ちました。これが「みんな不全」の正体なんだ。

私は、「社会不全」や「みんな不全」って、もっとはっきりしてるものだとどこかで思いこんでた。「政治不信」とか「環境不安」とか、「この国(社会全体)をなんとかしたい」とか。でも、そんな上っ面なものじゃなくって、みんな不全っていうのはもっと私達の奥底から湧き上がってきてるもので、まだまだ言葉にできないものなんだ。

期待に応える充足を知っていて、なお満たされないというのは、目の前の人たちの期待を超えて、もっと大きな次元からの期待に惹かれるということ。そこに行きたい、そこで役割を得たいと感じていること。ところが、それが「社会」「みんな」という観念に結びつかない=対象がわからない。だから当然、解決しない。

それを示すように、彼は最後にこういいました。
「まあ、自分には理想があって、たぶんそれに近づいてないからこんなモヤモヤしてるんだと思う。もっと自分がしっかりしなきゃいけないんだろうね」

これが、まさに旧観念(の思考法)。こうやって外からの(or外に向かおうとする)期待を自分の頭の中で「自分」という方向に封鎖して仕舞うから、一向に活力(充足の実感)が沸かないで、モヤモヤしたまんま。外圧(みんな期待)と内圧が結ばれていないというのはこういうことなんだと思いました。

旧観念が本当に無用(弊害)だと実感するとともに、目前の(身近な人の)期待を超えた大きな次元(=社会)に惹かれることは実感できても、そこに踏み込む(対象化して、実際それに応えていく)には、絶対に観念(しかも現実を対象化するための正しい観念)を使わなければいけないことも、よく分かりました。

参考:
>実現派にとっては、本来は仲間充足の次の社会収束の地平こそが、次に向かうべき世界であり、答え=構造認識さえ与えられれば、すぐに吸収する。(25432)




吉岡摩哉
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信用という秩序共認

Posted by ななし on 05.2016 記事 1 comments 0 trackback
みなさんの投稿によって、国債発行額はどんどん増えているけど、銀行や国家が協力して自分たちでそれを買っている限り、「帳簿の帳尻合わせ」みたいなもので、あんまり困ったことにはならなさそうだな、というのは分かりました。(言葉が無くて説明は出来ないのがもどかしいけど)

で、金融危機とかインフレとか円安とかというのは、国内にしろ国際的にしろ、つまり日本という国家が発行している「円」という貨幣や、あるいは日本の統合力とか経済力が信用されなくなるから発生するんですよね。

でも、日本人って、阪神大震災のときも暴動や略奪を起こさなかったくらい、秩序を重んじる人たちなので、「自分だけが抜け駆け」するために、お金に対する信用という秩序共認を破壊するようなことは、しなさそうだと思うんです。

「赤字国債問題をどうするんだ!」「不良債権問題はどうなんだ!」って国家や官僚や銀行を追及しても、今のところそれに対する答えがないのは明らかで、それによって問題が顕在化して、みんなが不安になって、取り付け騒ぎ⇒金融恐慌とかになって、お金の信用がなくなったら、明日からスーパーでお買い物も出来なくなるわけでしょう?それが一番困るわけです。お金に替わる統合軸が無い限り、金融システムとか貨幣とかに対する信用をなくすというのは、秩序を放棄するに等しい。だから、出来るだけそうなることは避けてるのが現状かな、って思います。

金融恐慌が起こるとしたら、「日本がヤバくなっても、自分ところだけ儲かったらいい」と思ってる国や投資機関が、円を叩き売るとかいうところから発生しそうな気がします。

でもそう思ってる国にしても、すべて「貨幣」や「金融」というのは「信用」という共認から成り立っているわけで、そこの根本の共認が崩れたら、どの国にしても秩序崩壊することは明らかです。お金の信用がなくなったときにいくらお金をもってても、何にもなりません。だから、「ヤバくなるのは日本だけで、自分ところは大丈夫」、つまり世界恐慌には発展しないという読みがなければ、「日本つぶし」はしないと思うんですが、どうなんでしょう?

つまり、私の疑問はふたつ。
国内発の金融危機って、近々のうちに発生する可能性は低そうに私は思うのですが、あるとしたらどんな状況からでしょうか?そして、他国発の「円」の信用失墜って、どんな状況から発生するんでしょうか?

なんか直感的には、「自分ところだけ」の投資機関が「抜け駆け」することがキッカケになりそうかな?って思うんですけど。
ちょっとのキッカケが大惨事に発展するって事件、近頃多いですし。



藤岡聖子
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社会に訴えかける人たち

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
私は、今までツライ思いをいっぱいしてきた。その日々は、自分の居場所を見失い、何をしていいのか判らなくなり、時間は過ぎて行き、周りはどんどん動いて行くのに、自分だけが取り残されているような感じだった。そして、気が付くと生きる意味さえ問うようになっていた。自分がとても虚しいし、寂しい思いだった。そんな時、自分の生きている世界は、すべてが揃っていて何一つ不自由無く暮らしているのにどうしてこんなにツライのだろうかと不意に思うことがある。

そんな日々に、ただただ耐えることで、真面目で素直な少年として社会的に横道にそれることも無く今まで生きてきた。そこには周りの意見に従うだけの、完全に活力を失った思考停止状態の自分がいた。果たして、それで良かったのだろうかと今自分に問う。問題児となって社会に訴えていた方が、気持ちがすっきりするし、ずっと耐えて苦しまなくてもそこに活力が少しでも見出せたはずだと思うからだ。

私と同じような思いをして生きている人が今の社会の中にはたくさんいると思う。そういう人が、今、社会の問題となってしまっていると思うと、私は居ても立ってもいられなくなる。

私が学童保育のバイトや自然教室を行ったときに、問題児となってしまう子どもたちを見ていると、いつも心の中で何かを社会に訴えかけているように思えた。今まで、訴えることすらしていなかった自分が少し恥ずかしくなった。
テレビを見ている時も同じではないだろうか。ただ一方的に発信されることを受け止めているだけでは何の解決にもならない。そこで、何かを感じることが大切なのだ。そして、気付いたことを人との交流を通して話して欲しい。私は、そこから社会を変えていくためのヒントを見つけて行きたい。



芝田琢也
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「人それぞれ」より「色んな意見」=360°の可能性探索

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
「人それぞれ」は、もう終わってると思います。

似て非なる言葉として、一時交流会etc.の参加者の、ほぼ共通する感想としての「色んな世代」の「色んな意見」が聞けて楽しかった・嬉しかった…。

「人それぞれ」が役にたたないから、色んな(=360°)方向の可能性を探り始めているのだと思います。

人を拒絶する言葉は、誰でも察知し、悲しくなる。
期待まじりの言葉は、みんなを嬉しくし、やる気にさせる。

不全の中で、みんな、共認の原点にいるのかなと思います。



田中直人
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仕事で充足できないのは「自分の欠乏」=「みんな期待への応望」が実感できないから

Posted by ななし on 02.2016 記事 1 comments 0 trackback
仕事にやりがいが感じられない、本当にこのままでいいのだろうか、展望が見出せないという方の話をよく伺います。やはりこれは自分ー会社(集団)ー社会という関係世界の捉え方(=旧観念)に原因があると思います。

まだ多くの人は、自分を取り巻くさまざまな集団の集合体が「社会」であるという感覚で捉えているようですが、このような社会はきわめて抽象的で実態のないものです。先進の企業も「社会貢献」をうたい文句に環境・文化関連の事業に手をつけたりしていますが非常に「観念的な社会」に向かっているだけです。

ここではまず「社会=人々の意識」という概念をしっかりと位置づけて、社会(自分も含む人々の意識)ー会社(集団)という構造をしっかり認識する必要があります。

そして、すでに人々は私権に有意性を感じることはなく、社会全体の閉塞感のなかで答えを求めている。自分もまたその一人である。一方企業はいまだに私権フレームに乗っかり、市場社会の末端にしがみついてゆこうとしている。という時代状況をしっかり捉えることです。

その上で現在自分がおかれている不全状況を俯瞰すれば、社会(人々の意識)の変化に適応できない企業を唯一の活動の場としている限り、「社会」=人々の意識(みんな期待)を感じることはできないし、さらに自らの欠乏(みんなの期待に応えたい)も満たすことができないのだという構造が浮かび上がってきます。

これが職場で満たされない不全感の正体だと思います。ここに気づきさえすれば「脱集団(企業)~社会にでる」「みんなの期待を感じ応える」「閉塞した社会の突破口やこれからの企業のあり方を考える」といった可能性への道が現実のものとして実感できるのだと思います。



阿部和雄
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社会の当事者として、みんな期待に応えたい。

Posted by ななし on 01.2016 記事 1 comments 0 trackback
僕は今、大学を辞めようと思っている。

そう思い始めたのは約半年前で、その時は、自分は怠け者でただ現実から逃げているのではないかと思っていた。何となく授業に行く気がしなくなって、毎日ダラダラと無気力な生活が続いていた。そんな生活を変えたくて、いったん大学から離れ、自分を見つめ直そうと思ってとりあえず休学することにした。

ちょうどその頃るいネットに出会い、今の自分の気持ちの根底にはどんな時代背景があるのか知ることとなった。

私権社会の終焉、人収束、答え欠乏・・・それはまさに僕の気持ちを代弁してくれるかのように、僕の心に飛び込んできた。

この半年間色々考えて、とりあえず卒業はしないといけないんじゃないかと思って、やっぱり大学に戻ろうかとも考えた。
でもそれは、結局自分の挫折感を拭い去るための、自分不全を解消するための思考でしかなかったような気がする。

だから僕は大学を辞めることにした。

それを両親に話す時、少しためらいがあった。それは親の期待を裏切ってしまったという気持ちが少しはあったからだと思う。
でも大学を卒業するということに拘ってイヤイヤ数年を過ごすより、自分を必要としてくれる場所や自分がもっとイキイキとしていられる場所にいたい、と正直に伝えたら意外なほどすんなりと分かってくれた。

よく考えたら自分も親も社会の一員なんだし、親だからとか子供だからとか抜きにして、社会の一員として自分たちはどうあるべきかということを無意識のうちに考えていたのかもしれない。

今はもう自分は怠け者だとか、現実から逃げているとか思わなくなった。
社会の当事者としての一歩をようやく踏み出すことができたと思う。
正直、親はやっぱり大学を卒業して欲しいと思ってるんじゃないか、って思っていた。それも所詮ちっぽけなことのように思う。

自分や親子関係や大学や、そういった枠を超えて、みんな期待に応えていきたい。


浅田祥幸
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