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違和感のある世代との間にいかにまつり場をつくり出すか

Posted by ななし on 31.2016 記事 0 comments 0 trackback
阿部さんが認識交流会で会われた40代の方もそうだと思うのですが、30代以上の世代で旧規範の影響が強かった場合、旧い活力源構造ではどうもこの難局は乗り切れないと薄々理解しつつも、より強固に旧規範に収束し「今の若い者はなっとらん」という若者否定で自分を納得させようとしている方が多くいます。そこがるいネットに対しても違和感となって現れるのだと思います。しかし、とりわけ上の世代において違和感から好奇心(プラス視?)へと転換しつつあるという状況はもっと心しておくべきことだと思います。

というのは異世代交流会→認識交流会を成功させるためには30代以上の貧困の圧力を直接または間接的にでも知っている世代の参加は不可欠だからです。ところが、これまでは観念捨象から直感的に反応のよい若者への認識営業がスムーズなのに比べてどうも上の世代の方とは話がかみ合わないからと遠ざけてきたように思います。

先日も地域サロンで50代ぐらいの方が「息子のやつは、会社をころころ替わって、愛社精神もなにもない。アメリカのまねをしてもあかんぞと正月は説教してきたんや」と叫びだした。今までであれば適当に迎合して終りだったのですが、ちょっとトライしてみました。

「確かに個人本位の欧米流ではだめでしょう。終身雇用によって日本企業はかつての村落共同体の代替を果たし、戦後復興の基盤を形成した。しかし、豊かさが実現されたことで人々の関心はものから心へさらには社会関心へとかわりつつある。ところがものづくりをベースにした旧い企業の枠組みではもはや展望がない。決められたレールを走るより、市場を越えた社会のニーズにダイレクトに応えようとするチャレンジ精神があるから脱企業となっている。生涯所得を考えるとむしろ終身雇用の方がいいのに、リスクを犯してでも転職するという状況がある。息子さんの転職動機もやりがいであって、お金ではないのではないですか。あなたの息子さんは会社という枠を越えて社会を対象化してるんだから素晴らしい活力の持ち主だし、そうした能力のある人がひとつの会社に拘らないことで結果的に日本企業を変革できるのだとすれば日本さらには日本を越えて社会に貢献しているといっていいのですよ」「おじさんみたいに意見をいってくれる人は必要で、今の若い子の中にはアメリカコンプレックスから解き放たれて、昔の日本のよさを見直したいという子も多い。若い子たちと対立ではなく対話することが今最も重要」

そこからさらに交流会の案内をし、非常に共感を持ってもらい、翌週改めてその地域サロンで再会することを約束して分かれました。

目上の方と話がスムーズにいったのは、相手の’70年以前の企業戦士としての実績や自負のうち、評価できる本源的なものを肯定(私権的なものは捨象)した上で、’70年以降の状況認識の転換を迫ったからだと思います。かつては往々にして、高度経済成長の是非を問うとか、労働運動を総括する、戦後民主主義を批判するなどといった後ろ向きの議論になってしまうことが多く、あるいはそうした不毛なバトルをさけるために迎合に流れるということが多かったのですが、過去に拘る(しかも否定的に)ということ自体が旧パラダイム的だったのではと反省してます。

現在、史論版でも古代科学の見直しが進んでいますが、これまで肯定的に見ることが少なかった「私権時代」もその根底には「私権欠乏」だけでは捉えきれない本源的、あるいは社会的な欠乏があったことが見えてきました。(43389、47612)事例は違いますが、こうした歴史を肯定的にみる視点で、労働運動の指導者であれ、企業戦士であれ接すれば、無用な対立を起こすことなく、まつり場をつくることができると思います。

その上で議論の土俵を現在に移行させれば、同じ社会の当事者として現在の目の前の閉塞から可能性について共に語り合うことはできるのではないでしょうか。



山澤貴志
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充足可能性に収束してるおかげで

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
充足可能性に収束するのが古いっていうのはちょっと違うかも。

今の状況は「社会不全」ともいえるけど、それが意識されるのって、「社会の当事者として生きることが可能になった」っていう可能性収束回路が作動しているからだと思う。
今までの認識営業でも、難しいこと考えないでお気楽に楽しんできたミーハーな女の子が、最も新認識に対する親近度が高い気がするのは、そこに、潜在思念で確実に共認社会への道をたどってきた必然性があるように思う。

>本源充足の可能性が開かれたことによって、本能⇒共認の全ての感応回路=潜在思念は、代償物にすぎない感応観念を捨象して、充足基調の実践模索に収束してゆく。(18572)

>『私権から本源へ』の可能性が見えた以上、後はその開かれた可能性を実現することだけ考えれば良い。潜在思念の可能性認識⇒実現思考は、必然的に実現の為の現実対象の仕組みや実現基盤の解明に向かい、現実の構造認識を蓄積してゆく。しかも、潜在思念の可能性認識が明確な実現構造の認識につながる度に、潜在思念の可能性認識が強くなり、実現回路も太くなってゆく。従って、潜在思念の可能性認識⇒実現思考は、必然的に実現構造の体系を構築してゆく事になる。(22202)

古いのは、みんなが旧観念を捨てて潜在思念で充足模索しているときに、実現回路が貧弱故に、「プラス思考」「前向き」「みんな仲良く」etcの古い規範観念(代償物)にすがってしまった場合で、表面上同じように見えるこの両者の見極めは、答えを得たときの反応で分かるはず。

>実現派にとっては、本来は仲間充足の次の社会収束の地平こそが、次に向かうべき世界であり、答え=構造認識さえ与えられれば、すぐに吸収する。つまり、実現派は答えが与えられさえすれば、すぐにでも可能性収束=社会収束する。(25432)



西知子
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さまよう先人の欠乏も若者と同じ

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
>しかし、その中身(=目的)は貧困の消滅→豊かさの実現→私権統合の崩壊と同時に無くなってしまい”先生”の魅力も同時に無くなり、権威は完全に失墜してしまった。
(47340 丸一さん)


人収束(25431)の流れの中、様々な分野で輝いている人を題材にした番組が目に付きますが、先日も豊かな日本を作る為に働いてきた人達を取り上げた番組が放映されていました。

豊かな日本、欧米列強に負けない日本を作るため、石油をクウェートから運んでくる為の世界一大きな船を作るという話で、その船を作る過程で次々と出てくる困難とそれを成員の工夫と協働で解決していくという、私権時代先人たちの活力がそこには描かれていました。豊かになるという社会の期待、時代の期待を背に受けてそれを実現すべく様々な壁を乗り越えていく、そして皆がそれぞれの役割を理解し全うしていく協働の姿には確かに輝きを持っていた。
しかし豊かさが実現され私権統合も終焉を迎えた現在、その先人達も時代や社会の期待を見失い、過去輝きし時代を懐かしむようにも見えたのがとても印象的でした。また豊かさが実現されたことで矛先を見失った事、豊かさと引き換えに浮上した様々な社会問題、また協働作業を通して得られたあの確かな共認充足など、それらをどのように考えれば良いのかといった事に整理がつかないようにも伺えました。彼等のような大多数の生産階級の人達=私権弱者は同じような心境になっているのではないでしょうか。


>現代の若者(もう既にほとんどの普通の人々)は、決して私権社会での上位を目指すのではなく、純粋に社会の期待に応えようとしているのだが、その期待の中身が混沌としてしまっていてわからないのだと思う。ただ、混沌とした感覚だけが顕在化している状態のように思う。(47340 丸一さん)

>つまりは、関係パラダイムの転換にいち早く気付いている、と言うよりも、旧パラダイムにほとんど浸かって来ず、「皆と自分が一体」ということに潜在的には気付いているのがそんな若者達ではないでしょうか。(46916 長谷さん)

>・ 役割が欲しい。仲間からの評価に敏感。
・ 仕事(=バイト)が生活に直結していないから、楽しい事しかしない。
・ みんなで仕事すると楽しくやれる。良くも悪くも、遊び感覚。(46750 佐々木さん)


これら若者の意識を見ると、時代の変化を感じながらも頭で整理つかないまま苦悩し動けずにいる先人達と、もともと旧パラダイムを知らないが故、共認充足を羅針盤に活力をだしている若者達がとても対比的に移りました。
が、先人達も矛先を見失った現在でも今なお胸に残るのが、協働を通じて得られた共認充足であるならば、先人達も若者達も同様の意識のようにも見えました。社会の期待を模索しているという点でも。


>潜在思念が社会収束⇔社会不全に一元化された以上、後は認識収束するしかない。既に人(外向仲間)収束は、その本質価値において認識収束に向かわざるを得なくなっている。
それは当然のことであって、社会不全を孕んで外向仲間に収束したのである以上、外向仲間の収束軸は答え(に近い認識)以外には在り得ないからである。その答え(認識)欠乏も、急速に意識上に顕在化しつつある。 (27715 四方さん)

世代を問わず顕在化している事を感じる。



喜田育樹
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答えを知っているからこそ感じる違和感がある。そこが事実認識の出番。

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
殆どの人は、自分の中で意識の変化を感じていても、それを単に自分の中だけの変化だとか、年齢や経験による変化だとか、そういう風にしか捉えられていないと思います。
今日会った人もそうでした。
「最近になって、色んなことにふと疑問がわいて色んなことを知りたいと思うようになって、勉強しようと思い始めた。遊びたいという欲求がほとんどなくなった。それって、環境が変わったり、色々経験してきたからかな。」と。

同じことを感じてるのになんか違う気がして、しばらく考えて、「うーん、でも本当にそれだけかなぁ?よく考えてみて。私たちの学生の頃は、社会のことなんか話すのは敬遠してたし、実際楽しけりゃいいじゃんって思って何も考えてなかった。でも、今の学生は本当に色々よく考えてる。それに少し前までは、全世代共通して、遊ぶために働く・働いて余暇を楽しむっていうので満足してた。でも、今はそんなことを求めてはいない。だからこういう変化っていうのは、世代差とか個人差とかじゃなくって(そんなことは大きな変化の中のささいな差に過ぎなくって)時代全体がそうなっていると見た方がいいと思う。」と一生懸命伝えてみました。
しどろもどろで飛び飛びで、全然順序よくも分かりやすくも言えなかったけど、そしたら向こうもちょっと考えて、「あぁ。そう、人々の求めているもの=現実が変わってきてるんですね。」と気づいてくれたんです。

少しだけ、『現実=人々の意識』の認識を、使えた=伝えれた気がしました。



西知子
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時代認識・状況認識が活力を創る。

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日、若い学生(男性)と話す機会があった。
彼は自然科学が大好きで”勉強””研究”がおもしろくて大学から修士過程へと進み、現在ある大学の物理学科の博士過程に在籍している。
しかし、最近、研究そのものにも、そして、研究職や大学組織にも魅力を感じられなくなり、将来のことに悩み始めた・・・という事であった。

今までなら、大学の研究職に就くのはエリートで、評価の収束先であって、まさに”先生”であったのだが、今や魅力を感じられない・・・。

自然科学分野の研究は、文字通り事実追求であって、解らない事、不明な事を解明する、という行為なのだが、その活力の源泉は「その時代(=社会)の期待に応える。」という事にあると思う。

実際、今までの時代の”研究”の最終目的は、便利な道具や機械=”物”を作り出す事だったし、同じように、先生と呼ばれてきた人達(政治家・経済等の文系の研究者、評論家・学校の教師)の目的も、個々人及び集団(企業・地域・国家)の私権(金、地位・名誉、或いは軍事力)確保が第一にあって、その延長線上で豊かさ・便利さを実現する、という事だったのだと思う。
時代の期待(=社会の期待)が、私権確保と豊かさ・便利さ追求にあれば、期待に応え、これを実現してくれる人達は”先生”と呼ばれ、活力を得られたのだと思う。

しかし、その中身(=目的)は貧困の消滅→豊かさの実現→私権統合の崩壊と同時に無くなってしまい”先生”の魅力も同時に無くなり、権威は完全に失墜してしまった。

現代の若者(もう既にほとんどの普通の人々)は、決して私権社会での上位を目指すのではなく、純粋に社会の期待に応えようとしているのだが、その期待の中身が混沌としてしまっていてわからないのだと思う。
ただ、混沌とした感覚だけが顕在化している状態のように思う。

>私たちが求めてる「中身」っていうのは、夢や希望なんかの幻想じゃな
>くって、時代認識・状況認識という、現実そのものなんだと思った。
(46639)

彼自身(言葉としては出ないが)、本当は現実そのもの(=時代認識、状況認識)をしっかり掴みたいのだと思う。又、そうしないと、研究の意味が掴めない、活力に結びつかない・・・という事も直感的にわかっているのだと思う。

現実を直視し、時代認識・状況認識を得たい、そして、期待(=みんな期待)に応えたい・・・誰もが持つ最も深い部分にあるこんな期待に一つ一つ応える事が、次代を創る事なんだと思った。



丸一浩
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テレビの視聴率の急落

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
正月明けに友人と会い、その時に正月のテレビ番組の視聴率が急落しているという話を聞きました。(その友人がテレビ関係の知り合いから聞いた話しだそうです)
昨年までは正月に家に居る人はテレビを見るくらいしかすることが無い、という事もあって人気番組の視聴率は必ず30%近くを取っていたそうです。ところが今年は番組の視聴率の最高が20%を割り込んだらしく、テレビ局はかなりの危機意識を持っているようです(駅伝などの3時間以上の
長時間番組除く。ちなみに最高は藤田まこと主演の「はぐれ刑事純情派」でそれでも19%、この番組は固定ファンが多く、普段の視聴率と大きな差が無い)。とりわけバラエティやお笑い番組の視聴率の凋落が激しかったそうです。

実際正月にたくさんの人に出会いましたが、どこに行っても、「最近テレビが面白くなくなったなあ」というのが共通の話題。急速にテレビ離れが加速し始めたことを実感的にも感じます。そしてその後(とりわけ年配者から)出てくる話は、「出口が見えん」「日本はいったいどうなるのか」です。昨年の正月であれば、テレビが面白くないなどという話題は殆ど無かったし、社会の話にしても「景気はいつ回復するのか?」というレベル。まさに僅か一年間での人々の意識の変化のスピードには驚きます。

潜在思念のベクトルが「共認不全」から「社会不全」に転換し、それが顕在化し始めたこと。そして「答え欠乏が」顕在化し始めたこと。(そして、勿論その答はテレビには無いという事を皆、とっくに気付いていること。)それらのことを肌で実感したこの新年でした。




北村浩司
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パラダイムの狭間で彷徨う世代

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「現実感覚が薄い」というのは実は一面的で、むしろ「新しい現実が像を結んでいない」状況かもしれない。世の中を浮遊しながら、潜在思念では新しい現実を対象化しようとしている。(46625 宮川さん)

先日、大学1年生の従弟と話していて同じようなことを実感しました。強く感じたのは、新しい現実を掴むことのできる場、可能性を感じられる場を探しているということ。

受験勉強をして大学に入ったのはいいけれど、特段やりたいことがない。遊びに強く収束することもできないし、本来の課題である大学の勉強にも魅力を感じない。先に控えている就職のことを考えても、いったい自分が何をしたいのかわからない。どうも普通の企業に入るのは可能性を感じない。企業もその一つだけど、大学とか政治家とかそういった権力に凄く違和感がある。かといってベンチャーやNPOにも限界を感じる。

彼から出てくるのは、旧パラダイムへの違和感と諦め、そこから来る潜在思念の可能性探索。正直、自分と10歳も違わない彼の先端感覚に驚きました。最も驚いたのは、「今の日本、どっかズレてるという感覚がある。そんな中で必要なのは”夢”じゃなくて、現実の中身をみていくことちゃうんかな」という一言。

彼の話を受けて、一体なぜ既存の企業に魅力を感じないのか(私権の終焉)政治家や大学などの権力に違和感を感じるのはなぜか(役にたたない旧観念→旧観念無用)「現実」とは何で、これから何に可能性があるのか(脱集団→社会に出る)と言う流れで認識を伝えたのですが、すっきりすると同時に、自分たちの実感が間違っていないことに安心した様子でした。
彼が言うには、自分だけじゃなくて友達の殆どがこういった違和感を持ってる。だけど親や教授は、旧い考えしか押し付けてこない。凄いギャップを感じているとのこと。

若者が「現実感覚が薄い」と言われるのは、旧パラダイムをもはや全く対象化していないだけだと思いました。それゆえに旧い世代から見れば、現実逃避しているようにしか見えない。しかし、全く役に立たない観念に囚われて意識潮流の変化を見抜けない旧世代と彼らを比べると、どちらが現実を見据えているかは一目瞭然。
これだけ、社会不全と新しい欠乏を感じている中で、旧パラダイムを押し付けられたら、引きこもりが増加するのも仕方ないと改めて感じました。
宮川さんの言われるように、チンケな運動にからみとられたり、旧パラダイムに可能性を蓋されない(引きこもり)為にも、我々が認識営業を頑張っていかなければなりません。

彼には、るいネットと同時に交流会を紹介したのですが、企業や集団の枠を超えて活動する社会変革と言うところに可能性を感じた模様で、「今の社会に違和感を感じてる友達は大勢いるから、交流会を紹介してみる」と言ってくれました。



西谷文宏
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「自分の夢」でごり押しする手法はもう、通用しない。

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
「自分の夢」と「私権の可能性収束の思考方法」が一体、っていうのはなるほどなーって思った。ネットワークビジネスでトップが語る成功談に必ず出てくるのが「自分の夢」だし“夢の実現を可能にする仕事”っていうのが売りだった気がする。

けどもう今は「自分の夢」とか言ったら濃すぎる人としか思われないし,学生の起業志向も、「皆の喜ぶ何かを提供する」が中心になってる。(だからお店つくりが中心)
“みんな”が視野に入ってるから必然的に、飽和状態のモノじゃなくって意識領域が求められてるってわかってるんだろうな。

現在はネットワークビジネスもさすがに、人収束や超集団を売りにしてるのかなって思うけど、みんなの期待を正確に捉えるならモノじゃない、っていう結論は簡単に出ちゃう。
みんな(社会)の期待と相容れない点を「自分の夢」って言葉でごり押しする手法ももう、通用しない気がする。



中野恵 
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無数の可能性に満ちた時代

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
>今、社会や時代がどう動いているのかを知りたいという欠乏や期待は誰にも生起している訳で、それらに応える次代認識を語ること自体がそもそも“共認闘争”であるのは、探求姿勢が欠かせないという意味でも、当然だという気持ちを強くしています。(Msg45943土山さん)

先日、とある公立高校の先生の方々と話す機会があった。公立高校も内部の改革に取り組んでおり、外部からの評価を聞きたいとの事であった。通っている生徒の楽しいという声の一方で、茶髪でだらしないという地域の批判もあり、そんな声を直接教師にぶつけたいという校長の意図もあったのだろう。

しかし、当日は個別の評価の前に、「新しい潮流」を下敷きに、中高生や若者たちの仲間収束から外向収束の話をさせてもらった。これらの状況認識なしに実現の基盤は発掘できないだろうと思ったからだ。

認識営業という側面から考えた時、るいネットで語られる実感というのは、初めての人たちと話す時の最強の共感ツールだと思った。荒っぽい論理を肉付けてくれ、深くうなづいてくれるのは引用したそんな言葉たちである。

そして、新しい活力源に言及すれば、私権統合や共認、不全や解脱などなどるいネットで使われている基本概念を使わざるをえなくなる。簡単な補足だけで伝わるかという不安をよそに、新しい可能性を感じたかの反応はそのような概念を使い始めてからである。

結局、具体的な個々の評価や方針には一切口出しせずに会談は終わった。終わると同時にその場のあちこちで、数人が集まって個々の課題の具体的な検討が、誰が言うわけでもなく始まった。

旧観念を蔓延らせる温床のような学校でさえ、旧観念ではもはや閉塞状況を突破することができないと、潜在的には気付いている。現在ほど、確かな状況認識が求められる時代もないのだと思う。そして、これさえあれば、個々の現実課題にも無数の可能性が満ちた時代なのである。



石野潤
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どこでも認識営業を受けました

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近、ある案件の近隣説明の戸別訪問に廻っていますが、あるお宅の奥さんから認識営業を受けました。
その家は、日影の影響も少なく、一通り計画の説明を終えると、「まあ、うちは反対しないから、特に意見も無いわ。それよりもこの新聞すごく勉強になるから読んでみて」と政治系のタブロイド誌のバックナンバーを10数部手渡されました。
その場で一部を見ると「ジェンダーフリーは女の敵」「経済常識のうそ」等の見出しが並んでいました。
ご主人が編集しているのかと問うと、主人とは何も関係ない、この新聞を売る気も無いとのこと。ただ自分が呼んで感銘を受けたから、色んな人と認識を共有したくて、バックナンバーを大量に購入して、皆に配っている。差し上げた人から、反応が帰ってきて、また新たな考え方やものの見方を勉強できるのが嬉しいからという理由。
読んだらまた参りますと約束して、次の家へ移ったが、どこでも営業は既に世間で始まっていた事実に驚かされた。
認識の必要性、勉強の必要性に目覚め、それを誰かと共有したいと思う人は、実は身近にたくさんいるのだという事を実感しました。



下城浩一
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認識コンパの成功で、異世代交流会の可能性を感じました。

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback
この前の日曜日に、若い知り合いとその子の専門学校の同級生4名(年齢は18~20歳)と認識コンパをしました。事前に、恋愛関係を望んで開くものではなく、君たちの意識について聞きたいのでそのつもりで来て欲しいと伝えておきました。

結論から言えば、「異世代交流会」の可能性を強く感じました。

まず、
>同じ世代の子達と話してて思うのは、人収束・外向収束はもう自覚してるってこと。卒論のテーマやバイト先を選ぶ際も「より多くの見知らぬ人と話す」機会が多いものを探している子が多い。また、それを楽しんでいる感じ。

>また、社会不全(企業不満・政治不信・環境不安など)も、すぐに共有できる。もちろん「答え」を求めてもいる。ただ、その元凶・突破口が「観念(認識)そのものにある」というのが、なかなか実感できないのが現状。<(社会統合、44883)

という状況を体感しました。

こちらが話題を振るとでてくる言葉は
「学校の先生はいいかげんで嫌。言うことはすごいけど、実際にはぜんぜんできていない。」
「学校の授業でフロイトやユングなど本を読んでいると頭がおかしくなり憂鬱になっていく。」
「社会人になったら、何がしたい?」→「仕事です。」(私権圧力からくる仕事なら何でもという感覚ではない)
「自分は、恋愛ができなくて困っている。この年代で人を好きになることができてないことはおかしいのでしょうか?」
「男の人と深い話をしていくと、相手はすぐに恋愛の対象として自分をみる。自分はそうではない関係で深い話がしたいのに、男女は恋愛関係以外で深い話はできないのか?」

と新認識に誘導できる言葉がポンポンと飛び出してきます。

それらに対して、新認識をもとにできる限りの答えをしてあげるのですが、相手はこちらの解答を得るたびに相手の活力があがり、まさに「ミニ祭り場」になりました。
潜在思念では、今の社会を形づくっている観念へのおかしさを感じてはいるものの、それにかわる答がみえない。旧観念の捨象は着実に進行しているが、その先の収束先がみえない。だから、自分たちに意識を統合してくれる答え(観念)があれば、活力が上昇していく様子がまざまざと感じられました。

コンパが終わったあとで、携帯でメールをもらいました。
>いろいろなお話が聞けてたいへん勉強になりました。アリガトウゴザイマシタ。<



槇原賢二
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安全欠乏の根底にある統合欠乏

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
>その、より深い欠乏って何なの?」と聞かれても、今はわからない。
ただし、各個人レベルが求める安全性などではなく、(大袈裟に言えば)人類という種レベルの欠乏だと思う。そして、その答えは食問題や農業問題だけでなく、環境問題にも答えられるものだと思う。

(44371佐々木さん)

ここ最近の投稿を拝見して、安全欠乏は直接的に統合欠乏から来ているのではないかと感じています。

 そもそも、「安全」という概念が広まってきたのは、貧困が消滅して、文字通り生存圧力から開放されてからだと思います。

 原始生物以来、危険なものからは逃げる(危機逃避)、有用なものには近づく(ex.捕食)という行動は、我々まで、一貫していると思います。 しかし、貧困が消滅した現在の超肥大社会においては、危険とは、特定の対象を指すのではなく、社会システムの危機を意味するので、全体を知らないと危険か否かのの判断さえままならないといったところでしょう。
 そこで、ある限られた対象(例えば食物)に関して、具体的な安全像を作って(安全という価値観念を作って)、そこに収束することで、その場しのぎしていると言えるのではないでしょうか。
 つまり、すっきり統合したいけど答えが見つからないということの現れが、安全欠乏だと思います。
 
 期待応望関係で人間関係が統合され充足できていた時代には無かったのに、バラバラの個人に分断された社会になって「幸せ」という概念が登場したように、「安全」とは、現在の統合不全を埋めようとするために作られた代償の価値観念に過ぎないと思います。一見、生物の適応に沿ったものように見えて、実は、正反対と言えるのではないでしょうか。

 その統合欠乏に答える認識こそが農に限らず必要とされているのではないでしょうか。



長谷暢二
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>旧い友と新しい関係へ

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「久しぶりに会ってこんな会話できるとはおもわんかったわぁ。これから、もっともっとこういう話をしていこう。そして、もっともっと人を増やしていこうという話をしよう。」と満面の笑みで応えてくれました。

先日、2年ぶりに会った大学時代の友人が同じようなことを私に別れ際に言ってくれました。

ゲームソフトの製作を生業としている彼は、会うなり「ゲーム脳(参考42351)」の話を持ちかけてきました。「しかし、ゲーム脳を生んでいる要因は、単にテレビゲームだけでなく、様々な情報を条件反射的に受け止めるしかない今の社会そのものにあって、そこをなんとかしていかない限り、ゲームだけを責めたって解決しない。」と彼。

それは、生業のゲーム製作が社会問題を生んでいるという現実は、仕事が社会貢献とは逆ベクトルに向いていて、でもそれをしないと生きていけないという、なにか矛盾を抱えた存在となっていることに対する不全でした。

上記のような話から会話が始まりました。でも、こういう矛盾は、例えば私は建設に関わる建築設計の仕事をしていますが、この仕事だって環境や人体に悪影響を与えていて、ひいては今の社会の誰もがそうした矛盾を抱えています。だからこそ、こういう現実を突破できる可能性を探さなきゃいけないのでは、という言葉を彼に返しました。

「そうそう、そう思う」という彼の相槌とともに、それが人々の意識が社会という場へ出ようとしている潮流を示すなによりの証拠で、この地平に立てるか立てないかが、活力の再生にかかっているんだと伝えると、すごく納得してくれました。

事実、彼の会社は社内掲示板を活用して社員の活力向上を図っており、そういうこともあって終始、社会の話や活力の話で盛り上がりました。また、彼は行き着けの飲み屋が数件あるらしく、そこでの様々な出会いに魅力を感じていているようで、まさに時代の潮流にいる人だったのです。

夜10時に会って、気が付けば午前4時。かつてのしがらみ仲間だった彼が、もはやその面影もなく、認識仲間として再会できとことが私にとって何よりの喜びでした。



福島健
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社会を探索する地平にシフト

Posted by ななし on 18.2016 記事 1 comments 0 trackback
>一対一の会話はその課題を、夫々の私的関心に合わせて探り合わせることで始めて成立する、いわば閉鎖的行為である。(43771)

 大勢で話しても内輪話(=個人や集団の枠を出ない会話)では、魅力も活力も感じなくなってきました。見知らぬ人と話す場合でも、各々の内輪話の交換に止まる限りは退屈で、社会探索や状況認識の地平に移行した途端に(内輪話をもこの地平で捉えた途端に)、一気に互いに相手を見る集中力や反応充足が上昇するのを感じます。

>社会空間は常に評価共認⇔評価競争の圧力で満たされ・・・
>人々の外識機能は、必然的に個人や集団を超えた社会圧力の把握へと先端収束する。換言すれば、人々の外識機能は個人や集団を超えた最先端の状況認識へと収束する。
>この認識基調(社会収束)の下では、原基共認(期待に応える充足)の対象が個人や集団を超えた、より広い対象(より多くの人や場)に向かうのは必然である。(『社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力=社会圧力』24647)

 わずかな認識営業を通してでも、この「必然性」は実感できました。最も強力な「外圧適応態」としての「可能性収束=統合」(実現論1_1_01)に乗っている必然性だから、誰でも実感できます。見知らぬ人が会する社会空間に身を置いたら、社会を探索する地平にシフトする、後は評価共認の圧力が推進してくれます。




岡本誠
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次の出会いのための宿題?期待?

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
最近、知らない人と話をするたびに、また会って話をしてみたいなぁと思いながらも、どうしたらいいのかと考えていて、昔のことを思い出した。
学生時代よく通っていた店に集まるおやじ達は、顔を出すたびに宿題を出してきた。
「若造、世の中の仕組みって分かるか?こういう風に考えたことあるか?学校で勉強してても答えは出んぞ。もっと考えてみろ」と。
今思うと、その中身は役にたつものだったのかどうかは怪しいのだが、僕は、その話の続きや答えが知りたかったし、その連中の話に入れるようになりたくて、ついつい通っていた。
彼らが営業のためにそうしていたのではないと思うが、話題の中身や、その場の雰囲気に吸引力があった。


そんなことを思い出してから、僕も同じように宿題とは言わないまでも、別れ際に、そこででた話題に対して違う視点を投げかけるようにしていた。
先日、その甲斐あってか、行き付けの店で「この前の話の続きなんですけどね」と、話しかけられ、しばし話をすることができた。
そして、別れ際に次出会った時のために、また一言投げかけてみた。

新しい気付きが次出会うための欠乏になれば、徐々に認識の必要性に気づいていける関係になるのかもしれない。


田中健太郎
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50代のおしゃべりから、次代認識へと繋がった体験

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
この間、社会に向っての営業活動(認識営業)を通しての、ある実感を私も一つ。

新たな思いで試みてみて、50歳~60歳の所謂中高年層のおしゃべりテーマのほとんどが、この3つに集約されているように改めて思う。
1.自らが所属している企業集団にまつわる話。
2.自らの家族、女房か子どもにまつわる話。
3.所謂政治談義。

先日も、飲み屋で、この世代3人で話の花が開いた。
私と、一人は知り合いの博多から出張の会社役員Kさん、もう一人は初対面の元金融関係会社役員のIさん。おきまりの3っのテーマ-がひとしきり終わって、Kさんの息子さんの話から意外な展開が始まった。

まだ26歳のその息子が折角就職した大手有名企業を辞めて、友達3人で独立したいと言い出して、久しく子どもと親との激論になった話。

その息子が「僕はおやじの進めで大企業に何とか就職したが、やる気がわかないし充足できない。展望も感じられない」「僕は世の中に出て何か役に立てると実感できる仕事がしたい」「この1年間友達と一緒に会社を作ろうと悩み・考え始めて、その中からやつと世の中に出ることの実感が沸いた。そして金融、経済、産業や政治の問題が社会の問題なのだということがわかりはじめた」とまじめに話す中で、ハット気づかされた、とその親父Kさんが真顔で語り始めた。

オタクで引っ込み思案と思っていた息子が逞しく思えたし、何よりも自分は30年間世の中に出て必死に仕事をして来たと思っていたのに実は限られた集団(会社と家族)を通してしか何も見ていなかったし、考えてこなかった事実を、子どもに教えられたと。

ここからはそれまでのオシャベリ、ボヤキを超えて今の時代をどう認識すればいいのか、30年間の固定観念は捨てねば、と直球の真摯な会話に弾んだ。

一番年上のIさんが見事な聞き上手な人であったことも幸いであったが、本当にお互い、いい話し合いが出来たと3人の共通の感想。
またこんな話し合いの場がもてればと、再会を約しての散会となった。

同じ世代の仲間なのだという思いでふれ合ってみてつくづく感じるのは、何がしか懸命に時代を生きてきた人たちはみんな、現実の時代の変化にたいして真摯な気持ちで受け止めようとする思いがにじみ出ているということ。
私権時代末期の現実を30年も生きてきた人たちの多くが心の底に警戒心を色濃く抱え込んで、葛藤もしているとはいえ、しかしもう不全感や固定観念にも辟易し、次に向う状況に差し掛かってきているということ。

世代間の違いを評論していても仕方ない。
世代を生きた当事者として、共に生きている今を如何率直に感じ取り、認識し、革めて現実の生きた勉強をし始めるかが問われといることをつくづく思うし、みんながそう思い始めていることに可能性を実感する。

さて今度、3人の話を忙しそうにしながらも聞いてくれていた店主に感想を聞きに行こうと思っている。




八木繁昭
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サラリーマン

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
異業種交流会に向かうサラリーマン、ネットワークビジネスに向かうサラリーマン、そしてひたすら企業に埋没しているだけのサラリーマン。

サラリーマンも様々ですが、彼らに共通して言えるのは“サラリーマンであることの危機感”を皆、大小抱えていることです。

こんなことをネットワークビジネスに参加している知人を持つ認識仲間が、教えてくれました。

先のわからない社会、そんな中で企業(集団)に留まっていては、ますます社会から遠ざかっていくような不安感や不況による雇用をめぐる存在不安。そんな自らの危機感に敏感に反応している人は異業種交流会などに参加していきます。

しかし、ここで出会えるのは仕事こそ違えども皆サラリーマン。サラリーマン同士、互いの漠然とした危機感は共有できても突破までは出来ない。ここをさらに突き抜ける人は、ネットワークビジネスに参入したりするようです。

そんな彼らの関心ごとは、ビジネスの内容よりも、そこで出会える人にあるようです。企業経営者をはじめこれまで出会ったことのない人達が集まるという性格もあって、そうした人達から実におおくの刺激を受けるようです。現実を突破できる人に収束しているんだと思います。

友人関係にしろ、仕事関係にしろサラリーマンだし、そしてどこにでもサラリーマンはいる。こんな話を聞きながら、サラリーマンが皆、原猿のように彷徨っているんだなと思いました。


福島健 
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若者の当事者欠乏

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
先日、テレビで「就職しない若者達」という内容の番組を見ました。そこでのある若者(就職したが仕事内容が合わず一ヶ月で退社)の「生きるって大変だなあ」という言葉が印象に残っています。

「若者のフリーター化によって将来の日本は危ない」よく聞く言葉です。しかし、そこから先の言葉がなかなか聞かれない。若者は就職しない→就職しろ。というだけではなんの効果もありません。先に挙げた若者の言葉は、「働いて、お金を稼いで生活する」という意味での「生きる」という言葉と、「現在の殆どの企業=カタワ集団の中で不全と闘いながら仕事をする(生きる)」という意味での「生きる」という二つの意味があるように感じました。

就職しない、就職してもすぐ会社を辞める。現在の若者にこれらの原因がないとは言えません。しかし、明らかに旧態依然とした親(大人)の価値観、旧観念もあるように思いました。

43525で佐々木さんが挙げられた資料をみると、学生が重視しているのは、クラブ、サークル活動、アルバイト、資格と「自分たちが何かしらの形で実現したこと」を見て欲しいと思っているのではないかと考えます。その意識の下には「就職してからも何かを実現したい」という当事者欠乏の表れが感じられます。

大学、企業、学生(若者)それぞれが危機感を募らせ、答えを捜し求めている現在、ここでの様々な認識は非常に有効な物であると考えます。

高利
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可能性を見出すための「勉強の必要」ならプラス化できる

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
 「勉強しよう!」ストレートでいいですね。
 しかし普通の人は、“なんらかの勉強”の必要には表面上共感してくれても、私権社会での経験上は“勉強は苦しい嫌なもの”“現実には役に立たないもの”と擦り込まれているので、半端な気付きではなかなか行動には移せないようです。

 これに対して、こんな感じで『観念パラダイムの逆転』を紹介すると「不全発から可能性発へ」の転換の一丁上がりです。

「ほんま世の中、見通し暗いですなぁ!!」「そやなぁ!新しい可能性を見つけるためにも、古い頭を切り替えて、勉強し直しまへんか?」「えっ!?」「るいネットちゅうとこでは、悪いとか暗いとか言われてる状況の中から、意外と新しい可能性の芽が見えてきてるちゅうオモロイ話が出てまっせ!」「ほんまでっか?」

 世間話で社会不全の溜息が出たら、新しい認識を紡ぐ(仲間を増やす)チャンスです。
 世の中これだけ不全だらけだと、この八方塞の中で可能性(オモロイこと)を見出すには、新しい頭(認識・視点・概念装置)がいる⇒「勉強の必要」に誰でもストレートに繋がりそうです。



平野令
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「とりあえず」の資格勉強はやめよう

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback
>資格欠乏といっても激動の時代、もはや旧い権威をかさにきた資格を人々が求めているかというと実はそうとはいえない。本音は資格よりも勉強にあるのだろう。<(42300)

「とりあえず大学院」「とりあえず資格」という意識を多くの学生や社会人が持っていますが、確かに「何とか社会で適応していくための能力を身につけたい」という潜在意識が根底にあると思う。ただその具体的な発現方法がわからないので、マスコミや政府や学校法人の宣伝に半ば意識的に乗っかっているだけ。

私が就業している不動産業界でも、近年賃貸借契約に関するトラブルをめぐる紛争が増えている。それは今まで家主主導で締結されていた契約をより偏りのないものへと是正する流れとも言えますが、一方で「最近急増しつつある司法書士あるいは弁護士の仕事作りの側面がある」との意見も聞きます。つまり、仕事の必要性を無理やり作り出しているような状況とも言える。

きっと資格勉強に励む人は「社会の役に立ちたい」という思いで必死で勉強していると思う。でも一方で多くの人が「面白くない」「むなしい」勉強であることを認めているのではないか?なぜならそれは必要に迫られたものでもなく、自分自身の潜在思念(そこでは新たな「社会」の可能性を感じているはず)とも整合しない、旧社会持続のための勉強だろうから。

認識の勉強という(潜在思念に直結する)課題に気付くことができれば、必要性の感じられない「とりあえず」の勉強は終わると思います。



竹村誠一
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受け取る側にいたい

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback
(それが胡散臭いものであっても)社会的理念を掲げる企業に学生が流れるようになって、既に何年かたったと思う。私自身はそのムーブメントを肌で感じることは無かったが、私の就職時期でも、広告業界やコンサル、リサーチ会社に就職しようとする学生は多かった。むしろ、そちらを選んで就職活動をする者の方が、「よく考えている奴」であった。

私は当時、自分の持っている情報や考えを「発信する」側で生きたい人間が多いのだと考えていたが、今は逆であったと思う。一般の人が考えている事を「受信する」側で生きたい人間が増えているのだと。

昨今の企業の採用活動でも、「企業間のコラボレーション」をウリにする企業が増加しつつある。これは、自企業のイメージの弱さに対する自信の無さの表れではなく、学生のある一つの集団に閉じこもっていたくないという気持ちを反映している。

単一集団に対して限界を感じ、様々な人々から「何か」を受け取りたいと思う若者の動きは、単なるムーブメントで終わりそうにない。



内藤琢
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物販ネットワークの凋落

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
>実は、『認識の営業は相手を選ばない』というこの点こそ、知人勧誘に頼るアムウェイetcの物販ネットワークを認識仲間のネットワークが凌ぐことのできる、最強の実現基盤となる。もちろん、『現実に使える認識』が、いかなる商品にも勝る価値を持っていることは、云うまでもない。(msg41154「認識の営業は、相手を選ばない」)

物販ネットワークの最大手であったアムウェイのここ数年間の凋落ぶりは凄まじい。東京商工リサーチがまとめた「全国高額所得法人動向調査」によると、課税所得にして1998年に前年比44.1%減、1999年は前年比34.9%減、そして2000年51.9%減となり、10月3日主要株主の意向のもとエヌ・エイ・ジェイ(株)に吸収合併され解散した。

リンク (1998年8月期)
リンク (1999年8月期)
リンク (2000年8月期)
リンク (2000年10月期)

‘70年代貧困が消滅し、’80年代豊かさが実現されるとともに、物的需要が飽和点に達した。だぶついたお金は、一方では土地や株式という投機へと向かいバブルを形成したが、もう一方で物販ネットワークを成長させてきたようにも思える。そして、バブル崩壊以降も物販ネットワークは成長を続けてきた。あたかも、市場に変わる新しい可能性を孕んでいるかのように。


確かに、物販ネットワークは、受動的な消費者ではなくネットワークを広げる生産者でもある点において、市場にはない力を有していたのであろう。それは、人々の当事者欠乏の現れだったのかもしれない。

しかし、広がりが限界に達すると、新しいアイテム(高額商品)を次々そのネットワークに乗せて自転車操業するしかない。そのような構造が、絶えないトラブルと胡散臭さの原因なのかもしれない。知人勧誘に頼るゆえの限界である。

売上拡大の可能性によって結ばれた物販ネットワークは、その可能性が失せたと見えるやいなや、あっとゆうまに解体してしまったかのようである。

なによりも、物的欠乏など古いのだ。生産と消費の当事者というパラダイムもまた時代遅れなのであろう。物販ネットワークの凋落とは、その目標を導いてきた私権観念の崩壊と時を同じくしているのかもしれない。そして、入れ替わるように捨象しきれない社会不全が顕在化してきた。




石野潤
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探索する主婦たち

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback

>「集団」から離脱した人々が、外の世界(状況あるいは社会)を把もうとするのは、当然である。そしてその社会は、全面的な閉塞状態にあり、不全感で充満している。とすれば、人々は新たな収束先=答えを求めて、必然的に探索過程に入ってゆくことになる。というより、既に潜在思念は探索過程に入っている。これが、外向収束⇒認識収束の潜在潮流である。(40914)

最近の新聞で、「小説の販売数は落ち込む一方であるが、懸賞小説の応募は盛況で、特に主婦層からの応募の増加が顕著である。」という記事を見かけた。

その記事では、パートの勤め口が減り、収入の不安と空き時間を持つ主婦が増えたことを主因とするお粗末な分析がなされていたが 、この現象は明らかに彼女らが「新たな収束先を求めて、探索過程に入った」ことの顕われだと思う。

サークル等での古い人間関係の中では充足できず、認識欠乏、評価欠乏を充たすため足掻いている一つの証ではないだろうか。

しかしながら、懸賞小説の応募は評価欠乏は充たせても、如何せん自分一人だけの作業である。社会との繋がりや新たな認識を得る機会も少なく、不全の解消には程遠い。

私権集団に属さず、旧観念からは身軽と思われる彼女らはすぐにそれに気づき、新たな「探索」を始めるであろう。
探索が認識形成サイトに行き当たり、答えを見出すのも時間の問題のように思う。



大河明日
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ふっきれた人のイメージ

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
私権社会からの離脱者というと真っ先に、脱サラして農業に従事している人とか、完全にドロップアウトしたホームレスの人が思い浮かぶが、彼らから「得体の知れない負荷」から開放された爽快感のようなものは、とてもじゃないが感じられない。

それは、彼らなりに潜在思念で感取した社会不全と正面切って対峙することを避け、構造化しようとしないまま逃避してしまったためなんだろう。

>潜在思念に導かれるままに制度をふっきれた人(40446)

とは、潜在思念で社会不全を感取した後、私権制度の問題性や無意味さに正対し、その構造を理解した人なんだと思う。(参考 18572)



大森義也 
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全集団を対象化した画期的な認識

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
> 本当は社会に出た(=社会の当事者になりたい)のだとすれば、「集団」を超えた人(ヒト)収束⇒認識収束の潮流が、私権の衰弱と同時に生起したのは当然のことだったということになる。

「就社ではなく就職しろ」就職活動の頃、盛んに聞いた言葉だ。
さらに思い返せば、機を一にして猫も杓子も資格ブーム。
私権観念(私権意識?)による言葉ではあるが、既に数年前からこの「本当は社会に出た」という意識は顕在化していたのであろう。

ただ、ここに私権観念の悲しさか如実に現れている。
「就職orリストラされない」といった、自身の身分保障しか対象化できず、出てきた言葉は「市場価値を高めろ」や「資格を取れ」といった程度。これでは、たとえ仕事技術の面はこなせても不全は蓄積する一方。
なにしろ、今や人々の期待を捉えずして仕事全体が上手く進むことなどありえない。さらに(言うまでもないが)僕達には仕事技術の以外の課題もある。育児教育・仲間関係・男女関係、資格はこれらを解決してくれない。

「本当は、「集団」に入ったのではなく、社会に出たのだ」
(現状の)全集団を対象化した上での、この言葉は画期的である。
少子化、いじめ問題、若者の精神破壊、もちろん仕事関係、男女関係に対して、新たな認識がここからあふれ出てくる予感がする。



佐々木健二
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既存の関係世界も、「カタワ」な関係だった

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback
> 何の共認基盤もない根無し草の様な頼りない存在である我々は、何とか仲間を作ろうとするが、そこでは互いの間に殆ど共同体験がないので互いの自我欠乏を自我共認によって充足させる自我仲間にしかならず、また「集団」によって私権課題が強制されているので、その不全から解脱する為の(課題を捨象した)遊び仲間にしかならない。 (40426)


 集団だけでなく、既存の関係世界も、ことごとく、どこか「カタワ」な関係だったのではないだろうか?

 自分で自由に選んだ友人、自由に選んだ彼女、彼氏、自由に選んだ知人・・・。

 その場、その場では、大事な関係だと思っていたのに、「忙しい」、「余裕が無い」など、しばらく会わないうちに、いつの間にか、突き詰めれば、居ても居なくてもどうでもよくなってしまう。
 「友情」「愛情」といった、大仰な言葉で飾らなければならなかった関係ほど、実は、どうでもよい関係だったのかもしれない。

 そのことに気付いているから、人々は、新しい関係を求めて、さまよっている。しかし、必要性や意味を持った人間関係は、どこにもない。だから、次から次へと、相手を変えて、さまよい続けるしかなかった。

 今、その「必要なもの」が、現実を変えることのできる「答え」=認識だとすれば、その「答え」によって、「カタワ」な関係を変えていけるのだろう。

 もう「答え」を求めて、さまよい歩く必要は、ないのだ。



阪本剛
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学歴も身分制度の一種だから

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
>受験制度の弊害は、既に何十年も前から言われている。それにも関わらず、まして少子化時代の現代もなお、このシステムが機能しているのは何故なのか?必要か否か?そのことをもう少し突き詰める必要があるのではないかと思う。

私の周りではすでに、親も先生も子供同士も、勉強の中に全ての現実があるわけではないことも知っていたし、学歴に過度な幻想や理想は持っていなかったと思います。
でも、「勉強なんか」と否定しませんでした。それって、単なる現実否定でしかないって分かってたからだと思います。

頭の中でお金という現実を否定してボランティアするのも、頭の中で学歴(身分制度)という現実を否定して不登校になるのも、同じ構造だと思うんです。自分たちが否定する市場や国家(身分制度)の恩恵を受けて、自分たちの主張を通しているに過ぎない。

>国家の主柱を成す力の序列⇒身分制度が表面上は無くなっても、他に代わるものがないので、これまで社会を統合してきた国家機関を、人々が仕方なく統合機関として共認することによって、統合機関としての面目を保ち、今も社会を統合しているに過ぎない。(32086)

結局、役に立たないと分かっていても、他に代わるものがない限り、普通の人は、その中でとりあえずそれなりに充足しているのが現状なんだと思います。(参考:19273全てのネックは「答えを出せない」という一点にある)

そして、新しい評価制度を考えようとすれば、29835『超国家・超市場論3 置かれた環境を貫く 闘争圧力を把握せよ』が不可欠になると思いますが、それを考えるための概念装置が無いので考えられないんだと思います。



西知子
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当事者欠乏への答えが仲間を作る

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback

神戸の小学校の首切り事件や池田小学校の無差別殺人、見るも無残な事件で誰もがかつて無い事件の不気味さとやりきれない怒りに身を震わせた。神戸の時には沿線の電車で乗合わせた見ず知らずのおばあさんに事件について話しかけられたし、池田小学校の事件の時には、始めてあった営業マンとも怒りの共認で話し込んでしまった。しかし、世の中どこかおかしい、という事で共認はされてもマスコミ、評論家、学識経験者の分析などほとんど何の可能性も感じさせてくれなかったし、答えの無さにやるせない思いを抱いた人も多いことだろう。

現在でも、益々増大する様々な社会不全に覆われている。閉塞感は募るばかり。前段の事件のように思わず何か口に出して発信せざるを得ないような事象もあるが、「おかしい、おかしい」と思いながらもどうしていいのか答えが見つからず不全を内在したままにしている人がほとんどなのだと思う。当事者欠乏はたまりにたまっている。答え、もしくはその可能性が感じられれば相手が見ず知らずの人だろうが語り合いたい欠乏も一方ではまた蓄積されている。

不全を発信するのは誰でも出来る。それをしない、もしくは発信しても続かないのは「答えが無い」「どうせ現実は変わらない」という徒労感を最初から忌避しているからとも言える。今重要なのは答えを感じさせてくれる認識とセットで発信することなのだと思う。相手は誰であれ潜在的には答え欠乏を待っており、見ず知らずの人からだろうが与えられれば一気に噴出してくるように思う。


新井重雄
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マスコミの不祥事暴きには惑わされない

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
いまマスコミでは、「不祥事暴き」が大流行中のようです。
やれ牛肉偽装やらムネオやらマキコやら、果てはUSJが火薬を使いすぎた、まで。そのうちに、「スピード違反」でも新聞に載りそうな勢いです。彼らマスコミの手に掛かれば、世の中なんでも不祥事です。

確かに、「不祥事」とされる様々な事柄は、タテマエ上は、イケナイことです。しかし、私権社会では、「みんなやってるよ」と、みんなが思っていました。みんながやってるのに、タテマエを鵜呑みにして、自分(の会社)だけやらなかったら生き残れなかった。ホンネとタテマエが正反対の矛盾した世の中で何とかやっていく、それが私権社会で生きるということだったのだと思います。「不祥事だ、不正だ」と騒ぎ立てても「何を野暮なことを言ってるんだ」で終わっていたのでしょう。

「みんなやってるよ」「タテマエはイケナイけどね」の典型は、議員の「口利き」だと思います。議員は「民意を政治に反映させる」のが仕事ですが、その中身は、一票を投じた名もない市民の民意などではなく(大体そんな真の意味の民意など、知り得るはずもない。だって、そんな市民の意見を表明する機会はないんだから)、政治資金を出してくれた企業や、手みやげ持参で陳情に来た「市民」の「民意」を、いかに実現させるか、だったのではないかと思います。

近頃、マスコミで不祥事暴きが流行るのには、三つほどの要因が挙げられるのではないかと思います。

ひとつは、私権圧力の衰退→本源潮流からの、共認圧力の上昇。不正なことや人々をだますようなことは、たとえ大企業でも政治家でも、許されなくなってきたということです。

ふたつめは、人々の閉塞感の上昇に、マスコミも(極めて表層的に)迎合しているのではないかということです。大企業や政治家たちが、人々の共認によってボロボロになっていくのを、「勧善懲悪ストーリー」として人々に提供している。まるでいまのマスコミは、「人々の共認という、葵の印籠を振りかざす助さん」のようです。マスコミはそれで人々が喜ぶだろうと思っているのでしょうが、そんな表層的な一時しのぎの「一件落着」では人々の社会不全は解消されるはずもなく、むしろますます、「だからなんだっていうんだ」という閉塞感が高まるばかり、というのが現状です。

そしてもうひとつは、これはあくまで憶測ですが、マスコミは「不祥事暴き」をすることによって、あえてもっと大きな「社会不全」から、人々の目をそらしているのではないかということです。
政治家の不祥事も、大企業の不正も、個々の「不祥事」を追及したところで、結局「エライさん」が辞めて終わるだけ。そしてまた繰り返される。人々はそんな繰り返しに飽き飽きしています。

「個々の事象はもういい。なぜそうなるのか、どうすれば世の中よくなるのか、その答えが知りたい」。そんな人々の潜在的な思いを、「助さんの印籠」的な安っぽい正義感を振り回してうやむやのうちにかき消してしまう。事実を報道すると言いながら、不正に対する批判は大々的にする。そのくせ、もっと大きな社会統合不全には「報道は中立だから」と言って逃げ回る。
これこそ、人々の期待に反する「不正」「不祥事」ではないかと私は思います。



藤岡聖子
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答えがない

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
例えば仕事にしても、忙しいとか難しいとかそんなことより、何が問題なのか掴めない、何を基準にして動いたらいいのか分からない、本当にこれでいいのか迷いが消えない、そういう時どうしようもなく疲弊する。

でもこれって、国家も、企業も、個人も、どこで切っても同じ。みんなどうしていいのか分からない状態。これが問題の本質。(24250現実課題2 何をすれば良いのか分からない)

結局、「答え」がないまま寄り集っても、あんまり意味ないのかも。
共同保育は一人で育てるよりマシな気がしてたけど、集ればどうにかなるっていう思いは、単なる願望orゴマカシだったのかなって思いました。

>社会と仕事が別々にあるのではない。社会があって仕事がある。社会統合という課題を中心に全てが繋がっている。(37288社会統合という課題を中心に全てが繋がっている)

>男女関係も同様で、最先端の闘争圧力に適応するべく収束し統合されます。人類では同類闘争圧力です。(中略)いきなり男女関係を統合する様式を考えても無駄で、新しい同類闘争圧力=認識闘争圧力を形成し統合することが現在は第一義課題となるのでしょう。(37633男女関係も最先端の同類闘争圧力に収束する)

認識形成という統合課題を担うことでしか突破口が開けないのは、仕事も子育ても、同じなんだと思いました。


西知子
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