「自我」を築く環境から「共認」を築く環境へ

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback

自分の歩んできた教育現場の環境を振り返ると、学校とは自我を築くための環境として存在していたように思います。

私たちの世代の会話の中で「自分のやりたいことが見つからない」という言葉をよく耳にします。進学、就職と歩を進める過程で、自分が一体何をやりたいのかを脅迫的に考えることを迫られ、やりたいことが見つからない生徒に対し先生からは、「今の段階でやりたいことが見つからないのは当たり前、進学して勉強を続けるうちに、やりたいことも見えてくる。」というアドバイスが決まり文句のように語られていたように思います。

しかし、既存の社会(私権社会)においては、「自分のやりたいこと」から導かれ、到達する場所は「自己充足」を越え出ることはなく、一度「自己充足」を得ることが目標とされてしまうと、学問やスポーツ、遊び等から得られる充足が、全て「自己充足」という同じフィールド上で扱われてしまうため、その結果として現在、多くの若者が学校という場にこだわらずに、「自己充足」を満たす場を追い求めるといった状況が生まれているように思います。

形骸化した私権社会の教育の一番の弊害は、「自分のやりたいこと」という思考が「自己充足」のみに向かい、社会全体に対する視線を自らシャットアウトしてしまうことにあるように思います。

今、学校にとって必要な環境つくりとは、「自我」を築く環境から「共認」を築く環境に移行することが一番に考えられなければいけないように思います。一度、「自分のやりたいこと」という考え方自体を否定し、社会全体、あるいは学校、クラス内で「期待応望」を感じながら自己の役割を果たしていく過程の中で、「自分のやりたいこと」が「自己」の領域を越えて見えてくるのではないでしょうか。

「共認」を築く環境においては、「自分のために」と「みんなのために」は同義となり、たとえ「自分のやりたいこと」という考察であっても「個人」の領域を越えた全体的な考察と強く結ばれることになると思います。



KOU
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「労働と所有」 無限ループの外へ

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback

先日、田口ランディが、彼女のコラムマガジンの中で、次のようなことを言っていた

>私は、「働いてお金を稼ぐって楽しい」と思って二十代、三十代を生きてきた。「おいしい生活」の時代だったから。だけど、いまは、なんだか怖くなる。生きるために、労働と所有以外の、別の根拠が欲しい

まさに「時代の悲鳴」を聞いたような感覚がする
彼女自身、コラムの中で触れているが、ジョン・ロックが「労働所有権」の中で定義つけたように、現代社会における労働は、全て「所有」のためにある。意識する・しないに関わらず、現代人の多くはこのシステムの中に組み込まれ、金・家・食・服、ありとあらゆる物を所有するために労働し、人生の大半をそこに費やしている。

この「労働と所有」こそが、私権パラダイムの”正体”の一つであるように思う。所有のために(私権獲得のために)働き、所有(私権)を維持する為に働くと言う無限ループ。

貧困の圧力のあるうちは、このループは上手く機能するのだろうが、生活必需品が行き渡った現代社会においては、上手く機能しえない
「余剰品」を所有するために、この無限ループに身を委ねることを誰が良しとするだろうか。活力など生まれるはずは無く、日々衰弱するだけだ
これこそ、田口ランディ言うところの「怖くなる」感覚なのだろうが、今や誰もが抱いている感覚であるのは、日々のニュースからも明らかだ

彼女のコラムを呼んでいて、今更ながらではあるが、パラダイム転換とは、この労働と所有の関係を根本から断ち切っていくことに他ならないと感じた。逆にいえば、この無限ループの外に出ない限り、何も変わらないのだろう
彼女は、「労働と所有以外の別の根拠が欲しい」と言っているが、ループの中に居る限り、そんなものは有り得るはずがなく、逆に外に出ればあっけないほど簡単に見つかると思う



西谷文宏 
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快美欠乏に替わって、認識の統合が最高価値になった。

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback
現在の最大ニーズが社会統合にあるという見方に同感です。

私は、更にその根底には、「意識の統合」のニーズがあるのではないかと感じました。 まず人に収束するのは、混濁し活力のでない意識状況から、少しでも統合感を感じる人に可能性を求めて収束しているように思われたからです。

意識が統合されるには、諸認識が状況に合わせて整除される必要がありますがこれがなかなかできない。しかし難しいけれども意識上の混濁や不全を解消するには、認識の統合しかなく、根底では、認識の統合を皆が期待し合っている状況だろうと思うのです。

環境問題については、私達は、環境破壊をくいとめようと思いながら、一方で快美欠乏を、手放すことのできない絶対的な価値のように思い込み続けています。
ところが、(31007 観念の充足こそ最高の価値)にあるように、快美欠乏に応える市場社会というものが、統合感のある世界を失う事と引き換えに成立したものである事、そして必ずしも快美欠乏は最大価値では無い事、(30710 超市場・超国家論10)にあるように、快美欠乏が環境破壊の主原因である事がわかれば、認識を組み替える事は、可能です。
私達が快美欠乏を手放すことができないと思いこんでいるのは、快美欠乏が市場社会と現代国家の基盤となっているため、洗脳され続けた結果にすぎません。

もはや、快美欠乏は絶対的なものではない。認識の統合の価値こそが絶対的な最大価値として期待されている状況に転換しています。

快美欠乏の世界とは程遠い?、それでいて生産と消費の統合感のもてる農の場に期待があつまるのはその表れだと思います。



田村正道
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無圧力空間をどう解体するか

Posted by ななし on 26.2016 記事 1 comments 0 trackback
>彼ら(彼女ら)はただ本気で考える事から逃げ回っているようにしか自分には思えない。

問題の次元は、いくつかあると思う。

一つは、「逃げ回っても生きていけるという環境が実際に存在する」問題。

フリーターというのは、確かに(一部除いて)圧力(闘争≒目的意識や責任)回避という側面が強いと考えられます。でもこれは、若者の問題というより、社会全体の活力ダウンを象徴するできごとではないか。

例えば、4年前塾で英語を教えていた私は、とある女の子からこんなことを言われたことがある。「私、将来結婚して日本で主婦として暮らすから、英語なんか必要ない。必要ないのに勉強したくない」

就職前の若者だけではなく、小5の女の子からその調子。その子達に「責任」だの「目的」だの言っても、なかなか伝わらない。実際、そのような無圧力の空間が用意されているのだから、結果、そこに逃げ込み現状は何一つ変わっていかない。

圧力忌避の彼らに、どうしたら責任感を持たせられるのか。どうしたら、目的意識を持たせられるのか。彼らが本当に望んでいるのは何か。

圧力に向かわせようとするには、いくつか方法があると思う。一つは圧力を感じる所に一定期間無理矢理にでも居させること。(圧力が対象化できるまで直にかけ続けること)

某ヨットスクールなどで見られたやり方ですね。現在ならば、自然体験教室や、無人島サバイバル、農業・漁業体験などで、一定期間拘留して自然の圧力(生存圧力)に向かわせ、それを乗り越える充足や、自信をつけさせるという方法があります。

しかし、問題の本質は、そのような圧力忌避を「社会的に許している」ことではないでしょうか?

私権圧力とは、私権を持たざる者全員を駆り立てる圧力でした。従って、国民のほとんどが一定の私権を持つことを許された(貧困が消滅した)現時点では、親のすねをかじり続ける(パラサイト)ということが許されてしまいます。現在、それに変わる圧力が、まだ共認されていない。

村上さんが29771で『何もしていない人がいるという社会はおかしいのではないか?』という投稿をされています。ここに書かれてる通りなんじゃないだろうか。

だから、今その「無圧力空間をどう解体するか」(新しい圧力をどう生み出すか=役割・評価をどう生み出すか)がすべての会議室で問われている。
※特に新しい社会統合NWでは「認識形成の場」で生み出される同類圧力について語られています。(参考32961“るいネットで『同類圧力』が鮮明になりつつある”など)

その答えを見つけない限り、フリーター問題は解決しないし、社会の活力も低迷したままなんだろう。




吉岡摩哉
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脱・統合不全

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback
グレゴリー・ベイトソンという学者がいました。生物学をルーツとしながらも、文化人類学、情報科学など、様々な学問領域に関わった人です。
彼が、精神分裂病の社会構造的発生原因について為した研究成果は、発表後30年余りを経たにもかかわらず、未だに色褪せるところが無いそうで、曰く、患者が幼少期に置かれた「ダブル・バインド状態」が、その原因となっているケースが多い、との事です。

「ダブル・バインド状態」とは、以下の三つの条件が揃った状態を指します。

1.ある命令が出される
2.別の論理階形において、その命令と正反対の、矛盾した命令が出される
3.その状況から逃げられない

「想像して見たまえ。自分が抱きしめられるのか、殴られるのか分からないまま、母親の手が真っ直ぐ自分に向かって伸びてくる状態を。君が幼児なら、どんな気分になるだろうか?」

このサイトの語彙では、「統合不全を強いられる状態」とでも言えるのかも知れません。幼少期に、このような状態に置かれつづけた場合、人は精神分裂病になる確率が高くなるそうです。臨床的には、患者に、矛盾した2つの命令が、別の論理階形に属す事を冷静に認識させ、統合不全から脱する事を促すそうです。


ひょっとしたら、現代人は多かれ少なかれ、ダブル・バインド状態に置かれている、と言えるのかもしれません。
下部意識・潜在思念では本源収束したいのに、上部意識・倒錯観念では私権的であることが良しとされ、その矛盾から逃れる術(認識)が無い。結果、分裂症的統合不全を招き、活力衰弱に陥っている。

このような状況を脱し、健康な活力あふれる状態に向かうためには、現代人が抱え込んでいる「潜在思念と倒錯観念の”ズレ”」を冷静に認識する必要があり、そのための概念群の発見は、もはや現代の知識人には期待できないのでしょう。なぜなら、彼ら自身が最も重症な分裂的統合不全状態なのだから。

日常生活の、そこかしこに見られる、潜在思念と倒錯観念の”ズレ”。これも、現実の一局面であるならば、現実を当事者として対象化することによって、そのズレを感じ取り、動き出そうとしている無名の人々こそが、ダブル・バインドを乗り越える可能性を持つのであり、「同類圧力」等、現実を対象化した認識群、つまりは、「実現論」を、即座に身体化できる素地を持っている、ということなのでしょう。

無名の人々と共に、統合不全社会を抜け出すための認識形成活動が、遊びで済まされるはずが無いと思います。



三宅秀和
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how からwhyへ

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
>読者を揺さぶる様な、すなわち彼等の問題意識に対して明確な答えを提示する様な書籍がないからである。「答え」を捜し求めている彼等に言いたい。「一度『るいネット』を覗いてください」と・・・。
                         (吉原さん)

同感です。最近はタイトルに「なぜ」が入った本が多くなっていると聞きました。私権時代の最盛期には、「ハウツー本」がブームでした。その価値軸が教育の領域にも貫徹していたため、受験テクニックを売り物にしたハウツー本としての学習参考書がもてはやされ、それが「ハウツー型」人間を量産してきました。「なぜ、この操作で答えが出るのだろう?」と考えている暇があれば、さっさと次の公式を丸暗記せよ、というわけです。社会に出ても「いかにして生産効率を上げるか」が最優先課題であり、「なぜそんなことをするのか」という問いに対しては「私権を獲得しなければならないから」という答えが当然のこととして用意されていました。従って「いかにして私権を獲得すべきか」、にすべてが収束していたのです。

既に語り尽くされたように、私権が輝きを失ってしまった今、「では何のために、なぜ?」という、より本質的な答えを求めようという動きが生まれるのは必然でしょう。「星の王子様」に出てくる、宇宙の星を買い集めることに熱中している欲張り実業家が、王子様の「なぜ」攻めにあってしまうエピソードを思い出しませんか?私権人の閉塞状況を象徴するとも言えるその場面は、確かこんなやりとりだったと思います。

「そんなにたくさんの星で何をするの?」「売るのさ」「なぜ売るの?」「なぜだって?金持ちになりたいからさ」「なぜ金持ちになりたいの?」「星が発見されたら、もっとたくさん買えるからだよ。」「もっとたくさん買うのはなんのため?」「・・・何もない。ただ持ってるだけだ」

では、「なぜ本」がどれくらい売れているかとなると、「トヨタはなぜ強いのか」「格付けはなぜ下がるのか」「システム障害はなぜ起きたか」などが上位に顔を出しているものの、ブームというレベルにはありません。これは認識収束へと向う潮流をキャッチしている出版社は増えているものの、書き手の多くは本質的には傍観者たる学者・知識人であり、人々が求めている水準の答えを出せるはずもないから、ではないでしょうか。

「なぜ」「何のために」を問い詰めたい人たちへ。その答えは「認識形成サイト」に満載されています。そしてさらに、日々新しい答えが生み出されつつあるのです。




三ヶ本万州夫
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私権企業で得られた仲間

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
私は某大手の居酒屋のチェーン店でアルバイトしています。
もう本当に私権の固まり!の企業で、それを観察するのが面白くて、辞められません(笑)

「遠藤なら社員になれるな。でも女は幹部になれないよ?」
っていつどこで、私が社員になるなんて言ったんだー!ましてや幹部なんて頼まれたって嫌ですとも言えないストレスと引き換えにしてもいいくらい、興味深い事がたくさんあるアルバイトです。

最近、とある店長がバイトの休憩を勝手に操作して人件費を抑え、代わりに自分の残業代を付けていたと言う事件があり、エリア内の幹部がぞろぞろ集まり関係者に事情を聞いていました。

被害にあったアルバイト全員で本社に訴えて、問題が発覚したのですが、幹部にきちんと足りない分の給料は支払うが、これ以上騒ぐと全員くびだぞ、と言われたそうです。
そもそも店長が残業代を付けられないくらい売り上げが落ちているのは、店もきれいだい、料理もいいんだから、要するに「人」がだめだからだ、だからバイトを入れ替える、と言うのが幹部の言い分です。
なんて私権的!って思いませんか?

そもそも売り上げが落ちてきているのは、似たような業態の店舗が増えて、飽和状態になってきているからで、もうこれ以上店舗増やすのはやめて、「質」重視に切り替えたらと私は思うのですが、未だに店舗を増やし続けている・・・。

では、こんな私権企業でアルバイトをしている人はどんな人かと言いますと、それが興味深いことに私権企業の問題点を皆見抜いていて、あくまでお金を稼ぐ為にと割り切っている人が多いのです。

私のお店でも、保育士になった人がここ2年で、3人。看護士を目指している人が2人、介護の仕事を目指している人が一人。また、ボランティア活動をしている人もいて、私もその人に誘われて一緒に活動をしてみようかと思っています。また特殊擁護学級で教えたいと言う夢を持ち頑張っている人もいます。その方は妹さんに障害があることが動機だといっていました。

こんな人が集まって仕事をしているのですから、誰が誰より仕事が出来るとか出来ないではなく、皆で協力してやればいいでしょ?って雰囲気なので、バイトに自給で差をつけて意欲に結びつけようとしたり、頭ごなしにしかって指導しようとする幹部は、最近どうアルバイトに接したらいいか戸惑っているようです。

明らかな世代格差を感じているのでしょう。
自給なんかどうでもいいと言うアルバイトの目的は幹部や社員と違ってお金だけはなく、仲間と働く楽しさや、他の活動資金なのですから。

とある社員は「最近の子は競争意識が少ないからな」、とつぶやいていましたが、何をアルバイトをはじめ企業の活力にしたらいいのか分からないようです。

3年ほど前までは私権的な権力を持ちたがるアルバイトもチラホラいたのです。
自分の鶴の一声で後輩のアルバイトを動かしてやるぐらいの事を言っていたのですが、そのような人はいつの間にかクビになったり、居にくくなって辞めていきました。

完璧なピラミッド人事で、ほとんどの不祥事は本社に上げる前に幹部がもみ潰すような企業にいながらも、私はそうではない人々、実践者になろうとしている人々との交流が楽しいのでまだまだアルバイトを続けようかと思っています。

大学では観念的なことばかりなので、実践者、現実と向かい合おうとしている人たちと働くのが楽しのです。

保育士か介護か看護士かさんざん迷って看護のみちを選んだ話など、大学じゃ聞けないですから。



遠藤若子
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言葉

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
ある方と、「やりたいこと」について少しお話しました。

私達学生、または世間一般によく言う「やりたいこと」に主語をつけてみるとどうか?と、その方は言われました。考えてみると、それらはたいていが、「私がやりたいこと」なのです。

つまり、自分を中心においた(社会の)見方を前提としたうえでのもの、社会のニーズや周囲の人々の期待や要望を感じ取ろうとしない視野の狭さから生まれてくる言葉、思い込みであるということに気付きました。社会から求められていることではなく、自分の思い込みが生んだ「こと」なのだと。

それはやはり、松本さんがおっしゃる「やりたいことがなければ就職してはいけないように思わされるマスメディア」の考えを鵜呑みにしてしまい、疑ってみることをしないで、事実から目を背けていた為ではないかと思いました。

私は少し前まで、「自分らしさ」とか「自己実現」といった言葉をプライオリに挙げた投稿をしていました。ところが、実際今までの学生生活を振り返ってみると、例えばバスケットボール部の活動においてはキャプテンを務めた経験があり、そこではいつもチームのことを考えてプレーしていたからこそそういった役割につきましたし、監督やチームメイトの期待に応える為に懸命でした。

もちろん、個人として技術的な面での達成したい目標というものはありましたが、それもやはり「チームとして強くなる」、という大局的な目標のもとにありました。「これが自分らしいから」とか「目立ちたいから」というような次元では考えてきませんでした。そんなプレーヤーのいるチームが強くなるわけがないとも思っていましたし。

チームメイト同志が互いの能力を認め合い、チームとして機能するため、勝つためにそれぞれが得意なちからを発揮する、それによって役割ができてくる。信頼も生まれる。そして馴れ合いではなく、そのなかでは当然競争も存在する。とても自然なことでした。

ですが、最初の頃の投稿では、そういった経験から得た認識を表現できていませんでした。それを、自分の言葉に置き換えて社会に向けて発することができず、結果、自分らしさとか自己実現といった中身のない言葉を引用することで、投稿を読む人たちの誤解を生んでいたように感じます。

ここであらためて考える機会をえて、事実を認識する、考える、それをヒトの言葉を借りてではなく、実感からくる「自分の言葉」で表現する、ということの大切さに気付くことができたと思っています。



北村喜裕
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企業集団の閉塞の背景には組織論と社会認識の限界がある

Posted by ななし on 21.2016 記事 0 comments 0 trackback

> そういう意味では現代は労働を忌避しているというより、既存の(私権)企業で働くということを拒否する流れと考えるべきなのだろう。


 おっしゃるように、現在の起業ブームの背景にあるのは、既存の企業集団の閉塞、という現実だと思います。

◆組織論の問題

 それは、ひとつには、組織論の問題、ということができるでしょう。現在の企業は市場の覇権闘争の中で必然的に肥大化し、官僚的な組織への変貌を遂げていきました。自らの属する集団の中で、いかに一人一人の成員が活力を発揮しうるか、が大変困難な状況に陥ってしまう。

 そして、成長産業の交代の波の中で、企業の盛衰の中で、必然的に自らの生きる場を失ってしまう。そして、人間として活力を与えられる場が失われてきたという事実が、この10年間の日本経済で盛んに行われたリストラクチャリングの過程で、はっきり見えてきました。

 この波は、おそらく、今後、いわゆるグローバル化が進む中で、どんどん波及していく可能性があり、活力のある若者は、そういう潮流に対して、自発的に、「生きる」場の選択肢の一つとして起業をとらえているんだろうと思います。

◆社会的使命の実現の問題

 もう一つは、社会的使命の実現の問題です。今日の若者にとって、社会的な命題をいかに、実業の課題として結びつけうるか、という問題、あるいは欠乏は、過去とは比べ物にならないほど大きなものになっています。

 一方で、既存の様々な企業の多くは、その社会的使命というものを、一般的に企業理念として挙げてはいるものの、それは極めて抽象的な存在としての社会像に対しての貢献であって、具体的な共同体としての像を結ばないという点、将来的な社会に置ける実現目標、実現すべき普遍的な原理的基盤に則ってはいないという限界を持つという、2重の意味でヴィジョンなき社会貢献にとどまっています。

 いわば、社会とリンクするきっかけとして労働を捉えようとする若者にとっては、そのあたりが非常に不満になっているのだろう、と思われます。

 まとめますが、最初の問題からは、いかに活力のある組織論を企業が持ち得るか、もう一つの問題からは、企業が社会的使命をどこまでリアルに把握・対象化できうるか、という点が、労働の問題の根幹にあるのだと、いうことではないでしょうか。

 そして、これらのテーマは、若者に限らず、あらゆる世代の人間にとって、かなり切迫した課題ではないか、という気がします。



阪本剛
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「働くということ」

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
藤岡さんの事例で「働く」ということについて考えさせられました。

本来労働はさまざまな関係、つまり期待応望のなかで行われてきたと思います。例えば農民の労働では、自然との関係、家族との関係、水管理や結などのみられた地域との関係を基礎にし、さらに村を訪れる行商人や農具を直してくれる村の職人、さまざまな仲買人など実に多くの人々の関係をとり結ぶことによって成り立っていました。
同じことが町の商人や職人にもいえます。つねに彼らは、いろいろな面で仕事を支えてくれる関係のなかに生まれた仲間がいました。もっともこのような直接的な関係に支えられた労働は、常に評価にさらされるという一面では厳しいものであったことは間違いないと思います。しかしその関係を通して、人々は自分の労働がどのような有用な役割を果たしているかを知ることができる。働くようになるということは、広い世界に出ていくとか、社会に貢献するという意識が非常に強かった。

一方、賃労働として働くまた会社が商品となるような市場社会では、そのような意識は希薄である。
しかも特に今日では何が必要で何が不必要なのかもわからない状況に陥っている。一人の消費者として商品を購入し、そのサービスを受けるが、しかしその商品やサービスが人間に暮らしにとって本当に必要がと問われればたちまち迷ってしまうだろう。
そのような感覚が強くなればなるほど広い世界に出るとか、社会に貢献するといった労働の感覚は消えてしまい、労働は個人の生活のために手段になる。一面では労働を収入を得るための手段にし、他面では自分の働きぶりに自己満足する手段にする。
すなわちひたすら我のために働くようになる。こうして労働はエゴイズムに支えられた活動へ変貌してきた。

そういう意味では現代は労働を忌避しているというより、既存の(私権)企業で働くということを拒否する流れと考えるべきなのだろう。
しかし、その中でこの十数年間の間に、起業したいというと考える人が確実に増えている。
最初のころは「独立する」、つまり自分で経営する「親方」になるという風にみていたが、よく考えてみれば今日の起業はこれまでの独立するとは少し違う。なぜなら「独立」にはそれなりの出世志向が働いていたが、今日のそれは、人間的に働き暮らしたいという気持ちに支えられている。
その新しい動きに中で再評価されているのが農業や林業を中心とする「腕」や「知恵」であろう。働けば働くほど腕が高まる、知恵が深まるそのような仕事につきたい、という思いが確実に高まってきた。またそういった「腕」や「知恵」のある人に注目が集まっているもの確かでしょう。
私は、このような流れが企業のあり方も含めて大きく変わっていくのではないかと期待している。


安冨啓之
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充足できる縄張りをつくるということ

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
今まで、現代における「なわばり」ってほとんど意識したことがなかったし、ピンときてなかったなぁ、と思います。それが、岩井さんの投稿 29918 をみて、すんなり実感できた「今の状況」があります。

たとえば保育期(もちろん常に、ですね)の男の役割として「女を充足させる」に行き着いたのですが、つまりこれは、女が安心して保育が出来る状況をつくること。あぁ、縄張りってそういうものだなぁ、と思いました。

そう考えると、いかに今、子どもを育てる環境にないか。子どもを産まない女性が増えている「少子化」という現象からも、追い詰められた密室育児の先にある「虐待」という実状からも、痛感します。

子どもを産んだら、その子と、周りの人々と、安定した心で接していける世界(周り、環境、縄張り)があるのか。今、女はシビアに現実を見つめているのかもしれません。少子化が問題なのでもなく、そうなった原因は「世界(縄張り)の崩壊」であることが問題なのでしょう。

しっかりと自分達の縄張りをつくっていきたい。子育てしたい女には切実な話に聞こえてきました。直接的には認識を共にした共同体の再生であり、さらには「社会統合」の地平でも同じこと。本来の安心できる世界を作っていくということは、男女関係・子育て・集団・環境・福祉といった全ての要素を「人・集団・ネットワーク」でつなげていくこと。これらが融合した時はじめて感じられる「自分達の縄張りの中での充足したあり方」にたどり着くこと。

> お金は、食べるために、生きるためにとかいう圧力を受けていないと使えない、魅力がないものだと感じます。だから、生きるために重要という位置まで、この認識サイトを感じられなければ、ここでお金を出したりもらったりしてもうまくいかないような気がします。(29844 坂本さん)

いま一番に圧力を感じていて、新しい認識を「生きるために」欲しがっているところって、バラバラになった個人が充足できる場なしで「育てる(心の充足を問われる)」ということをしてる「育児の現場」じゃないかなぁ、と思います。

だから、ここから始まっていく。確信はもうできていて、幼・少・青・壮・老(29959)、それぞれの課題もほとんどはっきりしてきたように思う。あとは縄張りをつくっていくだけ。そしたら活力も圧力も闘争も真っ当に働きはじめて、そこに居る充足度は高まっていく。

今って本当に人とひとがつながる「統合の時」だとびしびし感じます。縄張りの復活に足りないもの、あと何がある?直感的には、「囲い込み」が崩壊していることに気付くこと、そこまでさせる「闘争」要素、私有価値からの脱却、と、男が縄張りをつくろうという気になる要素、つまり男側への課題が多いかな、と思います。女は縄張り欲しがってますよね。



宮川悠子
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「成長」という概念に代わる「適応」という概念

Posted by ななし on 18.2016 記事 1 comments 0 trackback
確かにそれは、ある価値観や基準に基づいて測られるものだから、その根本の価値観や倫理観が変わってゆくにつれ、「意味のないもの」、更には「弊害」となって感じられるものもあります。

もし「成長」という言葉自体に独特の違和感を感じるのであれば、それに代って例えば「適応」という言葉を使ってみてはどうでしょう。

>成長することは意義深いことかもしれません。でも人生自体がどれほど意義深さを必要とするのか。死んでしまえば人はただの無です。そんな人生で真実がもしあるとすれば、それは人との交わりや自然に触れることなどによって得られる感動、ただそれだけのように僕は思うのです。

ただそれだけだと言うのは、私はちょっとおかしいと思うんです。
意義深いとか価値とか、そんな観念的な理屈以前に、環境に対して適応してゆくのは生命体として当然すぎるほど当然だからです。

実際、「自分らしく生きる」というその言葉さえ、脅迫観念となってしまいます。
その原理は、いかに言葉を飾ろうと、変わりません。

実現論1_1_01「イ.可能性への収束=統合」より
>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。また全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。また、外部世界が変化して適応できなくなってくると、新たな可能性(例えば、DNA塩基の組み替えの可能性)へと収束し、新たな可能性(新たな配列)の実現によって進化してゆく。

必要なのは、新たな可能性を実現してゆくこと。
あえて言うなら、「可能性に向かって変化し続けるだけ」となるのではないでしょうか。



西知子
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ただ寄り添うだけでは、もう足りない

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
今までは、答えは永遠に見つからないように思えた。未来なんてないように思えた。
だから、どうにもならない不全を抱えた弱オスザル達のように、寄り添っては親和に励んだ。飲食をともにし、どうでもよさそうなことをネタにおしゃべりしては解脱充足を求めた。

でも、いつごろからか、どんなにそばにいても、どんなに話が盛り上がっても、心の奥底は満たされないようになった。仲間たちと笑いあっているのに、寂しくて、空しかった。「こんな話をしたいんじゃない、もっと大事な話があるはずなのに」そう思いながら、楽しげな雰囲気に流されていた。
そんな自分がイヤだった。ひとりで寂しさに耐えているほうが、まだマシに思えた。

しかし今、認識仲間への道が開けた。私たちは、語り合うべきことを手に入れた。それは、ただ解脱のために、消費するだけの「ネタ」ではなく、語り合うことで進化していく、「認識」。
そこでの語り合いは不全を解消するためだけの(親和の一形態としての)おしゃべりではもはやなく、お互いが触発しあいながら、期待し応望しながら「答え」を探し出していく、もっとも人間らしい、いわば「生産」の現場なのだ。

現状では、この「生産的語り合い」は、身近な「身内仲間」よりも、遠くの「ネット仲間」のほうが、しやすいように思う。なぜなら、そばにいること、その安心感が「身内仲間」を古いパラダイム上の「解脱仲間」にとどめてしまうから。人間は易きに流れやすい、とは事実なのかも。

もっとも長い時間をともに過ごす仕事仲間こそ、一刻も早く「身内仲間」から「認識仲間」へと脱皮すべきだと、私は思う。

そばにいることの安心感や、笑いあうことの心地よさに流されることなく、より充足を求めて、「認識」を深め合おうではありませんか、身近な仲間たち。



藤岡聖子 
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個的生活を抜け出し観客をやめて…

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback
テレビやインターネットから情報は溢れ出している。
個的生活に埋没していたころは、この溢れ出してくる情報をひたすら傍観しつづける観客であったのだろう。

しかしそれをいくら貪っても、情報は情報でしかなく、それ自体が答えになるものではなかった。

溢れる情報をどう捉え、どう組み立てていけばよいのか。

そこにぶつかった時に、人に会い話をする事が必要であるというところに行き着いたのだと思う。

>つまり、人収束(外向仲間収束)とは、自分たちで場を作る演場社会の土台であり、観客から協働への転換の土壌を作るものなのである。

人に収束するのは、今までの単に見聞を広げる為というものではなく、認識を組立て課題を顕在化させる、そして答えを見つける為へと変化してきていると確かに感じる。




永峰正規 
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「その人にしか」というより…

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
 ご意見読ませて頂きまして、どうも「個人」に焦点があたりすぎているように感じました。

>人生に決められた目的がないこと。それが現在の最大の問題であると私は思う。

 豊かさが実現した今だからこそ、今の時代には「人生に決められた目的」などないのでしょうか。
しかし一方で、「その人にしかできないことが必ずあって、それを探し求め努力していくことが唯一の人生の目的」というならば、やっぱり『ある』ということなのでしょうか???

 「人生の目的」が戦争時代と豊かな今とで変わるものならば、それは「人としての」なんていう答えには到底ならない。
 少なくとも、太古の昔から人は人との関わりの中で進化し、決してひとりになることはなかった。そんな中でそれぞれの時代に、ある特定のその人にしかできないことなんて果たしてあったのでしょうか。人類という種を残すのに、あるいは社会を形成するのに、個人に拘ることにどれほどの値打ちがあったのでしょうか。
 実は「個人」ではなく「自分」に拘っているだけなように思えます。「自分」を唯一の存在と認めてほしいから「相手」を認め、それぞれを「個人」なんて言ったりして、目の前の小さな世界の中で自分の居場所を探しているような。
 これでは、集団の中で生きてきた人間が、生きるために社会あるいは規範を形成してきたベクトルとは逆に、滅亡へと向かうことになりはしないか。自分の中で何かしら折り合いをつけるというよりも、答えはすでにみんなの中にあるように思えるのですが。




松下直城
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Re:死から生への戦略

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback
>ただ、現在の人類にとって、「何のために死ぬのか、どのように死ぬのか、死の意味を問う」というテーマよりも、「何のために生きるのか、どのように生きるのか、生の意味を問う」というテーマの方が求められているところでしょうか。私は、「生きるために死があるのではなく」、「死を超えて授けられた生がある」というのが一番ぴったりした感覚じゃないかと思います。死の意味(死の戦略)から改めて生の意味(生の戦略)へと繋がるような、「死の獲得」の追及であればいいですね、高田さん。(26534 吉国さん)

仰るとおりです…。

「お前は死について聞くが、私は未だ生について知らないのだよ。どうして死について知っていようか」(論語 巻第六先進第十一11-12)
かつて孔子は弟子の質問に対してこう答えました。

現代人は、生きる意味を考えた時、その連続性や仲間の犠牲を無視し、個としての「自分探し」などを追求してしまうものです。

今回の進化論での「死について」で、精子闘争、細胞のアポトーシスなどで、個と思えるものががたくさんの仲間、集団によって支えられているのとをあらためて知った思いです。まさしく「死を超えて授けられた生がある」と言うことでしょうか。

人類自身が閉塞した現状を切り開けるのか否かが問われていますが、おそらく他との繋がりを認識出来ない限りこれらは突破出来ないように思えます。




高田敦
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目標探索と認識仲間

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
ここ十数年来でしょうか、企画やコンサルといった職種が求められるようになり、また、どんな仕事の場面であれ、企画力、コンサル力が必要とされるようになって来たように思います。さらに現在に至っては、プロジェクト自体の目的さえ明確ではない所まで来た、という事でしょうか。
これらの現象は、私権統合の崩壊と、新しい潮流としての社会探索の時代を感じさせます。

コンサルといっても探索型のプロジェクトの場合、中身そのものの提案以上に、そのプロジェクトを遂行する協働の場づくり、ネットワークの仕掛けづくりが主要な意味になってくるのでしょう。

また、探索型のプロジェクトであれば、その実現を模索する過程での様々な認識の獲得、蓄積が生命であり、そこに協働する者は、新しい、真の認識仲間に近づいてゆくのではないかと思います。




馬場真一
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「答え」さがし

Posted by ななし on 12.2016 記事 0 comments 0 trackback
「気づきたい需要」は確かに、あると思います。可能性を感じる、「答え」を教えてほしいんです。
前向きに、「当り前」のことが「当り前」であることに気づいて、普通に生きてる「実現派」の人を見たいんです。

「自然農」に関するサイトを何度か見たことがありますが、どれも「自然農」の講習とか、それをやっている方に初めて会ったときの衝撃(?)、自然農をはじめて知ったときの「目から鱗」ぶりを語っていました。

私は自然農法については概要しか知らず、実践においては何も知らないのですが、(現場からはいろんな声がありますね)とにかく、みんな「何か」を求めているのは確かでしょう。

>単なる「楽しさ」ではなく、社会構造の視点から可能性を見つけて協働することにこそ大きな「楽しさ」があるのではないでしょうか。(25042 長谷さん)

「社会構造の視点から可能性を見つける」ことの出来る人って、そんなに大人数じゃなくてもいけると思います。(参考:24898 こーよーさん)

見つけた人たち(集団でも個人でも)それを分かりやすい言葉で説明できたらいい。説得力があれば、「協働」する人も増えて行くでしょうね。なによりも、楽しそうです。 イベントを繰り返すのもひとつ、「社会構造の視点から可能性を見つける」集まりの組織化?ネットワーク化?もひとつだと思います。

みんな、新しい切り口が欲しいのは、同じなのだろうな。



田中道世
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「気楽さ」がいい

Posted by ななし on 11.2016 記事 0 comments 0 trackback
>司会である筑紫哲也は自分が何をやるかを見つけていく為の関門としてボラバイトを評価していたが、3例目の女性の言葉を借りれば、これから”自分がどうなるか楽しみ”というのは、自分の変化を楽しんでいる。

”自分がどうなるか楽しみ”という言葉に実現派の真骨頂を見ました。
社会不全に対し、内なる追求に陥らず、私権のしがらみもあっさり切り捨て、充足の場に可能性を感じ、その可能性に向かって行動する。
田野さんが言われるように「パラダイム転換にもがく若者の側面」が根底にはあるのでしょうが、「もがく」のは置いといて、可能性を見つけて外に向かって行動する。それも楽しみながら。

「相手に求められていることの充実感と気楽さ」というTV局側の分析は、私権企業での人間関係に縛られない「気楽さ」、扶養家族のいない「気楽さ」というような意味合いかと思いますが、旧い観念に囚われることなく、素直な実現思考で「気楽に」具体的行動に移っているという意味では、彼らについて言い得ていると思います。

この「楽しむ」・「気楽に」という姿は、新パラダイムとなった現在、特に共認を得やすい。ネットでどんどん伝播されさえすれば。
大人たちが彼らの行動を一部の若者の意識と見るのでなく、他人事として見ず、自分たちも旧い観念を捨て去れば、楽しさ(充足感)の可能性を求めて、素直に、気楽に行動に移せることに気づくのもそう遠くないように思えます。



大河明日
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外向欠乏を収束させるNWは答えを知る者の務め

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
>人々が何も考えてないというのは、ウソで、「そんな行き詰まりを確認して、一体どんな可能性があるのか?」という状況判断が働いていた、と見るべきであろう。(24128)

人々のマスコミやネットでの知識・情報収集の活発さと思考停止の状況とがもう一つしっくり結びつかなかったのですが、阪本さんや四方さんの意見で納得できました。

社会を把握しようと外向欠乏が生じているものの、希望が見えなくなった既存の私権社会の行く末を追求して行っても閉塞感が高まるだけ。
したがって、全面的に現実を捨象するとまで行かなくても、滅亡が見えてくるような事実収集を意識的にあるいは無意識のうちに避けながら、それ以外の方向で四方八方に外向欠乏を充たすものを探す。
しかしながら、収束できる観念がないため、焦点が定まらず拡散し、雑学でも何でも手当たり次第に知識・情報を収集しようとする。また、その過程でつながり欠乏が充たされ、安心する。
でも結局は、実現思考からかけ離れ、思考停止と変わらない状態になっている。

しかし、この外向欠乏の高まりは収束できる観念さえ見えれば、四方八方に向いていた人々の流れが一気に同方向に集まり、本流として大きな流れになる可能性を示している。
そして、個々で顕在化しつつあるその欠乏が合流するには、可能性のある答えが人々に認知され、集団を超えて共認されるネットワーク造りが必要であり、そのネットワーク造りは既にあるていど答えが見えている者の務めであると思う。



大河明日
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自分らしさの表現を超える前進感

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback
私自信、学生の頃にひたすら「自分らしさ」を出そうともがいていた頃がありました。奇抜なものほどいいというような強迫観念にさらされていました。

しかし、一年弱建築設計の仕事に就いて感じるのは、自分一人の力で出来ることの少なさです。実際、これ程打ち合わせが多いとは思わなかった。また、ひとつひとつの仕事(課題)をこなしていく時の、前進感も、どんどん自分の充足のもとになって行きます。私の上司にとっては、初めから答えが分かっているのだと思いますが、あーでもない、こーでもないと悩んだ末、その結果(多くの場合、間違っているのですが)を見せて、ばしっと答えが出てくる時の爽快感と、その次の課題に向けての前進感は、仕事でなければ感じられないと思います。

私がまだ建築への興味が尽きないのは、自分で自分だけの物を生み出せる喜びと言うよりはむしろ、皆で作り上げていく時の、一体感と前進感だと思います。





内藤琢
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企画シュミレーション進めてみた。

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
>う~ん。楽しそうですねぇ~。
>でも、どうせ企画するなら、私はもうちょっと欲張りたいですね。

賛成してくださって嬉しいです♪
ではちょっと細かいことまでツッコミながら、「成人式活用企画」進めてみましょう。

早速ですが、少し部分修正の提案です。三宅さんは「抽象編」とおっしゃってましたが、なんのなんの、そのまま使えそうな内容です。で、どうせなら、きっちり言葉も練ったモノを作ってみたいと思うので、修正案を書いておきます。(ちょっと細かすぎるかな・・?)


>1:「現代社会がもたらす答えの見えない漠然とした不安感、閉塞感が、生存圧力に替わる新たな圧力として機能している」という現実がある(22451)


●不安感、閉塞感は「新たな圧力」なのか?

圧力とは、一般的に「やや強制的な状態を生み出す」言葉です。従って、今までこの会議室で使われてきた私権圧力・仲間圧力というのは、個人が望む望まないに関わらず、その圧力に突き動かされていくような状態を指します。

さて、立ち返って「不安感」「閉塞感」は「圧力」たりえるのでしょうか。個人の経験をもとにしても(苦笑)不安・不全感から発せられる圧力というのはまちがいを起こしやすいです。脅迫観念的とでもいいましょうか。

現代がそのような「不安」に突き動かされて欲しくない、という希望的観測も含みますが、どうも不安は圧力にはなっていない気がします。もちろん、不安・不全は乗り越えるべき対象として認識すべきですが、圧力=絶対強制力(例えば私権圧力など)と捉えるのは、少し誤解を招くのではないでしょうか。

それでは、人間を含む生物を外圧適応体と捉えた場合、今までの生存圧力(私権圧力)に代わる新たな圧力は何かというと、これまで議論されていたように「仲間圧力」(同類圧力)だと考えられます。

成人式を例にとっても、「みなと会える」「みんなが出るから」と言った理由は多く、またヤジを飛ばすにも何するにも「3~4人が連れだって」という記事が目に付きます。問題となっている携帯メールのやりとりなんて、そのまんまではないでしょうか。

従って、若者にとっては、直接的には「仲間」という関係圧力によって突き動かされている状態であり、それこそが、今までの私権的な圧力に代わる圧力になり得るのだと思います。(もちろん若者だけではなく)

しかし、そのような「仲間圧力」という言葉自体がまだ認識されていない。つまり、下部意識(始まっている収束)と答えがない状態(収束先を確定できない)というズレが、不全感、不安感を生みだしているのではないでしょうか。(むろん、不安・不全による危機逃避→仲間収束という一面も否めないとは思います。)

従って、ここは

1:「生存圧力に代わる新たな圧力(具体的には仲間圧力)への収束は始まっているが、“答え”がないために、不安感、閉塞感に包まれている」という現実がある

の方が良いのではないかと思いました。


続く



吉岡摩哉
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[癒し]から[励まし]へ。

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
何人かの方が、私的不全は切実な問題であり、それこそが話のきっかけになると述べられているが、本当なのだろうか?

貧困の圧力の消滅に伴い、自我欠乏は衰弱の一途にあり、もはや人々の意識の中にあっても、第一の座にはないのではないか。

新井氏が22306で卑近な例として挙げられているいくつかの例は、(性格欠陥に代表されるような)私的不全という次元で捉えるべき問題ではなく、個から社会までを貫く意識の統合不全の問題だと思います。
だから、ことさら私的不全を強調されると、妙な違和感を感じます。

それよりも、むしろ、北村氏の述べている

>我々が対象とすべきは、あるいは答えを紡ぎ出すべきは、そのような旧い(私的不全の)パラダイムから一歩越え出たところにあるのではないだろうか。

その次元で本源収束や社会収束の「新しい生き方の可能性を語る」ことが求められているのではないだろうか?
そのような新しい可能性を拓くための、新しい状況認識を語る事が求められているのではないだろうか?

こちらの方が、何倍も活力を与えてくれそうです。
電通によれば、今年の大衆の意識潮流を表すキーワードは[癒し]では充足しきれずに、[励まし]なのだそうです。
意識のベクトルが、外向きへと転換してきているということは、間違いのないことのようです。



田中直人
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「自分らしさ」を理解できない人々

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback
随分前に先住民族の文献で読んだのですが、彼らは「自分らしさ(MYSELF)」と言う観念が理解できないそうです。
(むしろ理解できないと言うよりも、存在しない)

彼らは、自分が大地の一部であり、(大地と)同一であると考えているため、その大地の上に立つものは全て「同じもの」だと理解しており、
ネイティブであるかどうかや、宗教に関係なくその認識を持っているようです。「大地に立つもの全て」であるので、獣や鳥、花や木々にまでその認識は及びます

当時僕は、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼らを今一イメージできずにいましたが、ここのところの構造認識・パラダイム転換の議論を通して、なんとなくその意味するところを実感できた気がします

彼らは、何よりも、人々の意識(皆)=自分=現実であることを理解していたのだと思います。そのために、現実(皆の意識)と自分の意識を切り離して理解することが出来ないのでしょう。「大地に立つものは全て同じ」と言う考えは、世界=現実を理解する構造認識と言えるのかもしれません

「世界」と「自分」を切り離し、「自分が自分である理由」=自分らしさを追い求めて来た、現代人。しかし、そこには答えなどなく、空しさと孤独感だけが付きまとう。

しかし、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼ら(ネイティブ)は、不安に怯えるどころか、常に自信に満ち溢れ力強く、存在不安の欠片も見られない

いかに、僕達に刷り込まれた「自分らしさ」と言う観念が倒錯したものであるかがわかります
それは同時に、「現実=人々の意識=自分」と言う構造認識の正しさを知ることでもある

四方勢至さんからの認識提示を受けて、おぼろげながらではあるが、ようやくその構造認識にたどり着いた僕達
どうやら僕達現代人は大きな回り道をしてしまったようです


西谷文宏 
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現代人の意識構造・心の病

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
精神カウンセラーや、心療内科などの看板をよく見かけます。健康と病気のはざかいにあって、不安・苛立ち等心身の統合不全といえるような病気?症状が増えているようです。

これまでも、ストレスや心身症のようなものは、おおむね人間関係の軋轢、不和などに起因するものが多かったと思います。しかし今、私権時代の競争や、警戒心、不信感のようなものが、すでに過去のものであるはずなのに、人々の心が穏やかでないのはなぜなのか?

>現実否定の倒錯思考は、現実を構成する最も重要な下部意識を全うに対 象化することが出来ない(従って、例えば共認回路の存在さえ、彼らは 知らない)。 (四方勢至さん)

という状況認識は、潜在的実感(本源収束)と観念意識(現実否定の倒錯観念)が大きくズレていながら、それに気付かず、意識の統合不全をかかえたまま不安と不信に追い込まれてゆく。そんな現代人の精神状況をも端的に示してくれます。

登校拒否や引きこもりも、このような倒錯観念と、潜在的実感の間で起こる矛盾と葛藤が表面化するという、パラダイム転換を迎えた現代に特有な(ある意味では当たり前の)現象であったのかもしれない。と改めて感じています。




阿部和雄
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一人前の”大人”=一人前の”個”

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback

>私権時代のイメージだろうか。大人になったら定職について毎日働くというのは。

昨日は成人式だったわけですけど、子供から大人になる儀式(日本なら元服)自体は、私権時代以前の未開部族にもあったんでしょうけど(例えば、一人で牛を一頭倒したら一人前とか・・・)、”大人になったら働く”とか”定職についてはじめて大人”みたいな”仕事”に対する価値観は結構新しそうですね。

昔は、そもそも”仕事”なんて概念もなかっただろうし。
あるのは”役割”だけ。子供には子供の役割もちゃんとあったのだろう。
それは、今で言う”仕事”に相当する(補助的)労働であったり、祭りの際は子供らしい可愛らしい踊りであったり・・・
そして、大人になるということは、その”役割”がより高度で危険を伴い、また、より集団統合的なものに上昇するにすぎない。
また、”役割”とは、本来信頼できる”集団”があってはじめて成立するものであり、だからこそいきいきと自発的に行える。
だから、”休み”なんて必要なかったのかもしれない。

それでは、今の”仕事”はどうだろうか?
何の為って、それは自分のため。会社はとてもかつての”集団”と呼べるようなものではなく、逆に、集団から離脱した”個”(個人や核家族)として生きてゆくためのカネを稼ぐ・・・”仕事”をこなすための場・・・
生きるためには”仕事”は”しなきゃいけない””やらされてる”・・・だからやっぱり”休み”は必要です。
・・・いやっ、それどころか、”休み”こそが生きがいです。

”大人”になるとは、親の庇護から離れて一人前の”個”となること。
一人前の”個”たるためには、一人前に稼がにゃならん。だから”大人”になったら”仕事”をする。

そんな風に考えると・・・”フリーター”とは、そんな、私権時代の遺物たる”個”としての”大人”になりたくない人達なのかもしれない。
”バラサイトシングル”とかって、いつまでも親の脛をかじっていたい人もいれば、アルバイトをしながら仲間とつるんでいたい人もいる。
そして、そんな仲間と新たに仕事を起し、そんな中で無意識に本来の”役割”を再生しようとする元気な人もいる。

最近は、フリーターとは逆に、日本でもたった15歳で会社を興し、年上の部下を使って活躍しているような若者も出てきているそうですが、良かれ悪しかれ、既成の”大人”と”子供”の境界が曖昧になってきている現象は、まさに企業や家族における既成の枠組みを破壊し、あるべき集団を再形成する一つの過程と捉えることができるのかもしれません。

しかし驚いたのは、新成人にディズニーランド無料開放、乗り放題ってやつ。
一体、今の社会は”大人”になるに際して、何を期待しているのだろうか?



越見源
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就職よりもアルバイトって?

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback

「就職することには、抵抗があってもアルバイトは楽しい、充実している。何年も前のアルバイト仲間と今でも時々集まっている。」という若手がいる。
 実際「就職よりもアルバイトの方が充実している」という若い人は少なくないようだ。それがフリーターの増加にも繋がっているのだろう。

>(アルバイトでは)自分の位置と役割を、僅かな期間で理解し、お互いにその役割を期待しながら働くと言うのは、仕事の内容を超えた充実感をもたらしているのではないか。 <
>平等主義の名残からヒエラルキーと言う言葉に拒否反応を示しても、潜在的にはヒエラルキーの中で役割を持つことを受け入れているはず。ただ、何の為かも分からないヒエラルキーを敬遠し、自ら遠ざかるのだ。 <

 アルバイトでは上下関係も、「経験からくる役割の違い」と問題なく受け入れられるようだ。それが就職すると何のためか判らなくなるという。
 なぜ、アルバイトでの楽しさは、就職すると無くなってしまうというのだろうか。

 アルバイトには純粋に「賃金(と仲間)」を期待しており、余計な観念が入り込む余地が少ないので、仕事に必要な上下関係も自然と受け入れることができるが、いざ就職となると将来性とか、世間体とか、色んなことを考えてしまい、上下関係も仕事のためを超えていわば人生そのものを感じてしまうため、簡単には受け入れられなくなるのではないだろうか。
 同じように仕事をしていても、アルバイトの方が、余計なことを考えなくていいため、素直に充足を感じることができるとしたら、観念とは本当に罪深いモノだ。



玉川泰行
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「枠組み」を取っ払う

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
>私権時代のイメージだろうか。大人になったら定職について毎日働くというのは。

なるほど。僕などは、親から経済的に独立することが就職の第一目的でしたが、今思うと「一人前」の意識にとらわれていたように思います。

>大切なのはその先ではないだろうか。

おっしゃる通りです。周囲を見渡しても、「正社員」の地位を手にしただけでは(たとえ高給が保証されていても)充足出来るものではなさそうです。「その先」が必要です。

「勤務時間」だとか「休日」だとかの枠組みに縛られている現代人は、その分、仕事にマイナス・イメージを持たせていることになります。僕も仕事に「変な理由付け」を求め始めると、目の前の仕事が嫌でたまらなくなります。逆に、仕事を皆の課題(役割)と心得、前向きに取り組めた時には、気持ちが充実し「やりがい」を感じます。

与えられた役割を担うこと=「仕事」は、本来、人間を幸せにするものの一つではないでしょうか。「仕事」の意味を基本から問い直し、既成の「枠組み」を取っ払う必要があると思います。



矢ヶ崎裕
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じゃあ、親の期待って?

Posted by ななし on 01.2016 記事 0 comments 0 trackback
>元となる期待の中身は、親からの一方的なものでもなく、又子供に迎合しただけのものでもないモノだと思います。

なんだかんだ言っても学歴がものを言う社会の中で、一方でそれを目的としもう一方では否定し続けて今まで生きてきた。もう変わらなければいけない、けれど変われない。どうしたらいいのか、答えは見つからない。かろうじて平静を保ってはいるけれど、ほんとは不安で不安でしょうがない。

なら、それが親の期待でもいいんじゃないだろうか。
「頭じゃ分かっても、どうしても踏み切れない。可能性と勇気を下さい。」「自分(親)たちの古い価値観なんか軽く乗り越えて、平気な顔で別の道を歩いて見せてほしい。」って。

期待というよりすがる思いに近いかもしれないけれど、そしたらきっと、ご褒美じゃなくお礼が言いたくなると思う。





西知子
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