自分の役割は?

Posted by ななし on 31.2016 記事 0 comments 0 trackback
>何がやりたいか」ということと同時に「何ができるか」を考えることがすごく重要で、それが見つかった時、私は自信を得ることができました。

私も最近まで「働く」と言うことの意味を取り違えていたと思うことがあります。自分が「働く」に足る集団に身を置いて、その中で何が出来るかを考え、何をするのか決断することはあっても、その逆はないのだと感じます。

「自分が」なにをやりたいかを考えつづけ悩んでも、答えが見つからない事が多い。周りの期待に応えて、また周りに期待しながら少しずつでもその集団にいる、今は自然にそう思えます。



内藤琢
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カリスマ ~自分たちが共認できる価値観への評価収束~

Posted by ななし on 30.2016 記事 0 comments 0 trackback
僕の友人には、フリーターが大勢います
彼らはフリーターをしながら、ショップ(ブティック)を開くことや、カフェのオーナーになること、DJやイラストレーター・ミュージシャンになること等を目指しています

一昔前、夢と言えば現実的なものであれば、成功すること、すなわち出世してお金を儲けることであり、少々現実離れしたものであれば、芸能人等の有名人になることでした

しかし、僕の友人達の夢は、DJや、バイヤー(ブティックなどで衣服の買い付けをする人のこと)ミュージシャンになることなのです
金儲けのことは、ほとんど考えていません。生活に困らず、自分のやりたいことが出来ていれば問題ないそうです
(ミュージシャンと言えば、芸能人とあまり変わらない気がしますが、彼らの場合、売れてスターになりたいわけではなく、自分達のやりたい音楽をやれればそれでいいらしい。ここが根本的に違う)

彼らは、金儲けしたいのでもなく、特別な有名人に成りたい訳でもない
自分の興味ある分野で「カリスマ」と成りたいのです

僕の友人達に限らず「やりたいことがあるから」フリーターに進んで成る若者の、「やりたいこと」と言うのは、(ファッション系)ショップのバイヤーや店員・カフェ等のオーナー・ミュージシャン・DJ・美容師・ダンサー・イラストレーター・(服飾・インテリアなどの)デザイナー等が殆どの様です

彼らが求めているのは、自分を含めて大勢の若者が共認できる分野における、評価であり、そしてそれによって得られる繋がりであると考えられます
例えば、DJであれば、クラブに来る他のDJやスタッフ、そしてお客と「場」を共有することで生まれる繋がりです
これは、ショップのバイヤーや、カフェのオーナー、ミュージシャンや美容師、ダンサーでも同様です

注目すべきは、彼らが重視しているのは価値観を共認した人々と「場」「空気」を共有することであり、「客」と「店員」「客」と「パフォーマー」と言う風には捉えていない点でしょう
あくまでも、「等身大」であることが大切なのです


古い世代から見れば、フリーターをやりながら、DJやミュージシャン、ショップ店員などを目指す彼らの姿は、「社会的意識の欠片もない」と捉えられるかもしれません

しかし、自己利益のための私権獲得を目指すのではなく、「自分達が共認できる価値観」における評価と繋がりを求めて、「カリスマ」を目指す彼らの姿には、新しい「社会的意識」のようなものを僕は感じます

私権から脱した価値観への評価収束の姿勢と、繋がりを求める本源潮流は形成されているのですから
あとは、ファッションなどの特定的価値観ではない、万人が共認でき、且つ社会に役立つ新しい価値観さえ生み出すことができれば、可能性は開かれるのではないでしょうか




西谷文宏
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問題点は、、、、②

Posted by ななし on 29.2016 記事 0 comments 0 trackback
若者の就職観は>むしろ「自分がやりたい仕事ができる・専門知識や技術が身につく」と回答した割合が高かったとのことです。(松本さん)

 これを読み、若者の問題とはどこにあるのか考えました。
まず、上の就職観についてですが、「自分がやりたい仕事」という言葉。これを文字通り受け取るとなんか自分中心というイメージがわきます。しかし、そうではないのではないかと感じてきました。
 去年、僕も就職活動をしていましたが、上のようなことを言っていたように思います。しかし、それほどこの言葉自体に意味をおいていなかったと今わかります。
一番、重きを置いていたのは、充足したいということ。適当な言葉がみつからず、それが「やりがい」のある仕事というふうに言っていたように思います。

 若者の問題は、自分の不全の理由がわからないということではないでしょうか?そして、充足がどのようにして得られるかという明確な答えを持っていないということ。
僕はいまでこそ、他者との「期待応望」こそ充足の方法だと思いますが、この掲示板に来るまではそんなこと思いもしなかったし、最初そう言われても納得もできなかった。もちろん、だれしも充足の経験、体験を持っていますが、気がつかない。育った環境、教育がそういう若者を生み出したんでしょう。

 まず、第一に若者というより、現代の人々は不全を抱えているということ。その不全とは私権時代の個人主義により失った仲間欠乏、つながりたい欠乏(しかし、つながりたいくせにつながりかたを忘れてしまっている→模索)=期待応望に支えられる共同体、本源を求めているということ。
 私権からは脱しているが、その方向性を模索中であること。その状態がいまであること。
とするならば、、、。

 おおまかに言えば、松本さんが仰る「意識転換」→共同体の構築しかないです。この場合、働く場所は企業でなければならないとは思いません。フリーターでも良いと思います。共同体をそうした人々が支えているのなら、つまり意識転換できているのなら変わらないはずです。むしろ、企業という枠組みを取っ払う、無くしてしまうくらいのパワーがそこにはあると感じます。
 「はたらく」場所は企業でしかないのでしょうか?企業でなければ「はたらけ」ないのでしょうか?そんなことは無いはず、と思います。そんな(若者から見れば)私権的な空間ありきではわからないのも当然かもしれません。



平川要
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「課題捨象の充足志向」からの脱出

Posted by ななし on 28.2016 記事 0 comments 0 trackback
>しかしだからこそ実は彼らが一番言葉を求めているんじゃないかと思う。
>旧観念の形骸化した言葉なんかじゃなく、「本当はさ、」と力強くこころから納得させてくれる言葉を。

東さんのこの言葉に衝撃を受けました。

講師という立場上、普段から子ども達にたくさんの言葉を投げかけている
わけですが、はたして「本当はさ…」といった類の心に響く言葉を言えてているかどうかというと残念ながら自信ありません…。

子ども達のやる気と知的好奇心を最大限に引き出してあげるのが講師の最たる役割だと思っているわけです。がしかし、子ども達に旧観念の形骸化した言葉を都合良く解釈させて動機付けを行っている自分にふと気付くことがあります。

そして私自身、子ども達との充足を求めながら
「本当はなにをやったらいいんだ…」
「何を言えばいいのだ…」
という迷いがあり、課題捨象している傾向があると思われます。

「課題捨象の充足志向」から一歩抜け出すためには、日々の生活のなかでの実感のこもった課題をこなしていくしかないと思い、そのきっかけとなる言葉を求め、るいネットに投稿しロムっている次第であります。



匿名希望
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現象をどうみるか

Posted by ななし on 27.2016 記事 0 comments 0 trackback
>私は、彼等の自由(=我侭)を可能な限り容認してくれる場所を求めているだけではないかと考えています。<

実(私権)社会側から見れば、このように甘えているだけのように見えるかと思いますし、実際そういう層も居るのだと思います。

けれど、これらの現象をそういった単一の切り口で切ってしまっていいのでしょうか?彼らに全く可能性はないのでしょうか?という疑問があります。

フリーター志向の現象は、今の社会には何にも期待していないし、出来ない。何か新しいモノを探索したいがために、自由になる時間が欲しい。けれど、その「何か」は見つかっていないし、自分で作ることも出来ずにいる。

そんな風にも取れないでしょうか?

中にはそこから起業という選択をとる若者も居れば、今の社会には全く期待できず、ただ現状の楽しいことのみに埋没している層も居るでしょう。

しかし全般にいえるのは、旧い私権社会の現状には全く期待していない。そして何か新しい、未知のモノへの期待、探索、もしくは待っている現状であること。こうして古いものを一掃して新たなものを受け入れるという素地を持つ若者に、私は可能性を感じています。




森本亜希子
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就職しない12万人

Posted by ななし on 26.2016 記事 0 comments 0 trackback
就職氷河期という厳しい時期、思うような就職ができなくても仕方ないというムードが蔓延し、努力もせず、社会や大学(学歴)のせいにして就職をあきらめる学生が非常に多く、東海大学就職部の後藤氏は彼等を「だから症候群」と呼ぶ。(AERA2001.11.26より)

1990年、大学卒業時点で進学も就職もしない人の数は2万2千人程で、全卒業者の5.6%に過ぎなかったのが2000年には12万1千人、全卒業者の22.5%に激増したそうです。

やってみたいことは、ぼんやりとある。企業もいまや「大学不問、人物本位」と広く門戸を開けている。でも企業の実態は高学歴を採用。彼等はこうした最初のハードルで努力もせずに、くじけてしまうようです。「やっぱりダメじゃない」と。

彼等のやりたいことに対する思いが貧弱なのもさることながら、多くは「年収」「休暇日数」などからネット検索し、就職口を決める傾向があります。しかし、こういう魅力にさえも必死に努力せず、結局フリーターになっているわけです。

>活力が湧かない、何をしたらいいのか分からない。でも、今の私権社会の構造には乗れない。これが、若者が闘えない原因の一つかと思います。<

彼等が社会(=働くこと)に期待していることは何なのでしょうか。
私は、彼等の自由(=我侭)を可能な限り容認してくれる場所を求めているだけではないかと考えています。それが「やりたいこと」「年収」「休暇日数」というものに化けているだけではないでしょうか。自分の我侭が許される温室にいつまでも居つづけたいという学生時代の(あるいは幼少から染み付いた)自分勝手な態度をそのまま実社会へ持ち込もうとしているだけで、それが叶わないとなると、フリーターとしてそれを温存しようとしているように思えます。



福島健
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闘えない原因

Posted by ななし on 25.2016 記事 0 comments 0 trackback

若者が闘えない原因の一つには、結果=私権獲得があると思います。

この私権獲得という課題圧力は、2つセットになっていて、社会的評価が上がれば、必然的にお金が入り、物的豊かさも実現できるといったものです。エネルギー源という点では、物的豊かさを実現したい方であり、評価はその手段だったとも言えます。

つまりこの構造は、貧困の圧力があってこそ成り立つものだと思います。

しかし今や、貧困の圧力はほぼ消滅しました。そこで社会評価欠乏は自己実現というものに名を変えて残りましたが、肝心のエネルギー源たる物的豊かさへの欠乏は、衰退していきます。特にほぼ全ての物的豊かさが実現された環境で育った若者にとってはその現象は顕著に表れていると思います。

物的欠乏は強くないが、(自己実現的)社会評価欠乏はある。この姿こそが、フリーターや芸能志向、起業しようとする若者なのではないでしょうか?

しかし、この社会評価欠乏の行き着く先が、物的豊かさ実現をエネルギー源として成立する、自己実現のための私権獲得のままでは、よほどの自分主義者で無い限り、その活力は続かないと思います。

特に表層であっても、自分のことよりも皆と仲良くしたい若者にとっては、自己実現すらももはやエネルギー源とは成り得なくなっています。

活力が湧かない、何をしたらいいのか分からない。でも、今の私権社会の構造には乗れない。これが、若者が闘えない原因の一つかと思います。


森本亜希子
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何故人々は立ち上がれないのか?課題捨象の充足基調

Posted by ななし on 24.2016 記事 0 comments 0 trackback
貧困が消滅したと言う事は、現実の肉体や精神を直撃する苦しみ、あるいは貧しい事自体が生み出す社会的評価=惨めさやそれから生ずる悩み等のマイナスが減衰していくことを意味する。つまりマイナスに積極的にこだわる必要がなくなると言う事を意味する。
 
 そして実際に人々は、それまでの私権闘争が生み出す問題や対立にこだわる事は止めて、「人生お金が全てではない」もっと「人生を楽しもう」という方行に明らかにベクトルを切り替えた。つまり充足を志向する事が基調となった。

 どうも人間には課題が無くなれば「充足だけを志向する」傾向があるのかもしれない。 
 
 だが、得体の知れない不全感や家庭や子供の問題は現に実在する。しかし答えは出ない。
 また人々は私権という明確な目標課題を失い「存在理由」が肉体的・規範的に不明瞭になり始めたことから、生きる意味を求め始める。しかし答えは出ない。そしてそれらがもたらす不全感や不完全燃焼の感覚は広く実在する。

 おそらく充足志向の基調に加えて「答えが無い」その結果「課題化」されない、ということが問題なのだろう。
 答えが見えそうな気がしなければ、それらが生み出す不全を頭の中から消し去ってしまいたい→そんなことは考えたくない、という方向に意識は流れる。つまりいつでも解脱充足していたいという方向に流れる。これらのことが、現在の潜在意識の基本基調を作り出しているのではないだろうか。
 
 そしてそのような気運の中では、充足の場の一つである仲間関係は常に「明るく・楽しく・前向き」であることが求められる。また同時にその仲間空間の目に見えない雰囲気が「いつも笑顔で、皆仲良く、相手の批判はタブー」等の若者に見られる(表層)規範意識を生み出している様にも思われる。

 そのような空間では、やややこしく、かつ答えのない「人生の問題」や「社会の問題」を持出す輩は充足志向の妨げになる。つまり異端視の対象となる。つまり異端視やネクラ視を生み出しているのは、そのような課題捨象の充足志向ではないだろうか。

 しかし現実に危機や問題は消えてくれるわけではない。あるいは得体の知れない不安感は消えてくれるわけではない。

 本来危機意識を感じる回路は、普通の人間の、真っ当な機能である。しかしおかしなことにこの空間の中では「ネクラな悩み」だけでなく、この真っ当な危機意識さえ表に出せない、すなわち闇化せざるを得ないという恐るべき倒錯現象を現実化させる。


北村浩司
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若者は、いや、皆闘えるはずなのだが、、、

Posted by ななし on 23.2016 記事 0 comments 0 trackback
 西谷さん、レスありがとうございます。この間の阪本さんや玉川さんの投稿もたいへん参考になりました。
 
 「今の若者に闘争することができるのか」という問題については、僕も闘争はできる、していると思っています。なんらかの課題圧力のもとでその期待に応えていくという経験は本人は自覚していないかもしれませんがあると思います。(ただ、現在の自閉的、コミュニケーション不足(争いを好まない事なかれ主義はここに含まれると思われます)の世の中では少ないかもしれませんが)
 ただ、これが仕事の場、つまり社会人としてうんぬんという場合は疑問です。これは若者だけでなく日本全体がそうであるかのようにも感じます。無関心さ、あきらめ、、、。
 西谷さんが指摘しておられるように、いまは私権圧力が弱まり、また闘争をせずとも、暮らしていける時代になりました。充足とか生きがいは不足してるかもしれませんが、食うには困らない時代です。仕事だって選ばなければいくらでもあると思いますし。ホームレスが肥満に悩んでるという話もありますし、、、。
  
 話を元に戻すと、若者は「闘争はできる」がなぜ仕事では闘争できない、しないのか。
 まず、私権時代を生きてきた親や身近な人を見てきたということ。その親たちは私権獲得のために闘争し、その空しさをも漂わせている。そして、私権企業のリストラや犯罪などなど、、、。はっきり言えば魅力がないということ。社会にでて働くということに意義を見出せないのではないでしょうか。ボランティアや環境などのサークルには参加しても職にはつかない。社会人として働くということを社会のために働くとは捉えられないほど、そのイメージは悪いのだと思います。企業も私権を追い求めるしかないままなのですからある意味当たり前とも思えます。
  ただ、若者にしろ、大人の人にしろ、主婦にしろ先に述べた、社会に対する無関心さやコミュニケーション不足という問題があると思うので、そこにはもちろん甘えもあるでしょう。この掲示板でみなさんが仰っているような、「他人のために働く」とか「社会を真面目に考え、変革に参加していく」「それはけして難しいことじゃない」ということを伝えられれば(固定観念に縛られた意識を転換できるよう導くことができれば)変わっていくと思います。その導くということは課題圧力を半ば強制的にでも与えてくれ、評価を充分に与えてくれる共同体をつくっていくことでもあると思います。
 この僕も「他人のために働く」などとは考えていませんでしたし、働くのは「金をかせがなきゃ」という私権的な理由しか持っていませんでした。(今も半々ですが、、、。)
 少なくとも以前の自分よりは変わっていると感じています。(以前が以前なだけにまだまだなんですが、、、)



平川要
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対立の無い穏やかな人間関係を求めている

Posted by ななし on 22.2016 記事 0 comments 0 trackback
山田さん、こんにちは。

>一つ考えられるのが、企業に期待して就職するものの「期待の中身が変わってきている」ということです。

少なくとも、カネや出世でないことは確かですね。
表層の意識はともかく、もしも、昔ながらのそれらの期待を持っているのであれば、まさに私権企業においてちょっとのことでいちいち悩んだりせず、がむしゃらに頑張るでしょう。
・・・だって会社の目的と自己の目的がとりあえず一致しているのですから。

彼らが企業に期待している中身とは、対立の無い、穏やかで楽しく、充実した人間関係なのだと思います。
彼らの悩みのエッセンスとは、上司から怒られたり、同僚に陰口を囁かれることへの不満とストレス・・・
すなわち、とにかく全て人間関係に起因する内容ばかりであり、問題は、現代の私権企業においては、なにはともあれ会社の利益に繋がる成果を出すことだけが評価に繋がり、そのための努力無しに、表層的に仲良くしようとしても、決してかなわないということです。
私権企業で上司からの叱咤を真剣に受け止めることが出来ないのも、そうした仲良し欠乏だけが肥大しているからであり、また、本質的には他者への警戒心を抱いているため、自分中心で表層的にならざるを得ない。
自分を抑えて努力したり、相手を理解しようとせず、単に対立の無い穏やかな(従って表層的な)関係を求める。
また、自分から企業は同僚、上司への、分かって欲しい、認めて欲しい、仲良くして欲しい・・・という期待だけで、企業や上司からの、仕事上での成果を求める期待(叱咤激励として表される)については全く理解しようとも応望しようともしない。
・・・そして、自分の一方的な期待が充たされないと見るやいなや、裏切られたと感じ、また、向いてないと感じ、転職するといいつつ逃げようとする。・・・弱い自分を正当化し、守るために。
別の見方をすれば、あまりにも闘争規範というものが衰弱しきっているとも言える。
・・・これは、私権の強制圧力が衰弱して久しい現代においては仕方ないことかもしれませんが・・・

私権企業だろうが、共同体企業だろうが、闘争の場である限りは”闘争規範”というものもまた必要であり、仲間との協働による、(表層でない)真の充足体験と共に、学ぶぺき重要な事柄だと思います。


越見源
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「狂気への序曲」~匿名の危険

Posted by ななし on 21.2016 記事 1 comments 0 trackback

「ステージ上にいる僕はタフでノリノリのロッカーだ。けれど、ステージをおりた僕を見たらみんながっかりすると思うよ。そこには普通のただの中年男がいるだけさ。僕はジキルとハイドなんだ。フレディ・マーキュリーという仮面をかぶらなきゃフレデリック・バルサラなのさ。」
 「ときどき気が狂いそうになるときもあるよ。でも、僕はフレディ・マーキュリーのファンなんだ。みんなと同じようにね。ショーはあくまでショーだ。」
 「なぜ芸名を使ったのかわからない。理由はとくに考えなかったと思うよ。でも、本当は自分と区別したかったんじゃないかな。もちろん、僕にも葛藤はあったよ。だから髪をばっさり切ったんだよ。みんな反対したけどね。やはり、根底では僕は僕なんだよ。そうでなきゃ当に気が狂ってるさ。」(「華麗なる孤独」より)
  これはクイーンというバンドのボーカリスト、フレディ・マーキュリーのインタビューの抜粋だ。匿名性の問題と関連があるように思えたので紹介した。
  スターというものはある種匿名を前提としている。その理由は特に悪いことをしようという目的があるわけではないだろうが(少なくとも本人は)、自分を偽ることに葛藤があるようだ。(ジョン・レノンは実名だが同じようなことを言っていた。)
  彼の素直な言葉には少々の後ろ暗さも感じる。そして弱さも。いわばステージ上の彼は「カタリ」なのであろう。ファンとしては「カタリ」の彼を見ているのではなく、彼自身を見ているつもりなのだが、、。
  実名(ありのままの自分)と匿名(架空の人物)のはざまで彼は悩み、開き直り、を繰り返していたのではないだろうか。
 彼にとっては答えがでていたに違いない。しかし、周りは匿名の彼を求める。
  匿名の彼の苦しみには誰も気がつかなかったが、一番苦しんだのは彼自身だった。
匿名ということがイコール悪にすぐに直結するわけではない。しかし、なぜ実名ではなく匿名なのかを考えれば、それはつきつめると悪につながる。悪にもいろいろある。含まれるものも様々だろう。他人の評価、自分の評価。匿名でなければできない、スターでなければできないという精神構造に彼は疑問を感じたのだろう。
 
  「レストランでもパーティでもフレディ・マーキュリーは顔パスさ。彼は王様なんだ。できないことはない。でも彼は孤独なんだよ」
 匿名というベクトルがどこへ向かうか。彼は理解していたのかもしれない。


平川要
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”誰でもない「透明な」匿名的存在”

Posted by ななし on 20.2016 記事 0 comments 0 trackback
>そうした行為を続けていけば、むしろ本名の方こそ、誰でもない「透明な」匿名的存在になってしまうのではないでしょうか。HNで投稿しつづけることには、ペンネームで犯行声明を出し続けた「酒鬼薔薇」や、「ネオ麦茶」の名で2ちゃんねるに投稿していたバスジャック犯と同根の病を感じます。(13771)

共認動物としてしか生られない人間は,仲間に名前を呼ばれる事,仲間の名前を呼びかける事でその存在が成り立っているはずです。

"千と千尋の神隠し”のように名前を奪われる事は,社会的な存在としての命綱を奪われる事となります。本来人でなくなるほどの恐怖を伴うはずです。そしてそれが人間としての健全な感覚であろうと思います。

幼くして誘拐され,憎むべき犯人によって長期間監禁された”新潟女性監禁事件”の被害女性は,わずかに持つ事を許されたノートに名前を書き綴りつづけました。

○サイト"こころの散歩道”のページより引用 『生きぬく努力、行動すること』
リンク

~以下引用~

>監禁されていた部屋の家宅捜査が続く中、少女の赤いランドセルやノートが発見されました。ノートには、家族の名前、自分の名前、学校の名前などを並べて、何回も何回もびっしりと書き込まれていました。

おそらく、子ども時代に書いたものでしょう。思春期のころ、好きな人のことを想いながら何度もその人の名前を書くことなどがありますが、彼女は家族や学校のことを想いながら、何度もその名前を書き続けたのでしょう。

孤独におびえ、恐怖に震え、激しい不安の中で、涙ながらに書いたのかもしれません。でも、これは、彼女の生き抜こうとする必死の努力だったと思うのです。

主観的には悲しい、淋しい、弱い心で書いたのかもしれませんが、その心のもっと奥底で、負けないぞ、がんばれ、がんばれと、自分に言い聞かせながら書いていたような気がします。

自分と家族は一緒で、学校のみんなとも一緒だと言う想いが、そのノートには詰まっているような気がします。



細田卓司 
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人との繋がりが会参加の意識を促す

Posted by ななし on 19.2016 記事 0 comments 0 trackback
>「日常のボク」を否定しながら現実には脱却できない。だから「本来あるべき自分」を措定して、攻撃すべき対象をでっち上げなければ、怒りや憎悪といった生の感情すら像を結ばない。そうやって見出した対象をHNで攻撃しているときだけが、彼らにとって憎悪という極めて明快な感情を生起させ、刺々しい自我を確認できる時間ではなかったか。

匿名性の問題の背後には現実の社会で自己実現できないことへの変身願望があるのではないだろうか。インターネットという舞台で仮面を付けて演じているつもりなのだろう。そこでは人を欺く快感や人を傷つける快感でしか自我を確認できない異常な精神構造が伺える。さらに相手が見えない分、攻撃が過剰になり「日常のボク」も感情的になっていることに気が付かない。

邪悪な娯楽装置としてしか利用していない旧住人を払拭し、インターネットを誰もが参加できる公共の場にしていく必要を強く感じる。皆が実名投稿することによって社会参加の実感を得ることができ、社会の現実の変化を感じることができるのだと思う。



橋口健一
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実名と匿名の位相

Posted by ななし on 18.2016 記事 0 comments 0 trackback
村田さん、実は私も「匿名」の問題性を、「実名」の価値というところに戻って押さえ直す必要を感じておりました。といっても、詳しく調べたわけではないので、私の知っている範囲でアレコレと…。

まず、ペンネームとハンドルネーム。小説家のペンネームはネット上のハンドルネーム(匿名性が高い)と違い、社会的責任を問われているという意見もありましたが、しかし実名ではないという点はどちらも同じでしょうね。ペンネームの延長上にハンドルネームがあるように思います。ペンネームを使うのは、小説家や演劇・タレント・歌人・芸人などでしょうが、フィクション作者はペンネームが当たり前という感覚があるのですが、そもそもここが果たしてそうか…。

日本の一番古いペンネームは…。梅原猛によると、天武天皇が太安万侶に命じ、稗田阿礼に研究させて(稗田阿礼は語り部というのが通説になっていますが…)編集させた「古事記」。この稗田阿礼は、藤原不比等のペンネームだったのではないか…。ということなのですが、真偽の程は私にはわかりませんが、「ペンネーム」どんなに遡っても、律令制の登場(中央集権国家の成立)の頃でしょうか。でも、社会や現実を対象化している歴史書などのノンフィクション系の作家は、明らかにペンネームを使っていませんし、平安時代のフィクション系の作家もペンネームではないですね。

日本の古来の文学といえば、和歌集あたりでしょうか。和歌をフィクションというと異論のある方もあるかもしれませんが、まあ創作ですよね。このフィクション系の作家である歌人は私の知っている範囲では昔はほとんど実名であって、初めからペンネームというわけではない。ところが、俳句から始まって、江戸の町人文学あたりからペンネームが大流行の世界でしょうか。狂歌・川柳や洒落本・黄表紙本など、大雑把に捉えれば反体制・風刺という反秩序の流れでしょうか。あるいは男女の性を題材とした単なる解脱収束の流れを持つものでしょうか。(江戸町人における、私権の強制圧力が少し緩んで、私権獲得の可能性が開いてきた時期でしょうか)。

ペンネームが一気に当たり前になってしまうのが明治に入ってからでしょう。私小説を実名で書かないところが、考えればおもしろい。西洋個人主義の導入の時期でしょうか。(西洋のペンネームの流れはよく分かりませんが、おそらく私権獲得の流れに乗っているのではないのかと予想されます)

ところで、古典文化におけるペンネームといえば、茶道・華道・能という道を極めていく芸能も実名ではないという意味でその範疇に入るでしょうか。与えられた名は、杯を交わした特殊集団の契りみたいなもので、徒弟制・位階制と芸名が密接に結びついているように感じます。どちらかといえば排他的な専門家集団。名(氏)を一にすることの共認関係。しかし襲名は最大の評価。…いや、これはやはりペンネームというよりも、実名の変更と見た方がよいかもしれません。…新たなる集団(共同体)の一員。実名が、集団の一員としての存在理由と極めて密接な関係を示唆していますから。

考えてみれば、「実名」とは「自分で決められない」、「個人の自由な選択を許さない」という「個人が所属する集団」と密接に結びついていますね。現在でも、名づけ親や自分の実の親が名づけたのであって、自分で名前を選んだわけではないですからね…。言わば、「成員としての認知規範(価値)」(近代観念を使えば、集団内の個人のアイデンティティー)のようなものではないでしょうか。まさに「氏(うじ)」がそうであり、それは役割規範から評価規範とも結びついていたもの。「集団(社会)」と「実名」、それが切っても切れないものという点をしっかり押さえておく必要があると思います。

名を持つ…本来は「個々人の識別」とはおよそ違うものだと私は思います。いろいろな生命体を見ても分かるように、臭覚や触覚などの五感によって、識別可能なのであって、サル社会のボスの認知も「名」を使っているわけではありません。本来は、個人の識別という目的のために「名」があったわけではないでしょう。共認機能が発達し、集団(の構成員)が規模拡大していくと個々人の識別が必要な気もしますが、進化論の会議室でも少し触れた分化という観点では、むしろ機能分化(集団の役割共認)のための識別が先にあったのではないかと思います。そして、それを加速したのは、(もしかするとこちらの方が先かもしれませんが)集団同士が接触したことによる同類圧力なのではないでしょうか。同じ名(苗字)は日本の場合は地縁・血縁によるものが多いとは思いますが、韓国でも中国でも日本とは少し構造は違うでしょうが同じ名が見られます。違う集団同士が接触するときの、集団を指し示す「名」。つまり、「名」はその人材が「集団」に属しているという皆が認める証としての価値があるのではないでしょうか…。

そんな、「名」を放り出して自分でつける「匿名」は、集団を捨て去ることを意味し、それが(本源)集団の解体のベクトルを持つことは明らかなように思います。「匿名」によって、集団を忘れ、秩序が破壊していくのは当然の流れではないでしょうか。

P.S.「千尋」が名を奪われたのは、人間「集団(社会)」からの離脱であり、「千」の名をもらえたのは、新しい神々の憩う風呂屋の集団一員に加えられた(認められた)からでしょう。そして、「ハク(白龍)」は千尋によって名を取り戻し、神々の集団(社会)に無事復帰できた…。ホント、名前は大事ですよね。(「千と千尋の神隠し」を見ていない人がいたら、ごめんなさい。)



吉国幹雄 
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RE:社会変革の主体となる為に

Posted by ななし on 17.2016 記事 0 comments 0 trackback
永峰さん、はじめまして。
フリーターVSサラリーマンについての平川さんとの交信を興味深く読ませて頂きました。お二人の見解は多少違っているようですね。「フリーター」という言葉には、これまでのように「定職につけない」という受動的かつ否定的な意味ではなく、「定職につかない」という能動的で肯定的なものが感じられます。また「フリーター」という言葉がこれだけ市民権を得ているということは、その存在がもはや無視できないものとなってきていること、人々を「定職の有無」で区別しなくなって来ている事への証左ではないでしょうか?

>強い意志を持って「私権社会」に入らない選択をしたわけではありません。また、安易に生きていきたいから、という理由だったわけでもありません。ただ単に、「私権社会」の圧力の元で日々仕事をしてゆく、という毎日に魅力・活力を見出すことが出来なかったためです。(12889)

これはフリーターと呼ばれる大半の人々の心境を代弁しているような気がします。

 一時期、「モラトリアム」という言葉が流布しました。大学を卒業しても社会に出たくない、社会への関わりに自信が持てず、結論を先伸ばしにして漂流する若者達。彼らは田中さんの仰るように、活力源がを見いだせないでいるのかもしれませんね。「フリーター」はこの「モラトリアム」の延長線上にあるように思えます。

>しかし、初めから目的もなくフリーターになったり、一度社会人になったのに安易にフリーターに戻る(安住する)ことは、やはり後退しているのであり、そのことを現代社会の潮流として安易に受け入れる事には問題があるのではないでしょうか?(12835)

と述べられていることには同感です。現代は未曾有の不況、サラリーマンといえども以前のような年功序列、終身雇用の時代では無く、いつ失職するかわからないのが現状です。重要なことはフリーターVSサラリーマンという「定職の有無」が問題というよりも職業を「安易に選択する」ということ。現代社会の潮流を「安易に受け入れる」ということ。これらの「安易さ」は裏返せば社会を捨象し個的生活に埋没しているということではないでしょうか?すべての人々が社会変革の主体となりうる可能性があるとすれば、日常の中から社会への関わりを真摯に見つめ、発信していく事だと思います。



大木康子
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統合の可能性

Posted by ななし on 16.2016 記事 0 comments 0 trackback

>今重要なのは、「領域の限定→専門化」ではなく「統合」

私も同感です。そして今だからこそその可能性が開かれたともいえないでしょうか。
同時多発テロ事件をはじめ、環境問題、教育荒廃問題、経済不況・・・・
社会の不全感はピークに達しようとしています。
人類が可能性へ収束する生物であるからこそ進化可能であったことを前提にすれば、今こそ、誰もが可能性を模索し、そのエネルギーを統合してくれる事を望んでいるはずです。


伊藤浩
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幸せの感受性

Posted by ななし on 15.2016 記事 0 comments 0 trackback
>不平不満をもち、何故自分だけがこんな思いをしなければならないのか?

現実の諸問題や周辺環境と関係なく、あるべき自分なり、こうありたい自分というものを思い描いている事。その自分勝手なイメージが、幸せかどうかを測る尺度になってしまっている事が、幸せの感受性を鈍らせているような気がします。

意識が自分の思い込んでいる自分の姿にしか向いていないから、それに合致しない限り幸せだと受け止められない。そんな余計なものを抱えていない人は、小さなことでも幸せだと感じられるのではないでしょうか。


柳瀬尚弘 
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在野で埋もれている人材達

Posted by ななし on 14.2016 記事 0 comments 0 trackback

「人なきところに人あり」という言葉がある。三国志では諸葛孔明が、遠征先で出会った人物にその言葉を送っている。
西さんの投稿でなるほどと肯けたのは、一般大衆と呼ばれるあまりにも寡黙な人々に可能性を感じたところだ。

例えば、周りを見渡してみるとそのほとんどの人々が日頃、社会や政治に対して寡黙に暮らしている。何か行動をおこしたり、訴えたりはしないが、静かに考えている。
表にはでてこない。これは我々日本人の美徳とも言える。しかし、その無言の圧力は限りないパワーを秘めているのだ。

おそらく、一般の人々はまさに考えている状態、西さんのいう模索中なのだろう。ひとつ間違えば無関心ともとられかねないが、実際の一般大衆はそうではなく、軽はずみな気持ちや生半可な気持ちではとうてい社会変革などできないと考えているのではないだろうか。そして、そうとは言っても、それぞれその人なりに社会や政治のことを真面目に考えているのだろう。それが「石橋をたたいて渡る」一般大衆の気持ちだろう。

そんな彼等(在野で埋もれている優秀な人材達)にこのるいネットを紹介すれば、、、、。
けして、「三顧の礼」などしなくても、自然とこの場に集ってくれるに違いない。



平川要
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可能性は確かに存在する。

Posted by ななし on 13.2016 記事 0 comments 0 trackback
掲示板って、自分の好き勝手な事を投稿して、その掲示板内になんか排他的な雰囲気があって、気持ち悪い内輪の盛り上がりがある。
僕自身、そんな風に思ってたし感じてもいた。

>普通の人に発信必要性を作り出す事が不可欠

普通に生活してたら、まず発信必要性は感じない。
なぜ?
知らないから。こんなにもたくさんの人が、現在の社会の閉塞感からくる不全に対して真剣に考えている事を。気づいていなかっただけ。

そんな人が多数なのでは?

知らないなら教えればいい。

無理に発信してもらう必要はない。
ROMでもいいじゃない。
○サイトへの入り口でもいいじゃない。
MLだけのおしゃべり仲間でもいいじゃない。
そのうち、そのひとのなかで、何か発信したい欲求が生まれ、自然と投稿してしまう。
公開されているとか、実名であるとか、そんな事にこだわらなく、自分の気持ちを伝えたくなる。そんなサイトになれば、自然とうねりが生まれる。

時間はかかるかもしれないが、何をすべきかはわかっている。
中身の追求、これに尽きる。
 


ゲン 
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RE>ストレス

Posted by ななし on 12.2016 記事 1 comments 0 trackback
「ストレス」という言葉、やはり、というより60年代後半から頻繁に使われる言葉ですね。以後誰もが「ストレスがたまって」や「最近ストレスが多くて」「ストレスの多い現代社会」などと口にするようになっています。

「病は気から」という言葉(どなたかが言及しておられましたが)があてはまる好例ですが、さて近現代以前、外界との「摩擦」・「外圧」は現代よりもはるかに大きかったでしょう。にもかかわらず、現在「心の病ゆえ」と取り沙汰される、「異常な事件」が頻発したでしょうか。

「心」という「脳」の機能が冒されることが「心の病」で、それが「社会」のせいとすれば、その社会自体が異常なのでしょう。肉体は正直です。

決してのんびりしていたわけではない、むしろはるかに苛酷な生の状況下にあった前近代で、なにが「心の病」から人々を救っていたのかを考えてみたいと思います。




中村朋子 
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社会探索は気づき

Posted by ななし on 11.2016 記事 2 comments 0 trackback
社会不全からまつり=潜在思念の投稿へというわかりやすい連想ゲームは僕もスッキリします。

太古は自然不全だから踊ったんですね。
社会不全は本能というか肉体を超えた存在だから、村や町のまつりだけでは不全の全面解消ができなかった。恍惚感は得られても尚残る不全がモヤモヤとくすぶっていたように思います。

このサイトでの探索には、なんだか「気付く」ことで充足する面がありそうです。



土井誠也 
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経済崩壊のシナリオ(3)

Posted by ななし on 10.2016 記事 0 comments 0 trackback
たべたさんレスありがとうございます。もう少し滅亡の問題にこだわってみたいと思います。

さて、インフレターゲット論についてですが、これは、あまりにバカバカしいためか、日銀も早々に否定しておりますし、学者や市場関係者の間でも、全然議論は盛り上がってないようです。私も、少し考えてはみたものの、議論するにも値しない問題と思われますので、別の問題を考えてみたいと思います。

ここしばらく、株価の動きに神経を使う必要がありますが、当面の問題は、株価下落の過程で、今後どのような事態が起こりうるのかを予測することだと思います。株価が下がれば、銀行は不良債権処理の原資を失います。だだでさえ、資金ニーズも少なく、マネーがだぶついているところへ、超低金利で利ざやが薄いため、銀行の収益力は悪化しています。そこへ持ってきて、実態経済の景気はさらに悪化する一方ですから、企業収益は低下するばかりで、不良債権は拡大し続けます。
公式見解では、主要銀行で100兆とかなんとか言われてますが、実際のところは、表に出てない「不良」予備軍や地銀・信金などの不良債権も含めると、相当な金額の不良債権が眠っているはずです。ですから、株価が下がれば、銀行は自力で不良債権処理をする力を失ってゆき、それどころか、不良債権処理をすれば、銀行自身が倒産するという事態に陥るでしょう。そうなれば、金融恐慌を引き金にした昭和恐慌の二の舞です。

ですから、小泉政権としては、構造改革を推し進めようとすれば、金融秩序を安定化させつつ、不良債権処理を進めるために、公的資金をぶち込むしかありません。さらに、景気後退と企業倒産・失業対策のセーフティネットを張るためにも、財政は出動せざるを得ないでしょう。既に、公約違反の疑いは濃厚ですが、間違いなく補正予算は動員されるでしょう。そして、そのための原資は、結局赤字国債の増発しかありません。

小泉政権の構造改革の「工程表」なるものが、どういう形ででてくるかはわかりませんが、構造改革(不良債権処理を行い、成長力のない産業から成長力がある産業構造への転換を図り、むだな公益法人を改革し、雇用構造の転換を図るetc.)を推し進め、景気を回復軌道に乗せるための、必要経費(投資)だとか何とかの理屈で、財政構造改革は先送りされ、赤字国債の増発が容認される可能性が極めて高いと予測します。

考えてみれば、「実現論」でも述べられていましたが、「市場」は「国家」の寄生虫でしかなく、それ自体では自立し得ないものですから、最後の全てのシワヨセが国家に集中するのは必然のこととも思われます。

いづれにせよ、小泉改革の結果は、国家財政破綻の危険性を増大だけに終わる可能性が高いと予測します。それで、景気が上向けばまだ救いもあるかもわかりませんが、今の株価の動きは、それも望み薄であることを暗示しています。私は、どこかの段階で、小泉政権は、今の人気・期待の大きさとは裏腹に、経済政策の失敗の詰め腹を切らされて(実は誰がやっても同じなのですが)、解散に追い込まれる可能性が高いと見てます。(残念ながら、昭和恐慌の時の浜口首相と同じ結果になるでしょう。)
そうなれば、より一層の政治の混乱も避けられません。その段階で、新たな社会統合の有り方を問う議論が、必ず求められるようになると予測します。



雪竹恭一
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共認革命とNET

Posted by ななし on 09.2016 記事 0 comments 0 trackback

60年代70年代の学生運動も反戦運動も、昨今の環境運動も市民運動も、その個々人の情熱がどうであろうと、確かに近代思想の枠の中にあり、其の限界性ゆえに、多くの汗と血は、変革の日の目を見ることなく無為に流されてしまったと、今や、認めざるを得ません。(全共闘世代の思いです)

共認革命つまり人々の意識を変えるためには、其の意識のバックボーンとなる存在のありようが変わらねばならないが、その存在や意識の私権のしがらみの引力が意識転換の邪魔をする。とすればむしろ逆に、個々の私権のしがらみから自由なネットの中で、その可能性が開けるということなのか。




庄恵三 
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「生産者の改革」は問題の立て方自体が袋小路

Posted by ななし on 08.2016 記事 0 comments 0 trackback
> 企業が利益追求をやめたら、つぶれてしまいます。生き残るためには、消費者の消費意欲(需要)を無理やり引き出してでも、モノを売らなければならない。<

このように問題を立てると、突破口は見つからないでしょう。

多額の借金を抱えた企業の倒産は不可避です。小泉内閣程度の改革でさえ、そこを避けては通れません。

社会的に必要とされていない企業は積極的に倒産させるべきであり、その失業者が所属する集団を失わないようにいかに受け皿を作っていくか、これこそが成否の鍵を握っているのです。

岡部氏が7162で紹介している管理職ユニオンの事例や、「環境・農業」で議論されている「鯖人」運動も、受け皿となる可能性のひとつです。

可能性となる実現態に着目してその輪を広げていくことに力を注げば、突破口は以外とたくさんあるように思います。



松尾茂実
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逃げてきた結果

Posted by ななし on 07.2016 記事 0 comments 0 trackback
>理論や観念を使うと、自分が「考えた」気になってしまっています


理論や観念を駆使して、「考えた」気分になる

相手を批判して、自分が「正しい」気分になる

もともとある支配観念を駆使して、「創造した」気分になる

目の前にあるゴミだけ拾って、「環境に貢献した」気分になる



何も変わっていない現実が、何もかも語っているのですね。



吉岡摩哉
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絶望的な数字

Posted by ななし on 06.2016 記事 0 comments 0 trackback
11日の讀賣新聞の片隅に以下の小さな記事を発見した。

・・・温室効果ガス排出6.8%増 99年度-対90年比・・・

地球温暖化保全に関する関係閣僚会議及び地球温暖化対策推進本部(本部長;小泉首相)の会合10日開かれ国内の1999年度の温室効果ガス排出量がCO2換算で前年度比2.1%増の13億700万トンとなり、京都議定書で定める基準年の90年に比べて6.8%上回ったことが報道された。京都議定書で日本はCO2など温室効果ガスについて2008-2012年に90年比で6%削減するとの目標を課せられている。このため閣僚会議では目標達成に向けて「一層の取り組みが必要である」ことを申し合わせた。日本国内のガス排出量は96-98年にかけては減少傾向だったのが、99年度は2.1%増と再び増加に転じたことになる。この原因については、当時は景気回復に伴って生産活動が上向き、輸送部門の増加や家庭でのエネルギー消費の伸びなどが大きかったことが報道された。

なんともやるせない報道である。要するに90年に立てられた-6%という目標はたった10年で逆に+6%という数字をたたきだした。目標に達するにはこれから7年で-12%の削減が必要なわけである。限りなく不可能に近い値である。
京都議定書の数字は絵に書いた餅であることがこの数字からも明らかである。当時、議定書で-6%という数字をどう考えていたのか。それを実現する為にどのような具体策を講じてそれが予定どおり消化されたのか。少なくとも数字を上げて目標化する以上通常の経営者感覚では必ずそこが問われるはずである。
営業成績に例えれば6%の収益を上げるはずが6%の赤字。そしてその間なにをやっていたかと問われたら、いや~思った以上にかかりましたわというお粗末なレベルの話である。
報道のように政府が弁明したのかは定かではないが、「一層の取り組みが必要である」とはなんというひとごとのような弁明だろうか?
叱られて明日から頑張りますという新人営業マンとなんら変わらないレベルではないか。そして原因はと問われれば、景気回復によるエネルギー使用の増大と平気で言い切る。いつもは景気は悪化傾向にあるだの、景気は弱含みだのと言っている当事者がである。
・・・というふうに、この記事に怒りを感じるのだが、裏返せばもはや、環境問題に対しては政府は全くお手上げ状態、若しくは日和見状態を露呈しているのを示しているということである。

政府は経済回復という足かせをはめたまま環境問題にとりくみことは電車の中で後ろ向きに走っているようなものなのである。環境問題はアドバルーンー姿勢が大事で成果は二の次なのだ。

 しかしよく考えてみたら我々もこの政府のことを強く言えるだろうか。
その張本人は政治家でも役人でもなくエネルギー消費を日々何も考えずに行なっている私も含めた大衆そのものであることを忘れてはならない。

 痛みを伴う構造改革とはこういう時に使って欲しい。経済回復を当分、先送りし国民の全てエネルギー消費を1年以内に現在の70%になるよう全ての法制度、税制を見直す。必ず2008年には12%減の目標を達成する。と



田野健 
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古くて新しい企業のかたち

Posted by ななし on 05.2016 記事 0 comments 0 trackback
田野さん,はじめまして。
ご紹介のNHKのドキュメント「サンヨー電気の工場生産システム改革」を見て,私も再認識したことがいくつかありました。

最近よく耳にする「居場所がない」という言葉,それが本当に問題なのか? と疑問に思っています。問題なのは「居場所がない」ことではなく,むしろ「帰属感が得られないこと」にあるのではないか…と。

自分の居場所,自分の席はあっても,そこに居ても何か違和感を感じてしまう。そこに座っているのに自分は異分子だと感じてしまう。

これまでの日本の産業社会は,いたるところで分業と専門分化が支配し,生産効率のために人間的なバランスが犠牲にされ,「互いの職種がみえない」「頑張りが見えない」だから「理解してもらえない」など,個人の自我が肥大する土壌を広げてきた。
サンヨー電気の紹介する革新性は,多能工が単に生産効率の面でも分業を凌駕したという事実以上に,生産場面において,「トータルなプロセス」を各自が体験するという点にある。

一方では,消費文化がもてはやされ,受身で買うことだけが楽しみのすべてであるかのようにマスメディアに先導されてきたこれまでの日本は,この「主体的かつ総合的なプロセス」の居場所がなかった。

こうしたものに対する挑戦としての貴重な一例が,この番組であり,将来の「古くて新しい企業のかたち」を予見しているかのようでもある。


泣華酒
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罪意識の欠如と個人主義

Posted by ななし on 04.2016 記事 0 comments 0 trackback
>そもそもの罪の意識(=規範意識)の欠如はどうして起こったのかその根本問題が問われているのではないでしょうか。

罪の意識の欠如の大きな原因に個人主義思想があると思います。個人主義思想とは簡単に言えば、集団や社会の価値観よりも個人の価値観を重視(絶対視)するという思想です。個人の幸福追求が最優先事項であり、社会や国家はこれを助けるために存在すると言い換えることができるかもしれません。

この思想を突き詰めると、どうなるか。

自分の利益、自分がしたいことこそが最優先であり社会の規範、他人の迷惑等は二の次です。むしろ、他人の目を気にして自分のやりたいことをやらないのは勇気がない人間であり、自分の利益より社会や他人の利益を尊重するような人間は本心でそうしているのではない偽善者だと言うことになります。

>若者の電車内でのマナー、タバコのポイ捨てのマナーをはじめ、昨今報道されている医者、政治家、役人、大学教授、マスコミらの目に余る規範意識の低劣化をどう捉えればよいのでしょうか。

自分のやりたいこと、自分の利益・金儲けが第一で社会規範など、どうでも良いと言う個人主義の悪い面が顕著に現れている結果だと考えられないでしょうか。

罪の意識と言うのは、自分よりも大事なものがあって始めて生れます。罪の意識とは自分がやりたいことが、自分以外のより重要な価値を破壊していることを自覚するところから生れるのだと思います。しかし、個人主義思想において自分より大事な価値は存在しません。

厳密に言えば、個人主義思想は個人が絶対価値だといっているだけで、自分だけが絶対価値だとは言っていない。自分という価値と他人と言う価値は共に重要な個人であり同等だと理解するはずだと言えるかもしれません。しかし残念ながら、そのように理解している人は殆どいないようです。

個人は絶対だ、自分は個人だ、だから自分は絶対だ。このような論理により自分を絶対視し、社会規範を軽視(無視)し、最終的には自分以外の他人は自分の幸せのための道具としか思えなくなる。このようにして自分の利益のためなら犯罪行為も平気で行なう人間が大量に生み出されているように思います。今回の池田小事件の犯人も、恐ろしいほどに自分のことしか考えていない。まさに個人主義思想が生み出したエゴの怪物であると思います。



野田雄二
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「聖域」解体全面的賛成

Posted by ななし on 03.2016 記事 0 comments 0 trackback
「聖域」=既得権益の温床解体については、諸手を挙げて賛成です。

 経済の問題とはかけ離れていると思われるかもしれませんが、実現論第一部 の冒頭からの抜粋です。
 
「生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。(中略)全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。また、外部世界が変化して適応できなくなってくると、新たな可能性(例えば、DNA塩基の組み替えの可能性)へと収束し、新たな可能性(新たな配列)の実現によって進化してゆく。」

 これは生命原理についての記述ですが、社会についても同様に当てはまります。

 特殊法人にしろ、社会福祉制度にしろ、それらが社会的必要性があったから優遇してきたのであり、インフラが整備され、貧困を克服した現在、必要のない制度は解体しなければなりません。

 外圧状況が変化しているにもかかわらず、古い制度にしがみついていればそれこそ絶滅種となってしまいます。


> 聖域を囲む鉄壁を取り払えば、需要停滞の状況下で、企業間競争が一層激化することは避けられない。競争なき社会の弊害は明らかだが、他方で農業など市場競争に弱い産業が、その重要性とは裏腹に衰退した事実もある。競争の「あり方」、産業再生のあり方についての議論が、もっと必要だ。< mesg5510 矢ヶ崎さん

 外圧状況が急変したときには、カンブリア紀に多様な生物群が登場したように、より適応度を高めるための競争状態になるはずで、「外圧適応度」こそが競争のあり方を決める指標になります。

 小泉政策の根本的間違いは、貧困という外圧が消滅したにもかかわらず「経済成長」を指標としていることにあり、そうであるから本来必要な農業再生については全く展望を示せないのはもちろんのこと、構想全体が極めて実現性に乏しいのです。


 では、本来国家はどうすべきなのでしょうか。まず「外圧」をしっかり把握することであり、現在で言えば「経済破局」「環境(肉体)破壊」「精神破壊」という問題を、国民に向かって全面的に打ち出すことが出発点だと思います。

 そうすれば、国民全体が「外圧適応度」をめぐって議論や行動による有意義な競争が展開されるはずです。

 最初はとんでもないのも出てくるでしょうが、外圧から目をそらさない限り、必ず新たな可能性へと収束するはずです。


松尾茂実
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みんなの宝として育てる時。

Posted by ななし on 02.2016 記事 0 comments 0 trackback
北村さん、たにさん、若い女性の出産についてですが、最近読んだ本の中に、気になることが書かれていました。

50・60年代の出産は、子供は授かるもの、授かりもの、子供は社会の為、次世代の担い手、家の継承者、子供を授かって一人前と「社会的価値」を考える人が多かったが。
今の若い女性は、子供はつくるもの、つくれるものと、子供は自分の為、自分にとっての価値があるかどうかを考える「個人的価値」の判断のもと、出産を決定している人が多くなっている。
若い人ほど、出産は選択の対象で、仕事・経済・生活便宜・ゆとり・育児支援・施設等の条件が重視されている。

このように子供が、さずかるものからつくるものに、「社会的価値」から「個人的価値」へと子供に対する意識転換がおこっているようです。

また、今の若い女性に増えているのが、結婚はしたくないが妊娠・出産経験はしたい。
夫は要らないが、子供は欲しいなどと、子供をもつことが選択の一つとなって、新しい欲望、個人の価値、自分にとっての価値の最のたるものとなって、生まれさせられた子供は、否応なく自分の価値観で育てられる。

子供をつくったが、自分の想い描いていたことと、現実はかなり違うと気付いても、母親となったその瞬間から多くの制約とともに、子供の将来や人格こころの形成など全て委ねられるのです。

子供にとっての親から、親にとっての子供として「個人的価値」からつくられた子供を、虐待やストレス、育児放棄から守るためには、子供を「社会的価値」に置き換え社会で育てる、みんなの宝として育てる時が、きているのではないでしょうか。

「しろがねも くがねもたまも 何せむに まされる宝 子にしかめやも」山上憶良も歌っています。



浦野てる代
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