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現代日本人の先行き不安の核心は。

Posted by ななし on 31.2015 記事 0 comments 0 trackback
>現代市場社会に生きる大多数の人々は、根本的には、「孤独」な「個人」であるが故に、市場拡大停止や不況に得体の知れぬ不安を覚えるのではないかと思います。
雪竹氏の投稿(4873)に同感です。
 
政治家や識者から労働界の指導者までが、マスコミを介して、人々の先行きへの不安感の原因を金融不安や企業の業績不況のせいにしています。
この人々の不安を解消さえできれば、消費が回復し経済が再び成長を始めるかのように云います。

現代の日本は、至れり尽せりの社会保障制度が確立し、それらの制度を実現させた人権、福祉主義などの社会共認は人々の意識を支配する支配観念として確立されてしまいました。
今や国家権力や資本によって支配されている等と言うのは時代遅れも甚だしいのであって、個人主義が造り出した欺瞞観念によって我々の共認が染め上げられて身動きが取れなくなってしまい、世論と人々が支配されているのが実態です。  
だから人倫に反するオゾマシキ事件が日常化するのです。(付属池田小の殺人犯だって、世論がその様な支配観念で染め上げているからこそ、国家に対するタカリのプロとして生きて来れたのです、こんなタカリの様々な手口を暴いて封じることができれば根絶できるのです。 公園を占拠しているホームレスの諸氏だって帰属すべき家族や集団を失ったからであって、不況が原因の本質ではない)。

云うまでも無く、現代の日本には個人の怠惰に帰す以外の長期失業や貧困、まして飢えなどは存在しません。  つまり豊かさと保障が行き渡り、貧困は消滅したのです。  
先の人生を不安視するなら、その核心は金融不安や不況ではないでしょう。 人々の先行きへの不安が経済の先行き不安なら、現代人はもっと働くはずです。  金融不安や不況の不安なら、普通の年寄が挙って海外旅行に繰出したり、誰でも入れて、大学のキャンパスがプータロウで溢れかえるはずもありません。
雪竹氏が述べたように市場の拡大や経済の成長を固定観念化し思考停止しているから不安なのです。

 これ以上の日本に於ける消費(内需)拡大は人々の活力問題から、自然界の摂理から、不必要かつ無理がある。  人々の活力源が転換しつつあることにこそ注目すべきです、従ってパラダイム(場の圧力)も転換していきます。



阿部紘
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いい女計画!その3~自分って何だろ~

Posted by ななし on 30.2015 記事 0 comments 0 trackback
こんにちわ、かわのさん。
返事してくれて、とても嬉しいです。

「私」「自分」、どちらも今、とても重要な言葉のように使われてますよね。
ここでも結構指摘されてますけど、「自分探し」とか「私らしく」とか。

私も一昔前まで踊らされっぱなし(?)でした。
何かあったら、「これが、私だから」(言い訳)とか
人と違うことして、違う結果になって不安になって「私は、個性があるの」(逃げ)とか

「流されたくない」
「自分をもたなきゃ」
「人とは違う」

「自分」にそう言い聞かせて、自分も大衆の一人のくせに、流行からわざと一歩引いたりして、そうしてどこかで何かを「否定」していたんだと思うんです。

でも冷静に考えたら、個性なんて「演出」するものじゃないんですよね。
人と違って喜ぶのは明らかな「優越感」だと思います。
優越感を持った人間が、人から好かれるわけはない。

結局「個性」って言葉自体が流行りなんだから、私はあんなにバカにしてた「流行」に見事に踊らされていたサルだったのだと、今では思うのデス。


「本当に自分に似合うモノを身につけてる人が、本当のオシャレで、それにはやはり自分を知らなければいけない」なんてキャッチコピーを聞くけど、よく考えたら、あれは大嘘ですよね。

だって、自分に合うモノを見つけだすより、みんなに合うような自分にする方がよっぽど早いし、守備範囲が広がる。自分を知るまえに、相手や対象をちゃんと見ないと、それを受け入れられるような自分になんてなれない。

試しもしないうちに、「似合わない」と思いこんで「あれは私らしくない」なんて言いわけして、もったいないことしたなあー(本音)
洋服試着して、自分で鏡見るより、似合うかどうか人に聞いた方が確かなのにね。


吉岡摩哉
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Re:「これから」という課題

Posted by ななし on 29.2015 記事 0 comments 0 trackback
>「今」がよければそれで十分、「先」のことは考えない。むしろ考えられないといったほうが正しいかもしれない。

「蟻とキリギリス」のお話を思い出しました。確かに、「今」がよければそれでいいという「キリギリス」的若者も多いのかも分かりません。しかし、私はそれが彼ら(彼女ら)の本心であるとは思えません。彼ら(彼女ら)が「今」を精一杯生きており、「今」を生きることに充実感を見出していて、「今」が本当にいいと思っているとは思えないからです。例に出されたギャル友達のような若者は、「自分はどう生きていったらいいのか」「何をすればいいのか」という問いに答えが見つけられずに、考えることから眼をそむけてフワフワと漂流しているだけではないかという気がします。

根本的に言えば、人間が共認動物であり、それ故「なぜ自分は存在しているのか?」「なぜ自分は生きているのか?」という拠り所がなくては生きてゆけない動物である以上、人は誰でも(特に若者は)その理由を探し求めているものです。ギャル友達の例も含めて、どんなにものを考えてないように見える人でも、内面の根本の所で、それを考えていない人はいない筈です。ただ、考えても答えが出ないので、そこから逃避して、お互いに逃避していることを確認するために慰めあっている(それを拠り所にしてごまかしている)だけなのです。
彼ら(彼女ら)の言う「「今」がよければそれで十分」という意味は、「自分がどう生きていったらいいのか考えても仕方がないので、そんな答えの出ない不安になるような「先」のことは考えないようにしようね。それでいいんだよね。」ということしか意味してないのではないかと、私には思えます。

おそらく、かのギャル友達のような人々は、自分が根本的な問いから逃避していることは、うすうす自分でも分かっており、その不安から逃避し続けるために、刹那的な「今」に強迫観念的に駆り立てられて、男をとっかえひっかえ遊びまくることでしょうが、人間は、いつまでも不安から逃避し続けることはできません。まともな人間であれば、そのうちどこかの時点で、「(本当は十分若いのだが)自分ももう若くない」「遊ぶのも疲れた」「落ち着ける場所が欲しい」とか言い出して「これから」に向き合わざるを得なくなるはずです。(おそらく、社会状況もやがてそうせざるを得なくなるでしょう。本当は、「今」のような時代の激動期ほど「これから」を考える必要があり、その意味で面白い時代はありません。)
それでも「今」で十分という人は、放って置くしかありませんが、「今」大事なことは、「これから」の可能性を皆で考えることです。漂流している若者達の多くは、可能性のある答えを、(そのヒントが他の大人から与えられるものであったとしても)本当は求めているのですから。


雪竹恭一
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母親の不全と可能性

Posted by ななし on 28.2015 記事 0 comments 0 trackback
雪竹さん、はじめまして。
>特に、現代の一対婚家庭のように母親が専業主婦というような形で、自らは殆ど闘争課題を担っていないにもかかわらず、口先だけで子供に教え込もうとする場合は、より一層この表層化は深刻化します。
>さらに言えば、母親自身が、家庭の中で充足することができずに、存在不安や親和不安を抱えている場合は、子供に対する親和もないくせに表層規範だけを教え込もうとしますから最悪です。

新聞報道による少年犯罪の事件の原因分析では、しばしば「母親が問題である。」
といった論調が目に付きます。これに対して母親の立場からはこんな反論も出されています。(4月13日、産経新聞)
「あまりにも子供の問題の責任を母親に負わせ過ぎではないか」
「核家族の中で唯一頼れるはずの父親(夫)の物理的・精神的なサポートがないままで、母親は自分の生活時間のほとんどを犠牲にして一生懸命子供に愛情を注ぎつつ、周囲の目や評価を気にしながら、子供を厳しくしつけるために『父親役』まで引き受けねばならない。日々、孤軍奮闘する母親たちはもうヘトヘトなのだ」

まさに雪竹さんの仰る閉塞状況を物語っていると思います。
既に母親1人の判断で解決出来るような状況ではありません。子育てに完全に自信を失った母親にまともな教育を期待するのはもはや限界でしょう。
世間では子育て休暇など制度面での解決に期待がかけられていますが、制度をいくらいじくり回しても問題が解決するとは思われません。

仮に時間的な余裕が生まれたとして母親たちは本当に充足するのでしょうか。
物理的な問題よりも精神的な問題の比重の方が大きいと考えます。
自らの内向きのマイナス志向の自覚がないままでは、どんな外的手段を用いても充足は得られないと思います。私権社会での将来に対する不安と自らの親和欠損、無圧力空間にありながら世間の評価圧力という強迫感に怯える日常。
さきほどの意見からは突破口の見えない脱出欠乏が見て取れます。

一方では、専業主婦を中心とした有閑層のネットワークが拡大してきています。
主に子育てを終えた主婦層の可能性収束先としての受け皿になってきているのではないでしょうか。自分を対象として現実と理想のギャップに悩む日常から、対象を外部に向け確かな手ごたえを感じることのできる仲間空間へと移行している層と考えられます。私が所属しているNPOでも彼女達は生き生きと活動しています。

どんな組織でもそうですが、そこには役割が与えられ相手の期待に応えれば応えたなりの精神的な充足が得られるのです。現在、地域共同体の再生が叫ばれています。
しかし、子育てに自信のない親和欠損を孕んだ母親達をどうやって結び付けたらよいのか、具体的な方針が無い状態です。強迫観念的な仲間収束から役割と充足感を得られる仲間収束への転換のためには何が必要なのでしょうか。

例えば、子育てサークルから発展してボランティアを続けている人もいます。
生活共同組合などは主婦層が中心であり、教育や環境問題まで活動の領域を広げている団体もあります。自分を対象とした生き方から仲間を対象とした生き方に転換するためには、私権的な価値観からの段階的な脱却過程が必要と考えます。
私権的な価値観から脱却できた層は現代では注目に値します。現状は個別の団体に留まっていますが、今後は有機的な拡大化が課題となってくるのではないでしょうか。



橋口健一
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自己を守るための自我

Posted by ななし on 27.2015 記事 0 comments 0 trackback
このるいネットには、「自我」についての意見が数多く述べられています。自我には、主体意識やエゴ、他者の攻撃性、自己防衛などいろいろ定義がありますが、その中の自己防衛を意味する、「自己を守るための自我」について考えてみました。
 (私は、何回かこのるいネットに、「エゴイズム、自己犠牲、固定観念」について意見を投稿しました。すると、私の意見、考えには、自我が温存されたままなのではないかという指摘を受けました。他者に対して、自我を抑制したつもりでいても、(4675の雪村さんの意見を引用させてもらうと、)「表面は共認しているふりをして、内心では己の自我を温存している」のでしょう。)
 なぜ、自我を無意識のうちに温存してしまっているかというと、自分で自己を守るためなのでしょう。しかし人は、自分ひとりで、自分を守るのはしんどいです。だから、自分を脅かす現実や他者に直面した場合には、現実逃避したり、自己を停止させたり、自己防衛のために自我を働かせます。しかしその自我は、現実・事実をみることや、他者を受け入れることを認めることを妨げる場合もあるし、幻想を生み出したり、自己を正当化したりする可能性があります。
 だから、自分を守るというときに、もし心を開くことのできる誰かがいてくれるなら、頼ってもいいのではないかと思いました。誰かに頼る・期待するということを認めることができたら、一人では受け入れることができなかった現実を受け入れることができると思います。
 自分ひとりで自分を受け止めることができ、現実や事実、他者を受け入れることができるぐらい人間が強ければ、問題はありません。しかし、人はひとりでは強くありません。だから、自我によってバリアをつくらず、他人に頼っても、心を開いてもいいのではないかと思いました。
 >もう自我によってバリアを作る必要はないのだということに気づけば、一気に本源的仲間収束が顕在し、不安を感じることが無くなるのではないかという可能性も感じます。(4349・雪村さんの意見引用)
 私も、そう思います。心を開くことのできる場所、つまり自我を捨てることのできる場所を私たちは求めているのだと思います。そして、他者も自己も含め、存在するあらゆるものをすべて・現実を見て、認めて、受け入れ、前に進むことができたらとを望んでいます。


ヒウラミワ
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場の必要性と影響力

Posted by ななし on 26.2015 記事 0 comments 0 trackback
私も最近の経済状況については強い危機感をもっています。先日読んだ浅井隆『2003年、日本国破産[警告編]』で紹介されていた専門の経済学者による財政破綻警告には衝撃を受けました。少し引用しますと   リンク

>その結果、前年度末公債残高対GDP比の上昇に伴い、基礎的財政収支対GDP比が改善 する事実は、統計的に有意には認められませんでした。すなわち、わが国財政が破 綻しない(国債は持続可能でない)ことを否定できないということです。

 以上より、わが国は将来のいずれかの時点で財政破綻が懸念される状況に目下直面 しているといえます。特に、1990年代の財政運営がその懸念を助長していること、 図2、3からは確認できます。(~中略~)単なる財政赤字削減ではなく、財政破 綻を回避するべく、前年度末公債残高対GDP比が上昇したならば、基礎的財政収支対GDP比を改善させるだけの財政赤字削減を行う財政運営が、目下求められています。
 (出典: 土居丈朗『地方財政の政治経済学』, 東洋経済新報社, 2000年6月, 第2  章)
 <引用終わり>

 しかし、こういった事実だけではなかなか現実は変わってゆかない(土井氏コメントは日経新聞にも掲載済み)。それを邪魔しているのは何か、という問題に対し、根本的にアプローチしていく必要があると思います。
 
 現状を相転移(私の意訳ではパラダイム転換。不正確かもしれません。)直前の「自己組織臨界点」ととらえた場合、臨界点を超えるエネルギーが必要となります。そのエネルギーとは、可能性への収束や変化期待(適応欠乏=DNA刻印の秩序化原理)にあるのだと思います。人間本来的には、その原動力が刻印されているにも関らず、表現されないのは次の点によると思います。
 
1.人間は観念機能優位(実現論によれば先端収束)
 例えば「レモン」という観念を想起し、生理的現象(唾液が出る)を起こさないことは困難です。 現状変革で最も簡単かつ効果が高いのは、日々使っている言葉を変えることでしょう。 
 
2.現状は変わっているのに固定観念(思い込み)で押し殺している現状は既に転換してるのに、そう ではないと思い込むのに都合のいい観念ばかり。しかし、言葉にならない不安や閉塞感は押し殺せ ない。

3.場がない
 各人はその危機感を募らせているが、それを共認する場が無い(企業や家庭でそんなことは話せな いでしょう)。また、仮に危機共認できたとしても、可能性に収束しなければまだ足りない。
  

 そして、現状の問題はあまりに大きすぎてどこから手をつけてよいかわからないのですが、まずは場を作っていくことなら何とかできそうです。(超時空間な場であるインターネットもまた、新たに出現した「場」であると思います。)


浅野雅義 
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Re:社会変革は間に合うか?

Posted by ななし on 25.2015 記事 0 comments 0 trackback
>人間関係忌避(対人不能=社会生活不能)な人が増えてきて、かつ最低限の社会性(規範)すら守れない人間が急増されてきています。
・・・早く、皆が意識統合できる価値観(生きがい、規範)が出来ないと、精神崩壊、人格崩壊のスピードに負けてしまいそうでとても気になります。

スピードが間に合うかどうかは、難しい問題でよく分かりませんが、私は可能性はあると思います。他の実現論のテーマでも盛んに論じられていますが、生命が外圧適応態であり、先端可能性に収束してゆく存在であるとすれば、人間と人間の集団である社会も、基本的には可能性のある方向に進んでゆくはずであると思います。

但し、どのような社会変革にも言えることですが、「大人」規範の再生についても「痛み」は伴うだろうと思います。逆に言えば、「痛み」を感じないとなかなか転換できないというのも、生命の(従ってまた人間の)愚かな一面ではなかろうかと思います。 

不良品の若者が急増中であるのも、その「痛み」の一つだと思いますが、残念ながら当面は、人間関係忌避の社会規範を守れない人間による(例えば、台東区の短大生刺殺犯人のような)異常な事件は増え続けるだろうと思います。(小学生が殺人をする時代ですから、もはや、何が起こっても不思議ではないでしょう。)
それは、これらの事件の背景に、私権的・個人主義的「大人」規範の崩壊という問題があるからです。「一人前」に金を稼ぎ、他人に迷惑をかけない「自立」した人間が「大人」であるという規範が強固に共認されているうちは、人間関係忌避のような人間は、社会的に生きていけませんから、そうそう多くはなかったのでしょう。

しかし、現代では、「一人前」に「自立」していなくても生きてゆける「豊かな」社会になりましたし、社会的にもそのような人間を許してしまう風潮もありますから、定職につかないプータローや対人関係を忌避したオタク人間・引き篭もりなどの「不良品」はいくらでも増え続けます。
そして、その一方で、衰弱する一方の私権的・個人主義的「大人」規範に替わる本源的「大人」規範は、まだ現実の社会的圧力にはなっていませんから、ちょっと怒られたとか、ちょとイヤなことがあったとか、彼女にふられたとか(今回の台東区のように、見知らぬ女性に無視された・驚かれたとか)というほんのちょっとしたことで、すぐに「切れて」、事件を犯してしまうことが簡単に起こってしまうのだと思います。

つまり、現代の情況は、外圧の衰弱(自然圧力・生存圧力も、私権圧力・規範圧力も衰弱)に伴う旧規範の崩壊と社会的混乱の増大の過程にあるのではないかという気がします。(これだけに着目すれば滅亡過程にあると言ってもいいと思います。)

しかし、そのような「痛み」の増大とそれに伴う不全感・閉塞感の増大には、生命は長く耐え続けることはできません。このような社会的混乱が続くと、それが新たな外圧となって、やがて人々の意識の根底にある適応欠乏(社会的には統合欠乏)を作動させ、「人間関係忌避の社会規範を守れない人間は許せん」というような社会的共認圧力・規範圧力を作り出すものと予想します。
そして、その新たな「大人」規範は、“「一人前」に「自立」しないと「大人」の仲間に入れてあげないぞ”という否定形ではなく、“初めから仲間なのだから,仲間であるために規範を守ったほうがいい”というような肯定形の価値観を基盤にしたものになるのではないかと思います。

未来の予測は難しい問題ですし、勝手な希望的観測かも分かりませんが、私は昨今の情況は、こうでも考えないとやってられないという感じがします。
私権規範が衰弱した今、その基盤は与えられているのだし、その方が可能性があるのだから。少なくとも、いかに「大人」であるかを競い合って、お互いがお互いを否定視する必要はなくなった(本当は、誰も当人を否定してない)ということに気づけば、「不良品」の若者もちょっとはマシになるような気がするのですがいかがでしょうか。


雪竹恭一
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”大人”の定義

Posted by ななし on 24.2015 記事 0 comments 0 trackback
私もちょっと関心を持っていたテーマですのでレスさせていただきます。このような問題がテーマになること自体、現代の社会規範の混迷を象徴するような問題だと思いますが、思想的混迷を整除するうえで避けては通れない問題だと思います。

私は、「大人」という意味は、簡単に言うと「人の役に立つ人間」ということではないかと思います。もう少し言い換えると「仲間や集団や社会から期待される役割・責任を果たすこと。そして、他人からそのような期待をされることに喜びを感じ、他人がそのような期待に応えてくれることに対して感謝をすること。」ということが、本来の本源的な意味での「大人」規範ではなかろうかと考えています。

貴方の投稿の中の引用を参考にさせていただくと、「他人への配慮が出来るようになる」「人との協調性がある」ということは本源的な「大人」規範であると思いますが、「経済的に自立した人間」「自分の価値観を持っている」という「大人」規範は、西洋的な私権的・個人主義的規範がかなり混入したものだと思います。勿論、現代の市場経済社会では、そのような規範が必要な面もありますが、「経済的に自立した人間」というのは「社会的役割を果たし」「皆に認められる」ことの結果ついてくるものであり、本来第一義的に語られる規範ではないと思います。同様に、 「自分の価値観を持っている」ということも、「仲間や集団の中で共有(共認)できる価値観がある」ということが物事を実現してゆくうえでは第一義的に大事な規範のはずであって、「自分の」価値観なるものが第一義的に語られること自体おかしいと思います。むしろ、自分なりに考え、行動の指針としての価値観を確立するうえでは、貴方の御意見のように「多くの人々の意見に耳を傾ける柔軟性」こそが、「大人」規範としては重要であると思います。

このように、現代の「大人」規範は、本源的な「大人」規範と私権的・個人主義的「大人」規範が混在しており、そのような混乱・混迷を正当化(あるいは追認)する屁理屈として「大人像というものは常に変化する物である」というようないい加減なゴマカシの意見が出てくるのです。勿論、時代によって変化する部分もあるでしょうが、規範というものは、普遍的に共認された価値観に立脚していなければ成立し得ないものであり、先に述べたような普遍的な価値の根底部分は、ころころ変わるものではないはずです。現代の医者や学者のようなインテリが、そのような人間と人間社会にとっての普遍的な価値を否定し相対化したがるのは、個人主義に毒されたドグマ・欺瞞観念によるものであり、実はこのような欺瞞観念こそが、本源的な「大人」規範を解体させ、規範を混迷させてきた張本人であることを忘れてはなりません。

子供達が、「大人になること=夢を諦めること」と考えるのも、このような欺瞞観念による「大人」規範の混迷による影響が大きいのだと思います。いま我々「大人」たちにとって、「大人」規範の混迷を整除し、本源的「大人」規範を再生してゆくことが必要なことではないかと考えます。子供達が「夢を諦めない大人」になるために・・・・

参考までに、別のトピですが、個人主義のテーマで私なりに多少考えてみたことがありますので引用させていただきます。

>子供達は、心の深いところで(勉強や出世などよりもっと根源的なところで)、親 和欠乏(愛されたい、かまって欲しい、認めて欲しい etc.)を持っているわけですが、現実の社会は、個人主義思想の支配する私権社会な訳で、学校や親からは、他人と渡り合い、私権闘争 を戦いぬく「自立した大人」となることを求められます。現代の「大人」規範は、多かれ少なかれ、「甘え」を排除し、自他の区別をし、自我を「確立」させて「一人前に」金を稼ぐ社会人になることを求めます。つまり、現代では、他人に依存せず、「確立」された自我 で「甘え」や「親和」を制御(抑圧)することが「大人」になることなのだと思います。

 しかし、よく考えてみるとこのような「大人」規範自体が、西洋風の個人主義による影響を多分に受けており、子供時代の純粋で自然な 仲間関係の「本源」的な規範とは断絶があるのではないでしょうか。もっと言えば、日本人のもともとの「大人」規範は、子供時代の仲 間規範の延長にあったもので、個人主義の輸入と近代化・市場経済化に伴う西洋風「大人」規範とは断絶があったのではないでしょうか。

 この断絶が、今まで顕在化しなかったのは、近代化からつい最近までは、市場経済を発達させ、個人的・物的「豊かさ」を追求するとい う社会的合意(共認)と個人の欲求には矛盾はなく、「私権」によって社会は(国家から企業、家庭、個人にいたるまで)ほぼ統合されていたからです。
 ところが、豊かさの実現によって「私権」が輝きを失うにつれ、子供達の仲間規範(もともとの日本人の「大人」規範)と西洋的「大人」規範との矛盾・断層が顕わになってきました。最近の教育の混乱や少年犯罪増加の情況(子供達の社会や学校に対する反逆)は、その 結果の現象と捉えることができるのではないでしょうか。つまり、子供達は、西洋的(個人主義的)な意味での「大人」になることを拒否し始めているのではなかろうかと思います。



雪竹恭一
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「私」は孤独だ

Posted by ななし on 23.2015 記事 0 comments 0 trackback
私は友人には恵まれていると思う。人生25年のうち23年は共同生活をしてきた(18年は家族、3年寮生活、2年ルームシェア)から、濃密な人間関係を築いてきたようにも思える。田舎者なので、外に対しては極めて消極的で人見知りをする傾向があるが、
関係構築には実は積極的で、自分なりの付き合い方がわかってきたことには、自分は漸進的に人間関係を構築していくように思える。

 しかし、最近は孤独を感じることもある。なぜだろうか?
 確かに、仕事に就きながらも友人たちとはよく飲んだりして交歓するし、東京へ出てきた折りには個人的に一対一で会ったりもする。

 しかし、かつてのような濃密さがだんだんと希薄になっているように思える。例えば、話の内容は過去の思い出話もあるが、主な内容は、今の状況(仕事や恋愛、旅行)が主なものだが、つくづく思うには過去に共同して行った快感というものがなくなっている。

 ボランティアや模擬裁判、学祭の出店、あるいはみんなでよくいった旅行(東北地方を野宿しながら半分くらいは現地の人に泊めてもらったというはたまた破天荒な旅など・・・)そのその瞬間における感動の共有みたいなものが少なくなっているような気がする。

 もちろん、これから社会に出て仕事においてそのような達成感を得ることも可能であろう。だが、出世やサラリーの圧力のもとで、純粋な気持ちでそういったものが得られるかは疑問だ。

 考えてみれば、進学によって住み慣れた故郷を離れ、就職によってみんなばらばらになっていく、かつてのような感動の共有はない・・・これが孤独だろうか。仕事につき家族すら裂かれるようなこともあるかもしれない、遠い未来でもあるかもしれないが老後においてもそうなるかもしれない。将来における不安、これも一種の孤独なのかもしれない。共同生活にしても、永年というわけにはいかない仮初のものと否定的にとらえることもできる。お互い、ばらばらな目的に向かって生活しており、どちらかがそれを達成したなら、この生活は終わるのだ。

 私権社会においては、生活と職業、友人関係が分断され、あるいは利害化されていく。このような中、「私」に安住はなく、「私」は孤独である。生活や職業、友人などを一体とした、共同体の構築がこのような孤独から「私」を救うのではないかと思う。


たべた英智
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Re3348赤掘さん3356佐々木さん「環境へのとりくみ」

Posted by ななし on 22.2015 記事 0 comments 0 trackback
3348赤掘さん、3356佐々木さん
環境問題に対して何が正当な取り組みなのか?を正面から考えておられる点に共感します。
私たち個人として、何をやればいいのか、何ができるのか?が掴めない、わからないというのは正直なところではないでしょうか?
佐々木さんが混乱している情報を正確に捉える観点で「考える」「根本的な対策をする」「活動に参加」は重要なポイントであろうと思われます。

そこで、環境問題を捉える為のもう一つの観点として「問題を捉える(→解決する)単位」を提起したいと考えます。

山本浩孝さんの投稿(>一体なにがそうさせているのであろうか・・・)にあったように環境問題は個人を超えた問題が多いのです。問題を起こしている個人に災いが降りかかるとは限らず後世に先送りされているといえるでしょう。
また、個人がエネルギー消費を抑制したり、割り箸を使わないようにしてもその「成果」が個人にもたらされることは稀です。成果が掴めないから環境問題が自己満足的になったり他者攻撃(割り箸を使う人を責めたりするそうです)になったりするのかもしれません。
そして、修理可能で長持ちする家電製品が望ましいことはわかっていても市販の家電製品を個人で何とかすることはできません。ゴミ処理を企業の責任にすると消費者はいっそう無責任になる危険もあります。
こうして個人の環境問題対応は「ごまかされる」、「対策は自己満足にとどまるしかない」「個人では解決できない」ということになっています。

ここで視点をかえて環境問題を「消費だけする個人」と「生産だけする企業」の枠組みをはずしてみてはどうでしょうか?  市場社会が生産と消費を分離したものであるならそこに鍵があるかもしれません。
「生産も消費もする集団」が主体と言う訳です。
ここでは、長持ちする家電製品がほしければそれを生産し、農薬を使用しない野菜が大切と考えれば自ら生産するということです。信頼できる他集団に委託してもいいでしょう。ゴミの発生と処理も一環させ、上手く行けばその成果を仲間たちと共有できます。
さらに、このフレームで考えれば、その集団が地域に根ざした場合、その地域環境に永続的な責任をもつ事も期待できます。

いま起業に注目するなら、そして環境問題解決が私達の大きな課題なら、本当に「やりたい事をやる。」、「つくりたい物をつくる。」起業が期待されているという事です。本物であればそれだけ賛同者は多くなり、市場社会をこえることができるのではないでしょうか?



田村春信
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専門家は判っていない  下

Posted by ななし on 21.2015 記事 0 comments 0 trackback
ではなぜこれまで、専門家の権威に対する社会的認知が持続し得たかといえば、
≪際限なき専門分化≒私権体制の密室化≒生産余力の拡大≫
の構図がかっちりと連動し、結果生み出された社会総体の「ゆとり」の中に彼ら(の身分)が納まって余りあったからでしょう。

 例えば教育において、国家の指導層が挙って「ゆとり」「生きる力」「高度専門職業人」などと唱えて憚らないのも合点のいく話で、「専門家の地位を高め」「自力で私権を目指しもぎ取る力をつけ」「よって豊かでゆとりある生活を自らのものとすること」が目指すべき道である――つまり、私権体制のネジを改めて巻き直せば、事は解決に向かい、己の身分は安泰を取り戻す(はず)という、極めて時代ボケした発想です。

 これも(潜在意識においては)、まず第一義に保身があって、そのために状況をどう読むか、と転倒するから認識を誤るのですが、意識のこの構造は何も専門家に限ったものでもありません。まずは己の私権を獲得しなければ話にならない、とは私権社会である限りでの必然命題であり、万人に普遍的な意識の在りようです。

 専門家にばかり責めを帰すようなもの謂いをしてきましたが、専門家=特権身分というこの社会形態は、凡人にとっても実は都合が良かったからこそ共認されてきた、という側面は特記すべきところです。冒頭記述したように、ここでは素人は素人らしく「判ってない!」を連発すれば――約束事としては――済まされる仕組みというわけです。

 ところが今や、専門家と素人の間に取り交わされた互いに都合の良い取り決めでは通用しない事態に、我々は直面しているということなのでしょう。
 今ここで、「個人が真に自立し、社会的責任に目覚めるべきである」などと、私権秩序下の責任論に問題を転嫁する過ちには、くれぐれも陥ってはなりません。
はっきりと事態(事実)を対象化するなら、「いったい、問題は何なのか」を人智の及ぶ限り突き詰め、認め合うことこそが第一に急がれるのでしょう。そこから出てくるのは、あくまで「誰ならこの問題に解答できるのか」であって、「この責任は誰に在るのか」ではないはずだからです。


今井靖明 
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鍵っ子の心の縺れを解く鍵は何処に?(2)

Posted by ななし on 20.2015 記事 0 comments 0 trackback
現代の若者を捕える「自分」へのこだわりが、どのように形づくられていくかを読み解くひとつのヒントが、ここにあるように思います。

 まず、彼が「ひとり」へのこだわりを持つに至る背景に、心の寂しさがあること。
 もし仮に、A君が寂しさを抱えていなかったら、「ひとり」「自分」とこだわるようにはならなかったでしょう。決して満たされない心を諦めさせるためにこそ、“自分を持つことは大事”という理屈の必要性が浮上するのです。
 彼は自ら――聞いていて耳につくほど――“鍵っ子”という言葉を連発するのですが、彼の寂しさとそれを押し隠す習性の起点が家庭環境、親との関係にあることを自覚しているようです。

 次に、A君の心を武装する理屈は縺れがひどく、その意識が対象化する風景は被害妄想的な色彩を帯びているようであること。
 例えば、なぜ自分をしっかりと持たなければいけないか、その理由にA君は“人は最終的にはひとり”“ぎりぎりまで追い詰められた時、自分ひとりで決断し生き抜かなくてはならない”と挙げます。
 高校生の若者が、ぎりぎり追い詰められた状況を自分に言い聞かせながら、日常を送っているのです。およそリアリティのある問い、また現実的回答とは思えませんが、それよりも、精神的には実際に追い詰められて年を重ねてきたのでしょう、彼にとってはこれが最も実感の伴う問いなのかもしれません。

 ひとりを寂しいと感じるのは至極当たり前のこと、求めるべきはこの寂しさからいかに脱出するかであって、ひとりでも生きていける「自分」ではないはずです。そして、諦める‘しか’ない孤独への回答を、彼ひとりに問うのは酷と言わざるを得ません。


今井靖明
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なぜ、ホームレスは家に帰らないか? ①

Posted by ななし on 19.2015 記事 0 comments 0 trackback
以下は、藤永英治さんという社会臨床心理学者の方の小論の引用です。 
「こころの再生」

 子供達のあいだで不登校、そして最近ひきこもりと云われる現象が成人社会にも顕在化してきました。都市部の繁華街などを歩いていますとダンボール箱での生活者をよく目にします。
 いろいろと調査し考察してみた結果、これも一つの引きこもり的な現象ではないかと思われます。

 といいますのは、ある新聞の調査によりますとダンボールで暮らす人々の大半は田舎から仕事を求めて上京した方そして中小企業経営者、会社倒産リストラの方々で中年以降の男性が目立っております。

 ここで問題となるのは、彼ら本人が帰郷する場所が無いという事実であります。これは単純に家とか場所とかそういう問題ではありません。むしろ彼ら個人には田舎なり元の家なりが現実的には存在しているのです。
 それならば何故そこへ帰ってもう少し上質な生活をしないのか?という疑問が露呈してきます。

 ところが彼らは帰郷する事を頑なに拒否いたします。
 それは何故かといいますと、実は大変なこころの問題がそこに現存するのであります。

 まず当事者と家族との軋轢(あつれき)があります。仮に帰っても家族に嫌われるだけという事実です。
そもそもどうしてこのような希薄な人間関係が出来あがってしまったのでしょう。

 彼らそして引きこもりの方が異口同音に語る言葉として、ひっそりと死にたいということであります。

 これはまさに現代社会を象徴している現象といえるのではないでしょうか?
 人間にとって帰る場所、安心できる場所がないという事ほど辛い事はありません。そして社会から見捨てられる事、この様に自分自身が社会そして家族との接点を喪失した時、ひとは極度に心的エネルギーを失ってこころが引きこもってしまうのです。

 先日起きた監禁事件の容疑者も、もしかして社会との接点を探りたかったのかもしれませんが、結果的に社会的には受け入れられない方法でした。


阪本剛 
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利用された言葉からの脱却

Posted by ななし on 18.2015 記事 1 comments 0 trackback
Aさん「人類はみな平等ナノだー。」
Bくん「でも俺には立派な特技があるぞ。勉強がすごく得意なんだ。」
Aさん「エッ、ウン、君のその個性はすっごくすばらしいよね。
個性バンザイ。」
Bくん「そうだろ、そうだろ、それでいいんだよ。」
Aさん「ホッ」
Cくん「じゃあ、勉強が苦手な僕はダメってこと?」
Aさん(ドキッ)「イ、イヤー、C君はB君とは違ってあたりまえなんだョ。
君という個人を尊重しなきゃねェ。ウン。」
Cくん「そうか、僕だけの何かがどこかにきっとあるんだ。
明日から自分探しの旅に出るよ。」
Aくん「イッテラッシャーイ、バイバーイ・・・。フウ。」
Dさん「チョットッ!」
Aくん(ドキドキッ!!)「ハイ!」
Dさん「私たち本当にそんなに違わなきゃいけないの?」
Aさん「いやいや、みんな平等、平等それがいちばんっすよ。」
Eさん「でも私には立派な特技があるよ。歌がとても得意なんの。」
Aさん「いや、だからですねー・・・・
-------------------------ループ-------------------------

このようにして問題を先送りしているうちに、こんなところにまで来てしまったのです。ですからこのような固定観念を我々は捨てなくてはなりません。固定観念を捨ててこの掲示板に参加することで、多くの新たな事実に近づくことができているような気が近頃の私はしています。


匿名希望
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利用された言葉

Posted by ななし on 17.2015 記事 0 comments 0 trackback
現代社会において「我々は平等である」だとか「個人を尊重しよう」であるとか「それは差別だ」とか「私らしく生きたい」なんて言葉はよく耳にする。普通、あくまで普通一般に、これらの発想にむかって「それは違うよ、君」と突っ込むとそいつはヘンコ(≒変人)だろう。

しかし少し真面目に踏み込んで考えてみると、上の発想はどれも現実に則していないし、また、まともな社会を構成できうる理論でないことも明らかだ。

であるのになぜこんな発想が現実にもてはやされているのだろう。それはこれらの理屈が、事実として人類が通ってきた私権闘争社会において、そこに孕む矛盾に焦点を絞らせないための詭弁として非常にお手軽であり、我々の目先の不安感を先送りさせてくれ効果があったからではないだろうか。
次の会話にその機能サイクルをあらわしてみます。



匿名希望
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存在の意味とボケ

Posted by ななし on 16.2015 記事 0 comments 0 trackback

1688 定年制の廃止 木橋さん
>“手を動かし続ける”ことが呆け防止に繋がるという。“手を動かし続ける”というのは、“仕事をし続ける”ということである。仕事は、皆との関係の中で成立しており、皆の期待に応えることで成立する。皆の期待がなくなったとき、それは親父のようになってしまうのだろう。

卑近な例で恐縮ですが、私の祖母が木橋さんのお父様と同じような状態です。

私の祖父(祖母の夫)はもう7年も前に亡くなっていますが、彼は周囲に迷惑をかけることでは人一倍才能のある人でした。人の上にいることを当然のように、いえ当たり前のことだと思っている人で、そんな祖父に祖母はいつも気を使い世話をしていました。その祖父の死後、祖母は昔を懐かしむような言動が増えました。しかしそのころ私はまだ中学生、妹は小学生で、まだ手のかかる年でした。でもそれから7年、私は実家を遠く離れて大阪で就職、妹達も社会人3年目で頑張っています。そして祖母は急激にボケていきました。

「手を動かしつづける」とか「指先を使っているとボケない」とか小手先のいわば技術だけでボケは防げるものでしょうか。祖母は祖父の死、孫の独り立ちによって自分の役割(それは重荷とも言うことが出来ます)が一つ一つ消えていくのを感じていたのでしょう。人間にとって最も恐ろしいことは自分の存在に意味がないことです。それはつまり、誰も自分に何も期待しないということです。祖母は自分に対する期待が薄れていくごとに、自分という体機能を手放していってしまったのでしょう。

お年寄りが欲しているのは、お金ではなく自分の意味だろうと思います。そして老人ホームのようにお年寄りとその介護人だけのような人種の限られた社会ではなく、若年から老年までが生きる社会でこそ意味(重荷)は見出されるものでしょう。


お百姓さん
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偽物の愛情と他者否定が子供をダメにした②

Posted by ななし on 15.2015 記事 0 comments 0 trackback
 昨今の父親は、尊敬される存在ではもはや、なくなりました。家父長制度を支える規範・制度がなくなったことも一つの要因かも知れませんが、もっと根深い問題があるように思えます。

 「お父さんは高校しか出てないから出世できない、あなたは大学に行くのですよ」
 「自分では何も決められないくせに俺は亭主だなんて顔をして」
 「あなたの顔が悪いのはお父さんに似てしまったからよ」
 「お父さんの様な人と結婚したら駄目よ」

 こんな言葉を子どもを自分の味方に引き入れる為に言っている母親はいないでしょうか。
 父親の愚痴を言って、そんな人と結婚した自分の不幸を子どもに言えば、父親の言うことは聞かなくても自分の味方にはなってくれる。
 老後になれば父親の面倒は見なくても、自分の面倒は見てくれると思っているのでしょうか。

 残念ながら全く逆の結果が待っています。子どもの中に自我が芽生えてくれば、そうして父親の欠点をあげつらっている母親に批判の眼が行くのです。人の欠点を見ることを教えられて育った子どもは、母親の欠点をしっかり見るようになるのです。逆に、「そこまでお父さんのこと言わないで良いのに」とさえ思うものなのです。

 お父さんの思いどおりにならぬことが正しい、自分の方が正しいと子どもに教えているのですから、子どもはその通りに実行するのです。

「親の言うとおりになんかしてやるか。俺のほうが正しい。
 そんな嫌な夫婦だったら何故結婚したんだ。何故俺を産んだんだ。
 勝手に産みやがって、自分の都合の良いことばかり言うな。」との子どもの声が聞こえてきませんか。

 人の欠点をあげつらう、何気ない親の言葉が、子供の心を歪めているのです。



阪本剛
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”生きる意味”について

Posted by ななし on 14.2015 記事 0 comments 0 trackback
”生きる意味”とは何か?それは、その人のアイデンティティそのものを表すのではないか。
”生きる意味”を探さねばならない(=自分探し)とすれば、それは、あなたがアイデンティティ=存在理由を喪失しているからだ。
少し前は違っていた。勉強して良い大学に入り、良い会社に入り、カネを稼ぎ、イイ女(男)と結婚し、豊かな生活を送る。
或いは、他人との競争に勝利し、出世し、地位や名誉を手に入れる。概ねこれらが人生の目的であり、”生きる意味”=存在理由であった。
”生きる意味”や”自分”を、苦労して探す必要など無かった・・・
現代、それらを探さねばならない理由は2つあるのではないかと思う。
一つは、そもそも、近代思想、とりわけ個人主義思想の浸透に伴い、”個人”或いは”自分”が何者にも優先して絶対であるという思想が頭の中で固定観念化してしまっていること。・・・何が何でも”個”や”自分”を確立しないことには生きられないという強力な思い込みがある。
また、もう一つは、(一定の豊かさを手に入れたことにり、)上記、出世、カネ、名誉・・・に代表される私権価値への欠乏(=目的)が衰弱し、”個人”の頭の中を統合しきれなくなった・・・
つまり、私権追求主体としてのアイデンティティを失ったことによる。
しかし、ここで、ふと思うことがある。例えば、元日本人である縄文人や、或いは現在の未開部族(狩猟採取民)も、同様に”生きる意味”を探しているのだろうか?
少なくとも、彼らには”個人”なる概念はほとんど存在せず、各個の存在理由は、彼らが属する集団から与えられる”役割”そのものであるという。(”役割”が名前になっているくらい)
全員に年齢や経験、能力に応じて”役割=名前”が与えられており、(年をとる中で”役割=名前”は変化する)全員がそれを果たし、皆から感謝され、充足しつつ生きているという。生きる意味”は既にその中にあった。
”個人”や”自分”は、そのような、本源的な集団が解体され、一人一人と生きねばならなくなった状況を正当化するために捏造された幻想であり、”個人””自分”を前提とする限り、必ず他者との間にある種の”壁”を孕まざるを得なくなり、それが現代人を苦しめている・・・そんな気がしてならない。
”オレは○○でありたい・・・あらねばならない・・・”といった”自分”の(自己実現の)呪縛から解放され、心安らかに生きられたらどんなに楽か・・・現代人は多かれ少なかれ潜在意識レベルでそう望んでいるのではないだろうか。
・・・あなたはどうですか?
自らが安心して身を委ねられる集団の再生こそが、その解答なのかもしれない・・・・。



越見東太
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Re:ひとの生きる意味

Posted by ななし on 13.2015 記事 0 comments 0 trackback

>「人ってなぜ生きているんだろう? 」
>「意味なんかないよ、楽しく生きればいいんじゃない?」

 「自分探し」とか「今が楽しければいい」とか、とにかく「自分(だけ?)が一番大事」という最近の風潮のなかでは、「結局、その自分は何のために生きているのだろう」と考え始めると容易にその答えは見つかりません。

 「人生はまったく無意味だ」というのも、「とらえきれない程の素晴らしい意味がある」というのも論理的にはどちらも可能であり、どちらが正しいという答えは有りません。
 これは意志の問題、すなわち自分がどちらを選ぶかという選択の問題となります。

 アウシュビッツから生還した心理学者フランクルは、その著書「それでも人生にイエスと言う」で、以下のように言っています。

『自己の利益という視点から「人生から何を期待できるか」という考え方は、いわば自己を世界の中心に据えて、自己から世界をみる見方です。
 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは初めから誤っているのです。私たちは問われている存在なのです。
 自分が「人生から何を期待できるか」が問題なのではなくて、むしろ「人生が何をわれわれに期待しているか」が問題なのです。』

『人間はもともと、意味への意志(自分の人生をできる限り意味で充たしたいとの憧憬)によって魂を吹き込まれて、それに従って、生きがいある生活内容を得ようと努め自分の人生からこの意味を闘い取っています。われわれは、この意味への意志が充足されずにとどまる時に初めて、またその時に限って-人間はますます多量の衝動満足によってまさにこの内面的不充足を麻痺させ、自分を酔わせようと努めるのだと考えます。』

 自分が何を期待されているのか、それにどう応えるのか。
つまり、「求める存在」から「応える存在」への意識転換が必要だと感じています。




玉川泰行
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「何かやりたい」その漠然とした欲求が一番大事

Posted by ななし on 12.2015 記事 0 comments 0 trackback

リンク
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 アフリカ諸国の独立に湧いていた1960年代、佐藤芳之さんは日本人初の留学生としてガーナに渡りました。そして、「アフリカに仕事をつくりたい」と35歳でケニアで立ち上げた「ケニア・ナッツ・カンパニー」を世界5大マカダミアナッツ・カンパニーに育て上げました。

最終的にケニア・ナッツは社員数4000人、契約農家5万軒、農場の敷地面積東京ドーム780個分まで拡大し、佐藤さんは25万人の生活に関わることになりました。それまで現金収入のなかった人たちがきちんと収入を得て、家を建てたり、子どもを学校に通わせたりできるようになり、25万人の生活が大きく変わりました。現在75歳になった佐藤さんは、ケニア・ナッツの株をタダ同然でケニア人パートナーに譲渡したのち、舞台をケニアの近隣国ルワンダに移して新たなビジネスに挑戦しています。
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そんな佐藤芳之氏へのインタビューから、彼の実現的思考を紹介します。


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■「今はまだまだ」でいい

英語に「Be somebody, not nobody.」という表現があります。

日本語にすれば、「ちょっとしたヤツになりなさい」といったところでしょうか。大勢のなかに埋もれてしまわずに、小粒でもまわりから「アイツ、なかなかやるじゃないか」と思われるような人物になりなさい。そういうニュアンスのある言いかたです。

みなさんはそれぞれに「サンバディになるんだ」と努力しているでしょう。

きっと、生まれてきた以上、「ノーバディでいいんだ」という人はいないと思います。堂々と口にするのは恥ずかしくても、心のどこかで「いつかサンバディになりたい」「今はまだまだなりたい自分じゃない」と感じている人がほとんどでしょう。

自分のなかにそういう感情があれば、目をそらしたりせずに、大切にしてください。それが今後、あなたにとって一番のエネルギー源、大きな原動力になるからです。

■「何かやりたい」その気持ちだけあればいい

私も20代から30代にかけては、何かになりたくてうずうずしていました。
でも、それがいったい何なのか、さっぱりわからなかったのです。

「サンバディになりたい」とそれまで5年の有期契約で働いていたケニアの日系企業を離れて、日本に帰国したのが31歳の時でした。それから10ヵ月のあいだ実家で今でいう「プータロー」のような生活をしたのち、「これではいけない」と妻と娘を日本に残して、わずか15万円の軍資金と小さなタイプライターを抱えアフリカの地に戻ったのが、32歳の時。

それからは、ケニアのシカ市の安宿で企画書を書き続ける日々をすごしました。タイプライターに向かい、思いつくままにビジネスプランを打ち込んでいったのです。

最初に思いついたのは、リヤカーをつくること。東京・有楽町で出会ったお年寄りが引っ張っていたのを手伝ったことを思い出し、「あれなら、売れるかもしれない」と考えました。運送業を始めるのもいいかもしれないと思いました。豚を飼ってハムやソーセージをつくるのも楽しそうだ。父親みたいに鍛造(たんぞう)や鋳造をやるのもいいな。洋服屋もやってみたい。

詳しいことはもう覚えていませんが、そんなふうに、数えきれないほど企画書を書いたものです。こうして書き連ねてみても、てんでんばらばらで全然一貫性がありません。

どうですか?

これだけを聞いても「私のほうが、もっとやれる」と感じるでしょう。

最初はみんなそういうものです。

「やりたいのは、これだ」といいきれる人はいません。むしろ、「サンバディになれるなら、何でもいい」といったところでしょう。

■「好きになれないこと」はムリして続けない

どういう形で「サンバディ」になるか。

何に情熱を傾けて生きるか。

これはそう簡単に見つかるものではありません。運もある。ただ、情熱を傾けられないこと、どうしても好きになれないことを、ムリに理由をつけて続けるのはよくありません。成長しませんし、自分をダメにしてしまいます。私自身、最終的に追いかけるものは、自分のアンテナが反応するまま、とても散漫に物事に取り組んでいくなかで見えてきました。今は、「サンバディになりたい」という漠然とした欲求でいい。

自分のアンテナに反応して、キラキラした破片を拾い集めていけばいい。

そうすれば、やがて「追いかけたいもの」が見えてくる。

「一つのことを究めなくては」と若い頃からヘンに力んでいる必要はありません。なかには、フィギュアスケートの浅田真央さんや、将棋の羽生善治さんのように、10代から一本道を全力で走り抜ける人がいますが、あのような才能の持ち主は例外中の例外です。

世の中の99%の人は、最初は何がやりたいのか自分でもわかっていません。それが、社会に出て、数々の失敗をして、30歳をすぎた頃からようやくおぼろげながら見えてくるのです。
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引用終わり



松本翔
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私はこの会社に入るときプライドを捨てました。でも、この会社に入って新しいプライドを得たんです

Posted by ななし on 11.2015 記事 0 comments 0 trackback
社会人になったものの「思っていたのと違った」と会社を辞める若者が相変わらず少なくありません。
しかし、自分観念を捨て「志」を共有すれば、日々の業務の中に充足と誇りを見出し仕事に取り組むことができる。
そんな会社とそこで働く方の実感が紹介された記事がありました。

「新幹線清掃員のプライド」
(国際派日本人養成講座(リンク)より)

:::以下引用:::

[前略]

 掃除で注目を集めている企業がある。JR東日本の子会社で、新幹線の掃除を担当している鉄道整備会社、通称テッセイである。

 東京駅などで新幹線に乗ると、一列に並んでお辞儀をする女性たちの姿を見かける。列車がホームに入る3分前に、1チーム22人が5~6人ほどのグループに分かれて、ホーム際に整列する。列車が入ってくると、深々とお辞儀をして出迎える。降りてくるお客様には、一人ひとり「お疲れさまでした」と声を掛ける。

 お客の降車が終わると、7分間の清掃に入る。座席数約100ある一両の清掃を一人で担当する。約25mの車両を突っ切り、座席の下や物入れにあるゴミを集める。次にボタンを押して、座席の向きを進行方向に変えると、今度は100のテーブルすべてを拭き、窓のブラインドを上げたり、窓枠を拭く。座席カバーが汚れて入れば交換する。

 トイレ掃除の担当者もいる。どんなにトイレが汚れていても、7分以内に完璧に作業を終える。チームのリーダーは、仕事が遅れていたり、不慣れな新人がいる場合には、ただちに応援し、最後の確認作業を行う。

 7分間で清掃を終えると、チームは再び整列し、ホームで待っているお客様に「お待たせしました」と声を掛け、再度一礼して、次の持ち場へ移動していく。

 始発の朝6時から最終の23時まで、早組と遅組の2交代制でこの作業を行い、1チームが一シフトで、多いときには約20本の車両清掃を行う。JR東日本で運行する新幹線は一日約110本、車両数にして1300両。これを正社員、パート含めて約820人、平均年齢52歳の従業員で清掃する。

[中略]

■「お母さん、そんな仕事しかないの?」

 テッセイの清掃スタッフの一人は次のような体験を語っている。

==================================
60歳を過ぎて、私はこの仕事をパートから始めました。
 [中略]
 でもひとつだけ「お掃除のおばさん」をしていることだけは、誰にも知られたくなかったんです。
 だって他人のゴミを集めたり、他人が排泄した後のトイレを掃除するなんて、あまり人様に誇れる仕事じゃないでしょう。家族も嫌がりました。
 [中略]
「親類にバレないようにしてくれ」・・・夫にもそう言われました
==================================

 車内の清掃だけをしていたらいいのかと思っていたら、実際に働き出すと、まったく違っていた。自分の持ち場が終わると、さっと移動して、まだ終わっていない場所を手伝う。ホームで困っている人がいたら、自分から声をかける。

 ある時、70歳ぐらいの女性が、大きな荷物を引きずっていたので、清掃作業が終わってから、組の先輩と二人がかりで運んであげた。その女性は「本当にありがとうございました。助かりました」と窓ガラス越しに何度も頭を下げた。そんな事が重なるうちに、この仕事がいっそう好きになっていった。


■「あんなに立派な仕事をしているなんて思わなかったわ」

 仕事も少し速くなり、周囲の人とのお弁当の時間も楽しくなっていった1年目の春、大きな事件が起きた。ホーム上で整列し、お辞儀した際に、車窓のガラス越しに、目が合った人がいた。

==================================
「あっ、ヨウコさん」
 それは夫の妹の顔でした。その横には肩をちょんちょんと叩かれて振り向いた夫の弟も。

 見られた・・・・。
 私、新幹線のお掃除をしているところを見られちゃったんだわ。
==================================

 自分の中ではやりがいのある仕事だと思い始めていたが、世間の人はそう思わない。特にプライドが高い夫の兄弟たちは。

 1週間ほどした夜、電話が鳴った。夫の妹からだった。

==================================
「働いているとは聞いていたけど、おねえさんがあんなに立派な仕事をしているなんて思わなかったわ。」
 義妹は本気で言っているようでした。

「東北新幹線のお掃除は素晴らしいって、ニュースでもやっていたの、見たの。ずっと家にいたおねえさんがあんなふうにちゃきちゃき仕事をする人だなんて思わなかった。すごいじゃないですか」

 私はうれしくてうれしくて、なんて返事していいのかわかりませんでした。
==================================

 この女性は、翌年、パートから正社員の試験を受けて、その面接で上記の話をして、こう締めくくった。

「私はこの会社に入るとき、プライドを捨てました。でも、この会社に入って、新しいプライドを得たんです」

 面接した役員たちは、にっこり笑って、うなずいた。


■「清掃の会社ではなく、おもてなしの会社なのだ」

 テッセイの芸術品とも言える清掃サービスは、社内の長年の工夫、苦心を積み上げて、磨き上げられてきたものだ。

 かつては「清掃の会社なのだから、掃除だけをきちっとやればいい。客へのお辞儀や声掛けは自分たちの仕事ではない」と反発する声もあった。

 しかし、様々な試みを通じて、「自分たちの仕事は清掃だけではない。お客様に気持ちよく新幹線をご利用いただくことだ」「清掃の会社ではなく、おもてなしの会社なのだ」とみんなが理解し、納得した時に、テッセイの現場は大きく変わり始めた。

 テキパキとした「プロの仕事ぶり」、「礼儀正しさ」。上述の「新しいプライド」を得たという60歳の女性は、「ここは旅する人たちが日々行き交う劇場で、私たちはお客さまの旅を盛り上げるキャストなのです」と言っている。

 いかにお客様に「おもてなし」をし、旅を盛り上げるか、と一人ひとりの従業員が考え始めると、実に様々なアイデアが湧いてくる。お客へのお辞儀や、チーム一列の整列出場、退場もそんな中で生み出されてきたものだ。

 新人はまずそういう形を学び、真似する所から育っていく。そして一人前になると、自分で創意工夫を生み出していく。そこから生まれる自発性が、テキパキとした動きや、お客に対する真心のこもった一礼となる。

 単に「マニュアル通りやれ」という命令だけでは、こうした人間は育たない。海外の大学生までもが研修に訪れるという事は、こうした日本文化の深層にある人間観に着目してのことだろう。


[後略]

:::引用終わり:::




チーズカレー
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自己主張をしない中高生

Posted by ななし on 10.2015 記事 0 comments 0 trackback
ある調査で中高生の9割が「いま、幸せと感じている」と答えたという。

 子供たちはSNSにより、友達との距離は近くなり、楽しい。やるべきことは勉強とクラブと限られているため、何をするべきかが明確になっている。
「今が不安な状態ではない」ことが子供たちの幸福感につながっていると思われるが、不安のない世界の中で、そのままでいることが果たして良い状態なのだろうか。

 同じ調査の中で、「好きな異性はいますか?」という問いに7割の中高生が「いない」と答えている。携帯やネットの普及で、思いを伝えることはより簡単になったはずである。携帯電話がなかった頃は、家の電話にかけて、電話口に親が出ると、どぎまぎしたという経験はした人も多いのではないだろうか。そうした困難(?)を乗り越えても、好きな子と何らかのつながりを持ちたい、そんな気持ちを持つのが、多感な彼らの時期では自然ではないかと思う。

 しかし、それをしない理由は2つ考えられる。

 一つは、気持ちを整理出来ていないのではないかと思う。
今の中高生は気持ちを伝えることや自分の考えを述べることを極端に嫌がる傾向にあるように思える。一人一人の価値観は異なり、その相違があるからこそ、お互いに興味を持ち、異なる価値観に触れることで、新しい世界を知るきっかけになることも多いのだが、その反面、自分の言うことが他者に受け入れられるか、と考え、抵抗感を感じる側面もある。相手の顔色を探りながら、当たり障りのない程度に話していき、受け入れてくれると感じるまで、本心は言わない。あるいは、最後まで本音は隠したままで、相手の望む答えに合わせていく。それを積み重ねによって、本当の自分の意見というもの自体が何なのかも分からなくなってしまい、自己主張をしない人間になってゆくのではないだろうか。つまり、自分の気持ちや意見が自分で分からないのである。

 もうひとつは、そもそも「人とのつながり」を求めていないのではないかと思う。LINEに代表されるようなSNSではつながっていないと不安だが、その一方で、ネット疲れ、ソーシャル疲れも感じていて、人との関係が深くなればなるほど、その疲れも増大していく。人間関係を狭く、浅く済ませることで、面倒な思いをしなくて済む。インターネットという境界のないメディアを使いながらも、限られた内輪の狭い世界で、お互いにつながっていることを確認するためのツールとして使われているのが、現状ではないだろうか。

 満ち足りていないからこそ、発展や成長があり、様々な人間関係に触れ、自分のやりたいことや、自分なりの意見を持つことで、将来の自分をより大きく羽ばたかせることが出来る。「いま」目の前にある幸福のようなものは、将来を見ないようにするための幻想でしかないのではないだろうか。

 それを彼らに伝えていくことは大事だと思う。家庭や学校が方向を示してやる必要があるだろう。しかし、示し方は考えてやらないといけない。これが正しい方向だよと伝えることは自分の意見を持たせる訓練にはならない。自分で考えられるように示してやることが重要である。自分たちで考えることの出来るように導くこと、その上で、自分の考えを主張できる機会を増やすこと、この2点が大切なのではないかと思う。



匿名希望
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対象同一化と媒体役

Posted by ななし on 10.2015 記事 0 comments 0 trackback
>'90年頃以降完全に対象同一性(規範同一性)を失った若者はやりたいこと=役割探しを始めます(74917)

対象同一性、つまり社会規範・社会共認との同一性が失われた現在、人々は74245にあるように共認充足を求めて誰かと繋がるための媒体にお金を使うようになった。そうすることによって、何らかとの同一化を図ろうとしているのだと思う。

役割を求めようとする意識も同様で、それは何か役割を担うことによって社会=人々と繋がっているという実感を求めているからに他ならない。つまり、社会との同一化を求めているのである。

>実は心の奥底で社会共認を形成する当事者になりたい、媒体になりたいという欠乏の表れだったのではないだろうか。(74652)

若者が求めている役割とは、社会・みんなを繋ぐ媒体役なのではないだろうか。媒体の中身とは>人と人を繋ぐもの、それは『なるほど!』と思える答え(74467)つまり構造認識だ。

皆が納得できる事実に基づく構造認識で皆を繋いでいく。そんな媒体役を欲しているのだと思うし、今それが必要とされていると思う。

新たな規範の構築も、この拡がりの先にあるように思う。



福島健
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映像の持つ「洗脳力」にはご注意を!

Posted by ななし on 09.2015 記事 0 comments 0 trackback
『映像の持つ「洗脳力」にはご注意を!』(なわのつぶや記)リンクより転載します。
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 ~前略~

視覚に訴えるメディアとしてのテレビの危険性は、科学的にもいろいろな説が取りざたされています。それを波動の観点から見ますと、テレビの電波が運んでくる「恐怖」や「哀しみ」「怒り」などといったマイナスの波長に視聴者の波長が同調して増幅されていくことに大きな危険性が潜んでいます。ひとくちに言えば「洗脳されることの危険性」ということです。

洗脳にはいくつかのステップがあって、同じ情報に繰り返し接することによって、まず抵抗感(嫌悪、恐怖などの感情)が失われます。波長が同調していく状態です。たとえば人が殺されるような恐いドラマでも、ちらちらと見ているうちになんとなく目が離せなくなり、最後まで見てしまうということになり、またその続きを見たいという気持ちが生まれます。俗に言う「恐いもの見たさ」の真理です。

そのうちすっかりそのような番組にハマってしまって、「人が殺される」ことを定番とするサスペンス・ドラマのストーリーにもまったく抵抗感がなくなります。というより、その殺され方の残虐性などが逆にストーリーを盛り上げるものとして重視されるようになるのです。

もっとひどくなると、最近のハリウッド映画などでは、主人公が銃で敵を無造作に次々と殺すことが大変かっこよいものとして描かれています。つまり、殺人が当たり前というより、敵であれば、人をあたかも虫けらのように殺すことも正しいことであるかのようなストーリー展開になっているのです。(虫けらの命であっても無造作に奪うことはよくないと思いますが)

そのような映画がテレビで放映されると、少なくとも百万単位の人が同時に「殺人」を疑似体験することになり、大規模な集合無意識が形成されます。その結果、多くの人が「人が殺される」という事実に対して、ますます心が反応しなくなるのです。映画やテレビの普及によって、人々が殺人の疑似体験を繰り返してきた結果、日本でもアメリカと同じような恐怖の社会が生まれつつあります。

このようなメディアによる“殺人事件”の定番化こそが、今日の子殺し、親殺しを初めとする無差別の殺人事件を生み出す社会構造を作り上げている遠因(真因)だと言っても過言ではないでしょう。

殺人事件を報道するニュース番組は、「人が殺される」恐怖を人々の心に植えつけると同時に、それに慣れさせ、麻痺させていきます。人々の波長が同調してしまうのです。これこそ最も危険な「洗脳力」と言うことができます。繰り返される殺人事件のニュースによって、人の潜在意識に恐怖心や憎悪の気持ちがしっかり刻印され、簡単に消すことのできない「岩に書いた文字」となるからです。

最近では「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に答えられない大人が増えていると言われています。これは教育の問題というよりも、疑似体験によって日常的に「殺人」に関わっているため、「人が殺される」ことに対して感覚が麻痺している人が増えていることを表しています。今日の社会の憂うべき病理現象と見るべきです。

潜在意識は疑似体験と実体験を区別できない

テレビよりもさらに危険なメディアはコンピューター・ゲームです。最近のインターネットを使った対戦型のゲームなどは、まさに疑似体験というより実体験に近いものと言えるでしょう。その効果を研究し尽くしたと思われる中国政府が、日本人を殺すことをテーマとしたゲームを国として開発しているニュースが報じられていましたが、これは国民を「反日」で洗脳し、その不満の矛先を日本に向けさせる意図を持っていることが明らかです。そのようにして洗脳された中国の若者の日本人観は、今後もますます過激なものになっていくものと思われます。

子供の脳に及ぼす影響など、ゲームの持つ危険性はまだまだたくさん挙げられていますが、そのベースにあるのは「疑似体験は現実の体験と同じ働きをする」という点に集約されます。私たちの潜在意識は疑似体験と実体験を区別することができないのです。

人や怪獣を殺したり、逆に命を狙われたりすることにハマった子どもたちの脳がどのような影響を受けるかは、普通に考えればわかります。幼児のころからコンピューターによる「殺人ゲーム」に親しみ、人を殺すことに対する抵抗感を喪失した最近の子どもたちの作る未来社会(と言うより、すでに教育現場ではそのような状態が生まれていますが)は、人の命が簡単に奪われる恐怖の世界が展開されることになると思われます。

 ~中略~

視聴者が疑似体験を通じて集団で作り上げている「人を殺す」あるいは「命を狙われる」という憎悪や恐怖の波長は、私たちの脳が異次元とのつながりを強めるに従って現象化のスピードを加速させていくと思われます。これはテレビのもつ最大の弊害と言える反面、テレビが人々の意識に働きかけ、その波動を増幅することによって、さまざまな点で社会の二極分化現象を生み出していることは、意味のあることなのでしょう。テレビが私たちの意識レベルにおいて、時間と空間の縮小を実現させつつあるのは確かだからです。善悪は別にしても、テレビが私たちの脳の機能の活性化(進化)を推進してくれているということです。それをどう活用するかは私たち自身に委ねられているのです。

‥‥ということで、「疑似体験」の威力(「洗脳力」)をご理解いただけた方は、どうかテレビ番組の選択には十分留意していただきたいと思います。
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猛獣王S
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ロンドン・オリンピック開会式での日本選手団強制退場は瓦礫メダルのせいだった?:3.11事件との関連性はあるのか

Posted by ななし on 08.2015 記事 1 comments 0 trackback
新ベンチャー革命リンクより転載します。
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1.ロンドン・オリンピック開会式にて“放射能いじめ”された日本

 2012年8月2日、ネットには衝撃の情報が飛び交っています、7月27日に行われたロンドン・オリンピック開会式にて、入場した日本選手団が途中から全員退場させられたのですが(証拠画像あり)、その理由が、日本選手が首に掛けていたメダルが3.11大震災の瓦礫でつくられているからだというものです。例によって、日本のマスコミが全く報じませんので、真偽のほどは明らかではありませんが、十分、あり得る話です。

 今、日本では学校いじめが全国的大問題となっていますが、世界規模でも日本がいじめの対象にされているようです、なんたることでしょうか。

2.世界の人が日本をみる目は冷静

 日本選手団は震災瓦礫でつくったメダルを首に掛けて、入場行進し、世界の人々の同情を買おうとしたのでしょうが、世界の人々の目は冷静であり、単純・素直に瓦礫メダルの放射能汚染を心配したということです。

 この情報が事実なら、このことを報道しない日本のマスコミは大問題です、隠してもいずればれるわけです。

 筆者が外国人であって、現場でその事実(瓦礫メダル)を知ったら、自然と、日本人を遠ざけるでしょう。

 このような演出を仕掛けたのが野田政権というのがネットのうわさですが、まったく世界の人々の感覚が読めていないということになります。

 ネットでは、野田政権(反日)は日本人が差別されることを計算の上、そのような演出をしたのではないかと邪推されています。

 そういえば、半島の2国がいがみ合うようなミス(北朝鮮選手の紹介時、韓国の国旗を配置)とか、日韓の柔道マッチで判定を覆すなど、日韓の国民感情を刺激する演出がなされています、これらは単なるミスではないでしょう。

3.野田政権は瓦礫処理を全国分散するのに熱心だった

 そういえば、野田政権が反日政権かどうか別にして、震災瓦礫処理を全国の自治体に分散させようとしていましたが、なぜこういう発想をするのか、われら国民もクビをかしげていました。汚染された瓦礫をあえて、コストをかけて全国分散するというその神経をみんな疑っています。今回のロンドンでの瓦礫メダル演出もその延長線上にあります。

 放射能というのは、容易に分解されず、いかに処理しても残留する恐ろしい物質です。野田政権の人たちは、そのような認識が薄弱なのか、それとも、故意にやっているのか実に不可解です。そういえば、野田総理一派は小沢・鳩山コンビのつくった民主党をトロイアの木馬になって潰そうとしているのは間違いありません。

 いずれにしても、今回のロンドンに瓦礫メダルを持ち込む発想は、放射能に対する認識不足から生まれたものと思われます。この発想は海外ではまったく通用しません。

4.ロンドン瓦礫メダル事件は野田政権の命取りとなるかも

 それでなくても白人に比べて、外観で劣る日本人は、海外で差別されることを非常に気にし、非常に嫌がります。今回、ロンドンに押し掛けた日本人応援団も、陰に陽に差別されている可能性があります。ロンドン市民やオリンピックのために海外から来た観客は本音では、日本人の応援集団から放射能が放散されているのではないかと危惧してもおかしくないでしょう。放射能はまったく無味無臭ですから余計に、怖いわけです。

 ロンドン行きをドタキャンした石原都知事がいくらがんばっても、東京でオリンピックが開かれる可能性はゼロです。あえて、放射能の存在する日本でオリンピックを開催する必要はないわけです。

 この瓦礫メダル事件が日本国民に知れると、お人好し日本国民の反原発感情が一層、盛り上がるのは明らかです。とにかく、日本国民は海外の人々の目を非常に気にしますから、このロンドン・ショックは野田政権にとどめをさすハチの一刺しとなりそうです。

5.3.11事件にてプーチンの警告を無視した日本政府への天罰か

ロンドン・オリンピック開会式の瓦礫メダル事件は2011年にモスクワで行われた世界フィギュアスケート選手権(東京からモスクワに急遽チェンジされた)の開会式を思い出させます、このときも、この大会を独占中継したフジテレビは、プーチンの日本国民へのメッセージを露骨にカットしていました。

 日本のマスコミはロンドン・オリンピックでも日本政府に不都合な報道を露骨にカットするつもりでしょうか。今はネット時代、それは無理というものです。

6.3.11事件とロンドン・オリンピックをつなぐミステリー

 ロンドン・オリンピックでは、シオニストを暗示するZIONをかたどった不気味なロゴやルシファーの目(1ドル札の不気味な目)を連想させるマスコットがネットで話題となっています。ロンドンは世界的寡頭勢力の本拠地ですから、世界の人々をあざむき、ステルス化している彼らに鬱積している潜在的な自己顕示欲がオリンピックの場を借りていたるところに露出されています。上記、ロゴやマスコットはその一端です。

 彼らは日本の原発マフィアと日本に潜伏する核武装勢力の存在を知っています。彼らが恐れるのは、日本の原発が生産するプルトニウムがイスラエルの敵・イランに拡散することです。

 3.11事件には、世界的寡頭勢力のうち、親イスラエルのネオコン過激派が関与している疑惑は依然、消えません。

 彼らはまた、筋金入りのシオニストであることも事実です。

 彼らとつながる勢力がロンドンを闇支配しているのも事実ですから、日本国民の注目するロンドン・オリンピック開会式を借りて、プーチンと同様に、日本国民および日本政府(核武装派を含む)に向けて、何らかのメッセージ(ロンドンの場合は日本人へのいやがらせ)を放った可能性を否定できません。

 日本に原爆2個を落とし、世界唯一の原爆被爆国の日本人にうしろめたさを抱く彼らは、彼らの聖地ロンドンにあろうことか、日本人が放射能瓦礫メダルを持ち込んだことに対し、これは“日本人のいやがらせ”だと理解して、早速、その仕返しをした(強制退場命令)と解釈できなくもありません。
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以上です。


新聞会
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戦後の『対米従属』・・どんどん暴露されていく②

Posted by ななし on 07.2015 記事 0 comments 0 trackback
リンクからの引用の続きです。

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天木
オスプレイの問題で、野田さんが言った「アメリカが決めたから日本は口を挟めない」というのは、これが、いかに許し難い間違った発言かをこの本に即して言うと、

日米安保条約には、何もアメリカの軍隊のことは書いてない。いま問題になっている軍の運用に対して、日本は口を挟めなくなっている。それを書くと国民が知って怒るから書けなかった。だから日米地位協定という行政協定に押し込んだ。

そこにはいろいろ我々が驚くような事が書いてあり、裁判権がないとか、軍人でない人間にも特権があるとか・・・。

外務省などは担当じゃないことは知らない。

さらにもっと重要なのは、その下に交換公文という政府間の書類の交換があるが、そこに軍の運用について口を挟めないということが書いてある。これはもう密約で、そんなことは国民は知らない。知ったら条約に書き込めということになる。
これを書いたら国民が反対するから、全部隠すということでできている。調べればわかるけど知らされてない、それを書いたのがこの本。

だからオスプレイで、日本が何もいえないということは「戦後史の正体」の根幹にかかわること。

仲間が自分の保身や出世のために仲間を裏切るということが行われてきた。

孫崎
ダレスが日米安保条約をつくるときに言ったセリフ

「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留をさせる権利を有する。それが米国の目標である」

これが安保条約、地位協定、交換公文で確保された。

90日以内に合意できない場合は、継続されると交換公文に書いてある。

米国の軍人たちは、望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留をさせると思っているから、オスプレイの話でも、「別に日本側と交渉することはない」と言い、それに受けて立つ野田首相が「この問題は協議するものではない」と言っている。

そういう意味では歴史を見ることによって今日の問題がわかる。

戦後の日本史を見るときに大変重要なことは、自主独立を唱えた人がたくさんいた。
重光さんとか芦田均であるとか・・・。
こういうような人たちは基本的に切られる。
残念なことは、それを切るのは米国人ではなくて、同じ日本人自らが切る。

どういう組織で切るかというと、一つは検察。

芦田均という人は在日米軍基地について「有事駐留」といった。

「有事駐留」というのは普段はいなくてもいい。有事の時にくればいい、という事を外務大臣の時に言った。

その後首相になるが、それで出てきたのが昭和電工事件。

彼自身は汚職には関与してなかった

その時に検察は芦田首相になんて言ったか。「あなた政治家辞めたら無罪にしますよ」と言った。

もともと検察の特捜部は米国の意向で作られている。(「隠匿退蔵物資事件捜査部」として)

日本にたくさんある官庁の中で米国と最も深い関係を持っているのが検察組織

今でも人事交流を行なっていて、在米大使館勤務というのは非常に大きな役割を担っている。

この勤務の中から省の幹部になる確立が一番高かったのは検察組織

(佐久間達哉元特捜部長も在米大使館の一等書記官だった)

マスコミや経済界も深い繋がりがある。

1960年の日米安保反対デモというのは岸信介退陣を迫ったもの。

この本に盛り込まれたメッセージは自主のために政治家に頑張って欲しいということ。

このメッセージに反応した政治家は二人、鳩山さんと小沢さん。

(後略)
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引用終り


佐藤祥司 
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何故震災瓦礫を全国にばらまき、燃やそうとするのか。

Posted by ななし on 06.2015 記事 0 comments 0 trackback
ここまでひどいことになっているのか?


木下黄太のブログリンク
よりコメント欄より転載

:::::::::::::::::::::::::::::::::
¨悪魔の所行¨ (ちわわマン)
2012-07-29 05:08:46
茨木市のピーチプロジェクトにしても、放射能汚染給食にしても、今の子供達の次の世代がチェルノブィリハートの様な状況になった時に、福島周辺でだけ突出して新生児の先天異常が増えないように(国と東電の責任のがれのため)、今のうちに出来るだけ日本全国の子供達を均一に被曝させておこうということです。¨悪魔の所行¨です。


本文とは関係ないのですが、2ちゃんねるで以下のような情報を見つけたので。


808 :地震雷火事名無し(福岡県):2012/07/29(日) 01:17:32.64 ID:mvDcqqdc0
【衝撃!】瓦礫拡散利権構造の全貌が見えた!

何故震災瓦礫を全国にばらまき、燃やそうとするのか。
何故国家主導で遠く北九州まで瓦礫を運びたがるのか。
運んで、焼いて、埋めて。。 カラクリが見えてきました。

社団法人 日本プロジェクト産業協議会 (JAPIC) という組織が存在します。

団体会員として8団体、(社)セメント協会 、電気事業連合会 (原子力ムラの電事連)、(社)日本埋立浚渫協会、(社)日本建設業連合会、(一社)日本自動車工業会、(一社)日本造船工業会、(一社)日本鉄鋼連盟 、(一社)不 動産協会 が加盟しています。

法人会員は112社、除染で利益をあげるゼネコン各社、瓦礫を燃やしたいセメント各社、製鉄各社、原発メーカー、瓦礫拡散のCMなどを作った博報堂などが加盟しています。

賛助会員は52団体、何故か釜石市、北九州市(!)そして汚染木材を原料に紙を作ってしまう製紙各社などが加盟しています。

リンク
リンク

そしてこの組織に内包されている組織が「日本創生委員会」その委員を見てみると。。
リンク

主要メディア、製造、商業、運輸、電力、不動産、サービス、金融、原子力ムラの経済団体が委員になっており
オブザーバー委員として、内閣、総務省、外務省、財務省、文科省、厚労省、農水省、経産省、国交省、環境省、防衛省の局長、長官、官房長クラスが名を連ねています。
驚くべき組織です。


809 :地震雷火事名無し(福岡県):2012/07/29(日) 01:18:25.96 ID:mvDcqqdc0
このような組織である JAPIC は、2007年6月に防災担当大臣への提言としてこの様な報告書を作っています。名前の通り本当に政府に提言したのでしょう。
リンク

そしてこちらが提言の本編(抜粋)です。 全文はこちら

JAPICは、震災廃棄物の広域処理、再資源化、公共と民間のベストミックス、2年以内の早期処理、超法規的かつ一元的連携体勢の確立、具体的処理方法などを提言しています。

皆さん気づきませんか? 提言の想定は首都直下型地震による被害ということでしたが、これ、今回の大震災の瓦礫処理スキームに採用されたのではないでしょうか。

なぜ、震災瓦礫処理に国家が環境省が、音頭をとって税金を使って、広域処理ありきで拡散を押し進めるのか。

なぜ、瓦礫処理目標が2年となっているのか。

なぜ、法律で決められているのでやってはならない、放射能汚染瓦礫の移動を認めてしまったのか。(100Bq/kg以上の核廃棄物は放射線管理区域で保管しなければならない)

なぜ、環境省は放射性瓦礫の埋め立て汚染基準を法律をねじ曲げて上げてしまったのか。

なぜ、環境省は放射能汚染されていませんなどと嘘をついてまで、汚染瓦礫を東京や北九州にまで運び焼却しようとするのか。

なぜ、瓦礫焼却を行うのが民間のセメント会社や鉄鋼会社に広がったのか。

なぜ、トヨタまでもが愛知県で瓦礫焼却をやろうとしたのか。

なぜ、自動車生産各社は東電の輪番停電などという、不要且つ超非効率なものに文句を言わずに協力したのか。

なぜ、メディアが東電、原子力ムラ、瓦礫拡散のことを否定的に報道しないばかりか、瓦礫を拡散させないのが悪であるとプロパガンダをうちまくったのか。

全部の謎が一気に解けてしまいました。 寒気を覚えます。

業界団体、企業に端を発した利権追及は、官僚、政治家を巻き込み、ひたすら一部の利益を追求する、国をあげての人命無視、棄民政策へと発展していったのです。
リンク
リンク
www.japic.org


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日本もアメリカなみに1%(の金貸し)に支配されている(大阪日日新聞:論壇)

Posted by ななし on 05.2015 記事 0 comments 0 trackback
地元紙の大阪日日新聞が面白い。
【統合階級(マスコミ・学者・官僚)を始めとして日本政府もアメリカ国と同様に人口比1%の金貸しに支配されている。】との論評をしている。
ところで、るいネットの投稿『官僚の背後に米国~地方紙(新日本海新聞)社主がタブーを堂々と論説!(266171)』の「新日本海新聞」と「大阪日日新聞」は同じ社主であるので、同じ論説記事が掲載されている。
転載(論壇:温故知新)します。
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リンク
99%の日本国民苦しめる政策          2012/07/26

【TPP交渉】
 7月上旬サンディエゴにて、環太平洋連携協定(TPP)の交渉が行われた。しかし日本国内では相変わらず国民への説明はおろか、まともな議論もなされてはいない。

 昨年からアメリカで始まったウォール街占拠運動は、日本のメディアはもはやほとんど報じることはないが、基本的にそれは企業がアメリカを乗っ取り、99%のアメリカ人を強奪していることに対する抗議活動である。規制緩和によって多くの自由を手にした企業は、経営者や株主の利益を最大にするために好き勝手なことを行え、さらにその利益を使って政府を買収する。政府を味方につけたわけだから、違法なことをやるなら法律を変えさせて合法にすればよいだけだ。

 たとえば今アメリカではバイオテクノロジー企業にさらなる自由と特権を与える「モンサント保護法」が承認されようとしている。これは安全性が確認されていなくても遺伝子組み換え作物を作ってもよいというものだ。遺伝子組み換えは品種改良の延長で、人類の進歩の証しで安全だという人がいるが、そう信じている人が遺伝子組み換え作物を食べるのを私は止めはしない。しかし私は、長期的な安全性の分からないものを食べたくないので、遺伝子組み換えを選ばない自由を消費者として要求しているだけだ。
 
【遺伝子組み換え推進】
 モンサントは遺伝子組み換え作物を推進することによって、種と農薬の使用権と特許料を独占し、そのすべてにおいて利益を上げることができる。このような1%にしか利益をもたらさない法律について、アメリカのメディアが報じないのはメディア所有規制緩和により寡占が進んだからだ。新聞社と放送媒体は同じ企業となり、広告主である企業に都合の悪いニュースがヘッドラインを飾ることはまずないし、それどころか、たとえ嘘(うそ)でも繰り返し報道することで、国民はそれを本当だと思うようになるという心理を利用してプロパガンダ機関となったのが現代のマス・メディアなのである。

 日本がTPPに参加すれば、多国籍企業は日本でも同じように圧力をかけ、遺伝子組み換えや食品原産地のラベル表示義務を取り除くだろう。そうなればどこでどう栽培されたかを知る手段はなくなる。そんな条約だからこそTPPの交渉はアメリカ政府と大企業が密室の中で行っている。つまりTPPは貿易協定などではなく、企業が国家を支配するためにその国の社会システムを変えさせることなのだ。99%を搾取する1%に国家統制を委ねるシステムをつくり、1%に天然資源の支配権を手渡し、環境を自由に破壊する権利を与え、国民の仕事が国内になくなろうとも最低賃金のところに生産拠点を移し、金融機関への規制をなくし、安全や健康のためにかろうじて残っているあらゆる規制や企業の責任を取り払うための道なのだ。

 幸いオーストラリアやニュージーランド政府は、ISD条項(投資家対国家間の紛争解決条項)や国の医薬品規制に製薬会社が異議を申し立てられるようなTPPの提案に反対しているため、交渉にはまだ時間がかかりそうだが、それも時間の問題かもしれない。

 原発の再稼働、消費税の増税、TPPにACTA(国際貿易協定)と、99%の日本国民を痛めつける政策を次々と打ち出してくる日本政府をみると、もはや日本がアメリカなみに1%に支配されているということだけは間違いない。

 (評論家)
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岸良造
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続・「もはや待ったなし?」 ~皇室・首都機能移転論がいよいよ本格化~

Posted by ななし on 04.2015 記事 1 comments 0 trackback
暗黒夜考~崩壊しつつある日本を考える~リンクより転載します。
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「残された時間はそう多くはないのやも知れない」

そのように本ブログにてコメントしたのが今年6月初旬のことであるが、そのことを改めて実感する続報が聞こえてきた。

以下の記事をみれば、今回の「皇族の京都移転論」「政府・官僚の拠点機能移転論」については、ビックリするぐらい大袈裟に「首都直下地震」の影響を誇張し、同地震による首都機能の麻痺・喪失を懸念する論調に終始する形で語られている。

フクシマ4号機燃料プールのような重篤な状態でさえ、「国家存亡の危機」などというフレーズを使用しないマスゴミが、まだ起きてもいない「首都直下地震」の危険性についてそのフレーズを連呼しているのであるから呆れたものである。

しかし、”事の真相”はフクシマ原発事故による首都圏の放射能汚染が深刻化の一途を辿っていることに起因する”首都機能移転”であることは想像に難くない話である。

6月のエントリーでもコメントしたとおり、「皇居からロイヤルファミリーがいなくなったら首都圏もいよいよ一大事」であり、「待ったなし」ということである。

即ち、「首都直下地震」に託(かこつ)けた政府・官僚ら一部の”エスタブリッシュメント”(特権階級)どもの「放射能汚染からの大脱走劇」が開始されようとしているということである。

関東における直下地震の可能性については何も今にはじまった話ではなく、ここ最近でも震度6級以上の地震が起きた訳でもないにも拘らず、ここまで「首都直下地震」による首都機能の麻痺・喪失を大袈裟に誇張している点には、正直、わざとらしさを感じる次第である。

それにしても、今回の記事中にある「首都圏を襲う直下地震について、作業部会が『わが国の存亡に関わる』と、これまでにない強い表現で防災対策の充実、強化を急ぐよう求めた」との記述は、如何にもペテン師どもが言いそうな話であり、実際、今回の中間報告にて”維持すべき必須機能”として、「内閣機能」「被災地への対応」「国民生活の基盤維持」「経済・金融の安定」「防衛機能・治安維持」「外交機能」といった政府・霞ヶ関省庁のほとんどを網羅する内容が網羅されているというのであるから、あまりに”露骨過ぎ”であろう。

早い話、永田町と霞ヶ関の住民(政府・官僚)どもが、自分自身とその家族だけ助かろうという魂胆なのである。

兎にも角にも、首都圏の放射能汚染の危険度を測る上での一つの指標とも言える「皇族の動向」が慌ただしくなってきた感は否めず、冒頭で申し上げたとおり「残された時間はそう多くはないのやも知れない」ということを国民の側も真剣に考えるべき時期に来ていると感じる次第である。

※参考1「「もはや待ったなし?」 ~皇室・首都機能の京都移転論が本格化~」
リンク

※参考2「【妄想】 政府による一部特権階級専用の疎開地開発が本格化 ~インドに続き、ベトナムでも新構想~」
リンク

(転載開始)

◆「一部皇族の京都居住を」京都知事ら官房長官へ要望 首都直下地震などに備え
 2012.7.26 16:29 MSN産経ニュース

山田啓二京都府知事と門川大作京都市長らが26日、藤村修官房長官を首相官邸に訪ね、首都直下地震などに備えて一部皇族が京都に居住されるよう求める要望書を手渡した。藤村氏は「貴重な意見をいただいた」と応じたという。

この後、山田氏は官邸で記者団に対し「皇族の多くが東京にお住いになっている状況は安心、安全の観点から考え直すべきではないか」と述べた。

山田氏らは、京都の行政や経済、大学、メディアなどのトップでつくる「京都の未来を考える懇話会」メンバー。同懇話会は東京一極集中を避けるため、皇室の一部機能や文化庁、観光庁の京都への移転を目指す「双京構想」を発表している。

◆首都直下地震 大阪など5都市にも代替拠点を 中央防災会議中間報告
 2012.7.19 21:14 MSN産経ニュース
 
東日本大震災を教訓に地震防災対策の抜本的な見直しを進める中央防災会議の防災対策推進検討会議は19日、大震災後に切迫性が高まったと指摘される首都直下地震に備え、当面取り組むべき課題などをまとめた作業部会の中間報告を公表した。

首都圏が壊滅的な被害を受けた場合などに緊急災害対策本部を置く代替拠点候補として、札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡の5政令都市を挙げた。南海トラフの巨大地震についても津波対策の強化を柱とする作業部会の中間報告を公表した。

政治、行政、経済の中枢機能が高度に集積した首都圏を襲う直下地震について作業部会(主査=増田寛也・野村総合研究所顧問)は「わが国の存亡に関わる」と、これまでにない強い表現で防災対策の充実、強化を急ぐよう求めた。

中間報告では、政府全体の業務継続方針の策定を最重点課題とし、維持すべき必須機能として「内閣機能」「被災地への対応」「国民生活の基盤維持」「経済・金融の安定」「防衛機能・治安維持」「外交機能」を挙げた。

官邸が被災した場合の緊急災害対策本部は現在、内閣府(中央合同庁舎5号館)、防衛省、立川広域防災基地(立川市)に設置されることになっているが、東京圏外の代替拠点は設定されていない。

作業部会は「東京圏での政府機能継続が原則」としたうえで、首都圏の広範囲が壊滅的な被害を受けた場合などに備え、東京圏外にも代替拠点をあらかじめ設定し、順位を定めておく必要があるとし、候補として公共機関などの機能が集積した札幌など5政令都市を列挙した。

作業部会は被害想定の見直し結果を受けて、来春までに対策の全体像をまとめる。

(転載終了)
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以上です。


新聞会
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事実から逃げるマスコミ!

Posted by ななし on 03.2015 記事 0 comments 0 trackback
あまりにショッキングだからといってその事実を報道しないマスコミ。
これで、事実を報道しているといえるのだろうか。」

Business Media 誠:窪田順生の時事日想リンクより転載します。
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東日本大震災の発生から1週間後。親しい某ニュース番組のテレビカメラマンから「お蔵入り映像」を見せてもらった。

震災直後、関東某所の避難所に、福島第一原発の作業員が妻と娘をつれて訪れた。彼は協力企業の人間からサーベイメーター(携帯用の放射線測定器)を奪うと、愛娘を調べ始める。すぐに針が振り切れ、ピーピーという大きな音。なだめる協力企業の人間から、「俺は毎日つかってっからわかんだ! やべえだろ、これ!」と怒鳴って取り乱す作業員。震災からまだ1週間ほどだったので、モニターを見て思わず息を呑んだ。
(以上転載終わり)
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報道の倫理とかいってこういう状況から目をそらしていたら、何が事実か分からなくなる。


佐藤晴彦
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