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テレビ脳 (てれびのう)

Posted by ななし on 29.2013 記事 0 comments 0 trackback
『テレビによる痴呆化』ということで、非常にまずいと感じることがあります。

学校、塾や習い事などの教育現場で、子どもたちに集中力がない、集団行動ができない、言語能力、コミニュケーション能力がないなどの現象が見られます。このような子どもになっていく原因として、特に幼児期におけるテレビの視聴の影響が大きいようです。

>幼児の脳の発達段階において、テレビやビデオを長時間見させた結果、ことばを発する時期が遅くなったり、保育園などで集団行動に溶け込むことができないようになる状態。開業医ら約6500人の小児科医でつくる社団法人日本小児科医会は、2004年2月に発表した「子どもとメディア」についての5項目提言のなかで、その危険性について触れている。日本小児科学会が03年に1歳半の子供をもつ親1900人を対象に実施した調査で、テレビやビデオを長時間見ている子供は、そうでない子供に比べ、ことばの発達が遅れる割合が2倍になったという。脳の重量は5歳までに大人の90%になるが、とくにゼロ歳から2歳までが急速に発達する。この時期にテレビなどを見せるだけで親子のスキンシップが不足すると、心やことばの発達に影響を及ぼす可能性があるという。アメリカの小児科学会でも同じような調査結果が出ている。小児学会ではすべてのメディアへ接触する総時間は1日2時間までが目安で、テレビゲームは1日30分までが目安としている。

戦後、特に70年代以降の子どもたち(大人も含まれるが)の言語能力などの衰退の要因として、私権の衰弱というそれまでの勉強に向かわせる圧力の衰退とともに、テレビの視聴という物理的な要因も大きいのではないでしょうか。

サクラサク 
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「誰に向かって言っているのか分からない言葉」が多過ぎる

Posted by ななし on 27.2013 記事 0 comments 0 trackback
「朝まで生テレビ」に代表される討論番組では、学者やインテリなど錚々たるメンバーが揃い、2時間でも3時間でも議論を戦わせる。あれだけ、名の知れた人が多いのだから、一人くらいは「正しい」意見を言っているのだろうと思うが、誰かの「正しい」意見で場が静まり返った・・・などという状況にお目にかかった事がない。

この場合、考えられるのは、「誰も正しい意見を言っていない」か「正しいのだが、誰にも届いていない」か、どちらかしかありえない。この場合、おそらく後者の方が比率が多い。

例えば、「日本は自立的な国家となるべきだ」と誰かが言ったとする。その意見の正しさは誰もが認めるところではあると思われる(確かに、誰も「否定」はしない)が、そんな意見など無かったかのように他の誰かが声を張り上げ、激論は続く。

最近の知識人は、「一見正しそうなのだが根拠は無く」「誰に向かって言っているのか分からない」言説が多すぎる。(右翼から拍手もらうために言っているだけ??)

「一見正しそうだが根拠がない」言葉は、現在状況の把握を可能にはしない。「誰に向かって言っているのか分からない」言葉は、当然「誰にも届かない」。こうして「言いっ放し」の議論が延々と続く。

「素人の社会活動28 現実を対象化する=思考する」
「素人の社会活動29 私権時代の歪んだ思考(主張・説得・議論)」

内藤琢
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テレビによる痴呆化

Posted by ななし on 25.2013 記事 0 comments 0 trackback
ここにきてテレビは、安倍晋三の宣伝キャンペーンを露骨に展開しています。そしてその中身はというと相変わらず映像を利用した感情的プラスイメージの刷り込み戦略のオンパレード・・・

このようなテレビの動きに対して、
”「直言」宮崎学氏のブログ”リンク は、次のように述べています。

>安倍次期政権が小泉路線を踏襲した場合、短命で終わるだろうということは、今や常識である。そこで、安倍次期政権が小泉路線から転換するための露払いの役割を買って出たのが、こうしたテレビメディアの行動である。実は、安倍にとっては総裁選挙の帰趨はすでに決しており、露払いなどは不要なのであるが、敢えてその役割を買って出て「知恵」を授けるかのポジションを取り、恩を売ろうとしている。こうしたテレビメディアの恥なき行動は、自分の今の位置を「長続きさせ、社会的影響力を減少させない」でおこうとする思想、体質によるものだ。>

その通りだと思います。
一方、裏を返せば、ここまでなりふり構わず露骨に政治に擦り寄る姿勢は、現在のマスコミの”脅迫的な焦り”も少なからず感じずにはいられませんね。

そして、宮崎学氏は次のようにも述べています。

>小泉から安倍へと続く現在の状況とメディアの関係は、どのようなものかをまずは考えてみたい。そこで参考になるのが、辺見庸の新刊『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社刊)である。
この中で辺見は、いわゆる小泉の劇場型政治について、「政治権力とメディアが合作したこの劇場の空気とは何だろうか。第一に、わかりやすいイメージや情緒が、迂遠ではあるけれど大切な論理を排除し、現在の出来事が記憶すべき過去(歴史)を塗りかえてしまうこと。第二に、あざとい政治劇を観る群衆から分析的思考を奪い、歓呼の声や嘲笑を伝染させて、劇を喜ばない者たちにはシニシズムを蔓延させたことであろう」と分析している。実に的確な指摘ではないか。>リンク

まさにその通りだと思います。
政治に擦り寄ったテレビからシャワーのように一方的に流される感応情報を受け続け、次第に社会の課題に対する当事者意識も分析的思考力を奪われていくというのは、まさに『テレビによる痴呆化』だろうと、恐ろしくなります。

麻丘東出
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視聴率自体が・・・

Posted by ななし on 23.2013 記事 0 comments 0 trackback
主婦と生活社の石原裕次郎「口伝 我が人生の辞」 より

僕がいつもおかしいと思うのは、
視聴率にはビデオリサーチとニールセンの二種類あるけど、
うちの『西部警察』がニールセンでは二十何パーセントいって、
ビデオリサーチは十四パーセントとかね。
六とか七とか八とか、めちゃくちゃに違うわけ。
両者の差が一パーセントくらいの差なら 
――仕組みはどうあれ―― そうかな、と思わなくもないけど、
六パーセントも八パーセントも違っちゃえば、何百万人ぐらいの差になるわけだ。
そんなもの、信用してられないよ。
これはハッキリとは言えないんだけど、ビデオリサーチは電通だよね。
電通の息のかかっている番組は視聴率が高くなって、そうじゃない番組は低くなるのはしょうがないんだよね。
(中略)
だから僕は、ビデオリサーチなんていうのは、電通の息がかかって不公平だと思う。

今ではニールセンも撤退し、視聴率測定はビデオリサーチのみという独占状態。株主には同業の博報堂や大広もいるが、実際は電通所有の株式が34%という子会社でしかない。

今のままでは、視聴率を利用しようとしてもいくらでも操作が可能。
ここはやはり「視聴率とは何か?」を追求し、信憑性を問うべきだと思う。

匿名希望
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視聴率の仕組み~TVがつまらなくなったのは当たり前!~

Posted by ななし on 21.2013 記事 0 comments 0 trackback
視聴率を計測する機器は、無作為ではなく、
『テレビモニター募集』という広告で募られ、配布されます。
時々新聞の隅っこに小さく載っています。

どんな人が応募するかというと・・・
もちろんテレビを見るのが大好きな人が多いでしょう。
テレビを見るのが大好きな人は、多くは暇な人でしょう。

この人たちがどんな番組を見るかというと、
大概は、社会と剥離した、下らないバラエティー、
或いは只々恋愛至上や個人主義を刷り込む、
下らないドラマではないでしょうか。

この人たちが視聴率をつくっています。
テレビは視聴率を基にしたCM広告料で成り立っているので、
必然的に視聴率至上主義へと収束していきます。

結果、テレビの内容は暇な人への解脱モノばかりになり、
闘っている人へは何も与えなくなっていきます。

社会閉塞で追求派・探索派が増えている潮流のなかで、
テレビがつまらないという評価が広まっていくのは、
当たり前のことでしょう。

すずかん
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テレビ・二題

Posted by ななし on 19.2013 記事 0 comments 0 trackback
今から20年以上前のテレビ人の感慨。

>セリフの少ない静かなショットでも、そこに或る絶妙の迫力を盛り込まなければならない芝居をすると、演技者はカットがかかったあと、一瞬放心状態になる。

 泣き叫んだり、笑いころげたりするときは、軽い脳震盪さえ起こす。立て続けに何回ものテストや本番はできないのである。出来たとしたら、それは芝居の純度がうすれていくか、あるいは酷使にそなえて、演技者の精神や肉体は、少しずつ、あるがままから、状況にアダプトしてムリな歪曲をよぎなくされている筈である。

 そういうアダプテイションに非凡な能力を示すのは、日本のTVで鍛えられたタレント達だと思う。多分にサラリーマン化した、TVドラマのスタジオで、本番直前にスタッフが、ドラマとは関係のない雑談に興じていてもたじろがず、あまつさえその談笑の仲間入りさえしながら、本番になると、サッと役柄に立ちかえり、かないキメ細かい芝居や、激情のほとばしる芝居をこともなくやってのけ、終わると息もつかず次のショットのセリフ合わせなどをやっている人達をみると、皮肉でも、イヤ味でもなく、ただただ感心するのである。

 一回こっきり玉砕型、の私は、長い長い口論シーンの終わりごろ、ひじょうにテクニカルな醒めた声で、
「ちょっと待った。ヘンな写りがある。お二階さん、表のガラス戸にあたってるライト、振ってみてくれ。あ、それでいい」
「ハイ、廻ってます。三十秒前!」なんぞと言われると、もうヘナヘナである。

 役者か、あるいは、人間が事にそなえて立ち直るすきを待たずに作業が進んでゆく。
 この余裕のなさの中で、日本のTV界は繁栄してきたのではないだろうか。
 TV界だけではなく、この余裕のないキリキリ舞いの、袋小路のお祭りのような賑わいの中で、日本という国は、世界の中にふくれあがってきたのではないだろうか・・・。

~岸恵子 「巴里の空はあかね雲」’83年

日本映画の黄金期、世界的な名匠・名画を輩出した時代にあって、妥協を許さない監督たちにしごかれ、名声を欲さずひたすら自らの課題追求に殉じた職人たちが下支えする、現場の空気を肌で知る女優。

彼女からみれば、80年代初頭のテレビ界はすでにサラリーマンだけが生き延びていける世界にうつったようだ。

>現代の日本の都会人は、そもそも異常な話しすぎの傾向にあります。その原因はいろいろありますが、やはり放送、とくにテレビの普及がその最たるものでしょう。テレビの普及は、各家庭内で早朝から深夜まで、ニュースにしろドラマにしろ解説にしろ、誰かがなにかをひっきりなしに話している、という状況を作り出しました。

このような状況下の家庭人が、テレビがなかったころの家庭人とくらべて、平均的に「おしゃべり」になった、ということは事実でしょう。「おしゃべり」といってわるければ、しゃべるということに無抵抗になりました。入れ代わり、立ち代わり老若男女の人間が、寸秒のいとまなくテレビの画面に立ち現れてしゃべりまくる、このことの影響は甚大です。

(中略)

それに、テレビには、原則として、なにもしゃべらないひとは出てきません。なにかをしゃべるひとが出てきます。それを見ている私たちは、なんとなく、自分たちも「しゃべらない」人であってはいけない、「しゃべる」人でなければいけないと、思い込むのも自然でしょう。

中には、せめてテレビに出てる人たちのように、またはテレビに出る以上にしゃべりたいと思うようにもなります。

こうして私たちは、テレビの受像機を一台そなえつけることによって、自然に「おしゃべり学校」に無試験入学したことになりました。

ひとことで言って、テレビは日本人をおしゃべりにしました。しゃべらなくても困らないことまでしゃべる国民にしました。

~三國一朗 「話術-会話と対話」’84年

戦後、ラジオのディスクジョッキーからテレビ界に転身し、テレビの黎明期を名インタビュアーとして支えたひとの自戒とも受け取ることのできるテレビの罪過。聞くこと、そして話すことを職業として確立させたひとの言葉だけに、逃れようのない重さがある。

>もう本当にテレビは人をひきつける力を失っていっていて、そのことにみんな気がついている

すでに四半世紀以上前、テレビは内部から瓦解していったとみることもできるのではないだろうか。

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批判することが存在意義だから

Posted by ななし on 17.2013 記事 0 comments 0 trackback
マスコミは昔から「何かを批判することが存在意義」だったと聞いたことがあります。

序列が強固だった時代は、政治家や資本家を批判する反序列のスタンスでそれなりに、みなの支持を得ていた。

でも序列が衰弱して、むしろみんなの意識としては、批判するだけ・要求するだけでは何も始まらないと感じている。

そんな中、「批判することが存在意義」のマスコミは必然的に、声の大きい“一部”の要求派を擁護することしか出来なくなった。

ということではないでしょうか。

西知子
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呼吸の問題は脳機能をあまり使わない家庭環境との関連するのではないか?

Posted by ななし on 15.2013 記事 0 comments 0 trackback
>ところが呼吸筋は随意筋である横紋筋でできているので、中枢神経の支配を受けて意識的に呼吸できるが、同時に不随意筋と同様に自律神経の支配も受けているので、意識せずとも呼吸は行われる。哺乳類で意識的に呼吸筋を動かすものにイルカがいるようですが、人間は酸素の極端に少ない水中で生活しているのではないので不思議です。心筋は横紋筋ではありますが、自律神経の支配下にあります。心臓と肺の必要度は同じと思うのですが、いったいなぜ呼吸筋は二重の支配を受けるのか。

>一般に呼吸筋の不思議は「発話」機能の発達と関係あると言われますが、それよりも脳内の二酸化炭素濃度を高めて脳の活性化を図る、あるいは深呼吸によって脳内のエネルギー消費量を保証するといった、知能の発達と密接に関係しているのではないかと思います。

上記の投稿から、人間は意図的に呼吸を制御できるように進化してきている。それも脳内のエネルギー消費に関わっているらしいとの事です。

確かに、緊張を解す時に深呼吸したり、短距離走のときに息を止めたりしますし、昔から様々な形で呼吸法などが研究されていることからも、人間の活動と呼吸は密接な関係にあるのが分かります。
我々が意識的に呼吸を制御しようと思うときは、平静時と何らか違う状態にある時(若しくはそのような状態になることが予測される時)です。

武道やスポーツの時の様に肉体の準備という側面もありますが、知能の発達とも関連することや、体の器官で酸素の消費量がダントツなのが脳だといわれていますから、主要には脳機能に関わることではないかと推察します。
特に何かに集中するなど、観念機能や共認機能をフル稼働させる場面で呼吸を制御する必要が生じるのではないでしょうか?

>深呼吸(腹式呼吸)が出来ない子供が増えている。私はむしろ深呼吸そのものよりも、その問題の土台を成す、80%の子供が口呼吸しか出来ない、あるいは深く息を吐くことが出来ない、という現象の方が重要であると考えている。


最近の深呼吸できない子供の問題も、口呼吸しか出来ない子供の問題も呼吸の制御の必要が余り無いということの現われではないかと考えられないでしょうか?

現代の過保護といわれる家庭環境において、幼少期の観念機能や共認機能をフル稼働させる時期を充実して過ごしていないことの表れのように思います。
特に一方的に情報発信だけある(同化できない=ボーっと見ているだけで観念機能もましてや共認機能もさして必要なさそうな)TVという存在の影響は大きいように思います。

鈴木龍也
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テレビの衰え

Posted by ななし on 13.2013 記事 0 comments 0 trackback

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必要なのは、答えを出すこと

Posted by ななし on 11.2013 記事 0 comments 0 trackback
問題は、かつて反体制であったマスコミ(や多くの文化人)が、政府自民党べったりに変わったのはなぜか?という点にあります。政府批判では視聴率が取れなくなったから、視聴率を取るために政府自民党べったりに変わったのです。

'02年収束不全が顕在化して以降、人々の間に焦燥感が募り、焦りの適応主体が生起した。これは、深まる一方の社会不全に対して「なんとかしなければ」という待ったなしの目先収束を生み出します。そこでは「批判していても始まらない」と批判は捨象され、目先でもいいから突破力のありそうな対象に期待収束します。この力の原理収束の対象が小泉や勝ち組です。この人々の意識の変化が、マスコミが政府批判からベッタリに転換した背景にあります。

同時に収束不全が進むにつれ、人々は「遊んでいる場合ではない」ということで、遊び離れ・芸能離れ→TV離れが加速していきます。ここで、視聴率を取るためにマスコミが取った路線が、奇人変人である小泉を持ち上げることだったのです。マスコミの格言にあるように「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」からです。

以上が、マスコミ・文化人が政治権力べったりになった理由です。マスコミが政府自民党を持ち上げることによって、自民党政治家のTV露出度⇒注目度、昨年の総選挙で自民党が勝利した。政治権力とマスコミ権力という新旧権力の癒着構造です。

こんなことになった原因は、収束不全に対して政治家もマスコミも文化人も答えを出せないことにあります。追い詰められて一番焦っているのは、政治家やマスコミです。だから、両者ともゴマカシのオンパレードになって、癒着したのです。

必要なのは、「社会をどうする?」という答えを出すことであり、悪役になることではありません。現代は、生存圧力の消滅⇒収束不全という、生物史上をも覆す大転換期であり、私権時代という狭い枠組みの中でのフーコーらの思想では答えを見つけられません。

>私権時代を突き抜けて、原始時代の社会の構造、更にはサル社会の構造、(必要なら生物史)にまで遡って、意識と社会の原基構造を解明する必要がある。それは、みんなの実感に基づく「何でだろう?」の原因をとことん分析してゆけば、必然的に到達する地平でもある。つまり、みんなで共認形成してゆく為に必要なのは、哲学や心理学や社会学といった旧観念ではなく、文化人類学やサル学や生物史といった事実認識群であり、みんなでそれらの知識を持ち寄れば、意識構造や社会構造の新理論体系を構築するのは、決して難しい作業ではないと思う。



冨田彰男
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代弁者はもういらない

Posted by ななし on 09.2013 記事 0 comments 0 trackback
「国民の代弁者」とマスコミは言うけれど、そうは思えません。「みんなどうなん?」っていう期待に、まったく応えてくれず、一方的な意見を一方的に発信されるだけです。

ブログをはじめたこともあり、先日起こった学習塾での事件を主にブログで検索しました。
すると、普通の人々があの事件をどう感じ取っているのか?、ナマの実感がすごくよく分かりました。中には関連ブログのリンク一覧をすばやく作ってくれたりしており、広がりを感じました。

ただ、原因を詳細に(犯人の精神構造を含め)追求しているブログも少しですがあるものの、多くのブログは、ほとんどが実感レベル(「不安です」、「どうにかしないとヤバイ」など)です。

ただ、それでも誤った認識を答えらしく発信するマスコミより、その不全感を共有できる(「みんなの意識を探れる」)という点だけでも、ブログの方が上だと感じました。その不全感は「なんでだろう?」につながっていく可能性があると思うからです。

テレビは、「○○が悪い!」「△△を改善すべき!」といった極端な(ヒステリックな)意見や、加害者・被害者を面白可笑しくネタとして取り上げるだけで終わってしまうものが多い。それは「なんでだろう?」をすっ飛ばした思考であり、ゆえに「なんで?」に発展する可能性がない。

もう代弁者などいらない時代なのだと思います。


 
谷光美紀
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世界の動向から読む日本の政・マスコミ  ~森田実氏 講演より~

Posted by ななし on 07.2013 記事 0 comments 0 trackback
るいネットでもよく引用されている森田実氏の講演が、23日慶応大学の学園祭(弁論部主催)で行われ参加してきた。

アメリカ支配への強い危機感、そして支配を容認し推し進める現在のマスコミや政治家への強い不信感、そしてより大きな動向から時代を読み展望を開こうとする姿勢に共感した。

講演は、特に’70年以降のアメリカの変革と戦後日本の動きを中心になされ、今後を読む上でも、注目される点も多く、以下要点を箇条書きにてまとめてみたものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・日本の政権・マスコミの動きは、世界の大きな流れ特にアメリカの動きから把握していく必要がある。
・アメリカは1970年代のベトナム敗戦と石油危機の衝撃からの立ち直りが非常に遅かった。特にベトナム敗戦は、精神的な衝撃が大きかった。(exヒッピー)
・ソ連は、アメリカの立ち直りが遅いのをいいことに1979アフガンに侵攻。アメリカの縄張りに足を踏み入れたことで、虎の尾を踏みアメリカを目覚めさせてしまった。
・ソ連の侵攻を背景に、'80年代アメリカレーガン政権誕生。「強いアメリカ」「悪の帝国」を標榜し、「新自由主義経済」で建て直しへ。イギリスではサッチャー政権。

・国というものは、一国で戦争すると必ず疲弊する。費用の負担のために増税が必要になるため。植民地のある国なら別。植民地からの収入によってまかなえるため。
・アメリカは国毎に態度を分けた。ソ連に対しては強硬姿勢。日本に対しては同化(一体化)政策。つまり日本の貯蓄でアメリカの軍事費を持たせる、その方針を明確に戦略化した。この戦略は日本の中枢の知識人であれば知っている事実でもある。

・日本のマスコミはアメリカに対して怯えの精神構造を持っている。アメリカは“自由”といいながら、占領時に反抗勢力は悉くつぶしてきた。それ以来特に大マスコミは怯えていおり、怯えの精神構造が残っている。
(この辺の事情は「閉ざされた言語空間」江藤淳 に詳しい。)
・政治家も同じ。ロッキード以来怯えている。いまでは独立精神を全く失っている。
・そしていまや全くモノが言えなくなってしまっている。100%言論統制されてしまっている。

・民主党にもいろいろ問題がある。メディアに弱い。特に支持基盤が弱いため、メディアに媚を売らざるを得ない。マスコミが横暴なのも、媚を売る政治家が多いためだ。
・日本の2大政党制もアメリカの誘導で出来ている。もし政権が交代してもアメリカの言うとおりにさせることができることが目的。そういう意味で、民主党は信用ならない。

・アメリカの今後の戦略の中で、日本と中国を対立させ、できれば戦争させようとしている勢力が存在する。アーミテージなど(参考:リンク)。
・今憲法改正するのは反対だ。自衛隊をアメリカ軍の補完部隊にしてしまうことになる。

・マスコミなさけない。本当に堕落している。コメンティター等ゴマすりばかり残して、ちゃんと発言するひとは放りだしてしまった。権力とマスコミは対峙すべきであり、誇りを回復すべきだ。
・闘える人間は10人に1人だ。そういう人間を発掘して育てていきたい。

・ブッシュの凋落が目立ってきた。アメリカの知識人の70%は、イラクはベトナム化すると予測し反対している。流れが変わってきた。来年の中間選挙で共和党は敗北するのではないか? (参考: リンク )
・小泉は総選挙で勝ったが、やりすぎて反感をかっている。来年春には失速していくのではないか?・・・流れを変えるためには自民党の民族派がもう一回りおおきく分裂する必要がある。2006年には流れがかわるのではないか(2006年に新党結成?)。2007年夏の参院選が重要だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今後、ファシズムへの潮流を止めるためにも、国内の民族派との共闘を図っていく必要があると思います。その上でも政・マスコミ界の監視役で各界にパイプを持つ森田氏の発言は見逃せない。

(一方で最近の民営化や小さな政府に対して、答えがケインズ型の修正資本主義であるというのはちょっとすっきりできなかった。国の借金800兆という規模で、これをどうするのか?という点は率直に疑問としてのこった。)

最後に同時に小泉改革の詭弁を明らかにした若き慶大の弁論部の企画に賛意とエールを送りたい。今後も注目しています。



井上宏 
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テレビは違和感から嫌悪感へ→そのままマスコミに変わる媒体の必然へ

Posted by ななし on 05.2013 記事 0 comments 0 trackback
私は最近ほとんどテレビを見ない。元々帰宅時間が遅くて帰ってもほとんど深夜のバラィティー番組しかなかったのだが、以前は一様帰宅するとなんとなくTVのスイッチを付けていた。それがある時を境に全く見なくても済むようになった。

当然、現在何も不自由していない。その分新聞を読むようになった。その日一日あったことや、世論の情勢を新聞で探す。TVに比べこの方がよほど短時間で済む。

改めてTVと新聞の違いはなんだろうか?そしてこれまでなぜ私はTVを見てきたのだろうか?
TVはまず単純に娯楽箱である。映像や音を通して多くの娯楽情報を得ることができる。(スポーツしかり、音楽しかり、ドラマ、映画もそうである。)場合によっては感情移入して少なからず感動や充足を得ることができる。TVという媒体を通して擬似的ではあるが共認充足を得ていた。ニュースに置いても同様である。ある事件が起きたとしてみんなどう感じているのか、この事件はどう見るべきなのか、キャスターの言葉を通して同感や評価らしきものを得ようとしていた。
しかし、先日の9/11の自民圧勝報道を見て明らかにTVが大衆を操作している現実を感じてしまった。と同時にこれまでTV媒体で得てきたそれらの情報が全て色あせて見えてきた。はっきり言ってTV報道全てに信用がなくなり、同時に関心がなくなった。だから、見ていても長時間は耐えられなくなる。いらいらしてくる。見る必要がなくなったのではなくて、見る気が起きないのである。たまに見るのはTVが流しているマスコミの嘘チェックをする時くらいだ。

TVを見る→みんなはどうなん?→今のテレビは少なくともこれには答えていない。
さらに事実を知るだけなら短時間で済む分、まだ新聞の方がまし。
でもそれすら、だんだん耐えられなくなってきている。新聞も必ずある方向への誘導が図られているからである。

事実追求を妨げるもの、共認を支配する媒体、それら全てに違和感を超えて嫌悪感を感じるのはそれらがあまりにも露骨になってきたからではないか。
そして同時に現在は以前にもまして「みんなどうなのか?」という共認探索の需要は高まっている。この間の急激なブログ需要の上昇はそれを裏付けているし、ブログに親しんだ世代は既に情報を得る手段として活字媒体へ移行していると聞く。

総じてTV媒体の雪崩れ的凋落は必然的にマスコミに代わる共認媒体の登場が目前に来ている根拠でもある。

田野健
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なんか、意味ない感じ ~テレビについて~

Posted by ななし on 03.2013 記事 0 comments 0 trackback
ここ半年くらい、妻が盛んに「テレビってホントつまんなくなったよねぇ~」と言うようになった。
最近では、朝の時計代わりにテレビをつける程度。帰宅してからはほとんど見ていないという。
僕が「テレビってつまんないでしょ?」とか「マスコミ支配されるから見ちゃだめ。」などと扇動しているわけではない。自然にそうなったらしい。

彼女にその理由を聞いてみたところ、しばらく考えて「なんか、意味ない感じ。」と出てきた。特にバラエティ番組は「意味がない」という。
「ニュースとか意味ありそうな番組はあるよ。」と切り返すと「う~ん、あんまり興味ないし、ニュースなら会社で(ネットで)見るし、(ニュースについても)ブログで色々なことを言っているのを見ている方が楽しい。」とのこと。
「テレビのニュースを信頼してないの?」という問いには「そうではないけれど、色々な人の話が聞きたい」という趣旨の返答が返ってきた。

僕の妻は、どこにでもいる普通の30代の女性。賢いタイプではない。どちらかというと感覚主導で生きてきたタイプ。
だから妻と話していると、これが現在の普通の人たちの感覚なのかなぁ、とたまに思うことがある。

マスコミに支配されている自覚はない(妻は911選挙のときは面白がってTVを見て「やっぱり自民党だよね!」としっかり支配されていた)。
でも「なんか、意味ない」と感じる。
マスコミに対する違和感や不信感が顕在化して強く拒んでいるわけではない。
でも、なんとなく他の発信源(ブログ等)の方が「皆がいて楽しそう」と別の可能性にシフトしていっている。
そして、結果として、マスコミ離れしている。

>従って、マスコミが社会・政治色を強めれば強めるほど、不信感・違和感が増大していき、どんどんテレビから離れていく!

多くの人の潜在思念は、マスコミとの価値対立⇒拒否というよりも、可能性のある方にアンテナが向かっていっている傾向が強いように思う。
ただ、テレビには可能性がないと見限った背景には、潜在思念が価値対立を忌避することを選んだ、ということがあるのかもしれない。
いずれにしても、見限られた以上、テレビ離れは進んでいくだろう。

不満や否定発信をタブー視する現在にあって、僕達は可能性を発信すべきだと思う。
「~~だから、マスコミはダメ」でなく、「テレビもマスコミも意味ないって思うでしょ?だったらこっちだよ。」という具合で。

 
多田奨 
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テレビ離れは止まらない!

Posted by ななし on 01.2013 記事 1 comments 0 trackback
>テレビ離れも急速に進んでいる。

今後もテレビ離れは続くのか?
マスコミの共認支配の構造を見ていくと、その答えが見えてきた。

>●マスコミは、バラバラに分解された大衆の解脱共認欠乏を土壌にして成長してきたが、同時にマスコミの成長はますます大衆を解脱個体化させ、更にはこの解脱箱なしには生きてゆけないブロイラーの如き存在にさせた。
●マスコミは、解脱情報を武器にして、大衆を支配観念一色に染脳し続けてきた。それは単にニュース解説etcによってではない。娯楽作品そのものの中に支配観念が様々な形で美化されor正当化されて発信されることによって、大衆は染脳され続けてきた。

マスコミは、ドラマ、歌、笑いetc様々な解脱充足を大衆に提供することによって信頼を獲得し、その信頼を基盤に、共認を支配してきた。

しかし、02年、収束不全の顕在化により、その状況は一変する。
解脱収束から探索基調への転換に伴い、マスコミは、解脱路線から、ニュース等の社会・政治路線への転換を余儀なくされる。

解脱充足という存在基盤を失ったマスコミ。
そのマスコミが、社会・政治路線を推し進めていくと、どうなるのか?

解脱充足では、大衆との間に価値対立は起きなかったが、政治・社会ネタになると、利害対立・思想対立が起きてくる。
さらに、マスコミは経済、家庭etcどの問題に対しても旧観念発の答えしか出せないので、人々の心底には(答え欠乏が満たされないが故の)違和感が残り続けていく。
従って、マスコミが社会・政治色を強めれば強めるほど、不信感・違和感が増大していき、どんどんテレビから離れていく!

もはや、テレビ離れは必然の流れとなった!!

 
三輪歩未
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