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余白のないテレビ

Posted by ななし on 30.2013 記事 0 comments 0 trackback
>特にマスコミなどの共認形成の発信者を中心に、「わかりやすい」ことが非常に重要であるかのような価値観、つまり、「わかりやすさ」が価値観念化していることも興味深い。

庶民に「わかりやすさ欠乏」を植えつけた源泉はマスコミ、とりわけテレビにあると思う。視覚というのは、聴覚や嗅覚に比べ、圧倒的な物量の情報を受信者に叩きつけてくる。「百聞は一見にしかず」ということわざを持ち出すまでもなく、誰しも思い当たることだろう。

元来、日本人は余白を楽しむ民族だったと思う。「言わずもがな」とか「あうんの呼吸」とか、西洋人には理解し難いような言葉が今も残っているのがその証拠だ。これは、言葉=観念以前の共認機能がそれほど発達していたということでもあり、日本人として誇るべきことだと思う。

テレビの登場が、その日本人の美徳をぶち壊した。

テレビが登場する前の視覚装置といえば、間違いなく映画だろう。庶民の最大の娯楽であったという映画は、1958年11億2000万人という観客動員数を記録した後は、減少の一途を辿り、現在はピーク時の10分の1といったところ。完全にテレビに乗っ取られた形だ。


その昔、巨匠と言われた映画監督たちが、もっとも心砕いたのは、否が応でもあるものそのままを映し出してしまう大画面を前に、いかに余白を残すか、ということだったようだ。つまりどこまで観客の共認機能に働きかけることができるか、ということであったようだ。

>僕は成瀬さんの映画だけは、説明的な演技というか、わかりやすい芝居はしなかったんです。楽しい時は楽しんでるとか、怒っている時には怒った顔をしているという芝居はまずしなかった。例えば「夫婦」の時に僕が店先にいると、長いこといなかった兄さん役の上原謙さんが歩いている。それを僕が見て、兄さんだと思う。それで何十年ぶりかに見るのだから、あっ、という表情で兄さんを発見する芝居をやったら、プーっと監督が笑って「社長もの※じゃないのよ」と言われた。つまり、僕はわかりやすい芝居をしたわけですよ。けれども僕だってそれほどはやってないんですけど、成瀬先生にしてみればオーバーなんですよ。だからものすごく抑えて、全然びっくりしないでやった。そうしたらOKなんです。ああ、これでもわかるんだなぁ、とその時は反省しましたけどね。(中略)
話は逸れますけど、テレビで仕事をしますとね、そういう芝居がわからないんですよね、今の若い演出家には。僕は先生のやってたものが気にいってたんですけど、それを今の仕事に持ち込んでやろうとしても「すいません、小林さん。あの、今の芝居、もうちょっとびっくりしていただけませんか。」「えっ?あれでびっくりしているのよ」って。やっぱり、“びっくり”しないと、わかってくれないんですよね。ちょっとしたことだけで、びっくりしているというのが成瀬さんの芝居なんですけど、今はダメなんです。だから、そういう癖が自然についてしまう。やっぱり、成瀬さんの時にやっていたような芝居のやりかたをどこかでやらなきゃいけないなと思ってるんです。

※「社長もの」とは当時シリーズ化されていた東宝のサラリーマンドタバタ喜劇

~成瀬巳喜男演出術-役者が語る演技の現場-小林桂樹のインタビューより抜粋~

これでもかというくらい、わかりやすく見せつけるのは、説明思考に基づく最も安易な演出法であり、見る者に思考の余地、同化の余地を与えない一種の暴力だと思う。

実は私は、以前はテレビをほとんど見なかったのだが、るいネットに参加するようになって、結構チャンネルをまわすことが多くなった。「何かネタないかしら?」という下心と「テレビが面白くないって本当なのか?」という敵情視察が動因。ところが、一旦見始めると、結構ずーっと見てしまう。まさにidiot box(バカな箱)の由縁で、危うくミイラとりがミイラになりそうだった。

画面を見ていると手や体を動かしたりできない。雑誌をめくる手すらも止まってしまう。もちろん、電話をしたりメールをしたりといったことも中断。わずかばかりの家事労働に支障をきたすようになった。

ヤバイ!

1ヶ月ほど前にラジオを買った。聴覚は視覚ほど受信者を独占しないので、手足を動かしながら(作業をしながら)、適当に聞き流すことができる。つまり受信者が情報を取捨選択できるのだ(受験勉強を深夜ラジオで乗り切った経験のあるひとなら理解できると思うが)。もともとラジオは何かをしながら聞くことが前提の情報ソースであり、それゆえに、制作者側も余白を心得たつくりになっているのだと思う。

巨匠を輩出した50年代映画全盛期には戻れないけれど、1545円のラジオは持ち運びも自在で、かなり重宝している。

>それに成瀬先生は、難しいことはおっしゃりませんからね。心理的な説明とか、そういう小難しいことはいわない。黒澤明さんにしても、小津先生にしても「その役は気持ちの上では・・・」という説明はない。「ちょっと違うな」とか「もうちょっとなんかない?」とか具体的なものでね。
~同上~

日本人本来の、余白を楽しむ余裕を取り戻したい。


阿部佳容子
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分かり易い言葉=誤魔化しの言葉

Posted by ななし on 28.2013 記事 0 comments 0 trackback
先日のなんで屋劇場で、分かり易い言葉=誤魔化しの言葉という話があった。
子供の頃、大人たちや教師から難しい言葉で煙に巻かれた経験はあったが、分かり易い言葉が誤魔化しというのも非常に興味深い。

分かり易い言葉というのは、要は価値対立の起こらない言葉であり、誰もが認める言葉のことである。だから、共認しやすいのではあるが、そこに落とし穴がある。

我々を取り巻く諸問題のほとんどは、私権原理から共認原理への転換というパラダイム転換によって、近代思想に基づく現在の観念群(言葉)がまったく役に立たなくなったことによって、引き起こされているのだと言っても良い。

例えば、福祉という観念(言葉)が、そこに税金をつぎ込むことを正当化し続けているため、財政赤字が膨らむ一方であることを明快に指摘させないでいる。
福祉という観念(言葉)が欺瞞である(84309 社会福祉の成立過程)ことを理解すれば、高齢化問題についても、老人の役割はなんだろうというまともな議論に向かえるはずなのだと思う。

しかし、福祉という言葉を否定することに対する価値対立、即ち己の私権を否定できないから、福祉は欺瞞という新しい観念(言葉)をわかりたくない。故に、何故福祉は欺瞞なのかという議論はわかりにくいと拒絶する。

つまり、答を出せない原因そのものを「わかりやすい」と評価し、答を出すべく考えることを「わかりにくい」という本末転倒の構造が存在する。

特にマスコミなどの共認形成の発信者を中心に、「わかりやすい」ことが非常に重要であるかのような価値観、つまり、「わかりやすさ」が価値観念化していることも興味深い。

しかし、ちょっと考えてみれば、誰も答を出せないような難しい社会問題を「わかりやすい」言葉で語れるのであれば、とっくの昔に社会問題など解決済みとなっているのではないだろうか?
マスコミの「わかりやすさ」を求める姿勢などは、実は現実の問題を誤魔化し、全ての問題に答を出させなくしている元凶であると考え直さなければならない。



鈴木龍也
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マスコミの「なんで?」に答える

Posted by ななし on 26.2013 記事 0 comments 0 trackback
マスコミが人々の共認を支配しており社会を変わらなくさせているのは周知の事実。よってこの事実を単純に捉えるならば、マスコミが変われさえすれば人々の共認内容も変わり同時に社会が変わると言える。

ではどうすればマスコミが変わるか…だが、それはマスコミの「なんで?」に答えてあげればよい。

例えばマスコミの代表テレビ。今やテレビ業界は何処も視聴率低迷に喘いでおり、要するに視聴者の興味、関心事がまったく掴めていないのだが(※だからこそ人工的に興味、関心事を作り出す演出ばかりに力点が置かれ、結局中身のない番組になり飽きられる…と言う悪循環を作っている)、それに答えてあげればいいのだ。

人々の…
意識が何処にあるのか?
何に興味、関心があるのか?
どんな答えを求めているのか?

これらは全て視聴率に直結する答え。そして決して人工的に作り上げられるものでもない。これらは全てみんなの潜在思念の中にある。みんなの中に答えがあるのだ。

そしてまたこれらは人々の現実世界に身を置くなんで屋だからこそ答えられるお題。なんで屋がマスコミの「なんで?」に答えてあげればよい。そうすればマスコミも変われるのではないか?



河村雅博
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カメラの向こうの絶対権力者

Posted by ななし on 24.2013 記事 0 comments 0 trackback
久しぶりに警察に勤めている知人に会った。彼は技術吏員として、交通事故や災害の現場処理、検証を行うような仕事をしている。会うといつも言葉少なで、みんなの話に静かに耳を傾けているタイプ。その彼が、集まったメンバーたちがひととおりおしゃべりを楽しんだあと、珍しく話を切り出した。

「一体、マスコミってどこでどう調べるんでしょうねぇ?」
「えっ?何のこと?」

社会的にも大きく取り上げられた、ある事故現場の話。何日にもおよぶ処理・検証中、当然現場にはマスコミが張りついていたらしい。連日夜遅くまで作業は続き、ある日、その日の業務が終了してヤレヤレと家路に着くと、家の前でいきなり声をかけられたという。相手はテレビか新聞の記者。どんなささいなことでもいいので、現場を知る人でなければ知り得ないような新奇なネタを提供してもらえないか、と詰問されたという。記者はハイヤーで乗りつけ、本人が帰宅するまでその車の中に身を潜め、家に入る直前に突撃してきたと言う。当然すぐに断ったらしいのだが、その後も待ち伏せは続き、仕方なしに、家に近づくと緑ナンバーの車が止まっているかどうかを伺い、それを認めると遠回りをして帰宅する日が続いたという。

「僕らみたいな下っ端の名前や住所、一体どこで調べてくるんやろ?って思いました」
「へ~、そこまでするんや~」

一同、顔を見合わせた。驚いたわたしたちを見て、彼は尚も続けた。

事故の現場では、一日中カメラを向けられ、凄惨な現場状況に吏員たちの作業も慎重に進められる。

「でも、人間って、何日もずーっと、マジメなむずかしそうな顔ってできないですよ。やっぱりちょっとしたときに表情が緩むというか、ほほえむこともある。身内の葬式のときだって、悲しいっていう気持ちはあっても、何かのときに親族同士そっと笑い合うことってありますよね。それといっしょなんです。でも、カメラは、ここぞとはかりそこの瞬間だけ切り取って、映像として流してしまう。で、そこだけ見せられたひと(=視聴者)は、『警察はなんと不謹慎な!』と思うんです。それで、電話や投書で抗議が続き、マスコミもそれを大々的に取り上げたりする。。。途中でそのことに気づいた上司から、『お前ら全員マスクをつけろ。歯を見せるな』って指示が出ました。現場の人間がマスクをつけているのは、そういう意味もあるんです。」

「そうなんや~。」

「そのくせ、マスコミ自身はカメラの向こうやから、絶対に画面に映ることはない。こっちが作業をやってる傍らで、彼らは平気で雑談に興じて笑ってたりするんです。不謹慎なのはどっちや?って思いました。」

「うわ~、イヤな感じ」

「逆に、大災害にあったひとたちやそこのボランティアのひとたちの話って、スゴイ美談が多いでしょ?あれだって現場はそんなきれいなもんじゃないんです。送られてきた救援物資を仕分けして、皮ジャンは取り合いになるから、よけとこ、とか。やっぱり醜い、いやらしいところもある。でもそこは全部カットして、キレイな話ばかり書き連ねていくんです」

「なるほどねー」

「マスコミってこわいな~、って思いました。」

>つまりマスコミとは単なる現実の傍観者で在るばかりではなく、もっと性質の悪いことに、現実の一部を切り取ってそれを面白おかしく針小棒大に語る、三文小説的脚色家なのだ。(中略)ニュースはおしゃべりのネタ、つまり面白おかしく現実を脚色して発散するという形で、肥大する自我の発散欠乏に照準を当てることから始まっている。(37953)

カメラの向こうにいるというだけで、絶対的な権力者になれるー。




働く主婦
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なぜ小選挙区比例代表制に疑問が出ないの?

Posted by ななし on 22.2013 記事 0 comments 0 trackback
>得票数と獲得議席数のアンバランスは、比例よりもひどい。
>与党の得票数は半数に満たないのに、獲得議席数は4分の3を越える。

ホントひどい。
どうしてこんなことが起こるのでしょう?

小選挙区比例代表制のせいらしい・・。

小選挙区比例代表並立制とは、リクルート事件や金丸事件等の汚職事件をきっかけに、そんな腐敗政治はいかん!という政治改革の機運が高まって、1993年に政治改革関連四法が成立し、その中で中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への選挙制度改革が行なわれた。従来の中選挙区制に対する批判は、お金がかかる。同一党内で争うので派閥形成につながる。争点をめぐる選挙(政策論議)になりにくい。などがあった。そこで、小選挙区比例代表並立制は、それらの欠点を払拭し、さらに政権交代が可能な二大政党制をもたらすものとして期待された、そうです。

でも、政策論議になんかぜんぜんなってないですよね。
小泉総選挙の時は、実直に政策を語ろうとした民主党は敗れ、単純に「郵政民営化、是か非か?」の二者択一を迫る自民が勝った。これは政策論議の土壌にすら乗っていない状態だと思う。
派閥だってそのままだ。いや実際小泉がやっていたことは、自民党内の派閥闘争(橋本派つぶし)でしかなかったと思う。(参考96492) (選挙後の派閥勢力図を見れば明らかです。)

何より、民意が反映されてないのが最大の欠陥。
なぜ選挙後、この選挙制度に対する疑問の声が起こらないのでしょう?
(少なくともネット上ではほとんどヒットしません。)

調べていくうちに、どうも、この小選挙区比例代表制が審議された当時もマスコミの煽動?が結構あったよう・・・。

>選挙制度に関して、マスコミがなすべきことは、何より有権者に対して判断材料を提供することであるはずです。ところが、「政治改革」論議のころ、政治学者の中で小選挙区制論者は決して多数派ではないのにもかかわらず、テレビには圧倒的に小選挙区制論者が多く出ていました。その一方で小選挙区制がもたらすさまざまな不公平については十分な情報を提供したというには程遠く、マスコミは小選挙区制実現の尖兵の役割を演じたといっても過言ではありません。

>その後の報道ぶりも、核心を常に外しています。その第一のあらわれが、重複立候補と「復活当選」への批判です。私自身も「復活当選」を好ましいこととは思いませんが、問題の本質は、「小選挙区で落ちた者がなぜ通るのか」ということではなく、「比例区で通るほどの政党になぜ小選挙区では議席が与えられないのか」というところにあります。「復活当選」という表現は、意図的かどうかは別として、小選挙区制をまずよしとした上での表現なので適当とはいえません。比例区を先に開票したら印象はがらっと変わってくるはずです。


なんか小泉総選挙の「造反組VS刺客」と同じだなーと感じました。
イメージで煽動しようとする。
ちなみに当時も復活当選などこれっぽっちも批判されませんでしたね。
むしろ、小泉の送った「刺客」が復活当選でもとにかく当選したことを嬉々として報道してた気がします。


ぜんぜん論理一貫性がない。
うーん、どうしてマスコミはこうなのでしょうか?




谷光美紀
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マスコミのからくり:::露出≒人気

Posted by ななし on 20.2013 記事 0 comments 0 trackback
> マスコミに騙されてはならない。小泉人気とは結局マスコミが自己の延命目的で祭り上げた産物に過ぎないのだから。(96520)

小泉総選挙の頃を振り返ると、マスコミ報道の過熱に歩を合わせるように支持率も上がっていった。小泉人気はマスコミが作っていた、と言うと、彼らは「小泉を支持していた訳ではない。中立である」と反論するかも知れない。確かに、新聞やテレビの論調は、全部が全部、小泉肯定ではなかった。「やり過ぎ」との周囲の声を拾っているものもある。

しかし、そこに実は、マスコミのカラクリがあるのではないかと思う。報道の中身はどうあれ、中立であろうが多少なり批判的であろうが、『小泉劇場』として派手に報じられれば報じられるほど、小泉有利になっていったのではないかと思う。

マスコミは、'70年以降、既に共認原理に移行した社会において人々の共認形成を牛耳る位置にいる、評価共認の形成機関である。そして、共認社会において評価共認の強さを最もよく表すものが「注目度」なのだと思う。取るに足りないものは注目されない。注目されているものには(よほどの否定的内容でなければ)何がしか見るべきものがあるのではないかと、無垢な共認回路は働いてしまう。現代、注目度とは即ちマスコミでの「露出度」となる。

芸能人の売出しにも、ヘビーローテーションという類似の手法が使われるし、大衆の冷笑ネタにされているかのように見える最近の若貴問題や杉田かおるにしてもそれは同様だと思う(多分、同情票も含めて個人への信奉者が登場している)。だから、マスコミが小泉個人の一挙手一投足に焦点を当て、派手な露出を演出すればするほど、政策の是非や本当の政治的力量、成果といった本質からどんどん離れて、捏造された個人の評価収束構造に知らずに嵌まっていく人が増えていく。この辺りがまさに、マスコミによる共認支配の恐ろしさだと思う。どうするか。

誰を選んでも大した成果が期待できないまやかしの社会参加である選挙も、大衆の洗脳媒体であるマスコミも一切無視して、粛々と草の根共認運動を進めていくか。これ以上注目を受けないよう、首相というポジションから小泉をとにかく引きずり降ろすべく、投票も含めて可能な限りの方法論を駆使するか。今回ばかりは後者なのかも知れない。


田中素
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“大衆の目先化”を加速させている犯人はマスコミ

Posted by ななし on 18.2013 記事 0 comments 0 trackback
>それはひとえに、『ワイドショー内閣』化しているからに他ならない。その奇人・変人ゆえの意外性を珍重するマスメディアとの蜜月関係にあるからである。大衆の統合不全突破期待をいいことにして、社会統合不全に答えを出せない支配階級は、こぞって国を国民を食い物にしていると云わざるを得ない。

 前回のなんでや劇場の中で特に印象に残ったのが、現在の大衆の意識潮流は“目先の”秩序収束と変革期待にあるのだが、それは答えがないから“目先”になるのであり、“目先化”を加速させているのはマスコミである、ということ。

 もはや解脱に収束できなくなった大衆は答え=“確かな中身”を求めて探索を始めている。しかし、自らの私権を確保するため(視聴率かせぎのため)、奇人・変人をやたらと盛り立てて、大衆の変革期待を“確かな中身”よりも“目先”へとベクトルを捻じ曲げるマスコミこそ閉塞の元凶であることを再確認した。


仲西大輔
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可能性の芽を摘む発信階級

Posted by ななし on 16.2013 記事 0 comments 0 trackback
>しかし、人類の最大のニッチは、新理論を切り拓く所にある。今、みんなが直面しているのが、統合不在ゆえの収束不全である以上、みんなの可能性探索が、みんな共認収束を経て新理論の構築に収束するのは、必然である。現に、仲間内でのマジ話も、普通のことになってきた。今や、誰もが答えを求めている。71820

あるNHKのテレビ番組で、倒産やリストラに余儀なくされた方達をスタジオに集めその中でも自ら起業をし成功を収めた事例を紹介すると共にどうすれば良いか?を扱う番組がありました。

一つの事例は、大手スーパーで副店長まで昇格した方が、スーパー倒産により職を失い、再就職先を探すが年齢と旧役職が邪魔をしてなかなか見つからない。そんな中でおにぎり屋を奥さんと一緒に起こしお客のニーズや期待に応える中でお客の人気を集めてお店が繁盛すると言う事例が紹介されました。

そのご夫婦の話の中で、貴重な言葉が沢山でてきました。
「自分でこうしようではなく、素直に周りの声に耳を傾けよう」
「夫婦と言うより仲間や同士と言った感覚」
「身体は辛いが、客と対面する中でお客の笑顔や期待を感じていられるので元気がでます」

まさに活力の中身は、共認充足から得られる活力でした。
自分からみんなへ仲間へ
期待と応望
共通の課題(仕事)を通じて役割や評価の共認へ
と言った、私権や解脱の活力に変わる仕事を通しての新たな活力再生と捉えることが出来ました。

ところが、テレビの司会者や解説者は、この事例を捉えて
「愛が全てを可能にする」
「自己実現」
「鏡に映った自分を見つめ直して見よう」
「好きな事を貫く」

それらの言葉は、抽象論へと流産してしまうのである。
個別事例から普遍化に繋げようとするが、生々しい現実は、水で薄められどうしても愛や自己と言った旧観念に引き摺り込むのである。
スタジオに集まった人にとっても何の答えになっていないのです。
感応回路を刺激するだけで「元気になりました~」や「自分も頑張んなきゃ」にしか至らないのである。
結局、倒産やリストラの不安感を煽るだけで「どうしたらいいの?」の答えには繋がらず、視聴者や大衆に旧観念を撒き散らしたままなのです。

私権活力から共認充足への転換として貴重な事例なのに、その構造化が無いばかりに大衆側は、答えを見出せないまま「人それぞれ」だったり「自分課題」に忽ち戻ってしまうのです。

みんなは、答えを求めてスタジオにやってくる或いはテレビを見る。
そうした期待とは裏腹にこうした旧観念支配によって共認収束への可能性の芽を根こそぎ取り除いてしまう発信階級の人々の罪は大きいと言わざるを得ません。


中村英起
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堕ちた媒体 ~人々の要否判断が既存媒体を駆逐していく~

Posted by ななし on 14.2013 記事 0 comments 0 trackback
ところで、不思議なのがそもそも事の本質を見ようとしている人がほとんどいないことだ。つまり、
「なぜNHKに受信料を払うのか?(払わなければならないのか?)」
というシンプルな議論が、メディアでもネットでも全くといっていいほどなされていない。
また、この‘不払い’はかつてからあった問題にも関わらず、過去これほどまでに大きな社会問題には発展していない。それが今、なぜここまでマスコミに大きく取り上げられ、国民の関心度も上がってきたのだろうか?

考えられる要因としては、ただ一点、
「NHKというメディア(媒体)が、この時代に必要なのか?」
という疑問=‘お題’を、人々が潜在的に考え始めたからではないだろうか?

>「NHKは必要」9ポイント減…TV放送へ不満高まる
 NHK放送文化研究所は24日、テレビ視聴の仕方と意識の変化を調べるため1985年から5年ごとに実施している「日本人とテレビ 2005」調査の結果を発表した。調査総数は3600人で、有効数は1920人。

 調査によると、テレビを1日4時間以上見る人は、85年は全体で32%だったのが、70歳以上を中心に36%に増加。テレビに対する満足度では、45歳以上を中心に、「不満」が14%から20%に増加。50~64歳では、「なくてはならない」という人が大幅に減った。

 NHKに対する評価では、民放より「多く見る」が22%から18%に減り、「必要だと思う」人も88%から79%に急減。番組に対する評価も、報道の信頼性など7項目で低下した。
<「YOMIURI ONLINE」2005.6.24付のニュースより〕

かつて、銭湯が空っぽになるほど人々が聞き入ったという『君の名は』(昭和27年・ラジオ放送)、年越しの一家団欒の代名詞でもあった『紅白歌合戦』(昭和26年・第1回TV放送)、民放と一線を画した教育番組等、これまでNHKが提供してきた情報・娯楽番組は計り知れなく、国民もそれにより大きな恩恵を受けてきた。

だが、NHKは今まさに『必要か否か』(33995)の土俵に引きずり出されたのだ。そして、受信料の‘不払い’という形で、国民の‘なんで?’が顕在化してきた。より俯瞰的に見るなら、今の社会の構図(残存する私権制度・圧力vs人々の感じている社会不全)が浮かびあがっきたとも言える。

>『必要か否か』という最基底の、それゆえ真っ当でシンプルな『判断の土俵』(=新しい演場の基礎)が出来てくると、国家も市場も全面的にその土俵の上に乗らざるを得なくなり(∵逃げ道はない)、そこでの評価指標=身分やお金は『現実に必要か否か』を表わすモノサシに変質せざるを得なくなる。<(同33995『必要か否かの『判断の土俵』が、国家と市場を呑み込み、解体し、再統合してゆく』)

3年前に提示されたこの認識が、現在、顕著な現象となって表出し始めている。それは、事実認識の見通しの確かさを証明すると同時に、今後の潮流をも示唆している。形骸化した受信料徴収制度と人々の違和感の断層は、今後より大きくなっていくだろう(今月末には不払い件数は100万件に達すると見込まれている)。

これまで、人々のNHK批判の声は小さかった。スポンサー資金によらない運営や、真摯な報道・教育番組によって、(あたかも旧観念のように)無条件でNHKは‘良し’とされてきたように思う。
そんなNHKが今審判されようとしている。そして、人々の‘必要か否か’の判断は、最終的には「公共性とは?」「媒体の役割とは?」という根幹部に行き着くのだろう。

本来、人々に対して強い発信力・影響力を持つマスコミだからこそ、社会共認の形成が最優先されるべきなのに、己の利益・言い分だけに立脚した現在の議論では、泥沼化していくばかりで解決を見ない。
片や、人々の評価を真っ向から受け続け、「‘なるほど’と思ったことをそのまま伝えていく」新しい‘媒体’がいつも路上に存在する。そんななんで屋露店が、既存マスコミに代わって新しい‘媒体’の役割を果たすのも、そう遠い将来ではないかもしれない。


林昭光
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最近、テレビつけなくなった

Posted by ななし on 12.2013 記事 0 comments 0 trackback
家に帰るととりあえずテレビをつけていた。
振り返ってみると、小さい頃から、ずっとそうだったように思う。
家族との食事中でも、どんなときでも、ずっとテレビはつけっぱなしだった。。。
ついていても、誰も見てないんだけど、つけっぱなしだった。
なんでついてたんだろう??

>既存のメディアからは明確な状況認識も答えも出てきませんが、それでもニュースや科学番組を制作するように、大衆の欠乏に「少しだけ」応えようとしています。
また、共認欠乏に応えるべく、お笑いやドラマも「わずかな」解脱充足をもたらしてくれます。

そんな私が、最近気づいたこと。
「あたし、テレビつけなくなった。」
たぶん、私を昔から知ってる子とかにこれを話すと、絶対驚かれるって思った。

なんでだろう??
多分、露店だ。。。

マスコミの共認支配の問題とか、旧観念の犯罪性とか、いろいろなことをなんで屋露店、なんで屋劇場で吸収した。でも、それだけじゃなくって、なんで屋露店でお手伝いをして、見ず知らずの人とでも実感をベースに、すぐに繋がれる充足を得たり、活力ダウンしていた子が、露店での答えを通じて活力UPして帰っていってくれたり、単なるお客さんから、弟子になるって希望してくれて、一緒に共認事業をやってく供給者になってくれたりetc。。。

挙げればきりがないんだけど、露店を通じて共認充足を得れば得るほど、テレビが単なるつまらないモノから、くだらないモノになって、とうとうつけなくなった。。。

テレビが与えてくれる「少し」の充足。
みんな、それじゃ満足しなくなってくるって思った。

>出発点は素直に“充足”を求めること。(83331



久保田彰子
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少しは充足できるから、取り敢えずテレビでもつけておくか

Posted by ななし on 10.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビを含むマスコミには多くの人が期待していないのは、現代に生きる人なら感じているはず

>にもかかわらず、テレビが売れ続けるのはなんででしょうか?
実は、みんなはマスコミに期待をしているのでは?、ということも考えられるのでしょうか?

みんなはテレビに何を期待しているのでしょうか?

根底には収束不全がもたらす、社会欠乏(社会の状況を掴み、統合したいといった統合欠乏)と共認欠乏が生起しています。
対面の範囲を超える「社会」を探索する為には自力では不可能です。この探索=外識欠乏が'70年以降テレビや新聞等の媒体に収束し、それは現在も続いています。既存のメディアからは明確な状況認識も答えも出てきませんが、それでもニュースや科学番組を制作するように、大衆の欠乏に「少しだけ」応えようとしています。

また、共認欠乏に応えるべく、お笑いやドラマも「わずかな」解脱充足をもたらしてくれます。
大衆はそれらが本来の答えにも本源充足とは程遠くても、他に可能性がないのならば、潜在下で刺激され続ける不全を「少しだけ」だけでも紛らわしてくれるテレビに「取り敢えず」収束し続ける。そのような状況だと思われます。

「テレビが面白くないのは何で?」といった実感から、今や「テレビが面白くないって普通?」だけど退屈を紛らわせてくれるのだったら、食い入るように見ることはないけど、取り敢えずスイッチを入れておく。といった状況認識に変わっているのでしょう。

現在、お金は余っており、本源充足を感じさせてくれる媒体に投資することに何ら抵抗はありません。
なんで屋に来店するお客さんも、充足すれば惜しげもなくお代を払っていただけます。
収束不全は強まる一方です。答えがないから旧観念=ニセモノの供給者に収束する、この状況を突破する為にも、みんなが参加できる共認形成の場=媒体と、閉塞を打ち破る新たなる認識の必要性を強く感じます。


辻一洋
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マスコミの世論調査は誤魔化しの世論形成

Posted by ななし on 08.2013 記事 0 comments 0 trackback
>共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。

マスコミが共認形成の場を牛耳っている以上、庶民は知らず知らずのうちに観念支配されていく。共認原理の世の中で力をもつのは世論であるが、これ自体をマスコミがしたたかに操作できる実態もある>リンク
2002年の8月、朝日新聞が報道に関する世論調査をしている。その結果は
「今のマスコミに大いに不満」が9%
「ある程度不満」が51%に達したという。また、それが目立つマスコミの順位は1位テレビ、2位雑誌、3位が新聞だった。

具体的な中身については
「人権に配慮が足りない」32%
「興味本位に騒ぐ」28%
「見方が一方的だ」23%
「権力批判が足りない」11%(「数字で読む日本人」自由国民社より)

この具体的な中身も微妙で、もともとの選択肢自体、新聞社が設定しているのだということは意識しておく必要がある。一見、庶民側にたってるようだが、庶民の疑問や不信を微妙に摩り替えることは容易なのだ。そして、そのデータが世論として共認されていく。(世論調査しながら世論形成しようとしている)

中身を追求したり、その存在の是非を問う設問は用意されない。これを誤魔化しといわずして何と言おうか。

例えばアンケートの中身が
「マスコミが答えを出せると思うか」
「マスコミが必要だと思うか」
「マスコミが庶民を支配していると思うか」
「マスコミが社会を閉塞させていると思うか」
などであれば、どうなるか。

ある意味、一定のマスコミ不信が顕在化している以上、彼らは更に誤魔化し報道を続けることしかできない。


平川要
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今後は本物の媒体が求められる

Posted by ななし on 06.2013 記事 0 comments 0 trackback
新聞、テレビ、雑誌などのような、最近まで(今でも?)媒体とよばれていたものは、実は、本来の媒体としての役割は果たしておらず(情報を伝えているのではなく)、ある観念にとらわれて生み出されたもののみを、単に発信しているだけのものだったように思う。

媒体とは、情報等を伝えていく「手段」になるものである。

そうであるなら、媒体とよばれるマスコミなどにある大きな問題は、発信側であるテレビ等とそれを受け取る側である我々の間に共認がなされていなかった事ではないだろうか?
媒体が単なる「手段」であるなら、たとえ単なる情報であっても、そこに共認がなければ伝わらない。
現在でのほんのささいな事柄で考えてみても、誰も、「この話をしても誰も共認(共感)してくれないだろう」というような話は口に出そうとも思わない。
つまり、媒体となるには、そこに共認が最低限必要なものとして存在するのである。

西谷さんの投稿(74476)を読んでも、過去、媒体としてうまく機能していた「口伝」には、共認は最も根本的なものとしてあったように思う。人と人が口で伝えていく。そこにもし共認がなければ伝わっていく事はありえない。


現在は、多くの人が答えを知りたいと思っている。
みんなの納得する答えを求めている。
そしてその答えがみんなの納得するものになるには、みんながその答えに共感し、共認しなければならない。
そしてその答えを共認するためには、その答えを伝えていく本物の媒体が必要となる。


今後、みんなに求められるものは、発信者と受信者のように別れてしまうマスコミのような偽者の媒体ではなく、純粋に、みんなで事実のみを共認できるような、「なんでや露店」のような本当の媒体だろう。



base
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万人が媒体となればマスコミなど不要になる

Posted by ななし on 04.2013 記事 0 comments 0 trackback
> 我々は、これまでの人類史で当たり前に行われてきながら、近代以降忘れ去られていた口伝=人を媒体とした認識の伝承と言う「共認媒体」のありようを、全く新しいスタイルで生み出すことが出来ました。
74476

 最近の投稿を見ていて、共認運動とは一体何なのか?という点がより明確になりつつあるように思う。

 1970年代、貧困の消滅により、社会の統合原理は序列原理から共認原理へと移行し、人々が自由に共認を形成することが可能な時代になった。
 しかし共認形成の場を牛耳ってきたのはマスコミであり、社会不全が増大する中、人々は違和感を感じつつもその共認支配からどう脱すればいいのか答えが見えない、それこそがこの30年間高まり続けた閉塞感の正体であったように思う。

 その閉塞感に対する答えが鮮明に見えてきた。
 それは、要するに、「万人が(社会共認を形成する)媒体になること」なのではないか。
 
 社会的活動が増えてきたのも、カリスマ店員が人気だったのも、携帯電話を持って一日中メールしているのも、インターネットが爆発的に普及したのも、顔文字やギャル文字が流行ったのも、自分たちでカフェをオープンして人を集めたいと思うのも、実は心の奥底で社会共認を形成する当事者になりたい、媒体になりたいという欠乏の表れだったのではないだろうか。

 誰もが時代の流れ、社会の行方、みんなの意識を知りたがっている。それを知る媒体は長い間マスコミだと思わされてきた。しかし、もほや人々の最先端の欠乏の中身は、自ら媒体になる、という段階にまで進んでいる。

 万人が媒体となればマスコミなど不要になる。社会も変えられる。共認革命とは媒体革命でもあったのだ。




阪本剛
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'90年代の危機感と変革期待の行方

Posted by ななし on 02.2013 記事 0 comments 0 trackback
'90年代の危機感とは、私権意識にとっての私権体制に対する危機感に過ぎない。従って、自我・否定意識の強い者ほど終末論やオカルトに収束してゆくことにも成ったが、もちろん、否定や終末論ではどうにもならない。こうして、私権体制の危機感に基づく抜本改革期待が高まってゆく。もちろんこの変革期待も、主要には私権意識発の私権体制の変革期待であるに過ぎない。

他方、'97年以降、意識の深部で脱私権判断に基づく実現探索(=当事者意識)が生起し、強まってゆく。この当事者意識が、終末論(=否定)を止揚して変革期待に昇華させたターニングポイントであったことは間違いない。しかし、この実現探索は、脱私権の充足可能性の探索に向かうので、危機感や変革期待はとりあえず封印され、課題捨象の充足基調に流れてゆく。

'02年、私権の衰弱の果てに、私権収束の可能性を根底から断念せざるを得なくなり、収束不全が生起するや否や安定収束⇒秩序収束が強くなる。そしてこの新潮流は、あくまでも脱私権発の目先の秩序収束であるが故に、私権発の「抜本改革」に対しては、(何も期待はしていないが)むしろ傍観or暗黙裏に肯定のスタンスを取る。

この秩序収束を追い風に、いったんは、私権発の国家収束や指導者期待(小泉信仰)が強まり、批判するだけのマスコミや要求するだけの旧観念勢力に対する反感が広まってゆく。かくして、'04年、第一権力はマスコミから国家(自民党)に再転換し、マスコミの右旋回=保守化が進行中である。おそらく、今後、一部の者が要求してきただけの(みんな不全に基いていない)人権や福祉の特権は、剥ぎ取られてゆくだろう。

しかし、国家破綻・市場破綻は着実に進行し激化してゆく。(例えば、今や市場は、マスコミ、特にCMによる幻想共認の形成力に大きく依存しており、庶民のマスコミ離れは、一段と市場縮小を加速させることになる。)

それに対して、現在の秩序収束もマスコミ不信も、元々その源は収束不全⇒当事者意識の生起にあり、深層の当事者意識は、国家破綻・市場破綻が進行するにつれて、答え探索⇒事実収束を強めてゆく。この事実収束が最終的に(秩序収束を利用した)私権勢力の誤魔化しを打倒してゆくことになる。



岡田淳三郎
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