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「答え」を出せるかどうかが問われている

Posted by ななし on 31.2013 記事 0 comments 0 trackback
政治家とは、パフォーマンスをする人のこと。
そのパフォーマンスを批判したり評論するのがマスコミや学者。
社会に働きかけてますっていう人は、要求主義の運動家。
10年前からそうだった。

なのにそのときはテレビを見てても違和感は覚えなかった。
「テレビではこう言ってるからこうなんだ」っていう言い方がまかり通ったのは、思えばそれ自体が思考停止していたってことなのだと思う。
「そのうち誰かがなんとかしてくれるかも」みたいな風潮だった。

今やマスコミの言ってることに違和感を覚えている人がほとんど。
その違和感の出所は、「そんなんじゃ、なんとかなりそうにない」ということ。いくら批判をやめたって目先に収束したって、この違和感は払拭されないだろう。

まさに、求めているのは「答え」
マスコミをしのぐ共認形成力をつくっていけるかどうかは、この期待に応えられるかどうかにかかってるんだと思う。



長谷川文
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2004年、そしてマスコミもガタガタになった

Posted by ななし on 29.2013 記事 0 comments 0 trackback
> たしかに最近、路上でいろんな人と話をして、庶民のマスコミに対する違和感が急速に増大してきているのを感じる。いや感じていた。老若男女を問わずである。(73194

 2004年は、歴史的な転換点になるかもしれない。意識潮流の大きな転換を示すと思われる象徴的な事件が重なったからである。
 
 4月7日および14日、イラクで拉致された日本人の活動家、ジャーナリストらに対して、人質に取られた直後から(15日、17日には解放)、本人らと自衛隊撤退を求めた家族に対して、
「新聞やテレビの報道を通じて、家族は思い上がっているのではないかと思った。ボランティアはイラクへ行かなくても国内ですることはある。極限すれば『自業自得』だ」「家族や本人は調子に乗り過ぎている。自己責任であり、かかった費用は本人たちが負担すべきだ」
 といった非難の電話や匿名掲示板での批判が相次いだ。

 4月23日、3閣僚に年金未加入期間があることが判明したのを皮切りに、与野党の多数の議員に保険料の未納期間があることが判明した。が、5月13日以降、報道番組のキャスターらも未納期間があることが判明。
 6月5日には、参議院本会議で給付額抑制・保険料の段階的増額を盛り込んだ年金制度改革関連法案が可決、成立した。

 5月22日、北朝鮮に拉致された日本人の子供たちが帰国した際、小泉首相の対応を批判した被害者家族と家族会に対して、
「文句もいいかげんにしとけ」「イラクで人質になった日本人と同じ。自分のことしか考えていないのか」
 といった非難の電話、メールが寄せられた。

 イラク日本人人質事件のケースも、北朝鮮拉致被害者家族のケースも(「救う会」側は首相への謝意も述べているようだが)、政府への自衛隊撤退要求や、首相への批判をクローズアップして報道したマスコミの目論みはほぼ外れ、当事者たちは、猛烈なバッシングにさらされることになった。
 年金改革法も、未納議員の存在、強行採決の件など、批判するネタは山ほど存在したが、あっけなく成立した。

 これらの事件群が意味するのは、大きく2つある。

 一つ目は、(既に多くの人が指摘するように)平和主義、人権思想、福祉制度など近代思想=旧観念(および観念に基づく諸制度)に対する庶民の違和感が顕在化しつつあることだ。
 これら旧観念群はこれまで批判することがほとんどタブー視されていた。が、もはや旧観念に基づく要求、主張は庶民の声によって封じ込められつつあることを、上記の事件群は示している。

 二つ目は、マスコミの世論形成=共認支配が崩れつつあることである。
 マスコミの思想的支柱である旧観念への白眼視、違和感が高まっていることに加え、批判・否定するだけのマスコミのスタンスよりは少なくとも現実に何らかの対応・行動している政府与党、および国家の作る秩序・制度の力への支持に庶民の意識は向いつつある。
 (貧困の消滅した1970年代以降、政治家はマスコミとマスコミが作り出す世論に絶えず怯えてきた。しかし、少なくとも現状を見れば、マスコミと政治家の力関係は逆転したと見ていいと思う。)

 マスコミによる社会的共認支配の下で、家庭も会社も国家もガタガタになり続けてきた。
 そして、2004年、共認支配の力の源泉=旧観念への不信と違和感の顕在化によって、マスコミ自身もガタガタになったのだ。




阪本剛
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誤魔化し充足と、答え探索⇒事実探索との相克

Posted by ななし on 27.2013 記事 0 comments 0 trackback
答えが出せないが故の目先の秩序収束⇒国家(力の現実)収束の一方で、収束不全発の答え探索が進んでいる。それは、事実探索の潮流として現れている。例えば、ニュース番組の隆盛や科学番組の増大。三菱ふそうの問題も、森ビルの回転ドアの問題も、鳥インフルエンザの浅田農産の問題も、事実を隠していた、誤魔化してきたという所に、世論の矛先が向けられている。年金未納問題も、ミスや誤魔化しがバレた場合は、先に白状した方が勝ち、という状態になっている。

目先の無難な誤魔化し充足の風潮と、答え探索⇒事実探索の潮流とが相克しているのが、現在である。この二つの潮流のうち、人々がどちらに収束していくかは明らかだろう。どちらも、根っ子は、収束不全発のみんな収束であり、そうである以上、答え(事実or根本問題は何なのか?)に収束していくはずである。国家やマスコミが誤魔化せば誤魔化すほど、それを反面教師として、人々の意識は事実や根本問題に向かうだろう。

>共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。その時はじめて、(なんで屋の共認運動を契機に)路上や仲間内での答え探索の潮流がはっきりと顕在化し、勢いを増してゆくことになる。

この投稿を読んで、私がまず思ったのは、「本質追求しないで、誤魔化し続けている国家やマスコミに、何の意味があるのか?」ということ。この感覚は、まだ人々の間では顕在化していないが、いずれ、過半の庶民の間に広がっていくだろう。

国家・マスコミなど旧体制に対する不信感と、答え探索の両方に応えうるのが、なんで屋。それに応えるためには、「旧体制では答えにならない(序列原理から共認原理に転換しているから)」「旧観念では答えを出せない(序列原理で統合された現実が不動な時代に、変革不可能視に基づいて作られた観念だから)」「社会統合のプロと旧観念が閉塞の元凶」を明確に打ち出すことが不可欠だと思う。この言葉を提起することで、それに代わる「みんなで共認形成する場の必要性」「新理論の必要性」に、人々は気づくのではないだろうか。



冨田彰男
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マスコミの煽動報道と、その最後

Posted by ななし on 25.2013 記事 0 comments 0 trackback
問題は、アベノミクス等の詭弁に飛び付く誤魔化しの風潮が、どこまで続くかである。
答えを出せない以上、誤魔化すしかないので、目先、無難な誤魔化し充足の風潮はしばらく続くだろう。この誤魔化し充足の風潮にマスコミが乗り、(一部の)学者が乗れば、根本問題は完全に捨象されて終う。

しかし、より大きく捉えれば、収束不全⇒みんな収束の共認圧力を受けた目先の秩序⇒国家(力の現実)収束とは、答えを出せないが故の根本問題を捨象した既存意識の誤魔化し正当化であり、それは私権意識に残された唯一の逃げ道である。
しかも、その方向は、みんな収束の収束先である共認原理と根本的に背反しており、従って誤魔化しの国家(=力の現実)収束を強めれば強めるほど、国家赤字や年金破綻、あるいは教育の崩壊や性の衰弱etc社会矛盾が激化してゆく。

しかし、いかに目先の秩序収束⇒国家収束であるとは云え、それが収束不全⇒社会収束のひとつの顕れであることには違いはなく、従って彼らは激化してゆく国家破綻や社会矛盾をそっくり捨象して終うことは出来ず、ひたすら誤魔化し続けるしかない状態に追い詰められてゆく。

小泉政権の際は、目先の秩序収束の潮流に乗って、支配層の3/4と庶民の1/2は小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた。今後しばらくは、この誤魔化し充足の風潮にマスコミ(や一部の学者)が乗り、ますます根本問題の本質追求は捨象されてゆくだろう。

しかし、共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。
その時はじめて、(なんで屋の共認運動を契機に)路上や仲間内での答え探索の潮流がはっきりと顕在化し、勢いを増してゆくことになる。


岡田淳三郎
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マスコミも探索基調!?

Posted by ななし on 23.2013 記事 1 comments 0 trackback
みんなのマスコミ離れが進み、マスコミも探索段階にあるのだろうが、どこか違和感を感じる。これってなんでだろう??

テレビで報道されている内容って、記者の人たちが「なにかネタはないか、事件はないか??」といった視点でずっと探している状態の中で、なにかあれば事件だとばかりにすぐにとびついて得た情報である。政治担当の人なんかは政治家にピッタリくっついてネタを探し回っていると聞いた。

これって普通の人の探索基調とかけ離れている気がする。
全く考えての探索なんてものではない。

普通の人はみんな不全発の探索基調。
マスコミは職業上=自分発の探索基調。

これが問題なのではないだろうか?
マスコミはどうしても利益を追求するあまり、みんなを対象化しなきゃいけないとはいっても、何か目新しいことを素早く発信しなければいけないという思い込みみたいなものがあると思う。だから目先のネタや事件にとらわれてしまうのではないだろうか?

このままではどんどんマスコミは取り残されていくだろう。やはり社会統合は特権階級では職業上の利益追求がからんできてしまうため、専業でなく兼業で行っていかなければならないんだろうなって改めて強く思う。




宮崎未帆
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私権社会最末期に咲いた徒花

Posted by ななし on 21.2013 記事 0 comments 0 trackback
>弱者救済といった福祉観念だけでは財政赤字・年金赤字といった制度破綻の現実の答えになりえない。反体制、反身分の共認支配が通用しなくなった今、もはやマスコミは不全捨象の充足報道で誤魔化し続けることでしか生き残ることが出来なくなったということか(暗い話は避けて明るい話でせめて気分だけでも紛らわそうとするしかないのだろう)。
<(72587辻さん)

 ’70における貧困の消滅(生存圧力の消滅)を境に、社会の統合原理が、力による序列原理から合意に基づく共認原理に移行して、その共認過程(場)を独占することで第一権力の座についたのがマスコミと言えると思います。

 そして、第一権力になってから、しばらく(30年間)は、社会不全(みんな不全)がはっきりと顕在化しなかったために、答えを出せない、出す気がない、実現する気がないという根本的な欠陥が見えなかったために、権力の座も安泰であった。

 ところが、みんな不全が顕在化しつつある現在においては、その答えを持っていない以上、権力を維持するためには、庶民の表層的な期待=充足基調に答える(迎合する)ことにしか可能性を見出せていないというのが現実だと思います。

 大衆に迎合するしかないとは、権力の座も最末期を迎えて断末魔の叫びをあげはじめたということではないでしょうか。

 こうしてみると、歴史的には、私権社会から共認社会への移行期において、貧困が消え、新しい社会不全が顕在化するまでのみんな不全が一瞬消えた30年間、つまり、統合原理が共認原理に移行しながらも、答えのない共認支配と言う新たな私権が存在しえた歴史上の特異なほんの一瞬の間だけ第一権力足り得たのがマスコミと総括できるのではないでしょうか。

 さらに言えば、マスコミ以前の第一権力、政治家、それ以前の国王etc.は、良し悪しは別にして、権力国家システムや秩序安定体制、物質的豊さ等、何がしかのものを実現してきたと言えますが、この30年間、マスコミは何1つものごとを実現して来なかった。しかも、人類史的にはもちろん、私権時代という限られたスパンで見てもほんの一瞬の輝き(?)だった。
 
 つまり、マスコミとは、私権時代最末期に咲いた徒花と言っても過言ではないでしょう。




長谷暢二
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評価軸の創造⇒伝播

Posted by ななし on 19.2013 記事 0 comments 0 trackback
>充足基調⇒探索基調へ転換した今、普通の人にとっての評価軸は、答えを出せるかどうかの一点にすでに移っているのだと思う。(72736)

視聴率=評価ではないこと。
支持率=評価ではないこと。

スイッチを入れれば視聴率が上がる。例えそれが無思考休息の道具であったとしても…
誰もテレビに期待していない。むしろ答えの出ない探索に疲労し、無思考を求めてテレビのスイッチを何となくつける。そこに一切の評価は無い。答えを期待していない。

小泉の支持率が上がった。投票率は下がり続け、誰も政治に期待していないという現実があるにもかかわらず…

視聴率にしても・支持率にしても、どちらも与えられない評価をスリカエ、あたかもそこに評価が集中しているかのような共認を捏造する、まさに欺瞞に満ちた評価軸である事を認識しなければならない。100%誤魔化しの評価軸であると認識しなければ!

人類史上初の「収束不全」。
評価が与えられるとすれば、それは答え(収束先)を出せるか出せないか、現実を変えられるか否か、その1点に尽きる。誤魔化しの評価軸に翻弄されている場合ではない。現実に立脚した評価軸を正にみんなで共認し創造していく必要がある。

そこに一切の誤魔化しがあってはいけない。
徹頭徹尾現実に立脚した評価軸を、みんな共認の中から創造していきたい。
「答えを出せるかどうか」という評価指標の共認域を拡げていきたい。

ゲン
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傍観者として待つか。当事者になるか。

Posted by ななし on 17.2013 記事 0 comments 0 trackback
>みんなの意識を紡いで、例えば民放各社で何かしらの答えを出す。
その答えが認められれば可能性収束し、時代は移り変わっていく。
マスコミだって、そういう企業に変わっていくんじゃないでしょうか。
(少なくとも、期待はすごくされていると思う。)
(72894 北村さん)

「答えを出す」事はマスコミだけに限らず、どの企業においても期待されることであり、その期待に応えられない企業は衰退していくことになると思います。北村さんの仰るように、確かに探索基調が顕在化し、共認圧力が高まる中で、マスコミも転換する必要が迫られる時が来る可能性も考えられます。しかし、マスコミ問題の本質は、彼らが現在の閉塞の元凶になっているという点ではないでしょうか。

多くの方が投稿されていますが、現在のマスコミの対応は不全捨象の充足基調報道でもって、みんなの探索基調に蓋をするという「答え追求」のベクトルを減速させるマイナス発信しかしていない状況だと思います。

現在、共認形成を担う主要な地位を占める彼らが、答えを出す気が無い傍観者であり、答えを出せないからこそ、マスコミに対する不信感が高まり、社会の閉塞感は強まる一方です。

序列原理から共認原理へ移行したという事は、普通の人達が社会の当事者として共認形成をする可能性が開かれたことを意味します。マスコミの反権力・反体制報道を充足基調の誤魔化しに転換させたのも、庶民の共認圧力によるところが大きく、この事も普通の人たちの共認形成が社会を変えていく可能性を示していると思います。

私達にとっては、これらの状況認識の下で、マスコミという傍観者の発信を受信するだけの二乗の傍観者として不全感を募らせ続け、探索基調の共認圧力が高まるまで、いつになるか解らない「答えを出すマスコミ」の登場を待つか。それとも社会の当事者として共認形成を担い、答えを出していくことで「答え追求」のベクトルを加速させていくかの選択が迫られている状況だと思います。

KOU
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マスコミに代わって共認形成の場を創っていく!

Posted by ななし on 15.2013 記事 0 comments 0 trackback
>マスコミは、もともと答えを出そうという姿勢すら持ち合わせていない、大衆の不全と正面から向き合う気などない、批判するか誤魔化すしか能がない、つまり「傍観者」であるということだ。

そもそも、マスコミの役割は「伝える」ことであり、「答える」ことではないのだ。従って、マスコミは必然として「傍観者」となる。 

ただし、「マスコミが傍観者である」というのは言わば当たり前のことであり、問題の本質は、「マスコミが共認形成の場を支配している」ということだろう。

>●マスコミは、解脱情報を武器にして、大衆を支配観念一色に染脳し続けてきた。それは単にニュース解説etcによってではない。娯楽作品そのものの中に支配観念が様々な形で美化されor正当化されて発信されることによって、大衆は染脳され続けてきた。(マスコミの共認支配)

>万人が属している社会を統合する仕事は、万人によって担われなければならない。それに本来、社会を変革し、統合してゆく仕事ほど、面白い、充実できる仕事は他にない。その大切な社会統合の仕事を、国民に選ばれた訳でもないのに、官僚や学者やマスコミが独占し、自集団の利益を第一にして甘い汁を吸っているという仕組みが、根本的におかしいのだ。そうである以上、当然彼ら夫々の集団の利益第一となる方向に、社会は歪められてゆく。その結果が、どう仕様もないところまで行き詰まった(そして大破局が迫っているにも拘わらず、誰一人解決策を提示できない)この末期状態だったのである。  

 
その末期状態の突破口は、みんな(普通の一般庶民)でマスコミに代わる共認形成の場を創っていくことであり、旧い観念に代わる新しい観念(≒新しい理論)を創っていくことだ。

匿名希望 
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マスコミはもともと答えを出そうとすらしていない

Posted by ななし on 13.2013 記事 0 comments 0 trackback
> 答えを出せないので、不全捨象の充足報道

上記の切り口は、この間のニュース報道に感じる違和感を端的に言い当てていると思いました。

政治・経済、その他の社会問題にしても、本質的な問題に対して、誰も答えを出せないでいる。マスコミは、その事実(=みんなの不全)を捨象・隠蔽するかのごとく、かりそめの充足ネタ、批判ネタを振りまくことに終始している。

しかし、(イラク・北朝鮮問題にしても、経済・年金問題にしても)昨今のニュースのネタが極めて短いサイクルで消費されていくさまを見ると、誤魔化しの限界も既に明らかなように思える。次々とネタを繰り出して誤魔化し(=不全捨象)続けることでしか、マスコミの存在意義を示せないという末期症状に見える。

この現在のありさまは、マスコミの正体を浮き彫りにしつつあるとも言えるのではないか。その正体とは、現実の問題に対して答えを出せないというより、マスコミは、もともと答えを出そうという姿勢すら持ち合わせていない、大衆の不全と正面から向き合う気などない、批判するか誤魔化すしか能がない、つまり「傍観者」であるということだ。

> しかし、潜在的にある探索基調が顕在化し始めたら、明らかに彼ら(マスコミ)は取り残されるだろう。

大衆の「収束不全発の探索引力」によって、傍観者無用の断が下され、マスコミが見捨てられていくのは必然だと思う。


岩井裕介
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充足基調から探索基調への転換

Posted by ななし on 11.2013 記事 0 comments 0 trackback
改めて考えてみれば、’90年頃にいじめが深刻化したのも、’96年頃に性が急速に衰弱したのも、’02年頃に遊び第一が瓦解したのも、全ては、収束不全発の適応可能性(=みんな共認の可能性)への収束に起因する。そして又、充足基調から探索基調への移行も、収束不全発の可能性収束が生み出した必然である。

可能性探索は、今回も
イ:’70年頃にまず解脱収束に向かったが、旧観念に意識を侵され、かつ旧体制に出口を塞がれているので、解脱充足し切れないし、収束不全の答えにはならない。
ロ:そこで、’90年頃、旧観念・旧体制を捨象して、仲間内で(みんな共認)の充足基調に収束した。しかし、社会は旧観念・旧体制の共認で覆われているので、仲間内の充足基調だけでは、収束不全を解消できない(=答えにならない)。
ハ:こうして、’02年頃、私権活力の衰弱の果てに遂に私権観念(自分だけ。社会のことなど関係ないという観念)が瓦解し、頭の上の重石が取れたことによって、真っ直ぐに社会共認の可能性収束先を探索する探索基調に転換した。

社会共認の収束先を探索すれば、改めて旧観念・旧体制を対象化せざるを得ないが、その際、ロの旧観念・旧体制捨象(云わば捨象基調)が足かせとなり、現在はロとハの間で逡巡している状態にある。
しかし、新世代は、はっきり捨象基調から探索基調に移行して、とりあえず勉強(⇒仕事)収束を強めている。しかも、資格や授業は、やりたい事が見つからないが故の、とりあえずの収束先で、その奥にはニッチの可能性を探索する仕事収束の潮流が形成されつつある。

しかし、人類の最大のニッチは、新理論を切り拓く所にある。今、みんなが直面しているのが、統合不在ゆえの収束不全である以上、みんなの可能性探索が、みんな共認収束を経て新理論の構築に収束するのは、必然である。現に、仲間内でのマジ話も、普通のことになってきた。今や、誰もが答えを求めている。

これら仕事収束や認識収束を生み出した源泉こそ、収束不全発の探索基調に他ならない。換言すれば、’02年の収束不全発の探索基調の生起こそ、(仕事収束や認識収束として顕示されつつある様に)まぎれもなく社会の当事者の誕生を告げるものである。
現在、共認形成の場を支配しているテレビ(それは元々、傍観者を代償充足させる為に作られてきた)が、「面白くない」物に成り下がったのも、この収束不全発の探索引力の故(テレビは当事者欠乏を充たすことが出来ないから)であり、深くかつ強力な収束不全⇒探索基調の生起とは、みんなで社会共認を形成してゆく共認社会の最大の実現基盤が遂に姿を現したということなのである。

岡田淳三郎 
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「表現の自由」の欺瞞性

Posted by ななし on 09.2013 記事 0 comments 0 trackback
> マスコミの連中は、「言論・表現の自由」や「国民の知る権利」を声高に主張して、その存在を必死にアピールしているように見える。学者も同様だ。なんだかもっともらしく聞こえるが、その実態は、誰が頼んだ訳でもない「マスコミ自身の表現の自由」であり「マスコミ自身が知る権利」にすぎない。社会のことなど二の次だ。
まさにそうだと思います。
特に、先々週の週刊文春出版差し止めをめぐって雑誌・テレビ・新聞でやかましく議論されているを見て、違和感を強く感じた。

違和感の出所の第一は、問題となった記事が(田中真紀子の長女の私生活がどうこうという)極めてくだらないゴシップであるにも関わらず、憲法や表現の自由云々を持ち出して、さも高尚なことでもあるかのように騒ぎ立てていること。マスコミ自身にとっては重大かもしれないが、それ以外の人たちにとっては、全くもってどうでもよいことだ。

第二に、マスコミ側の主張が、表現の自由に対する国家権力の介入だ、戦前戦中の検閲の復活だ、といった具合に、自らは被害者だといわんばかりの被害者面をしていること。単に時代錯誤であるのみならず、自らが発信者階級という特権的地位にあることに頬かむりした悪質な欺瞞性を感じる。

第三に、マスコミで行われている議論が「言論・出版の自由vs個人のプライバシー」という枠組みであること。いわば、架空観念である「権利」を楯に、権利vs権利を論じているようなもので、そもそもどちらにも根拠がないのだから矛盾するのはあたりまえで、どうどうめぐりの不毛さしか感じない。

第四に、こうした議論に、大学教授・作家・ジャーナリスト・政治家etcの知識人がこぞって参加していること。こういうくだらない議論を延々と繰り返すことでメシを食っているのかと思うと、暗澹とした気分を通り越して怒りを禁じえない。


岩井裕介 
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マスコミと旧観念

Posted by ななし on 07.2013 記事 0 comments 0 trackback
>社会を正確に認識できない観念は、混乱を招き、邪魔になるだけのものでしょう(69224)

マスコミの問題は、旧観念の問題と併せて捉えなければならないと思う。

マスコミは、社会共認を左右するのに十分なシステム・設備・人的資源等々を独占的に有している。そういう意味で、大きな力(=権力)を持っているのは事実だし、故にその使い方、振舞い方が、とりわけ厳しく評価されなければならない。

また、そのようなマスコミシステムを成立せしめている原因構造を考えたとき、時代の変化が必然的に引き起こすところの、認識機能の“迷い”、及びそれを加速させる旧観念の存在が指摘できるように思う。

人の認識機能の作用機序は、単純化すると、「圧力把握→共認形成=観念形成」といった流れで進む。また、共認形成の段階で充足感が伴う点が、その特質でもある。

翻って、現状のマスコミ支配を認識機能の側面から見た際、どうも、その作用機序が逆転している感がある。
すなわち、「共認形成=観念形成→圧力捏造」といった様子であり、この逆転のサイクルを成立させるものとして、圧力把握なき共認充足を可能にし、それを加速する旧観念の麻薬性と、サイクルそのものを実質的に拡大させるマスコミの力(システム・設備・人的資源)があるように感じる。

圧力状況そのものが不鮮明な時代に入り、人の認識機能が機能不全を余儀なくされる背景の中で、両者が人及び社会の統合システムの隙に“つけいって”おり、それが閉塞感を生む原因ともなっている。

三宅秀和 
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発信のプロたちにとって、社会のことなど二の次

Posted by ななし on 05.2013 記事 0 comments 0 trackback
>大事なのは社会を変えることですか?それとも己の身分を守ることですか?

マスコミの連中は、「言論・表現の自由」や「国民の知る権利」を声高に主張して、その存在を必死にアピールしているように見える。学者も同様だ。なんだかもっともらしく聞こえるが、その実態は、誰が頼んだ訳でもない「マスコミ自身の表現の自由」であり「マスコミ自身が知る権利」にすぎない。社会のことなど二の次だ。

国民のためなどと奇麗事を言っているが、なによりマスコミ自身のため=己自身のためであることは明らかだ。彼らは発信する自由や権利が奪われてしまうことを一番恐れている。メシの種が無くなると彼らも生きてゆけなくなる。そこで、彼らは私権時代の旧観念にしがみつき、もはや何も生み出すことができない。

私権意識も衰弱した現在は、マスコミが発信する情報の格差(旨み)もあまり感じなくなった。多くの人はマスコミが発信する情報に踊らされてしまったと感じているのではないだろうか。マスコミの実態を知れば知るほど、もはや私権社会や市場の寄生虫のような存在に思えてくる。

>マスコミの共認支配から脱却して、みんなの潜在思念に立脚し、実感にフィットした新理論を生み出していく。そして『みんなで』共認形成していくことが求められる。

マスコミや学者などの発信のプロは何も生み出せなくなったという事実こそ正に、みんなで共認を形成してゆく本来の共認社会の幕開けを告げるものだと思う。

橋口健一
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マスコミの権力は、世界を歪める

Posted by ななし on 03.2013 記事 0 comments 0 trackback
>『いつの間にか支配されている』。このことがまさに『マスコミが第一権力化した』ことを物語っているのではないでしょうか。

確かにそのとおりだと思います。
以前読んだ、岸田秀氏の戦後についての論評「屈辱と悲しみからの逃亡」に
<敗戦後の日本は、敗戦を終戦、占領軍を進駐軍と呼んだごまかしを始めとして、軍隊を自衛隊、戦車を特車、属国を対等な同盟国、売春を援助交際、税金を公的資金と呼ぶなど、言葉のごまかしだらけである。言葉とは人間の世界把握の様式であるから、言葉をごまかしているということは、世界を歪めているということである>
という一文があり、言葉(観念)は、世界を歪めることができる力を持っていることに思い至りました。

いま、大きく社会を語る言葉(観念)を「情報」という言葉のすりかえで独占しているのはマスコミです。私達は、歪められた世界の中に押し込められていると言うことなのだと思います。歪みの内側からは、歪みが認識できないから、マスコミの権力がわかりにくい。
本当に必要なのは、私達のいる社会を正確に認識できる観念であり、構造認識。社会を正確に認識できない観念は、混乱を招き、邪魔になるだけのものでしょう。

北川和秀
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はじめに反応ありきな路上、はじめに発信ありきなマスコミ

Posted by ななし on 01.2013 記事 0 comments 0 trackback
序列原理から共認原理へと転換した70年以降、普通の人々は旧観念を投げ捨てて潜在思念の実践思考へと転換していったが、旧観念をメシのネタとするマスコミはむしろそれにしがみついていった。

この普通の人々の変化は、マルクス主義や私権観念が現実の役に立たないという現実を前に「みんなはどう思っているの?」という「みんな意識の探索」へと一旦思考を潜在レベルへ後退させた、つまり自己主張=発信よりも「はじめにまわりの反応ありき」へとスタンスを転換させたというふうにもいえる。旧観念が無効になった現在、発信するのならまず相手の反応=潜在思念を探るところから、は真っ当な思考である。

それに対してマスコミは、観念をメシのネタにする存在であり、答えになっていなくても発言は一方的に視聴者に届けられる、視聴者は発言の中から選択するしかないという絶対的な特権性を持つ。だからはじめに反応ありき、そこから発信内容を組み立て直す、という意識がほとんど働かない。一見、「街角の声を拾ってみました・・」と反応を土台にしているかのように振舞ってはいるが、テレビカメラを前にして実感を語れる人は皆無であろう。結局マスコミは、マスコミが発信する上で都合の良い市井の発言をバランスよく選択して「こんな政治家に国を任せられません・・」等と傍観者的発言=思考停止の旧観念そのものを繰り返すだけである。「若者の期待封鎖」にしろ「保守回帰に潜む規範収束」にしろ路上に開かれたなんでやだからこそ見つけ出した状況認識であって、マスコミという仕組みの中で新しい現実が突き止められることはない。(ex10代しゃべり場のようなTV番組が結局、旧世代の旧観念的発言によってマスコミ側はまとめたつもりでも無内容化しているという無残さを見よ!)

先日会ったマスコミ関係者は「マスコミっていったって視聴率第1で、スポンサーのいいなりよ」とよく言う。しかしスポンサーからお金をもらって=職業としてなにごとかを発信するのであるならば、真剣にまずは「まわりの反応はどうか」という潜在思念の実践思考からやり直すべきである。少なくとも路上詩人たちはそういうスタンスでやっているし、なんでやは「みんな意識」を対象化した認識を売り物にしている。できないことではない。それをせずに視聴率をうんぬんするのは、問題を企業に押し付けて、自身の特権性を覆い隠すための詭弁に過ぎない。

はじめに発信ありきからはじめに反応ありきへ・・この転換の出来ないマスコミ人は「現実の役に立たない旧観念を撒き散らし続ける社会閉塞の真犯人」以外の何者でもない。


山澤貴志

 
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