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「表現の自由」の欺瞞性

Posted by ななし on 29.2013 記事 0 comments 0 trackback
マスコミの連中は、「言論・表現の自由」や「国民の知る権利」を声高に主張して、その存在を必死にアピールしているように見える。学者も同様だ。なんだかもっともらしく聞こえるが、その実態は、誰が頼んだ訳でもない「マスコミ自身の表現の自由」であり「マスコミ自身が知る権利」にすぎない。社会のことなど二の次だ。69238

まさにそうだと思います。
特に、先々週の週刊文春出版差し止めをめぐって雑誌・テレビ・新聞でやかましく議論されているを見て、違和感を強く感じた。

違和感の出所の第一は、問題となった記事が(田中真紀子の長女の私生活がどうこうという)極めてくだらないゴシップであるにも関わらず、憲法や表現の自由云々を持ち出して、さも高尚なことでもあるかのように騒ぎ立てていること。マスコミ自身にとっては重大かもしれないが、それ以外の人たちにとっては、全くもってどうでもよいことだ。

第二に、マスコミ側の主張が、表現の自由に対する国家権力の介入だ、戦前戦中の検閲の復活だ、といった具合に、自らは被害者だといわんばかりの被害者面をしていること。単に時代錯誤であるのみならず、自らが発信者階級という特権的地位にあることに頬かむりした悪質な欺瞞性を感じる。

第三に、マスコミで行われている議論が「言論・出版の自由vs個人のプライバシー」という枠組みであること。いわば、架空観念である「権利」を楯に、権利vs権利を論じているようなもので、そもそもどちらにも根拠がないのだから矛盾するのはあたりまえで、どうどうめぐりの不毛さしか感じない。

第四に、こうした議論に、大学教授・作家・ジャーナリスト・政治家etcの知識人がこぞって参加していること。こういうくだらない議論を延々と繰り返すことでメシを食っているのかと思うと、暗澹とした気分を通り越して怒りを禁じえない。

岩井裕介
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メディア・リテラシー・イデオロギー

Posted by ななし on 29.2013 記事 0 comments 0 trackback
あらかじめ用意された餌を選ばされる奴隷の教育、メディア・リテラシー教育というものが、教育現場で盛んに行われています。

これは、表面的には
「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力をさす。また、そのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」

などと定義されていて、あたかもメディア支配から市民が脱却できる思考の道具のように謳われています。しかも、誰も反対できないかのような美辞麗句の並んだ観念によって、さっそくと教育現場に浸透しつつあるようです。

これは、現実に役に立つかどうかの視点が一切ない教育界が、人権イデオロギーやジェンダーフリーイデオロギーに次々と感染していったのと非常に似通った状況に見えます。

メディア・リテラシーは、自立した個人が主体的にメディアを批判的に読み解くということが謳われていますが、こうした古臭い個人主義の狂信的イデオロギーに基づく欺瞞観念は、メディアの洪水の中で思考停止する個人を生み出すことしかありません。

これは、相対主義-個人主義をベースにした-を極端にしただけのものであって、何かを生み出すとか、逆に旧観念を捨て去ろう、という、新しい時代に向かおうとしている人々を去勢し、へたり込ませるだけの、犯罪的なイデオロギーではないでしょうか。

まずは、旧観念を捨て去る、-テレビを消す・古い本を捨てる-そして事実がどこにあるのか-に向かっていかない限りは、現実を直視した事実認識とは縁遠い「情報」ばかりで肥え太った人間でこの世があふれかえることに非常な危機感を覚えます。
 
渡辺卓郎
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本物ほどマスコミに出ない

Posted by ななし on 27.2013 記事 0 comments 0 trackback
私自身もマスコミの怖さは
>”みんなが思い込まされる怖さ”(68983)
にあると思う。昔、ある新聞に「先生が生徒にハエ入りの給食を食べさせた!?」というような見出しの記事が載ったことがあった。これだけを読んだ人は、生徒にハエ入りの給食を食べさせるなんてひどい先生がいるもんだと思うだろう。しかし、実体はというと、この食べさせられた生徒というのが実はいじめっ子であり、別の生徒の給食にいたずらでハエを入れたのが事の発端だったのだ。それを見た先生が怒り、いじめっ子にその給食を自分で食べてみろと言った。
食べろと指示したところはもちろんハエが乗っていないところであり、先生自身もその給食を食べている。結局、いじめっ子は猛省し、二度としないと約束することでその給食を食べずに済んだ。この金八先生のドラマにもなりそうな話が、新聞記事では「その給食を自分で食べてみろ」という言葉(事実)だけが取上げられ、捻じ曲がった事実として発信されたしまったのだ。

 なぜ?そちらの方が売上げが伸びるからだろうか。

今はほとんどマスコミの前に姿を見せない中田英寿もかつては快くマスコミのインタビューに答えていた。しかし、自分がしゃべったことに勝手な脚色をつけられ、サッカー以外のことも好き勝手に記事にされるうちに、彼はマスコミに、いくら話しても事実を書いてくれないという不信感を抱くようになった。それから彼はマスコミに対しそっけない態度をとるようになった。しかし、マスコミはというと自分達に原因があるとは思わず彼に対し、「生意気だ、天狗になってる」と叩きはじめた。そして彼はマスコミの前から姿を消した。
 
実はマスコミ離れはどんどん進んでいる。そして本物ほどマスコミを嫌う傾向にある。マスコミを通じてではなく自分の目、耳で事実を掴む時代が来ている。


加藤弘行 
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いつの間にか支配されてしまっている・・・

Posted by ななし on 25.2013 記事 0 comments 0 trackback

『マスコミが第一権力化したのは何でだろう?』というなんでや屋での問いに対して、「実感としては何となくマスコミに踊らされてるような感覚はあるけど、第一権力化してるってまでは思わない」そもそも「第一権力化って?」とういう反応がよく返ってきます。

僕自身も、なんでや劇場での議論を通じて、マスコミによる共認支配の恐ろしさを初めて実感しました。

そもそも「第一権力化した」ということにみんなが気付かないほど、いつの間にかマスコミの共認支配は強まっている。これは本当に恐ろしい事だと思います。
『いつの間にか支配されている』。このことがまさに『マスコミが第一権力化した』ことを物語っているのではないでしょうか。

マスコミのいい加減さに対して腹を立てる人も出てきているとは思いますが、それが政治家よりも軍隊よりも資本家よりも、権力を握っているということまではおそらく感じていないでしょう。

マスコミの共認支配が閉塞の元凶、そして真犯人である。そして今攻撃されるべきなのはまさにマスコミである、という認識を広めていく事、それがまず突破口になると思います。

それと同時に、

>普通の一般庶民がマスコミに変わって自ら共認の場を作りそこに参加し、現実の実感を拠り所に現実の役に立つ新しい観念を生み出すこと(68890吉川さん)

マスコミの共認支配から脱却して、みんなの潜在思念に立脚し、実感にフィットした新理論を生み出していく。そして『みんなで』共認形成していくことが求められる。

それらを同時に成し遂げられるのが、なんで屋なんだ!と思います。


浅田祥幸
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新しい認識こそが人々をマスコミの支配共認から解放する

Posted by ななし on 23.2013 記事 0 comments 0 trackback
>社会を遠く感じる、社会に対する変革可能性が感じられない原因のひとつは、マスコミの表現にあると思う。実際、不可能視・傍観的姿勢の強い人は、「社会」と言ったとき反射的に、マスコミが話題にしている諸問題のみを連想していることが多い。(68050 岩井さん)

に同感です。これまで多くの人々は「社会」や「社会変革」に対しては、どこまでも「遠い存在」として捉えていたように思います。今や誰にも踏み込めない聖域と化した家庭。その家庭でさえも個室化へ。そして、人々の意識は個々バラバラに解体されてしまいました。そんな中で、テレビを中心とするメディアは、日々の出来事を「ニュース」として発信し続けています。そして、人々は新聞を読み、テレビの「ニュース」を見ることで、少なくとも現実を知り、社会を意識する。そうしてどこかで社会と繋がっているという安心感を得ているような気がします。しかし、ここには、人々が陥りやすい盲点が隠されていることに、私達は気付かなければなりません。

>マスコミが表現しているのは、多く見積もってもせいぜい、現実社会のごくごく一部に過ぎない。例えば、ニュースで扱われる事件報道は、現実の中でのごく一部の現象を取り出して見世物として脚色したものであり、その背後にある、普通の人々の生活実感や潜在意識は捨象されている。(同上)

のように、「マスコミから発信されるものが、本当に事実なのか?」ということが重要です。マスコミ界でよく言われる『犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる』ということ。これは、マスコミにとっての「ニュース」とはどんなものなのかを端的に表現しているのではないでしょうか?
マスコミは、それを生業にしているので、まず「人々の耳目を集める」ことが第一義になります。テレビでは視聴率、新聞では購読率、書籍ではベストセラー、・・・・etc.このように、人々の興味関心を惹くためには、例えて言うならば「犬が人を噛む」というあまりにも当然な事実は何ら価値のないこと。「人が犬を噛む」といった尋常では起こりえないことが起った場合それが最大のニュースバリューになるわけです。そして、このような例外的な事象をことさら大きく取り上げ、日々繰り返し報道していく。そうして、人々はあたかもそれが現実かの如く錯覚していく。マスコミによる共認支配の恐ろしさはこのあたりにあるように思います。

しかも、そのマスコミを牛耳っているのが、

>大手新聞社、大手テレビ局各社毎の社員数は、数千人です。テレビ業界全体で見ても、3万人と言われています。その内容は、視聴率という偏った指標によって選別されています。全人口の0.1%に満たない、限られた職業の人々が、地方の隅々まで共認のネットワークを独占しているのです。(67393 阪本さん)

 このように、マスコミが極一部の一握りの人々から発信されているということ。更に彼らから発信されるものは、ありのままの事実というものからは遠く、むしろ普通では滅多に起らないことがニュースバリューであり
、そこに焦点を当ててことさら喧伝していくという一方通行の支配共認です。これらから考えても、現代の第一権力化したマスコミが、いかに極一部の人々によって牛耳られ、普通の人々の意識を現実(事実認識)から引き離しているかが分ります。そうして、人々はそれらに無意識の内に洗脳され、「社会」を遠く感じ、「社会変革」への不可能視からの脱却を阻んでいるのではないでしょうか?

 そうして改めて新しい認識(構造認識)を考えた時、それが現実の中で生きる生活者としての、普通の人々の潜在思念に立脚したものであること。また、あくまでもありのままの事実追求であり、その事実を構造化した認識は「みんなの共認」を羅針盤にしているということ。更に、「何でや露店」という店主と客が双方向性をもってお題をもとに実感を出しあう場があり、そして更には、「何でや劇場」で事実を徹底的に追求する場も
用意されている。・・・・・・この新しい認識形成の場の登場をもって、人々がマスコミの共認支配の呪縛から解放される日が、刻々と近づきつつあることを予感しています。

大木康子
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マスコミが表現しているのは現実の「社会」ではない

Posted by ななし on 21.2013 記事 0 comments 0 trackback
社会のあらゆる制度がガタガタになり、閉塞感がこれだけ高まっているにもかかわらず、「社会の問題を考える」「社会を変える」と言ったとき、その「社会」というものを、どこか遠いもの、自分自身と繋がらないものとして感じてしまっている、あるいは、社会に対して「どうにかならないものか」(≒誰かどうにかしてくれないものか)という、ある意味で他人任せ・他人頼みの傍観者に止まっている、そういう現状をよく聞く。

社会を遠く感じる、社会に対する変革可能性が感じられない原因のひとつは、マスコミの表現にあると思う。実際、不可能視・傍観的姿勢の強い人は、「社会」と言ったとき反射的に、マスコミが話題にしている諸問題のみを連想していることが多い。

しかし、マスコミが表現しているのは、多く見積もってもせいぜい、現実社会のごくごく一部に過ぎない。例えば、ニュースで扱われる事件報道は、現実の中でのごく一部の現象を取り出して見世物として脚色したものであり、その背後にある、普通の人々の生活実感や潜在意識は捨象されている。それに、政治・経済の話題にしても、新聞・テレビニュースを観ていて感じるのは、結局、一部の人々(=統合階級、専門家)の「内輪話」をおおげさに喧伝しているだけではないのか、ということだ。そうしたマスコミで表現された社会を足がかりに「社会」を考えていては、不可能視・傍観者に止まるほかないのではないか。

それに対して、今はじまっている、みんな期待に応える共認運動。ここでいう「みんな」とは、マスコミの表現する社会とは全く立脚点が異なる、新しい社会観だ。路上こそ現実、自分自身が当事者として繋がれる新しい実在の社会なんだ、ということをなんでや露店でも発信していきたい
岩井裕介
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マスコミは社会・政治に対して何を成すようになったのか

Posted by ななし on 19.2013 記事 0 comments 0 trackback
> 革新政権とタレント議員の'70年代から、'80年代の片時の社共躍進後、前述の'90年代以降ガタガタ政権となって、マスコミの第一権力化が歴然となってきたと思います。
(67043)

政治家からマスコミへの権力移行を顕著に示すものとして、80年代後半~90年代の、テレビニュース・報道番組の変化が挙げられるのではないかと思う。

※主要報道番組の放送開始年
85年 ニュースステーション
87年 朝まで生テレビ
   サンデーモーニング
89年 サンデープロジェクト
   News23
91年 ウェークアップ!
92年 報道2001

80年代以前にも、その前例ともいえる「ニューススコープ」(62年~)という番組があったが、報道内容が佐藤栄作(当時首相)の怒りをかい、自民党に事実上潰されたといわれている。67046にあるとおり、当時は、政治のほうがマスコミより強かったことの証左である。

また、これらの番組が登場する以前は、ニュースといえば、NHKを除けば、長くてもせいぜい15程度で、アナウンサーが淡々と原稿を読むものであったように記憶している。社会(政治・経済)の話題は、一部の人だけが関心を寄せるもので、一般大衆には向かないもの、という暗黙の風潮があったのだと思う。

それが、80年代後半~90年代に、冒頭に挙げたテレビニュース・報道番組が登場し、かつ高視聴率を獲得する。その背景には、大衆の社会的関心の高まり(社会探索)と娯楽の衰退という状況変化があり、当時はそうした社会的(政治・経済)関心に応えることがマスコミに期待されていたのだと思う。

(NHKの世論調査によると、テレビに「いちばん多く放送してほしい番組」として、
85年 娯楽41.1% 報道40.0%
90年 娯楽37.9% 報道44.1%
95年 娯楽36.9% 報道45.5%
という具合に推移しており、80年代後半から90年代にかけて、実際にテレビにおける映画や歌謡番組の比率は半減している。)

そして、これらの番組を通じて、マスコミは政界に圧倒的な影響を与えるまでになってゆくのだが、政治家とマスコミの権力の完全なる逆転という点では、93年の総選挙が象徴的だったと思う。

この93年の総選挙で、細川護煕、羽田孜、武村正義が新党三人組として躍進し、非自民政権が誕生した。彼らが、連日のようにテレビに登場し、中身(政策・論点)はさておき、古参の自民党議員を仮想敵として、それとは反対の清潔そうな、何も悪いことをしそうにないイメージを繰り返し振りまき、そして、当時反権力的気分の強かった大衆の支持を得ていったことを記憶している。

(ほかにも、海江田万里、栗本慎一郎、高市早苗、簗瀬進ら、頻繁なテレビ出演で知名度を獲得し当選した議員も多かった。)

さらに、このことに関して、当時のテレビ朝日の報道局長が、「非自民政権の誕生が望ましいと考え、それにそって報道した」と発言して物議をかもしたが(いわゆる椿発言)、こうした発言がなされること自体、第一権力の座が完全にマスコミに移っていた証左と考えられる。

こうした変化の中で、注目すべきは焦点は、政治家に代わって第一権力化したマスコミは、一体、社会・政治に対して何を成すようになったのか?という点だと思う。

それは、結局のところ「政治の見世物化」ではないか。

大衆の社会意識の高まりを背景に登場した報道番組も、結局、政治を見世物として面白おかしくいじくりまわすことに終始しているようにしか見えない。そして、あらゆる社会不全は解決の糸口さえ提示されぬまま、状況は悪くなる一方である。こうした傾向は、近年の小泉・田中真紀子に関するワイドショー的報道にさらに顕著である。

こうした「見世物化」により、社会と人々の意識をもてあそび、傍観者を次々とつくり出していっているのがマスコミの正体ではないか。

※参考
『日本型ポピュリズム』 大嶽秀夫著 中公新書
岩井裕介
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必要とするものは現実であり虚偽ではない

Posted by ななし on 17.2013 記事 0 comments 0 trackback

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面白くはない。でも、とりあえずスイッチを入れてしまうのは何故?

Posted by ななし on 15.2013 記事
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みんなで認識を作っていく楽しさは何にもかえられない!!

Posted by ななし on 13.2013 記事 0 comments 0 trackback
最近、テレビは面白くないと感じていた。

でも、交流会に参加するようになって、さらにテレビは面白く
ないと感じるようになった。

それは、テレビで得られるものはないとなんとなく思っていた
けれども、それをみんなで話す中で明確に気付けたことが一つ。
テレビは何も答えなんて出してくれないんだって。。

もう一つは、‘みんな’で考えて新しい認識を作っていく楽し
さ、そしてその大きな可能性に気付いてしまったからだと思う。

交流会に参加するようになって、すごくイキイキとしている自
分がいる。
いろんな人が集まって、みんなが同じことを思ってるんだって
ことに気付き、みんなで実感にあう言葉・認識を作っていく。
そして、道を歩いてる人達もきっと同じことを思ってるんだろ
うな~と可能性がどんどん大きくふくらんでいく。どんどん輪
が大きくなっていくんだろうな~って。。
本当に楽しい!!!

この楽しさを知ってしまってから、テレビを見ていた時間も
‘るいネット’の時間へと自然とかわってしまった。
みんなが今何を考えているのかの方が気になって気になっ
てしようがない。

みんながこの楽しさを知ってしまったら、ほんとにテレビって
いらなくなっちゃうんだろうなって思います!!

宮崎未帆
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情報の上流というマスコミの存在基盤とその脆弱さ

Posted by ななし on 11.2013 記事 0 comments 0 trackback

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女がみんな共認の場を作ってゆく?

Posted by ななし on 09.2013 記事 0 comments 0 trackback
>本能原理から共認原理への転換の象徴が『マスコミの第一権力化』だとしたら、『女の第一権力化』が、共認支配からみんな共認への転換の前兆かもって思いました。(59582)

財布を握っているのも、主にテレビを見ているのも女(ヒマな主婦?)。だから、テレビは視聴率を上げる為に女受けする方向に収束するし、CMも女受けする物でないと売れなかったりするので、第一権力たるマスコミを動かしているのは女なんだと思います。
でも、いかに女好みの内容やCMを流しても、生まれながらにしておしゃべり存在である女達が、マスコミの一方的な共認支配に、満足できる訳がありません。どこでも交流会や交流会でも、男より女の方が積極的で元気、そして充足度も高い事からみても、女の意識はみんなで直接に交流し共認を形成していく『みんな共認』に転換していくように思えます。充足度の低いテレビを捨てて、充足度の高いみんな共認へ移行してゆくのは当然の流れでしょう。
これから女達が、どんどんマスコミから離れてみんな共認(の場)へ行ってしまうと、社会も変わらざるを得なくなるんじゃないかなと思いました。

岡田理恵
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事実思考のすごさ

Posted by ななし on 07.2013 記事 0 comments 0 trackback
マスコミの流す情報にイライラしたり、閉塞を感じる原因を考えてみると、TVから流れる情報の多くが、「こうなったらいいな~」という理想しか語られていなくって、「なんでだろう?」という実感を全く無視しているところに一つの原因があるように思います。

例えば「少年犯罪」が多くなると決まってコメンテーターが言うセリフは「親のしつけが大事」「学校と地域の連携が重要」。でもこれって「親のしつけがもっとしっかりしたらいいのにな~」「学校と地域の連携がもっとしっかりすればいいのにな~」といった理想を語っているだけで、それに付随した特集なんかが組まれていたとしても、この理想を実現しようと試みてる地域や、いまどき珍しくなったしつけに厳しい家族の話題だったり。「しつけがしっかりできなくなったのは何でだろう?」や「学校と地域の連携が薄れていったのは何でだろう?」といった、普通の人が感じる普通の実感について扱われているものをTVで見たり聞いたりした記憶はほとんど無い。本屋に行くと「しつけの方法」のような、理想に近づくためのHOW TO本がいっぱい並びだす。

「こうなったらいいな~」っていう思いは、一見実感のように思えるけど実は現実に目をそむけた願望の枠を超える事ができなくて、人々を無根拠な理想の実現に駆り立てる。「こうなったらいいな~」から「こうならないのは何でだろう?」ってちょっと意識を変えるだけで、個別に捉えていた事象も繋がりだして、問題解決の糸口が少しずつ見えてくる。

「なんでだろう?」っていう実感をみんなで出し合って追求していくことは、自分が今まで思っていた以上にすごい事なんじゃないかと思いました。

KOU
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テレポリティクスの危険性

Posted by ななし on 05.2013 記事 0 comments 0 trackback

> そう考えると共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。
(『マスコミの第一権力化』59487)

指摘されているとおり、特に、政治に関しては、テレビへの露出度で政治家の選挙当落が決まってしまうほど、マスコミによる世論支配は決定的になっている。この傾向は、ここ10年くらいで、ますます強まってきているようにも感じる。


結論から言えば、この、マスコミによってつくられる「テレポリティクス(テレビ政治)」は、「全般的な思考停止」という、極めて危険な状況を作り出しているのではないかと思える。

例えば、昨今の政治の中心テーマである「構造改革」をめぐる論議もそうである。世論の支持を得ているかに見えるが、この言葉が示す意味内容は、大体において、非常に曖昧で、具体的イメージが共有されているとは言い難い。現在ほとんどの政治家が何がしか「改革」を唱えているが、スローガンだけが(ご都合主義的に)ひとり歩きしている感が否めない。

問題は、具体的な中身の論議(原因・構造解明)がほとんどなされないにも関わらず、「改革」という言葉だけが、価値観念化して(暗に正しいこと・必要なものという含意を伴って)流通してしまっていることではないかと思う。

具体的な中身がないのだから、当然、現実は変わりようがない。そこで、また、改革が進まないといって特定の政治家・官僚を批判したり、(中身もなく)改革の必要性を繰り返したりするわけだが、結局、ここ10数年、政治は、何も生み出さない堂々巡り=全般的な思考停止状態に陥っていると言ってよいのではないか。

つまり、マスコミによってつくられるテレポリティクスは、安直なイメージを価値観念として拡大・流布させ、肝心な中身の議論を空洞化させる構造を持っているのではないか。そして、その構造が、現実に何が問題なのか、という状況をますます見え難くし、事態の混迷度・閉塞度を加速させているのではないか。

岩井裕介 
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マスコミの第一権力化

Posted by ななし on 03.2013 記事 0 comments 0 trackback
しかし、序列原理の前提にあるのが生存圧力であり、それを克服したことで、漸く統合原理を本能原理から共認原理に進化させる可能性、根本的な共認原理の実現可能性が開けたと言えるのでしょう。(59436石橋さん)


生存圧力を克服した事によって社会の統合原理が本能原理から共認原理へと転換したというのは、日本でいえばマスコミが70年代から力を持ち始めた事と非常に重なります。

70年以前の日本は土山さん(59310)が仰るように飢えの圧力という生存圧力を基に権力者から末端まで身分意識序列意識というものは絶対的なものとして働いていました。時の池田勇人首相が「貧乏人は麦を食え」という現在では暴言とも取れる発言をしても、殆どの人は否が応もなくそれを受け入れていましたし、有力者や権力者に妾がいるのは当たり前のように共認されていたというのも当時の序列意識が絶対化している事を物語っているように思います。またこの頃のマスコミ=ブン屋といえばゴロツキ、マユツバの集まりであり、政治家などの権力者に飼いならされている存在だったと思います。

しかし70年貧困が消滅し、生存圧力を克服したとたんにこの絶対的な序列意識が音を立てて崩れていったように思います。70年当時の田中角栄首相も初めはマスコミに家を建ててやるなどして懐柔していましたが、最終的にはロッキード事件で失墜させられたのを皮切りに、その後の宇野首相の妾によるスキャンダル暴露など有力者が悉く力を失っていった事が序列崩壊を端的に現しているように思います。

そういう意味では70年貧困消滅というのは社会の統合原理が生存圧力を基盤とした本能原理(=序列原理)から共認原理へとパラダイム転換した時代であるといえそうです。もう少し詳しく言えば、誰もが認める事のできる観念を共認していくことによって社会が統合される時代に変わったのだと思います。そう捉えるとその共認形成の要にいるマスコミが70年から急速に力を持ち始めた事とも合致します。それまでのゴロツキとは違いマスコミは誰もが憧れる立場に変わっている事も象徴していますし、現在ではマスコミによって政治家が決まっているといっても過言ではないくらい力を持っています。
そう考えると共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。

喜田育樹
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“マスコミは国民の目となり耳となる”は共認支配のカムフラージュ

Posted by ななし on 01.2013 記事 0 comments 0 trackback
表現・報道の自由を謳うマスコミがもっとも敏感に反応し敵視しているのが「『有害情報』対策法」や「個人情報保護法」などの情報に関する規制法案ではないでしょうか。“人権”意識の代弁者然としているマスコミが人権擁護を旨とする立法行為(およびその立法府)に反発するのもおかしな話ですが、これを共認支配をめぐる権力闘争であるとみれば合点がゆきます。

法律を制定する、ということは人々の社会活動を律する事柄を制度として共認しようということです。つまり共認に基づく社会統合の要が立法府にあるといってよく、その統合の要(権力の座)を巡ってマスコミが正面から敵対しているという構図が見てとれます。そして今ではマスコミの報道次第で政治家生命が絶たれることは珍しくなく、当のマスコミが人権派を後ろ盾にした最大の権力体であることは確かでしょう。

「国民の目となり耳となる」というマスコミのお題目も、彼らの得意な旧観念を駆使して“国民の目と耳をふさいでいる”といったほうが正しく、そうして共認支配の第一権力の座についている事実をたくみに偽装しているような気がします。

私権の力がもはや力たり得ず、旧来の社会構造がガタガタになってきている最中のマスコミの台頭は、すでに社会の統合原理が私権という“力”から認識の発信・共有という“共認”へと移行してきていることを意味しています。と同時に旧観念しか発信しないマスコミが共認支配の権力を握ることで社会の閉塞・崩壊がますます進行しているのも事実です。

マスコミの正体をしっかり見極め、旧観念に変わる事実認識の必要にみんなが気づくこと。現実の閉塞からの出口はそこから開けてゆくのだと思います

阿部和雄 
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