うやむや中毒

Posted by ななし on 30.2013 記事 0 comments 0 trackback


>「うやむや」の大御所が「旧観念」って考えるとテレビも新聞もネットも学者も政治家も全部つながる。僕らが情報を受け取るツールはうやむやだらけになっていることも明白。
 この「うやむや」を真っ向から切ることが今求められてるんだと思う。(59165)

「有耶無耶」:物事が有るか無いかはっきりしないさま。
       また、態度や物事の始末などが、あいまいなこと。
            (小学館 国語大辞典)

平川さんのおっしゃるように、朝から晩まで「うやむや」に浸りきっているような気がする。
そこには「誰かが何とかしてくれるだろう。」という気持ちがつきまとっているのだろう。

新聞を読んだり、テレビをみていても何もすっきりしない。何か後ろめたさを感じている。

「うやむや中毒」にかかっているまわりにも自分にも腹が立ってくる。
この辺でたち切らないと、「中毒」では済まなくなる。

「うやむや」をひとつひとつたち切るために、ひとりで悩むのではなく皆で共同作業していける場として「交流会」が開かれている。

匿名希望
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自分で考える意味。そしてそれがないテレビの世界。

Posted by ななし on 28.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビがすごく見たいと思うことがたまにある。決まって、大学の課題やバイトがとても忙しく、家に帰っては寝るだけという生活を送っているときだ。別に見たい番組が特にあるわけではない。面白いことを期待しているわけでもない。単にボーっとしたいという理由からだ。私にとって、テレビを見るとはボーっとすることの象徴である。それほど、テレビを見るには頭を使っていないと思う。
 
人間は日常生活において、基本的にいつも頭を働かせている。例えば私自身。朝起きて今日の時間割を思い出し、着る服を選び、まつ毛が上がらないことに悩み、お昼の学食のメニュー選びに迷う。そして、友達との会話。ひとつの言葉からどんどん話がひろがっていく。自分の頭で考え、言葉をまとめる。友達がまたそれに反応する。少しも気が抜けない。それがとても面白い。
 
 ところがいったんテレビをつけると、ものを考える必要はほとんどなくなってしまう。それは、テレビが全部筋書きのお膳立てをしてしまっているからだ。脚本が既にあり、番組の枠組みが決まっている。視点もカメラの映す映像という固定されたものだ。内容もそうだ。繰り返し流される同じ映像に、画面を埋め尽くす字幕、出演者が喋るいいかげんなコメント。最後には、ナレーターが適当に内容をまとめて終わり。全て、テレビの世界で自己完結してしまっているのだ。そこに見ている私達の立ち入る隙はないし、またそんな気も起こってこない。
 
 確かにテレビを見ることは楽だ。でも、そこからは何も生まれてこない。
 
 考えるということは、そこに感情が生まれるということだと思う。そして、今私達が求めているのは、単なるモノや情報ではなくて、心を動かしてくれるものだ。その対象は自分達で考えて、手探りで探していくしかない。それなのに自分で考えさせてくれない、心を動かさない。そこにテレビが面白くない理由があるのではないだろうか。
 
 行動範囲が限られていた子供の頃は、テレビ自体が刺激だった。でも大人になった私達は、自分の意思で好きなところに脚を運び、興味の対象を発見することができる。仲間と居場所を自分で選択できる。それが大人のしんどさであり、楽しみだという気がする。どこまで行ってもリアルな本物の人生を前に、作られたテレビの世界に勝ち目はない。

高橋朋子
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テレビゲームが面白くない理由

Posted by ななし on 26.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビが面白くない理由を、テレビゲームが面白くなくなった理由から考えて見ます。かつてテレビゲームは、一時の「ファミコン」の人気に代表されるように、娯楽の王者でした。しかし、技術の進歩によって、遥かに美しい画像や、遥かに複雑な内容を表現できるようになったにも関わらず、テレビゲームの人気は落ち込んでいるようです。

かつてのテレビゲームは、拙い画像で単純な内容でありながらも、その世界の中で自由に行動し、能動的に動き回ることができました。しかし今のテレビゲームは、全てがそうではありませんが、単にある物語を提示しているにとどまっているようなのです。それは、テレビの姿と同じです。それは、テレビゲームがただの「テレビ」になってしまったと言ってもよいでしょう。それが面白くないと言われているのであれば、そこにテレビが面白くない理由があるはずです。

その中では、私たちはただの傍観者にとどまります。虚構の世界に入り込むことができたとしても、その一方的な展開についていく事ができず、興味を失います。面白いはずがありません。

さらに現在のテレビでは、その世界に入り込むことすら困難です。なぜならそこに現れる人物や、その設定が、あまりに現実とかけ離れているからです。それらを作っている人々の観念が、現実からは遠い所にあるからです。一方通行のコミュニケーションにおいては、発信者との認識のずれは致命的なものとなります。

大盛和也 
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妄想の城を壊して

Posted by ななし on 24.2013 記事 0 comments 0 trackback
私は最近テレビを見なくなった。私の知人もテレビを見る機会が極端に少なくなったという。これは単に見る暇がなくなったという理由ではない。見たい(面白いと感じる)テレビがないからである。

私権時代に人々が求めたものは、辛い現実世界からの逃避、つまりは虚構の世界である。そんな時代に繁栄したテレビとはつまり、現実とかけ離れた虚構の世界である。虚構の世界は、人々の心の中に妄想の城を建てる。そして人々は妄想の城に酔いしれていった。なぜならそこは現実の痛みも辛さもない理想の世界だったから。しかし私権社会が崩壊するにしたがって人々の価値観も変化し、今までの虚構の世界では充足感を得られなくなってきた。そして事実を追求した現実に使える観念(現実的な観念)を求め始めている。そんな時代においてもテレビは、虚構の世界を一方的に発信し続けている。これでは人々が面白くないと感じ、離れていくのは当然の結果である。

今、私たちは妄想の城を壊して次の時代へと移行しようとしている。
その兆しが、私権時代の象徴『テレビ』の面白くなさに現れているのではないだろうか。

三浦弘之
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報道の自由,知る権利

Posted by ななし on 22.2013 記事 0 comments 0 trackback
国民の知る権利に応えるために,報道機関には,表現・報道の自由が保障されなければならない,という.

私達は,国民である前に人間だ.
いつのまにか,国という制度下の国民として,知る権利が与えられ,報道機関はそれをたてに,特に知りたくもない報道,番組を垂れ流しているし,無駄が多すぎる.ワイドショーなんてその典型だ. (タマちゃんを知る権利,とか,他人の不倫を知る権利っていうのがあるのか?そんなものを報道する自由って必要なのだろうか?)

社会的強者である報道機関が主張する,報道の自由によって,人間的な生活を脅かされる人がたくさんいる.
それに,国が弱くなると,強い国の報道の自由を押し付けられてしまうことだってある. (イラク国営放送の報道の自由はアメリカの報道の自由の前に押し潰された)

国に与えられた知る権利を大事にして何かを要求したり,報道の自由を押し付けるテレビに期待するのは,もうやめて,仲間と手ごたえのある何かをつかむため行動に出る人々の動きに,人間性を感じるし,可能性も感じる.

テレビが面白くない,という実感は,国民としてではなく,人間としての意識の変化からわいてきているのだろう.

やすにし
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みんな期待に応える場では、全員が供給者=需要者

Posted by ななし on 20.2013 記事 0 comments 0 trackback
共認域の形成において、供給者の登場がそのカギになることは、私も全くその通りだと思います。しかし同時に過去の宗教や芸能と、現在のみんな期待に応える共認域の形成の戦いとの違いも意識しておく必要があるように思います。
古代宗教や近代思想は、私権の絶対性に対する「実現不可能視」→「頭の中だけの代償充足の必要性」という人々の潜在期待を受けて、供給者=教祖や思想家が登場し、彼らとその弟子達が布教していく、という形で欠乏が顕在化し信者が組織され共認域が形成されていく、という過程を辿ります。ここにおいて特徴的なのは一部の供給者と大多数のそれを受容するだけの大衆=信者という構図です。つまり供給者と需要者の分裂です。

おそらくそれが必然化する理由は次の2点だと思われます。一つは大多数の大衆は日々の私権の獲得(生産労働含む)だけに手一杯で、所詮は代償充足に過ぎない供給内容=思想内容を考え出すような時間も余裕も無いこと。加えてこの普遍期待に応えるためには(共認闘争に勝つためには)その中味=質が要求され、(半)専任化が必要とされたことです。
更にその後、信者が多数になり社会共認に決定的な力を持つようになってくると、それは教団や大学などの形で制度化され、それを専業としてメシを喰っていく階級が登場します。ここにおいて共認内容を獲得することは私権=身分の獲得と一体化され、需要側は信者や学生として一方的に組織化されるだけで、供給者と需要者の分断は完全に固定化されていきます。
芸術・芸能は音楽や絵画スポーツなど様々な代償充足の様式をもっており、夫々が専門分化されているという違いはありますが、供給者の登場→組織化→専業化というプロセスや、供給者と需要者の分断という構造とそれが必然化される理由は、思想とほぼ同じ理由と思われます。

それに対して、現在の適応不全に基づく「みんな期待」に応えることを巡る共認域の形成は、過去の思想や芸能と決定的に違う点が存在すると思われます。それは一つには、過去のそれらが実現不可能視に基づく代償充足の欠乏に過ぎなかったのに対して、今回は「何とかしようとする」当事者欠乏であること。また別の言葉でいえば、過去人々は私権課題に全的に縛り付けられることによって、当事者=供給者の道をほぼ封じられていたのに対して、私権の衰弱によってそれが解放されたことです。つまりこの二つの条件から、人々が供給者であり需要者でもあるという過去と全く違う構造が可能になるという点です。

つまり、過去の共認域の縄張り闘争が、供給者の組織化に加えて、信者や観客などの需要者の組織化という課題があり、共認域の拡大とは専ら主要に後者を意味していたのに対して(この点では市場における供給者も同じ)、現代の共認域の縄張り闘争は専ら供給者=需要者の組織化一点に課題が集約される点が決定的な違いです。つまり共認域の形成とは、最終的に供給者の組織化一点に収斂します。
しかしこの点は同時に新たな課題も発生させると思います。つまり過去の供給者達が普遍期待に対応させるべく質の高度化の為に専業化していったように、現在の共認域の獲得においても、質=中味の上昇の為に半専業化(副業化)若しくは供給内容を巡っての高度化競争→質を巡っての精錬・陶冶の仕組みが要求されると言う点だと思われます。

北村浩司 
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市場社会に組み込まれた装置=テレビの不全

Posted by ななし on 18.2013 記事 1 comments 0 trackback
民放テレビ局の視聴者は,消費者になることを,期待されているのではないか?
民放は,企業の広告宣伝費が主な収入源である.
企業は,広告宣伝費というコストを支払い,視聴者が消費者として,市場で自社の商品,サービスを購入してもらえることを期待し,実現できれば収益を得る.
企業にとっては,何よりも,視聴者から消費者への転換が重要で,最優先される.企業にとってよき視聴者とは,競合他社ではなく,自社の商品,サービスを購入してくれるのが,よい,のであって,つまり,自社だけのよき消費者の育成だけが目的になる.
真っ当な番組づくりや番組の質など二の次,あるいは副産物でしかなく,番組作りの収入源が広告宣伝費である以上,この枠から企業自身がはみ出すことはありえない.

視聴者=消費者の方も,高度成長を達成し,生活必需品の需要が減退し,同時に地域社会や世間体などが解体しはじめたころから,日常生活の中で,これ以上何を買ってよいのかわからず,どういう豊かさを実現できるのかわからず,どういう家庭を築けばよいのか,どういう政治家を選んだらよいのか,さえもわからなくなり,テレビに依存収束したのかもしれない.
しかし,もちろん民放は,企業の売上拡大に貢献する装置でしかない.
視聴者が置かれている現実社会を直視し,その課題を現象として表面的に提示できても解決の糸口など提示できるわけがない.
なぜなら,視聴者=消費者という仕組みを隠蔽しなければ,誰もチャンネルをあわせてくれず,その仕組みの追求は,民放自身の存立基盤を揺るがす問い,になってしまう.
視聴者の抱えた,消費者としての期待は満たされるかもしれないが,その他の課題=政治,地域社会,などの消費者を越えた期待は,テレビに依存しても,満たされることはない.

a企業→bテレビ→c(視聴者=消費者)→d市場→e企業
この私権統合が不全になるためには,消費者の消費意欲の減退(宣伝されたって買わない,という行動)が不可欠だ.
しかし,視聴者としての市民は,
f現実社会→gテレビ→(h視聴者=一般市民)→iテレビ→j現実社会
という,構造にいる,と錯覚している.
テレビそのものが面白くないのではなく,(企業そのものが面白くないわけではないのと同じ意味で)この構図を見事に隠蔽したまま,あくまでも視聴者が,企業に消費者になるよう期待されることの不全と,視聴者が,あくまで一般市民としての現実課題を満たしてくれるようテレビに依存することの不全,が,問題になっているのではないか?

では,実現論滅亡 ニ,市場の崩壊(実現論3_4_02)の,
<従って、大恐慌に成れば(既に現在の日本人の消費態度が明示している様に、)先行き不安に備えてサイフのヒモを締め、食糧と日用品以外の物は殆ど買わなくなる。従って、需要は一気に7割減まで落ち込み、失業者も5割を超えて終う。これは、市場が過去に経験した事のない事態である。>

となったとき,テレビを支えていた仕組みはどうなるのだろうか?
こういう状況を記録する力はまだ,残っているのだろうか?
一般市民が(市場社会の消費者)という枠からはみ出されたとき,その課題は,不全感は,誰が何処で,受け止めてあげられるのだろうか?


テレビの不全をまずは,検証することからはじめようではないか.

やすにし
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さようならテレビ君v

Posted by ななし on 16.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビ君へ

あなたは私の部屋の,隅っこに座っている.

玄関のドアを一人であけて,靴を脱ぎ,明かりをつけて,ソファーに体を預けたとき,あなたと目が合い,思わず私は,あなたの目を覚ましてしまう.

あなたが目を覚ませば,その瞳には,恋をする男女,歌を歌う若者,遠い国の戦争,幸福そうな家庭,新しいお酒,なんかが,際限なくうつっては消えていく.

私の寂しさも,消えていく.

あなたとずっと目をあわせていると,私は,腹の立つ上司,とりかえしのつかない失敗,振られた恋人,戦争が起きる本当の理由,離ればなれになった家族,つまんない周りの人,のことを,とりあえず,考えなくて済む.

あなたの瞳には,上司に腹を立てても立ち直って出世していくたくましい人,とりかえしのつかない失敗をしてもきっかけ一つで成功に変えた人,
振られても戻ってきた恋人,戦争によって確認できる平和,別れても再会できた家族,夢を感じるスポーツ選手,が,際限なく,うつっては消えていく.

だから私も,私が過ごした今日一日を,振り返ることなく眠りにつける.

でもね,ある日,気づいたんだ.
私の現実を,あなたは絶対に,変えることはできないし,私の現実を,決して分かってはくれないことに.あなたには,聞く耳がついていない.
次の日起きればまた,上司とも失敗とも失恋とも失った家族とも起きてしまった戦争とも,つまんないやつとも,私は共に,生きなければならないのです.

親とか,友達とか,恋人とかと,部屋で一緒にいると,どうしても,あなたと目が合い,また目覚めさせてしまう.
あなたがおしゃべりだから,私は,親とか友達とか恋人とかと,しゃべんなくて済むし,うまくいっているような気がしてくる.

でも,私は,気づいたんだ.
あなたがどれだけ言葉を尽くしてくれても,私と親,私と友達,私と恋人との関係は,私が私の言葉で,つないでいくしかないことに.

あなたが瞳を閉じれば,その瞬間,私は瞳をあけ,私の現実をしっかり見届けなくてはならない.

でも,一人じゃ怖い.沈黙も怖い.

だから,今日から私は靴を履き,玄関のドアをあけ,真剣に話したい私の言葉を受け止めてくれる,仲間を探す旅にでます.

さようならテレビ君.さようなら一人で悩む私.さようなら大切な人と何かを考えることをやめてしまった私.
あなたに会えてよかったのかどうか,まだわからないけど,もう二度と,あなたを頼ったり,あなたに期待したりはしない.

できれば瞳を閉じたまま,私の旅路を見守ってください.

やすにし
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普通の人は現実の中で生きている

Posted by ななし on 14.2013 記事 0 comments 0 trackback

私は最近日本テレビで「テレビは何を伝えたかったのか・・イラク報道を考える」という番組を見ました

印象的だったのは視聴者からのメールの質問が画面のテロップとして上の方に出てくるのですが、内容は実に本質的で、「戦争は何故起こるのか。」「メデイアの存在意義は?」「報道論より戦争が起きないことを考えてくれ」というようなもっと本質的な議論をして欲しいというものです。

それに比べて番組で扱っっている内容は、「報道の公平性」であるとか「死者の映像の選択の問題」とか、自分たちの立場をどう説明するとかいったような、聞くにたえない、まさに「報道論」といった代物です。

普通の人は夫々の勉強や仕事をしながらこの現実を生きている。そして、傍観者ではなく当事者として現実を生きる実感をもち、そこで発見した事実を追求しようとしている。だから、現実に使える認識を発掘していけるのだと。

今更ながら彼ら発信者たちと普通の視聴者のギャップの大きさに驚きました。彼らは視聴者からの意見をどう感じていたのでしょうか。私は彼らにまったく可能性が感じられませんでした。

志水満
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「テレビは面白くない」に疑問。でも‥‥。

Posted by ななし on 12.2013 記事 0 comments 0 trackback

>テレビが面白くないとき、それは現実が「生き生き」している証拠ではないかと思う。(51484)

これは衝撃だった。私はテレビ全般をを面白くないとは思わずに日々生活している。
中には面白くない番組はあるし、これは嘘だろうと疑問に思うことは多々あるが、テレビが私権を追求しているのを承知で見ている。

何故なら、常にその情報が真実で客観的なものか疑問を抱く心を持ち、その情報だけを鵜呑みにさえしなければ、1つの情報源として得られるものはあると考えていたからだ。

しかし(51484)の方の上の言葉を目にし、テレビを私が面白いと感じる理由をもっと深く掘り下げようと思った。

私はドキュメンタリーを好んで見る。生身の人間、自分に近い部分を持つ人々が頑張ってる姿を見ると勇気づけられ、私も頑張ろうという気になるからだ。

そこで気づいた。私はそのドキュメンタリーの出演者と自分を重ね、あたかも自分が体験しているようにその番組を見ていたことを。

私がテレビを見たいと思う理由が「こういった体験がしたい、こういった感動を日々味わいたい」というものであるなら、私は(51484)の方がいう「生き生き」した日常を欲するが故の代償行為として、テレビを見ていたのではないか。

つまり『現実が「生き生き」していない』が故にテレビが面白いという結論に達してしまう。
いや、違う。私は今の生活が「生き生き」していないとは思わない。悩みはあるが、毎日が楽しいし充実している。

では何故か。
もっと自分は何か出来るはずだという気持ちが常にあるからだ。
日々は充実していても、日々いろんな事に疑問を抱いている、「どうしてなんだろう」と。
しかし周囲とそういった疑問について軽い話しはしても、深く話す機会はあまりない。それ故、もやもや感は払拭されず日常を過ごしてしまう。

私はもっと人と考えたかったのだ。幸せになる方法を。
物理的ではなく、もっと精神的に幸せになりたい。人が人を騙したり、傷つけたり、殺したりしない日本、または世界であって欲しい。
これは自分の幸せのためであり皆の幸せのためである。
きれい事みたいであるが、今の時代における混沌はそれを求めなかった結果ではないか。
こういった事を話したかったのだ。

こういった場で、いろんな人の考えに反応出来る状況を欲していた自分に、この機会が無ければ気が付かなかったかもしれない。
私以外にもこういった人が声を出す機会を窺っているはずだ。そういった人への気付きの場としてここがもっと広く存在する事を希望する。

黒澤美樹
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テレビに頼るな

Posted by ななし on 10.2013 記事 0 comments 0 trackback
私はテレビが面白くないのは、その行為に対して自分の充実感が無いからだと思う。
私自身よくテレビを見る。見るというより点ける。朝起きたとき夜家に帰ったとき、電気をつけるようにテレビを点ける。そのため見るというより、映像が目に入ってくるという感覚である。しかしそれは自分で何か見たい番組があってテレビを点けるのではなく、「他にやりたいことが無いからなんとなく」という理由からの行為であるように思われる。
私は現在大学の他にサークルやバイト、英会話などをしている。そういった活動で忙しいときには当然テレビを見る時間が無くなるわけだが、そのとき「テレビ見たいなあ」などと思うことは一度もない。むしろ忙しいその状況に満足感や充実感を感じるぐらいだ。
逆にぼーっとテレビを見ているときのことを思い出すと、それはけっして楽しい時間ではない。番組の内容がどうというのではなく、今こうしている時間が無駄であり、「自分は今何しているのだろう?」などと考えてしまう。
そんな状況を抜け出すためにはどうすればよいのか、自分ではわかっているのだ。「テレビを見るという受動的な行為を、本を読む等の能動的な行為に変えれば良いことを」。おそらく多くの方がこのような考えを持ちながらも、お手軽でエネルギーを消費しない受動的行為、つまりテレビを見ることを選択しているのではないだろうか。これはまるで中毒症状だ。それは本人が動こうとするやる気まで奪っていくのだから。

私は「人間は皆、日々の生活のなかに満足感や充実感を得続けたいと感じている」と思う。時には仕事や勉強で、また時には趣味の中にそれを見出して生きているのだが、ときどきそれらの狭間にぽっかり空いた時間が生じてくる。しかしそこを埋めてくれるものはテレビではない。受動的な行為では充実感は得られない。「もうテレビに頼ることはやめよう」と考えること、そして「テレビ見たいなあ」などと思わなくなるぐらい能動的に動いていければ我々はもっと充実した生活をおくることができると思う。

尾崎彰彦
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テレビというマスメディアの役割

Posted by ななし on 08.2013 記事 0 comments 0 trackback
本来、テレビというものは人々に慰めを与えたり、社会的緊張を緩和する機能を果たすものではないだろうか。それが最近の番組といったら、我々に悪影響を及ぼすものが数多くある。 

 テレビの情報は、客観的・中立的かというと、必ずしもそうではない。表現者は視聴率獲得の為、独自の価値判断というメディアフレームによって、暗に特定の立場を表明し、世論を特定の方向へ誘導する。
 
 また、過剰ともいえる情報提供によって、我々は受動的に情報を受け取ることに満足感を持ってしまい、何か問題が起こっても、具体的な問題解決のための行動を起こそうとしなくなる。情報機能の発達が、かえって問題意識の鈍化を醸成してしまう、麻酔的逆機能も危惧される。

 単なる傍観者である発信階級が、様々な現実の情報を取捨選択し、彼らの手で再構築して、テレビというマスメディアの媒体を通して、我々に一方的におしつける。そのように、オピニオンリーダーによって操作された、全くリアリティの無いステレオタイプ的報道によって、我々は擬似環境という虚空のスクリーンを、自分の頭の中に描いてしまう。それは、現実の正確な模写ではなく、様々な誤認や歪曲を含む為、現実に対する不適応を招きやすい。

 このように、社会不全・みんな不全を生み出した、旧観念ともいえる虚構の世界は、今の我々にはもはや必要とされていない。インターネットや携帯電話の普及に伴い、自分から意見を出し、新しい共通認識を持つ人たちが集える場が必要なのである。自分自身が当事者として人と交流し、現実環境を直視する中で、実感や喜びを得る事の素晴らしさをもっと分かって欲しい。これが、現在の我々の活力源であるみんな期待なのだから。

藤田英晃 
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テレビに縛られる子供・・・個人的な体験より・・・

Posted by ななし on 06.2013 記事 1 comments 0 trackback
テレビを見ていないと不安になる。なぜ・・・?だって、周囲の話題から取り残されてしまうから。このまま興味のないテレビ番組を見続けなきゃいけないのかな・・・?

 子供の頃(小・中学生の頃)、このような思いに駆られた人は、実は意外に多いのではないだろうか?るいネットの投稿をいくつか拝見させていただいたが、その中にも、「子供の頃はテレビを見ることで周囲との一体感や連帯感を保てた」といった意見が見られた。毎日学校で前日のテレビ番組の話に花を咲かせる光景はどこにでも見られると思うが、その中で一体どれくらいの人がこのような思いに駆られていたのだろうか。

 話題についていくためにテレビを見る子供は、テレビ番組そのものには全く興味を持っていない。にもかかわらず、貴重な時間を割いて有害なテレビ番組に接しなければならないのである。もしかしたら、そういった子供たちは、すでに漠然と、テレビのもたらす害に気づき、旧認識の支配する世界に関わりを持たないようにしようとしているかもしれないのに…。

 しかし、「実はテレビ番組にあまり興味がない」という子供が何人かいれば、そしてそのことを子供たちが知ることができれば、無駄にテレビ番組を見る必要はなくなるのではないだろうか。実際に、私が小学生の頃、私を含めて何人かの友達たちで「話題についていくためにテレビを見るのはつらい・・・」と話し合ったことがあった。そして、それがクラスの話し合いの場に出され、予想以上に賛同者がいたことに驚いたという経験がある。そして、その日以来、私のクラスでは無理して頑張ってテレビを見るという行為から解放されたのである。

 実際に、今の子供たちが、どのようにテレビと接しているのかは正直知らない。しかし、先に述べたような不要な外部圧力によってテレビに縛られているようならば、そのことを少し友達に話してみると良いのではないだろうか。子供たちを育てる大人たちは、彼らがそういった悩みを抱えているのならば行動に出ることを促すよう協力してみると良いのではないだろうか。テレビ番組に害されていない子供が増えることは、これからの社会にとって非常に重要なことなのだから。

柳田雅史 
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「みんな不全」からの新たなる一歩

Posted by ななし on 04.2013 記事 0 comments 0 trackback
>週末のテレビで、一週間の出来事を垂れ流して、出席者が感想を言うだけの番組を思い出したら良いと思います。(中略)
>これからは、”みんな不全”を認め合うだけでは振り向いてもらえない段階に来ている気がします。(53890)

この「不全止まり」現象はさて「何でだろう?」と考えてみると、もはや旧来の政治や経済の社会的システムが立ち行かなくなり、さらにはこれらのシステムの根幹にある考え(旧観念)そのものが、現状の不全を突破する力を持ちえていない、ということに思い当たる。

経済不安は、不良債権を一掃(その方策もめどが立っていないが)すれば済むものではなく、市場経済に対する原理的な見直しを迫られている。
政治的安定についても、冷戦下での2大陣営の対立という分かりやすい枠組みが崩壊して以来、安定を脅かす対象が見えにくくなっており9・11以降、テロ、飢餓、病気など危機は至るところに偏在している。

この状況を前にして、マスメディアやそれと相互依存関係にある知識人・評論家はなす術を持っていないのが実態で、したがって「不全を認め合うだけ」でお茶を濁している。

そんな現状の中で、普通の人、それも旧観念の刷り込みが比較的希薄な人々が寄り集まって、「何でだろう?」と根源的な問いを絶えず発し続けながら、旧観念に代わる新しい観念パラダイムを形成しつつある交流会、こちらのほうがよほど未来への展望が期待できる。

あずみ
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”みんな不全を認め合うだけ”の時代は終わった

Posted by ななし on 02.2013 記事 0 comments 0 trackback
>「よく聞く話。またか・・・」とうんざりしていたのです。<
(53855木村明子さん)

これは、かなり新鮮な実感です。状況は変わっているはずです。

確かに「何でだろう?」がない”不全止まり”なわけですが、
どこでも聞かれそうな大人たちの言葉・意識を、
若者や子供たちはどう受け止めているでしょうか?。
週末のテレビで、一週間の出来事を垂れ流して、出席者が感想を言うだけの番組を思い出したら良いと思います。

「人事のように愚痴っているだけ」?
「そんなの聞き飽きた、おもしろくない」?

これからは、”みんな不全”を認め合うだけでは振り向いてもらえない段階に来ている気がします。
”みんな期待”に応えて追求する仲間と場こそが不可欠なことを、伝えていく必要があります。


正国稔 
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