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現実のある場所

Posted by ななし on 30.2013 記事 0 comments 0 trackback

「特に皇太子ご成婚パレードは忘れられないよ。テレビに映し出されたあの華やかな光景には本当に目を奪われた。」私は祖母の言葉を思い出した。彼女は何度テレビの中に憧れを見たことだろう。

1953年テレビの本放送開始当時、受像機の価格は高くテレビは高嶺の花であった。また、テレビは生活の中で頻繁に話題の中心となり、テレビから発信される映像を見聞きしているかどうかを試される機会が増えていった。テレビを手に入れることは一種のステイタスであり、そして必須であった。ここに「私権統合」と「私権の強制圧力」の姿を見て取れる。

70年代貧困が減少し、私権は衰弱した。憧れがテレビの中にあった時代は過ぎ去った。全面的な閉塞状態に陥っている社会の中で、人々は真の充足を求め現実に向き合い始めた。現実から新しい社会を構築しようとしているのだ。

しかし現実はテレビにはない。日々テレビに映し出される映像は、「現実」を題材にしたマスコミによるSHOWでしかなかったのだ。観客に感動や怒りといった何らかの感情を持たせ、注目させ、観客の関心を繋ぎとめておくために、現実を観客のウケがいい様にアレンジする。アレンジされた現実=SHOWからはもちろん本当の現実を知る事は出来ない。

現実は現実の中で生きるみんなの中にしかない。

テレビは変わらないし、何も変えない。テレビは単なる表現者また傍観者である発信階級が作り出す現実の一方的な押し付けの場でしかなく、新たな社会構築に向けた認識の生み出される場所ではない。現実は現実の中で生きるみんなの中にしかないと気付き、みんなと関わり合う場を必要とする社会の当事者は、そんなテレビを必要としない。ましてや「面白さ」など感じることなど出来るはずもない。

中瀬由貴
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そもそもテレビは見る必要があるのか

Posted by ななし on 28.2013 記事 0 comments 0 trackback
なぜ今テレビは面白くない(見たいと思わない)のかと問われ、まず考え付くことはテレビを見終わった後に自分の中に残るものは皆無であるからという事である。テレビという媒体が私たちに情報を一方的にを発信する中で本当に必要な事などないのではと思うほどである。又、多くの人がテレビは面白くないと思うようになったのは独善的なテレビの作り手(発信者階級)の発信する内容をそのまま受け入れる事自体が苦痛になったからではないだろうか。

 私の家では中学生になるまでテレビはなかった。もちろん当時はやっていた番組やドラマなどの記憶は無く、その頃は見たいとも思っていたが、しかし実際それによって学校生活を含め普段の生活に支障をきたした事はなかった。
 
 テレビは面白くないかも知れないがニュース等の情報番組は必要であるという考え方もあるかもしれない。しかし、そもそも完全な報道の自由や公平さなどある訳もなく自由の国と言われるアメリカでさえ報道の自由は国家の利益の範囲内においてのみ許されている事は言うまでもない。
 
 昔のテレビ(60、70年代)は今と違って面白かったと言う人もいるかもしれないが、その頃の日本の社会は私権統合が社会全体の共通認識であった時代であり、だからこそテレビの与える影響に関して疑問を抱く事はなく需要と供給のバランスが成り立っていたと考えられる。そして同じテレビ番組で育ったという仲間意識が生まれるのではないか。(全ての人がそうであるとは思わないが) 
 
 社会不全に陥っている現在ではテレビは面白くない(役に立たない)だけではなく旧観念をひきずる有害な物に他ならないのではないか。と言うより今のみんな不全の状態をつくり出した原因の一つだとも言えないだろうか。なぜなら私権時代の認識を未だに発信し続けているからである。

 しかし、最近テレビが面白くない(テレビは見る価値はない)事に多くの人が気付きはじめたきたと感じる。それは明るい材料ではないだろうか。今、私たちに必要なのは新しい共通認識による新しい社会の形成であり、そのために重要な事は新しい認識を持つ人たちが集える場(るいネット等)であり、テレビから垂れ流される旧観念ではない。テレビが面白くない理由という議題の奥にはテレビの存在意義を含めもっと深い問題が潜んでいるように感じる。

古川正樹 
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tele-visionというblackboxの存在理由と我々との関係 さあ現実の砂漠(厳しい外部世界)へ PART2tele-visionというblackboxの存在理由と我々との関係 さあ現実の砂漠(厳しい外部世界)へ PART2

Posted by ななし on 26.2013 記事 0 comments 0 trackback
PART1の続きです。
またTVの中の世界、もっと言えばテレビ局自体、我々が存するこの現実世界とは“位相”が異なる (生放送においても虚構的性格は言えるから時差的なものだけではない)別世界=Utopiaなのであろう。その国は“芸能人や業界人”という特別な資格(Passport)を有する者でなければ入国する事は出来ない(だからテレビ局の入り口の警備が厳重なのだ!)。そしてその中では、大道具、小道具、音声、照明といったそのUtopiaを作り上げているのである。出演する芸能人達はその国の住人を演じ(文字通りactor)、TVを通して我々の現実と接触する。
人々がこの日々厳しい、不全感の充満する現実界からテレビの中の生ぬるいUtopiaに憧れを抱き、歌手や芸能人志向が高まるのも無理のないことである。しかしそんな彼らもその夢が叶えばいずれ気付くだろう。TVの中のUtopiaはあくまでもこの現実界に対しての代償充足の役割であって、その中で演技をする自分自身はなんら充足しない事を。何故ならテレビの中の自分はほんものの自分であり、fictionの登場人物であるという二重化によってさらに倒錯するからである。
さらに決定的なことはTVに主体なるものは存在しない事だ。演じている側も見ている側もいなくてもテレビの映像は流れ続けるし、TVの対象としているものは具体的な私達でなくて、統計としての均質化された人間の総体であり、非現実的な架空の主体である。問題はTVがそのチャンネルにつけられていることであり、あえて言うならばテレビの主体は物的な意味においての“TVそれ自身”であり、この事からも自己完結性がうかがえる。
そしてその情報を一方的に受け取らされる我々は現実/虚構を混同させられてしまう。
マスコミは独占的な共認支配を行使して、我々に唯一の解を押し付ける(選択権の剥奪)。つまり、同一の自己の複製(コピー)を作り出し、そのウィルス的な増殖によって適応不全態へと退化させ、この強制的な認識は今や我々の認識さえも支配し、堕落と倒錯へと導く。
しかし、現実は様々な要素が絡み合い複雑化しているため、唯一の解で解決可能なものではなく、特殊解も存在する。つまり進化の源泉である多様な同類他者(双子)を作り出す必要があるのだ。つまり共認することができる相手をつくらなければいけない。その運動は既にこのるいnetによって起動している。
しかしこの共認において、誤った仕方をした例としてテレビの作り上げる同一の自己(copy)に関して上記のアメリカ同時テロ事件においてTVの果たしたもう一つの役割が注目に値する。このテロ事件=厳しい外部世界(外圧)に直面した後、アメリカはその後nationalism(共認)に急速に傾斜していくが、それを強く促したのがTVである。個人の具体的な死は提示せず、その死を匿名化し何千人という総体だけを示したり、犠牲者の家族をstudioに呼び犠牲者の人柄や、半生をDocumentで綴る番組や、救助する救急隊にカメラを当て英雄として捉え放送したりと、現代の宗教的な役割を果たした。この絶対的ドグマ(非現実世界に暫定する唯一解)によってテレビは現実世界へ足を踏み出したアメリカ(国民)をまたもや非現実世界へと連れ戻す事に成功する。現代のmediaは人々を教会に導くことなく、TVという武器を用いて各家庭の居間にまで出向きその布教活動を展開する。そして疲れ果て、TVの前で警戒を解放している人たちの心情を蝕んでいくのである。
 しかし、これまで傍観者としてTVに釘付けになっていた我々日本人は未だにこの危機的状況について気付いていない。(るいnetの人達は勿論気付いているが)

現在の我々とTVの関係はM.ブーバーの言う“私とそれ”であり、自分から見てテレビは外から見るもので、対象化しているものであり、単に経験するのみで、最初から期待しないので、疲れもしない=傍観者。これまでの私権時代はそれ(単なる代償充足としての手段)でよかった。しかし冒頭で述したように、我々の潜在思念は変化してきた、今我々の求めているものは“私とあなた”の関係であり、多くの投稿にあるように前者に比べ非常に疲れる、それは本当の自分が全人格を懸けて向かい合う関係(共認)であり必然なのである。
現在のテレビの存在理由は私権時代が消滅したあとの後遺症であるといえる。それがまだ継続しており、我々は 早く現実界の砂漠へ足を踏み出し、その砂漠の砂に足を取られる感触を体感(自らが存する現実世界を体感)しなければいけないのである。それが実現したときテレビという現実を忘却し、虚像化し、その毒性を撒き散らすblackboxの必要性=存在理由は必然的に消滅するだろう。

桶皮竜希
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tele-visionというblackboxの存在理由と我々との関係 さあ現実の砂漠(厳しい外部世界)へ PART1 

Posted by ななし on 24.2013 記事 0 comments 0 trackback
もう既に多くの人々が潜在思念の中でTVの必要性に対して疑問を抱き始めている。それはやはりTVが変わったからではなく(勿論50年前からは内容や製作や企画などは変化しているが、根本的な構造は不変)、それを受け取る我々のTVに対する認識が変わったことが大きいと考える。にも拘らず、未だに人々がTVを買い続ける理由は何か。
つまり、現在のTVの存在理由である。
当初は一つのstatusの道具として認識され,私権時代においては現実の私権圧力の中においての息抜き的存在=不全感の蔓延る現実に疲れた者達の代償充足を果、このようなTVの効用(役割)は麻薬に似て、厳しい現実から逃れ、容易なecstasyを手に入れる手段である。
これは“悪薬は口に甘し”であり、後に副作用として破滅が待っている。麻薬の場合は、精神異常/人格崩壊であり、TVに於いてはマスコミ達やTV局が作り上げる“虚”としての現実提示による思考倒錯である。
映画や演劇やは完全なる“つくりもの”(シミュラークル)であり、受け手の観客達もその事を承知の上で前提として捉えており、ゲームも同じ。(基本的には)そこから娯楽以上のものを期待していない。しかしTVはこれらよりもタチが悪い。というのも“現実を土台(ネタ)にしながらそれらを人為的に操作”しているからであり (最近ではTVドラマにおいて“この番組はfictiionです”が余り流されていない) 、時に視聴者はそこから現実の情報を仕入れようとしている(news等)からである。
この視聴者達の期待とは逆にTVにおける非現実性は今や明白で、マスコミ達による現実情報操作から実と虚は転倒し、実の虚像化/虚の実像化が働かされる(これはアメリカ後期資本主義社会(私権時代)が生み出した人間の心的構造の二重化を描いたJack Londonの『Martin Eden(主人公は結果的にこの二重化の倒錯により自殺してしまう)』の内容通りである)。またジム・キャリーが出演した映画『トゥルーマンショー』も同じ事である(主人公の生活が24時間テレビ放送され、周囲の人々は全てextra、出来事も全てシナリオ通りでその町(空なども含む)全体が作られたsetで、それを多くの人が傍観者として鑑賞する)。つまり、TVというblackboxは我々の日常現実を“傍観者達の視聴する対象物に転倒”(現実⇒虚構)させる恐ろしい力を持っているということである。
あのアメリカ同時テロにおいてWTCに追突する飛行機をTVで眼にした多くの人々は“まるで映画(screen)の中の出来事だったかのようだ”と述べている。そして驚くべき事にこの発言は被害を受けたアメリカ人達からも多く聞かれる事である。これまで第一世界のアメリカという大国はTVで流される第三世界で起こる内戦や、テロ、紛争に対して“恐怖は「ここ」で起こっているのではなく、「あそこ(どこか別のところ)」で起こっている”と認識していた(特にアメリカは後期資本主義消費社会=私権社会において「現実の社会生活」そのものが脱物質化した、見世物への転倒=非現実性である事は多くの人々が指摘している)。つまりここではテレビによって傍観者的な視点・認識が植え付けられ習慣化(被支配)していた事が分かる。文字通りtele(遠く離れた)-vison(映像)である。またこれまでハリウッドで製作されてきた数々の映画の中での非現実の世界として写ったのである。
最近よく見かける“この番組はお子様に悪影響な映像を含んでいます”という言葉もうけての我々を傍観者たらしめているものであり、我々を「彼ら」から「彼らの属する現実から」乖離させているものである。
そしてあの9・11によってアメリカはこれまでのTV的な完全に閉鎖した自己完結世界(傍観者)から、外部世界(当事者)を垣間見た(恐怖は「ここ(我々の属する世界=現実)」で起こっている)のであり、安全な非現実世界から危険な(厳しい)現実世界へと引きづり出される(気付かされる)事になる。(しかもこの多民族的大型私権集団(カタワの集団)に気付かせたのがイスラム原理主義という地方的理念を共認している本源集団であるところが興味深い)。このことをスラヴォイ・ジジェクは“現実界の砂漠にようこそ”と言い、アメリカの例外的な立場(「球域」=外部世界から隔離された完全に自己完結した安全な世界=TVの世界のUtopia)の終焉を示している。上記のジジェクの言葉は映画『Matrix』のMEGA-PCによって生み出されたvirtualな世界から現実世界へ戻った際の、地球の終焉的な光景=廃墟と化した世界にも表れている。もはや“自由”の国アメリカなる観念は外部世界に対して全く通用しないものである事が露呈された。アメリカの“自由”という観念は人々を個人に拘束して、共同体の一員である事を忘却させているのである。

桶皮竜希
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”みんな不全を認め合うだけ”の時代は終わった

Posted by ななし on 23.2013 記事 0 comments 0 trackback



>「よく聞く話。またか・・・」とうんざりしていたのです。<
(53855木村明子さん)

これは、かなり新鮮な実感です。状況は変わっているはずです。

確かに「何でだろう?」がない”不全止まり”なわけですが、
どこでも聞かれそうな大人たちの言葉・意識を、
若者や子供たちはどう受け止めているでしょうか?。
週末のテレビで、一週間の出来事を垂れ流して、出席者が感想を言うだけの番組を思い出したら良いと思います。

「人事のように愚痴っているだけ」?
「そんなの聞き飽きた、おもしろくない」?

これからは、”みんな不全”を認め合うだけでは振り向いてもらえない段階に来ている気がします。
”みんな期待”に応えて追求する仲間と場こそが不可欠なことを、伝えていく必要があります。


正国稔
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テレビ=食品添加物をたっぷりと使った料理

Posted by ななし on 22.2013 記事 0 comments 0 trackback

フジテレビ「月9」の視聴率は毎回下がり続けている。昔は、例えば恋愛ドラマなら、「あんな素敵な恋愛をしてみたい」などと思い、そして架空の世界に魅了されていた。しかし、本当は現実の世界のほうがとても魅力的であると気づいた人々がいた。現に私もその一人である。私の大学生活は、とても内容の濃いものであり魅力的である。友人関係にしても、学業にしても、時には辛く、悲しい時もあったが、それを超える喜び、楽しみがあった。このような人が増えていることも視聴率低下の理由のひとつだろう。そして、やはりテレビから発信されている情報(ドラマ、ニュースなどすべて)の性質に根本的な理由があるように思える。

 ここ(るいネット)で、皆さんの意見を読ませてもらい、私も同じような意見をもった。そこで、もう一度テレビから出る情報について私なりに考えてみた。

 テレビのように発信階級から出る情報は、加工済みの情報である。
 化学調味料や着色料・保存料など食品添加物をたっぷりと使った料理は、見た目はきれいだし、味もまずくはない。しかし体には、悪影響をおよぼしている。テレビはまさにこの料理と同じである。様々な手を加え、そして見た目はあたかも正しいことのように見せ、実は我々の体を、そして意識を蝕んでいる。(旧観念の支配)

 しかし、最近、無農薬の野菜や、無添加・無着色の料理が好まれているように、情報においても余分な手を加えられていない、より素に近い情報が求められるようになっているのだと思う。より、現実に生きる当事者のそのままの情報・意見が求められているのだと思う。(みんな期待)

 インターネットが生まれ、チャットや掲示板など自分の意見・主張を発表できるようになった。そして、みんなから、その意見に対する意見が出され、コミュニケーションが生まれた。このように生の意見が得られ、コミュニケーションが確立された今、テレビの加工された、しかも我々は受けるのみの意見はとてもじゃないがつまらなく体が拒否してしまう。だから、テレビは面白くない。

本橋範一
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面白くない報道番組

Posted by ななし on 20.2013 記事 0 comments 0 trackback
報道番組の使命とはなにか?速く正しく情報を伝えることだ。しかし速さではネット上のほうがタイムリーで、公正さでは国の許認可事業であるテレビ局にとって、混沌の国際情勢から考えると難しい。すなわち、テレビの報道がもはや影響力を失っているのは自明の理だ。

 ではテレビの報道番組の現状を見てみよう。視聴率だけを見ればテレビ朝日系のニュース・ステーションがNHKの番組群に食い込んでいる。あんなにも独善的な報道が視聴者を引き込んでいるのだ。政治家や他国の指導者の思惑を推移して、ひねくれた再現映像を作り放送する。確かに社会に適応不全しかけている視聴者にとってはわかりやすいし、そうでなくても歪曲された報道をおもしろがって見る人も少なくないだろう。しかしこれが「みんな期待」に応えられるような報道なのか?所詮そんなものは発信階級のエゴに過ぎないと思うのだが。

 スポーツ報道についても考えてみよう。昨年のワールドカップの報道なんて愚の骨頂だ。サッカーを知っているはずの解説者が、他国に比べそこそこの日本代表チームを戦時中の英雄のように称える。その反面、道頓堀に飛び込む若者を問題視する。「おまえらが煽ったのだろう!」と言いたくなるような報道内容が横行していた。代理戦争としてスポーツを捉えるのは、まるでナチスそのものである。

 報道番組が面白くないのは、視聴率(及び広告収入)に傾倒しているだけだからだ。視聴者と制作者の両者にとって都合の良い報道か、発信階級のエゴで塗り固められたような報道しかしない。それは彼らが今でも有り余るほどの給料が貰えるのだから仕方がない。もはやネットの双方向性の前では一方通行の報道など無意味になってしまったことも、視聴者が報道番組でさえ暇つぶしで観ているという現状も直視できない。視聴者という数字上の「集団」に依存するような報道では面白くなくて当然である。

匿名希望
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テレビの時代の終焉

Posted by ななし on 18.2013 記事 0 comments 0 trackback

確かに子供の頃の記憶を振り返っても、テレビが一番面白かったのは60年代から70年初頭ではないかと思います。爆発的な人気だった「てなもんや三度笠」「ひょっこりひょうたん島」「鉄腕アトム」も何となく夢を感じたし、お笑いにしても毒気が無かったように記憶しています。テレビの本質が代償充足であるとしても、「貧困」という「みんな不全」を脱するためのエネルギーや、未来への夢がテレビの中に感じられたように思います。

ところが貧困が消滅し始めた1970代に入ってテレビ番組も大きく変容していったように思います。70年代は反体制運動がほぼ終焉し、万博と「モーレツからビューティフルへ」というコマーシャルによって幕が明けます。未来への夢の言葉と裏腹にテレビは、11pm、野球拳、ハレンチ学園、etcいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」と言う言葉に代表されるように、刹那的刺激や毒気が大量に含まれた番組がどんどん増えていった様に記憶しています。
おそらく貧困の消滅に伴って、「みんな不全」が消え、貧困と社会矛盾の解決のための「連帯や団結」というスローガンも輝きを失い、人々はどんどん「個」へと解体されていったそれが70年代なのではないかと思います。実際若者の意識も「自分主義」へと傾斜していった訳ですが、それを支えていた自我(相対優位の欠乏に基づく、自己正当化と他者否定の意識)が憂さ晴らしとしての捌け口を求めていた、それがテレビに反映していたのだと思います。(個人的には私はこのころからテレビに退屈し、すっかりテレビは見なくなっていました)
更に80年代に入って更に「核家族化」と「個室収束」が進行。「今が楽しければ、それでいい」という意識の元でテレビも人をコケにする「ワイドショー」とお笑い番組が全盛となっていきます。あたかも人々の「失われた手応え」を刹那的刺激によって埋め尽くすように。

しかし現在若者を中心に人々は、明らかに仲間や人つながりに向かっています。また人類の適応不全という新しい「みんな不全」の顕在化に伴って、答え欠乏が反意識化されてきています。そして何よりも多くの人々は「反応充足の手応え」を求めています。

それらの変化に伴ってテレビが面白くなくなってきた、ということは結局この30年間のテレビは、浮遊し肥大した自我欠乏に応えるだけの存在であり、それは希薄化しつづけた人間関係や「みんな期待」に応えること等の真っ当な反応充足が閉ざされた中での、歪んだ代償物に過ぎなかった、といえるのではないでしょうか?

北村浩司
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「テレビが面白かった」1960年代

Posted by ななし on 16.2013 記事 0 comments 0 trackback

1953年に本放送開始(カラー本放送は1960年)したテレビは、1960年代を通じて、一気に各家庭に普及し、人々の生活の中で求心力を持つようになっていく。

ちなみに、過去最高の視聴率は、
1963年 NHK紅白歌合戦 81.4%
紅白以外での、最高視聴率は、
1964年 東京オリンピック(女子バレー) 66.8%
(※視聴率は㈱ビデオリサーチによる)

「テレビが面白かった」1960年代とはどういう時代だったのか?

経済の面から言えば、
60年代を通じて、実質GDP対前年度成長率が、平均10%超という、空前の高度経済成長を遂げる。一方で、65年には、戦後初の赤字国債が閣議決定されることになるのだが。

家庭・生活に関しては、
国民所得倍増計画(60年)、新三種の神器(カラーTV、クーラー、自家用車)(66年)という言葉が示すとおり、家庭もどんどん豊かになった。また、63年の離婚率は、人口千対0.73で戦後最低(おそらく日本史上最低。以降、増加の一途を辿るのは周知のとおり)。「家庭」にも求心力があった。

教育・学校に関しては、
高校への進学率が80%を越え、受験競争が激しくなっていった。小学校・中学校の不登校率は低い値で推移、しかし、これも70年代以降一貫して増えつづけることになる。

企業・経済活動に関しては、
64年の失業率は、1.1で戦後最低(これも、以降増加)。モーレツ社員(65年)という言葉が示すとおり、「企業」にも求心力があったと言ってよいだろう。

つまり、1960年代は、高度経済成長を背景に、家庭・学校・企業という集団に求心力があった、そういう時代だったと言える。

各人が、各集団の私権課題に収束し、私権(地位やお金)獲得に邁進する、と同時に、ガス抜きとしての代償充足(私権闘争が生み出す共認不全の解消物)が求められた、そのひとつの象徴がテレビだったのだと思う。

さらに、政治・社会問題に関しては、

1960年 新安保調印
1961年 国民皆保険の実施
1963年 老人福祉法公布
1964年 公明党結成
    母子福祉法公布
1965年 小田実らの「ベ平連」初のデモ
    経済企画庁に国民生活局設置
1967年 公害対策基本法公布
1968年 学園紛争 
    消費者保護基本法公布

豊かさの実現により、「貧困」というみんな不全は、社会のテーマではなくなり、かわって、「福祉」「環境」「平和」「消費生活」といった新しいテーマが拡散的に登場する。

テレビが持つ「傍観者性」(発信する者と受信する者の分離)と、これらの新テーマの登場にも、何らかの相関関係があるように思えるのだが、どうだろうか?


岩井裕介
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もはや旧観念派はマイノリティ

Posted by ななし on 14.2013 記事 0 comments 0 trackback

先日交流会に出席して、気づかされたことがあります。

旧観念にどっぷりハマった人というのは、もはやかなり少数派なのではないかということです。

新聞やテレビを見ていると、相変わらず実効性のない意見が多数を占めていて、暗澹たる気持ちにさせられたりすることも多いのですが、こうした人々が最後まであがき続けている場所が、既存のメディアなのかもしれません。

テレビや新聞を情報源としている限り、社会というものは先の見えない、暗くて希望も何もないものに見えてしまいます。

しかし「普通の人々」は、もうそうした物言いに飽き飽きさせられているか、すくなくとも交流会のような、何か前向きに物事を考えようとする場で古臭い観念に基づいて語ることの無意味さ--あるいは後ろめたさ--に気づいているのではないかと思います。

いったん古い観念を脇において、(惰性で語るのではなく)素直に物事を見つめて語る場があれば、もうそこでの言葉は自然と新しい認識が土台になった、実感のこもった言葉になっているようにも思います。

渡辺卓郎
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これから社会に出て行く若者が抱く思い

Posted by ななし on 12.2013 記事 0 comments 0 trackback

就職活動、今や業界別を基準に行うべきでは無いと感覚的に感じている若者は、僕だけではないだろう。そういったみんなは、会社選びの基準として、おそらくその企業の理念や将来ビジョンが如何に次の時代を捉えているかを見ている。では、そう感じさせる要因はどこにあるか。
 
 以前、僕の友人が某テレビ番組に出演した際、それは視聴者参加型でいかにも素人のドラマ性を売りにしているような番組であったが、その収録と放送の間にはかなりの作為性があったと、リアルに聴いてしまった。そもそも僕は社会学部で、いわゆる大量情報化社会におけるメディアリテラシーの重要性を感じていたのだが、その友人の体験は、僕のメディア(テレビ)に対する疑問視に拍車をかけた。
 また、最近僕は、しばしば国会中継を見る。議員の私権争いや、敵対政党への腐った誹謗中傷など、見ているだけでも苦痛に感じるような質疑応答がそこにあるのだが、実は会議全体で何時間もある内容が、テレビのワイドショーやキャスターニュース番組では、ほんの何分(何十秒)で伝えられる。もちろんそこには、とある議員のコメントだけ、しかも揚げ足をとるような一言だけを放送する作為性があるのだ。
 資本主義・利益競争主義社会(私権社会)のなかで、貧困の消滅後、インテリ層が自分たちの生き残りの場として作り上げた世界がテレビメディア世界であろう。それは実社会とは逆のベクトルを保持し、旧観念をさらに追い求め、自分たちの都合の良い方向へと視聴者(すでに不全である)をプロパガンダしているのだ。上記二つの事例のような作為性の意図はそこにある。
 しかし僕らは、(すでに今まで充分に無意識にプロパガンダされてきたが)最近テレビが面白くない。その作為性によるノン・リアリティーさが露出してきているからだ。テレビのバラエティの現実逃避やワイドショーのゴシップぶり、キャスターニュースまでも信頼できない。テレビに左右される日本の有権者(僕らを含めて)など健全な有権者ではなく、すでにテレビのなかで日本政府が虚構に写っている。そうして不全を感じるからこそ、このような認識交流の場を求め、その必要性は自然と大きく感じるのだろう。
 ここで冒頭の「なぜ就職活動で、その企業の理念や将来ビジョンが如何に次の時代を捉えているかを重要視する人が増えたか」を考えると、テレビという巨大(虚大)メディアに取り巻かれたこの社会において、そこから「みんな不全」を感じ取る若者が増えたからであろうと僕は思う。僕らはこれから社会に出て行こうとする状況で就職活動をするのだが、いろいろな会社が見えてくると、明らかに旧観念の中でもがきつつもその方向性に流されている会社と、そこからの逸脱、つまり新しい形の業態・社会貢献を目指していこうとする会社とに二分されることに気づくのだ。そう気づいた時、僕らがどちらへ進もうとするのかは明確だと思う。

 こうして考えると、テレビから流れくる情報の波の大きさや、その破壊力が怖くなる。現実、その荒波のなかを泳ぐ鯨(旧観念)の大きな胃袋で生活するピノキオたちのように、新しい認識の必要性に気付かないでいる大多数の人々がいると思う。僕でさえ、最近気づき始めたばかりだ。ここに投稿されているみなさんは次代への認識作りの必要性を少しでも感じている人。僕らはまだまだ少ないかもしれない。もし多くても散り散り状態かもしれない。だからこそ同じ場で認識を共にしていかないといけないと思う。そして情報の荒波の中の鯨に住む人々にも少しづつ何とか声を届かせていけないかとおもうのである。
 そしてテレビを含めての「みんな不全」であるのなら、最終的には(もし次代にテレビメディアが残っていくのなら)テレビも良くしていかなくてはいけないとも思うのである。

古城郷
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思い出として語られることを通して

Posted by ななし on 10.2013 記事 0 comments 0 trackback
私は小、中学校の頃、アニメ、ドラマやバラエティー番組など本当によくテレビを見ていた。テレビを見ることで友達との会話に入ることができたし、何か不思議な連帯感さえ感じていた気もする。しかし大学に入ってからテレビ番組を見ることは次第に少なくなり、いつしかテレビは映画を見るための道具にしかならなくなっていた。テレビを見ることより外へ出かけ、友達と遊び、いろいろなものを見て回ることのほうが有益に思えたし、実際そのほうが楽しかった。いつの間にか私はテレビそのものに存在価値を見出せなくなってしまっていたのである。なぜそう思うようになったのだろうか。
 
 最近、同級生と同窓会をする機会が増えたことで、私は自分の過ごしてきた今までの人生をふり返ってみるということが多くなった。その中でふとしとことから気付いたことがあった。私と多くの同級生との間で交わされる会話の内容の多くは、彼らと私が共に過ごした実体験に基づく思い出ばかりなのである。小、中学校の頃は学校での友達との話題の多くが昨日のテレビ番組のことばかりであったにもかかわらず、それらのことは全く会話に出てこないのである。そういえばあれほど毎日見て面白いと思っていたテレビの内容が驚くほど思い出せない。それにテレビを見ていたことが楽しかったと思えるほど思い出になっていないのである。逆に、つい先日あったことのように鮮明に思い出されるのは、自分が当事者として実際に経験したこと、発見したことであり自分が手応えをもってじかに現実にふれたことなのである。結局、私と同級生との間に残ったものは、毎日話していたテレビの内容などではなく私と彼らという現実に生きた当事者同士の実体験であり、それに基づく関係や認識だけだったのである。
 
 大学に入ってからは、テレビがもたらす短絡的な面白さが、実際には私たちの体の中に本当には染み渡ってはいかず、楽しい思い出として残ってはいかないことに無意識のうちに気付き始めていたのかもしれない。テレビから流される知識や・意見・情報・答えが現実を生きる私たちの社会の中では、どこか現実離れした虚構の世界にしか映らず、本当に役に立つことは少ないことにも気付き始めていた。だからこそ、いつの間にかテレビ離れをしてしまったのであり、テレビそのものに存在価値を見出せなくなったのである。
 
 テレビは自己完結的であり私たちに情報を与えるだけ与え、実際には何もしてくれないのである。あくまで実際に考え行動し、認識をつくり出すのは現実を生きる私たちなのである。テレビを本当に面白いと思っているのかどうかは、自分の胸に手を当て、テレビが与えてくれたものが心の中にどれほど残っているのかを考えれば自ずと答えは出るのではないだろうか。

伊賀本寿徳
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今日のテレビの明らかな戸惑い

Posted by ななし on 08.2013 記事 0 comments 0 trackback
既に多くの方々が指摘されているように、私も数年前、少年期における成長の中でいつの間にか自然にテレビ離れをしてしまったうちの一人である。
 理由は単純で、あらゆる事象を取り上げては必ず「面白おかしく」加工して届けてくれるテレビのご丁寧さに、ウンザリしたからである。家の外の世界で人々との対人関係(互いに送受信し合う「生きた」やりとり)を満喫すれば、帰宅した後にまでわざわざテレビに楽しませてもらいたいなどとは思わない。ましてや、笑わせてくれなんて頼んだ覚えは一度もない。仮に個室で一人寂しい気持ちになっても、残念ながら携帯電話やインターネットを介して他者に「会えて」しまう。テレビの出番はない。最早その必要性が見当たらないのだ。
 我々のこうした実情に適応できずに、テレビは明らかに暴走・迷走しているというのが今日の現状だ。では、テレビ側はそうした危機的状況に対して全く無自覚だろうか。
 やはりうすうすは感じているのだろう。その焦燥感の結果が今日、テレビの内容をワンパターンにさせている。つまり、「本当は面白くない」ということが実は分かっているから、無理やりにでも面白くしようと必死に空しいあがきをしているように見える。そうした暴走・迷走番組に出演している芸能人らの表情を見ても、明白な困惑の様子が見てとれる。それを見ている我々の方がかえって彼らに同情してしまい、ますます我々の心はテレビから離れていく...こんな悪循環の繰り返しの中で、テレビというマスコミの主要な一角は、自らの衰退・滅亡という運命すら、最後まで傍観・逃避的姿勢を貫いてゆくのだろう。
 もちろんテレビを先駆けとして、全てのマスコミが今、自分達の破滅への歩みを傍観している状況にあるだろう。日々の業務そのものが他者の現実を扱うものであるという傍観者特有の性格上、いざ自分達自身が困難な現実に直面しても、それを直視しない逃避的姿勢に「反射」してしまうことは避けられないだろう。
 しかし他方我々は、今「みんな不全・滅亡への危機」という人類共通の切迫した問題を抱え、この解決的方向の模索という緊急的課題にあたって、今日のマスコミのこのような実態をまさに「反面教師」として歓迎すべきだろう。つまり、マスコミが今までやってきたことと、正反対のことをしてゆけば良いのである。少数の傍観者による支配的共認世界から、多数の当事者による普遍的(本源的)共認世界への移行。そのモデルは、「反旧体制」「反旧観念」なのだから。しかしだからといって、来るべき新しい共認形成が明確な輪郭を帯びて見えてくるためには、今後の我々による更なる事実の追求・分析が求められるだろう。

ジャック・ダニエル 
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大手メディアは今回も・・・

Posted by ななし on 06.2013 記事 0 comments 0 trackback
もし生きていらっしゃれば、現在イラクのバグダッドにいる日本人のHPにこんなくだりがあります。

リンク

>あれほど連日アフガニスタン報道一色で、タリバンの非人道的な政策などを喚き立てていた日本のメディアは、その実、この間彼以外誰一人としてタリバンを見もしなかったのだ。

>見ていない、事実を確認していないものを批判するのは報道の立場として明確におかしいのではないかと思うのだが、今回のアフガニスタンではタリバンとビン・ラーディン氏を、一昨年はチェチェン・イスラム勢力を、やはり大手メディアの誰一人として取材しないまま、現地の「強い方の」政府の発表を垂れ流し、ときには誇張さえして、プロパガンダ、あるいはデマゴーグの役割を果たし続けた。

<中略>

>いつものことだが、最低限、水準に達した仕事をするジャーナリストはあまりにも少数で、ちゃんちゃらおかしい問題外の連中の声だけが大きい。(2002/01/11の日記より)

今回のイラク戦争でも同様と思われます。

・・・サイト上の彼(常岡浩介氏)の最新の日記は、3月24日で途切れています。
(同じく、生きていらっしゃれば今バグダッドにいる日本人写真家、久保田氏の日記も25日の午後2時以来更新されていません。ご無事を祈ります。
リンク )


蘆原健吾
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「もやもや」という統合不全

Posted by ななし on 04.2013 記事 0 comments 0 trackback
昨日深夜TVで「10代しゃべり場」を久しぶりに見ました。

18歳の女性が「もやもやはどうすればいいのか」のようなテーマで話していたように記憶しています。その中で彼女がもやもやを説明するために「ストレス」と「もやもや」を比較していた。
彼女なりに考えたのが以下のような説明でした。
「ストレス」は外圧が加わって肉体や精神が痛むもの、つまり原因が比較的明確。
「もやもや」は明確な原因がわからないが自分の中に溜まった何かが耐え切れなくなる違和感。ストレスと違って原因がわからない分対処のしようがない。溜まった結果、切れたり自殺の衝動に駆られたりする。

~もやもやの実態は何かで議論が始まった。
彼女が言うには親や大人が自分に期待するありようと自分がそうありたい、あるべきという世界との間のギャップがそうさせるという。・・・この言葉どおり聞けばなんだ、いつの時代にもあることじゃないと聞き逃しそうなのだが、彼女の感じているもやもやとはそんな言葉では説明できないような得体のしれないもののように感じた。
一言で言えば大人や親が提示する旧い私権価値と自分の潜在思念でとらえている新しい可能性のずれのようなものが生起しているのではないかと思う。そうであれば確かに単純なストレスではない。
場と主体のズレ(実現論4_4_01)は若年世代の多感な時期こそ最も肉体を直撃しているのではないだろうか?その生の声を始めて聞いたように思った。
彼女はこうも語っていた。大きな社会を対象化できて自分がその社会の一部分に位置しているという実感が伴うことができればもやもやから脱出できるように思うと。
また、この番組でもやもやの話を取り上げてほしかったのは同じように思っている視聴者に何らかのメッセージを与えることができたらと思ったという。(もやもやの実態=社会不全はのど元まで出てきていた)

彼女の潜在思念からしぼりだす言葉はしゃべり場では同じ10代の子ども達同士では解り合えず、議論の中で平易な私権価値にずりおちていった。がっかりした。
「もやもやは誰にでも有る。考え方を変えればいいんだ」、とか「誰にもそれは理解できない事、自分なりにつきあっていくしかない」とか。「もやもやというマイナスも裏返せば向上心だ」とか。

しかしその中で一人の男性からいい意見が出てきた。
もやもやは一人で考えているからだ。それを人と共有することを考えてみてはどうだろうか?もやもやを人に話し、相手からも聞く事で「もやもや」でなく「なんとかしようという」前向きな課題になるように思う。~はっきり記憶していないが、自分に向かわず人を求めていく事、協働が鍵というような内容だったと思う。議論が動くと思った。

しかしゲストで来ていた作家の高橋源一郎が介入してきて、その意見をずれた答えとして批判した上で、もやもやを個人の問題として結論づけた。もやもやとはとはうまく付き合いなさい。もやもやがあるから活力が生まれる。自分の中のもやもやは創造の源。年を経るに連れもやもやは減っていく。若いうちのもやもやは素晴らしいこと。といった内容。
いかにも旧観念でうまくまとめたが彼女がその答えで納得できたとは思えない。

もやもやの実態(統合不全)になんら触れられることなく番組は終わった。


田野健
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テレビと私。

Posted by ななし on 02.2013 記事 0 comments 0 trackback
私はテレビをほとんど見ない。何故見ないか?少し考えてみた。するとまず、面白いとか面白くないとか以前の問題であることに気づいた。それは、私にとってテレビが必要であるか必要ではないか、という問題ということである。例えばニュース等の情報であれば私はテレビではなく新聞から情報を得ている。エンターテイメイントであれば本であったりスポーツで充足している。と言う訳で私にはテレビを見る必要性が全くといっていいほどないのだ。それではこの会議室の議題である「テレビが面白くない理由」にそぐわないので、テレビを見てみる事にした。
 見てみて気づいた事は、まずテレビには恐ろしくリアリティーがない、ということである。まさに虚構の世界。パラレルワールドである。それはなぜか?それはテレビに限らずマスコミ等に代表されるインテリの発信階級の認識というものが、現実の社会に生きている人達の認識とかけ離れているからであると思う。彼らが発信する認識は旧観念によって生み出された逃避の観念であるのだろう。現実とずれている認識を一方的に流しているだけなのだ。面白くないのも当然である。
 現在の私達の活力は「みんな期待」に応えることである。携帯電話やインターネットの爆発的な普及がそれを物語っている。お互いの認識の交換とはかけ離れているテレビに代表されるマスコミ達は、もう私達の活力とはなり得ないと感じた。

匿名希望
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