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テレビを見なくなった理由~自分自身を振り返って~

Posted by ななし on 31.2013 記事 0 comments 0 trackback
私は日常テレビを見ることがほとんどない。なぜかという理由を追求したことはあまりなかったが、自分自身昔に比べて確実にテレビを見ることが減っている事をよく実感はしていた。私はこの自分の変化をこの投稿を機に振り返ってみたいと思う。

 そもそもなぜ昔はテレビを見ていたのだろう。小、中学校の頃は学校での友達との話題がもっぱらドラマや娯楽番組の事についてであった。自分だけではなく、周りの友達もみんなが見ていた。あの頃は母親に注意されてもテレビの前に噛り付いていたことをよく覚えている。テレビを見ないと友達との会話に取り残されてしまうような不安感もあったが、もちろんテレビを面白いと感じていたのが第一の理由だ。

 しかしなぜ今はテレビを面白いと感じることができなくなったのであろう。家に帰ってテレビをつけてみても、凝視するのではなくただ音が流れているだけ。そしてその内その音さえも雑音にしか感じることができず、電源を切る。これが私の今の現状である。

 過去と現在と何が変わったのだろう。
 テレビは何が変わったのだろうか。
 私がテレビの変化として思いつくのは、視聴率獲得の為に何もかもが大げさに報道されるようになった事、そして虚偽を伝える番組が増えた事くらいである。
 しかし私達のニーズは変化している。一方的な放送、過度な表現、虚偽の情報、そのようなものは何も求めていない。人々は今、人との交流、現実の直視、自ら得る実感や喜びを求めている。

 つまり今、人々は事実を基にした自分も関わることのできる場を求めている。しかしテレビ側はその事に気づかず、注目を繋ぎとめようと更に虚偽をエスカレートして一方的な放送を繰り返す。そしてこの方向の違いは日増しにエスカレートして行き、完全に供給と需要の破談が起こる。もはや自分達が求めているものはもうテレビでは満たされなくなってしまったのだ。

 そう考えていくと人々がテレビ離れをしていることはむしろ当然である。起こるべくして起こってしまった結果なのだ。これからはもう娯楽をテレビに求めるのではなく、自分の手で何かを起こしていかなければ、本当の楽しさや喜び、やりがい、充実感は得られないだろう。その事に気づいた人はもうこのるいネットや、多くの方と意見を交わせる交流会などの参加を始めている。

 私自身、普段何も考えずに過ごしていたらテレビが面白くない理由も何か考えようともせず、終わっていたかもしれない。しかしこれからの時代、受身だけでいるのではなく、自分が主体となって行動して行きたいという願望を持つ人々は更に増えていくだろう。
 そうなれば、つい10年程前まではみんなの情報源であったテレビが全く不必要なものになっていくのではないか、とすら私は感じている。

小坂真美
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進化論

Posted by ななし on 29.2013 記事 1 comments 0 trackback
既にみんな気づき始めている。変わったのは人々の意識、時代なのだと。
テレビは進化しない(してない)。テレビが発明された当時は活字でしか体験できなかった世界を、よりリアルに、よりクリアに表現した。面白く(新鮮に)感じただろう。さらにテレビを持つことは、かつて一種のステイタスであり私権統合の象徴でもあった。

しかし、現代は文明が発達し物品は溢れ、単なる利便性や表層的なリアルさに感覚を刺激されなくなった。人々の気持ちは、単に物欲でなく精神的な癒し、本質的な豊かさを追求し始める時代に突入している。
人間は常に新鮮さ、刺激を求めることで進化を続けてきた。
それらは体感、実感、といった感覚と実体験により紡がれ、創造性のある思考、行動によって充たされるものだ。

テレビのリアルすぎるリアル(作られたリアル)に、視聴者の思考は止められ、創造性は喚起されない。みんなそのことに気づき始めた(飽き始めた)。活字でさえ場面を想像し、文脈を理解しようと思考させられる。さらに会話においては、議論を生み喜怒哀楽様々なリアクションが返ってくる。
もはやテレビは時代遅れなのだ。

次代(というか現在)は、面と面、言葉と言葉といった、思考しリアクションの期待できるツール(例えば携帯電話、インターネット)が主流となるだろう。
不特定多数を相手とし、一方的に押し付ける。能動的アクションを起こさせないテレビには思考、創造性といった自己(人)を形成する(成長させる)、人間にとって本源的な要素を見出すことはできない。

テレビは進化する次代の激流についていけなくなったのだ。時代の進化についていけないものが淘汰されるのは自然の摂理ではないだろうか。でも時代は、人間は進化をやめないだろう。

テレビが面白くなくなった、そうではないみんなの面白いと思う感覚や時代のニーズが進化したのだ。

小高浩之
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発信に対する反応を得られる場が開かれて

Posted by ななし on 27.2013 記事 0 comments 0 trackback
私自身、テレビを観ていることや、これは観たいと思うテレビが以前よりも明らかに減っている。私の周りの人々や友人にもテレビ離れが進んでいる。「面白くない」と言う言葉をよく耳にするようになった。
  
 ナゼだろう。

 笑いを求め過ぎているバラエティー。何をしてでも笑いをもたらそうとしている。笑いは麻痺してしまっている。個人的なことや私生活などプライバシーに関わることも多く、それもおもしろおかしくみせて笑っている。クイズに正解したり、何かに成功すれば多額の賞金を貰えるものも目立つ。お金(や地位)の獲得を活力源としている傍観者の旧観念がテレビの中ではまだ生きている。まさに、現実逃避ではないだろうか。
このようなものは、現代、急速に衰弱しえいるというのに・・・。

 それに加えて、テレビと私達(観る側)とは、一方通行な関係である。私たちは、テレビに発信(応望)しても、その反応(充足)を得る事は出来ない。常に、あちら側から次々と流れてくるだけである。

 現在、私達は発信に対しての反応を待っている。反応が欲しいのだ。おもしろいことに、一方通行であるテレビに対しても話しかけたり、ツッコミをする人がいるらしい。それほどまでに、本当に私達は反応(充足)を求めている。共認の場を求めている事を示しているのではないだろうか。

 ここ数年、住民運動・市民運動やNGO活動・NPO活動への参加が以前に増して注目され、活発となってきている。一般の人々が主になって、何かに取り組む活動が盛んになってきている。また、これらのほとんどが、参加したいと思えば自分の意志で入ることができる。その入り口も広く開かれている。最近で言えば、住民投票や反戦デモなどである。
この、るいネットも勿論そうである。
 これらには、一人ひとりが当事者であるという共通点がある。自分達で創ってゆこう、変えてゆこうという動きであり、それを実現・可能にしたものも既にある。反応もダイレクトに返ってくる。
 私達は、少しづつではあるようだが、自分達で動けば反応(充足)が得られると言うことを知り始めている。

 私権統合の時代は衰え、共認の場や反応を求めるようになった今日。自らの意志で動けるようになり、反応(充足)を得る事のできる場、当事者になれる場も色々と出来つつある。受身の一方通行で反応が得られない、当事者になれないものに対しておもしろくないと感じるのは当然ではないだろうか。

  

杉江由衣
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若者の意識を混濁させる元凶「自己実現」

Posted by ななし on 25.2013 記事 0 comments 0 trackback
先日、深夜にNHKで放映されていた「しゃべり場」を観たときのことです。たしか、千原兄弟の弟だったかな・・・。かつては一世風靡していた漫才師だったんですが、そのときは意見役として場に参加していました。

そこで彼が発言していた内容は全て「自分」発であり、夢や目標を達成させるには他人の意見や行動に影響されてはいけない。
全て「自分」で完結しなければいけない。
「みんなのため」とか「みんなで」ということを言ってる奴は自立していない証拠であり甘っちょろい奴。

という意見で括ろうとしてしており、周りの若者の発言が暗く内向きになっていくのがわかりました。

私はとさかにきて、
おもわずTVに向かってこう叫んでしまいました。
「本当にそう思っているのだったら、若者にその意見を押し付けるな!結局お前も、みんなの中でしか(他人の反応でしか)「自己完結・自己実現」とやらのお前が思う崇高な内容を確認できへんねやんけ!他人にその意見を言ってる時点でおまえの言ってることは矛盾してるし、はっきりいって詐欺行為や!ならおまえは絶対他人とかかわり持つことなく漫才せえよ!」

この馬鹿たれな漫才師に限らず、まだこういった大人たちがわんさかいることは大体想像はつきます。そういった人たちが、若者の意識を分裂させている元凶なんだと皆に気付いてもらうことが大事だと思いました。



匿名希望
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社会をまともに考えられない

Posted by ななし on 23.2013 記事 0 comments 0 trackback
先日、高校時代の親友たちと集まったときのこと。
意図せずにいつのまにか話は社会問題へと発展していました。

そこで、友人の一人がこう言いました。
「テレビを見ても、どこか遠い感じがする。ニュースで地元が映っても、その時は実感がわくけど、すぐに消えてしまう」

もう一人もこう続けました。
「戦争のニュースとか聞くと、私は自衛官の友人がいるからなんか少しはリアリティーを感じるけど、普通の人は違うんだろうなって思う」

そこから、「リアリティーのない社会の話」に花が咲いたのですが、私はふと思いました。一体、いつから「社会の話」=「テレビニュースの話題」になってしまったんだろう、と。

私たちは、「社会的なこと」(まじめな話)と言えばすぐに「ニュースの話題」を出してしまいます。でも、実はそれが「一番の問題」なのではないのでしょうか。それは、「見るだけでなすすべのない世界、それが社会」と思い込んでいる(思い込まされている)ことの証拠のように思うのです。

>この社会は、人々の共認によって成り立っている。ところが、これまでは一握りの知識階級が、この共認を支配してきた。つまり、専ら学者や芸術家やマスコミなど専門家だけが様々な認識を作り出し、人々は、彼らが撒き散らす認識を受信するしかなかった。(トップページ)

あらためて、傍観者の構造を恐ろしく思います。
テレビが面白くない理由も、社会が遠く感じる理由も、結局同じ。
傍観構造で、当事者になるすべが見つからないから。


吉岡摩哉
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満足と不満足

Posted by ななし on 21.2013 記事 0 comments 0 trackback
友人と集まっている時、テレビをつけるか?
おそらく私は、つけないだろう。理由は、テレビより友人とさわぐ方が楽しいからである。

こんな具体例は、他にないかと考えた。
するとたくさんあった。テレビよりおもしろい事に熱中し、満足している自分を発見したのだ。

友人とのメールのやりとり、CDを聞く、写真を撮りに行く、インターネットをする、人と会う、スポーツをするなどだ。
では、テレビと何が違うのか?
それは、私自身が主体となって、活動していること。それだけである。

友達とのメールで双方向のやりとりができる。
自分が癒される音楽が聞ける。
写真を撮りに出かけると、新たな出会いや事実の発見がある。
インターネットで、得たい情報が手に入る。
人と会うと、批判されたり、笑ったり、泣いたり、刺激が受けれる。
自らが体を動かし、汗がかける。

こういったことが、テレビの前でできるのだろうか。

テレビでは、双方向のやりとりができない。
自分の求める音楽じゃない。時々、刺激の強すぎる音楽によって、気分を害される。
テレビ画面を写真に撮っても出会いや、事実の発見に繋がらない。
求める情報が入らない。
テレビは、批判してくれない、笑ってくれない、泣いてくれない。
参加者が、お金や賞品を求めて競技に挑戦する。私がもらえるわけでもない。見ているだけで、つまらない。


こんなんじゃ、おもしろくない。刺激がほしい。私は、そう考えテレビから離れてしまう。

ここでもう一つ、テレビ番組の内容について例を挙げてみたい。

見たいと思う所で、次回へ先延ばし。視聴率獲得のためだろうか。
放送禁止用語が多すぎる。出演者は楽しいだろうが、傍観者の私達は、何について笑っているかさえ解からず、全く楽しめない。
恋愛ドキュメントと称した“やらせ”。出演者本人から、直接聞いた。「自分が思ってもない事を相手に告白した」と。
モザイクをかけた、もしくは、本人になりきった代替の人物が登場してきて、その人にむけて、誹謗中傷する。いったい何がしたいのか。出演者も少しあきれた様子だが、参加する。お金と名誉のためなのか。
上辺だけのケータイCM。メール送信料があがったことなど知らされるはずもなく、お得な情報のみがCMで流れている。

いったい、どこからが、本物の情報で、どこからが、偽りの情報なのか。
私が独り言のようにつぶやくだけでも、こんなに多くの不満があるのだから、きっとここに訪れている皆さんもテレビに大きな不満をかかえているのだろう。

つまり、テレビがおもしろくないのは、主体が自分自身でないからであり、さらに加えてマスコミの空回り(私達との意識の差=大きなずれ)が大きな要因となる。

しかし、ここに集まった私たち以外の多くの人々は、マスコミに流され、自分の意見を与えてもらう余地を失い、テレビという媒体に疑問すら感じてないのではないか。
マスコミは、私から言うと空回りをしているようにしか見えないが、マスコミによって余計で大げさな情報を鵜呑みにしてしまった人達は、非常に危険である。

そういった人達が早く固定観念を捨て、私達と一緒に現実を直視でき、テレビが面白くない理由について語り合えた時、世の中は、少し変わるのではないでしょうか?



米坂亜紀
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「娯楽」としてのテレビ

Posted by ななし on 19.2013 記事 0 comments 0 trackback
私が思うに、テレビが面白くないと感じるのは、今目の前にもっと面白い現実があるからではないだろうか?

 私は高校の頃まで、まさにテレビっ子であった。学校から帰るとただひたすらテレビを見ていた。テレビを見る以外何もしていない、と言っても過言ではないほどに。なぜなのかはわからない。ただ一つはっきりしているのは、その頃私は、何か不完全燃焼で生活そのものがつまらなかった。 大学に入ると、一転テレビは全く見なくなった。見る時間もなかったが、別に見たいとも思わなかった。むしろ、テレビを見る時間がムダに思えた。大学に入った私は、完全燃焼する場を見つけ、現実の世界に夢中だった。
 そして今、大学を卒業し、専門学校に通っている。何もない夜、家に帰ると、ぼーっとテレビを見ていることがある。本を読もうとしても、勉強をしようとしても、疲れて能動的に動けない。だからつい受身でいられるテレビを見てしまう。すると、結構面白かったりする。下らない事に笑え、虚構の世界にも感動する・・・。

 人は、生きている限り、何か心の動きを求めているように思う。喜怒哀楽という情動は、生きていく「張り合い」となる。それが無いと人は「つまらない」と感じ、何か楽しいことはないかと探したりする。それをカバーするものが「娯楽」であり、その一つがテレビの存在である。心に何もないときテレビは、ささやかな笑い、感動などの情動を与えてくれ、わずかな心の潤いを与えてくれる。逆に、今生きている現実そのものに「張り合い」があるとき、その補助機能であるテレビは何の役にも立たず、ムダな物にすら思える。 

 高校の頃までの私には何もなかった。日々の暮らしの中に取り立てて悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも、嬉しいことも。だからテレビが演出する喜怒哀楽に共感し、憧れた。しかし、殻から抜け出した私は知ってしまった、現実の方が面白い事を。テレビが与えてくれる感動など所詮他人事で、虚構で、到底実感としての感動(心の動き)にはかなわない事を。そんな時に見るテレビは、不快にしか感じられず、まるで面白くなかった。現実の方がずっと面白かった。そして今、私は再び、あの頃のような喜怒哀楽の無い生活を送っている。すると、テレビが意外に面白い。実感ではないにしてもささやかな情動を感じることができる。少しは心が潤されるのだ。ただ、一度現実の面白さを知ってしまった私は、これでは満たされないでいる。今の、この生活を、足早に駆け抜けようとしている。
 
 テレビが面白くないとき、それは現実が「生き生き」している証拠ではないかと思う。

板谷真紀 
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本当におもしろかったのだろうか

Posted by ななし on 17.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビに対する数々の不満というのは昔からあったと思いますが、
昔はもっと面白かったという声も多く聞きます。
昔、TVはどのような捉え方をされていたのでしょうか。
はたして、本当に面白かったのでしょうか。

戦後50年間で、カラーテレビは急速に普及しました。
テレビが世に出て間もない頃は、近所にテレビを持っている家があると、皆でそこに集まり、プロレス観戦をしていたと聞きます。
テレビを通してヒーローが生まれ、皆それに憧れました。
彼らはそれを確かに、面白いと感じていたのでしょう。
だからこそ、TV普及が広まったわけですし、TVを見るという習慣もついたはずです。
そして人々のニーズに応えるように、民報の数も増え、TVは多彩な情報を配信できるようになりました。
技術レベルも格段に上がりました。
TVを取り巻く環境は、急速に「進化」したと言ってもよいでしょう。

つまり、TVが面白かったと仮定するならば、TVは私たちにとって、もっともっと面白くなっている はず なのです。

しかしながら現在、るいネットに寄せられる多くの投稿は、TV離れのベクトルを示しています。
この事実は、現在の情報の急激な「進化」というものに、人類が対応できていないということを如実に表している証拠といって良いのではないでしょうか。

人類が予期も対策もできなかった、情報の供給過多という時代において、その情報の価値を自分自身で判断するということ。同じく伝達方法の多様化競争に陥った配信側がその一つ一つの価値を自己判断するということ。
これは今まで「情報の妄信」という形で自己充足してきた人類が踏み出した暗黒の領域であり、人は無意識にもそのダークゾーンを避けようとしているのではないでしょうか。
TVを面白く感じない、
「何か違うよ」
という漠然とした不満。
それこそが新観念の発生の根源と考えられます。

そう考えると、TVに対しての考え方が変わります。
「以前のTVが面白かった」という考えは、旧観念の中の「妄信」という概念によって感じたものであり、
その境界を取り除くと、私たちは逆に「TVは面白いものではない」と認識することも出来るわけです。



北村太郎 
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当事者としての勉強が今、必要

Posted by ななし on 15.2013 記事 0 comments 0 trackback
>私たちの頭は、テレビや新聞、おしゃべりで社会問題を見聞きすると、自動的に旧観念=代償観念が空回りするように習慣化されています。そして、なんとなく結論(=価値判断)を下して、それで終い。頭の中だけの即自回答=代償充足を得るだけで、それでは何も変っていかない現実を捨象しているのが、私たちの意識状況(傍観)です。 (37518)

 テレビを見たり新聞を読んだりして、なんとなくそうなんだと判断してしまい、先行きを見守るというスタンスに陥ってしまう。専門家の判断に任せて、傍観者的立場になっているのが問題である。

>仕事・仲間関係・社会、どれをとっても新しい現象が現れている。
その状況下において、何かを考えるための足がかりになる観念基盤が奪われているままに、無理やり考えても、頭の中を埋め尽くしている旧観念=代償観念に嵌まり込んでいくだけ。これでは、いくらがんばっても当事者にはなれるはずもない。(37414)

 傍観者から当事者へと立場を変え、今何が必要なのか。さらに、それが何故必要なのか。お互いに追求していくような場(認識交流会)にて、世代を超えて、ともに考えていく状況に迫られていると思います。

>当事者・傍観者論を聞いた当初、当事者になれないのは各個の努力なり資質なりのせいだと想う節がありましたがそれが完全に誤りだった事を痛感しています。
努力が必要なのではなく、当事者になれる突破口(新しい現実を対象化できる構造認識)こそ必要。

 そのための当事者としての勉強の場が認識交流会で、今、それこそが必要なのだと再認識しました。



秋崎幸彦
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エンターテイメントの世界から現実の社会に飛び出そう!

Posted by ななし on 13.2013 記事 0 comments 0 trackback
昔は学校から帰るとすぐテレビをつけるほどテレビ好きだったのに、テレビがおもしろくなくなったのはなぜか?
高校生のときは、ドラマもニュース番組もよく見ていた。討論番組を見て、父と討論した。
しかし、今、討論番組を見てみると、人の意見を聞かず、自分の意見さえも述べていないことに気がつく。体面だけ取り繕って、さしさわりのないことしか言わない。何の解決策も示さない。これで私たちが何か考えられるわけがない。
テレビはすべてエンターテイメント化されているのだ。視聴率稼ぎのための番組、キャスティング、現実離れしたストーリーは見たあとに心に何も残らない。
私はテレビによって脚色されていない本当の社会の動きを知りたいのだ。私以外の人が何を考え、何をしているのかを知りたいと思っている。しかし、テレビは視覚的に人々に訴えかけ、一方的に答えのようなもの(全く答えになっていない)を送りつける。人々は答えを得たかのように思い、思考を停止してしまう。
私は、大学に入って、理想とする将来像を自分で描くトレーニングをしてテレビの非現実さに気づきはじめた。これはダメ、あれはダメと現状を悲観するだけで、将来のために、今をどのように変えていくかを、テレビは教えてくれなかった。そもそも、テレビは娯楽のために作られたのだ。テレビに、新しい社会の枠組みへの答えを求めることが間違っていたのかもしれない。
私たちが求める社会を作るためには、私たち自身が動いて、その輪を広げていくしかないのだ。私たちが、現実の社会で人と話すことによって自分を成長させ、相手の成長をもうながすことができるのだ。

末次規子
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虚構の世界

Posted by ななし on 11.2013 記事 0 comments 0 trackback
少し前に長時間にわたる生放送番組に関わったことがあり、その時に初めてテレビが虚構の世界であることを目の当りにしました。それをきっかけに「テレビで流されていること=虚構の世界」であることを実感したのです。それまでにもテレビが流しているのは生放送であれ、ドキュメンタリーであれ虚構の世界であるということを感じてはいました。しかし、実際に見ていると真実であるかのように見えてしまいます。かなり違和感のある真実ですが。
その私の関わった番組では、実際にその現場での本当の流れや、出来事とはかなりかけ離れている。つまり、過度に脚色されたドラマとなり、完全な創りものとなって放送されているのでした。アナウンサーはあたかも目の前でそのような事実があるように視聴者に伝えていました。放送する側としてはそのように、ドラマ化して良い絵にすることで視聴者の心を捉えることができると思っているのでしょう。しかし、その場にいたいつもは視聴者側である私たち素人の誰もがそれに驚き、テレビへの疑問を語らずにはいられませんでした。
確かに視聴者もテレビの世界が虚構の世界であることは感じているのですが、実感する機会がないのです。だから、テレビに疑問を感じながらもそれを信用せざるを得なくなってしまっています。しかし、テレビの流す虚構の世界を目の当りにした時から、報道番組などですら「創っているんだろうな。」という気持ちを無意識のうちに持ってしまいます。テレビ側が視聴者の心を捉えようとして行っている行為が視聴者を突き放しているように思います。
「先が見えない世の中」そこから如何にして先を見るかを視聴者に伝えるはずのマスコミが現実を直視せずに虚構の世界ばかり求めて、視聴者にも一方的にそれを押しつけています。視聴者は虚構の世界が無意味なものであることに気がついています。

臼倉珠江 
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人々が気づき始めたから。 Gemeinschaft⇒Gesellschaft...認識共有でこのベクトルの向きを逆にしてしまえ!

Posted by ななし on 09.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビが面白くないことと現代の閉塞は密接な関わりがあります。
 
 既存の権力者はこれまで、孔子の言う「民は知らしむべからず、依らしむべし。」という言葉のように自分自身の地位を守るために情報を独占し、情報操作を行うことにより人々を無知にする情報発信の方法をとってきました。例えば、臨場感のある映像を交えて誰でも簡単に分かるように分かるような情報発信をして、自分があたかもその場に居合わせたような気にさせたり、あたかも自分が政治に参加しているような気にさせつつ、結局は何もさせないような方法をとることによって人々を彼ら自身の掌の中で動かしていました。
 
 このような方法をとることによって人々は、現実とテレビの情報を混同するようになり、直面する問題に責任を持って取り組む姿勢や、そのために議論を通じて意思決定を行うことができなくなるようになりました。実際、過去を振り返ると私も討論番組は好きでよく見ていましたが、それだけで自分があたかも議論に参加し、政治に関与している気分に浸っていました。しかし近年、そのような自分たちがテレビという情報提供システムは全く議論に関わることができていないことを悟り始めました。そして、テレビが面白くないと感じ始めるようになりました。

 現代の閉塞の根源はここにあります。つまり、テレビがその途中経過にある情報操作という過程を通過するためにそれが自分の日常や認識とかけ離れたものになっているにも関わらず、その疑問を提示し、“議論にかける”ことができないのです。この「自分も行動を起こしたいのに行動を起こす方法がテレビにはない。」どうすることもできない不満を人々は持ち始め、結果、閉塞するに至ったのです。

 このような閉塞の解決の糸口となっているのがインターネットです。インターネットによって、これまでの自分の認識や疑問を“議論にかける”ということが出来るようになりました。その議論の方向が正しいものであるかは別問題として、“議論にかける”というプロセスを経ることによって始めて認識を共有することが出来るのです。

 認識を共有するための議論に対する人々の欲求は日々高まっています。その証拠がこの『るいネット』に参加されている方々であったり、全く知らない人から送られてくる反戦に参加するよう呼びかけるチェーンメールの増加(これはウイルスのこともあって怖いのですが)であるのだと思います。まだインターネットはテレビに比べて歴史も浅いので通信速度やセーフティー面などの問題もありますが、将来、認識共有の議論がより活発に全世界的に行われるようになれば私権統合は完全に姿を消し、全世界的ゲマインシャフトのような新しい社会になっていくのではないでしょうか。


江本吉隆
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千尋とカオナシ

Posted by ななし on 07.2013 記事 0 comments 0 trackback
私が面白さを感じる瞬間。絵を描いたり、何かを創り出そうとしているとき。本を読んでいるとき、時間を忘れて読み続けてしまうとき。友達や家族との終わりのない話し合い、口論、談笑。新しい場所、自分の知らない土地に出向く旅行。未経験事項を経験済み事項に変えていく瞬間。授業の課題をやっつける(やり遂げる)時間。恋愛。
私の生活には多くの「面白さを感じる瞬間、面白さを確認する瞬間」がある。面白さ。それは私の生活を活気づけ、それに刺激を与えるものである。または面白さが私を奮い立たせたり、前向きに明るく進んでいくきっかけを与えてくれたりする。
しかしここ最近、テレビが私の生活を活気づけたことはない。私を前向きにしたことも、刺激を与えてくれたこともない。面白くないのだ。全然。
私が面白さを感じる行為と、「テレビをみる」という行為とを比べながらなぜテレビがこうも面白くなくなってしまったかを考察してみたい。
絵を描いたり、モノを作ったり、本を読むという行為に関して共通して言えるのは、主体が完全に私という事実である。私は自分が何を求めているのか、何がしたいのか、どうしてそれがしたいのかがはっきりわかっている。自分が欲することをこなしていく行為は面白い。しかしテレビを見るとき完全な主体は自分ではない。求めているものが返ってくる保障もない。むしろ期待はずれなものが無造作に放たれたりもする。選んで見た番組でも同じことが言える。
友達や家族との時間、旅行、恋愛等行為に関してはキャッチボール的面白さがある。何かが絶対に返ってくる、予想外の反応や予定外のハプニング、それらは生活を刺激的にする。何に関しても、一方通行で反応や成果が返ってこないのは面白くない。テレビは常に一方通行である。ただ情報のシャワーを私たちに浴びせるだけで、私たちの問いかけや欲求に応えてくれることはない。
自分の体感を一般的に考えると次のようなことが言えると思う。まず、私達現代人は「自分が何を求めているか」が比較的はっきりしている。だから、何がしたいかも何が知りたいかも、何が欲しいかも明確なのだ。そしてそれを「どうやって」得るかを知っている。貧困が消滅し、物質的にも精神的飽和状態にある現代では足りないものを見つける方が難しい。だから、むやみやたらにむやみやたらな情報を放っても誰も「欲する」ことはないのだと思う。映画「千と千尋の神隠し」で、千尋が巨大化したカオナシの押し付ける金を無表情に「いらない、あたしが欲しいものあなたには絶対出せない」と言い放つ場面がある。今日のテレビと私達はまさにあの状態なのではないだろうか。
人間関係において一方通行で反応や成果が返ってこないのは、「心」がない繋がり、付き合いであるといえる。「心に伝わるもの」は大切である。しかしテレビからは心に伝わるものはない。淡々と告げられるニュース、バラエティーに富んでないバラエティー番組、お決まりの音楽番組。心が揺さぶられたり、心が躍ることもない、極端に言うと「無」の状態に陥ってしまう。
これら大きくふたつの理由でかつては文明の利器であったテレビが、今では虚無・混沌状態をもたらす文明の危機と化している。というのは言い過ぎだろうか。

 


匿名希望
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面白くないのは当たり前

Posted by ななし on 05.2013 記事 0 comments 0 trackback
私が小さい頃テレビはすごくおもしろかった。毎日毎日テレビにかじりついていたように思う。なのに今はどうだろうか。見ない日のほうが多いかもしれない。これには自分自身の要因と、テレビの要因が考えられる。
 自分自身の要因とは、自分が成長したことによって興味がテレビ以外の違うことに移ったことである。成長するにつれて、テレビより面白いものを発見する。私ならテレビを見るのならテニスをしてたいと思う。いつのまにかテレビを見ることが有意義な時間とは思わなくなるのだ。また、時間が無くなったことも関係しているだろう。学校や、バイト、趣味で時間がなくなり無意識にテレビから離れてしまった。そのときにふと、テレビがなくても支障がない自分に気付く。そしてテレビに必要性がないことを確認し、テレビが面白くなくなった瞬間に出会う。

 次に、テレビの要因は、テレビの流す内容に問題があるように思える。視聴率アップのやらせ番組が多く、うんざりされられることが多い。またワイドショーなどの報道には目に余るものがあり、事件の分析・現場検証・犯人像の絞込みと、もはやマスコミがやるべきことでないものにまで手を出している。そして時間が経てば何もなかったかのように忘れられる。そのようなテレビに誰が面白みを感じるだろうか。刺激があればおもしろいかもしれない。しかしテレビはその刺激を勘違いしているのではないだろうか。大人になるにつれてテレビの本質が見えてきて面白いと感じなくなるのは普通のことなのである。

 最後に私は、テレビが面白くないと感じるということはとても人間的なことだと感じた。テレビより面白いことがある方が素晴らしい。人間だからこそテレビという一方的な物よりも一緒に笑えたり、意見を言い合えたりする人間のほうが面白いに決まっているのだ。

 


小西陽子
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傍観者マスコミも、大勢が気付きを得ることができたら変われるかも。

Posted by ななし on 03.2013 記事 0 comments 0 trackback
私はちょっと前まで社会の傍観者として、マスコミに憧れを持っていました。
 以前、マスコミ関係の人と話をしていて、カメラマンについての話題になり、「いいなあ。カメラマンかあ。かっこいいなあ。」ともらしたところ、「いやぁ。あんたにはきついかもよ。」という答えが返ってきました。なぜか。

 ある日ある場所で大変な被害の大火事がおこり、多くのテレビ局の取材班が先を争って現場に向かいました。そして次の日カメラマンたちは、他社ニュースの火事の映像と自分たちの火事の映像を見て誇らしげに言うのだそうです。「俺のが一番炎がよくまわっているのがよく撮れてる。」

 わたしはここで“火事”を“社会”におきかえるとマスコミの現在の社会におけるありかたが明確になると思いました。傍観者というあり方。傍観者にならざるを得ないというあり方。

 でもマスコミを形成する人々も普通の人間です。自分たちなりに正しいと信じる考えをもっている。働き者で、悩んだ末に得た信念や、仕事に対する誇りを持っている。
 しかし「自分たちなりに」というのが少し問題なのだと思います。
 マスコミを形成する人々には、「自分が夢中になれればそれでいい」という人が確かに多い気がします。その認識はマスコミ内でつくられてきたもので絶対の風潮であり(その風潮がテレビを通して発信され、人々も染める)、それが傍観者としての立場をゆるぎないものにしているのだと思います。

 先の話のカメラマンも、仕事についたはじめの頃はものすごく葛藤したと思います。でもそのことを相談するのは同じマスコミ内の人々とだけです。認識を形成するのも同じマスコミ内の人です。だいたいは先輩カメラマンの「つらいだろうけれど、それがカメラの仕事だから、涙をのんで割り切ってやっていかなきゃ」と言う答えに都合のよさを無意識に感じ取り、そこで思考はストップしてしまうでしょう。

 でもそのこと気付くきっかけ、場があれば、傍観者としての立場を根底から変えられる可能性は出てこないでしょうか。どのような形でかはまだイメージできず、理想論に過ぎないかもしれませんが、もしかしたらそこからテレビのあり方も変化していくことができる小さな可能性が生まれるかもしれないと思います。

 本当にテレビのあり方を変えるなら、単に非難するだけでなくマスコミにも呼びかけて、認識のぶつけ合いをする場をどうにかして設けなくてはならないのではと考えます。


武田瑞紀 
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多面的な物事を一方向からしか報道しないテレビ

Posted by ななし on 01.2013 記事 0 comments 0 trackback
>あくまで発信側の頭の中だけで造られた仮想現実の世界を映像化し、我々に提供してくれているのがテレビなのである。ある意味では精巧な贋作とも言えるのかもしれない。とはいえ所詮は偽物である(49744 )

確かに今のテレビというのは、非常に製作者の意図が反映されていて、物事の真の姿は見えていないように思う。
物事というのは、非常に多面的なものではないか、そう思っている。AさんとBさんが同時に全く同じ現実を見ても、その捉え方は少し異なっていると思う。
テレビの発信する社会現象というのは、事実を有るひとつの方向から捉えたものでしかないと思う(時には事実でさえないことを発信するが)。しかし、今の人々が知りたいと求めているのは本当の社会の姿であるのだと思う。今、社会はどこへ向かっているのか、自分達は何をしなければならないのか、という疑問を私たちは抱え、その答えを必死に探している。
物事は多面的であるのに、テレビが一方向から見た事実しか映し出さないから人々はテレビから離れていくのではないかと思う。

物事が多面的であるということは、社会自体を多面的なものとして捉えなければならないということである。多面的な社会の真の姿を捉えたいと思い、私たちは交流し、認識を深めていこうとするのだと思う。
もし今後もテレビが物事を一方向からしか報道できないようであれば、衰退の一途をたどると思う。




泉川和廣
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