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テレビで沈黙は許されない

Posted by ななし on 27.2013 記事 1 comments 0 trackback
久しぶりに、議論系の番組を見た(見ようとした)。

結局何がいいたいのかさっぱりわからない。
いわゆる知識人の一方的な発言ばかり。議論が噛み合ってない。
白熱しているところを演出しようとしているのだろうか、ただ煽るばかりの司会者。

テレビが一方的で、受信者は、その情報を受け取るのみ。気づきや発信欠乏は、その時点で流産する。

何かを得ようとしても、ただ流されるだけ。
この違和感はなんだろうか?とふと考えた。
以前、番組か何かで、「テレビで沈黙は許されない。3秒以上間が空くと、スポンサーからクレームが付く。」ということを聞いたことがある。

発信することが出来ないだけで無しに、考える時間が与えられないために、会議や勉強会の時のような追求、探求ベクトルが働かない。考えたり、噛みしめたり、発想したりする時間がない。

とうとう、雑音にしか感じられなくなり、消した。

コメンテイターの「問題は、ここに集まっていただいた方が感じている、発信してくれた危機感を、国民のみなさまがどれだけ感じてくれているかどうかです。」まさに、傍観者。

自分たちマスコミが人々に何も感じ無くさせているということを、全然わかっていない。

西村真治
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友人から得た、発信者の横暴と将来性

Posted by ななし on 25.2013 記事 0 comments 0 trackback
まずテレビにどうしても面白みを「持ってしまう」人間がいる、という現実的な前提からはじめる。

私の周りにいる友人に、「テレビが面白い」という人間が幾人かいる。だが私自身はどちらかというと、テレビとあまり面と向かわないような生活を送っている。そこで時間が空いたときに、彼ら個々人と「テレビのどの部分が面白いのか」という問いをしたことがあるのだが、返ってきた答えのほとんどが「う~ん、どこが面白いのか良くわからない」といったたぐいのものである。

そこで私は、彼らの性格、について考えてみた。そうすると彼らの共通点が見えてきた。彼ら「テレビなんとなく好き」の人間は、現状に満足していない人間、なのである。

しかし、なぜ彼らはそこで「テレビを面白がって」見るという選択をとってしまうのか。私はもう少し深くふみ込んで考えてみた。彼らの置かれている現状や性格などを想像してみた。

そうすると、私はもう一つの結論にたどり着いたのである。彼らはすべて「夢」や「理想」、「完璧さ」を追い求めている人間なのだ。私はそこでふと、かわいそうだな、と思ってしまった。彼ら友人は、つらい現実を打開するために激しく求めている「事実」を、誤ってテレビの中へ求めてしまっているのである。しかし今やテレビは、投稿している皆さんの多くが認識しているような、「ウソ捏造機」と化している。つまり、現在のテレビが放っている「現実っぽいウソ」に、彼らは見事にはまってしまっているのだ。

しかもこれは、テレビが「完全なるウソ」を人々に放たず、現実じみた感じのウソを、発信階級の願望である視聴率・視聴者獲得の目標に基づいて、人々に流しているだけ、もっとタチが悪い。さらに彼らマスコミ人間は「傍観者」という、逃げ腰じみた姿勢で受信者に発信しているのである。これはもはや、一種の横暴ではないだろうか。

テレビをなんとなく面白がってみてしまう彼らにも、非が無いわけではない。しかしやはり元凶は発信者側だ。「現実」に飢えている人間に、「現実のダミー」を見せているのだから。思うに、こうした発信・受信の関係をまず破壊し、対等な「共有者関係」を生み出すような環境・システムを作り出すことが、認識を共有するための第一歩ではなかろうか。

だがどうしてもこういった関係改善は、現在のマスコミなどの姿勢を見る限りでは難しい問題であり、苦虫を噛み潰したような思いになるのは私だけではないはずである。


匿名希望
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テレビからわかる変化の時

Posted by ななし on 23.2013 記事 0 comments 0 trackback
私の友人にも「テレビは面白くない」といっている人たちは多い。しかし、その友人たちの家に行くとなぜかテレビのスイッチはオンになっていてなんとなく番組をみて、時には話のネタになってくれたりする。

 「面白くない」と思いながらもテレビを見てしまう私たちの幼少の頃というのは、すでに高度成長を終え、「三種の神器」とはやされた3つはほぼどの家庭にも普及してしまった時期であり、誰もがテレビを毎日飽きることなく視聴していた。

 私が小学生の頃、わけあってテレビが家にない期間が1ヶ月程あった。その時期は学校に行って、友達との話題に入れないという寂しい思い出がある。そんな世代の人間が簡単に、かつ完全にテレビ離れができるとは思えない。

 その証拠に「テレビは面白くない」と思いつつもテレビを見てしまっている自分がいないだろうか?丸山さんのおっしゃる「テレビのリアリティーの欠如」、他の投稿者たちのおっしゃる「物理的価値しかない」という現状を皆、感じとっているはずだ。しかし、実行に移せていない。

 テレビばなれする、ということはまさに「旧観念からの脱出」と私は認識しているが、皆が愛想を尽かし始めているということは今が「旧観念」から「新観念」への移行時期にあるということだろう。根底からの意識の変化というものは10年や20年という短いスパンのうちで果たされるものではなくもっと長いスパンが必要で、「新観念」が形成され皆に浸透するにはまだまだ時間が必要だ。そして、そのためには「発信階級」によって観念が変化するのではなく、私達「市民」「社会形成員」が変化させなければならない。

 去年末から私は大学の友人と人間が集える「場」を作ろうとしている。知らない人間同士が集い、自分たちの考えを交換し、認識を深めていく。そんな「場」がもっと色々な所にできれば私達が生きる社会はもっと面白くなるだろう、という思いから今のところ2回開催した。今はまだ小さく発展途上だが、こういった「場」はこれから必ず必要になってくるだろう。

 この「るいネット」や「認識交流会」、私達の作ろうとする「場」のような動きが「新観念」を形成し、「社会」を変えていくだろう。



山下泰三
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テレビの限界

Posted by ななし on 21.2013 記事 0 comments 0 trackback
我々にとってテレビはものである。何か色のついた絵の映る箱である。面白くなければボタン一つで絵が変わる、絵を消す事が出来る。都合のいい時に見て、都合の悪いときには見ない。簡単すぎる、便利すぎる箱である。何もかもが自分自身の思うままだ。しかし実際、我々の生活はもっと複雑でほとんどのことが自分自身の思うようにならない。だからこそ試行錯誤を繰り返し状況を打開しよう、順応しようと答えを見つけるために考える。しかし、テレビの前で試行錯誤する人はまずいない。テレビの前でこの状況どう打開すればいいかと考える人などまずいない。ボタン一つ押せばいいのだから。ボタン一つで絵は自由自在だ。自分の気に入る絵になるまでボタンを押し続ければいい。完全に思考が停止している。我々はテレビの前では何も考えていないのである。そんなものを面白いと捉えることにこそ無理がある。

 ではテレビの前で考えれば面白くなるのか?それもまた違うと思う。テレビを見ているときに主に使うものは目と耳だ。たぶんテレビを見ていて面白いと思うことは、目と耳を通して頭が面白いと思うことだ。しかし、実際の生活で我々は目と耳とさらなる感覚、つまり五感を通して暮らしている。五感を通して得たことを事実と捉えている。頭だけでなく身体を通して現実を事実として認識している。そのためテレビを見る際の頭だけで認識する面白さには限界がある。そのため頭だけで感じる面白さに物足りなさを感じ、頭と身体を通して得られる面白さに興味を持つことは当然のことだと考える。

折目裕
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テレビは問題児に似ている

Posted by ななし on 19.2013 記事 0 comments 0 trackback
みなさんもこれまでの人生の中で俗に「問題児」と呼ばれる人に出会った事があるでしょう。彼らの主な特徴は人の意見を聞かない、自分の事しか考えていない、自分の言った事に責任を持たない、よく喧嘩をする、といったところです。もちろんその言動が人の役に立つ事もあります。

 テレビが面白くない理由はこの問題児の特徴と似ている部分があると思います。二つを比較してみます。
テレビは一方的な見解で意見や情報を発信するだけである(人の意見を聞かない)、視聴者の意見は聞き流す程度で基本的には視聴率重視である(自分の事しか考えていない)、何か新しい話題があるとコロコロその話題に乗り移り、その度に意見は言いっ放しである(自分の意見に責任を持たない)、他局との競争しか考えていない(よく喧嘩する)。(( )内は問題児の特徴)

 現在、あちらこちらに情報は溢れていて私達の意識はとても高いところにあると思います。私達が本当に欲しがっているのは、レベルの低いつくりものの茶番劇(ドラマやバラエティ番組)ではなく、今、直面している現実であるのではないでしょうか。もちろんドラマやバラエティ番組が必要ないという気はありません。問題なのは全ての局、全ての番組が安っぽいつくりものであり、私達の欲しがっているものを何一つ与えてくれていないという事です。

 私達が欲しがっている現実とは何か?それは今、行われている事や今、そこにあるものを正確に知る事、自分の考えに対する第三者の答えです。当たり前の事のようですがこれらがなされていないからこそ嘘・つくりものであるテレビを楽しめなくなっているのではないでしょうか。現実が満たされていなければ自分自身が満たされることはないのです。

 問題児は先生やクラスのみんなの力で更正させることができます。テレビもきっと更正する=面白くすることが出来るでしょう。いや、出来るはずです。しっかりと現実を認識すれば・・・。今、テレビは面白くありませんが、テレビはないと困ります。私達一人一人でこの問題児を更正させていきませんか?

熊谷貴之
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新パラダイムによる諦めない社会(意識)

Posted by ななし on 17.2013 記事 0 comments 0 trackback

先日、テレビをつけていたら、学者、エコノミスト達による討論形式の番組をやっていました。それなりに著名と言われる人達がデフレの克服について、時折笑顔を交えて、時には冗談みたいな事も言いながら極めて和やかに「討論」は進んでいました。

見ていて「何をやっているんだろう?」という気持ちになりました。その気持ちは「こんな切迫した状況で何をのんきに・・・」というのではなく、「本当に彼等が何をやっているのか解らない。一体何をしているのだろう、この人達は」という気持ちでした。

私は大学時代経済学部に在籍していて、一時は関谷さん同様自分が学んでいる事はより良い社会の実現の為役立つ事なのだと考たりもしましたが、今は全くそうは考えていません。かと言って「社会をよりよいものにしたい」という気持ちを諦めたわけではなくて、「経済学」というものに期待しても仕方無いと考えるようになったからです。テレビを見ていて、そう考えたのはやはり正解だったと思いました。



高利
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テレビの匿名性

Posted by ななし on 15.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビがつまらない理由の一つは、匿名性にあると感じます。テレビから発信される情報は多くの受信者の目に留まることとテレビ局の視聴率競争のため、受信者に不快感を与えない当り障りのないものでなければならない。その背景にあるのは、その対象がある程度絞られているならば表現においても特定することができるかも知れませんが、対象がどんな人かわからない匿名であることです。つまり、テレビは誰でも気軽に見ることができる、しかしその簡易さがテレビの長所であり短所になっている。初対面の相手にいきなり失礼なことを言えないことや、大抵人と話をする際には相手を見て相手との距離感や相手の意向を読みながら話す内容を決めるのに対し、テレビ側にとってその対象となる受信者との距離間や意向が量れないことが受信者に響かない大きな理由だと感じます。

例えば、世の中が混沌とし多くの悲劇的なことが現実には起こっている。しかし、テレビから出てくる情報は事実に対して1枚ないし2、3枚のオブラートを重ねた情報になっている、さらには放送されないものもあるでしょう。この表現は、残酷すぎる過激すぎるといった理由で万人に対する当り障りのない言葉や映像を選んでいる。しかし、現実はそんなに奇麗ごとばかりではないことはみんな周知のことであり、この発信される情報のリアリティのなさが発信者に対する不信感を感じさせる要因となっています。これは、身近な人間関係にも言えます。当り障りのない表現をする人は、誰からも嫌われないけれども誰からも好かれないものです。それは、その人が発する言葉が綺麗過ぎてリアルに感じることができずつまらないからだと思います。

私も昔は良くテレビを見ていました。大好きな正義のヒーローの番組を毎週欠かさず見ていました。しかし、大人になり正義のヒーローは現実にはいないことがわかりテレビがつまらなくなりました。さらに大人になりテレビ自体の言っていることが現実ではないことがわかりテレビをあまり見なくなりました。実際、我々は現実に生きており、知りたいのは事実である現実の情報です。だから匿名を相手に当り障りのない情報で本音そして事実を話さないテレビをつまらなく感じるのは当然であると考えます。


折目裕 
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ヴァーチャルリアリティの限界

Posted by ななし on 13.2013 記事 0 comments 0 trackback
「近くて遠い」これがテレビに関する私の率直な感想である。
確かにテレビから発信される様々な情報と似たことがこの現実世界にも起きているようである。しかし何かピンと来ない。それは一体なぜなのだろうか?

最近のテレビ番組には一般人の参加が目立つ。しかし本来ならば等身大の私たちであるはずの一般人たちの様子がちょっとおかしい。簡単に言うと制作側の意図通りに発言し、リアクションをとっているのである。それが編集のチカラなのかヤラセなのかは定かではない。(どちらもというのが正しいのだが・・・)
つまり、あくまで発信側の頭の中だけで造られた仮想現実の世界を映像化し、我々に提供してくれているのがテレビなのである。ある意味では精巧な贋作とも言えるのかもしれない。とはいえ所詮は偽物である。

この次元のずれた情報をいかに向こう側が面白おかしく(あるいは興味深く)放送してくれても私たちはどうキャッチしてよいのかわからない。むしろキャッチしたいとも思わない。
こういったスタンスでの放送でも10~20年前ならばまだ受け入れられていた。なぜなら私たち自身が現実にそれなりの満足感を得ていたからである。だからこそ今よりもっと非現実的だったテレビを純然たる娯楽として楽しめたのだ。

しかし時代は変わり、誰もが現実の社会に不全感を抱いている今の状況では、現実感を喪失している情報にいちいち構っていられないのである。そんな事にかける時間があるのなら一人でも多くの人と腹を割って話をした方が、真にお互いを分かり合えるし、充実もする。正に“共認”ができるのである。

“みんな”が新しい答えを探し始めようとしてる今、変化出来ないテレビに人々が愛想を尽かし、離れていくのは当然のことかもしれない。


丸山桂
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私がテレビを見ない理由。

Posted by ななし on 11.2013 記事 0 comments 0 trackback
私はテレビをほとんど見ない。月に一回位しか見ない。小さい頃からそうである。テレビを面白いとか面白くないとか感じる前に見ないのである。そのような人間がテレビについて述べる事は出来ないので、少し見てみることにした。
 ところが見てみるとなかなか面白いのである。「テレビも悪くないじゃん、ビバテレビ!」などと思ってしまった。しかししばらくすると直に飽きてしまった。何故か?それはテレビが映し出しているものが私たちの社会の縮図であるからではないかと思う。現在の社会は確実に閉塞している。この閉塞状態は私権統合の終焉が齎したものである。そしてこの状況にインテリ階級の表現者が発信する旧観念は役に立たない。 
 テレビとはインテリ階級の表現者が私たちの現実を旧観念のフィルターに通して映し出しているのであると思う。それが私たちの認識とテレビから発信される認識のずれを生み出しているのだと思う。そしてそのずれが多くの人にテレビは面白くない、と思わせてしまっているのではないか、と私は思った。なぜならテレビは決して現在求められているリアルな認識交流を生み出さないからだ。
 そして私は再びテレビを見なくなった。

匿名希望
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社会に訴えかける人たち

Posted by ななし on 09.2013 記事 0 comments 0 trackback
私は、今までツライ思いをいっぱいしてきた。その日々は、自分の居場所を見失い、何をしていいのか判らなくなり、時間は過ぎて行き、周りはどんどん動いて行くのに、自分だけが取り残されているような感じだった。そして、気が付くと生きる意味さえ問うようになっていた。自分がとても虚しいし、寂しい思いだった。そんな時、自分の生きている世界は、すべてが揃っていて何一つ不自由無く暮らしているのにどうしてこんなにツライのだろうかと不意に思うことがある。

そんな日々に、ただただ耐えることで、真面目で素直な少年として社会的に横道にそれることも無く今まで生きてきた。そこには周りの意見に従うだけの、完全に活力を失った思考停止状態の自分がいた。果たして、それで良かったのだろうかと今自分に問う。問題児となって社会に訴えていた方が、気持ちがすっきりするし、ずっと耐えて苦しまなくてもそこに活力が少しでも見出せたはずだと思うからだ。

私と同じような思いをして生きている人が今の社会の中にはたくさんいると思う。そういう人が、今、社会の問題となってしまっていると思うと、私は居ても立ってもいられなくなる。

私が学童保育のバイトや自然教室を行ったときに、問題児となってしまう子どもたちを見ていると、いつも心の中で何かを社会に訴えかけているように思えた。今まで、訴えることすらしていなかった自分が少し恥ずかしくなった。
テレビを見ている時も同じではないだろうか。ただ一方的に発信されることを受け止めているだけでは何の解決にもならない。そこで、何かを感じることが大切なのだ。そして、気付いたことを人との交流を通して話して欲しい。私は、そこから社会を変えていくためのヒントを見つけて行きたい。


芝田琢也
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四角い箱

Posted by ななし on 07.2013 記事 0 comments 0 trackback
連日どこかの局で放送される高額所得者の優雅な生活。
そんな映像を見て何が楽しい?
我々が血のにじむ思いで稼いだ税金を食い物にしている政治家。
そんな人のたわ言を聞いて何の価値がある?

四角い箱のボタンを押すと、否がおうにも自然に耳に入ってきてしまう彼らの考え。一方的に我々には理解出来ない旧観念を話し続ける。
我々の話を聞こうとはせずに。語り合おうとはせずに。
こちら側の世界も知らずに。
打っても響かないものに、関心は薄れていく。

そこはもう彼らの作り上げた四角い箱の向こうに広がる別の世界。
理解不能な彼らの話す言葉は、もはや異国の言語でしかない。
面白味も何にもない。

ただの四角い箱はもう要らない。

稲岡恵子
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テレビには物理的価値しかなかった

Posted by ななし on 05.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビは誕生したころ、見る側にとって刺激があるものだったと思います。それまで音(聴覚)でしか受け取れなかったものが映像(視覚)で受け取ることができる様になったのですから。だから昔は面白かった。というより興味をもっていた。刺激を受けた。しかし、今となっては日常の生活において当たり前にあるもの。つけていても見ないことすらあるものになっています。
テレビから流れる情報は、情報としての力をもっていないのですからそうなってしまっても当然かもしれません。ニュースですら、限られた時間で、限られた範囲で、限られた予算で(限定だらけですね)起こったことを淡々と報じているものです。しかも内容は暗い現代を伝えるものがほとんどです。ドキュメント番組も限られた予算の中で視聴率を気にした、私たちとは違う古い固定観念をもった人間が作ったものなのです。ドラマにも同じことが言えます。しかも思ったことを伝えたくても伝えることができず、独り言になってしまう。満足感を得ることができるはずがありません。

 先日、放送作家の方とお話する機会がありました。限られた予算で2年後放送されるものを作るとおしゃってました。そして、それは昔も同じだったと。(昔はまだ作る側もテレビというものに刺激を受け意欲的に作っていたと思うが、今となってはどうだろう。)つまり、昔から私たちが満足し得ないものを一方的に放送していたという事になります。やはり、昔はテレビという物体に興味を持っていただけではないでしょうか。つまりは、物理的価値がなくなったテレビが、私たちが求めるもの、興味が持てるものを放送しないため、面白くないという意識が強くなったのでしょう。

 先日、異世代交流会に参加させていただきました。年齢、性別、職業など共通点の少ない人間が語り合う。反応のぶつかり合いが行われる。おもしろかったし、反応を返せたことに満足感を得ました。(新しい認識を見つけるには、これを何度も繰り返さないといけないと思いましたが。)しかし、テレビにはないものが確実にそこにはありました。

 私たちが面白いと感じるものは、言い換えれば刺激があるものだと思います。テレビでは刺激を受けません。刺激を与え合い、反応し合う場をもつ事で人は新しいものを得ます。さらに繰り返すことで新しく得たものが大きく確かなものになっていくと思います。そして、それこそ私たちが面白いと思う場であり、求めているものであり、現在の閉塞からの突破口である新しい認識を得る場だと思います。


屋崎てる美
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テレビのベクトル みんなのベクトル

Posted by ななし on 03.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビというのは、麻薬に例えられるものではないか。もっと身近な例でいえば、煙草やアルコールに置きかえることができるかもしれない。ある人間がコカインやマリファナなどの薬物に手を出す動機は大抵、「なんとなく」とか「友達にすすめられたから、仕方なく」とかであろう。逆に、明確な意思や断固とした計画性を持って「さぁ、ヤクをやろう」という人間は、私のまわりでは聞いたことがない。
そしてそういった心境は、テレビを見るケースにも応用できる、と私は考える。たとえば、テレビを見ようと頭の中で思っていなくても、気がついたら画面の前で2時間半、という体験を多くの人が一度でもしたことがあると思う。それも先に述べたような、「なんとなく」の無意識的・非主体的な心理が作用しているからではないだろうか。つまり麻薬と同じような性質が、テレビにはそなわっているのではないかということだ。


日本において貧困が消え、私権統合の終焉が到来して以来、社会における人々の志向は、徐々に且つ劇的に変わっている。今、人々は集団から脱し、人間社会において能動的・主体的に行動するようになり、そこでは「現実」「真実」を常に探し、求めつづけている。これら「現実」や「真実」の追究・認識・再認識は、私たちに楽しさ、面白みなどをストレートに与えてくれる。だがそのためには、まず社会というものを直視しなければならない。幻や嘘に翻弄されてしまっていては、いつまでたっても現実認識が得られず、社会において現実的な興味深さを持つことはまず不可能である。

しかし考えてみると、メディアが放つ情報というのは幻であり、虚であり、一種の夢のようなものである。ニュースが伝える情報はわざと人々の目を引くように「加工」され、バラエティー番組は視聴者を離さないように次々と嘘を捏造する。フラフラした人間がこういったメディアの罠にはまる事態が、しばしば見受けられる。こういった意味でテレビというのは、やはり麻薬の夢幻的な効用と同じ心理的役割を果たすと捉えることができる。
また、このような幻・虚は、「傍観者」たちが放つ旧観念とも、とうぜん結びついてくる。

それに対し、私たちは今、「事実がどこにあるのか」「真実とは何か」に飢えている。他者と交流し、考えをぶつけ合い、認識を深く語りあい、新しい認識共有を生み出すことを強く求めているのである。そういった社会において、テレビやマスコミが放つ「虚」はもはや興味を惹かれない、意味をなさない、誰も必要としない、いわば御祓い箱なのである。

テレビがなぜ面白くないのか。
テレビから伝えられる情報や解釈が「虚」であり、私たちが求める情報や認識が「真実」であり私たちはそこに充足を見出すのだから、両者の間に深い溝が存在していることは明らかなのである。それはテレビ・メディアの志向と、みんなの志向、つまり「ベクトル」がまったく違うという言葉で表すこともできる。テレビは「視聴率獲得」「視聴者獲得」いう志向をもち、一方私たちは「事実の認識・獲得」という志向をもっている。したがって、テレビの情報には、私たちが期待しているもの、求めているもの、認識を得ようと思わせる「素材」がでてこない。ここにテレビが面白くない、大きな理由があるのではないだろうか。


匿名希望
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新しい認識の必要性

Posted by ななし on 01.2013 記事 0 comments 0 trackback
確かに、最近テレビが面白くないと感じます。(事実、私はテレビをあまり見ません)マスコミが視聴率獲得の為に発信する情報、評論家などの発信者階級が撒き散らす的を得ない旧観念、それを受けることによって起こる受信者の発信欲求、人々の意識の変化。様々な要因が考えられます。

 しかし、私はテレビ及びマスコミはあまり変わっていないと感じています。例えば、過去においてもマスコミは視聴率獲得を目的としていました。そして、ニュースは現実を映し出す発信媒体として、少なからず新しい認識を得るために役に立っていると感じています。(もちろん、役に立たない番組も数多くあり、過去に比べ多くなってきたと感じていますが)

 では、なぜテレビは面白くないのでしょうか?それは、現代社会の全面的な閉塞状態にあると私は思います。不況が続く現代社会において、また、社会不全が蔓延する現代社会において、マスコミは暗い情報を発信しがちになり、発信階級はそれをただ否定するだけ。解決策が見えない。答えがほしい。私には、マスコミや発信階級も新しい認識を必要としているように感じられるのです。そして、答えが見えないまま情報を発信し続けている今のテレビは、活力を失い、魅力さえも失ってしまっているのだと思います。
 
 過去を見ても、今現在ほど新しい認識が求められている時代は無いと思います。新しい認識は見知らぬ人々との交流によって少しずつ確立されていくでしょう。実際、テレビが面白くないことによって、こんなにも多くの人々が意見を出し合い、それを通して新しい発見ができる。新しい認識として広がっていく。前に進みだした人々は共認し合い、さらに前へと進んでいく。それが人々の活力源となると思います。
 

阿野維規
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