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テレビはつまらないサッカーゲーム

Posted by ななし on 30.2013 記事 0 comments 0 trackback
私もテレビを見ることはある。しかしそれは、なにか新しい情報を得ようとか自分の何かを満たそうとかそういう為ではない。単なる暇つぶしである。
 情報を得るだけなら新聞やインターネットがあるわけだし、自分を満たすだけなら部屋の中でじっとテレビを見るよりも外に出て体を動かしたり、友達と話したりした方がよっぽど満足感が得られる。
 テレビが暇つぶしの道具である証拠に、昨日見た番組の内容さえ覚えていないことなどはざらである。しかも最近ではその暇つぶしの道具にさえならなくなってきているように感じる。
 
 なぜ、テレビはこれほどにつまらないものなのであろうか?
 
 それは結局、テレビというものは発信階級の人々が実際の情報を視聴率のために自分達のいいように色をつけ視聴者にただ送りつけているだけだからである。
 いいかえれば、「テレビを見るということ」=「見えない相手から蹴られてくる本物かどうかも分からないボールをだだひたすら受け止めているゴールキーパー役になるということ」なのである。
 
 だれがそんなことを面白いと思うだろうか?
 
 今世の中の人々が求めていることは「新しい観念の共認」なのである。それは決して旧観念に埋もれた情報発信階級の人々によって生み出されるものなどではない。実際の社会の中で汗水流して働き、事実を知る「ふつうの人々」こそが生み出すことができるものなのである。
 
 実際私は、このサイトに投稿することは初めてなのだが、私が書いたことや、本当にいいたいことをみんなが見てくれて、それについていろいろなことを感じて、感じたことや新たな自分の意見を書いてくれると思うと、本当にわくわくしてくるし、こういうことから本当の『共認』というものが生まれてくるのだと実感させられる。
 
 「認識形成サイト」では、意味の分からないゴールキーパー役になってただひたすらボールを受け止めるのではなく、みんなが中心選手となって事実というボールを蹴り合い、楽しいサッカーができるだろうと思う。

松嶋伸悟 
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テレビからは得られない充足感

Posted by ななし on 28.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビが面白くなくなったのはなぜか?
私達の価値観や趣向が変化したことにより、テレビから与えられる情報をただ黙って受け取っている立場では満たされなくなってきたというのも事実だろう。しかし、それに伴った携帯電話やインターネットの急速な普及というのも原因の一つではないだろうか?

近年、携帯電話は大抵の人が所有し、持ち歩いている。仕事用、プライベートでの連絡用、用途は様々だろうが個人専用の通信機であることには変わりない。インターネットも同じ様な側面を持っている。

二つに共通して挙げられるのは『メール』、『チャット』機能だ。誰でも一度は経験したことがあるだろうが、それらは電話に比べ、比較的時間や料金を気にせず気軽にやり取りできる。また手紙などと違い相手への発信に対しての返答が早い。そしていわゆる『出会い系サイト』と呼ばれている仲間募集サイトなどを通じ、匿名で知らない人との交流を図ることもできる。

なぜメールやチャットを利用する人が多いのか?もちろん便利であるというのも確かだが、自分が発信したことに対してすぐに反応が得られるからで、当事者の気分が味わえるからではないのか?それはテレビを見ていることでは味わえない感覚だ。

発信階級からの現実味のない話を黙って聞いているよりも、今、自分と同じ現実で生活している人達とやり取りを交わしている方が楽しい、満たされている…そう感じてきたからテレビが面白く感じなくなったのではないだろうか?

伊藤亜希子
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テレビにはないこのサイトの力

Posted by ななし on 26.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビに代わる情報提供システムとして、認識形成サイトや認識交流会がある。これの利点は、実際に人と触れ合うことができるところである。そこに芸能人などといったレッテルはいらない。一人間が情報を与える、与えられる環境が成り立つ。それを人は求めているのだ。しかし、今のテレビにその役割は果たせていない。いや、おそらく果たすことはできないだろう。
朝早くから家を出る。その日一日仕事や勉強、遊びを終え、疲れて夜遅く家に帰ってくる。そして部屋着に着替え、酒を片手に“新しい認識”の扉を開く。そこには人と人との交流が無限に広がっている。そして、それを見て大笑いする自分がいる。 そんな世の中、面白くないですか?
>49271

共通認識を広める上でこのサイトはテレビをはるかに上回っていると感じる。テレビは一方通行の情報であり、押し付けがましく、これはこれ、あれはあれという1つの見方しか伝わってこない。違うと思っても反論するすべがない。しかし、ここにはある認識が文字で説明してあり、それについて煮詰めていく作業を掲示板ででき、各々の多方面の見方を共有する事も可能であり、また反論することも可能である。こうすることで、よりみんなが理解できる認識が日々生まれてくる。それに加えて、一人の誰にも邪魔されない空間で「新しい認識」の扉を開けば、一つ一つの発言に対して発するまでの時間と、人の発言を見る時間ができ、より本音で話せる、つまりより旧観念を取り去った意見が述べれるように感じる。酒を片手にならなおさらかもしれない・・・(笑)

今日自分は初めて認識交流会に参加する。そこでまだ文字でしか見たことのない自分の知らなかった認識、情報についてより深く理解する機会をもてるはずである。文字として書かれた言葉にはとらえ方によって意味が違ってくる事もある。この交流会によって自分の認識が一歩でも前進できればと願う。




藤田公一 
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酒を片手に“新しい認識”の扉を開く

Posted by ななし on 24.2013 記事 0 comments 0 trackback
朝早くから家を出る。その日一日仕事や勉強、遊びを終え、疲れて夜遅く家に帰ってくる。そして部屋着に着替え、酒を片手に“テレビ”の電源を入れる。ブラウン管には面白いとはとても言い難い、内容のない映像が流れる。しかし、それを見て大笑いする自分がいる。

これこそが、テレビが面白くなくなった現代の状況ではないだろうか?人々はテレビに何も求めなくなった。むしろ、何も求めていないから笑うのではないだろうか。テレビは疲れ果てた自分の体を癒す時のような、いわば無機質な存在である。そこに面白さは共存していない。

しかし今、テレビに代わる情報提供システムとして、認識形成サイトや認識交流会がある。これの利点は、実際に人と触れ合うことができるところである。そこに芸能人などといったレッテルはいらない。一人間が情報を与える、与えられる環境が成り立つ。それを人は求めているのだ。しかし、今のテレビにその役割は果たせていない。いや、おそらく果たすことはできないだろう。

朝早くから家を出る。その日一日仕事や勉強、遊びを終え、疲れて夜遅く家に帰ってくる。そして部屋着に着替え、酒を片手に“新しい認識”の扉を開く。そこには人と人との交流が無限に広がっている。そして、それを見て大笑いする自分がいる。

そんな世の中、面白くないですか?


槇野悠二 
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表層的な言葉じゃ伝わらない。

Posted by ななし on 22.2013 記事 0 comments 0 trackback
思ったことを素直に言葉にするのって難しい。
心のどこかに、相手に気に入られたいとか、その場をうまく取り繕いたいという自我があって、誇張してしまったり、少し思いとは違うことを無意識に言ってしまうことがある。

そういった潜在思念とはつながらない表層的な言葉は、その場をしらけさせるし、時には不快感を与えてしまうことさえある。
そして相手の反応を無視してしゃべり続ければ、本当に悲惨な状況となる。
相手が話している人のことをよく知らなければ、なおさら言葉だけが宙に浮く。

テレビでも同じようなことが言えるような気がする。
テレビに出てる人の言ってることって、本当に心の底からそう思ってるとは思えないし、実際、台本があったり、テレビ用の発言だったりもする。何となく作り物っぽいし、現実の社会とは別空間のような気がする。
だからあまり心に響いてこないのかなあ。

何かそれじゃあ寂しい。

テレビに出てる人たちも本当にただ発信するだけで満足なのかなあって思う。
僕らが受信するだけでは充足できないのと同様に、発信する側も発信するだけではきっと充足できない。
何かを伝えようとしているからには、反応を求めているだろうし、それがこのような反応だったらやっぱり寂しいんだろうなあと思う。

でもテレビでは直接実感をやりとりする事ができない。
僕らは今、そういう場を求めている。
それが、集団を超えたみんなの集まるこの認識形成サイトであり、異世代交流会だと思う。
表層的な言葉をいくら並べたって心には響かない。
だからこそ思ったことを素直に言葉にすることはとても大切なことだと思う。

そして思いが直接通じ合って=共認できて初めて、お互い充足できるんだと思う。


浅田祥幸
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メディアへのストライキ

Posted by ななし on 20.2013 記事 0 comments 0 trackback
>発信階級は、何の突破口も示せずに、相も変わらず旧観念を垂れ流し続けている。そこには、自己反省のカケラも見えない。自分たちの言説(ドグマ)が社会の為になっていると信じ込んでいるからである。(9560)

ドグマ…a particular belief or set of beliefs that people are expected to accept without questioning them(ロングマン英英辞典より)

現在テレビを見て、“accept without questioning them〔メディアのbelief(信念、観念?)を何の疑問も持たずに受け入れる。〕”人は実際にはどれだけいるのだろうか。
今どんなテレビ番組に対しても、人それぞれが“大いに疑問を感じている”のだと、このるいネットを読んでいてもわかるし、私自身もまた自分のなかで思う疑問はいろいろある。
それが、まさしくテレビがおもしろくないと感じる理由なのだろう。

そうなると、人はテレビを切り始める。
私達はそうすることにより、「発信階級の人間」に×という意思表示をしている。

川崎晶子 
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テレビは病原菌

Posted by ななし on 18.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビが面白くない理由を考える前に、テレビはなぜ必要なのかとうい疑問が湧いてきた。私はテレビは様々な情報を得るためのものだと考えてきたけれども、実際テレビの情報が正確どうかなのかどうか、私が今必要としている情報だけを得ることができるのか、と考えるとテレビを見るよりも新聞やインターネットだけで十分なわけであって、テレビの必要性や信憑性がなくなっていることがテレビが面白くない理由になってきているのではないかと思う。

>届けられるニュースもマスコミという機関を媒介させることで、我々に届くニュースにはマスコミ自体の先入観や余計な尾鰭までが付いてきてしまう。(38083)

テレビからの情報は私たちに一方通行で、反論することもできないし、第一信じられる情報なのかどうかもわからない。マスコミからの情報は単なる社会の傍観者が実際の社会では全く利用価値のない旧観念を私たちに押し付けたり、社会の問題を提示するだけで、考えるのは極わずかな専門家に任せたままで、一向に自ら解決する手段を見つけようとしていない。現実の当事者ではなく傍観者に過ぎないのである。そして私たちは、その問題が全く解決されていないのにも関わらず、問題提議を聞くだけで、ある種の知識を得た気になってしまう。社会の問題を考え、意見を交換する場所がないのが現状である。

>つまりマスコミは単なる現実の傍観者だけであるばかりではなく、もっと性質の悪いことに現実の一部を切り取って、それを面白おかしく針小棒大に語る三文小説脚色家なのだ。(38441)

実際にはみんなが自分の意見や考えを胸に秘めているのに、テレビが流す情報によって、自分で考えるという能力が低下し、その情報で満たされた気になってしまう。マスコミが垂れ流す旧観念の情報を信じきるがゆえに社会の問題への問題意識がなくなるいっぽうで、新しい知識や認識を見つけようとする意欲そのものを失ってしまうのである。だから現在自分の中に存在する知識や認識でしか生きていけなくなってしまう。テレビの情報が人間の考えることの幅を狭め、生きて行動する意欲までもを失くしてしまうのである。

人間は様々な情報を自分で考え、同じ実感を持つ仲間と共に共認を広げることでその情報が正確かどうか、自分に必要な事象なのかどうかを見極め、新しい認識を得ようとする必要がある。このるいネットこそ異なる年代の人々と意見を交わし、新しい知識や認識を得られる場である。自分の考えに縛られずにみんなの意見に耳を傾け、常に新しいより良い認識を得ようとすることこそが人間のあるべき姿なのである。だから根も葉もないない噂ばかり流し自分たちでは何もしないマスコミが放送するテレビは面白くないのだ、むしろテレビは人間が考えること麻痺させる一種の病原菌なのである。

前田真一朗
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人が求めるもの

Posted by ななし on 16.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビとは「映像を垂れ流す暇つぶしの箱」であると思います。テレビの中ではいつも、芸能人がそれぞれのキャラクターを演じ、バラエティ番組で上辺だけの笑いを提供し、ニュース番組では無表情なロボットの様なアナウンサーが新聞に載っているニュースをそのまま読み上げている。そのようなテレビでは、もはや私たちは完全に充たされない。
少なくとも私は、テレビが作りだした一方的な情報を受け取ることは全く無意味であると思う。テレビは、現実に起こっている事を包み隠したり、それを違った情報に摩り替えて流している、つまり、現実逃避を促し何の刺激もない薄っぺらい情報を垂れ流しているからだ。そういう垂れ流しは私たちの観念をますます閉鎖的なものにしていく。現代の人々は、そういった閉鎖された単調な集団の中から抜け出し、もっと自分を充たしてくれるものを探し求めている。そのためテレビは、単に時間を消費する箱にすぎなくなるのである。

私は、友人に「私とあんたは全然違う人間やな。」と言われたことがある。その言葉は全く嫌味に響くことなく、むしろ私は新しい自分を発見することができた。こうして、学校やバイト先で様々な人と接することで、今まで知らなかった世界を知ったり、今まで出会ったことのない様な考えを持った人に出会ったり、意見を求められたりする事で自分の観念を広げることができた。また相手にも影響を与えることもできたのだ。そうしたとき、私はその時間を何よりも楽しいと思ったし、何よりも大切だと思った。人は10人いれば10通りの考えを持っているし、10個の個性がある。人との出会いはお互いが自分自身を成長させることにもつながるとも思う。

 このように、人は生身の人間と触れ合い、解かり合い、刺激を受け合うことで、失いかけていた活力を取り戻すことにつながるのではないだろうか。そして、現代の人々はそれを求めているように思う。

 テレビは情報を流すが、このような熱い感情を含んだ分厚い情報を流すことはできない。だから魅力を感じることがない。大量に物や情報があふれている今日だが、やはり人が一番魅力を感じるのは「人」、人が求めるのも「人」だと思う。


上下亜希子
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テレビの魔法を解く薬

Posted by ななし on 14.2013 記事 0 comments 0 trackback
自分の五感でもって、まさに「体」感すること。
自分が体感することによってしか得られない実感で自分を満たすこと。
これらの大切さ、面白さを私は知っています。
きっとここに来られている方々はみんな知っていると思います。
体感、実感はまさに現実。現実を直視するということと言えます。
そして今私たちが必要とし、求めている「共認」は、体感、実感を通じてでしか得られないものでしょう。
自分が体感したり、実感を得るためには、自分の頭を使って考えること、自分の体を動かすことを怠ってはいけない。
物事に一生懸命取り組む姿勢、自分自身をちゃんと見つめる姿勢、人と本音をぶつけ合いコミュニケーションしようとする姿勢・・・
こうした姿勢をとることを怠ってはいけないということです。
しかし実際自分の頭で考え、体を動かして行動することはパワーがいることです。
でも体感、実感の大切さ、面白さを知っている人は、体感、実感を通じて得られる充足感を、共認の喜びを知っている人は、それらに突き動かされてしまう、底なしにパワーが湧いてくるものだと思います。

そんな私たちはもはやテレビに魅力を感じないのは当然のことに思います。
テレビは現実ではない。
視聴率のために、利益のために作られた虚です。
テレビを見ていて、テレビの世界を体感することはできない。
ましてや実感、そして共認なんて得られることはないのです。

テレビの怖さ・・・ただ一方的に情報を送り続ける。
その情報に魔法をかけて。
その魔法は人を楽な方へ導き、怠けさせようとする。
人の思考を停止させ、人をテレビに引きとめようとする。
テレビをダラダラ見てしまう人はこの魔法にかかっています。
この魔法にきく薬。
それは、体感であり、実感であり、何よりも、「共認による充足」に他ならない。
そう思います。




阪上雅代
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真のリアリティーを求めて

Posted by ななし on 12.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビが面白くない。私がこう感じ始めたのはいつからだったろうか。
私はドラマを見ることが嫌いではない。しかし今までどんなドラマを見ても、最終回まで見続けることはほとんどなかった。友達との会話を弾ませるために見ることはあっても、自ら進んで最後まで見ようとは思わなかったのである。そして今回もそうだった。1月から始まった新ドラマを勢いづいて見てみたものの、2回目以降私がそのドラマを見ることはなかった。

それは何故か。何故ならドラマにはリアリティーというものが全く無いからだ。ありもしない状況を並べたて、1時間も架空の人物の物語に付き合わされた結果、私が得るものは何もない。強いて言えば「こんなことあるかよ!」という、ツッコミのタイミングくらいのものである。テレビは私たちの現実からかけ離れた、遠い存在のものでしかないのだ。

私たちは現実の世界に生きている。そしてそれはきれいごとの世界ではない。人間の欲望による戦争や飢餓、貧困、暴力など、全てのものをひっくるめて現実は存在しているのである。そんな現実の世界に身を置いている私たちにとって、テレビというぬるま湯の空想の世界に浸っている時間はない。現実はテレビの中の世界ほど甘いものではないのだ。私たちが本当に必要としているもの、それは空想の世界での答えではなく、現実の世界での答えなのである。そしてその答えを探すためには今現実を生きている人、私たち自身が声を上げ、先を読み、動き出す必要があるのだ。

私の友人にテレビを手放せない人がいる。画面の中で絶えず笑っている人を見て安心するのだという。私が今度その友人に会ったら、「私たちは空想の世界ではなく、現実の世界に生きているんだよ」ということを教えてあげようと思う。



長澤祐美子
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傍観者じゃなく当事者でいたいから

Posted by ななし on 10.2013 記事 0 comments 0 trackback
私権時代、ただ与えられることに満足していた、もっといえば、与えられることを望んでいた人々の意識が、大きく変わってきてる。

>私権観念は無効化しつつも、社会や課題や観念を捨象するというマイナス(捨象)面では機能しており、それが社会捨象・課題捨象の充足基調を維持させ続ける(’70・’80年代と同じ)。(24981)

自分さえ良ければ、楽出来れば・・・という私権観念を捨てることで「気付く」現実がある。

>おそらく次代では(むしろ現在すでに)、『みんな不全』⇒『みんな期待』に応えることが、一番の活力源になる。では、現在のみんな不全⇒みんな期待の中身は、何か?それは、出口が見えないということであり、答えが欲しいということだろう。(44391)

これに気付いたら、人それぞれ・・・ではすまなくなる。(48730)
自分たちの頭で状況を捉えたいと思う。(37054)

>誰かが答えを出してくれることを期待しながらテレビを見ていた時代は、もう終わった。(48535)

私たちは、当事者として生きていたい。(48822)
だから今後も、傍観者でいることを強要するテレビは、ますます面白くなくなってゆくに違いない。

 


西知子
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「テレビ」の衰退が現実の確かさを教えてくれた

Posted by ななし on 08.2013 記事 0 comments 0 trackback
学生のころ、一日中テレビを見てすごすことがよくありました。よくよくそのことを考えてみると面白くない現実から逃げ、夢や妄想にふけっていたのではないかと思います。実現不可能は夢ばかり見て、身近な現実に素直に向き合おうとはしていなかった。というのはテレビから流れてくる情報がすべて正しいものと完全に思い込んでいたことが一番の理由です。

しかし、最近では殆どテレビを見ることはありません。一応部屋にはありますが、テレビそのものに必要性は感じなくなってきました。それはこれまで正しいと思っていた「テレビ(マスコミ)」が自らその嘘をばら撒くようになってきたからです。というより人々にそれを見抜かれてしまったのかもしれません。
テレビが嘘だときずいた時にはもうすでに潜在思念レベルでは全く興味を持たなくなってしまいました。

>潜在思念のベクトルが「共認不全」から「社会不全」に転換し、それが顕在化し始めたこと。そして「答え欠乏が」顕在化し始めたこと。(そして、勿論その答はテレビには無いという事を皆、とっくに気付いていること。)(47244)

皆、答を求めていること。そしてその答は現実にしかありえないということ。このことが明白に分かってきたのはるいネットをやり始めてからですが、もうそれ以降ますますテレビに可能性を感じなくなってきたのは確かです。

>こんな私と同じように、人々は今、虚論を展開させる現実離れしたテレビに興味がなくなってきているのではないだろうか。(48535)

>現実の人との会話、人と一緒にすることが今ではもっとも楽しめる。自分が当事者になって、一生懸命に、認識を紡ぎだすことは疲れはするけれども、テレビなどでのんびり、ゆったりと他人を眺めるよりもずっと充実感、満足感がある。(47957)

テレビをみて壮大な夢を思い描き、その答えを見つけようとする。でもすぐに挫折する。それは当然で、現実が見えていないから。結局、答えは人との会話の中にあるということに気付くようになる。そうなると認識を紡ぎだすこと自体に充足する。現実に素直に目を向けること、それ自体が今とても楽しい。

テレビの衰退が我々に現実の確かさを教えてくれたよう気がします。

渡邊真也
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みんなで事実を読み解いていく「力」

Posted by ななし on 06.2013 記事 0 comments 0 trackback
>確かに今、人と話す、人と行動する方が充足感は強いと思います。それは、マスコミが現実と乖離した存在に成り下がってしまった結果だと思います。視聴率という魔物の存在がマスコミの世界には絶対的評価軸として存在しており、そのためなら虚が実になる世界です。(48417)

マスコミの先入観で事実をおもしろおかしく作り変えるといった視聴率重視の行為にはみんなうんざりしていると思います。「報道の自由」をかかげ、やりたい放題のマスコミを取り締まる術が存在しないことも問題ではないでしょうか。

>例えば住基ネットの個人番号通知の封筒が透けて見えることを取り上げて、そこの首長は何を考えているのかと言うだけ。他にも「じゃぁ、あんたはそもそも何が問題と考えてるの?」と思うことばかりでした。突つくネタを取り上げては解説や批判をするだけで「言い捨て」以外の何ものでもないと思いました。(37997)

確かにワイドショーや匿名掲示板も誰かを誹謗中傷するだけで、ここには何の解決も生まれてこない。一時期は人々の好奇心を煽り、注目を集めます。しかし、内実の伴わない表面的な情報は何の説得力もなく消えていくでしょう。

マスコミが脚色した情報が氾濫して事実が見えにくくなっているときだからこそ、(一人でなく)みんなで事実を読み解いていく「力」が必要になってくるだろうし、その「力」自体が閉塞した社会変えていく可能性につながっていくと思います。


斎藤浩明
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私達は「気付き」始めた

Posted by ななし on 04.2013 記事 0 comments 0 trackback
テレビが面白い、と言う人は、私の周りにはいない。彼らに、それでもテレビを見る理由を尋ねると、大多数が「暇だから何となく」と答える。私自身もそうである。私達がテレビから感じるものは、寂しさを紛らわせる効果音レベルのもので、テレビそのものに何かを期待している人なんて、もう存在しないと思う。

テレビと私達の間には、テレビが発信者で、私達が受信者という、揺るぎない関係が存在する。私達はその事に気付かず、いや、気付いているにもかかわらず、それを当然の事と捉え、何の抵抗も持っていなかったように思う。この関係をキャッチボールに譬えるなら、私達は一方的に投げ続けられるボールを、律儀にもキャッチしていたように思う。それがどんな球であっても、受け取ることが私達の義務であるかのように。私達はそんな毎日の中で、「自分もボールを投げたい」「誰かにキャッチしてもらいたい」と思い始める。そう、発信欲望に火がついたのだ。

私は、るいネットの交流会に初めて参加した日、帰りの電車の中から興奮状態で、家に帰ってもなかなか寝付けなかった。相手に期待し、期待されることで得られる充足感・みんなで新しい認識を紡ぎ出していく喜びを交流会でリアルに感じ、その場の臨場感、そして、仲間から受けた多くの刺激で、私の胸の高鳴りが治まることはなかった。私はボールを投げることができ、キャッチしてボールを投げ返してくれる人々に出会った。

その日、寝付けなかった私は、暇つぶしに何気なくテレビをつけた。しかし、何を見たのか全く覚えていない。テレビがどれだけ薄っぺらいものか、私はその日改めて実感した。傍観者ではなく自分が当事者となる充足感・快感を覚えた私にとって、もはやテレビの効果音すら耳に入らなくなったのだ。

こんな私と同じように、人々は今、虚論を展開させる現実離れしたテレビに興味がなくなってきているのではないだろうか。現実を生きる普通の人々と共認しあい、答え=新しい観念を共に紡ぎ出していく楽しさに気付き始めたのだ。私達が今求めているものは、一方的に押し付けられる概念ではなく、新しい認識を皆で作り出すリアルな場なのだと思う。誰かが答えを出してくれることを期待しながらテレビを見ていた時代は、もう終わった。テレビを見ながらウトウトすることはあっても、寝付けないほど興奮するなんてことは絶対にないだろう。


井上緑
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子供の頃は面白かった。

Posted by ななし on 02.2013 記事 0 comments 0 trackback
子供の頃は見たい番組になると、片時もテレビから離れることなく、かじりついて見ていました。番組が終わると「終わっちゃった、また来週か」と、とても残念に思っていたことを思い出します。中学の始めぐらいまではテレビに夢中でした。今でも当時放送していた番組はよく覚えています。学校の先輩・同級生に聞いても同じような答えが返ってきました。
 私は1980年に生まれたので、私権追求の時代が終わり、社会不全が蔓延しているところにどっぷりつかって生きてきました。それでも子供の頃はテレビに夢中でした。ですからまず、夢中にならなくなったときを見つめてみよう思いました。
 夢中にならなくなったきっかけとして、(テレビの内容に関わらず)他に興味が向いて、テレビを見なくなったことが挙げられると思います。私の場合、中学からクラブ活動を始めました。そして次第にのめり込むようになり、テレビから離れていったと思います。遅かれ早かれ誰もが生活範囲を広げてゆき、そこでの実体験から様々な感情を抱きます。その感情は、テレビを見て抱く感情よりも強い(47957;要約しました)ので、テレビから受ける感情は受身であり、実感ではないと気付いてしまうのだと思います。そしてテレビを「これは現実ではない」と、線を引き、冷めた目で見てしまう。(今のテレビはそれを手助けしているような気がする。) 皮肉にも、人に夢を与える為のテレビが逆に人を現実に引き戻してしまう。さらには、年を重ねるごとに実体験に基づく実感を繰り返し得ていく。その度にテレビとの距離が離れていくような気がします。


関谷啓太郎
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