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情報化社会の古い情報

Posted by ななし on 29.2012 記事 0 comments 0 trackback
叫ばれすぎて頭にこびり付いてしまったフレーズに「世は情報化社会」というのがある。これは、最早全ての人に共認されている事項だと思う。

これについて思い直してみた。情報がことさら現代人にとって必要であり、かつ重要であるというのは、現代人の単なる錯覚なのではないかというのが、より正しい認識ではないだろうか。

情報が重要であることは、今に始まったことではないと思う。

何か異変が発生したときに、ある決まった様式でノロシを上げて、近隣の村にそれを知らせたり、太鼓や貝、フォンなどを使ってそれを遠くの仲間に知らせたり、昔から情報の伝達は重要だったはずである。ことに戦いの場では「情報」がその勝敗を決めてしまったであろうことは、想像に難くない。

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」この一文をとってみても、情報の重要さは明らかである。

食うか食われるかの時代であれば、自己の生存が情報に係ってくるし、利益を追求する時代、つまり私権獲得の時代であれば、その情報の精度によって、私権獲得量が違ってくる。つい最近までの時代は、「敵に勝てる情報か否か」それが主眼だったと思う。

そして、私権拡大の可能性が狭まった今(むしろ道が狭くなればなるほど人で溢れ返るように)、情報が溢れ返っている。しかしそれは、古い道しか知らないからに過ぎない。
しかし、インテリたちが喧伝してきた「情報化社会」は進むべき方角も、通るべき道も間違っている。そこには私的な充足のため情報しかなく、「社会をどうするか、社会を統合するにはどうすればいいか」を指し示す情報がない。

これから必要な情報は、新しい時代に向けた新しい情報だと思う。それは情報というより「認識」だろう。閉塞した社会を変えてゆくことのできる認識情報であると言える。

現代の我々は、認識情報を峻別する時代に入ったのだと思う。
実現論には、明快な峻別の方法が記されている。
実現論に照らし合わせて、認識という情報を、常に磨き、それを提供して行かねばならないと思う。

匿名希望
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‘金権派’から‘自我派’に攻撃の矛先が移ってきた

Posted by ななし on 27.2012 記事 0 comments 0 trackback
>歯に衣着せず、ズケズケと物を言うタレントや議員がもてはやされ、一世を風靡した。と思ったら、今度は彼ら自身の不正が暴露され、失墜させられる。<(小松さん)

 この現象は、俗に言う‘金権派バッシング’に呼応するように、‘毒舌派’=‘否定の自我派’を時代の寵児に祭り上げてきた最近20数年間の流れから見れば、ひとつのターニングポイントだと思われます。

 田中真紀子や野村佐知代といった‘毒舌派’の足元をすくうネタは、相も変わらず金銭がらみのスキャンダルですが、攻撃の矛先が金権派・私権派から、彼らを執拗に攻撃することをメシのタネにしてきた自我派(マスコミや芸能界から見れば‘同じ穴のムジナ’)に移ってきたこの現象は、人々の意識が自我封鎖に向かいつつある潮流として注目すべきです。

言わば‘内ゲバ’や‘同士討ち’とでも形容したくなるような、これら自我派の足の引っ張り合いは、マスコミや芸能界が自分で自分の首を絞めるような自殺行為です。むき出しの他者攻撃と自己正当化(=否定の自我)の醜悪な姿を白日の下に曝け出せば出すほど、健全な感覚では相手にする気が失せていくのは当然です。

 この例は、事実共認と自我は決して相容れないという意味で、本源回帰を下敷きにした『答え』欠乏が顕在化する兆しとして、たいへんわかりやすいのでないでしょうか。しかも、倒錯観念や代償観念で武装したマスコミに象徴される‘自我派’への嫌悪感が増大していけば、自我封鎖をいち早く実現することで清々しい認識形成の『場』として拡大してきた「るいネット」にとって、この流れは追い風になるのは明らかです。

 今、私たちの身の回りで進展しつつある自我封鎖の潮流を語ることは、事実認識への渇望や認識形成のための新しい『場』の重要性を顕在意識に昇らせるうえで、共通の状況認識として意外に説得力が大きいように感じます。



土山惣一郎
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勝手に「知る権利」を掲げて暴走するマスコミの欺瞞

Posted by ななし on 25.2012 記事 0 comments 0 trackback
>しかし、新聞や教科書が言ってることは学者の裏づけや統計などがあり、なんとなく正しいと思ってしまう。
旧観念を全的に否定していないかぎり、知らず知らずの間に影響を受け、幻想観念に支配されてしまう。(38392)

マスコミが取材や報道をする際、その正当性を「報道・表現の自由」という思想に依拠しています。そして、その「報道の自由」を更に正当化しているのが「国民の知る権利」という概念です。この「知る権利」という概念は比較的新しく、憲法学者によって提唱されましたが、現在では人類が普遍的に持っているかのような支配共認となっています。

しかし、考えてみると「知る権利」を強く主張しているのはドグマ的な少数の人であり、普通の人は日々の生活において「知る権利」などを行使する必要などありません。マスコミは国民に頼まれている訳でもないのに、国民全員が望んでいるかのような「知る権利」なる概念を捏造して「報道の自由」を一方的に行使している訳です。

このように、マスコミには「自由」とか「権利」のような旧観念を巧みに操作している欺瞞性を強く感じます。


松井英仁 
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マスコミに対する批判が、自分自身の生き方を問い直す

Posted by ななし on 23.2012 記事 0 comments 0 trackback
>つまりマスコミとは単なる現実の傍観者で在るばかりではなく、もっと性質の悪いことに、現実の一部を切り取ってそれを面白おかしく針小棒大に語る、三文小説的脚色家なのだ。

その三文小説的脚本家の言うことを鵜呑みにして踊っていたのが、他ならない私自身でした。新聞や学者の言説を受け売りして、それをさも自分の意見であるかのように語ることで自己満足していた。しかし、それは全て借り物であった。現実を生きている人の意識を動かすことはなかった。現実の役には立たなかった(単なる批判や解説など誰も求めていないのだ)。何事においても距離をおいて、評論家的な解説をすることで悦に入り、批判する習性がついただけだった。「実現論」も最初はそういう解説者的な(=傍観者的な)読み方をしていたのだろう。自分自身の思考が、マスコミの思考そのもの(ミニチュア)だったのだ。

だから、マスコミや学者からは、そのような思考についての反省や自覚を与えられることはなかった。このサイトに参加してようやく気づいた。既成観念の全的否定(18719)とは、批判的な思考や傍観者的な生き方を変えることなのだ。

みなさんのマスコミに対する批判は、他ならぬ自分自身に向けられたもののようにも思えます。ここで展開される批判は、単にマスコミを否定するだけではなく、この場に参加している自分自身の認識転換や成長を促してくれるような気がします。これが共認圧力、認識形成の力ではないでしょうか。

冨田彰男
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マスコミの武器と認識形成サイトの課題 伝播=拡販体制

Posted by ななし on 21.2012 記事 0 comments 0 trackback

後者はテレビにあっては許認可、新聞にあっては系列化された宅配網と拡販力にある。とりわけ活字離れが進んでいるといわれながらも、日本には日刊新聞の講読者数が今なお5300万人存在する。日本は世界一の発行部数を誇る新聞大国なのである。そしてその拡大の原動力は、全国で2万2000の販売店と50万人を数える配達員と拡販員による、地域密着の(日本独自ともいえる)宅配体制とそこでの系列専売制にある。(加えてその体制を支えているのは再販制度という国家の規制と法的保護による)
とりわけ更にその中心は(批判も大きいが)各販売店が雇っている営業契約社員(いわゆる拡販員)の力によるものである。実際例えば朝日新聞は明治12年創設時の発行部数1000部の段階から、宅配制度(当時は社員=記者自身も配り歩いていたらしい)を採り、既に明治末期から大正時代の段階で、現在のような販売店の系列化を確立していたようである。実際これだけの大衆密着路線があったからこそ、新聞は連載小説、将棋、囲碁、川柳を紙面に取り込み、プロ野球や高校野球や文化教室の主催者になり、さらには商品広告から折り込みチラシにいたるまで、あらゆる代償充足のニーズを細かく拾い集めることが出来たのであろう。

この事例でも明らかだが、とりわけ「言葉それ自体が引力を持ち得ない時代」(25431) において、認識形成サイトが共認形成の中核になりうるかどうかは(もちろんそこでの認識の質が第一だが)、最終的にはその伝播力=あえて言えば拡販力によると思う。協働者=読者=伝播者という構造が、人つながりという地域密着よりも更に密度の濃い関係に立脚する形で組織化出来うるかどうか。認識形成サイトがマスコミを凌げるかどうかは、この点に懸かっていると思う。

 

北村浩司
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共認非充足者が必要としていたマスコミ

Posted by ななし on 19.2012 記事 0 comments 0 trackback
>自分の立場を守っているだけの学者もマスコミも、現在殆ど意義がなくなっているのではないかと感じます。

彼らの意義は代償充足を与えることであるのに、なぜ、ここまでおかしな観念を流し続けるマスコミがのさばり続けるのでしょうか。

19576「必要意識⇒課題意識には、不全発と可能性発の二通りある!」四方氏によると、
『不全発の課題意識は「答えがない」という状況認識によって封印されるが、実現派には不全発の課題意識はないが、可能性発の必要意識はある。』
したがって可能性のないマスコミや学者の戯言などどうでもよいと感じ、面白いことや可能性を感じさせる人を探し収束する。

一方、非充足型は、『例え今、答えを示されても、容易には信じられず、半信半疑となり、従って行動力が出ない(行動に至らない)。』
そして、不全を捨象するための充足回路へ収束するために、現実否定の代償充足に嵌まり込むのでしょう。

日本の場合、村落共同体の崩壊が共認非充足→共認欠乏を生起させ、代償物たるラジオ、テレビを急速に普及させたのでしょう。
そして、共認非充足派が大多数になりマスコミが絶対的権力者になったのではないでしょうか。

それでも概ね35才前後を境に、現実否定から可能性収束へと転換を迎え、若い世代に充足基調は顕著になってきているようです。
東大生がもてなくなり、マスコミ離れが始まると、彼らが防衛に必死になるのは当然です。
少しでも新しいパラダイムを提示しようものならカルトなどと激しくバッシングするこの間の姿は、『「マスコミ」という現代の「宗教団体」』38232の最後の抵抗なのでしょう。したがってより一層その圧力は強まると思われます。

洗脳機関たるマスコミを駆逐するためには、可能性のある認識を紡ぎ、伝播させ、実現の基盤を作る共認闘争以外にないのです。

辻一洋
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マスコミを権威付ける学者

Posted by ななし on 17.2012 記事 0 comments 0 trackback
マスコミというとテレビがよく問題に挙がる。
確かに映像・音楽との併用で影響力があるし、接する時間も長い。
しかし、本当にたちが悪いのは新聞なり教科書なり、世間では「質が高い」と呼ばれているものだと思う。

例えば「朝まで○テレビ」や「○波少年」がちょっとおかしいということは、普通の人なら誰でも気付く。
しかし、新聞や教科書が言ってることは学者の裏づけや統計などがあり、なんとなく正しいと思ってしまう。
旧観念を全的に否定していないかぎり、知らず知らずの間に影響を受け、幻想観念に支配されてしまう。

そう考えると、マスコミ問題の底にあるのは学者なり、佐藤さんがおっしゃるような学校教育なんだと思った。

佐々木健二
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日本放送協会(NHK)の教養主義

Posted by ななし on 15.2012 記事 1 comments 0 trackback
マスコミ、テレビの最大の勢力はなんと言ってもNHKである。

このNHKの番組は、一見、新しい問題提起をしているように見えるが、
その本質は、啓蒙主義、教養主義である。

啓蒙主義、教養主義は、問題現象を指し示すが、その解決策を示さない。問題現象を知識として知っている事で『よし』として止める。
視聴者は、その知識によって賢くなったようなきになるが、思考はそこで停止する。



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役割としての情報発信

Posted by ななし on 13.2012 記事 0 comments 0 trackback
>受動的にニュースを受信するままでは、偽物の中からまだマシに見える情報をより分けているだけで、結局偽物を掴まされるにすぎないのですから。
テレビ・ラジオ。新聞・雑誌。みんな受動的。
特に、テレビはつけっ放しにしておいたら、ニュースだけでなく、音楽・娯楽、24時間いろんな情報が、刺激的な音楽・画像付きで流れてくる。人間はただぼーっと見てるだけでいい。これ以上ない、っていうくらい受動的。
昔の人はテレビから「頭が悪くなる電波が出てる」って言ってたけど、それって結構ホントのことかも。

それに比べて、インターネットは、接続するだけではダメで、こちらから検索しないと、情報を入手できない。発信しているのは、マスコミという「専業者」だけでなく、世界中の「普通の人」。「商売抜き」で、いろんなHPを作っている、いろんな人がいる。そこがいいと思う。


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演者こそ傍観者の親玉、観客は二乗の傍観者

Posted by ななし on 11.2012 記事 0 comments 0 trackback
>演劇は、演じる者と観る者がいる。当然だがあれは演じる(あるいは創り上げる)方が断然充足する。観るだけ、というのは明らかに解脱であり、代償充足だろう。
>いずれにせよ、観るにしろやるにしろ、今の商品化された演劇は代償充足。

観るのは当然、観客=傍観者だけど、演じるのは当事者?
学者でも役者でも、もっぱら表現することに頭を使っているけど、当事者として現実と対峙してる訳じゃない表現者って、これこそが傍観者の親玉なんだと思う。で、それを見ている観客は二乗の傍観者(それとも、傍観者の子分?)。
私権不全から社会不全に変わったっていうのは、それだけ大きな転機なのに、相変わらず社会不全から目をそらして、非現実の世界を演じるなんて、充足になり得ない、衰退していくしかないんだと思いました。

あと、私権時代の解脱が共認不全、共認非充足からなら、いかに認識形成サイトが、本物の解脱の側面「みんな充足」のあたりをカバーできるかも鍵となっていくのかもって思いました。ここで、頭を使うのは大変!でも解脱も必要?ってところが残る課題??


立石裕美
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「マスコミ」という現代の「宗教団体」

Posted by ななし on 09.2012 記事 0 comments 0 trackback
◆マスコミは何をしているのか?

 マスコミが日々行っているのは、観念を頒布して、人々に共認充足を与えることです。

 では、マスコミが登場する以前に、これと同じ事をしていたのは、何かと言えばそれは宗教です。
 権力支配から脱却できない人々に、超越的な存在への信仰を与えることで、宗教は強力な権力を獲得することに成功しました。

 「自分たちを信じさえすれば、必ずいいことがある」という宗教の論理は、そのまま、マスコミの論理と同じです。


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「マスコミ」も変わりたい。でも、変わらない。

Posted by ななし on 07.2012 記事 0 comments 0 trackback
「マスコミ」と呼ばれる職に就いている人を何人か知っている。
彼らは言う。「本当はこんな番組が作りたいんじゃないんだ」「もっと中身を」「もっと本当の事を」。そう思っている人はいっぱいいて、でも決してマスコミの本質=傍観者の親玉という構造は変わることがない。

彼らは視聴率をはじめとする、様々な(根拠のよくわからない)数字にこだわり続け、そしてそれらに全てが左右される。その結果、数字で計られた「大衆の嗜好」という幻想に振り回され、自分で自分の首を絞めていっているんじゃないだろうか。


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思考を停止させるマスコミ

Posted by ななし on 05.2012 記事 0 comments 0 trackback
盆休みということもあり私も久しぶりにテレビを見ました。
ワイドショーや娯楽番組のくだらなさは言うまでもありませんが、まだマシかなと思っていたNHKですら見ているだけで疲労感が出て来ます。1日中テレビをつけ夕方にもなってくると、なんともいえない疲労感や虚脱感が残り自分の思考がどんどん停止していく感覚と今日一日無駄に過ごした思いに恐ろしさを感じました。

マスコミが語る言動にことごとく違和感を覚えたのは皆さんと全く同じですが、何より恐ろしさを感じたのは共認支配という点です。

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必要な情報は皆で持ち寄ればいい、マスコミによるニュースなんていらない

Posted by ななし on 03.2012 記事 0 comments 0 trackback
>現在、事件や政治の動きや経済の動きなどの時事ネタは、一旦マスコミに集約されてから、マスコミの判断で決められたネタが我々に流されてきます。

ネットの普及も相まって、たくさんの情報が流されています。私達はその情報の中から、自分の必要な情報だけを上手く選択しなければ、大量の情報に惑わされてしまうということを、大学の講義などで何度となく聞かされてきました。しかし、最近気がついたことがあります。それは、結局どの情報をとってみても、マスコミの垂れ流す情報は全て偽物であるということです。正しい情報を選択しようにも、普段私達が接しているテレビや新聞からは、それを選択しえるはずがありません。

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『傍観者であること』を専門の職業にしたのがマスコミ

Posted by ななし on 01.2012 記事 0 comments 0 trackback
この間のマスコミに関する投稿を読んで、マスコミの存在自体に対する犯罪性を強く感じました。今までのるいネットの議論の中でも言われてきたように、一握りの誰に選ばれたわけでもない専門家が、社会統合を担うのはおかしいってうこと。更に傍観者の立場では、何をしても非現実にしかならないということ。

そしてマスコミは、正にこの両方を備えている構造にあるってことに気が付いた。というか『傍観者』であることを、専門の職業にしてしまっている。これでは、その仕事といったら「傍観者」の大量生産に他ならないって思った。

当然そこから発せられる言葉は、どんなに現実の事件を扱おうが、『ひとごと』以外の何者でもなく、正に傍観者そのもの。そしてそれを見る私たちは、更に二重の傍観者であることになる。以前、演者と観客の話があったけど、正にマスコミ対視聴者も全く同じ構造にあるって思った。

まずこの構造をしっかり認識する事。これが脱マスコミに不可欠だと思う。

森本亜希子
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