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マスコミが最後の権力者?

Posted by ななし on 30.2012 記事 0 comments 0 trackback
>権力者の不正を許さない(または密室性を廃し透明にせよという)人々の監視圧力の高まりを是と感じる一方で、それで何か好転したのか、益々閉塞感は強まっているではないかという根本的な疑問も生じます。

マスコミは日々、国家や市場(企業)を叩くけど、彼らはすでに力を失っていると思います。
実際、政治家になりたいっていう人もお金持ちになりたいっていう人も少なくなったし、身分やお金が人々の共認によって力を持つものだとしたら、そこには、「他に代わるものがないので」というだけの引力しかありません。

でも、マスコミ人気はまだ根強いと思います。
ただ、以前のように「お芝居に命かけてます」とか「歌に思い入れがあります」とか、そういうある1つのものに嵌るのはむしろ流行らなくって、とにかくその社会的な評価上の地位というか結果というか、そういうのに価値があるような感じで、「何でも楽しくやります」とか「特にこだわりはありません」とかいうのが増えている気がします。


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マスコミと人々の間にあるのは、発信力の差であって、認識力の差ではない

Posted by ななし on 28.2012 記事 0 comments 0 trackback
「情報には常にベクトルがかかっている」という、上手い表現を耳にしたことがあります。つまり、メディア情報には方向性と意図がある、ということです。
裏を返せば、「客観的なメディア情報など無い」ということで、マスコミが標榜する公正中立など、原理的に不可能であることを端的に教えてくれる表現です。

今までは、マスコミの正当性と権威性が疑われることは少なかったようですが、インターネットというオルタナティブ・メディアが一般化しつつある以上、マスコミは「極端に声(発信力)の大きい一市民」程度に捉えるのが実態に近いと思います。

マスコミと人々の間にあるのは、発信力の差であって、認識力の差ではない。
であれば、マスコミの認識の全ては、普通の人々のそれと同様に「必要か否か」という価値軸に沿って”認識力”が評価される土俵に引きずり出されるのは必然ではないかと思います。


三宅秀和 
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テレビや新聞がなくなった世界(ネットの可能性)

Posted by ななし on 27.2012 記事 0 comments 0 trackback
■テレビや新聞がなくなると困るのでしょうか?

唯一困ることと言えば、ニュースが入ってこない、ということだと思います。

現在、事件や政治の動きや経済の動きなどの時事ネタは、一旦マスコミに集約されてから、マスコミの判断で決められたネタが我々に流されてきます。マスコミがなくなると、この集約という部分が省かれるというだけのことなのではないでしょうか。

市場において途中で余計なプロセスが入ることで末端に届くときには価格がつり上げられているのと同じ感じで、届けられるニュースもマスコミという機関を媒介させることで、我々に届くニュースにはマスコミ自体の先入観や余計な尾鰭までついてきてしまう。

じゃ、どうすればよいのか?

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敵意識

Posted by ななし on 26.2012 記事 0 comments 0 trackback
そういえば、学生の頃ニュースやワイドショーを見て、内容にうんざりするようになってました。なんだかくだらない事を、テレビの中のリポーターは必死になって追いかけていたりして、「何やってんだかなぁ。」って思ってました。そしてまったく興味が無くなってしまいました。

マスコミの過剰さも、ズレも、偽装も、今思うと、その頃もうすでに自分なりに感じ取っていたことにほっとしました。

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マスコミに違和感。

Posted by ななし on 25.2012 記事 0 comments 0 trackback
マスコミの存在基盤は、なによりも大衆の代償充足に応えること。そして彼らは社会をどうするかといった課題については傍観者を決め込み、政治家や企業を攻撃することで、大衆の憂さ晴らしを代弁しています。

しかし、今や多くの人がマスコミに対して違和感を抱いているのではないでしょうか。
もちろん、今や第一権力となった当のマスコミ自身を攻撃することは決してありません。それに、「この情報は確かだろうか」とか「情報操作しているのでは」という疑念は誰しも持つと思います。
しかしそれ以上にマスコミが流す旧観念、さらには彼らの存在そのものが、もはや我々の実感(不全感)と大きくズレてしまっていることが違和感の原因ではないでしょうか。これだけ政府や企業の問題指摘をしながら、一向にそれらの問題が解決する気配は感じられず、むしろ悪化しているように思います。
今我々が求めているのは社会不全を突破する答えなのに、相変わらず欺瞞観念や代償充足の情報を垂れ流して大衆の共認を支配し、社会を閉塞させています。

マスコミに代わって、自分たちの手で事実認識を軸とした共認を広げていくことが必要になります。
皆が参加する認識形成サイトなら、情報が正確かどうかの判断も皆で考えられるし、構造認識・状況認識を武器に様々な情報や事象を理解できると思います。なにより同じ実感を持つ仲間がいるということは心強いですね。

加来野浩史
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メディア・リテラシー

Posted by ななし on 24.2012 記事 0 comments 0 trackback
マスコミの問題性については異議なしで、最終的には不必要と断言できますが、メディア全体を即刻捨象するのも無理があると思われます。ではメディアに対し、当面はどう接していけばよいのか。一つの参考として、菅谷明子氏(主著に「メディア・リテラシー」岩波新書)のメディアに対する見解を紹介します。

NHK国民生活調査によれば、日本人のテレビ視聴時間の平均は一日3.5時間になり(ちなみにある塾の生徒アンケートでは、小学生3.0時間、中学生2,5~2.7時間)、生涯では十年以上をテレビを見て過ごすことになります。そこへ雑誌、映画、ラジオ、インターネットなどを加えれば、普通の人は人生の過半をメディアからの情報受信に充てていると言えます。


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社会不全の元凶は「官僚のごまかし」以上に「マスコミのごまかし」にある

Posted by ななし on 23.2012 記事 0 comments 0 trackback
以前、外務官僚との戦いの急先鋒だった田中真紀子の辞職は、新聞の号外まで出て、格好のおしゃべり=スキャンダルネタを提供したようです。社会統合は皆によって半専任組織として営まれなければ、官僚組織の存続自体が自己目的化し、そのため不正や隠ぺい工作が常套化するという構造認識を理解していると、なにをそんなにさわぐんだ、という気もするのですが、、。そうした新しい認識がなければ、人々は蓄積された「社会不全」を解消させるとりあえずそのはけ口=代償充足として「真紀子も同じ穴のムジナだったのか」てなおしゃべりに向かうのかもしれません。

しかし、よくよく考えてみると、田中真紀子に限らず、鈴木宗雄をたたいて、その急先鋒だった辻元をたたく。脱ダムをほめておいて田中康夫を叩く。と、マスコミの混迷ぶりは、節操がありませんね。彼らマスコミとしては「不正はよくない」というわかりやすい論理を武器にしているのでしょうが、ではどうしたら不正が防げるのか、そもそも何故官僚や政治家は腐敗するのか、の構造を解明できずして、「批判するだけ」というのはかなり特権的な行為です。こんなことが可能なのは70年貧困が消滅してから、有閑階級たちの共認により企業=資本も国家も第1権力の座からひきずりおろされ、彼女ら有閑階級に迎合したマスコミが第1権力の座についた結果だといえますが、この横暴ぶりは貧困の時代の「企業や国家」の権力性を凌ぐ犯罪性を持っていると思います。

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おしゃべりという代償充足

Posted by ななし on 22.2012 記事 0 comments 0 trackback
80年代以降、特に90年代そして00年代となると、事実としては、やはり私権の強制圧力の衰弱と共に芸能市場は(寄席や映画館の閉鎖に見られるように)廃れていっている。が、確かに、60年代から70年代にかけては代償充足市場の活性状況が見られ、現在においてですら、ワールドカップフィーバーに見られるように今だ根強いものがある。従って、もう少し「代償充足市場」なるものの切開が必要だろう。まず、日常の親和様式である「おしゃべり」を通して。


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新聞・テレビを見る時間を半分にして、るいネットを見よう

Posted by ななし on 21.2012 記事 0 comments 0 trackback
>噂話や中傷や批判・・・人々の代償充足の最たるものが「おしゃべり」であって、そういう人々の意識(現実逃避の代償充足)の先端に位置するのがマスコミなのだと思います。

盆休みになって、普段見られない時間帯のテレビを見ました。各局とも視聴者である専業主婦をターゲットにしたワイドショー的な番組ばかりで、どうでもいいような辟易するような内容ばかりでした。
あんな現実逃避の代償充足の番組を一方的に垂れ流していれば、まともな人間も洗脳されていくだろうなと感じました。


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ゴミよりたちの悪い「言い捨て」

Posted by ななし on 20.2012 記事 0 comments 0 trackback
御盆休みもあって久しぶりにテレビを観る時間が多くありました。観るものはニュースが多くなるのですが、ニュースキャスターや論説者の言葉が悉く「言い捨て」であることに唖然とさせられました。

例えば住基ネットの個人番号通知の封筒が透けて見えることを取り上げて、そこの首長は何を考えているのかと言うだけ。他にも「じゃぁ、あんたはそもそも何が問題と考えてるの?」と思うことばかりでした。突つくネタを取り上げては解説や批判をするだけで「言い捨て」以外の何ものでもないと思いました。

日常の仕事関係では「言い捨て」だけの人間など、何の役にも立たず見放されていくだけですが、ことマスコミの場合は「言い捨て」が当たり前で、ただ言葉が面白くさえあればもてはやされます。所謂、毒舌などがその典型かもしれません。久米宏なんかはCM前の言い捨てを売り物にしている節さえあります。

次から次へと「言い捨て」のネタを探してはばらまいて大衆に話題を提供し、それがまた大衆の無為な言い捨てとして広がっていく。捨てられたものが繁殖するので、ごみ以上にたちが悪いと思いました。

石橋直樹
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メディアの牢獄から脱するために 中立を装う価値の裁断者

Posted by ななし on 19.2012 記事 0 comments 0 trackback
マスコミが現在のような正当性を得るためには、条件が必要であった。それが支配(統合)共認の形成機関としての役割である。市場拡大によって人々は私権に侵され、バラバラの個人に解体された。しかし個に解体されたとしても、共認の必要は絶対的であり、とりわけ社会秩序の形成上、統合共認とその為の統合観念は絶対的に必要とされた。

マスコミのもう一つの流れは、明治初期に相次いで設立された東京日日新聞(現在の毎日新聞)郵便報知新聞(現在の報知新聞)朝日新聞等に始まる政論紙としての系譜である。それが明治20年代に入ると文明開化=市場拡大ともに広告の掲載や連載小説の掲載に力を入れ始め、大衆化路線を歩みだす。そして、快美刺激と芸能に相乗りする形で、同時に当時盛り上がりつつあった「自由民権運動の拡大キャンペーン」に取り組む。近代思想の拡販である。そして、その後大正デモクラシーを経て、大戦を挟み戦後近代思想が支配的になるにつれ、彼らは社会共認形成の中核機関となっていく。そして、その結果彼らの立場は「公正中立・不偏不党」に収斂していく。

これが何を意味するか。まず公正中立・不偏不党であるということは、もしそれが忠実に実行されれば、あらゆる潮流に対して均等に距離をおくということになる。つまりそれは100%傍観者の立場を取ることを意味する。

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マスコミの不祥事暴きには惑わされない

Posted by ななし on 18.2012 記事 0 comments 0 trackback
マスコミでは、「不祥事暴き」が大流行した時がありました。
やれ牛肉偽装やらムネオやらマキコやら、果てはUSJが火薬を使いすぎた、まで。そのうちに、「スピード違反」でも新聞に載りそうな勢いです。彼らマスコミの手に掛かれば、世の中なんでも不祥事です。

確かに、「不祥事」とされる様々な事柄は、タテマエ上は、イケナイことです。しかし、私権社会では、「みんなやってるよ」と、みんなが思っていました。みんながやってるのに、タテマエを鵜呑みにして、自分(の会社)だけやらなかったら生き残れなかった。ホンネとタテマエが正反対の矛盾した世の中で何とかやっていく、それが私権社会で生きるということだったのだと思います。「不祥事だ、不正だ」と騒ぎ立てても「何を野暮なことを言ってるんだ」で終わっていたのでしょう。


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代償充足の背後に潜む傍観者意識

Posted by ななし on 17.2012 記事 0 comments 0 trackback
 スポーツや芸能に限らず、宗教・思想・芸術、それらをひっくるめた‘教養’など、私権時代の解脱様式や創作物はすべて、例えば本源風に装われただけの、現実を変革するうえではまったく無力の幻想価値です。本来なら非充足を生み出す社会構造そのものに切り込んでいかなければ何も解決しないところを、とりあえず充足できさえすれば何でもいいとばかりに(仮にこの欠乏を代償欠乏と呼びます)、次々と代償充足の対象を人為的につくり出してきたのが私権社会であり市場社会です。


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出版・マスコミは3乗の「傍観者」

Posted by ななし on 16.2012 記事 0 comments 0 trackback
> 劇は観客が“心得る”ことにある、と思っている。
> 自分の生き方(人生)を確認する場所、と考えながら居る。
> 社会と自分を“合わせ鏡”にして、どこで社会に活かすか、と頭の片隅で考える。
> このシーンは、セリフは「こんなときの役に立つ」なんてことも。

 これまでも、多くの観客は、自分の人生を、社会を、芝居に重ね合わせて見てきたはずです。
 しかし、それで、人々の現実は変わったのでしょうか?

◆代償充足は支配体制存続の温床
 
 演劇を含め、文学者たちは、確かに、社会をテーマに様々な作品を書き続けてきました。
 そして、それがあたかも、何か社会に対して意義のある活動であるかのように思われてきました。

 

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超国家・超市場論 『現実』の塗り重ね構造

Posted by ななし on 15.2012 記事 0 comments 0 trackback
性闘争・自我発の下部意識(本能機能・共認機能)が生み出す現実の欠乏は、私権闘争へと先端収束する。そして、その私権闘争を止揚する武力支配体制⇒次いで市場競争体制が構築され、塗り重ねられたその体制の中に全ての欠乏と充足の過程(営み)は組み込まれてきた。
従って、私権時代を通じてこれまでに生じた自我や性や食や快美etcの現実の欠乏と充足の全ては、武力支配から市場競争へと塗り重ねられてきた現体制(国家と市場)の中に組み込まれている。
しかし、私権時代でも、欠乏は段階的に塗り替えられてゆく。私権時代の大衆は、略奪闘争によっていったん全てを失ったドン底状態(虐殺or奴隷)に封じ込められ、武力支配末期(封建時代)にようやく生存がほぼ満たされ、市場社会末期にようやく快美・解脱が頭打ち(≒飽和状態)となった。

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「解脱」の中身を問う

Posted by ななし on 14.2012 記事 0 comments 0 trackback
>あと、私権時代の解脱が共認不全、共認非充足からなら、いかに認識形成サイトが、本物の解脱の側面「みんな充足」のあたりをカバーできるかも鍵となっていくのかもって思いました。ここで、頭を使うのは大変!でも解脱も必要?ってところが残る課題??

必要なのは、「解脱」の中身を問うていくことではないでしょうか。
そもそも「解脱」とは、不全から来る欠乏に応えることが出来なければ、意味を無しません(機能しない)。

例えば、始原人類やネイティブの世界などの本源社会においては、自然圧力や生存圧力による本能不全→親和欠乏に応えるための踊り、性などの解脱。皆と親和し、皆と繋がることで、迫り来る外圧に対して立ち向かう力(活力)を得ます。ここにおいては、私権時代に見られるような現実を捨象するための解脱と言うよりも、現実に立ち向かうための活力源としての解脱という意味が強いと思います

これに対して、私権時代の解脱とは、抑圧された現実からどれだけ「逃げられるか」に意味が置かれています。TVもゲームも演劇も(更には古代宗教や近代思想も)非現実の世界であり、全ては、私権不全=共認不全を捨象する(忘れる)ために存在します。現実から目をそらして、「充足した気分になる」からこそ、「代償充足」なのでしょう。
少し違う見方をすれば、TVドラマの内容や、演劇の内容、あるいは流行歌などを特定の人と共認することによって、共認不全→欠乏を充足しているとも考えることができるかもしれません。どちらにしても、現実を捨象した代償充足であることに違いはありません

私権不全が社会不全に転換した現代においては、このような(共認不全の)代償充足である解脱スタイルでは、全く充足できない。ならば、「必要な解脱」とは、この「社会不全」から来る欠乏=認識欠乏に応えることのできる「解脱」であると思います。
認識形成サイトに参加して、認識を紡いでいく、あるいは獲得することがそれに値するのは間違いありませんが、より突き詰めて考えれば、個々人が認識形成に参加することが充足となるのではなく、私権統合が崩れ、全く先の見えなくなったこの社会(現実)をみんなで切り開いていくことが「答え=充足」になると感じます。
それは、「(皆と)つながる」「(皆で)共認する」「(皆で)認識を紡ぐ」と言う、本能・共認・観念全ての欠乏を満たす解脱となるのではないでしょうか

最終的には、あらゆる代償充足は廃れ行き、認識形成の場(=同類闘争の場)と解脱の場が一体化していくと感じます


西谷文宏
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「演者=傍観者」の大転換

Posted by ななし on 13.2012 記事 0 comments 0 trackback
>学者でも役者でも、もっぱら表現することに頭を使っているけど、当事者として現実と対峙してる訳じゃない表現者って、これこそが傍観者の親玉なんだと思う。

な、なるほど~。
演者が傍観者の親玉だなんて、ちょっとびっくり、でもとてもすっきり!

私が就職時に「芝居から足を洗う」ことにした理由は、「片手間に働いてます、芝居してる私こそホントの自分」というのがどうしても、一緒に働く職場の人に対して失礼なスタンスだと思ったからだった。
そして私が芝居の世界に戻らなかったのも、それが現実の活動なのに、現実逃避であることをなんとなく嗅ぎ取っていたからだろう。


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代償充足のひとつ、演劇の衰退

Posted by ななし on 12.2012 記事 0 comments 0 trackback
近鉄劇場の閉鎖が発表された。これは、関西の演劇関係者や演劇ファンにとっては、扇町ミュージアムスクエアの閉鎖に次ぐ事件である。

扇町ミュージアムスクエアは、劇団☆新感線など、数多くの劇団を育てた関西小劇場演劇の拠点だし、近鉄劇場はかつて夢の遊眠社や第三舞台、劇団四季なども公演した。併設の近鉄小劇場では400席という適度なキャパもあって地元中小劇団のみならず、関東の劇団の公演も多かった。

しかし、両劇場とも、「老朽化」を第一の理由として閉鎖される。企業側が新たに建て替えてまで劇場を存続させる気がないのは、もちろん採算が取れないからだ。つまり、観客動員数の低下が、真の理由であろう。


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代償充足の衰退

Posted by ななし on 11.2012 記事 0 comments 0 trackback
スポーツ・芸能・旅行などの解脱や、宗教・小説・近代思想などの認識は、自我or本源に関わらず、全て代償充足なんじゃないかと思った。

>観念が捨象されてゆくのは、貧困や抑圧の消滅によって旧観念が単に輝きを失ったからというだけではない。現実に(特に仲間関係では)、本源充足の可能性が開かれた以上、その可能性の実践的な模索に収束するのが当然で、その代償観念にすぎない感応観念(価値観念や規範観念)はもはや無用となったのである。

だから、現実の可能性が開かれた以上、頭の中で代償充足するための感応観念が『無用(不要)』になったのと同じように、代償充足に過ぎない解脱様式も今後どんどん『無用(不要)』と判断されてゆくと思う。

西知子
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寒々しさの中身~「ワールドカップ」フィーバー考察

Posted by ななし on 10.2012 記事 0 comments 0 trackback
>先に触れたマスコミ主導の「ワールドカップ」フィーバーに感じる寒々しさも、その土俵上での最先端の感覚である。

このサイトに参加されている多くの方も、同様な実感を持たれていると思います。それはどこからきているのか、少し考えてみました。

結論から述べますと、
人々の意識の深層が私権不全から社会不全へと逆転したにも拘らず、「何の新しい認識も提示できずに、相も変わらず芸能スポーツネタを垂れ流し、愚民化路線を続けるしか能のないマスコミに感じる寒寒しさ」、とりわけ「安易な解脱に流れやすい大衆に弱点に付け入り、経済波及効果=市場の延命を目論むマスコミへの嫌悪感」ということになろうかと思います。


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超国家・超市場論 必要か否かの『判断の土俵』が、国家と市場を呑み込み、解体し、再統合してゆく

Posted by ななし on 09.2012 記事 0 comments 0 trackback
この『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。
しかし、私権闘争の圧力で満たされた社会では、人為的な私権の強制圧力とそれに基づく共認圧力によって、「私権だけが絶対的に必要」(従って、何にたいしても必要か否かの判断は一切無用)という極めていびつな状態が作り出されてきた。
従って、貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱すれば、人工的に作り上げられた「私権だけ」といういびつなタガが外れて、生物本来の基底的な判断機能が再生されてゆくのは当然である。


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真っ当な判断土俵によって旧統合機構はその役目を終える。

Posted by ななし on 08.2012 記事 0 comments 0 trackback
現在、いろいろなところで、『必要かどうか』を感じる、或いは考える機会が増えているように思う。
特に、この間の政治や、官僚の問題はもとより、旧態然とした企業、求められている報道をしない新聞、雑誌やテレビなどのマスコミ、など、もはや、質や中味をどうのこうの言う状況ではなく、「こんなものは不必要ではないか!」と誰もが感じていると思う。たぶん、最先端の意識は、これらを支えている「常識」そのものが「質」や「中味」を議論する意味さえない、というような所まで行っているだろう。
そして、税金なんか払う気がしない、旧態然とした企業の商品は買う気がしない、今のメディアは高すぎる・・・、という感覚は誰もが持っている。


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超国家・超市場論 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく

Posted by ななし on 07.2012 記事 0 comments 0 trackback
考えてみれば、つい最近(前世紀)まで、お金の使い道は、物財か解脱と決まっていた。つまり、それらは当然「必要(有益)」なものに決まっていた。だから、殆どの人はそれを『買えるか、買えないか』としか考えず、それが『必要か、必要でないか』などと考えたことも無かった。

それは、云うまでもなく、私権の強制圧力の故である。私権の強制圧力は、単に主食品のような必需品に対してのみ(=本能を直撃する様な圧力としてのみ)働いていた訳ではない。むしろ、重要なのは、私権の強制圧力が作り出した人々の共認(内容)である。

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共認形成を人々の手に取り戻す闘い

Posted by ななし on 06.2012 記事 0 comments 0 trackback
>人類の命綱は共認にあり、従って認識形成こそ社会形成の生命部である。ところが、これまでは人類の命綱である共認形成の要(かなめ)の位置に、学校(教師)や大学(学者)やマスコミ(報道人や文化人)が陣取り、一握りの知識階級が人々を染脳し、共認を支配してきた。
しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。(「もう、傍観者=インテリ統合階級は、要らない」)


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非日常の解脱充足から現実の認識収束へ

Posted by ななし on 05.2012 記事 0 comments 0 trackback
私が普段本を読むと言えば、小説か戯曲か詩集。
そこには、平和に毎日を過ごしていては得られない、感情の起伏がある。
なんだか心理的にまったりと行き詰まり感が高まってきたら、小説や戯曲の世界の中へと入り込み、感情を高ぶらせると、なんだかすっきりした気分になる。女の子がよくやる、「行き詰まったら泣いてすっきりする」というのとまぁ、同じかな。
でも所詮は解脱なので、別にそこから何も生まれはしない。ちょっとすっきり気分になれるだけ。


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読者の役割

Posted by ななし on 04.2012 記事 0 comments 0 trackback
>作者→(出版)→観客読者という在り様(よう)から、認識仲間の(サイトでの)協働という在り様への移行こそ、私権時代の認識形成と新時代(共認時代)の認識形成との決定的な違いである。

小説にしろ何にせよ、本というのを読んでも、なかなか満足すると言うことが少なくなってきたなーと思う。むしろ、その中に意識のズレや違和感を感じることが多くなって、なかなか本を買わなくなってきた。

今では、雑誌(昔は好きじゃなかった)や個人HPとか覗いてる方が、ずっとおもしろい。その中でも理解できたり自分にしっくりするものを見つけると、本を読んで得られるくらいの充足や共感は簡単に得られるし、機会も多い。


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新しい潮流 認識仲間の実現基盤

Posted by ななし on 03.2012 記事 0 comments 0 trackback
認識仲間の実現基盤〔図解〕
http://www.rui.jp/docs/link/shikata020329.html

全ては、潜在思念の源泉が私権不全から社会不全に逆転したことに発している。

社会不全と社会収束は、既に’90年頃から強まって上記現象を顕在化させている。ただ私権観念によって不全捨象・社会捨象しているので、意識上には顕在化しなかっただけである。又それ故に、’90年代は潜在思念の源泉部が私権不全と社会不全の間で混濁しており、従って疲労⇒癒し欠乏や個室収束が強かったのである。
’00年、私権観念が瓦解したことによって、一気に社会収束⇒認識収束が強まって答え欠乏が意識上に半顕在化すると共に、潜在思念の源泉がほぼ社会不全に一元化され、それに伴って解脱生活の衰退が顕著になり、個室生活も急速に色褪せてきた。


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個的生活を抜け出し観客をやめて…

Posted by ななし on 02.2012 記事 0 comments 0 trackback
テレビやインターネットから情報は溢れ出している。
個的生活に埋没していたころは、この溢れ出してくる情報をひたすら傍観しつづける観客であったのだろう。

しかしそれをいくら貪っても、情報は情報でしかなく、それ自体が答えになるものではなかった。

溢れる情報をどう捉え、どう組み立てていけばよいのか。

そこにぶつかった時に、人に会い話をする事が必要であるというところに行き着いたのだと思う。

>つまり、人収束(外向仲間収束)とは、自分たちで場を作る演場社会の土台であり、観客から協働への転換の土壌を作るものなのである。

人に収束するのは、今までの単に見聞を広げる為というものではなく、認識を組立て課題を顕在化させる、そして答えを見つける為へと変化してきていると確かに感じる。


永峰正規
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新しい潮流 外向仲間の本質は認識仲間である

Posted by ななし on 01.2012 記事 0 comments 0 trackback
☆おしゃべりは昔から在る。古い身内仲間と新しい外向仲間の違いは、何か?
○農業時代のおしゃべりは私権不全からの解脱。皆、生まれ育ちが共通で、噂話や風土に根ざした民謡などで盛り上がった。
○市場時代も私権不全からの解脱だが、村落共同体を失って共認不全⇒解脱欠乏がより強くなっており、生まれ育ちが違うので共通の話題もない。この強い解脱欠乏と話題のネタ欠乏が、芸能を発展させ、参加するのではなく単に見るだけという観客化を推進していった。

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