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新しい潮流 解脱仲間から認識仲間への逆転

Posted by ななし on 30.2012 記事 0 comments 0 trackback
社会収束(外向収束)は、人類史的に全く新しい潜在欠乏であり、その答え欠乏は深く潜在している。
かつて、それは掠奪闘争→私権闘争として顕現したが、それが衰退して封鎖されつつある今、人々の潜在思念は、まずは分かり易い「人」とのつながりや「人(意識)」探索に向かい、同時に、多種多様な事実認識に向かっている。
今生起しているのは、闘争ではなく、つながり=共認を母胎とした社会収束。つまり、人を媒介にした意識の探索と共認と伝播。今、それは潜在思念の共鳴とごく簡単な言葉の共認に留まっている。
その潜在思念が求めているのは、パラダイム転換の認識や状況認識、つまり現実や状況や時代の捉え方。それを明確化した構造認識は共認され、自分の認識に転化する。その先は共鳴や応援よりも、応用や実現に向かう。


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新しい潮流 実現派は仲間収束から社会収束へ

Posted by ななし on 29.2012 記事 0 comments 0 trackback
仲間収束の度合いと社会収束の度合いには大きな断層がある。観念支配が生み出した断層である。

生存圧力が衰弱して人が第一価値になると、直ちに仲間圧力が絶対的な圧力として働き始める。従って、『仲間世界をどう生きるか』が、’90年以降の最大課題となった。(この絶対仲間圧力は既に顕在している。)
しかし、この『仲間世界をどう生きるか』という課題と答えは、ほぼ全面的に潜在思念の地平にある。そこでは、「友情」「愛」etcの倒錯観念は役に立たない。潜在思念と実現回路が全ての世界である。
それに、非充足の多数派が、今、何よりも『仲間世界をどう生きるか』の答えを求めているのは、事実or現実ではあるが、不健全な現実でしかない。


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新しい潮流 言葉それ自体が引力を持ち得ない時代

Posted by ななし on 28.2012 記事 0 comments 0 trackback
30年来の思想不信によって、古代以来連綿と精練されてきた言葉群が、全てダメになり、捨象されて終った。新しい言葉=実現論も荒削りで未だ普遍性を獲得していない。現代は、言葉が崩壊し、言葉が捨象されてゆく時代であり、そこでは新しい言葉も弱い力しか持ち得ない。
例えば、若者は明らかに言葉を捨てて仲間に向かっている。とすれば現状は、言葉よりも仲間(共認orつながり・広がり)の方が引力が強いという事は、疑う余地がない。だからこそ、知人連鎖でなければ言葉を伝えられず、人と答えが一体のまつりでないと人は集まらないのだ。

しかし現在は、言葉よりも仲間ではあるが、どうも共認充足に先行して、人そのもの(の引力)に向かっている様にも見える。


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新しい潮流 社会不全⇒認識欠乏の蓄積

Posted by ななし on 27.2012 記事 0 comments 0 trackback
社会不全は、解脱や誤魔化しの言葉で捨象する事はできない。
●自然圧力や同類闘争圧力etcによる本能不全は、スキンシップの親和充足でそこそこ解脱(解消)できる。
●権力による抑圧etcによる私権不全=共認不全は、親和充足(その極が涙と笑いである)と代償観念(規範観念や価値観念etcの感応観念)で、かなり解脱(解消)できる。
●社会不全や統合不全は観念不全であり、答え(=構造観念)によってしか、解脱(解消)できない。

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新しい潮流 私権統合の崩壊と社会収束の潮流(’90・’00年代)

Posted by ななし on 26.2012 記事 0 comments 0 trackback
’90年代、バブルの崩壊で私権の衰弱が顕在化する。私権観念の土台がグラグラになって社会捨象・観念捨象の防波堤が崩れ出し、急速に潜在的な社会不全→外向欠乏が強まっていく(ニュース番組や事実収集やサークル活動etcの増大=潜在的な社会探索の潮流)。

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新しい潮流 社会捨象→不全捨象の充足基調(’70・’80年代)

Posted by ななし on 25.2012 記事 0 comments 0 trackback
これまで私権闘争やその私権圧力は、永い間人々の本源的な社会収束を封印してきた。とりわけ、その私権闘争(やその奥の私権欠乏や自我欠乏)を正当化した「お金だけ」「自分だけ」etcの私権観念は、もともと強く社会捨象を付帯させている。
それでも、’50年’60年代は、外向欠乏や私権規範解体の流れやそれらを導く社会思想によって、多くの人が(表層的に)社会収束した。
しかし、’70年、貧困の消滅→思想の無用化→運動の敗北・衰退によって、流れが一転する。

私権が衰弱過程に入ったにも拘らず、(思想と運動の敗北・消滅によって)逆に私権観念による社会捨象・思想捨象が強まり、外向欠乏さえ衰弱していった。
そして、私権圧力の衰弱と、残存する私権観念による社会捨象・思想捨象→衰弱する外向欠乏によって、不全捨象の充足基調⇒本源収束の潮流が形成される。これが、’70年代・’80年代である。
注:この時代は社会捨象・思想捨象によって社会不全も捨象されるので、衰弱してもなお私権不全(私権の強制圧力によって抑圧された共認充足の不全)>社会不全である。

四方勢至 
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社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流

Posted by ななし on 24.2012 記事 0 comments 0 trackback
同類圧力とは、期待⇔応望の圧力を母胎として生起する評価圧力(評価共認⇔評価競争の圧力)、および(その評価共認によって収束→固定された)制度・規範・観念の固定圧力であり、全ては共認圧力である。
この圧力を受けて、
〇外識機能は、個人や集団を超えた社会圧力(上記の共認圧力)を把握しようとする認識欠乏(注:これを脱集団という意味で、外向欠乏と呼ぶ)に収束する。
注:この外識機能の外向基調(外向欠乏・外向収束)は、内識機能の充足基調(充足欠乏・充足収束)と並ぶものである。
注:マスコミもネットも、社会探索も事実収集も、実現論も、全てこの外向欠乏が生み出したものである。
〇内識機能は、個人や集団を超えたより広い対象に向かい、多くの人とのつながり(広がり)欠乏に収束する。
注:これは外識機能の外向基調が生み出した共認(期・応)欠乏である。

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社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力

Posted by ななし on 23.2012 記事 0 comments 0 trackback
周り(or人々)の期待に応えようとする共認欠乏は、周り(or人々)の評価共認を媒介にして必然的に評価欠乏に収束する。
従って、集団であれ社会であれ、共認空間は常にその最先端に評価欠乏→評価闘争を生起させると共に、評価共認によって統合される。(評価共認こそ、共認空間の統合原理である。)
また、人々の期待(=欠乏)に応える物は、生産物であれ、創作物であれ、人物であれ、全て評価闘争(あるいは集客競争)の圧力に晒され、人々の評価共認によって淘汰されることになる。
これが、生存圧力⇒縄張り闘争を超えても、評価競争→同類圧力が生起し続ける理由である。


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マスコミによる擬似共認を越え、本来の共認へ。

Posted by ななし on 22.2012 記事 0 comments 0 trackback
>そもそも人々が求める共認というものが、いきなりマス的では無いとも考えておりますが如何でしょうか。<(斎藤さん)

人々が求める(はずの)共認は、五感を駆使し、対面で交感するものだと思います。ただ、日常にそのような共認の場を失った現代人(とくに都会人)は、マスコミに代替共認(充足)を求めざるを得なくなったのではないでしょうか。そのような需要がマスコミの盛衰を左右しているのだと思います。


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マス・コミュニケーションと共認

Posted by ななし on 21.2012 記事 0 comments 0 trackback
>マスコミにとって深刻なのは、誰もマスコミを信用しなくなっているということでしょう。(熊谷さん)

マスコミに関する貴方との議論で私は、どちらかというとマスコミの問題と言うよりは現代社会がどの様な社会なのかということの方に関心が移りつつあります。そういう意味で貴方が指摘される「誰もマスコミを信用しない」ということは多くの示唆を含んでいるものと思います。(おそらく「マスコミ」という新聞やテレビなどのメディアの機能的限界というような議論は、それだけではさほどの広がりを持ち得ませんが、こと「億を数えるような人々が共通的に必要とする社会的な事実の伝達=マス・コミュニケーション」というものを想起した場合、そもそもそういったものを人々は本当に必要としているのか、そういうものが登場する社会とは如何なる社会なのか、人々の求める共認とマス的なるものはどの様に関係しているのかというような様々な疑念を生じさせます)。


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視聴者はニュースをただ消費するしかない。

Posted by ななし on 20.2012 記事 0 comments 0 trackback
>最低なのは、ニュースキャスターや評論家が出てきて、もっともらしくニュースを「解説」するやつです。問題を掘り下げるでもなく、可能性を追求するでもなく、単に傍観者として評論しているだけの態度には、正直うんざりしてしまいます。<(雪竹さん)

私もうんざりしつつも見ていたりします。

ニュース番組には速報性が重視されるという限界があり、話題が新鮮なうちに背後関係を含めて解明するというのはなかなか難しいと思います。これは、ニュースをただ消費しているという視聴者側の姿勢も問題です。しかしこれは、受けて側よりも送り手側の姿勢の問題であると思います。

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ニュース不感症

Posted by ななし on 19.2012 記事 0 comments 0 trackback
私も、ニュース番組を見て感じることはいろいろあるのですが、あまりにいろいろなことがありすぎるせいか、たいていのことには驚かなくなってしまったというのが率直な感想です。さすがに、アメリカのテロ事件クラスの大事件になると、TVに釘付けになってしまったのですが、正直言って、日頃マスコミから垂れ流されるニュースには、またかという程度で、たいして注意を払わなくなってしまっています。この点は、皆さんの意見も聞いてみたいところですが、職場や仕事先での会話でも、みんな結構TVや新聞を見たりしている割にはニュースで報道されていることが、あまり話題には上がらないところから推察して、みんな似たり寄ったりの感じを持っているのではないかという気配を感じます。つまり、マスコミのニュースに対しては、殆どの人が傍観者であり、たいがいのニュースには(自分に関わる以外のことには)不感症になっているのではないかという気がします。


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現代日本人の可能性

Posted by ななし on 18.2012 記事 0 comments 0 trackback
> 私権社会の中でぬくぬくと育ってきて、なにも考えなくても生きてこられた現代日本人には、このままでは可能性はなく、いったんどん底まで落ちないと再生できないと考えるのは悲観的すぎるでしょうか。 <

 確かに現在の日本人はなにも考えていないように見えます。このままではまずいなと思いながらも、不全を捨象しているようです。このまま不全を捨象し続けたら「いったんどん底まで落ちないと再生できない」ですが、人々の意識はここ2~3年変化してきているように感じます。

 

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新聞が面白くない理由

Posted by ななし on 17.2012 記事 1 comments 0 trackback
『テレビが面白くない』というタイトルの本を最近読んだ。
そこでは新聞記者や新聞社が、便宜供与やサイドビジネスの陥穽にはまり、ペンの力が鈍っているといった趣旨が様々な事実指摘と共に述べられていた。
こうした見方は一面的を得ているように見える一方、何処か違和感を感ずる。はたして便宜享受や副業をやめて、清廉潔白になれば新聞が面白くなるのだろうか。
残念ながらそれだけの問題とは思えない。
新聞が面白くなくなったのは時代を切り開いて見せる新しい認識を提供できなくなったから、云い替えれば先見性という最も大切な機能を殆ど失ってしまったからではないか。
本、新聞、テレビ、ネットなどメディアの種類を超えて、状況認識の質こそが今最も問われている時だというのに。

高橋克己 
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素人がいい

Posted by ななし on 16.2012 記事 0 comments 0 trackback
インターネットの双方向性とは、勿論インターネットの機能を指している。平板参加型のメディアとしての可能性を言葉にしたものだろうと思う。果たして実態はというと双方向性の機能どおりとはいかない。双方向はインターネットの発信者とロム者の間のインターネットを介さない空間における認識の相互関係でしかないのかもしれない。すなわち、これでは謳い文句の双方向性とは程遠いように思う。

しかし、これを逆手にとれば状況認識は確実にロム者に伝わって何がしかの影響を与えることが出来、ここはテレビやラジオ、新聞と同様、メディアとしての役割を担っていることになる。

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メディアの二つの罪

Posted by ななし on 15.2012 記事 0 comments 0 trackback
子供達のテレビ問題は、よく教育関係の人たちや保護者の間でも話題になるところです。テレビは絶対に見せないとか、選んで見せるとか…。しかし、データ的にはゲームをやる時間が横ばいか減少なのに対して、テレビを見る時間はここ数年上昇に転じています。なんと、中学生で1日平均3時間以上!テレビを見ている。

>TVを見てるとどうも批判がましくなるのでいっそ切ってしまってはいかがでしょうか。案外快適かもしれません。<

スイッチを切りたいけど切れない、止められない。止めさせられない…。何の事はない。データ的には明らかではないですが、明らかに子供と一緒にテレビを見る(共通課題)という家庭も増えているようです。まさに、家族一緒の観客化現象。

テレビを含めてメディアの問題として、パラダイムシフト(社会変革)に関連して、私は二つの大きな罪があると思います。

一つは、すでに何度かこの会議室でも議論されている【観念支配】の問題。


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犯罪報道に対する違和感と人々の観客化

Posted by ななし on 14.2012 記事 0 comments 0 trackback
犯罪や喧嘩は非日常の出来事であり、非日常(異常)への危機意識が人々を注目させ、それが情報の需要を作っているという側面がある。しかし同時に言える事は、これはお喋りネタでもあるという事である。

そこで取り上げられる「話題としての犯罪」は、興味本位からくる注目が半分以上を占めている。つまりこんな酷い、あるいは馬鹿な事をしでかした奴は、「一体どんな名前」で、「どんな顔をした奴か見てみたい」という野次馬根性。あるいは馬鹿なことをした奴等を心の中で蔑んで溜飲を下げたいという倒錯した充足。そのような下司な欲求がその背後にある。


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事実から目を背けること

Posted by ななし on 13.2012 記事 0 comments 0 trackback
>そして、マスコミが現在の「闇空間」を支配している先兵だという見解は、極めて重要だと感じます。

この一文を読んでふと浮かんだのは、ワイドショーやニュース番組にしたり顔で登場するコメンテーターや評論家の存在です。ここ数年ですっかり定着した感があります。彼らは+αの知識を披露する外はさして事件や問題の解決に繋がることは述べないが、耳障りのいいコメントでうやむやに、丸く収まりそうなもう解決に向かったような雰囲気を醸し出します。

自分に都合の悪い、危機感を抱くべき事実には蓋をしてしまいたいという大衆の欲求に応えた番組のありようでもあるのかもしれません。個人や自由といった観念を御旗に徐々に、しかし確実に自我を開放する。事実を捨象しながら現実社会を都合よく生きようとする二面性に進んで馴らされ、それを良しとしてきてしまった事、今なおそれを貪ってしまっていることをTVのありようが示している様にも思えます。


柳瀬尚弘
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共認革命 強制共認と発信階級の犯罪

Posted by ななし on 12.2012 記事 0 comments 0 trackback
人類が共認動物である以上、私権社会と云えども人々の共認によって社会が統合されるという原基構造は、不変である。しかし、私婚・私権の共認にしても、その延長上の市場拡大(=豊かさ追求)の共認にしても、私権社会を統合してきた共認の中身は、全て外から('掠奪闘争=戦争によってor上から'統合階級によって)押し付けられた共認、つまり強制共認でしかない。人々は、自分たちの集団や社会を統合する共認形成の場(それは本来なら最大の共認充足の場)を剥奪され、ただ上から一方的に与えられた観念や制度を受け入れるだけの存在に貶められてきた。


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ネットワーカーは創造的プロセスに参加している

Posted by ななし on 11.2012 記事 0 comments 0 trackback
1920年に今のインターネットに相当するようなインタラクティブなネットワーク・メディアがありました。
その機械の通信方法は無線。
その構想は地球全体を覆いつくし、リアルタイムに、インタラクティブに、誰もが情報の発信者となり、受信者となり、「民主主義社会を切り開く」というものでした。

この頃はまだエーテル(空気中に漂う、霊的エネルギーのようなもの)の存在が信じられていて、無線というのは神秘的なエーテル空間を通じてやってくる不思議の通信機であったのです。
しかし、実際には発信者より、受信者のほうが圧倒的に多く、この装置から、発信装置を取り外した安い機械でも売れることに気が付いたメーカー群に市場を形成されてしまいました。

この機械は今では当時の面影はなく、受信機能だけを与えられ一般に「ラジオ」と呼ばれています。

やがて今日のインターネットに期待されるようなインタラクティブの発展を信じていた能動的なメディアの表現者は徐々に消失し、受動的な一団が急速に増えていきました。「視聴者」の誕生です。


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素人の社会活動 表出規範(or思考規範・表現規範)

Posted by ななし on 10.2012 記事 0 comments 0 trackback
●大切なのは探求することであって、説明することではない。
〔表出規範〕探求途上での説明はするな(止めよ)!
●現実対象の探求途上に出てきた言葉は、答えに成っていなくても、まとまっていなくても、(潜在思念で)自ずと共認される。但し、内面を対象化するのは、タブーである。今更、内面を都合良く探求した言葉など時代遅れであり、誰にも共認されない。
●もちろん、探求の果てにある程度の答えに達すれば、改めて説明思考に転じて、その答えを分かり易く説明すれば良い。しかし、素人にとって、答えに達するのは至難の技であり、探求途上の有効性の感じられる一つの切り口でも思い付けば上出来だろう。それをそのまま、探求途上の言葉で表出すれば良い。
●その場合も、『答えに達するまでは、決して説明してはならない』。答えにも成っていないのに説明しようとするから、投稿文がいくらでも長くなってゆくのだが、そんな文には何の価値もない(それどころか、会議室を難しいだけで全く魅力のない物にしている)ことを、深く自覚して欲しい。切り口なら、数行で足りる。

☆この思考規範・表現規範によって、説明思考から探求思考に頭を切り替えることさえ出来れば、我々は勝てる。このパラダイム転換と探求投稿こそ、“るいネット”会議室の最大の引力となり、引いてはネット界の転換の起爆力となるだろう。これこそ、我々が(このシリーズで)求めていた答えである。


岡田淳三郎
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素人の社会活動 探求思考と説明思考⇒表出(会議と投稿)のパラダイム転換

Posted by ななし on 09.2012 記事 0 comments 0 trackback
●説明(説得)するという、説明(説得)の為の思考に入った途端に、本当の探求の為の思考は消え失せ、代りに辻褄合わせの思弁や詭弁やごまかし⇒説得しようとする欺瞞の自我が、引きずり出されてくる。
●説明思考においては、何よりも答えやまとまりや整合性とその様な意味での分かり易さが強く意識されているが、その元は「答えに成っていなければならない」従って「まとまって(or整合して)いなければならない」し「当然、分かり易くなければならない」という一種の強迫観念と考えられる。
☆しかし、プロはともかく素人までこの種の(分かり易くetcの)強迫観念に囚われているのは奇妙である。何故か?
☆それは、「答えること」従って「分かり易くまとまっていること」が倒錯観念のパラダイムだからである。

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2chに見る掲示板の可能性

Posted by ななし on 08.2012 記事 0 comments 0 trackback
>単なる個人サイトから始まった2ちゃんねるが、これほどの興隆を見せているのは、人々が、単なる憂さ晴らしのレベルを超えた、思念の共有の可能性をなんとか形にしたい、実現したいという欠乏がいかに大きいかを我々に教えてくれているのではないでしょうか?

 確かに俗悪と言われながらも2chの人気=集客力は圧倒的ですね。
掲示板の世界では、メガサイトであるYahooをも遥かに凌ぐ寡占的なシェアを誇っている様です。
 掲示板の背景にある、人々にある潜在的な意識については、私もその通りだと思います。しかしさらに2chの特徴や人気の秘密を見ることで、ネット世界の持つ構造や可能性を探る必要があるのではないかと思います。

 

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「朝まで生テレビ」な人達2

Posted by ななし on 07.2012 記事 0 comments 0 trackback
誰かが言っていたことですが、「朝ナマ」であれだけの論争を繰り広げておきながら、出演者はテレビが終了すると、和気藹々としていたりするそうです。

これはひとつの事例でしかありませんが、私は知識人一般にこうした傾向、つまり「知識」を他者の注意を惹く粧飾としてもてあそぶ傾向をよく感じます。だから、何のための議論なのかわからない、けれども当人たちにとってはそれでよいのです。自分ですら本気で信じていないことをわあわあやりあって、それで商売して満足しているということです。

要するに、彼らが操っている言葉(観念)は、大衆の感覚とかけ離れているばかりでなく、彼ら自身の本能回路・共認回路とも分断されているといえるのではないでしょうか。

彼らにとっての「知識」や「論理」は、彼ら自身の生き方や日々の状況判断にすら関わるものではなく、まして、本気で何かを変えようということなどは考えていないのではないかと思います。


岩井裕介
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「朝まで生テレビ」な人達。

Posted by ななし on 06.2012 記事 0 comments 0 trackback
>説明する・説得するという思考そのものが、自我や思弁・詭弁・欺瞞・ごまかしを引きずり出す

ここ数年、感情むき出し系の討論を売りにしたテレビ番組が増えているけれど、見ていて非常に後味が悪いです。果して出演者達は、一体何のために議論しているのか?何かを解決する為に、とは到底思えない。勝つか負けるか、ただそれだけです。
相手を叩きのめして優越感に浸る。周りから、「あいつはキレ者だ」という評価を得る。しかしそれら全ては自己満足であり、そこから新たに生み出されるものは何一つない様に感じます。

議論=勝負にこだわればこだわるほど、現実から遠く離れてゆくような感覚って、感じたことありませんか?


根木貴大
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『世論』に対する違和感>近い将来…

Posted by ななし on 05.2012 記事 0 comments 0 trackback
変革の時代ということで、以前に較べてマスコミによる世論調査も多くなったような気がします。
でも、この「世論調査」こそが曲者で、陳腐な設問が多いんですよね。どっかの学者や研究員が考えたのか、カビが生えたような“普通の言葉”が並んでいます。
こんなアンケートなら始めから出てくる答えは解っていて、言葉化される前の、先駆的な潜在意識の潮流が浮き彫りにされるとは到底思えません。
もっと生々しい不全感覚を言い当てた「欠乏=価値意識」と、これに応えられる「新しい目標規範」とが、本当の世論を導くのではないでしょうか?



平野令
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素人の社会活動 素人は、全て生み出すことが出来る2

Posted by ななし on 04.2012 記事 0 comments 0 trackback
3.現代の最大の課題は、社会統合(同類闘争=共認闘争or評価競争の止揚)であるが、この新課題に対しても、大衆はまず社会的な解脱共認の場(=テレビ)を形成し(但し、それらは与えられるだけの場であり、共認支配の場とも成っている)、次いで、プロ≒統合階級に失望した素人の参加充足の場(=インターネット)を形成しつつある。(但し、未だ評価共認の形成さえ出来ておらず、規範共認の形成に至っては全く出来ていない。従って、充足度が低く、本源派や普通の人の参加度は低い!)

●共認動物の最大の課題は、同類闘争である。従って、(敵が接近した時の真猿集団に走る極度な緊張と注視が象徴している様に)『人々が、何をしているのか?今、何が起きようとしているのか?』(評価軸は、敵か否かor益か否か)という(社会)探索欠乏が強い引力を伴って生起するのは当然である。
注:ネット拡大やサーファーの原動力になっているのは、これである。

●今、素人は、ネット上で様々な可能性を探索している。その一つが上記の「注視すべき人(活動)や情報」を探索することであり、もう一つがネットの(有益なツールとしての)可能性の探索である。前者は中身であり、後者は器であって、当然両者は連動している。現状は、その中身が(従って器も)混沌としており、ゴミ情報の山と化している事は、上記3の通りである。


岡田淳三郎
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素人の社会活動 素人は、全て生み出すことが出来る

Posted by ななし on 03.2012 記事 0 comments 0 trackback
☆最大の壁は、「素人には、中身を生み出せない」(→「中身がない方が、繋がり易い」)という壁である。
☆だが、中身とは何か?
☆素人こそ、中身を生み出してきた。集団を作ってきた。歴史を作ってきた。

1.素人の生み出す最大のものこそ、人間関係(繋がり・広がり期待と応望の充足)である。
素人が生み出す最大の価値こそ共認充足であり、素人にできる最大の活動こそ応望性の発現である。


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ネットの世界

Posted by ななし on 02.2012 記事 0 comments 0 trackback
>☆しかし、今や支配観念と娯楽作品は、新しい価値を生み出す力を、全的に喪失した。

経済や市場の問題を調べるためにインターネットを使うことがあるが、そこには様々な意見が発信されており未知の世界だった。そこで感じたことは、TVや書店で並ぶ本では同じようなことが主張されているに対して、素人ほど既存の支配共認一色の内容だけでなく(ごみ情報も多いが)少なくとも自らの頭を使って考えていた内容の豊富さだった。そのことはTV世界や本のように単に垂れ流される情報ではなく、インターネットの世界の方が、大衆の意識を身近に生々しく感じさせてくれたという点はとても新鮮だった。


安冨啓之
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素人の社会活動 マスコミの共認支配

Posted by ななし on 01.2012 記事 0 comments 0 trackback
A.村落共同体(深く広範な共認充足)を失った大衆の解脱欠乏⇔テレビ(前身は、新聞・映画)
●マスコミは、バラバラに分解された大衆の解脱共認欠乏を土壌にして成長してきたが、同時にマスコミの成長はますます大衆を解脱個体化させ、更にはこの解脱箱なしには生きてゆけないブロイラーの如き存在にさせた。
●マスコミは、解脱情報を武器にして、大衆を支配観念一色に染脳し続けてきた。それは単にニュース解説etcによってではない。娯楽作品そのものの中に支配観念が様々な形で美化されor正当化されて発信されることによって、大衆は染脳され続けてきた。
☆しかし、今や支配観念と娯楽作品は、新しい価値を生み出す力を、全的に喪失した。
●しかし、マスコミが一方通行(統合階級の染脳機関)という形であれ、バラバラに分解された解脱個体を収束させた全く新しい社会的な共認形成の場(正しくは共認支配の場)を作り上げた事は、注目すべきである。
注:そこでは、素人は与えられた番組や芸能人に対する受動的な評価主体としてしか、存在していない。(もちろん、何がしかの繋がり充足や癒し充足や発散充足を得ているが、それら全ては与えられたものでしかない。)


岡田淳三郎
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