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就職活動中の自己分析はやめるべき

Posted by ななし on 17.2019 記事 0 comments 0 trackback
就職活動を始めるとき、自己分析から始めることが多いと思います。
私もそうでした。何からはじめていいかわかならいとき、まずは自己分析から始めるべきだと、周りや就職担当の人からそう教えられたからです。
だから、就活中は
「自分はどんな性格なんだろう」
「自分は何が好きなんだろう」
「自分がしたいことは何だろう」
と毎日悩む日々でした。

でも、自己分析をすればするほど自分のことがわかならくなり、活力はどんどん下がる一方でした。なんども仕事に向いていないんじゃないか、と思ったし、人の役に立てる仕事に就けないんじゃないか、と思っていました。

でも、今は無事に就職できました。仕事もしています。

仕事とは自分のためにやるものでなく、周りの人からの期待を受けて、役割ができ実現に向けて取り組んでいくものだと、そうして自分が形成されていくのだと感じています。

個性を大事にしろ、と教えられてきた自分にとって、周りに同調して生きるという考え方は特殊なように思えますが、一人では人は生きていけない、周りと支えあって生きていくもので、変っていくべきであると思います。

仕事にしろ、私生活にしろ、周りのみんなの幸せの中に自分の幸せがあるような人生を送りたいと思います。



匿名希望
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なんで最近の若者ってやる気がないの?と思ったら、いま、日本企業は意欲のないオジサンであふれている

Posted by ななし on 05.2019 記事 0 comments 0 trackback
リンク
なんで最近の若者ってやる気がないの?と思ったら、いま、日本企業は意欲のないオジサンであふれている

「欲ない、夢ない、やる気ない」……現代日本の最大の危機はこの「3Y」にある

筆者自身、同様の話はいろいろな企業の人事担当者から耳にします。「グローバルに活躍したいです」と言って錚々たる大企業から内定をもらった新人であっても、入社後の配属アンケートでは「出来れば国内勤務が希望」とする人間が一気に過半数を超えてしまい採用担当者が頭を抱えている、なんて話は珍しくありません。猫も杓子も海外に行きたがっていたバブル世代とは隔世の感があります。

今の若者は特殊な世代なんでしょうか。だとすれば、その理由はどこにあるのでしょうか。人間のモチベーションというものを考えるいい機会なので、簡単にまとめてみましょう。

いま、日本企業は意欲のないオジサンであふれている

意外に知られていませんが、企業が直面している意欲の低いグループというのは若者以外にもう一グループいて、実は企業にとってはそっちの方が大問題だったりします。それは「40歳以上のオジサン社員」です。

「若いころに働きためた年功でもって40歳以降にポストについて報われる」というのが年功序列制度であり、結果として終身雇用が成立してきました。ただ、実際に「報われる」かどうかは微妙な時代になっていて、恐らく過半数のビジネスマンは課長にすらなれない時代が到来しているという点は、筆者がこれまで何度も指摘してきたことです。

そして、その報われるかどうかの白黒がつくのは、だいたい30代後半です。つまり日本企業の40歳以降のオジサンには、課長以上に昇格して「よしこれからもバリバリ働くぞ」という士気旺盛なオジサンたちと、あと20年くらいヒラのまま飼い殺しされることが確定して「あーなんかもうボチボチでいいわ」と達観しているオジサンの二種類が混在していることになります。後者が意欲の低いオジサンの正体です。

人間は報われると期待しているからこそ頑張れるわけで、その芽が無くなると適当にやっつけて労力を減らすことで「労働対価>労力」を実現しようとする生き物です。要は将来のリターンに期待するのではなく、今あるものに満足するように上手く自己調整してしまうわけです。

まして出世という単線型キャリアパスしかない日本型組織で出世競争から脱落してしまった人間に「あきらめるな頑張れ」というのはどだい無理な話で、こういう意欲の低いオジサンは日本型雇用の副産物みたいなものですね。

ただし、“副産物”というのは数が少ないうちは許容されるものですが、過半数に迫る勢いで増殖してしまうとそれはもはや“主産物”であり、組織にとっては由々しき大問題です。というのも(オジサンたちの属する)総合職正社員というのは、有給放置、全国転勤徹夜上等で会社のために粉骨砕身してくれることを前提に制度設計された身分であり、それがボチボチでいいやと割り切っちゃうと組織としては非常にマズイことになるからです。

というわけで、意欲を喪失したオジサンたちをいかに奮い立たせて再戦力化するかというのは、実は日本企業の人事界隈ではもっともホットなテーマで、人事系の専門誌などではしばしば特集が組まれていたりもしますね。彼ら中高年社員のモチベーションを上げる研修ビジネスみたいのもちょっとした盛り上がりを見せています(個人的にはあんまり効果はないと思いますが)。

ちょっと前までは意欲の無いオジサンの代名詞は大量採用されたバブル世代が代表でしたけど、最近は団塊ジュニアも足を踏み入れつつありますね。筆者の友人の中にも

「会社から異動の提示を受けたけど忙しそうな部署だったので断った」
「食べログ等を見て今日のランチをどこで食べるか決めるのが午前中の最大のミッション」

というほれぼれするような人間がぼちぼち出現し始めています。もともと優秀だっただけに「人材って制度次第でこうも変わるのか」と驚くことしきりですね。

さて、本題に戻りましょう。なぜ、日本では今、意欲の低い若者が出現しているのか。実は日本企業内で意欲の低いオジサンが出現した構図と同じだというのが筆者の意見です。「若者はまだ組織で働いてないじゃないか」と思う人もいるかもしれません。でも日本全体を大きな組織だと考えてみてください。

生まれてこの方、ずっとバブル崩壊後の失われた20年の中で過ごし、社会保障の世代間格差は60歳以上と彼ら20歳未満では一億円を超えているにも関わらず与野党とも完全スルー。GDPも出生率も頭打ちの中で唯一伸びているのが国債発行残高というお寒い状況。

首都圏はまだマシですが、ちょっと地方に行くと状況はもっと寒くて、駅前なのにガラガラの空きビル、たまに新規開店する店が全部街金とか介護サービス関連で、公立小中学校は続々と老人介護施設にリニューアル……

うちの地元は一応新幹線も止まる駅ですけど、それで↑な感じですね。田舎帰るたびに思いますが、そういう状況で「将来は成功してでっかい家とフェラーリ買うぜ」みたいな人も、まあ探せばいないではないでしょうが、現実には「多くは望まない、今あるものに満足したい」と考える若者の方が圧倒的に多い気がします。そう、これから頑張ってもリターンは望み薄なのでボチボチでいいやというオジサンたちと同じですね。

というわけで、中高年再戦力化セミナーの講師みたく「死ぬ気で頑張ろうよ!お前ならやれるよ絶対!」ってオジサン煽り立てるのも「若者はもっと大志を抱け」といって若いのに尻蹴飛ばすのもあんまり効果はなくて、その前にまずは頑張ればしっかりリターンがついてきそうな諸々の制度に変えるのが筋だろうというのが筆者のスタンスなわけです。

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今井勝行
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昔と今の活力の変化。「日本の生きずらさは夏目漱石が明治時代から指摘をしていたという話」

Posted by ななし on 08.2019 記事 0 comments 0 trackback
過去と現在の活力源の違いに関して、現代日本の生きずらさの観点から切り込んでいく視点が面白いと感じました。

リンク

(脳内バックパッカー「日本の生きづらさは夏目漱石が明治時代から指摘をしていたという話」より引用)

○開花とは?
漱石は開化を、

人間活力の発現の経路である。

と定義します。

要するに開化とは人類の発展の歴史であり、その結果=現代と考えればわかりやすいでしょう。

漱石はこの開化の活力は二通りあると論じます。

一つは積極的のもので、一つは消極的のものである。

人間活力の発現上積極的と云う言葉を用いますと、勢力の消耗を意味する事になる。

またもう一つの方はこれとは反対に勢力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫なりだから前のに対して消極的と申したのであります。


要するにただいま申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわちできるだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、できるだけ気儘きままに勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象ができるのであります。

まとめると、

①積極的=活力消耗=芸術や娯楽

②消極的=活力節約=技術の発展による労働負荷の低減

う~ん人間ってのはできるだけ楽したいみたいです。

まあ当たり前ですね。

人類の発展とはこの二通りの活力によって進み、現代に至ったわけです。

おかげさまで今や車に乗って遠くまでいけるし、ネットで買物はできるし、映画や音楽を自宅で楽しめます。食料だって簡単に手に入り、調理も簡単、水や燃料や衛生の管理も楽ちんです。

しかし、一向に生活は楽にならない。

じいちゃんの代と比べても、生活は遥かに便利で豊かになったのに、忙しさや苦労はむしろ酷くなっているような気がします。

そんなことを言うと「最近の若いもんはたるんどる!」と怒られそうですが、これは苦労のベクトルが変わったのです。

明治時代と比較すると、労働に関しての必要な知識と技術は格段に増加しました。肉体労働や読み書きができれば生活できた当時と違い、今はパソコン技術はほぼ必須ですし様々な知識や資格がなければより良い生活や環境を手にすることができません。

情報や交通が便利になったために、求められるスピードも格段に早まりました。Amazonの商品が半日で届くなんてのが良い例です。

昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかと云えば――あるいは不幸の程度において違っているかと云えば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。

否昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力をあえてしなければ死んでしまう。やむをえないからやる。のみならず道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいと云う方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。

今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかと云う競争になってしまったのであります。

人間は現状に満足できないために、知恵を絞って技術を発明するが、それによりまた生活の求める欲求が増大するということを言っています。

これほど労力を節減できる時代に生れてもその忝かたじけなさが頭に応こたえなかったり、これほど娯楽の種類や範囲が拡大されても全くそのありがたみが分らなかったりする以上は苦痛の上に非常という字を附加しても好いかも知れません。これが開化の産んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。

人間の欲求増大の「イタチごっこ」こそがパラドックスであり、「生きづらさ」の元兇なのです。

(省略)

○まとめ

・「生きづらさ」は人類の発展の動機が原因であるため、良くも悪くもならない。

・日本の社会問題は土台のないシステムの上に成り立っているのだから仕方がない。

というところでしょうか。

これは完全にマルクスもディスってますね。

人間は欲求のおかげでここまで発展してきたために、欲求を元手に借金してぎりぎり回している中小企業みたいなシステムの中でしか生きられないようです。

ソ連や中国型の社会主義政策が失敗したのを見るまでもなく、資本主義と民主主義のセットが一番理にかなっているのでしょう。生産と消費を妥協的に回転させながら。

謂わば空虚が元にあるのだと思います。身を粉にして何かを生産し、その穴埋めのために欲しくもない物を消費する。ブームだとか流行の冷めやすさなんか見てるとまさにそうだと思います。

「結局、何をしても空虚じゃないか」というニヒリズムが結果となって現れます。

日本はさらに中心となるシステムがそもそも空虚の上に成り立っている。

維新では西洋列強に、敗戦後はGHQより出来上がったモノを与えられました。

そこに責任はありません。

だからこそ、その場しのぎで現状維持というのがベターな戦略になってしまうのではないか?

しかしそんなガラパゴス戦略の限界が最近一気に表出してきました。

こういうシステムだと、うまくいっているときはなかなか問題に気づきません。

今では国家の基幹たる経済でも安全でも福祉でも教育でも、毎日ニュースに尽きません。

そしてその対策の仕方が全くわからない。

世界最先端の高齢化社会になってしまいお手本がない状況、グローバル社会で時代の変化が格段に早まり、文明の衝突で示されたような世界情勢・・・評論家なんかがあーだこーだ言っていますが、結局何も変わらないんじゃないかというニヒリズムにしか落ち着きどころがないのが現状です。

(引用終了)

本能に近い欠乏=活力につながる
命に関わる欠乏から脱した今、本能に近い活力は何か?
今一度、類に可能性を感じる機会になりました。



三上公平
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今の高校生は本当に「幸せ」か?

Posted by ななし on 03.2019 記事 0 comments 0 trackback
リクルート進学総研が行った「高校生価値意識調査 2018『現在の幸福感と将来のイメージ』(リンク)に拠ると、高校生の76.8%が「今、幸せ」と回答している。

また、同じ調査の中で、IT・AIが普及した社会で「自分が働くこと」についても、【好ましい理由】として、「仕事が楽・効率的になる」(61.7%)、「今は存在しない新たな職業や仕事をすることができる」(32.9%)といった肯定的な回答が上位に挙がっている(特に男子)。

その一方で、そのような社会で働くにあたり【好ましくない理由】としては、「人間の仕事がなくなり就職難になりそう」(70.0%)、「今、就きたいと思っている仕事・興味がある仕事がなくなりそう」(43.0%)という不安が回答として上位に挙がっている(特に女子)。

同様にZ世代(12~18歳)が創造性に対してフタをしている(345164)という悲観的な意識調査結果も含めて、彼ら若者の意識状況をどうとらえたらよいのだろうか?

今回のリクルートの調査を読み込んで、考えてみた。

■強迫観念化した幸せ
・実は、2012年以降、経年の調査でみても「幸せ・計」は常に7割を超えて高止まりで安定している。
・「幸せの理由」の中味を見てみると、「衣食住に困らない」(17.0%)、「楽しい、笑っていられる」(14.1%)、「友達・仲間がいる、友達ができた」(13.4%)と、身近な狭い対象世界での幸せを捉えている。「幸せでない理由」を見ても、「学校」、「家庭」、「部活」と同様の印象。

→ベースには、平和ボケ(=外圧捨象。学校・マスコミ洗脳による思考の強制停止)があるが、潜在的には今も進行中の原発問題や放射能汚染に対する不安を感じているのは確か。そんな不安を、震災以降日本人の中に芽生えた本源(可能性)収束に依拠しつつも、仲間第一や親を気遣うという現象に見られる「充足(第一)基調」という歪んだ意識の中で、強迫観念的に「幸せな自分たち」像をつくり出しているように映る。

■周りの大人の意識を反映
・IT化、AI化が進んだ世界で「自分が働くこと」について期待と不安が交錯しているが、これをどう見るか。

→近年、識者のコメントとしてマスコミが盛んに「AI化でなくなる仕事・残る仕事」等の予測を出しているが、親自身もリストラ可能性を抱え展望を見出せない中で、未来論については誰にも答えが見えていない。よって、期待と不安が混在するのは当然。

→むしろ潜在的にはAI万能論への疑念(326740、345960)を抱える中で、表面的なレベルで職種の○×だけが議論されていることへの違和感がありそう。また、従来からの流れとして、楽しく仕事に向かっている大人が周りに少ない、むしろIT化やAI化の中でそれが顕著になりつつある、という「仕事に対する充足イメージの欠如」が根底にあると思われる。

■高校生やZ世代の意識構造
今回の意識調査を踏まえて、彼らの意識状況を人類の機能別に整理してみると、

○本能機能 :食は充足・性は封鎖?
生まれた時から衣食住は充足(当たり前)。その分、意識は共認やその先の観念へ向かっている。また、性は人工物質の影響で物理的に不能化しつつあり(346267)、潜在的にその危機的状況を察知して二次元世界へ逃避。極一部、危機発で本能回帰組もいるか。

○共認機能 :一定充足(狭い世界)
仕事などを通して、より広く、より深い共認充足を周りの大人が体現できていない。身近な世界での表層的、断片的なレベルの共認充足が中心。

○探求機能 :封鎖 ∵学校とマスコミ支配極まれり
仕事などを通じて、周りも巻き込んでワクワクさせるような探求充足を、周りの大人が示せていない。ここが致命的。

○観念機能 :旧観念への不信・新観念探索への萌芽
大人がまき散らす旧観念には可能性を感じないのでスルー。一方で、新観念(事実認識と構造認識)の探求可能性に気づいた層はまだ一部に過ぎないが、その萌芽はある。潜在思念とつながった話し言葉や感覚的な言葉(その充足体験)に可能性収束する層は確実に増えている。

例えば、
・「空前の人気!若者がハマる新型ラップの正体」(リンク)
・「音楽における『歌詞』の重要性が低下? メロディとの親和性や語感を重要視」(リンク)
・「谷川俊太郎以来!? “売れてる”現代詩人『最果タヒ』とは」(リンク)

以上、意識調査から湧いた疑問から、改めて現代の若者の意識を考えてみたが、大人の生き方(特に仕事に対する姿勢)次第で、若い世代のこれからは大きく変わると感じた。



竹村誠一
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「自分に合った仕事」なんかない:養老猛

Posted by ななし on 23.2019 記事 0 comments 0 trackback
「自分に合った仕事」なんかない
リンク より引用

(ニートなど働かない人を)調査をすると、働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が一番多いという。

 これがおかしい。20歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。中身は、空っぽなのです。

 仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。

 仕事は自分に合っていなくて当たり前です。私は長年解剖をやっていました。その頃の仕事には、死体を引き取り、研究室で解剖し、それをお骨にして遺族に返すまで全部含まれています。それのどこが私に合った仕事なのでしょうか。そんなことに合っている人間、生まれ付き解剖向きの人間なんているはずがありません。

 そうではなくて、解剖という仕事が社会に必要である。ともかくそういう穴がある。だからそれを埋めたということです。何でこんなしんどい、辛気(しんき)臭いことをやらなきゃいけないのかと思うこともあるけれど、それをやっていれば給料がもらえた。それは社会が大学を通して給料を私にくれたわけです。

 生きている患者さんを診なくていいというのも、解剖に向かった大きな理由です。一番助かったのは、もうこれ以上患者が死なないということ。その点だけは絶対安心でした。人殺しをする心配がないからです。しかし患者さんを診るという行為から逃げ出しても、遺族の面倒だとか何とかもっと大変なことがありました。

 社会、仕事というのはこういうものです。いいところもあれば、悪いところもある。患者の面倒の代わりに遺族の面倒を見る。全部合わせてゼロになればよしとする。

 あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずです。NHKの「プロジェクトX」に登場するサラリーマンも、入社当初から大志を抱いていた人ばかりではないでしょう。

半端仕事はいけないよ

 合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です。

 最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思っている人が多い。社会が必要としているかどうかという視点がないからです。余計な橋や建物を作るのはまさにそういう余計な山を作るような仕事です。もしかすると、本人は穴を埋めているつもりでも実は山を作っているだけのことも多いのかもしれません。

 しかし実は穴を埋めたほうが、山を作るより楽です。労力がかかりません。

 普通の人はそう思っていたほうがいいのではないかと思います。俺が埋めた分だけは、世の中が平らになったと。平らになったということは、要するに、歩きやすいということです。山というのはしばしば邪魔になります。見通しが悪くなる。別の言い方をすれば仕事はおまえのためにあるわけじゃなくて、社会の側にあるんだろうということです。

虫取りが仕事だったら

 若い人が「仕事がつまらない」「会社が面白くない」というのはなぜか。それは要するに、自分のやることを人が与えてくれると思っているからです。でも会社が自分にあった仕事をくれるわけではありません。会社は全体として社会の中の穴を埋めているのです。その中で本気で働けば目の前に自分が埋めるべき穴は見つかるのです。

 社会のために働けというと封建的だと批判されるかもしれません。「自分が輝ける職場を見つけよう」というフレーズのほうが通じやすいのかもしれません。しかしこれは嘘です。まず自分があるのではなく、先にあるのはあくまでも穴の方なのです。

 向き不向きだけでいえば、私は仕事に向いていないとずっと思ってきました。仕事よりも虫取りに向いていると今でも思っています。虫取りをしている間、自分で全然違和感がない。ただ、そればかりやっていても食っていけないということはわかっています。

 向いている虫取りをするためには、どうすべきかと考える。すると、財産も何もないし、とりあえず働くしかない。だから仕事には向いていないと思うけど、やめろと言われるまではやっていいのではないかと思っているのです。

 本気で自分の仕事は天職だと思っている人はめったにいません。仮に虫取りが向いていても、それが仕事になっていいかというと、そうでもないでしょう。もしも虫取りが仕事になるとしてそれが嬉しいかといえばうっかりすると重荷になってしまうかもしれない。楽しんでいられることというのは、ある程度無責任だからこそなのです。



匿名希望
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